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【ぼくらの街探検の続き】3-5明治40年の絵はがき 琴平駅からわかる謎解き?

2025-03-07 22:49:09 | 歴史

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前回、前々回の「ぼくらの街探検の続き」です。

前回のやり残しがある中で、先にお知らせをしたいことがあります。

それは・・・

多度津町立資料館で行われた 「文明開化の巨人 景山甚右衛門展」を載せた

ブログ「瀬戸の島から」香川県鉄道物語 香川県で最初に汽車を走らせた讃岐鉄道 の項の中にあります画像です。

(画像の説明文として)

明治40年の絵はがき 開業時の琴平駅(現ロイヤルホテル付近)

1889年開通時の讃岐鐡道琴平駅 神明町にあった 

 開業時の琴平駅(現ロイヤルホテル付近)

https://tono202.livedoor.blog/archives/1377674.html

こちらの絵葉書です。

 

図 後程ご案内予定 

 

明治40年の絵はがき 琴平駅 この1枚からわかってくる事がたくさんあります。

① 先のご案内で、この絵葉書から初代高松駅の貨物ターミナルは旅客ターミナルと同じ線路上から貨物を出し入れする単線型の駅の形ではなく、2線式の貨物ターミナルが独立して旅客ターミナルの手前西側で行き止まりの引き込み線型(終着駅型と言える)であった。その配置を証明してくれました。

そのほかにもいろいろわかってくることがあります。

② 高松駅の遺構として旧盲学校の敷地に残る石組みに似ているとも思えるホーム下の石組み。これも駅舎に近い側と多度津駅に近い画像では左の方と違っています。左の方の四角い石組みは鬼無駅に今も残るホームの基礎の下側の基礎と同じのようです。盲学校に残っているのは駅舎に近い側の石組みに近いように見えますが左側の石組みの急ごしらえの荒い造りのようにも見えます?

 

③ 旅客ターミナルの駅舎の屋根の上に突き出た十字の標識が見えます。

こちらは、初代高松駅の絵図に描かれている標識と同等のものと思われます。

気が付いたのですが、高松駅絵図の場合は旅客ターミナル側だけに列車が存在しております。なので右側の標識が立っています。

こちらの写真では右左が水平に立ったままとなっております。そうです旅客側にも貨物側にも列車が存在しております。

どうやら、当方の見立てどおり2線用の2系統の標識と思われます。歴鉄、鉄道関係のお詳しい方のご見解をお聞きしたいです。

 

④ こちらは当方の勘違いでした。訂正いたします。

輸入をしたときに機関車の後部に窓付きのこちら側を正面にも使えるようになっていた可能性もあるので日本での改造とは言えない。資料が少ない(私が知らない;)現状ではこの解釈になります。

導入したホーエンツォレルン社の「入換専用」の機関車は、前進後退がもともとできる機関車であったおかげで逆向きで走る事が出来たので、日本の環境では逆向きに使う事も実用的であったのかもしれません。道路状況等、初めての線路を横断する人や家畜等がよく見えることを考えると後ろ向きで前方を走ることは、安全で実用的であったかもしれません。

また別の考え方では終着駅で、列車の先頭にある機関車を最後尾につけてそのまま多度津方面へ逆向きのまま出発していた可能性もあるので、機関区内で転車台で向きを変える必要がない「入換専用」のメリットを生かした可能性もあります。

いずれにしても、明治時代の方々も合理的に実用的にしなやかに使いこなしているとの印象です。

 

 

高松から多度津方面へ向かってこちらの機関車も後ろ向きで、客車を引っ張っているとの解釈をしました。

 

⑤ 初代高松駅構内の線路と線路の幅を調べるのに使えそう。駅構内で写真に写る線路線の幅を測る事が出来そう。1つの線路のレールとレールの幅がわかっているので、横側の線路までの距離が出せそう。

初代高松駅舎の南部の線数を、もう少し詰めれば、線数X(横側の線路までの距離)で駅舎の南北の位置確定に使えそうです。

 

この写真を見ていますと明治の先人の方々の活気、くふうや実用的、合理的な運営が見えてくるようです。

 

重要な1枚になるかとおもいますので掲載できるようにしたいと思っています。とりあえずリンク先で絵葉書をご覧ください。

ひとまずこちらの絵葉書からわかる事をお書きしました。またまた乱文お許しを・・・・


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【ぼくらの街探検の続き】3-4初代高松駅舎 大きさや正面入り口のデザインをイメージしてみる

2025-03-02 11:10:25 | 歴史

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初代高松駅について別のデーターからわかってくる事で実体に迫ってみよう!!

 

かれこれ10年前以上ぐらいになりますが、今以上に初代高松駅について盛り上がっており、多くの方々から情報をもらっておりました。

私も、そのころ多度津町立資料館等で初代高松駅の資料を見せていただきにお伺いしました。

残念ながら高松駅の資料は見つからなかったのですが、初代多度津駅と、初代と思われる琴平駅舎の大きさがわかる(使用目的、部屋寸法がわかる簡単なもの)簡単な図面のコピーを見せていただきました。

その書類に縦横の寸法(尺貫法 1間=約1.8m)で書かれていましたので坪数が計算できました。

 

どうして琴平駅舎にこだわっているかと言いますと、現在残っている写真や絵図に描かれている高松駅舎の旅客ターミナルの南側から見た線路側の形状は、琴平駅舎の西側から見た線路側の写真と全くといってよく似ています。

そこで、*参考資料3 讃岐鉄道初代琴平駅 多度津町立資料館蔵 より初代琴平駅舎の坪数を出してみました。

 

◎初代琴平駅舎の坪数(庇ひさしを計算に入れない)

建て幅11間(66尺) X 奥行5間(30尺) = 55坪

入口側の引き込み 幅5間 X 奥行1.5間 = 7.5坪 

を引きますと初代琴平駅は建坪47.5坪となります。

ちなみに 琴平初代目 正面側の両サイドの幅は3間(そこに縦長の窓が2か所ある)。

比較対象をこんな推測で進めさせていただきます。

 

それでは

◎初代高松駅の坪数

明治29年8月13日香川新報の初代高松駅関する記事(詳しく調べられておられたM氏より)に駅舎の入札記事があります。それによれば、下記の通りになります。

初代高松駅舎の入札時の坪数(旅客ターミナル)

停車場本屋吹抜貫庇(ひさし)トモ 七十坪六合一寸一才余(70坪余) 

 

ここで、重要なポイントを押さえておくと、

案1 停車場と付随するすべての庇(ひさし)供で70坪あまりと解釈するか、

案2 停車場母屋に含まれるだけの吹抜貫庇(ひさし)供で70坪あまりと解釈するか

 

<案1 停車場と付随するすべての庇(ひさし)供と解釈する場合>

①初代高松駅の庇をのけた本体だけの旅客ターミナルの坪数は初代琴平駅と同等か少し大きい。

②旅客ターミナルの正面サファードの庇ホーム側通路の庇をプラスして敷地面積が70坪余り

この設計でいくと、ホーム側の庇をのけた建坪は、初代琴平駅に正面サファードに庇を少し付けた規模になります。

琴平駅舎と同等かそれ以上の規模にするには、坪数が70坪とすると線路に接するホーム側の庇の間口は1間以上は取れないのです。

駅舎と線路までの間口は、多度津駅のホーム1面2線の場合で3間となっていますから、1.5間から2間は欲しいところですが・・・我慢できなくもない。

 

◎案1 初代高松駅イメージ位置図 

南ホーム側庇、西ホーム側庇1間幅の場合でイメージしてみました

 

初代高松駅における駅舎と線路とホームの位置関係図(イメージ図)↓

画像をクリックで拡大

上記の通りでいけば、初代琴平駅をほぼ変更なしで高松駅のイメージが出来上ります。

内部の部屋割りも初代琴平駅と同じ。西側の貨物ターミナル側出入口の改札口が初代琴平駅と同じ設計どおりである事が、別の絵図(*参考資料2)で確認できています。

旅客ターミナル、貨物ターミナル、ホームとかの全体的配置は*参考資料1の明治40年度の初代琴平駅舎を参考にしました。

 

*参考資料1

明治40年の絵はがき 琴平駅(現ロイヤルホテル付近)

 (画像の説明文として)

1889年開通時の讃岐鐡道琴平駅 神明町にあった 

 開業時の琴平駅(現ロイヤルホテル付近)

https://tono202.livedoor.blog/archives/1377674.html

 

*参考資料2 高松駅舎の西側貨物ターミナル側の改札口があると証明できる資料

 西成典久著 高松海城庁の物語79P初代高松駅となる西浜停車場の絵図に西出入口が描かれている

 

*参考資料3 

讃岐鉄道 琴平停車場の簡単な設計図

(初代高松駅もほぼ同等の配置、規模であったと推測されます)

讃岐鉄道 多度津町立資料館 蔵

 

多度津停車場の簡単な設計図 

図 予定

多度津町立資料館 蔵

 

ちょっとブレイクタイムを・・・

 

続いて

<案2 停車場母屋に含まれるだけの吹抜貫庇(ひさし)供と解釈する場合>

まずは、比較対象とします2代目琴平駅舎の考察です。

◎2代目琴平駅舎の坪数

2代目琴平駅舎の資料はいただけませんでしたが、公開されている資料等から正面側の左右の縦長の窓数が初代の2か所から3か所に増えていることから一回り大きくなっています。

これと同じ正面側の両サイドの幅(3か所の窓になっている)は、多度津本社駅舎が3か所の窓で3.5間で同じですので、讃岐鉄道多度津駅の設計図でわかる3か所の窓での幅は3.5間でいいでしょう。

そうなると幅は少なくとも1間増やして12間 奥行も1間増やして6間 

中央の前玄関屋根付き庇(ひさし)があるので、入口側の引き込み空間があるので2坪ほど引きますと

駅舎の幅 3.5間(左右の部屋の間口)X2+5間(中央のエントランス間口)=12間 

12(間口)X6(奥行)=72 

72-2(エントランス部分の引き込み)=70(坪)

私の独断と偏見ですがこれぐらいだったのではと推測します。

この讃岐鉄道2代目琴平駅舎は、後々まで長く残っていましたのでもっと調べればはっきりした構造と造りがわかると思いますが、高松駅舎との比較の中で落しどころを探っていきますのでご容赦ください。

 

<庇(ひさし)を母屋の入口エントランス部の吹抜庇のみと解釈して初代高松駅を考える>

正面の中央エントランスの庇を入れて70坪余ですので、規模は2代目琴平駅とほぼ同じ規模、サファードは入口の中央に吹抜のある間口3間奥行1間ぐらいの吹き抜け庇(ひさし)のエントランス付きぐらいのイメージです。庇に関してはあくまでイメージです。

 

 

①旅客ターミナルの正面入り口に吹き抜けのエントランスのみ庇をプラスしての敷地面積が70坪余り

縦横 12間 X 6間 =72坪 

正面側の中央の引き込み 2間 だと 70坪 

こちらでも、当時の入札で指定のある70坪の駅舎ができます。

 

図 後程ご案内いたします

 

 


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【ぼくらの街探検の続き】3-3初代高松駅舎の絵図と写真でわかるだいたいの位置関係

2025-02-16 22:34:43 | 歴史

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それでは前回のお話での宿題を

地図とか参考文献のご紹介は、思ったよりご紹介ご案内できない資料もありますが、文面だけでは、ややこしいので・・・

「だいたいこっちゃからみよったんとちゃうん」さぬき弁?!

(訳大体こちら側からみていたのではないでしょうか?)と言う

「なんがでっきょんな的な」(なにをしておられるのですか?)「おもっしょいでないんな」(おもしろいですね)的な気持ちで見ていただければ幸いです;。

 

 

地図 高松市旧市内の西部 扇町 香川県立視覚支援学校(旧県立盲学校)付近 google map 使用

 

 

出したい位置は、旅客ターミナル貨物ターミナル石炭給水塔等

そのためには撮影した場所絵図を描いた場所を特定しながら、関係する諸要素をできるだけ満たす位置を探ってみました。

 

この場所は、初代高松駅ができる前は、高松の旧市内の西はずれ、田畑が一面に広がる村のイメージ。

西から伸びてきた線路もまっすぐ埋設する事に何も問題はなかったと考えます。

〇 西宝町に入ってから駅舎までまっすぐ線路がひけたと考える。

 

江戸時代からあった2つの道や旅客ターミナルに続く道も基本直線的に続く道があったと考える。

〇 江戸時代から存在していた克軍寺から続く道A

〇 江戸時代から存在していた万日墓地から続く道B

〇 旅客ターミナルの玄関入口の中央に続く現在の旧盲学校の東側の南北の道、道C

 

完成時には小さいながらも陸と海との物流、交通を考えていた。

〇 西浜港から運河を掘り港として、小さいながらも陸と海の連携を考えた配置 → 貨物ターミナルは北寄りにあった。

仮に2番ホーム(仮称)があれば、貨物ターミナルは当然1番、2番ホームの北側で港ふ頭との中間点あたりと推測。

どちらにしても、貨物ターミナルの北寄せを支持できると考える。

 

〇 絵図の絵師が描いた場所の東側に、石炭給水塔があった。

石炭給水塔の北側に1車線を挟んで、燃料補給用の小ホームがあった。

また石炭給水塔の南側にも1線を挟んで、燃料補給用の同じ形態の小ホームがあったと推測できる。

石炭給水塔に関しては、当時の1線路の幅を調べるとわかれば、もう少し正確にあらわせそうです。(宿題)

絵図によれば、線路数は旅客ターミナルがある線路から南に線路が4から5列、石炭給水塔を挟んで2列、合計の線路数は6から7列と推測できそうです。

6から7線分の距離+石炭給水塔関連施設幅で鉄道の敷地の南側の位置から南北の位置をより正確に割り出せるでしょう。

 

〇 私鉄としての初期の根本的な考えに、琴平、(丸亀)、高松ともに、終着駅的な設計であったと推測されます。

時代は地方私鉄から、四国、岡山とのネットワークを考える時代、はたまた国有化して全国網をどうしていくのかと目まぐるしく変わっていく中で、運河計画をしていたと考えれますが、計画の予想以上に世の中の変化進化が早すぎた感がありますね。

 

以上の事を考慮した上で、

 

まず鉄道の線路は摺鉢谷川側を越えたあたりからも直線的に東へ伸びていた。

 

ウィキペディアの写真の旧高松駅を南から写した地点D点は、鉄道の敷地

より少し南側の、道A上のどこかにあるとします。

そのD点を決めるためには 鉄道敷地の外側で南側道路上から撮影しているとして、写ってる建物等で固定できる場所を特定できるポイントでつないでいきます。

まずは、旅客ターミナルの右側後ろに写る戦前の常福寺の屋根の位置を固定ポイント①、固定ポイント②とします。

(前回のお話の通りこの当時常福寺の屋根の尾根の向きは東西に向いていた)

ウィキペディアの写真に合わして旅客ターミナルの位置を決めるために、旅客ターミナルの位置を道C上をスライドして、位置を決定。

 

次は絵図を絵師の方が描いた位置ですが、

こちらは、絵図ではありますが、駅舎と後ろ側の風景に描かれた位置関係については正確に書かれていることがわかります。

〇 旅客ターミナルと貨物ターミナルの間に真行寺を描いています。

これについては、貨物ターミナルが旅客ターミナルより北側に実際あった事を証明してくれています

 

〇 旅客ターミナルの東側の屋根の一部の後ろに煙突を描いています。

これは現在の日本銀行高松支店の位置にあったと言われている高松電灯の発電所の煙突と考えられます。

その位置から絵図を描いた地点と結び、旅客ターミナルの位置を確定します。

ここでは、いろいろ試行錯誤をしましたが、矛盾がない地点を割り出したのがE点です。

この地点は鉄道の柵の中の柵の近くとなりました。

よーく考えてみますと、敷地内で線路上とかで描けることはできません。

また、なんらかの機関からの依頼もあっての絵図として書籍に載せ、おかげで

後世に残せたのでしょから、柵の外から水路や柵越しに道路上で描いたとは思えません。

絵図を描いた場所としてはベストではないでしょうか。

現在私が持っている資料からは、D地点、E 地点、そして建物の位置でいいのではないかと考えています。

 

まだまだ、ミステリーは続きます・・・  

運河を作って2番ホームのありなしや

旅客ターミナルより北側にずれた貨物ターミナルの位置や距離とミステリーは続きます。

 

また初代高松駅舎の大きさも形状も当然関係してくるでしょう。

この駅舎等の入札時の坪数が香川新報(明治29年8月13日の香川新報)にある事がわかっています。

停車場本屋吹抜貫庇(ひさし)トモ 七十坪六合一寸一才余 

貨物取扱場  三十二坪

今回のご案内では、形状と大きさは細かくは配慮できていませんので、後で、皆様と一緒に想像を巡らせてみたいと思っています。

 

話は2番ホームの存在に変わりますが、

初代?丸亀駅の駅舎の写真で、多度津から→丸亀駅側に行き止まりの2番(仮番号)ホームらしきホームが写っています。

丸亀の貨物ターミナルが、なぜ旅客ターミナルと一直線上に並んでいないかがわかれば、今回の検証でわかった貨物ターミナルが旅客ターミナルと一直線上にならんでいなくて北側にずれている答えがわかるかもしれません。(これについて情報をお持ちの方がいらっしゃったらぜひご教授ください。ご連絡を頂きたいです)

 

多くの方に、興味を持っていただけたら幸いです。

ちょっとブレイクタイムを・・・

 

 

答えが出ました!!

前回のご案内の中で、丸亀駅舎で旅客ターミナルと貨物ターミナルが線路と平行でないのではないか?という疑問が、高松駅にも当てはまるのではとの思いで調べていましたが、讃岐鉄道琴平駅の古い写真がネットに出ているのを発見しました。

こちらです。

明治40年の絵はがき 開業時の琴平駅(現ロイヤルホテル付近)(取得2025-02-16)

https://tono202.livedoor.blog/archives/1377674.html

こちらのホームページのご案内は素晴らしく私の案内が及ぶものではないです。

 

そんなご案内の中に 琴平の初代駅舎が、旅客ターミナルの本線と貨物ターミナル側の引き込み形式の2線形式の駅だったことがはっきりわかる絵葉書の写真がありました。

この形式は讃岐鉄道の終着駅側のお決まりの形であったことが推測できます。

琴平、丸亀、高松とこの形式が使われていたことになります。

私的には素晴らしい発見ではないかと思いますが、ご専門の先生のご検証をお願いしたいと思います。

 

 

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【ぼくらの街探検の続き】3-2初代高松駅貨物ターミナルへ続く克軍寺からの道の検証

2025-02-15 09:18:36 | 歴史

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ぼくらの街探検の続きです。

まだまだミステリーな初代高松駅ですが、

1つ1つ検証をやっていきたいと思っています。

 

今回の検証は、西宝町の克軍寺から現在の旧盲学校の北東にある民間の駐車場からとなっている

敷地の南西の角(こちらのポイントはわかっている)へと続く克軍寺参道の正確な位置と角度です。

 

絵図では克軍寺の敷地の東西の真ん中から続いていますが、

もっと現実的に特定できる場所がある事に気が付きました。

摺鉢谷川にかかる橋の位置です。川の流れを変えていないかぎり

かわらないと考えられるので、こちらで進めていきましょう。

 

実は現在克軍寺から続く橋の候補は2橋ありました。

① 克軍寺の東側からの道(細い道で旧道のようにも見える道)で摺鉢谷川にかかる橋で高徳線の踏切のすぐ横にあります。

 

② 克軍寺の西側からの道(現在車が通行できる道)で摺鉢谷川にかかる「本門院橋」

(本門院=克軍寺 地元での呼び名)

 

<大正12年の高松の地図を観る>

旧11号線の高架工事で一部東側では川の流れは変えられているものの

高徳線が大正10年に開通してすぐの地図(国際日本文化研究センター大正12年(1923年))に

現在も摺鉢谷川にかかる橋、「本門院橋」から旧盲学校の手前までまっすぐ伸びる道が

存在していました。(元の橋から場所をずらしての架け替えはなかったようです。)

元の鉄道敷地の南側に突き当たり東へ曲がって、現在の盲学校の南側の道に合流しています。

この大正12年の古地図には江戸時代から残る道がかなり残っています。

 

この橋より北側の旧道は、その後昭和時代になり田畑が整理され昭和町として区画整備されて

なくなったと考えられます。

 

結論から言えば、克軍寺からの道の南側の動かないポイントは現在も残る摺鉢谷川にかかる

②「本門院橋」と言えるのではないでしょうか。

 

おさらいですが、宮脇町の克軍寺から現在の旧盲学校の北東にある民間の駐車場からとなっている

敷地の南西の角(こちらのポイントはわかっている)へと続く克軍寺参道の道上に

初代高松駅の貨物ターミナルがあったと写真から推測されていますから、

この橋から初代高松駅の貨物ターミナルの方へほぼ一直線上に道が伸びていたことで

駅舎の場所特定の正確度が増すのではと考えています。

 (ウィキペディアの駅舎の南側から写した写真の左側、貨物ターミナル部分を拡大)

 

他この古地図でわかったこととしては、

この写真の道の前に鉄道の敷地の柵があり、その外側に水路があった。

克軍寺から続く道は、当時もメインロードとして使用できていたと考えると

石炭給水塔の燃料や水の物資の搬入にも使われた可能性もあったかもです。

(万日墓地からの道からも石炭給水塔への搬入があったかも)

駅舎等の位置確定の重要な資料につなげられるのではないでしょうか。

 

現在の克軍寺から北へ抜ける道が、克軍寺の西側から北へ抜けると

考えていましたが、古地図にある通り克軍寺の真ん中からの道であることが

わかりました。

 

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【ぼくらの街探検】3-1香川県立視覚支援学校(旧盲学校)の東側付近に初代高松駅があった!

2024-11-07 15:58:22 | 歴史

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【ぼくらの街探検】香川県立視覚支援学校(旧盲学校)の東側付近に初代高松駅があった!

 

昔、香川県や高松市のはじまりに関係したたいせつな場所がありました。

高松の文明開化発祥の地?!とも言える初代髙松駅が瀬戸の都通り商工会のある扇町にありました。

 

今のコープ香川扇町店南東の道路側あたりから香川県立視覚支援学校(旧県立盲学校)方向

東北東を望む (右旅客ターミナルと左貨物ターミナルの間に真行寺が見えている 商店会調べ)

⇧明治30年ごろのイメージ図 建物配置のコメント入り

 

(⇦参考元 初代高松駅 四国鉄道OB会資料より)

 

香川県立視覚支援学校の東側付近に初代高松駅があった!

明治5年 東京新橋、横浜間に 日本で最初の鉄道が開通してから
25年後の明治30年(1897年)2月21日、高松に最初の汽車が走りました。

 

初代髙松駅は、扇町にある今の香川県立視覚支援学校(旧盲学校)の東側付近に出来ました。

ぼくらの町に高松で最初に汽車が走った高松駅がありました!

 

当時はこの駅でおりて、人力車にのって今のサンポートあたりの港まで行って、船にのって岡山まで行っていたそうです。

高松市の発展につれ、明治43年(1910年)、宇高航路(宇高連絡船)運航開始して、2代目高松駅は港の近くへ移っていきました。

 

その後、高松市は「四国の玄関」と呼ばれて、ますます発展していきました。

今の高松駅で4代目になります。

 

<僕らの街のミステリー?!>歴鉄の方必見です!

この初代高松駅の場所、どんな建物だったかなど?多くの事は地元でもわからないことだらけで年月の中で忘れかけておりました。

 

地元で少しづつわかってきている事を含めご案内できればと思っています。

ご案内はあくまで地元で知り得た情報で当商店会の客観的な推測による見解にて書いております。もっと詳しい事はご専門家の先生にお話をお聞きになってください。

 

初代髙松駅の今になってもまだわかっていない事をご案内します!

 まだまだミステリーです!!

 

①高松の初代髙松駅の正面の写真が見つかっていない!!

 当商店会の調べでは、ホーム側の写真、絵図からわかる屋根の尾根等からわかる構造からは琴平駅の初代、2代目と同じ構造の1階建て木造構造となっています。

琴平駅の正面図は、1代目から3代目駅舎まですべてわかっています。

また、1代目か2代目かの間口が分かる簡単な設計図と思われる図面が残っていますので、基本的には琴平駅と同系の正面サファードだったと推測されます。

 

2代目高松駅の火災により多くの古い書類関係が焼失してしまったと言われています。

初代髙松駅の正面の写真をどなたかお持ちでしょうか?歴史的にすごいお宝ですよ!!

  

②高松の初代髙松駅の正確な位置

上記の絵図の元資料やウィキペディアの駅舎の南側からみた写真や西宝町の山の中腹から撮った写真等からだいたいの位置が測り出せる事が可能ではないかと思われます。

 

測量できる方で、もしご興味のある方はボランティアでお仲間になっていただけましたら幸いです。

初代髙松駅の位置を測量してみませんか?

 

③最初の元絵図にある、駅舎の南西にあるポール上にある標識は2系統の信号ではないか?

プラットホーム別の出発、到着案内標識として使用したと考えると左右で2つあるので、高松駅には2番ホームがあった可能性があるのではないでしょうか

(補足追加)↓④の計画での海上輸送側のホームの標識としての可能性。

 

*この標識がわかる方がいらっしゃったら是非ご連絡をお願いします。

1番ホームの北側に2番ホームがあった?(ホーム番号は仮)

 

 

④規模は小さいものの陸上と海上交通との連携計画があった。

当初 初代高松駅北側に船が接岸できる運河を作ろうとしていた。

そのため貨物ターミナルは、海上貨物輸送と鉄道輸送のためのとして作られたのではと推測できます。

陸上と海上交通との連携計画は、西浜港から駅の北側まで運河を作る計画であったが、途中まで掘削したところ、明治29年12月12日の香川新報によれば、近隣の井水が枯渇して前後策を協議中なりとの記事あり。その後中止されました。

*中止になったほかの理由があるとすれば、当時の西浜港の規模と、近くの川からの流砂の影響もあったと思われます。(追加)また将来の良港としての築港との接続等も考慮してのことと考えられます。

では、開通した翌年の明治30年2月21日の時点で運河建設中止の変更があったかどうか、貨物ターミナルの場所の変更があったかどうか?もう少し詳しく調べる必要がありそうです。

これらの事を考慮すると計画では貨物ターミナルの位置が旅客ターミナル駅舎のすぐ西側でなく、海上輸送も考え、*少し北側にずれていた可能性が高いように推測されます

 

⑤旅客ターミナルと貨物ターミナルの間にお寺(真行寺)が見える位置になるには、上記の絵図(元絵図)で絵図を描いた場所が、ウィキペディアでの初代髙松駅の写真を写した場所より、西側から描いたと推測され、西南西からの位置から描いたと推測できます

 

(追加)④の海上交通との連携計画のために、貨物ターミナルが少し北側にずれていたのであれば

西南西からの位置から描いたとしても、旅客ターミナルと貨物ターミナルの間に真行寺が見えていることの説明がつきます。 (旅客ターミナルと貨物ターミナルの空間がが線路と平行に並んでいた場合は絵図ほど空間が開くかどうか?と悩んでいたので)

絵図の描いた場所とウィキペディアでの写真を写した場所とのだいたいの関係については、のちほど、地図でお知らせしたいと思っています。(2025年1月24日加筆)

 

(⇦参元 ウィキ ペディア 駅舎の南側から写した写真)

ウィキペディアでの初代髙松駅の写真は駅舎の南西側から写しているのですが、写真には実は克軍寺から北東に伸びる道が写っています。左下から駅の敷地へ延びた道がそれです。

  (ウィキペディアの駅舎の南側から写した写真の左側、貨物ターミナル部分を拡大)

 その道の先に貨物ターミナルが写っていて、元々その道の先は、現在の視覚支援学校の東北側にある私有駐車場の南西角に続いていたことがわかっております。

 

 また当時の古地図に、西宝町の万日の墓地から現在の視覚支援学校の東北側にある私有駐車場の南西部に続いている道があったが、絵図の方はその道の延長に近い角度から見える風景を描いたと思われます。(この道は一部現在も残っている)

 上記の絵図(元絵図)は、右端に給水棟が描かれており、給水棟の西側から描いた絵図です。

ウィキペディアでの初代髙松駅の写真は 初代高松駅の敷地の南部にあります給水棟(仮称)が写っていませんので、給水棟の東側から北東を写した写真と推測されます

 

⑥ウィキペディアでの初代髙松駅の写真に駅舎の旅客ターミナルが写っていますが、その後ろ側に別の建物の屋根の東西の尾根が写っています。

この屋根は後ろ側に写り込んだ別の建物だった?!

(ウィキペディアの駅舎の南側から写した写真の右側、旅客ターミナル部分を拡大)

ウィキペディアの建物の屋根の東西の尾根は常福寺とわかる写真があります。

⇧初代香川県立視覚支援学校(旧盲学校)後方に常福寺の東西の尾根と鬼瓦が写っているウィキペディアの写真とほぼ同じ位置角度から写した写真と考えられる。

(記念絵葉書に写る大正13年盲学校新築当時の写真にコメントを入れました)

 

この写真でもわかるように高松空襲以前は屋根の尾根が東西だった常福寺が同じような角度で写っている

 

空襲で焼失して後、再建し常福寺の屋根の向きは真行寺と同じ南北の尾根になったと常福寺で確認済みです。

  

整理しますと、当時の真行寺と常福寺の位置関係と屋根の向きは、尾根の向きが南北の真行寺

その西隣に尾根の向きが東西の常福寺があり、2寺は東西に並んでいた。

尾根の向きが東西と南北の別々なので、位置関係がわかりやすくなってくると思います。  

 

以上のことから、絵図に描かれたお寺は、真行寺ウィキペディアでの初代髙松駅の写真より給水塔を挟んだ、西側からの角度で描かれたと推測できます

 

PS .絵図をよく見てみると、後世に記録を残すために書かれたと思われるほど、実際に忠実に描かれているように思います。

給水棟の上部のタンク(桶)から水がしたたり落ちている状態を描いたり、機関車の汽笛が鳴っているのがわかるように蒸気が出ていたりしています。

その割にといえば、真行寺の描き方が、ほかとタッチが違うようにも見えます?気のせいかもしれません・・・。また、お寺より高いりっぱないちょうの木をなぜ描かなかったのか?もミステリーです。

 

 

今までに多くの方々から、資料やお話をいただいてご協力をいただいております。

今から130年近く前の出来事です、地元の歴史を忘れてしまわぬうちに書いとかないと、本当にわからなくなってしまうのではとの思いです。乱文お許しください。

 

<補足参考資料>

他でも常福寺と真行寺の位置関係と尾根の向きが

よくわかる写真が見つかりました。

峰山より望む 左→常福寺、右→真行寺

高松市歴史資料館 第4回企画展 大正の高松市街 

写真が語る高松の歩み 9P⓯より左上部抜粋

 

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