貧しいものを嘲(あざけ)る者は、
自分の造り主をそしる。
人の災難を喜ぶ者は
罰を免(まぬか)れない。箴言17:5
憐れみ深い人々は、幸いである。
その人たちは憐れみを受けるからだ。マタイ5:7
ロマ書9:31~10:8
ヨシュア記5:13~15(通読箇所)
(ローズンゲン『日々の聖句』1/19;水)
―――― ☆ ――――
私たちは、お金持ちや地位の高い人を尊び、
貧しい人を軽んじる傾向を持っています。
人の災難を喜ぶ思いも。
けれども、それは、
その人を造られた造り主である神をそしることであり、
その人を造られた方は私を造られた方でもあるので、
結局、自分の造り主をそしることになるというのですね。
そのような、貧しいものを嘲あざけったり、
人の災難を喜んだりする思いの出どころである、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
【父である神】は、
イエスの十字架刑での死に合体させてくださって、
処刑が終わった者、死んだものと手続きしてくださいます。
そして、墓に納められたイエスは、
三日目の日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日にわたって何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語り、
ご自身が確かに生きていることを見せたのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の【父である神】の右の座に復帰されました。
【父である神】は、そのイエスを通してもう一人の助け主、
【聖である霊】と呼ばれる方を
私たち一人ひとりに派遣してくださって、
この方によって、
ご自身が私たち一人ひとりに思っておられる御思いを
私たち一人ひとりの心に置き、書き記してくださいます。
それで、私たちの心にも、【父である神】の、
貧しい人、災難に遭っている人を思いやる、
憐れみ深い思いも来るのだそうです。
【父である神】の憐みの中で。
イスラエルの人々は、モーセの時以来、
義の律法を追い求めて来ました。
けれども、その律法に到達しませんでした。
それは、神への信頼によってではなく、
自分の行いによるかのように追い求め、
神のあわれみに信神の義をいただく道に
つまずいてしまったからです。
彼らは神に対して熱心ですが、
その熱心は知識に基づくものではありません。
彼らは、神のあわれみによって神の義をいただく道を認めず、
自分の行いによる自分の義を立てようとして、
神の義を受け取りませんでした。
律法が目指すものはキリストなのですね。
それで、義は信じる者すべてに与えられます。
モーセは、律法による義について、「律法の掟おきてを行う人は、
その掟によって生きる」と書いています。
しかし、信仰による義は言います。
「もしあなたが口でイエスを主と告白し、あなたの心で、
イエスを死者の中からよみがえらせた神に信頼することで
救われる」と。(ロマ9:31~10:9)
私たちも、自分の行いによって義に到達しようとする
傾向を持っています。
たとえば、自分の力で、貧しい人を嘲らないようにしようとか、
人の災難を喜ぶ者ではなくなろうとか。
それは、自分の義を立てようとしていることのようです。
そこに出てくるのは、自分の努力を誇る思い、なのでしょうね。
そして、努力しない人を軽んじて。
むしろ、自分のうちからは、
そのような思いが出てくる者であることを認めて、
イエスの御前に差し出し、受け取ってもらい、
その自分は、イエスの死と合体させていただいて、
死んだものとしていただいていることを認め、
【聖である霊】と呼ばれる方によって来る、神の御思いが
自分のうちに成ることを願っていきます。
神のあわれみの中で。
今日も。
~~~~~~~~
(聖書のことばへの疑問やご意見、
近くの教会を知りたい等の方、
また、婚活で広く出会いを求めたい、
教会に行っていないけれど、
葬儀をキリスト教でしたい、等の方、
お問い合わせは、
shkhknsyg4@yahoo.co.jpへどうぞ。)
〈復活社 http://www.sougi8849.jp/index.html 〉
〈(株)ブレス・ ユア・ ホーム https://christ-sougi.com/ 所属〉)
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自分の造り主をそしる。
人の災難を喜ぶ者は
罰を免(まぬか)れない。箴言17:5
憐れみ深い人々は、幸いである。
その人たちは憐れみを受けるからだ。マタイ5:7
ロマ書9:31~10:8
ヨシュア記5:13~15(通読箇所)
(ローズンゲン『日々の聖句』1/19;水)
―――― ☆ ――――
私たちは、お金持ちや地位の高い人を尊び、
貧しい人を軽んじる傾向を持っています。
人の災難を喜ぶ思いも。
けれども、それは、
その人を造られた造り主である神をそしることであり、
その人を造られた方は私を造られた方でもあるので、
結局、自分の造り主をそしることになるというのですね。
そのような、貧しいものを嘲あざけったり、
人の災難を喜んだりする思いの出どころである、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、
【父である神】は、
イエスの十字架刑での死に合体させてくださって、
処刑が終わった者、死んだものと手続きしてくださいます。
そして、墓に納められたイエスは、
三日目の日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日にわたって何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語り、
ご自身が確かに生きていることを見せたのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の【父である神】の右の座に復帰されました。
【父である神】は、そのイエスを通してもう一人の助け主、
【聖である霊】と呼ばれる方を
私たち一人ひとりに派遣してくださって、
この方によって、
ご自身が私たち一人ひとりに思っておられる御思いを
私たち一人ひとりの心に置き、書き記してくださいます。
それで、私たちの心にも、【父である神】の、
貧しい人、災難に遭っている人を思いやる、
憐れみ深い思いも来るのだそうです。
【父である神】の憐みの中で。
イスラエルの人々は、モーセの時以来、
義の律法を追い求めて来ました。
けれども、その律法に到達しませんでした。
それは、神への信頼によってではなく、
自分の行いによるかのように追い求め、
神のあわれみに信神の義をいただく道に
つまずいてしまったからです。
彼らは神に対して熱心ですが、
その熱心は知識に基づくものではありません。
彼らは、神のあわれみによって神の義をいただく道を認めず、
自分の行いによる自分の義を立てようとして、
神の義を受け取りませんでした。
律法が目指すものはキリストなのですね。
それで、義は信じる者すべてに与えられます。
モーセは、律法による義について、「律法の掟おきてを行う人は、
その掟によって生きる」と書いています。
しかし、信仰による義は言います。
「もしあなたが口でイエスを主と告白し、あなたの心で、
イエスを死者の中からよみがえらせた神に信頼することで
救われる」と。(ロマ9:31~10:9)
私たちも、自分の行いによって義に到達しようとする
傾向を持っています。
たとえば、自分の力で、貧しい人を嘲らないようにしようとか、
人の災難を喜ぶ者ではなくなろうとか。
それは、自分の義を立てようとしていることのようです。
そこに出てくるのは、自分の努力を誇る思い、なのでしょうね。
そして、努力しない人を軽んじて。
むしろ、自分のうちからは、
そのような思いが出てくる者であることを認めて、
イエスの御前に差し出し、受け取ってもらい、
その自分は、イエスの死と合体させていただいて、
死んだものとしていただいていることを認め、
【聖である霊】と呼ばれる方によって来る、神の御思いが
自分のうちに成ることを願っていきます。
神のあわれみの中で。
今日も。
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(聖書のことばへの疑問やご意見、
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また、婚活で広く出会いを求めたい、
教会に行っていないけれど、
葬儀をキリスト教でしたい、等の方、
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