編集抜粋元:雑誌Fielder/vol.60/2021年12月5日発行/笠倉出版社
戦場で、自動車のバックに武器を戴き、兵器へと改装される日本車。性能がいいからだ。ここで取り上げる一例の時と場所は、そしてその背景とはどういったものか。彼こと取材の戦場ジャーナリストは横田徹氏。
2011年7月。日本の海運会社「イースタン・カーライナー社」の自動車運搬船シェン・シー号を近くで見上げると、まるで複合商業施設の立体駐車場くらい巨大だ。そこへ中古車が手際良く続々と積み込まれていく。その大多数は日本メーカーの乗用車やSUVだが、中にはバブル時代に六本木辺りでこれ見よがしにクラクションをやたらと鳴らしていただろうメルセデスベンツ、永久凍土に埋もれたマンモスのように北関東の納屋に眠っていたと思われるシボレー・カマロ、そして工事現場で使われる日本製の重機など多岐に渡る。4000台以上の車を満載、横浜港を出港したシェン・シー号が向かうのはUAE、イラク、イラン・・・。ペルシャ湾岸の国々で荷下ろしされる。
折しもアラブの春をきっかけに中東各地に飛び火していた革命によりカダフィ軍と反政府軍である国民評議会の戦闘が激化していた。
4日後、ドバイの港に接岸したシェン・シー号は荷下ろしを始める。船内から続々と吐き出されるように車が降ろされる。彼はリビアへと向かった。
ミスラタは首都トリポリから東に約200キロに位置するリビア第3の都市だ。そこでの光景はといえば、激しい戦闘で破壊された建物や、NATOの攻撃機により大破したカダフィ軍のTー72戦車の屍があちこちに放置されている。ミスラタはその頃までリビアでも特に激しい戦闘が行なわれていた激戦地だった。
市内のメインストリートのトリポリ通りには国民評議会の民兵が運転するトヨタ・ランドクルーザーのピックアップトラックがひっきりなしに走っている。荷台にはロシア製と思われる対空機関砲が。別のランドクルーザーには旧ソ連時代から使われるDShk38重機関銃が装備されていた。民兵の使う兵器の多くは敗走したカダフィ軍から鹵獲(ろかく:敵の軍用品などを奪い取ること。また、そうして奪い取った品物のこと)したもの。世界中から信頼されている日本車と操作が簡単な旧ソ連製の武器を組み合わせた、この壊れにくく安価なハイブリッド戦闘車は、「テクニカル」と呼ばれている。
テクニカルが戦場で使われ始めたのは1980年代のチャド内戦だといわれている。テクニカルのベース車両に使われていたのがトヨタ車だったことから、この内戦は「トヨタ戦争」とも呼ばれた。
無論ここ以外の様々な戦場で日本製の市販車が戦闘で使われていた。アフガニスタンのタリバンはトヨタ・ハイラックスを愛用していたし、ソマリアの民兵は日本車ベースのテクニカルと対戦車ロケット砲を駆使してアメリカ軍を苦しめた。しかしながら、リビアのテクニカルはそれらを凌駕するものだった。古代ローマの剣闘士をイメージしたと思われる鉄仮面をフロント部にこしらえたものや、戦闘ヘリコプター専用のロケット・ランチャーを強引にトラックの荷台に取り付けたものなど、設計、性能、安全性のすべてが常軌を逸している。
戦闘はミスラタより西のダフニヤで行なわれていて、テクニカルはみな西へと向かっていく。彼もダフニヤに赴き、着いたその場で見たものは、数キロ先の林の中からの昇り行く黒煙だった。彼はついに最前線に来たと実感した。するとドーン!という爆破音が響き、黒煙が上がった。カダフィ軍の戦車がNATOの攻撃機の餌食になったと思われる。彼を乗せたトライトンのドライバーは更に先へと進む。前方に50台ほどのテクニカルが。これではまるでテクニカルのオートサロンだ。怒り狂っている表情の指揮官とおぼしき中年の男を前にして車は止まり、ドライバーはそこにあったテントへ彼を押し入れた。
やがてドライバーが彼が入っているテントにやって来て、「行くぞ!」と声を掛けたのを機に彼がテントから出ると、民兵がトライトンの荷台に登り、ロケット・ランチャーの発射準備を行なっていた。彼が乗せてもらっていたのも改造車兵器だった。民兵は砲身を抱えて、ヨイショと持ち上げ、角度の調整をしている。ランチャーから伸びたコードの先端には発射スイッチボタンが4つあるだけのシンプルな構造。スイッチを持つのはドライバーだ。ドライバーはすかさずスイッチをポチッとした。ランチャーの横にいた彼の周囲が砂埃と白煙に包まれて強烈な爆風と共に小石が散弾のように全身を襲った。ランチャーと車が爆発したと思うほどの衝撃。トライトンを見ると、ランチャーは無事でロケット砲はおそらく西の方角へ飛んでいったようだ。ドライバーが運転席に乗り込んでトライトンを50mほど横に移動させ、今度はランチャーから離れてスイッチを持った。そうすると今度はロケット弾が火を吹きながら発射された。更に彼らは車を20分ほど離れた場所に移動。そこでも2発のロケット弾が発射される。
こうしてひと仕事終えた民兵はトライトンに乗り込むとなんと家路につくという。戦時中の正規軍ならあり得ない自由な行動だ。親切な民兵は彼をトライトンでミスラタ市内のホテルまで送り届けてくれ、埃まみれでテクニカルから降りてきた彼を見た若い女性従業員は「お帰りなさい」と微笑みながら出迎えた。
ホテルロビーのラウンジにあるテレビでは映画「コマンドー」が流れていた。リビアでは「狂気」はいたるところにあった。
その後、国民評議会は8月23日にトリポリを陥落させ、10月20日に最高指導者カダフィを殺害。40年以上に及ぶ独裁政権に終止符が打たれた。
中東、特に内戦が長引き、テロが絶えないシリア、イラクでは、市販車を軍用に改造したテクニカルが政府軍、反政府武装勢力の双方にとって戦場の頼れる相棒として欠かせないものだった。
シリアでは民主化デモをきっかけにアサド政権が軍を使ってデモを弾圧すると、暴力の連鎖により国土を荒廃させるまでの内戦に突入した。権力の空白地帯が生まれれば様々な反政府勢力が生まれ、凶暴なスンニ派イラク人を中心とする「ISIS」もその1つだった。その後、外国人の参加により勢力は拡大する。その者たちは破竹の勢いでシリア北部のクルド人地区を占領し、ついには国境を越えてイラクにまで侵攻すると、イラク第2の大都市、モスルを陥落させて「イスラム国」の建国を宣言するに至る。
2015年以降、彼はイスラム国と戦うイラク政府軍、クルド自治政府の軍事組織「ペシュメルガ」、クルド労働者党の「PKK」などに従軍取材す。イスラム国に占拠されたシリア国境に近いシンジャールではクルド人部隊との間で壮絶な市街戦があり、さらにはアメリカ軍、フランス軍による空爆もあって街は無人の廃墟と化すのを彼は目にする。そしてPKKの部隊と共に瓦礫しかない市街地へ。街の地下にはイスラム国によってトンネル網が構築されており、街の中を自由自在に移動できて、空爆にも耐えられる強度だった。仕掛け爆弾があちこちに残る商店街の一角には空爆で焼死したと思われる半分炭化したイスラム国兵士が放置されており、市街地から敗走したイスラム国の部隊は10キロほど南下した地域に防衛線を築いて、しぶとく抵抗を続けている。
最前線ではペシュメルガが塹壕を掘って、イスラム国と対峙していた。そこにはアメリカ製のハンヴィー装甲車と並んでランドクルーザーをベースにDShk38重機関銃を装備したテクニカルがあった。さすがにリビアの民兵とは違い、奇怪な装甲や手作りロケット・ランチャーは見かけないことから、クルド人部隊の軍事組織としての練度がうかがい知れた。そうして最前線を案内してもらっていると、日野のトラックが停めてあるのを発見。フロントガラスには丁寧に日本から輸出される際に貼られた日本語記載の証明書が確認でき、「仕向地イラク」と記載してある。横浜港で見た重機にも同じ証明書が貼られていたのだ。荷台には彼が今まで見た中で一番巨大な機関砲が備えてある。旧ソ連製のZUー23ー2対空砲。まるでこの対空砲のために作られたかのようにトラックの荷台にピッタリとフィットしている。銃座に座った兵士に、彼が日本から来たと挨拶すると、「日本の車はとても良い!」と兵士から褒められるが、言葉に詰まって、「ありがとう」とだけ彼は答えた。
このトラックは約5キロ先のイスラム国の陣地に向けて砲身を水平にし、いつでも撃てる状態で待機しているという。ヘリコプターなどに対して使う23mmの対空砲は対人というより、おそらく爆弾を満載した自爆車両に対して使うのだろう。イスラム国は装甲を施した車にプロパンガスタンクなどを使用した手製の爆弾を何本も積載して、猛スピードで体当たり攻撃を仕掛ける。時にはバスを使うこともあり、その威力はビルをも崩壊する。いわばこの戦場では、「日本車ベースの自爆車両VS対空砲で迎え撃つ日野のトラック」、「イスラム国のハイラックスVSペシュメルガのランドクルーザー」などといった構図が成り立っているのだ。
・・・・このような場所で繰り広げられる日本車同士の戦いに、同じ日本人の彼としてはいたたまれない思いだが、これが現実であり、そしてあくまでも戦場で人を殺すのは武器ではなくそれを使う人間なのだ、と彼は自分に言い聞かせた。・・・・