脚の関節が悪う御座いまして、今日は出掛けで地下鉄の乗り換えを数度繰り返していますと、複数の路線が乗り合わせている駅ばかりですので、歩くに歩くで、帰った今自宅でへとへとになっております。
赴いた先は開館して間もない大阪中之島美術館でのモディリアーニ展の鑑賞で御座います。それで皆さんにお伝えしたく早々に筆を運んでいる次第であります。
上に挙げた画像はそこの近くの川とマンションだかの植え込みです。植物は匍匐性(ほふくせい)コニファーと初雪かづらが取り合わせで植え込まれた姿です。私はきれいだと感じました。川は何という川なのか又その上にかかる橋は何というのか全く存じ上げません。ここいらは川だか運河だかが交錯しておりまして、北区という大阪市の北側で瀟洒(しょうしゃ)なところなのですが、西は福島という露地に粋で小振りな飲食店がたんと集まっている界隈へ通じていますし、中央の企業群や天満という下町へも通じており、市内というもの便利なのだかややこしいのだかなんとも申し上げづろう御座います。
モディリアーニの作品。彼固有とみなされている代表作の肖像画群。その抜け殻と云ってもよさそうな人物描出に、なぜかくも実在感が宿っているのか、魂を、息吹きを、我々はどのようにそこに見出しているのか、そういう驚異的なものに対する不思議が私にはありました。
私の目はひと作品ひと作品巡って行く度に肖像人物の空(から)の目に吸い寄せられるように最終的にはそこに落ち着いていっていました。
モディリアーニを見ている私を私はわかりました。空(から)の目はむしろこちらに感情移入させ同時に共感をも喚起させます。たとえば同情心や憐れみを感じます。たとえば絵の中の彼や彼女にこちらはなれますし、彼や彼女から見える視界もうかがい知れるようなのです。そこには観る者各自が持っている自己否定が鏡写しのように写っていて、その弱さから来る世界もまた垣間見えるのです。周囲も取り巻きます。そんな中にあって、肖像画の人物たちは観る者の加勢を得て実在感をしっかと醸し出すのでしょう。私はなんだかすっと腑に落ち、ますます肖像画の人物たちに好感をもつのでした。
私は又この展覧会で、パウレやヤウレと呼ばれる民族、はたまたグロと呼ばれる民族のつくる仮面を、大阪府吹田市にある国立民族学博物館出典で目にすることとなりました。
長細い顔に尖った顎、長い鼻梁はただそれだけでなく立方を成している・・・まるでモディリアーニの肖像画ではありませんか。彼がこれらをもし見ていたのなら、彼はこれらにダイレクトに影響を受けていると云われても過言ではありません。真相どうなのでしょうか。展覧会カタログやものの本には言及されていることでしょう。
ですが私にはどちらでも構わず同じことです。私は以前より一層モディリアーニの肖像人物たちを愛らしく見るようになったのですから。
この展覧会ですが、協賛としてNISSHAという企業が参加してますが、もう何十年も前になりますこと、私はこの企業の大阪支社で働いていたこと御座いましてそれで知っているのですが、この社はブラック企業ですよ。人の前で何やかやと芝居をし続け、あげく、人を一人の個室に閉じ込めて働かせておりました。