スピッツの「冷たい頬」の歌詞の中に「こわれながら きみを おいかけてく」という言葉が出てくるのです。
その言葉を何年か前から、「ああ、私のことだなぁ」と。
でもって、以下はこの記事の2つほど下にある「悲しいこと」という記事に対していただいたコメントに対しての私の返信コメントから切り取ったものです。
どう考えても、コメントへの返信にしては内容が長すぎるんで記事としても投稿しておきます。
そちらをもう読まれた方は、これは読まなくていいです。ほぼ同じなんで。
私は「役者」真治のファンとして、「役者として凄いんだから」というのを自分への言い訳にして彼を愛している自分を受け入れた人間です。
「男性芸能人を追いかける、男性芸能人のファンになる」という行為自体に、私自身の気持ちの中で物凄い抵抗というか、葛藤があったので。
(まあ、それはぶっちゃけて言ってしまえば、私が自分の「女性」というジェンダーを精神的に完全に受け入れたくない人間なんで起こった葛藤だったんですが。この辺りは、大半の方にはわかって頂けない心理状態なのかもしれませんが、私の精神は、その時によって男性だったり女性だったりするので。別に人格がいくつかに分かれているわけではありません。全部同じ人間なんですが、一人称が「俺」の時は男性要素が強く、「私」の時はキチンとした場所にいる時か女性要素の強い時です。自然に「でも俺はそうだと思うし。」とか「精神の性別はニュートラルだし。三島を女として読んで面白いわけじゃないじゃん。読んでる時は主人公なんだから男になってるわけだろ。」とか、まあそういう感じに友達とは時にはしゃべったりするわけですよ、要するに。)
そこまでをとりあえず自分に対して許してから、「ファン」として追いかけてもいい人なのかを確かめたくて、最初のラフィータフィーのツアーに3箇所行きました。
でもって、彼がどういう人なのかをある程度自分なりに感覚的に自信を持ってから、本当の「ファン」になったのです。「ああ。大丈夫だ、この人は追いかけても。」と、思ったんですね、要するに。
「彼は追いかけるに値する人間だ」と確信したから「ファン」になった。
本格的に「ファン」になる時点で見極めたかったのは、「役者」でも「SAX奏者」でもなく、「武田真治」という「人間」だったんです。
だから「ただタケダシンジその人がそこにいればそれでいい」というのは、私の場合は7割方当てはまっていて、残りの3割は彼が自分の中の「裸」の部分をどのくらい見せてくれるかと、彼自身が幸せそうかどうかによって決まってきます。
彼は、彼自身の持っている資質をそのまま最大限に生かして活動してしまうと、恐らく自分自身を健康に保つことがとても難しい人なんです。
その精神があまりに「健全」であるがゆえに、彼自身の中にある「狂った」部分(繊細すぎる部分であり、巫女的な、シャーマン的な資質だと思います、多分)を表に出し続けることは、彼自身にとって耐え難いものなんだと思います。
彼は「武田真治」本人でありたいんだと思うのです。演じていても、奏でていても。
そして、残酷な嫌な言葉をあえて選んで言うと、自分自身で「役者・武田真治」も「ミュージシャン・武田真治」も、壊してしまった。
彼自身が選んだことで、彼が自分がありたい「武田真治」その人として生きるために、幸せで健全でいるために、自分自身にOKを出して生きるために、全ては必要なことだったんだと私は思っています。
今はLOSALIOSそのものも、もう活動停止の状態のようですね。
そして、荒れ狂う中村達也氏は、転がり続ける。
私はもうここまで来てしまうと「武田真治」その人が幸せであることが一番の望みになっていて、この世界の中に彼が居てくれることが、ただ、嬉しい。
彼自身が楽器となって楽しそうに舞台で歌っている姿に、元気で幸せな満ち足りた彼を見ることが出来て、嬉しい。
そして、代わりに私自身が望む「狂った」何か、もっと先にあるものへ向かって、自分自身が向かい始めてしまいました(笑)
でも、ずっと元々思ってはいたのです。それは誰かに求めるものではなく、自分自身が求めているものなのだから結局は自分自身がやらなくてはいけないことなのだ、ということを。
壊れるのは、私自身でいい。
彼には健康で幸せでいてほしい。
自分は安全な場所にいながら、彼自身の苦痛をわかっていながら彼に見せてもらおうと望んでしまっていた。
しかも、自分自身でそういうことを彼に要求している自覚は、ありました。初めから。
自分が見たい夢は、自分自身が苦痛を超えてでも見ようとしなければ。
他の人にそれを望むのは、間違っている。
それでもやっぱり彼のSAXには、問答無用で狂わされるんですけどね(笑)
今も、真治はますます強くて美しくて輝いている。
それはきっと、彼が彼自身をそういう「健全」な場所にひきとめたからだと思うのですよ。
「Tokyo eyes」のKのように「いろんなものが見えてしまう」から、目を閉じた。自分を守るために。
シャーマン的な自分自身の最大の武器を封じて、自分自身を守ったんですよ、彼は。
彼自身が、そういう道を望んで、選んだ。
私はその選択をとても悲しいとも思っているのは事実なんですが、結果的には良かったと思ってます。
ぶっちゃけて言ってしまえば、私が見たかったのは「壊れた真治」だったわけなので。
そんなものを他人に要求してしまう「観客」「聴衆」「大衆」って、とても残酷ですよね。
『人身御供』、いわば『いけにえ』なんですから、そう望まれた人はその人々にとって。
彼に、「美しい人」に、幸せでいてほしい。
だから私はもう、彼に「幸せ」以外の何かを望むことはやめたのです。
武田真治という人が、とても大切なので。
その言葉を何年か前から、「ああ、私のことだなぁ」と。
でもって、以下はこの記事の2つほど下にある「悲しいこと」という記事に対していただいたコメントに対しての私の返信コメントから切り取ったものです。
どう考えても、コメントへの返信にしては内容が長すぎるんで記事としても投稿しておきます。
そちらをもう読まれた方は、これは読まなくていいです。ほぼ同じなんで。
私は「役者」真治のファンとして、「役者として凄いんだから」というのを自分への言い訳にして彼を愛している自分を受け入れた人間です。
「男性芸能人を追いかける、男性芸能人のファンになる」という行為自体に、私自身の気持ちの中で物凄い抵抗というか、葛藤があったので。
(まあ、それはぶっちゃけて言ってしまえば、私が自分の「女性」というジェンダーを精神的に完全に受け入れたくない人間なんで起こった葛藤だったんですが。この辺りは、大半の方にはわかって頂けない心理状態なのかもしれませんが、私の精神は、その時によって男性だったり女性だったりするので。別に人格がいくつかに分かれているわけではありません。全部同じ人間なんですが、一人称が「俺」の時は男性要素が強く、「私」の時はキチンとした場所にいる時か女性要素の強い時です。自然に「でも俺はそうだと思うし。」とか「精神の性別はニュートラルだし。三島を女として読んで面白いわけじゃないじゃん。読んでる時は主人公なんだから男になってるわけだろ。」とか、まあそういう感じに友達とは時にはしゃべったりするわけですよ、要するに。)
そこまでをとりあえず自分に対して許してから、「ファン」として追いかけてもいい人なのかを確かめたくて、最初のラフィータフィーのツアーに3箇所行きました。
でもって、彼がどういう人なのかをある程度自分なりに感覚的に自信を持ってから、本当の「ファン」になったのです。「ああ。大丈夫だ、この人は追いかけても。」と、思ったんですね、要するに。
「彼は追いかけるに値する人間だ」と確信したから「ファン」になった。
本格的に「ファン」になる時点で見極めたかったのは、「役者」でも「SAX奏者」でもなく、「武田真治」という「人間」だったんです。
だから「ただタケダシンジその人がそこにいればそれでいい」というのは、私の場合は7割方当てはまっていて、残りの3割は彼が自分の中の「裸」の部分をどのくらい見せてくれるかと、彼自身が幸せそうかどうかによって決まってきます。
彼は、彼自身の持っている資質をそのまま最大限に生かして活動してしまうと、恐らく自分自身を健康に保つことがとても難しい人なんです。
その精神があまりに「健全」であるがゆえに、彼自身の中にある「狂った」部分(繊細すぎる部分であり、巫女的な、シャーマン的な資質だと思います、多分)を表に出し続けることは、彼自身にとって耐え難いものなんだと思います。
彼は「武田真治」本人でありたいんだと思うのです。演じていても、奏でていても。
そして、残酷な嫌な言葉をあえて選んで言うと、自分自身で「役者・武田真治」も「ミュージシャン・武田真治」も、壊してしまった。
彼自身が選んだことで、彼が自分がありたい「武田真治」その人として生きるために、幸せで健全でいるために、自分自身にOKを出して生きるために、全ては必要なことだったんだと私は思っています。
今はLOSALIOSそのものも、もう活動停止の状態のようですね。
そして、荒れ狂う中村達也氏は、転がり続ける。
私はもうここまで来てしまうと「武田真治」その人が幸せであることが一番の望みになっていて、この世界の中に彼が居てくれることが、ただ、嬉しい。
彼自身が楽器となって楽しそうに舞台で歌っている姿に、元気で幸せな満ち足りた彼を見ることが出来て、嬉しい。
そして、代わりに私自身が望む「狂った」何か、もっと先にあるものへ向かって、自分自身が向かい始めてしまいました(笑)
でも、ずっと元々思ってはいたのです。それは誰かに求めるものではなく、自分自身が求めているものなのだから結局は自分自身がやらなくてはいけないことなのだ、ということを。
壊れるのは、私自身でいい。
彼には健康で幸せでいてほしい。
自分は安全な場所にいながら、彼自身の苦痛をわかっていながら彼に見せてもらおうと望んでしまっていた。
しかも、自分自身でそういうことを彼に要求している自覚は、ありました。初めから。
自分が見たい夢は、自分自身が苦痛を超えてでも見ようとしなければ。
他の人にそれを望むのは、間違っている。
それでもやっぱり彼のSAXには、問答無用で狂わされるんですけどね(笑)
今も、真治はますます強くて美しくて輝いている。
それはきっと、彼が彼自身をそういう「健全」な場所にひきとめたからだと思うのですよ。
「Tokyo eyes」のKのように「いろんなものが見えてしまう」から、目を閉じた。自分を守るために。
シャーマン的な自分自身の最大の武器を封じて、自分自身を守ったんですよ、彼は。
彼自身が、そういう道を望んで、選んだ。
私はその選択をとても悲しいとも思っているのは事実なんですが、結果的には良かったと思ってます。
ぶっちゃけて言ってしまえば、私が見たかったのは「壊れた真治」だったわけなので。
そんなものを他人に要求してしまう「観客」「聴衆」「大衆」って、とても残酷ですよね。
『人身御供』、いわば『いけにえ』なんですから、そう望まれた人はその人々にとって。
彼に、「美しい人」に、幸せでいてほしい。
だから私はもう、彼に「幸せ」以外の何かを望むことはやめたのです。
武田真治という人が、とても大切なので。
超ノンビリペースの更新になると思いますんで、次がいつの投稿になるのかわかりませんが、続けては行きたいと思ってます。
独り言のような内容ばかりで、お恥ずかしい(汗)
先日はちょこっとお会いできて嬉しかったです。
私もお会いできて嬉しかったです。
また、いつかどこかでお会いできるのを楽しみにしています。ここはマイペースでいいのでなが~く続けてくださいね。楽しみに読ませて頂いてます。
これ入れて、実は私、ブログ3つ、掲示板2つ、サイト2つ持ってます。もうひとつのサイトはオタクなので内緒(笑)
まだまだ細々と続けますのでよろしく♪