気がつくと、その日の午後の講義は既に終わっていた。
今、私は、大学の食堂にもおらず、さっきまで話していた高橋も居ない。
私はアルバイト先である居酒屋「升民」の厨房の裏にいた。
目の前には、あの怖い店長が威圧感たっぷりの腕組み姿で仁王立ちし、まっすぐにこちらを凝視していた。
私は、唐突にも今このようにして置かれている状況を、不思議と理解していた。
いつもの“叱られパターン”だった。
「いいか。お客さんに呼ばれたからと言って、“はい、呼ばれました”っていう顔してんなよ」
一瞬わかりにくいことを、始めに店長は言う。
「・・・」
意味が図りかねて黙っていると、次々とたたみ掛けられる。
「それはなあ、指示待ちロボット人間っていうんだよ」
それを皮切りに、延々と10分は続いた説教の内容をまとめると、こうだった。
お客さんに呼ばれたからと言って、店員はただ受け身になって待っているようではダメ。
お客さんが気持ちよくオーダーできるように、自分からエスコートする気持ちが大事。
例えば、メニューを決めかねているお客さんには、よきタイミングで今飲まれているお酒とあうようなお薦めのメニューを伝えてみたり、旬のものをさり気なくアピールしてみたり。
でも、一方的な押しつけではだめで、お客さんの気持ちを盛り上げるような心配りのもとにすること。
この時間を如何に気持ちよく楽しんでもらえるか、ということを常に頭に置いておけば、お客さんが今本当に求めているメニューも、何となく自然とわかるようになる。
そうなるためには、お客さんを赤の他人と思っていたらダメ。
一期一会のお客さんとの縁だと思って大事にしろ。人生の一瞬一瞬を大事にしろ。
言われたことの表面だけを受け取って、ただ作業するのは、ロボットだって出来る。
「—空気を察しろ。おまえは人間だろうが!」
いつものお説教の決め台詞がでたところで、私はようやく声を出す。
「・・・はい。すみませんでした」
店長は謝る私の目を射通すかのような強い視線で捉えてきた。私は、その強い視線に耐えきれず、いつも思わず目線を下に下げてしまう。
そんな時、必ず思うのだった。
自分の口から出た謝罪の言葉が、ちんけなハリボテのように風に吹かれて倒れてしまうような心許なさを。
店長の怖い説教の嵐を、この謝罪の言葉で無事やり過ごす事ができるのか。
自分の謝罪の言葉を、店長に額面通りに受け取って貰えるのか。
自分は本当に反省しているのか。
そんな、腹が浮くような不安感を。
でも、なぜだろう。
今日の説教は、いつもと違って少し腑に落ちる感覚を覚えた気がした。
自分の目の中が一瞬揺れた。
そして、私はもう一度視線を上げ、店長の目を見た。
そこには、強くまっすぐで深い、真っ黒な瞳があった。
『おまえは人間だろう』
もう一度、声にならない店長の声を聞いた気がした。
そして、胸の真ん中が少し動いた気がした。
その時、店長は頷き、言った。
「わかればいい。おまえが出来るようになるまでは何度でも言うぞ」
「・・・はい。ありがとうございます」
つい、御礼の言葉が口からでた。
それは、初めての事だったかもしれない。
いつもは、叱られているその場から逃げたい一心で、そそくさと背中を見せたり、恐縮顔するばかりだったのに。
店長の眉が少しだけ動いた気がした。
「よし、じゃあ次の休憩まで、またホールにでてな」
店長は厨房から上の階にある事務所へと上がっていった。
その店長の背中に「はい」と一声かけ、私はホールに戻っていった。
・・・つづく
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