そして、ひと言「下りるよ」と言うと再びリンのからだが青白く光り出し、やがて私とクッキーも包み込む。
そのまま徐々に空中から地面へと下降していくと同時に、身体に重量の重みを感じだした。
足が地面につく。
「はい、もう手をはなしていいよ」
その言葉にしたがい、私は恐る恐るリンの手を離す。
リードにつながれたクッキーは尻尾を振りながらその場でクルリとまわった。
もとの次元に戻ったのだ。
本当に瞬間移動だった。目の前には間違いなく橋爪部長の住むマンションが建っている。
ここは、自分のマンションのある駅から電車で移動しようとすれば、優に40分から50分は掛かる場所だった。
この街も、大きめな通りには地震の影響で自宅に戻ろうとする人が多く歩いていた。
道路も同じように放置された自動車が列を成していたし、所々に散乱している壁材などの落下物が見える。
橋爪部長のマンションもエントランスの壁の一部にヒビが入っているのが、この場所からでも見て取れる。
「・・・こんな時に、橋爪部長の家に俺が訪れていったら、すごく変な感じだよな・・・」
勢いで橋爪部長のマンションへと辿り着いたものの、この非常時になぜ来たのか、いや、この交通機関の混乱の最中に、一体どうやってここまで来れたのか、そして、リン・・・この女の子は、一体誰なのか、どれ一つとしてきちんと説明できる気がしない・・・。
リンがこの世界にいられるのは、宇宙が消滅の危機にあり、この次元が不安定になっている今だけのこと。
もしも宇宙が消滅するとなれば、何もかもが無くなるのだろうけれども、仮にその消滅の危機を免れ、日常に平穏が訪れたとしても、リンはこの世界にいることは出来なくなる。
つまり、リンとお父さんが出会えるチャンスは、今を逃すともう永遠にやってこないということだ。
つまらないことを気になんかしないで、なんとかして会わせてあげなきゃ・・・!
そんな思いにぐるぐると頭の中を巡らせていると、隣で息をひそませていたリンが「あっ」と小さな声を上げた。
リンの視線はまっすぐとマンションのエントランスに向けられていた。
その先に、10人くらいの中年の男性がヘルメットを被りながらエントランスに集まり、話している姿があった。
おそらく、マンションの住民や管理人の人たちに違いない。みな険しい顔つきで、何やら確認し合うようにうなずき合っている。
そして、男性たちはエントランスの自動扉から外に出た。
その中の一人を目にとめた私も、思わず息を呑んだ。間違いない。橋爪部長だ。
地面を蹴るがさっとした音が聞こえたかと思うと、私の視界に、エントランスへと向かってつんのめりながら駆け出す、リンの小さな背中が見えた。
「あっ・・・」
靴底がアスファルトを蹴る必死な足音が、パタパタと空に向かって響きわたる。
その小さな背中を一生懸命揺らしながら、手と足がもつれそうになりながら、走るリン。
一直線に向かう先に、橋爪部長が、お父さんの姿があった。
あと少し。目の前まで迫ったお父さんに向けて、リンは精一杯腕を伸ばした。
目の前まで来て、ようやく自分に向かって駆け寄ってくる小さな女の子の存在に気がついた橋爪部長は、ビックリして歩みをとめた。
リンは、そのまま何も言わず、驚き戸惑って固まっている橋爪部長の胸に飛び込み、腰の辺りにしがみついた。
「ん!?なんだ?」
橋爪部長は思わず声を上げた。まわりの他の男性の大人たちも驚いて、何だ?どうした?と、急に駆け寄り飛びついてきた女の子と橋爪部長を交互に見ている。
「あれ、橋爪さん、あなたの子じゃ・・・ないよねえ?」
一番年かさの男性が橋爪部長に聞いた。
「い、いえ、私には子どもは・・・おうっと!」
いない。そう言おうとした橋爪部長は、自分の胸に顔をうずめる女の子の腕に、さらに強く腰回りギュッとされ、おもわずうめいた。
必死にしがみつく女の子に、なかば観念したかのように、笑い出した。
「おお!あはは、力が強いなあー、きみ、よしよし」
そう言うと、橋爪部長はリンを大きな腕でつつみかえして、そっと抱きしめるかたちになった。
リンは顔をあげた。そこには、橋爪部長は朗らかな笑顔があった。
リンは、何も言わずにクリクリした目でじっと父親の目を見つめている。
強いリンの視線を、橋爪部長は温かな瞳でしっかりと受け止めた。
「きみは、どこからきたの?迷子になっちゃったのかな?」
そう聞いてくる橋爪部長に向かって、リンは一生懸命に首を横に振った。
どうやら迷子じゃないとわかるも、まだ心配な様子でさらに聞いた。
「そうか、じゃあ、お母さんとお父さんは、近くにいるのかい?」
その言葉を聞いて、リンはこれ以上ないような満面の笑顔になって、大きく「うん」と頷いた。
橋爪部長も、その様子をみて、思わず大きく頷いてさらに笑顔になった。
突然現れ、自分にしがみついてきた不思議な女の子。橋爪部長は、とまどいながらも、何か、形にならない記憶を思い出そうとするかのように、しばらく言葉も出さずに、温かな眼差しでリンを見つめている。
そして、不意に気になったのか、女の子に聞いた。
「・・・ねえ、君の名前・・・お名前は言えるかな?」
その言葉には応えず、リンはだまってニコニコと笑顔で橋爪部長の顔を見てばかりいる。
「・・・」
橋爪部長も、それ以上は探ろうとはせず、ただ、リンの笑顔を見つめていた。
しゃべろうとしない女の子の何かの特別な事情を、推し量ろうとしているのか、それとも、何年もずっと心に抱いてきた、この世に生まれ出ることの無かった娘の姿と、目の前の女の子を、少しでも重ねてみようとしているのか、私にはわからなかった。
ただ、この突然訪れたこの女の子との対話の時間を、無碍にしたくないと、じっと、噛みしめているように見える。親としての本能が、そうさせるのだろうか。
不意に、リンは橋爪部長の、お父さんの元から離れ、クルリと背を向けて、走り出す。
「・・・あっ」突然に離れていく女の子の背中に向けて、橋爪部長は無意識に腕を伸ばしていた。
走りながら、リンは一度だけ橋爪部長の方を振り返り、大きな声を出して言った。
「いつもお花ありがとう!お母さんもむこうで元気だから、大丈夫だよ!じゃあね!!」
私は知っていた。橋爪部長は、毎年、妻と子の命日にお花を欠かさず添えていたことを。
リンが身を隠している私とクッキーの方に向かって走って寄ってきた。
そして、慌てて見つからないように後ずさりしている私の手をとり、そのまま駆け続けた。
私たちはそのまま橋爪部長たちの視界から消えるように、マンションを離れた。
振り返りざまにわずかに見えた橋爪部長は、何かに打たれたように、目を見開き、固まったままだった。
走りながら私はリンに聞いた。
「ねえ、ほんとにもういいの?名前もいわずに」
頷くリン。そして、出てきた言葉は思った以上に力強い語気をにじませていた。
「うん、はやくアサダさんのところに、いかなくちゃ。この世界を、あたし、こわしたくない。ぜったい」
そして、続けて言う。
「トモヤ、ありがとう。お父さんの手、すごくあったかくて大きかった」
私は、頷いた。
「ねえ、さっきから、目からお水がずっと出てくるの。これって、涙?」
そう聞いてきたリンの方に改めて顔を向けたとき、私は横で走るリンの姿に驚いた。
あどけない10才くらいの少女だったリンは、あきらかに少し大きくなっていた。顔つきもすこしだけ大人びていた。
亡くなってしまった子を大切に思う気持ちが、別次元にいる子の心もからだも成長させるといった、ヒカルの言葉を思い出した。
橋爪部長は、ひょっとしたら、気づいたのかもしれない。
ただ一人のわが子との魂の強い結びつき。それが、あるはずのないことさえも、信じさせる力となって。
・・・つづく
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