The Diary of Ka2104-2

奇遇~絵画の西洋と日本

この絵、何かを思わせませんか?

私には日本の浮世絵に似ていると思われます。この絵画はピーテル・ブリューゲルの「雪中の狩人」という油彩作品です。

色彩による遠近法の無視といい、色彩による立体感の無視といい、淡泊な塗り色と淡泊な色の塗り様といい、大きな人物たちや犬たちと細かい遠景に画面を断ち切る黒一色の一本立ちの木々といい、俯瞰的でありながら人物たちの背姿から視線が流れるように画面をはうところといい、私はある時ふとこの絵を見て浮世を想起させるなと思ったのです。

ブリューゲルは1525年~30年に生まれたようで、死去の歳は確定されており1569年です。ネーデルラントの人。「西洋美術史/美術出版社」によると、ルネサンス>北方ルネサンス>ネーデルラントの項でこう記されています。「15世紀には、ネーデルラント絵画は独自の特色を発揮してイタリア絵画と並び立ち、油彩技法と、これを生かした写実的表現において、イタリアに影響を与える側であった。しかしイタリア・ルネサンスが円熟期を迎えると影響関係は逆転し、ネーデルラントの芸術家はイタリアと古典古代の美術を手本と仰ぐようになる。修業の仕上げとしてのイタリア旅行が行なわれる一方で、ルネサンスの成果は版画を通じても大量に流入した。早くも16世紀初頭、クエンティン・マセイスはレオナルド風スフマートや古代風建築モティーフを採用している。一般に世紀初頭のルネサンス受容はあくまでも末期ゴシックの文脈において行なわれたが、ヤン・ホッサールト《通称マビューズ》は古代神話の主題を古代彫刻風裸体像をもって表わし、バーレント・ファン・オルレイは数学的遠近法、短縮法、複雑な運動表現を導入した。総じて、15世紀ネーデルラント絵画の精緻で親密な様式の代わりに、古代と盛期ルネサンスの壮大な様式に倣おうとする傾向が年を追って強まるが、この傾向の推進者たち『ロマニスト』の芸術は、生気を欠いた形式主義に陥る危険を伴っていた。しかし、肖像画においては迫真の個性把握の伝統がイタリア的記念碑性と結びついて優れた作品が生まれており、この分野の代表者アントニス・モル(アントニオ・モロ)は宮廷肖像画家として国際的に活躍している」

「モルはネーデルラント北部出身だが、前世紀のネーデルラント美術がもっぱら南部のフランドルで栄えたのに対し、16世紀には北部でも美術活動が盛んとなる。リュカス・ファン・レイデンはデューラーの影響を消化しつつ、精緻な銅版画を制作した。また、ヤン・ファン・スコーレルが1524年にローマからユトレヒトに戻って以来、北部にも『ロマニスト』が輩出する。16世紀後半には宗教的・政治的騒乱が美術の興隆を妨げ、プロテスタントの聖像破壊運動で失われた作品も多いが、16世紀末に至りコルネリスやホルツィウスらの活動で、ハールレムがプラハと並ぶ国際マニエリスムの中心となった」

「15世紀ネーデルラントの宗教画に含まれていた風俗画、風景画、静物画の萌芽が自立に向かうのも、イタリア化と並ぶ16世紀ネーデルラント美術のもうひとつの特色である。ともに聖書の主題を扱いながら、ファン・へメッセンは事実上の風俗画を描き、アールツェンは画中の静物画的要素に格段の重要性を与えた。パティニールは16世紀初頭、従来の宗教画と人物の背景の関係を逆転させ、観察と空想から合成された俯瞰構図の風景のなかに、宗教主題に由来する人物を点景として表わした。アントヴェルペン(アントワープ)とブリュッセルで活動したピーテル・ブリューゲルは、風景画と風俗画の展開にさらに決定的な一歩をしるして後世に多大な影響を及ぼした。彼はイタリアに旅した後、風景版画や宗教・教訓版画の下絵素描家となる。当時の風景にはアルプスの印象が生かされており、人物にはボッスの影響が見られる。やがて油彩画に移り、ネーデルラントの諺や習俗、聖書の主題などを、俯瞰された地面に多数の人物を撒き散らす、彼の版画と共通の形式で表わした。中期の『月暦画連作』(このうちに「雪中の狩人」もある)では、中世以来の月暦画の伝統とパティニールのパノラマ風景の延長上に、構想の雄大さと画中世界の現実感において比類のない風景表現を実現している。晩年は独自のイタリア・ルネサンス理解を反映する大きく堂々たる人物と簡潔で力強い構図で、農民風俗画や寓意画を制作した。ブリューゲルはかつて彼自身農民と見なされていたが、実際には知識人サークルに属していたことが明らかになっている。その作品の寓意性については現在も多様な意見がある」

浮世絵は江戸時代(17世紀から19世紀)を通して隆盛した版画として肉筆浮世絵よりその名が知られています。

ネーデルラントはオランダのことで、17世紀にアムステルダムをはじめとするオランダの諸都市が貿易・海運業で世界経済をリードし、鎖国時代の日本も西欧では唯一このオランダとだけは接触を続けていたということは、史実として多くの日本人に知られています。

・・・・ではこれらの相似はどうなのかというと。

総合勘案して、この類似は奇遇でしかないと思いますよ。ブリューゲルのその1点だけとあまたある名浮世絵、俗浮世絵を突き合わせてもなんとも致し方ないじゃありませんか。日本に感化された西洋美術が登場するのは、やはり印象派以降みたいです。逆を紐解くのも面白いかもしれませんが、迷い子になるだけでしょう。


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