「宗教への差別・迫害」を助長する
最高裁「政教分離」判決(2)
幸福実現党 黒川白雲さんのブログからです
http://kurokawa-hakuun.hr-party.jp/news/
私は今回の空知太神社の最高裁違憲判決を受け、北海道に飛び、同神社に赴き、地域の方々の声をお伺いして参りました。

そこで分かったことは、空知太神社が市有地に建っているのはやむを得ない事情があったということです。
明治25年、極寒の中で空知の開拓に取り組まれた先人者達が「五穀豊穣」を祈って、祠(ほこら)を建立したのが空知太神社の始まりです。
その後、明治30年には地域住民が寄附金を募り、土地の払い下げを受け、神社を建立しました。
明治36年には神社敷地内に小学校が建設され、昭和23年、小学校が体育館を新設するため、神社を現在地に移設しました。
なお、砂川町(現砂川市)から神社側に対して移転補償費は一切支払われていません。
移転先は当時は私有地でしたが、敷地所有者が、固定資産税負担を避けるため、同敷地を砂川市に寄付しました。
その結果、市有地に神社が建っているのであり、最高裁の「市が特定の宗教に対して特別の便益を提供」しているという判決に対して強い違和感を感じます。
今回の違憲判決の特徴は、「政教分離」の適用に対して「新しい基準」を取り入れたことにあります。
従来、政教分離が争われた最高裁判決では、「目的が宗教的意義を持ち、行為の効果が特定の宗教を援助したり圧迫していないか」を合憲か違憲からのモノサシとする「目的・効果基準」が使われてきました。
先の経緯からも明らかなように、砂川市側には「特定の宗教を援助する」という「目的」もなく、現実に他の宗教を不当に圧迫する「効果」も存在しません。従来の「目的・効果基準」であれば、「合憲」判決が言い渡されたはずです。
ところが、今回の判決では「宗教施設の性格や無償提供の経緯と様態、これに対する一般人の評価などを考慮し、社会通念に照らして総合的に判断すべき」という新基準が用いられました。
従来の緩やかな政教分離の基準を改め、「一般人の評価」という概念を使って、曖昧で世論に迎合しがちな判断基準へと転換されましたが、何をもって「一般人の評価」と考えるのか、きわめて曖昧で最高裁の恣意性が入る判断です。
原告は、提訴する前にも、砂川市に対して「空知太神社に対する参拝中止要請」「空知太神での神事差し止め要請」など、厳格な「政教分離」を求めております。
そうした極論を「一般人の評価」とするならば、大変偏った判決にならざるを得ません。
地元の方々は「(原告は)何をを目くじら立てているのか理解できない」「取り壊したり移転するとまたお金も掛かるので、今のままで何も困らない。誰にも迷惑が掛かっていない」「何も問題ない話なのに、どうして訴えなきゃいけないのかねー……」「おかしな世の中になったもんだなあ」と素朴な疑問を呈されていました。
こちらの方こそが「一般人の評価」なのではないでしょうか。
憲法の「政教分離」規定は、「信教の自由」を守るための「制度的保障」であり、「政教分離」規定の適用が「信教の自由」を弾圧するならば本末転倒であります。
今回の判決を受け、市側は「違憲」状態の解消が迫られていますが、氏子集団の年間予算では、約三千万円(市役所担当者推定値)で市から敷地を買い取ったり、年間約百万円(同)の賃料を市に払うことは困難です。
幸福実現党は「宗教を信じる人」を守る宗教政党でありたいと思います。
このまま、「違憲状態を解消」するべく、重機で空知太神社や鳥居が「撤去」され、更に、全国の神社仏閣が取り壊されることの無いよう、強い抗議の声を上げて参りたいと思います。(つづく)