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幸福の科学高知 なかまのぶろぐ ばくちゃんの記事です
あなたはなぜ尊いのか。 2018-02-10
私たちは、多くの生き物の中で暮らしております。
それは自然の大きなバランスの中で、生かしあって存在しています。
最も原始的であるとされているアメーバーたちでさえ、かなり高度な生き物であって、勝手に出来た偶然の産物として扱うことはできないです。
私は、多くの方々の協力を得ながら、このブログ記事を通して、生き物が創られた存在であることの証拠を提示することで、唯物的な科学に負けない、信仰心の一片でもお示しできたらなぁと考えてます。
さて、顕微鏡でコレラ菌を観察していて、その途中で彼(?)の寿命が来て、目の前で死んでしまったとしますね。
先程まで、尻尾をクルクルと回して動いていたコレラ菌と、死んで動かなくなったコレラ菌。
これはいったい、何がどう違うのでしょうか?
見た目はほとんど変わりませんね。
解剖しても (できるかどうか知りませんけど・・・)、その違いはないはずです。
それなりの電気を与えれば、まだしばらくは動くはずですが、神経細胞が死んでしまえば、どうやっても動きません。
生きていたコレラ菌と、死んだコレラ菌とは、見た目、つまり肉の眼で見る限り、違いは全くないんですね。
命が尽きただけです。
では、その命とはいったいなんなのでしょうか?
![](http://www.bianceng.cn/Fireworks/images/2005127121717734.jpg)
過去にも、単細胞生物が地球に現われたとき、この命が宿ったはずです。
そして寿命ある限り生き続け、連綿とそれを繋いで来たはずです。
実はこの、命の始まりの始まりが、生物学者には分りません。
また、驚かれるかも知れませんが、命そのものも、お医者さまにはわかりません。
この、高度な蛋白質の化合物が、自主的に動き始めた事実を、現代科学では説明できないのです。
結局、その命の本性が、生物学者や医学者をはじめ、現代科学では分っていないということです。
結局、その命の本性が、生物学者や医学者をはじめ、現代科学では分っていないということです。
![](http://www.kimoto-sbd.co.jp/downloads/2011/04/14/circle_72.jpg)
医師は、生きているか死んでいるかを、判定することができます。
生態反応を見る基準に、照らし合わせて判定しています。
しかしそれは、法律上の問題であり、生体モニター上の、ある意味での統計の問題です。
肝心の命そのものの正体は、彼らは知らないのです。
彼ら・・・というのは酷な話ですね。
現代人のすべてが、「命とは何か」がわからないのです。
これは、厳粛な事実です。
進化論信奉の生物学者たちは言うでしょう。
「私たちは生物の歴史上の過程を研究しているのであって、命そのものは研究対象外だ」と・・・。
「だったら、大口叩くのはお止めなさい。」と言いたいのです。
偉そうに何でも知っているが如く、振舞う態度を改めるべきであります。
「私たちは生物の歴史上の過程を研究しているのであって、命そのものは研究対象外だ」と・・・。
「だったら、大口叩くのはお止めなさい。」と言いたいのです。
偉そうに何でも知っているが如く、振舞う態度を改めるべきであります。
真実の前に謙虚になことが、探求者としての姿勢です。
それこそ、科学者としてのあるべき姿だと思うのです。
私たち信仰者は、現代社会に対して、それを言わねばならない立場なのです。
少なくとも、私たちは心の中で、そういった強い思いを持っていないといけません。
それこそ、科学者としてのあるべき姿だと思うのです。
私たち信仰者は、現代社会に対して、それを言わねばならない立場なのです。
少なくとも、私たちは心の中で、そういった強い思いを持っていないといけません。
それが、神仏を信ずる者の気概であり、誇りです。
信仰者は、命の探求者であり、神仏とつながっている「心」の探求者だからです。
![](http://pds.exblog.jp/pds/1/200412/13/25/c0006425_12274922.jpg)
未来の人々は、現代社会のことを、『暗黒の科学の時代』と呼ぶでしょう。
私たち神様を信じる者は、人類にとっての、暗黒の科学からの解放者となろうではありませんか。
その誇りこそ、未来を切り開く鍵だと思うのです。
私たち神様を信じる者は、人類にとっての、暗黒の科学からの解放者となろうではありませんか。
その誇りこそ、未来を切り開く鍵だと思うのです。
なぜならば、信仰者とは、神仏の手足だからです。
神仏が行きたいところに行き、神仏の願いをかなえていくのは、神仏を信ずる人々の力によるからです。
その誇りに、幸福の科学も、仏教も、日本神道も、キリスト教も、イスラム教も、違いはないはずです。
なぜならば、共に神仏を信じ、人間が神仏の子であることを信じているのですから。
信じるとは、理性を去ることではありません。
信じるとは、「命」の本質である「心」でつかみ取ることなのです。
本日は、2月17日(土)に行われる、山口龍彦高知厚生病院院長による健康セミナーのお知らせに続き、幸福の科学の経典『愛無限』(幸福の科学出版)抜粋をお届けいたします。