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いつも このブログに、コメント等で情報を下さるお一人の
”さざなみさん”を記事に取り上げてくださっていたので、
そのままご紹介いたします。
↓2010-04-23 脆弱なる目覚め 現代「目覚め」考
ブログ「理想国歌日本の条件・自立国家日本」http://blog.goo.ne.jp/sakurasakuya7/e/a0460c6cb7cc5b621ffc6e06cf2c582b#comment-list
で、私の日記「国旗掲揚と国歌斉唱を考える」を紹介して頂いた。それに対してある方のコメントがあった。
特に信仰はあっても、この様な話を(国旗とか国歌の類)
すると逃げる、、、、、
目覚めるとは、、、良くこの版で皆話をしていますね。
目覚めるとは、先ず日本人としての自覚に
目覚める事です。日本人としての誇りを
持ってください、正しい歴史を知らないので
”ほこり” がもてないのです。
私は現代信仰者一般の目覚めが(もちろん自分を筆頭に)非常に脆弱(もろい)なのではないかと思う。
そう、目覚めが脆弱なのだ。豆腐みたいな弱さがある。環境の変化でたちまちにゆらぐ。
それでも私の脆弱なる目覚めをかろうじて支えてくれたものは何だったんだろうか。
かなり、危機的に、根源的に追い詰められたとき支えてくれたもの。
それはやはり、歴史の縦の系譜、先人たちの苦難の歴史、日本という国の歴史、つまり私が属している空間と時間のものがたり、、、歴史であったと思う。身近でいえは、父と母のものがたり。大正生まれの父母のものがたりは、ずばり昭和史でもあり、中也の言う、茶色い戦争の記憶でもある。また農民の歴史でもある。
そういった粒粒辛苦の農民の歴史、その共同体の記憶が、私個人をぎりぎりのところで支えてくれた。祖父、祖母、父、母の記憶の延長のものである。
まず、祖国日本人としての立脚点がない「目覚め」は、あるいは脆弱なのではないだろうか。
いくら、普遍的な悟りを希求していても、確固たる立脚点のない「目覚め」は、豆腐のごとき脆弱なものになるのではないか。
確固たる立脚点の上に、普遍性という建造物が立つとすれば、無国籍の上に果たして世界性・普遍性が建造されるのだろうか。
私たちの脆弱性を克服しない限り、国難を戦う強さは生まれないだろう。
私は、どこの国に生まれ、生きているのか。この立脚点を確認しない限り、少なくとも、同時代人への説得力は生まれないと思う。
鳩山首相の無国籍の上に立つ建造物は砂上の楼閣となろう。無国籍はすなわち無責任と思う。
鳩山首相の宇宙人とは、無国籍・無責任の謂いでもある
特に信仰はあっても、この様な話を(国旗とか国歌の類)
すると逃げる、、、、、
目覚めるとは、、、良くこの版で皆話をしていますね。
目覚めるとは、先ず日本人としての自覚に
目覚める事です。日本人としての誇りを
持ってください、正しい歴史を知らないので
”ほこり” がもてないのです。
私は現代信仰者一般の目覚めが(もちろん自分を筆頭に)非常に脆弱(もろい)なのではないかと思う。
そう、目覚めが脆弱なのだ。豆腐みたいな弱さがある。環境の変化でたちまちにゆらぐ。
それでも私の脆弱なる目覚めをかろうじて支えてくれたものは何だったんだろうか。
かなり、危機的に、根源的に追い詰められたとき支えてくれたもの。
それはやはり、歴史の縦の系譜、先人たちの苦難の歴史、日本という国の歴史、つまり私が属している空間と時間のものがたり、、、歴史であったと思う。身近でいえは、父と母のものがたり。大正生まれの父母のものがたりは、ずばり昭和史でもあり、中也の言う、茶色い戦争の記憶でもある。また農民の歴史でもある。
そういった粒粒辛苦の農民の歴史、その共同体の記憶が、私個人をぎりぎりのところで支えてくれた。祖父、祖母、父、母の記憶の延長のものである。
まず、祖国日本人としての立脚点がない「目覚め」は、あるいは脆弱なのではないだろうか。
いくら、普遍的な悟りを希求していても、確固たる立脚点のない「目覚め」は、豆腐のごとき脆弱なものになるのではないか。
確固たる立脚点の上に、普遍性という建造物が立つとすれば、無国籍の上に果たして世界性・普遍性が建造されるのだろうか。
私たちの脆弱性を克服しない限り、国難を戦う強さは生まれないだろう。
私は、どこの国に生まれ、生きているのか。この立脚点を確認しない限り、少なくとも、同時代人への説得力は生まれないと思う。
鳩山首相の無国籍の上に立つ建造物は砂上の楼閣となろう。無国籍はすなわち無責任と思う。
鳩山首相の宇宙人とは、無国籍・無責任の謂いでもある
幸福実現党 加納有輝彦さんのブログからです 。
http://ameblo.jp/papadad/day-20100423.html
取り上げていただきましてありがとうございました!!