誰も知らない、ものがたり。

巡りの星 09

 スローテンポの穏やかな環境音楽が室内に響き渡る。徐々に音が大きくなるのと同時に、明るい朝の日差しが部屋に差し込み、まぶたの裏を刺激する。
 朝の目覚ましシステムが起動し、サウンドや照明、ブラインドの自動開閉などで、部屋全体で心地よい起床を促してくれた。
 
 私は目が覚めた。
 時計を見ると、東京の朝7時過ぎ。
 寝ぼけまなこで起き上がり、トイレを済ます。洗面台でうがいをし、顔を洗う。そして、キッチンで常温の水を一杯飲む。毎朝かかさずすることだ。その頃には、だいぶ目も覚めている。

 ここで、恐る恐る、シェルフラックのフォトスタンドをのぞき込む。

 明るい笑顔を湛えたミキと、私の2ショット写真が、昨夜と変わらずそこにあった。
 「・・・夢じゃ無かった。」
 
 一晩寝て、再び写真の中で自分によりそうミキの笑顔をみた今は、不安な気持ちよりも、正直嬉しい気持ちの方が勝っている。昨晩の出来事を思い出し、思わず顔がにやける。

 とにかく、自分の置かれている状況というものが正しく把握出来ずに混乱していることには変わりないが、全てちぐはぐになってしまったわけでも無い。以前と変わらない部分がむしろ大半だ。
 今日は週に一度設定されている部の全体会議なので、皆会社に出勤してくる。まず自分は、会社のビルの17階では無く18階まで昇ること。そして、いつも通り、上司のアサダさんに部下として接し、尊敬できる仏の橋爪部長の掲げる方針や指示に従って、他の先輩や同僚と、一緒になって、いつもより張り切って仕事に励めばいい。簡単な事じゃないか。

 そして、そして、定時を過ぎれば、ミキと・・・。

 今日は・・・甘えてみちゃおっかな。記憶が戻らないとか、何とか言っちゃって。家に来てもらって、このソファで2人横に並んで、心配そうに顔をのぞき込んでくれるミキと手をつないで、身体ごと優しく寄りそってもらって・・・。キスをすれば、思い出すかもとか、なんとか言っちゃって・・・。それから、それから・・・。
 
 ゴクンとつばを飲み込む音で、我に返る。
 邪な思いにふけっていると、慌ただしい朝の時間はあっという間に過ぎている。
 
 慌てて着替えながら、AI冷蔵庫に朝食のメニューの準備をお願いする。慌ただしい朝はそれほど食欲がでない性分なので、ハチミツが掛かったヨーグルトに苺のメニューで簡単に済ませ、家を出た。

 通勤中には、いつもと変わったところは特に見当たらなかった。
 いつも通りの時間に、いつも乗っている地下鉄の、前から4番目の車両に乗って、いつも人が沢山降りる駅では、そこでようやく自分は席に座ることが出来て、少し経ったら会社のある駅に到着した。
 駅から歩いて会社のビルに到着し、エレベーターに乗り込む。そして、慎重に18階のボタンを押す。
 18階で扉が開くと、間違いなく、自分の会社のロゴが目に飛び込んでくる。
 今日は慌てずにエレベーターを降りて、会社に入り、自分のデスクへと向かう。途中、同期の同僚や、先輩に会い、いつも通り、ごく普通に挨拶をする。
 ヨーロッパ出張のことを聞かれて向こうの様子を軽く話したり、そこで急な帰社命令でお土産買いそびれたことなどを詫びたりと、他愛も無い会話を交わす。

 いつもの、会社の朝。いつもの光景。何一つ変わらない。少なくとも、この時までは、そう思っていた。

 「おはよう。」
 
 デスクに着いた私の背中に、女性の声が掛けられた。
 振り返ると、そこに、見たことのない顔の女性が立っていた。
 セミロングの髪の毛は少し茶色がかっている。二重の切れ長の目がどこかミステリアスな雰囲気を感じさせ、小作りな顔の整った、美人といえる女性だ。
 
 私は、一瞬、自分に掛けられた挨拶だということを理解できず、キョロキョロと周りを見たが、彼女の目は明らかに私を捉えていた。

 「何、どうしたの?キョロキョロしちゃって。」
 その女性は笑いながら私に話しかけている。

 「おはようー、ヒカルちゃん」
 先ほど話をした同僚が傍を通り、私の隣の席に座りながら、その女性に挨拶をした。
 「あ、おはよー、島田くん」
 ヒカルと呼ばれた女性が、同僚の名前と合わせてごく自然に挨拶を返す。

 「イナダくん、おはようと言われたら、“おはよう”でしょ?」
 その女性に促され、私は口を開く。
 「お、おはよう、ございます・・・」
 それを聞いたヒカルと呼ばれる女性は、私の何だか変な間を静かに飲み込んだのか、ニコッと微笑み、その場を後にした。
 目で追うと、隣の列のデスクに、自然な振る舞いで座った。

 (・・・あれは、一体、誰なんだ!?)

 周りの人は誰も不思議がらず、あたり前のようにヒカルちゃんと呼ばれた女性を受け入れていた。
 というよりも、前からずっとこの会社に居ました、という感じでごく自然に融け込んでいる。
 
 私は、その女性と挨拶を交わした隣の島田に、何気ない感じを装って、聞いてみる。

 「島田、あのさあ。あの、ヒカルちゃんてさ、いつからいたっけ?」
 モバイルのタブレットを見ていた島田は、顔をあげ、あっけらかんと言った。
 「いつって、今さっき会社に出社して来たんじゃない?」 
 「・・・あ、いや、そうじゃなくてさ、その、いつからこの会社に入社してるんだっけ。」

 私と島田は同期で、入社したのは7年前。私の記憶では、ヒカルという名の女性社員は居ない筈だった。
 少なくとも昨日までは。

 「はい?いつって、俺ら3人とも同期だろう?・・・どうしたの?」

 「あ、ああ、そうだよな。ちょっと時差ボケだわ。いや、何でも無い。」
 私は慌てて取り繕い、カバンから取り出したタブレットをのぞき込み、メールの確認が忙しい振りをした。
 そして、そのタブレットで会社のイントラネットから社員検索のページにアクセスし、ヒカルという名を入力する。すると、1名の該当者が現れ、先ほどの女性の顔写真と共に簡単なプロフィールが現れた。
 
 『三芳 ひかる』29歳 所属:コミュニケーションプランニング部 入社7年目

 (・・・一体、何なんだ・・・!?)


・・・つづく
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