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「報道ステーション」が天皇誕生日に昭和天皇を批判する沖縄県民の声を紹介

2015年12月25日 00時00分00秒 | 政治・拡散記事・報道・海外

http://news.livedoor.com/article/detail/10991597/ より

9075

2015年12月24日 11時34分 トピックニュース

「報道ステーション」が天皇誕生日に昭和天皇を批判する沖縄県民の声を紹介

天皇誕生日だった23日放送の「報道ステーション」(テレビ朝日系)で、昭和天皇を批判する沖縄県民の声を紹介した。

番組では、天皇陛下が沖縄で続けられているという慰霊の旅を特集した。1975年に沖縄を初めて来訪なされて以来、陛下の慰霊の旅は10回を数え、沖縄戦当時の激戦地も訪問されている。

陛下が慰霊の旅を続ける理由として、昭和天皇が抱えていた思いがあるという。1972年に沖縄の本土復帰が叶った後、昭和天皇は他の地域と同じく、当地を巡幸したいという強い思いを抱いていたが、ついに果たすことなく1989年に崩御した。

晩年の昭和天皇は「思わざる 病となりぬ 沖縄を 訪ねて果たさむ つとめありきを」という歌を残している。昭和史研究家の保坂正康氏によると、陛下は昭和天皇の「つとめ」を引き継いで、沖縄訪問を続けられているという。

こうした天皇陛下に対して、多くの県民は好感を抱いているようだが、中には複雑な思いを抱く人もいるようだ。

番組VTRでは、家族3人を沖縄戦で亡くした平良啓子さんがインタビューに答えた。平良さんは、戦闘の訓練を受けていない沖縄の民が無残に殺されたといい、「(昭和)天皇(の降伏決断)が遅すぎた。『もう負けました。降参です』と早くおっしゃれば、沖縄でもたくさんの人が死ななかったかもしれないという思いがある」と胸の内を明かした。

平良さんは昨年、天皇陛下と面会する機会があったが拒否したという。沖縄戦の犠牲者のことを想うと「天皇とか、そういう人たちに会うのは嫌」だというのだ。

古舘伊知郎氏はVTR後、平良さんの発言に言及することはなかった。



古舘伊知郎キャスター「報ステ」降板へ 来年3月いっぱいで

2015年12月24日 9時12分 

ポニチアネックス

テレビ朝日「報道ステーション」(月~金曜後9・54)の古舘伊知郎キャスター(61)が、来年3月いっぱいで降板することが分かった。24日、同局が発表した。

 「報道ステーション」は2004年4月、「ニュースステーション」の後番組としてスタート。古舘キャスターは番組開始当初からメーンキャスターを務め、12年間に渡ってテレビ朝日の“夜の顔”を務めた。

 今年8月21日には2年ぶりの20%超えとなる平均視聴率22・5%を記録するなど、長年に渡って好視聴率をキープ。その反面、3月にはコメンテーターとして番組に出演した元経済産業省官僚の古賀茂明氏が自身の降板をめぐって菅義偉官房長官や官邸などを批判し、後日、古舘キャスターが「テレビ朝日としても(発言を)防げなかったことを、重ねておわびしなければいけません」と謝罪する騒動もあった。

 古舘キャスターは次のステップへ向けて意欲を示しているという


 

古舘伊知郎氏の「報道ステーション」降板 堀江貴文氏がTwitterで賛意

http://news.livedoor.com/topics/detail/10992130/

なお、堀江氏はかつて同番組に出演した経験があり、古舘氏とグローバリズムの功罪などについて意見を交わしあったが、一部の話題以外ではまったく噛み合わなかった。古舘氏は当時、堀江氏について「本当に同じ日本語を使ってるのがウソのようです」と評している。


 


【テレビ】古舘伊知郎キャスター「報ステ」降板正式発表 テレ朝慰留も「新しいジャンルに挑戦を」

http://www.akb48matomemory.com/archives/1048273589.html

【報ステ】古舘伊知郎「報道ステーション」降板の理由・原因がヤバイwwwwwww




 



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6 コメント

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Unknown (Unknown)
2015-12-25 09:34:51
<昭和天皇の研究>山本七平
(P.181~)
天皇はタイプとしても地味な守成なら、受けた教育もまた「守成の明君教育」であって「乱世の英雄教育」ではなかった。このことはすでに述べたが、明治末から大正時代に予測された方向へと、世界は進んでいかなかった。前述のように20年先はもちろん、10年先さえ簡単には予測できない。
そしてこの予測し得ない未来に対して、天皇はまことに「愚直」とも言いたい行き方で進んでいった。文字どおり「自分は憲法の命ずるところに拠り」なのである。この言葉が公表されていたら、当時の日本人はみな驚いたであろう。というのは、ほとんどすべての当時の日本人は、天皇が頂上と信じており、天皇が命ずることがあっても、何かが天皇に命ずるとは信じられなかったからである。
ここには教育問題もある。というのは戦前の義務教育では、憲法教育は皆無に等しかったからである。「憲法停止・御親政」という言葉は、天皇が憲法を停止出来るという前提に基づいており、これは「天皇は憲法以上の存在」と信じているが故に、はじめて口に出来る言葉だからである。
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なぜ、日本の左派は「反日」なのか? (Unknown)
2015-12-25 11:48:32
欧米の左派は、国益を害する国家に共鳴したり同情したりしない。自国の安全保障をないがしろにするような主張をしない。
米国の左派はリベラルだが、星条旗に忠誠を誓う。フランス社会党も英国労働党もドイツ社民党も同様である。もともとは共産党を母体とするイタリアの左翼民主党(現・民主党)ですらそうだった。

ところが、日本の左派は違う。昨日のエントリでも指摘したが、民主党の「リベラルの会」ごときは、「金正日マンセー」の議員が代表世話人を務めている。社民党は「北朝鮮による拉致事件はデッチアゲ」と長い間主張していた。共産党も北朝鮮には批判的だが、靖国神社参拝問題や従軍慰安婦問題では中国や韓国と歩調をそろえる。
http://banmakoto.air-nifty.com/blues/2008/10/post-66b3.html
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Unknown (Unknown)
2015-12-27 09:34:33
<昭和天皇の研究>山本七平
(P.261~)立憲君主制とは制限君主制であり、天皇自らが言われているように、「憲法の命ずるところにより」すべてを行うのであるから、もし天皇の命令が「違法」なら、大臣はこれを「執行せざる責任を有する」。右翼はこれを、大臣を天皇の上に置くものとして激しく攻撃したが、もちろんこれは誤りで、天皇の上にあるのは憲法であって大臣ではない。
いわば「絶対」なのは憲法であって「天皇」ではない。そしてこれを制定されたのは明治大帝であり、その点で、天皇にとっては「皇祖皇宗の遺訓」であり、これを絶対に守る。そしてこれは現実に行われており、天皇の裁可は、すべて大臣の副署が必要である。
いわば天皇機関説は、明治憲法の下で現に行われていることをそのまま記しているのであり、それは「天皇機関説」を非難攻撃したところで、変更されたわけではないし、また天皇に変更する意志はない。
それなのに、これを否定する「国体明徴運動」が起こり、議会は国体明徴決議なるものを行う。「機関説」は封じられ、日本人はすべて天皇の意志どおりに動くべきだといった言説が出てくる。国民は何となくそんな気持ちになる。ところが、実際には「機関説」どおりで何一つ変わってはいない。
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Unknown (Unknown)
2015-12-27 09:40:15
<昭和天皇の研究>山本七平
(P.376~)では天皇は、憲法を無視することが不可能だったのだろうか。明らかに可能であった。そしてそれを望む者がいたことは否定出来ない。それはただ軍部だけではなかった。天皇が、啓蒙的独裁君主として、国民の困窮を救ってほしい、否、救うべきだといった気持ちが、その人たちにあったことは否定できない。「明治憲法という青写真」と「歴史的実体としての日本」との乖離は、如何ともしがたかった。
磯部浅一の呪詛は、簡単に言えば「青写真ばかり眺めていないで、歴史的実体としての日本の現状に目を向けて下さい」であり、「天皇よ、なぜこれが分からないのか」が、彼の痛切な叫びである。
憲兵の調査報告にあるが、彼の家は実に貧しかった。それだけではなく、村人からも疎外されていた。その苦境の中から彼は陸軍経理学校に進んだ。といってもその意味は、今では分からないだろうが、これは約60人に1人の合格という大変な試験。その点、彼は少年期より稀代の秀才であり、そして彼は当時の日本の貧農の絶望的な悲惨さを知っていた。そしてその現実の前には「憲法という青写真」など、何の価値もないものであった。そんなものは棄て、北一輝の『日本改造法案大綱』に基づいて、徹底的にこれを改造しなければ民衆は救われない_、彼は彼でこの信念を貫いている。
そして彼の天皇への呪詛は、「天皇はそれを出来るのにやらない」という点にあったことは言うまでもない。そして戦後にもこれに似た意見はある_「天皇は戦争を止められるのに止めなかった」。
この言葉は、単に庶民が口にしているのではない。侍従武官・平田昇海軍中将も天皇に同じ趣旨の質問をしている。天皇のお答えは「平田は憲法を知らんよ」、それだけであった。
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Unknown (泣き虫ウンモ)
2015-12-27 21:33:57
平和裏にアジアの解放ができるのか、それとも戦闘を通さなければ、無理だったのかという話です。

日本に対する米国の戦闘に関しては、長年による計画性が高いとみざるを得ず、平和的に解決する方法は低いと見るべきですかね。

向こうの指導者の問題もあるのです。

日本としては、米国民を見据えた情報戦でもやって勝利しない限りは、いずれ戦争は時間の問題でしょうね。
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連投すみません(これで最後です) (Unknown)
2015-12-28 07:06:01
<昭和天皇の研究>山本七平
(P.381~)昭和十二年、近衛は「大本営政府連絡会議」をつくった。これが後の戦争指導会議である。問題は、これが「閣議」か否かである。これが御前会議となり、第一回は昭和十三年一月十一日。単なる連絡会議なら、天皇は大いに発言して御希望を述べてよいはずだが、閣議同様ならば少々問題である。憲法上疑義があることは絶対に行わない天皇は、この点を、元老・西園寺公望に問い合わされた。彼の返事は、この席での「御希望」、ないしは「御質問」は差し支えないであろうということであった。
しかし、このことを内大臣から聞いた近衛は絶対反対で、次のように言ったと半藤一利氏は記しておられる。
→「本案は総理大臣の全責任において、すでに決定し(ということは「閣議決定」)、単に御前で、(統帥部との合意を)本格的に決めるにすぎないから、御発言のないことを望む」
天皇は「連絡完了」の立会人にすぎないというわけであろう。天皇は無言であった。この近衛が「日本の憲法は天皇親政の建前」などと言えば、天皇が御不興であったのは当然であろう。
→これによって天皇の統帥部への発言も封じられた。二・二六事件後の四月二十五日の天皇の次のお言葉は、このことへの予感を示している。
「軍部にては機関説を排撃しつつ、しかも自分の意思に悖ることを勝手になすは、すなわち朕を機関説扱いとなすものにあらざるなきか」
→いわば軍部は「機関説以上の機関説」で天皇の発言を封じたわけである。そのため天皇がこの会議で発言されたのはおそらく二回だけであろう。前述のように、昭和十六年九月十六日、明治天皇の御製を誦まれ、平和への強い要望を示されたのと、第二が終戦の時の「聖断」である。なぜ天皇がこれを「立憲君主としての道を踏みまちがえた」と考えておられたか、もはや説明の必要はあるまい。

(P.24~)「だが、戦争をやめた時のことは、開戦の時と事情が異なっている。あの時には終戦か、戦争継続か、両論に分かれて対立し、議論が果てしもないので、鈴木(貫太郎、当時の首相)が最高戦争指導会議で、どちらに決すべきかと私に聞いた。
ここに私は、誰の責任にも触れず、権限をも侵さないで、自由に私の意見を述べる機会を、初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである。
……この場合に私が裁決しなければ、事の結末はつかない。それで私は、この上戦争を継続することの無理と、無理な戦争を強行することは皇国の滅亡を招くとの見地から、胸の張り裂ける想いをしつつも裁断を下した。これで戦争は終わった。
しかし、この事は、私と肝胆相照した鈴木であったからこそ、この事が出来たのだと思っている」
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