トヨタ問題と「ニクソン・ショック」
米国でのトヨタ車リコール問題の公聴会開催に当たり、
タウンズ米下院監督・政府改革委員長は
「トヨタは急加速問題の報告について無視、あるいは
過小評価してきた」と声明を発表。
今後、公聴会において、トヨタへの厳しい追及が予想されます。
昨日に続いて、この問題について、私、こぶな将人のメッセージ
をお届け致します。
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【こぶな将人寄稿】
今回の事件に関連し、私自身が非常に尊敬している、ある
外交評論家の方の講演を思い出しました。
それは、沖縄返還でノーベル平和賞を受賞した
佐藤栄作元総理大臣の「日米繊維交渉」とそれに連動して起きた
「ニクソンショック」についての裏話です。
佐藤総理(当時)はニクソン大統領との交渉で、沖縄返還の
悲願を果たしました。
しかし、実はそれと引き換えに、アメリカは当時の懸案で
あった繊維交渉をアメリカ有利に決着させることを
佐藤総理に要求しました。
この経緯は「縄(沖縄)を糸(繊維)で買った」などと揶揄
されることになりました。
そして、佐藤総理は、有名な「善処する」という役所言葉を使いました。
それがアメリカ側の大きな誤解を招くこととなります。
日本は結局、アメリカとの約束を果たさなかったのです。
佐藤総理の「善処」するという言葉を信用したニクソン
大統領は、日本に対して「憎しみの思い」を持つことに
なったと言われています。
その評論家の方の話では「『善処する』という日本的な
言い回しが犯人にされているが、実は当時、佐藤総理の言葉で、
はっきりと約束をしていることは明らかだ。
それは外務省も何度も確認している」とのことでした。
要するに、佐藤総理は、まんまとニクソン大統領を「はめた」
ということになってしまいました。
これがアメリカの対日不信の大きなきっかけになったそうです。
その後、日米関係がどのように推移して来たかを見ると、
大変な危機に陥っていったことが分かります。
1970年の日米繊維交渉の決裂の翌年1971年に二つの
「ニクソンショック」が日本に襲いかかります。
第一のショックがキッシンジャー補佐官による
「米中国交回復」です。
当時の東アジア情勢は、日米両国とも台湾政府を中国を
代表する国家と認定しており、北京政権とは国交を
結んではおりませんでした。
ところが、中ソ紛争が激しくなっていく一方、米ソ冷戦の中で、
アメリカは北京政府と手を結ぶことを選択しました。
この時、アメリカは日本には全く通告をしないまま、
北京との国交回復に踏み切ります。
これは日本にとっては驚愕と屈辱の出来事でした。
これまで「米国の敵国」として認識していた国が、
一夜にして「友好国」に変わったのです。
こうして、まず第一の「ニクソンショック」が、
1971年の7月の日本を襲います。(つづく)
こぶな 将人
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