瀬戸の都通り商工振興会

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【ぼくらの街探検】子供たちに大人気!扇町の路地裏アート!!

2025-01-14 10:51:43 | 旅行

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<扇町の路地裏アート>

瀬戸の都通りに 子供たちのみならず、おとなにも大うけ、

一言でいうと「癒される廃材アート作品」を作っておられる

松川暿説(まつかわよしのぶ)さん88歳がいらっしゃいます。

 

奥様と2人3脚で八百屋さんを営んでいた松川さんは

2005年直腸がんで余命3年と宣告され、

痛みを紛らわすために何かに没頭したいと作り始めた。

 

捨てられるだけの廃材の発泡スチロールや段ボールから

見ている人が笑顔になるアート作品を作っている。

 

学校帰りのこどもたちの笑顔を見るのが一番うれしいとの事。

痛みをこらえながらも手作業に力が入る。

 

「おかげで元気をもらっています」と言いながら

ご活躍されておられる松川さんの作品がたくさん並ぶ。

 

写真は2025年1月の私設みんなの広場は

(楽しく見れる空間となってます)

路地側に曲がれば自宅兼作業場。

 

みんなの広場にて

 

⇧発泡スチロール他で手作りのバス停のポールには毎日日付を入れ替えている。

 

 

自宅工房にて

⇩お笑いトリオ「ハナコ」さん出演の番組にも作品が登場

 

  

まだまだ紹介しきれておりませんが、自宅工房前に動く作品とかあれこれあります。

日々変化もしてますので楽しめますよ!!

 

おっちゃん からだ めがんよう うまげなもん ようけ こっさえてーたー ほんだらのー

(讃岐弁訳 おじさん お身体壊さないように 立派な作品を たくさん 作ってくださいね では失礼します)

 

 


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20数年前から使用していた「瀬戸の都通り標識」

2024-11-10 10:31:07 | 日記

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20数年まえの当商店会の標識があります。

設置は当商店会の3代前の松本会長時代。

今でも当商店会の松本電機前にあります。

お近くへお越しの折は探してみてください。

久々にHPの「メインロゴ」として登場しました。

 

 


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みんなで作ろう素敵な街を・・・瀬戸の都通り商工振興会イメージソング

2024-11-08 15:54:19 | 日記

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瀬戸の都通り商工振興会イメージソング

          手作りソング作詞作曲 てっちゃん

 

ここは、さぬき高松 みんなが集まる 商店街

 

明るい瀬戸の日差しを浴びて 弾んだ心のお付き合い

あなたとわたし 君と僕 笑顔はじけます商店街

 

こんにちはこんにちはと 弾んだ声で呼びかけて

こんにちはこんにちはと こだまする

 

いつも楽しい声がする、どこかであなたを待っている

紹介しますう-ふ-ふ 僕らの街のお-ほ-ほ

とってもちっちゃな とっても素敵な 商店街

 

ここは、さぬき高松 みんなで作ろう素敵な街を

ら-ら-ら 瀬戸の都通り商工振興会 来てねぇ~

 

~ただいま作成中~

楽し~くて心温まるイメージソングになるよう

「作りょるけん ちょっとこま 待ってーたぁー」

(讃岐弁訳 作っておりますので 少々 お待ちください)

ほっと一息の清涼剤になれるような・・・(心からの希望です);

 

 


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【ぼくらの街探検】香川県立視覚支援学校(旧盲学校)の東側付近に初代高松駅があった!

2024-11-07 15:58:22 | 歴史

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昔、香川県や高松市のはじまりに関係したたいせつな場所がありました。

高松の文明開化発祥の地?!とも言える初代髙松駅が瀬戸の都通り商工会のある扇町にありました。

 

今のコープ香川扇町店南東の道路側あたりから香川県立視覚支援学校(旧県立盲学校)方向

東北東を望む (右旅客ターミナルと左貨物ターミナルの間に真行寺が見えている 商店会調べ)

⇧明治30年ごろのイメージ図 建物配置のコメント入り

 

(⇦参考元 初代高松駅 四国鉄道OB会資料より)

 

香川県立視覚支援学校の東側付近に初代高松駅があった!

明治5年 東京新橋、横浜間に 日本で最初の鉄道が開通してから
25年後の明治30年(1897年)、高松に最初の汽車が走りました。

 

初代髙松駅は、扇町にある今の香川県立視覚支援学校(旧盲学校)の東側付近に出来ました。

ぼくらの町に高松で最初に汽車が走った高松駅がありました!

 

当時はこの駅でおりて、人力車にのって今のサンポートあたりの港まで行って、船にのって岡山まで行っていたそうです。

高松市の発展につれ、明治43年(1910年)、宇高航路(宇高連絡船)運航開始して、2代目高松駅は港の近くへ移っていきました。

 

その後、高松市は「四国の玄関」と呼ばれて、ますます発展していきました。

今の高松駅で4代目になります。

 

<僕らの街のミステリー?!>歴鉄の方必見です!

この初代高松駅の場所、どんな建物だったかなど?多くの事は地元でもわからないことだらけで年月の中で忘れかけておりました。

 

地元で少しづつわかってきている事を含めご案内できればと思っています。

ご案内はあくまで地元で知り得た情報で当商店会の客観的な推測による見解にて書いております。もっと詳しい事はご専門家の先生にお話をお聞きになってください。

 

初代髙松駅の今になってもまだわかっていない事をご案内します!

 まだまだミステリーです!!

 

①高松の初代髙松駅の正面の写真が見つかっていない!!

 当商店会の調べでは、ホーム側の写真、絵図からわかる屋根の尾根等からわかる構造からは琴平駅の初代、2代目と同じ構造の1階建て木造構造となっています。

琴平駅の正面図は、1代目から3代目駅舎まですべてわかっています。

また、1代目か2代目かの間口が分かる簡単な設計図と思われる図面が残っていますので、基本的には琴平駅と同系の正面サファードだったと推測されます。

 

2代目高松駅の火災により多くの古い書類関係が焼失してしまったと言われています。

初代髙松駅の正面の写真をどなたかお持ちでしょうか?歴史的にすごいお宝ですよ!!

  

②高松の初代髙松駅の正確な位置

上記の絵図の元資料やウィキペディアの駅舎の南側からみた写真や西宝町の山の中腹から撮った写真等からだいたいの位置が測り出せる事が可能ではないかと思われます。

 

測量できる方で、もしご興味のある方はボランティアでお仲間になっていただけましたら幸いです。

初代髙松駅の位置を測量してみませんか?

 

③最初の絵図にある、駅舎の南西にあるポール上にある標識は2系統の信号ではないか? 

プラットホーム別の出発、到着案内標識として使用したと考えると左右で2つあるので、高松駅には2番ホームがあった可能性があるのではないでしょうか

 

*この標識がわかる方がいらっしゃったらご連絡をお願いします。

1番ホームの北側に2番ホームがあった?(ホーム番号は仮)

 

④規模は小さいものの陸上と海上交通との連携計画があった。

当初 初代高松駅北側に船が接岸できる運河を作ろうとしていた。

陸上と海上交通との連携計画は、西浜港から駅の北側まで運河を作る計画であったが、途中まで掘削したところ、近隣の井水が枯渇して中止になった。(香川新報による)

*中止になったほかの理由があるとすれば、当時の西浜港の規模と、近くの川からの流砂の影響もあったと思われます。

 

これらの事を考慮すると計画では貨物ターミナルの位置が旅客ターミナル駅舎のすぐ西側でなく、海上輸送も考え、北側にずれていた可能性もあった

 

⑤旅客ターミナルと貨物ターミナルの間にお寺(真行寺)が見える位置になるには、上記の絵図(元絵図)で絵図を描いた場所が、ウィキペディアでの初代髙松駅の写真を写した場所より、西側から描いたと推測され、西南西からの位置から描いたと推測できます。 

 

(⇦参元 ウィキ ペディア 駅舎の南側から写した写真)

ウィキペディアでの初代髙松駅の写真は駅舎の南西側から写しているのですが、写真には実は克軍寺から北東に伸びる道が写っています。左下から駅の敷地へ延びた道がそれです。

  (ウィキペディアの駅舎の南側から写した写真の左側、貨物ターミナル部分を拡大)

 その道の先に貨物ターミナルが写っていて、元々その道の先は、現在の視覚支援学校の東北側にある私有駐車場の南西角に続いていたことがわかっております。

 

 また当時の古地図に、西宝町の万日の墓地から現在の視覚支援学校の東北側にある私有駐車場の南西部に続いている道があったが、絵図の方はその道の延長に近い角度から見える風景を描いたと思われます。(この道は一部現在も残っている)

 上記の絵図(元絵図)は、右端に給水棟が描かれており、給水棟の西側から描いた絵図です。

ウィキペディアでの初代髙松駅の写真は 初代高松駅の敷地の南部にあります給水棟(仮称)が写っていませんので、給水棟の東側から北東を写した写真と推測されます

 

⑥ウィキペディアでの初代髙松駅の写真に駅舎の旅客ターミナルが写っていますが、その後ろ側に別の建物の屋根の東西の尾根が写っています。

この屋根は後ろ側に写り込んだ別の建物だった?!

(ウィキペディアの駅舎の南側から写した写真の右側、旅客ターミナル部分を拡大)

ウィキペディアの建物の屋根の東西の尾根は常福寺とわかる写真があります。

⇧初代香川県立視覚支援学校(旧盲学校)後方に常福寺の東西の尾根と鬼瓦が写っているウィキペディアの写真とほぼ同じ位置角度から写した写真と考えられる。

(記念絵葉書に写る大正13年盲学校新築当時の写真にコメントを入れました)

 

この写真でもわかるように高松空襲以前は屋根の尾根が東西だった常福寺が同じような角度で写っている

 

空襲で焼失して後、再建し常福寺の屋根の向きは真行寺と同じ南北の尾根になったと常福寺で確認済みです。

  

整理しますと、当時の真行寺と常福寺の位置関係と屋根の向きは、尾根の向きが南北の真行寺

その西隣に尾根の向きが東西の常福寺があり、2寺は東西に並んでいた。

尾根の向きが東西と南北の別々なので、位置関係がわかりやすくなってくると思います。  

 

以上のことから、絵図に描かれたお寺は、真行寺ウィキペディアでの初代髙松駅の写真より給水塔を挟んだ、西側からの角度で描かれたと推測できます

 

PS .絵図をよく見てみると、後世に記録を残すために書かれたと思われるほど、実際に忠実に描かれているように思います。

給水棟の上部のタンク(桶)から水がしたたり落ちている状態を描いたり、機関車の汽笛が鳴っているのがわかるように蒸気が出ていたりしています。

その割にといえば、真行寺の描き方が、ほかとタッチが違うようにも見えます?気のせいかもしれません・・・。また、お寺より高いりっぱないちょうの木をなぜ描かなかったのか?もミステリーです。

 

今までに多くの方々から、資料やお話をいただいてご協力をいただいております。

今から130年近く前の出来事です、地元の歴史を忘れてしまわぬうちに書いとかないと、本当にわからなくなってしまうのではとの思いです。乱文お許しください。

 

 

 

 


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【ぼくらのまち探検】幕末の出来事、高松藩倒幕の官軍が真行寺に本陣を置いた

2024-10-29 07:23:46 | 歴史

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高松藩倒幕の官軍が扇町の真行寺に本陣を置いた

 

新番丁小学校校区内にある地区のランドマークと言えば、扇町の真行寺のいちょうの木。何百年と高松の歴史を見てきたことでしょう。

秋の真行寺風景

 

 時は江戸時代末期1868年慶応4年1月20日 土佐藩板垣退助を参謀として高松藩倒幕官軍が進駐して、現在の扇町真行寺に本陣を置きました。

 

高松の歴史の中で最大の危機と言ってもよい、その争い事を回避することが出来た場所が、真行寺。歴史は争わない方に進んで行きました。

進駐軍は、高松藩降参のため、大きな争いとはならず、約1ヵ月余りで軍を退きました。

 

絶体絶命の高松、もし争いになっていたら高松は焼け野原、城は炎上となっていたかも知れません。

高松藩は時の将軍徳川慶喜公を輩出した水戸藩の重要な血縁支藩でしたから、その後の江戸城無血開城や、明治維新をスムーズに迎えることが出来たのでしょうか? 

 

真行寺は住宅街の中 静かな佇みの中にあります。

当時の高松の人たちの思いはいかにあったでしょうか、大きないちょうの木の下で、過ぎ去った時代の出来事に思いをはせてみてはいかがでしょう?

 

 

⇧真行寺にある高松市教育委員会の立て看板と後側いちょうの木

 

この出来事以降、高松は明治時代と言う新しい時代を迎え、高松市、香川県の新しい時代が始まって行きます。

商店街のある扇町にある真行寺での出来事は、隠れた日本の歴史のターニングポイントの1つだったのかもしれません?!!

 

◎僕らの街の小さな商店会 瀬戸の都通り商工振興会 作成 2024.10.29


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