私自らの危機感から考察してみました。
この文章は私と同じ世代の50代を中心に40代から60代向けに書いています。
序)孤独の循環から認知症へ
「さみしい」は一種の精神障害であり、うつに似ていて、何も手をつけられなくなり、身体がよそから見ればものぐさのように動かなくなってきます。身体の保清もおざなりになるどころか、摂食にも問題が生じてきます。すなわちまぎらわす為の代替行為の食べ過ぎによる肥満か何も口にする気が出てこず痩せていくか。肥満も痩せすぎも更に身体が動かしづらくなるのでやがては心身共々疲弊していきます。脳が疲弊してくるとやがては脳機能障害を引き起こします。物忘れ、物覚えが悪い、日常生活で今まで繰り返してきた事々が寸断され生活リズムが壊れ時の概念やひとつひとつの行為に対する感覚機能が鈍麻してきます。彼あるいは彼女は個々が躍動している社会の一端である街へと出ても、その人は鈍麻世界を体ごと引き連れて歩いていることになり、もう外出の効果もなく社会との親和性がはかれません。その人はある日ある時ふと気付きます、涙がぽろりぽろりと溢れてきて「孤立」を認識するのです。その人はそれから孤立の認識の上、更に厳しい孤独な生活を送ることになります。孤独は認知症にとって格好の餌食です。その人は薄らいでゆく知的活動のただ中、脳に隙間をいっぱい有していくことになります。スポンジ状態です。この状態が認知症前をもたらします。脳は複雑ですが、たくさんある隙間の中でもとりわけ人間の営みに必須な機能がその数々ある隙間の内幾つかを占めていましたので、それら必須の機能である認知機能の隙間もどんどん膨らみやがては拡大していくばかりの穴となります。この時点にまで至るともう立派な認知症に等しいあなたへと恐ろしいことに陥っていることになります。あなたは自己不信と自己矜持との狭間でもがき苦しみます。また孤独です。一層の孤独です。この悪循環を何度かめぐっていくうち、あなたは完全に認知症となるのをその折りあなたは認識していません。なぜならもはやあなたは完全に認知症だからです。
内訳)孤独上の諸々の問題へ明るい光を
我々40~60代にとって集団行動ならいやという程繰り返してきた常習であります。もう心いためてまで不快や不愉快な人との社交はやめにして、ひととの交流の何たるかその原点に立ち返った方が良いかと思われます。その原点とは自分と気心の知れたひととのおしゃべりにあります。おしゃべりが認知症にとりその予防的観点からなぜに良い選択肢であるかをこれから探って参りましょう。
まず物を食べる咀嚼と同じで顎を使うことが脳を刺激します。では物を食べ続ければ良いかというとそれは論を待ちません。おしゃべりは余分な物を採らず空気振動だけ使いそれにはお金がかかりません。
次に発声のもたらす効果です。おしゃべりすることでいつの間にか気分良く脳を働かせ身体の呼吸のように活性化させます。会話することで風を吹き込むように記憶や記憶力を保持し、嫌なことは吐き出しの効果で記憶から削除し脳を刷新することができます。もう一度繰り返しますが、おしゃべりの基本は大人しくてもボリュームが大きくても、発話、つまり発声にあり、私などはこれに限れば月2で声量を持った声楽をしていますけれども、これは芸術であって双方向の言葉の決まっていないおしゃべりにあらず、やはりおしゃべりの中での発声は性質を異にする抗認知症に良い特質があろうかと思います。それを具体的に言うと、動物的本能に行き着き、ひとも一人では生きられないという不可避のコミュニケーションにひとの発声は根づき紐付けされているように思います。それだからひとには寂しいという感情が脳に常時格納されてるのだと思います。
笑いの効果。笑顔はするのも見るにつけても気持ちのいいものですよね。一緒にいて居心地のいいひととおしゃべりしているとなぜだか笑いが自然とこぼれ出ます。テレビを見るのとは違い、そこには2人だけの秘匿性と逆説的に精神の解放があるからで、この笑いは萎縮していくばかりの脳にストレス緩和で余地というものをもたらします。新しい知識や経験も受け入れ易くなり脳の退行を防ぐ手段となります。友人にも言えない至極パーソナルな事柄はともかく、会話の中でいつも色々なことをあけすけに話していると、メリハリがつき、脳に鮮明に事々が刻印されます。物忘れも呆けも生じません。
若返り、脳本体から若さを維持するということ。思うに老齢期になって、おや若返りかなと自他ともに感じたりすることがあります。若さの保持は認知症に相容れません。認知症の予防は若さの維持にあるともいえます。たとえば健康寿命ならぬ健康年齢を頭に思い描くとよろしい。あの人お歳より老けてるわねとかあの方50代だのに場合によっちゃあ30代にもお見受けしますよだとか、世間では口さがなくいろいろ囁かれますが、じゃあどうすれば若さを獲得できるのでしょうか?ここでもアンチ認知症すなわちアンチ孤独の脈絡で考えてみましょう。私には幻声があり、それはひどく脳を衰弱させる強制労働みたいなもので若返りとは裏腹のものです。ここで幻声は内に籠もり陰々滅々でございます。外発的なものが他の人より多分に要ります。それが間違いなく友だち作りであり、親和なコミュニケーションというものでありましょう。嘘だとお思いなら閉塞サークルにあなたも囲い込まればよいのです、決められた仲間と同じフィールド内に居るのは見世物たる動物園でだけ人間の都合でよしとされるに留まります。この答えは想像を利かせるだけで十分なように思われます。檻の中の人間は必ず死ぬ。
中熟年における、物思い・思考VS友だちとのおしゃべり。私のような50代はもう色々な経験を積んできて考えることも山ほど乗り越えてきました。そういう観点からみると、物思うひとはこれから先も物思うだろうし、日頃からあまり思考してこなかったひとはもう何も考えなくなりましょう。では物思うひとの思考と相手あってのおしゃべりを突き合わせてみようではありませんか。結論から言うと、思考に研鑽あるひとはもはやあまり考えない方がよろしく思います。それでは脳トレがあるくらいなのだからボケてくるのではと思われる向きもあろうかと思います。けれども物思うひとは物思うのであり、それ以上は友人との交流の方が余程脳を酷使せず自然活性化するのではと私は推測しますし、信じも受け入れられます。信じるにはそれだけのバックアップがあるからで、50代から同世代に向けて説明するたぐいのことではありません。精神年齢が実年齢に合っている場合という但し書きがつきますが。
お茶やお酒、サウナやキャンプを道連れに、ここ重要なのですが、昔日の面影を探し求めるのではなしに、昨今から未来まで、そこに過去がたまさか絡めば過去の吐き出しをしても構わず、要するに今という時をときめきながらおしゃべりし合えるなら、脳が先祖返りすることもなく歳とってなお先進していくだろうと思うのです。進歩はその意味で歳を選ばない。やがてきたる高齢期に入っても認知症とは縁遠いでしょう。
それでは孤独を解消する相手はどうやって見つかるのか?なにしろ私自身ずっと社交はあれどずっと孤独で、あたかも運命であるかのように装った周囲がそこには居続けています。
それに対する答えは、宇宙はいくつもあり、それらを包含するより大きな宇宙があり、そのより大きな宇宙もまたいくつもあり、それらを包含するずっと大きな宇宙がこれまたいくつもあり、このミクロの世界はどこまで続くのかといった疑問に答える如く、私には難しくありますけれども、ここで自分へ向けて皆さんへ向けて渇を入れて答えの代わりと致したく存じます:
「中熟年ともなると、会社や組織以外に寄る辺もない、ひとの胸を借りるぐらいのつもりで、どこぞへなり、赴くがいい!孤独は魔物の格好の餌食なるぞ、同胞たちよ!ただし、こと私に関して、焼き肉食べ放題は一心不乱なんだ、声楽家はお肉をとにかく喰わねばならん、普段は豚肉100グラムぐらい、友だちの出番はないわい、それは悪いけど一人で行っとくれ!」