当時を知る韓国人(88歳)が殺されるのを覚悟で真実を語る
http://ameblo.jp/sankeiouen/entry-11331270061.html
2012-08-21 一部転載、させていただいた記事です
韓国人教授(88)が告白
殺される覚悟で言う。
韓国人は強制従軍慰安とか歴史捏造をやめるべきだ
崔基鎬(チェ・ケイホ)氏 1923年生まれ。
明知大学助教授、中央大学、
東国大学経営大学院教授を経て、
現在、加耶大学客員教授
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日韓併合を検証する
歴史をどう見るか。人によってその見方は違うと思います。
また違って当然だと思います。しかし事実を曲げて、歴史を自分の都合
で書き直すことになれば、それは歪曲したことになります。
よく中国や韓国は、日本の教科書は歪曲していると非難しますが
本当でしょうか。日本人は、そう言われると本当にそうかと思って
しまう人も多いと思いますが、日本人はあまり韓国や中国の状況を
知りません。
私に言わせれば、例えば韓国と日本を比較した場合、日本が十のうち
一の歪曲があるとするなら、韓国は十のうち九は歪曲があると言って
いいでしょう。日本についての歴史だけでなく韓国の歴史そのものを
歪曲しています。韓国の権力者たちによって恣意的に作られた
『国定教科書歴史編』は、まさにその傾向を強めています。
その顕著な例は、李朝500年末期の政治紊乱に蓋をして、公然たる
売官買職が横行し貧官汚吏が跳梁した事実をまったく教えず、日韓併合
がなければ、李朝は立派な国家として独り立ちできたかのような書き方
をしているところに表れています。これこそ、実態を知らない歴史観です。
日韓併合のことに少し触れれば、併合を通じて全国民に教育が徹底
され、近代的医療制度が確立し、農漁業と重工業が興り、社会のインフラ
整備によって工業国家としての基礎が築かれたことは、明白な事実です。
終戦後、独立した韓国・朝鮮の教育は、日韓併合を日本帝国主義の
侵略政策の産物であったと糾弾しますが、それがいかに歴史の実態を
無視した身勝手なことであり、自己中心的な解釈であるかはいうまでも
ありません。
教科書では、例えば次の記述があります。
「日帝の狙いは、韓国を日本の経済発展に必要な商品市場と原料供給地にし、
彼らの国家利益を増大させるものであった。日帝の産業侵奪政策で我が民族
の経済活動は大幅に萎縮し、民族産業もその発展が抑えられて、沈滞する
ほかなかった」
これには、あまりにも歴史の誤魔化しがあり、私などはコメントする気
にもなりません。李朝500年を知らないか、故意に隠蔽しようとしていると
しかいいようがありません。民族産業の芽を切り捨てたのは、ほかでもない
李朝であり、李朝の下では経済発展など夢のまた夢でした。
なぜなら近代化を唱える者や先進的な思想家は、反逆分子として、その親族
までも処断されたのです。そういう史実を、忘れたとでもいうのでしょうか。
本当に日韓併合が悪かったというなら、それが事実かどうかを検証して
みようというのが私の立場です。大勢の人が虐待されたとか、従軍慰安婦に
されたとかいいますが、私にはとてもそうは言えません。それは歴史の真実を
知っているからです。それを今回、本に書いたということです。
もし私が間違っていたら言えばいいです。
隷属国家の李氏朝鮮
私は80歳になります。ここまで生きてきて、やはり韓国のためにも
日本のためにも、自分の思うことを正直に語りたい。それが本音です。
ご承知の通り今の韓国では、植民地時代の日本統治を肯定的にとらえて
発表することは、相当の覚悟がいります。極端な話、身の危険も覚悟しな
ければなりません。しかし私の使命として、どうしても言わなければ
ならないと思っています。
なぜなら、歴史を歪曲するということは、国の進むべき方向を間違わせ
てしまうからです。実のところ韓民族は、いつも身勝手な解釈で歴史を解釈し、
これがもとで幾度も実態を見誤り、国を滅ぼしてきたのです。
とくに危惧するのは、それが韓民族の宿痾であるということです。だから
なおのこと私は、歴史の真実を見る重要性を訴えたいわけです。
一つ最近の現象をいえば、北朝鮮寄りの韓国政府の動きがそれです。
日韓併合前の朝鮮は李氏朝鮮によって支配され、それが500年続きました。
その時代がどんなであったか。日本人はそれを知らなすぎます。
大多数の国民が飢餓に苦しんでいても、一切顧みることなく自分の体制を守る
ことだけに専念する、そういう時代でした。
いうならばいまの北朝鮮と同じです。北朝鮮は日本時代の遺産をすべて壊し
李氏朝鮮の時代に戻っているにすぎません。
もし仮にいま、日本が北朝鮮を併合して統治するならば、
金一族を除く北朝鮮国民は、随喜の涙を流すに違いないでしょう。
そういう北朝鮮に対して韓国は、いま太陽政策と称して北朝鮮寄りに
なっています。李氏朝鮮時代の歴史を正しく知れば知るほど、それが
いかにおかしなことであるかが分かります。では李氏朝鮮の実態はどう
だったのか。またなぜ腐敗したのか。1392年に開国した李氏朝鮮は、その
成り立ちに問題があります。
明と高麗の戦いにおいて、高麗の重臣であった李成桂が、明との戦いで
遼東地方の奪回に出陣します。ところが李成桂は密かに敵と通じて、
威化島(鴨緑江下流の島)で軍を翻し、逆にときの高麗王と上官の崔瑩
(総理兼参謀総長)将軍を殺し、政権を簒奪したのです。
敵国であった明の力を得て打ち立てたその後の李氏朝鮮は、明のいいなり
になって当然です。貢物を要求されれば断ることができず、人妻であっても
供出しなければなりません。国民は奴隷民族化され、私有財産も没収され
ました。そして先制王権制度を変え、朝鮮民族が古代から高麗にいたる
まで連綿と持ち続けてきた国際的自尊心を放棄し、明の属国として堕落が
始まったのです。
このような環境の中で階級制度は固定化し、創意工夫の精神は圧殺され、
民衆は搾取と虐政を受けることになります。国王は名ばかりでなんら政策も
施さず、その政府には国家の予算案すら存在しないという無軌道ぶりでした。
いわば民衆は無政府状態に置かれていたのです。
搾取されたのは日本
そうした状況にある李朝を隣国において、1868年日本は明治を迎えます。
当時の世界は強いものが弱いものを食う時代です。日本にとって清もロシア
も大国です。その力が、清の属国になっていた李氏朝鮮、すなわち朝鮮半島
から日本にやってくるという危機感が日本にありました。
だからそれを防ぐために日本は、朝鮮としっかりと手を結ぶ必要があった
のです。
そこで1876(明治九)年二月、李朝と「日朝修好条規」を結びます。
李朝成立後、484年が過ぎたときのことです。それは李氏朝鮮に、独立国家
であってほしいという願いがありました。それが第一条にある
「朝鮮国は自主の国」という言葉に表れています。これはきわめて重要な
意義を持っています。
しかしそうした清と朝鮮との主従関係を断ち切ろうとした日本の狙いは、
実際その実現はほど遠く、民衆は相も変わらず、塗炭の苦しみを味わい
つづけていたのです。
1897年、李朝は国号を「大韓帝国」とあらため、年号を「光武」とし、
王を皇帝と称し、表面的には510余年ぶりに明・清の束縛を脱し、独立国家
を形成したのですが、清の保護下にある李朝の専横は変わるところがあり
ませんでした。それは近代化と自主独立の道を拒否しつづけることであり、
列強が蠢くなか李朝の存在は、東アジアの情勢に不穏な種を宿していた
ことになるのです。
1904(明治37)年、日清戦争に次いで日露戦争を控えた日本は、こうした
朝鮮の惨状を見かねて、目賀田種太郎(1853~1926年)を財政顧問として
派遣し、日本からの財政支援をもとに、李朝をまともな国として立て直す
という態勢がようやく緒につくことになります。
目賀田財政顧問と総監府は、朝鮮の歳入不足分を補填するために、
日本国民の税金から、大韓帝国政府に無利子、無期限の資金「立替え」を
実施したほか、直接支出で援助しました。
例えば1907年度、朝鮮の国家歳入は748万円しかなく、必要な歳出は
3000万円以上ありましたから、その差額は全額日本が負担しています。
1908年には、これがさらに増えて、合計3100万円という巨額の資金を
日本は支出しています。
総監府時代の四年間に、日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足分は、
1428万円にものぼっています。そればかりではなく、司法と警察分野など
に日本政府が直接支出した金額は、立替金の数倍、9000万円に達しています。
現在の朝鮮・韓国の歴史では、このような日本の特恵的支援には一言の
言及もありません。そして侵略だけを強調していますが、これがいかに偏狭
な歴史観であるかということが分かると思います。それら詳しい数字については
本に書きましたが、日韓併合によって、搾取されたのは、韓国・朝鮮国民では
なく、日本国民であった事実を認めるべきでしょう。
中略
ソウル遷都は滅亡の運命
中略
中国のいう歴史認識の共有は、中国のいう通りにしろということです。
そんなことはすべきでないし、できるはずもない。支那事変というのは、
日本が中国共産党と戦った防共戦です。これをはっきりと認識しなければ
なりません。向こうはアジア、中国、日本を共産化しようとしていた。
背後にはソ連のコミンテルンの野望がありそれと日本は戦った。
日本の軍隊がいたからこそアジアは、日本が敗れるまで共産化されなかった。
日本が敗れたために中国も満州も朝鮮も共産化されてしまった。
それを知っている人は世界にいなかったわけではありません。
ローマ法王のピオ11世はよく分かっていた。支那事変が始まった年の
10月にメッセージを出しています。全世界の3億5千万のカトリック信徒
に対して、日本の支那事変は侵略戦争ではない。共産党と戦っている。
共産党が存在するうちは、全世界のカトリック教会、信徒は日本軍に
遠慮なく協力せよといっています。
だからこそ戦後マッカーサーが靖国神社を解体しようとしたときに、
カトリックのビッター神父、バーン神父は反対した。
靖国神社の近くに白百合学園という女学校があります。
靖国神社の前を横切るときに生徒は頭を下げる。どうしてかと気に
なっていた。それはローマ法王にお伺いをたてたら頭を下げるようにと
指導があったという話でした。
結局中国共産党は戦争を一番望んでいた。昭和7年、満州事変の2年後に
対日宣戦布告を出しています。昭和9年にも同じようなものを出しています。
蒋介石の国民党軍と日本を戦争をさせて、その間に自分たちの勢力を
伸ばして中国を共産化するという戦略だったわけです。
支那事変が始まった後、毛沢東が出した指令があります。
日本との戦争では、七分の力をもって党勢を拡大せよ、二分の力をもって
国民党と妥協せよ、残りの一分の力をもって日本と戦争せよというものです。
中国は共産党政権です。その共産党と防共戦を戦った日本の歴史観が
合うわけがないでしょう。そういうことを日本は中国にはっきりという。
それで初めて同じ土俵に上がることができるのです。
日本は、論争の土俵に上がるまえから頭を下げているわけです。
ソース :
http://www2.odn.ne.jp/~aab28300/backnumber/04_12/tokusyu.htm
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