最近は時短が求められるようになった。
現代人が忙しくなったからであろうか、まず削られていくのが、
料理、掃除、その他家事全般。
まあまだこの辺は分かる。テクノロジーの利用、応用といったところだろうか。便利なら使えばよい。
ただ最近は、読書もまとめサイトですませ、映画、アニメ、その他映像作品全般も倍速で視聴している人が多いらしい。
そのような人に言わせれば、「効率的」らしい。
例えば読書。ビジネス本にせよ小説にせよ、重要な部分しか情報を入れないというのはいかがなものか。
特に小説に関して言えば、「場」や「空気」の表現が大切な核をなしている場合もある。
そのように筆者が大切にしているものをまとめサイト等でオチ、過程だけを拾っていくのは失礼ではないだろうか。
「時間が無い」のにそのように文化的な活動をしたいのであれば、時間を生み出す為の努力がちゃんと出来ているのであろうか。
今あるものをより磨いていくためには何かしら努力をしないといけないのである。今あるものを大切にしながら、である。
今の表現でさえ現代だと「何かしら努力する」のではなく「何かを犠牲にする」と表現されがちである。
このように効率重視は大切なものを犠牲にする。
特に思うのが、「中学受験」。
遊び盛りの小学生を塾と宿題と毎週のテストに縛り付け、大人になった時の「堅実かつ高収入」というまっとうな道へ子供を進める為の近道である。近道であるということは効率重視であるという意味である。この為に子供たちはこの時にしか得られない貴重な体験、経験を犠牲にしてしまうのである。
もちろん効率重視を徹底的に悪く言うつもりはない。先ほども述べた通り、家事などは技術に任せて効率的に進めることは私は賛成している。
だが、家事は一種の「労働」である。先ほどあげた文化的な活動と労働は一緒にするべきではない。
結局、効率を求めた結果、物事は単純化し、空洞化していく。人間性が損なわれていく。
効率だけを求め、手段を選ばず、「遊び」の部分がないつまらない人間になっていく。
その先にあるものは、一体なんであろうか。