朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

ご自身のいのちを与える愛によって

2018-04-30 08:34:12 | 聖書から
 わたしは反逆の民、
思いのままに良くない道を歩く民に、
絶えることなく手を差し伸べてきた。イザヤ書65:2

 私たちがまだ罪人であったとき、
キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対する愛を示されました。ロマ書5:8

 出エジプト15:(1~11)19~21
 ヘブル書1:1~4(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句4:30;月)

 私たち人間は、
創造主であられる天の神、主、
「『わたしはある』という者」と名乗られる方に、反逆、対抗し、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、
自分の思いのままに歩く者、
そしてその心に計ることはいつも良くないことばかりに傾く者なのだそうです。

 けれども、そのような私たちを、
天の神、主は、廃棄処分にせず、
回復の道を備え、帰って来るよう手を差し伸べ、
呼びかけ続けていてくださるのだそうです。

 神は、その愛のゆえに、
御子である方を、人として人の世に送り、
この方を私たちすべての人間の身代わりとして、
私たちの反逆、背きの責任をこの方の上に置き、
十字架刑で処刑し、
私たちへの処罰が終わったものとしてくださっているのだそうです。

 かつて、イスラエルの民が、
奴隷とされていたエジプトを脱出した時、
天の神、主は、葦の海の水を分け、
イスラエルの民を、乾いた地を行くように向こう岸に渡らせ、
あとを追って海に入って来たエジプト王パロとその戦車隊の上に
水を流れ返らせ、
エジプト軍を全滅させられたのだそうです。

 そのとき、モーセとアロンの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンを手に取り、
女たちもみなタンバリンをもって、
踊りながら出て来て、歌ったのだそうです。

 「主に向かって歌え。
主は輝かしくも勝利を収められた。
馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた」(出エジプト15:19~21)、と。

 神は、昔は、預言者たちを通して、多くの部分に分け、
また、いろいろな方法で語られました。
しかし、この終りの時には、御子によって語られているのだそうです。

 〔父である神〕は、御子を万物の相続者とし、
また御子によって世界を造られました。
御子は神の栄光の輝き、
また神の本質の完全な現れであり、
その力あるみことばによって万物を保っておられる方。

 また、私たちの罪のきよめを成し遂げて、
すぐれて高い所の大能者の右の座に着いておられる方。

 御子は、天使たちよりもさらにすぐれた御名を相続され、
それだけ、天使たちよりもまさるものとなっておられる方、
なのだそうです(ヘブル1:1~4)。

 この方が、私たちの救い主、キリストとなってくださり、
大祭司、また、私たちの弁護人として、
〔父である神〕に執り成し、
また、サタンの告訴に対して、
ご自身が受けてくださった身代わりの処刑でもって、
弁護していてくださるのだそうです。

 それで、私たちも歌うのですね。モーセのように。
「主に向かって私は歌おう。
主は輝かしくも勝利を収められた。
主は、私の力であり、ほめ歌である。
主は、私の救いとなられた。
この方こそ、わたしの神。
私はこの方をほめたたえ、あがめる。

 主よ。神々のうち、だれがあなたのような方があるでしょうか。
だれがあなたのように聖であって力強く、
たたえられつつ恐れられ、
奇しいわざを行うことができましょうか」(出エジプト15:1~11、新改訳)、と。

私たちも。
今日も。

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勇気をもらえるのだそうです。すでに世に勝っている方から。

2018-04-29 08:18:39 | 聖書から

 新しい歌を主に向かって歌え、
主は驚くべき御業を成し遂げられた。詩98:1(4/29の週の聖句)

 私はあなたのもの。
どうかお救いください。詩119:94

 イエスの言葉:
あなたがたには世で苦難がある。
しかし、勇気を出しなさい。
わたしはすでに世に勝っている。ヨハネ16:33

 マタイ11:25~30
 詩98(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句4/29;Ⅴ日曜)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たちを救おうと、
私たちのために驚くべき御業、
私たちの救いの御業を成し遂げてくださっているのだそうです。

 目が見たことのないもの、
耳が聞いたことのないもの、
人の心に思い浮かんだことのないことを(ⅠコリントⅡ:8~9、新改訳)。

 それで、人間の理性では理解できない、考えられないことだったので、
人々は、イエスを、
自分を神と等しくする、
神を冒涜する者として十字架刑で処刑してしまったのだそうです。

 「もし、おまえが神の子なら、自分を救ってみろ。
十字架から降りて来い。そうしたら信じてやる」、
「もし、神のお気に入りなら、いま救っていただくがよい」と
あざけりながら(マタイ27:39~44、新改訳)。

 イエスは言われます。
「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。
これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、
幼子たちに現してくださいました。
そうです。父よ。
これがみこころにかなったことでした。
すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。
それで、父のほかには、子を知る者がなく、
子が父を知らせようと心に定めた人のほかには、
だれも父を知る者がありません。」(マタイ11:25~29)

 それで、自分の「的外れ」の存在に気づいて、
「どうかお救いください。
あなたのものとしてください」と願っていく者を救うことができるよう、
〔父である神〕は、人となられた〔御子である神〕、イエスによって
救いの手立てを完成してくださったのだそうです(ヨハネ19:30)。

 私たち、世にあっては患難があります。
けれども、イエスは言われます。
「わたしはすでに世に勝っている」、と。

 また言われます。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、
わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:28~30)、と。

 それで、イエスに、「どうかお救いください」と願っていき、
イエスの救いの御業の中に入れていただいて、
イエスのもの、イエスにつく者としていただいた者はうたうのですね。

 新しい歌を主に歌え。
主はくすしいわざをなさった。
その右の手と、その聖なる御腕とが、
主に勝利をもたらしたのだ。

 主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
御救いを知らしめ、
その義を国々の前に現わされた。
主はイスラエルの家への
恵みと真実を覚えておられる。
地の果て果てまでもが、、みな、
われらの神の救いを見ている。

 全地よ。主に向かって叫べ。
大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。
立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。
立琴と歌の調べに合わせて。
ラッパと角笛の音に合わせて。
主である王の御前で喜び叫べ。

 海と、それに満ちてもの。
世界と、その中に住むものよ。鳴りとどろけ。
もろもろの川よ。手を打ち鳴らせ。
山々も、こぞって主の御前で喜び歌え。

 確かに、主は地をさばくために来られる。
主は義をもって世界をさばき、
公正をもって国々の民を、さばかれる(詩篇98、新改訳)、と。

 この新しい週も。

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神の御思いが、生ける神の霊によって、心に書き付けられて 

2018-04-28 09:35:46 | 聖書から
 来るべき日に
わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである。
わたしの律法を彼らの胸の中に授け、
彼らの心に記す。
わたしは彼らの神となり、
彼らはわたしの民となる。エレミヤ書31:33

 パウロの手紙:
あなたがたは、
キリストが私たちを用いて、
墨ではなく生ける神の霊によって、
石の板ではなく
人の心の板に書き付けられた手紙です。Ⅱコリント3:3

 創世紀2:1~3
 エフェソ書6:18~24(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句4/28;土)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、
来るべき日に、
彼ら
(神の呼びかけに応えようとせず、
自分の理性の善し悪しの判断のままを行き、
ついには国が滅びてバビロンの捕囚とされる)の時代の後に、
新しい契約を結んでくださるというのですね。

 あの、出エジプトのとき、
モーセをとおして結んだ契約のようではない、
新しい契約を。

 あの時は、
神の御思いを耳で聞き、石の板に書きしるし、
これを自分の力で、神と同じ思いになろうとする契約でしたが、

 新しい契約では、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって(エゼキエル36:26~27)、
〔父である神〕の御思いを、私たちの心に置き、
心に書きしるしてくださる、
心のほうから、〔父である神〕と同じ思いを持つ者にする、
という契約なのだそうです。

 パウロにとって、ギリシャのコリントの人たちが、
墨によってではなく、生ける神の霊によって、
石の板にではなく、人の心の板に書かれた手紙、推薦状であったように。

 天地創造の七日目、
天の神、主は、
こうして、六日間で、天と地とそのすべての万象を完成され、
第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられ、
なさっていたすべてのわざを休まれたのだそうです。
第七日目を祝福し、この日を聖であるとされて(創世記2:1~3)。

 けれども、最初の人アダムが、
天の神、主と心を一つにしていく場から離れ、
自分が「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって以来、
神は休むことがなかった、ということでしょうか。

 イエスは、安息日に病人をいやしたということで
律法学者やパリサイ人から責められた時、
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。
ですからわたしも働いているのです」と答えておられますから(ヨハネ5:17、新改訳)。

 神は、この、私たち人間の歴史を導き、
ご計画の時がみちたとき、
〔御子である神〕が、
〔父である神〕の御思いに従って、私たち人間の身代わりとなり、
私たちの「的外れ」、そむき、離反の責任を負って、
神に呪われたものとなり、十字架刑での処刑を受けてくださるため、
人となり、「女の子孫」(創世記3:15)として、
人間の世に来てくださったのだそうです。

 そして、およそ33歳の頃、十字架刑での処刑を受けられ、
死んで葬られ、三日目に死人のうちより新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
ご自分が生きていることを実証し、
神の国について語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、
天の父である神の右の座に帰られたのだそうです。

 それで、受け入れる者は、この、イエスに合わせていただけて、
自分自身である「生まれたときからの私」という霊を、
イエスの十字架刑で処刑されたもの、
死んだものと手続きをしていただけるのだそうです。

 そのうえで、〔父である神〕は、このイエスを通して、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、
ご自身が私たち一人一人に思っていてくださる御思いを心に置き、
心に書きしるしてくださるのだそうです。

 それで、受け入れる者は、この部分においては、
〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにする者に
していただけるのだそうです。

 私たちに、これが成ったとき、
神は、その完成(回復)を見て休まれる、ということでしょうか。

 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって私たちの心に来る
〔父である神〕の御思いは、
私たちに、すべての祈りと願いを用いて、
どんなときにも御霊によって神と話しあい、
絶えず、神と関係をもち、
すべての聖徒のためにとりなしてほしいと思っておられるのだそうです。

 語る者に、語るべき言葉が与えられ、
福音の奥義を大胆に語れるように、と。

 そして、私たちが互いに様子を知り合い、
互いに励ましを受けあっててほしいと。

 〔父である神〕と主イエス・キリストから来る、
平安と信仰に伴う愛に満たされ、
主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人が、
神から来る恵みを受け取ってほしい(エペソ6:18~24)、と。
今日も。

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あらゆる霊的な祝福で満たして

2018-04-27 08:50:09 | 聖書から
 私の魂よ、主をたたえよ。
主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。詩103:2

 私たちの主イエス・キリストの父である神は、
ほめたたえられますように。
神は、私たちをキリストにおいて、
天のあらゆる霊的な祝福で
満たしてくださいました。エフェソ書1:3

 創世記1:24~31
 エフェソ書6:10~17(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句4/27;金)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たちの、すべての咎を赦し、
私たちのすべての病をいやし、
私たちのいのちを穴から贖(あがな)い、
私たちに恵みとあわれみの冠をかぶらせ、
私たちの一生を良いもので満たされ、
私たちの若さを、鷲のように、新しくしてくださる方なのだそうです(詩篇103:3~5、新改訳)。

 私たちを〔聖である霊〕と呼ばれる方で覆い、
沈め、漬け込み、満たして、
キリストに合わせられたもの、
キリストのうちにいるものとし、
天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福して下っている方。

 私たちを世界の基の置かれる前から、
キリストの中にある者として選び、
御前で聖く、傷のない者にしようとされ、
みむねとみ心のままに、
私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、
愛をもってあらかじめ定めておられたのだそうです(エペソ1:3~5、新改訳)。

 この方は、天地創造の五日目には、
「地が、種類にしたがって、生き物を生ぜよ。
家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」、と仰せられると、
そのようになったのだそうです。

 神は、種類にしたがって野の獣、
種類にしたがって家畜を、
種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。
神はそれを見て良しとされた、と。

 このようにして、私たちの住まいとしての
地球の自然環境のすべてを整えたうえで、
第六日目に、神は仰せられたのだそうです。
「さあ、人を造ろう。
われわれのかたちとして、われわれに似せて。
彼らが海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、
地をはうすべてのものを支配(管理、統治)するように」、と。

 神は人をご自身のかたちとして創造された。
神のかたちとして彼を創造し、
男と女に彼らを創造された。
神は彼らを祝福された。
神は彼らに仰せられた。
「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。
海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配(管理、統治)せよ。」

 神は仰せられた。
「見よ。わたしは、全地の上にあって、
種を持つすべての草と、
種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。
それがあなたがたの食物となる。

 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、
いのちの息のあるもののために、
食物として、すべての緑の草を与える。」
そのようになった。
神はお造りになったすべてのものを見られた。
見よ。それは非常に良かった。
夕があり、朝があった。
第6日(創世記1:24~31)、と。

 それで、神は、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちを、主イエスにあって、その大能の力によって強められるように、
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、
神のすべての武具を身に付けるようにしてくださるのだそうです。

 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、
主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また、天にいるもろもろの悪霊に対するものなのだそうです。

 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、
また、いっさいを成し遂げて、固く立つことができるように、
神のすべての武具をとるようにしてくださるのですね。

 私たちが、しっかり立って、
腰には真理の帯を締め、
胸には正義の胸当てを着け、
足には平和の福音の備えをはくように、

 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取り、
それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができるように。

 そして、救いのかぶとをかぶらせ、
また御霊の与える剣である、
神のことばを受け取らせてくださるのだそうですから(エペソ6:10~17)。

 神をほめたたえながら、
神の祝福の御業の中に。
今日も。

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天の神、主が、共にいてくださり

2018-04-26 07:12:30 | 聖書から

 ヨセフは監獄にいた。
しかし、主がヨセフと共におられた。創世記39:20、21

 光は暗闇の中で輝いている。ヨハネ1:5

 創世記1:20~23
 エフェソ書6:5~9(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句4/26;木)

 父ヤコブの偏愛を受け、
10人の兄たちからは妬まれ、売り飛ばされ、
奴隷として、エジプトのパロの廷臣、侍従長のポティファルに買い取られたヨセフ。

 主人の妻から言い寄られ、上着を残して外に逃げたヨセフを、
主人の妻は「私にいたずらをしようとした」と主人に告げたのだそうです。
それで、主人は、怒ってヨセフを、
王の囚人が監禁されている監獄に入れたのだそうです。

 しかし、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
監獄のヨセフと共におられ、
ヨセフに恵みを施し、
監獄の長の心にかなうようにされたのだそうです。

 それで、監獄の長は、
その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手にゆだねたので、
ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになったのだそうです。
そして、やがては、エジプトの王に次ぐ、宰相の地位にまで上ることに。


 初めに、ことばがあった。
ことばは神とともにあった。
ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝てなかった。(ヨハネ1:1~5、新改訳)


 創造の五日目、
神は仰せられた。
「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ。」
神は、海の巨獣と、
種類にしたがって、水に群がるうごめくすべての生き物と、
種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。

神はそれを見て良しとされた。
神はそれらを祝福して仰せられた。
「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ。」
夕があり、朝があった。第五日(創世記1:20~23)。


 この方、ヨセフと共におられ、天地万の創造に関わられた方、
イエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
私たちと共にいて、私たちの内で輝き、闇を打ち破り、
すべてのこと、災いも益に変え、
私たちの心に〔父である神〕の御思い置いてくださり、
私たちが〔父である神〕と同じ思いで生きるようにしてくださるのだそうです。

 その思いは、奴隷たちには、
キリストに従うように、
恐れおののいて真心から地上の主人に従いたい思いであり、

 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、
キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、
人にではなく、主に仕えるように、
善意をもって仕えたい思い、なのだそうです。

 また、主人の立場にある者には、奴隷をおどすことを止め、
自分の兄弟として接するる思いなのだそうです。
彼らと自分との主が天におられ、
主は人を差別されることがないことを覚えながら(エペソ6:5~9)。
今日も。

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