島崎城には、外周をめぐる水堀があったことは確認されています。
近隣の玉造城にも水堀の跡が今も残っており、同じく潮来市内の長山城にも水堀があったと思われ、鹿行地区の中世の城跡には多数の水堀があったことが知られています。
今から 33 年前の 1988 年に行われた、日本城郭史学会の西ヶ谷恭弘先生の島崎城発掘調査団における発掘調査によると、一の曲輪外周堀では、水の手曲輪と馬出曲輪の間に空堀が残っており、馬出曲輪側の堀切は、昭和 55 年度に埋められ現状のように浅い空堀になっています。また、水の手曲輪側は、岩壁を直角状に掘る「掘り込み型」で、堀が良く保存されています
二重空堀・物見台予測図
発掘調査報告【二重空堀・物見台】
島崎城大規模普請の様子を如実に語る遺構が,東Ⅱ曲輪とⅢ曲輪を分けるための二条の空堀 と,後述するⅢ曲輪空堀(大堀)の存在である。広義の内城域と中城域を別するこの二条の空堀は,いずれもかって堀底が通路である空堀道であったとみられる。
空堀〈4〉は,虎口(ハ)からつづく通路延長から東Ⅱ曲輪をコの字形にめぐる堀で,実効幅は最大32m(上幅同じ)を東Ⅱ曲輪北土塁上八幡台と物見台上間で測る。現状で深さは、直高11m,南斜面法高は21mで,かなりの遺構面までの埋没が認められる。東側での空堀<4> は実効幅23m(上幅18m)で、西側法高は凡そ20mの規模である。この距離は,長柄鑓(凡そ7m)での戦闘はできない。そこで,北側物見台中腹部に腰曲輪をつくり、八幡台との実効堀幅 を16mにしたともみられる(なお,この腰曲輪は橋脚台ともみられる)。
以上の空堀〈4〉と,空堀〈5〉の中間に物見台および土塁通路状遺構がある。この物見台と空堀〈4〉に並行する外周土塁は,掘り残し部分の加工土塁である(成田上層の砂質岩盤層位が斜面にある)。興味ある点は外周土塁の南側から、物見台である頂部(標高29.3m) にかけては、 18度の勾配をもって土塁は緩やかにたちあがり,褶部は坂道を呈し,南より北西へまわりこむ形で幅2~3mでつづく。これは前述したが,空堀<4>底道から、この外周土塁へと入城ルートがあり、物見台に至り,おそらくは八幡台に橋で渡ったと思える構成なのである。なお,このようなルートを経た場合、空堀<4>を跨ぐ32mもの架橋が可能であったかどうか,中腹腰曲輪が,橋脚台であったのか否かは,今後の発掘調査成果をみないと何とも断じ得ない。
物見台とⅢ曲輪との中間には、空堀<5>が穿たれている。この空堀<5>は、今日も古屋地区より金井柵への連絡通路として利用されている空堀道である。しかし近年の埋め立てや道路工事により西側はほとんど旧状をとどめていない。現状においての物見台北側で,実効堀幅14m (上幅11m), 深さは直高7m,法高10mを測り、かなりの埋没が認められる。掘り方プラ ンは、物見台からつづく外周土塁とは並行せずに東側に延び,小字「金井柵」と呼ばれる根古屋北側先端に至る。空堀 <5>は根小屋地区を区画(北限)する機能もあったことが想定される。
空堀〈5〉の物見台より西側は,後述のように近年に改変されてしまった。消滅前の空堀<5>は坊主屋敷と呼ばれる腰曲輪の東側斜面敷を穿って,堀<7>に接続していたとみられ, 坊主屋敷の道路敷がその跡とみられる。すなわち空堀<5>は,金井柵から残存部分の堀を経て坊主屋敷東側をめぐって堀<7>に至って,内城域の区画一防備ラインーを形づくるものであったとみられる。一見て堀〈7〉は空堀の〈4〉の延長上にあるとみえるが,あまりの高低差(凡そ10m)と塁壁面のつながりが見い出せない。空堀<5>と坊主屋敷を結んで堀<7> に至ったとみると、伝承も全体プランからみても自然な構築法といえるのである。
水の手曲輪予測図
水の手曲輪
馬出曲輪と西Ⅱ曲輪との中間,鞍部状の窪みを平場に造成L字状に空堀をめぐらす水の手曲輪(仮称)がある。東西42m・南北35m,約1032㎡の面積である。西側に「大井戸」と 呼ぶ径4mの岩盤を刻り貫いた丸井戸があり,現状では深さ3mほどであるが,昭和30年代辺りまでは水を湛えた井戸で,危険なため教育委員会と御神社氏子により埋め立てたのである。この丸井戸の周囲は5mほど楕円状に掘り込まれ水汲み場・水屋施設の平場が形成されている。
地元には,「天正19年(1591) 年,城主島崎安定が佐竹氏によって謀殺された折,佐竹勢が島崎城を攻擊,城は落ちてしまう。島崎一族の者が島崎家家宝の黄金の鳥を、この大井戸に投げ込んだ」という伝説がある。全国的に流布する落城金鶏伝説で,一般には落城の日とか正月に金鶏が鳴くという話が付くものである。
さて、この大井戸遺構の東側に,平場が形成される。標高24mで、1曲輪より4.5m,馬出曲輪より5m,西Ⅱ曲輪より4.5m低い。南側一部に空堀に並行する土塁(高さ1.5m) が 残る。この土塁は、空堀 堀底道のカーブ地点にあたり、堀底道への物見台的機能があったとみられる。また,平場は北側に鋭く突出する形で出張るが,これは虎口からの進入に対する物見,横矢に対する出張りである。
水の手曲輪予測図
水の手曲輪
馬出曲輪と西Ⅱ曲輪との中間,鞍部状の窪みを平場に造成L字状に空堀をめぐらす水の手曲輪(仮称)がある。東西42m・南北35m,約1032㎡の面積である。西側に「大井戸」と 呼ぶ径4mの岩盤を刻り貫いた丸井戸があり,現状では深さ3mほどであるが,昭和30年代辺りまでは水を湛えた井戸で,危険なため教育委員会と御神社氏子により埋め立てたのである。この丸井戸の周囲は5mほど楕円状に掘り込まれ水汲み場・水屋施設の平場が形成されている。
地元には,「天正19年(1591) 年,城主島崎安定が佐竹氏によって謀殺された折,佐竹勢が島崎城を攻擊,城は落ちてしまう。島崎一族の者が島崎家家宝の黄金の鳥を、この大井戸に投げ込んだ」という伝説がある。全国的に流布する落城金鶏伝説で,一般には落城の日とか正月に金鶏が鳴くという話が付くものである。
さて、この大井戸遺構の東側に,平場が形成される。標高24mで、1曲輪より4.5m,馬出曲輪より5m,西Ⅱ曲輪より4.5m低い。南側一部に空堀に並行する土塁(高さ1.5m) が 残る。この土塁は、空堀 堀底道のカーブ地点にあたり、堀底道への物見台的機能があったとみられる。また,平場は北側に鋭く突出する形で出張るが,これは虎口からの進入に対する物見,横矢に対する出張りである。