今日、下京図書館で借りてきました「健さん」の【少年時代】
あの任侠の世界の「健さん」から想像できない、素の?健さん
この本の内容は「父のカメラ」から「幸せは海の向こうにある」までの21項目
今回、紹介したいのが、21の中の3番目に出て来る「一銭の満足」です
私の子供の頃とダブるのです、私の時は ”一銭洋食” とは言わなかった??
お好み焼き・・とも言わなかったような気がするけど、べた焼き?やったかな~
健さんは自分の事をこの様に書き出している・・・
~オデキが出来やすく、すぐ下痢をする腺病質な子供だった。
五歳から中間幼稚園に通い始めた。お弁当の時間が楽しみ
だったという以外、何も覚えていない。通園の行き帰り、
家の近くの病院の看護婦さんたちによく会った。
礼儀正しく笑顔で挨拶して、菓子や果物を貰っていた。
それを次々と食べて下痢を繰り返した。思い余った母は、
”この子に、食べ物を与えんといてください”
と小さな布に書き、ぼくの服の胸に縫い付けた。
その服を嫌がりもせず着て、外に遊びに行っていた。
父は大笑いしながら、当時の恍けた顔の僕を写真に撮った。
何か、その時の状況が目に浮かびそうだ、凄いお母さんやね~と感心
そして次に、いよいよ一銭洋食が出て来ます・・甘酸っぱい思い出が
~中間市には、二軒の駄菓子屋があった。
安い方の店にほとんど毎日、僕は通い続けた。
学校から帰ると、お手伝いさんに一線を貰い、
走ってこの店に出かけた。店先には大勢の子供たちが
並んでいた。「一銭洋食」を買うためだ。
水に溶いたメリケン粉を鉄板で焼き、
安物の削り節と青葱をのせたおやつ。 最後に、
刷毛でソースを一回だけ塗るのが店の決まりだった。
「もうちょっと縫ってくれん?」
一人で店を切り盛りしているおばさんに、
僕ら子どもは必ずせがんだ。「わかっちょると」
無愛想な声でおばさんは答え、もう一回ソースを
塗ってくれた。古雑誌を千切った紙に、熱々を包んで渡された
僕らは先に食べ終わるのが嫌で、お互い焼き上がるのを待って
一緒に口にした。盃一杯の甘納豆も一銭だった。
どちらを買うか迷った日もあった。
最後にこの様に結んでいる
食べ物も玩具も溢れている時代ではなかった。
それでもなぜか心は満たされていた。
この健さんたちの中に、私も入っているような錯覚するほど懐かしい思い
健さんとは、一回りも歳が違うけれどね~
私の子供の頃も、縁日や夜店で、べた焼き〈一銭洋食〉を買って食べた
ここでは『古雑誌を千切った紙に、熱々を包んで』とありますが
僕らの時は、新聞紙をA4サイズぐらいに切ってあって、それに直接
もちろん、新聞紙にべた焼きが、引っ付きます、でも新聞ごと食べました
そんな時代やったんですよ・・・道に落ちても、拾ってたべてました
高倉健さんは2014年の11月に亡くなっています・・・
それから2年後の2016年の11月にこの本が出版されています
―あとがき―の最後に健さんはこの様に結んでいます
~決して平坦とは言い難い、思い通りになんかならない
俳優としての五八年間を、今まで何とか乗り切って来られたのは、
少年時代に培われた母の「辛抱ばい」の教えだと思います。
俳優になりたての頃は、与えられた役を無我夢中で演じました。
そして、役柄を通して数々の人間像に出会い、
その都度、学んできたように感じます。
素晴らしいでしょう・・・高倉健の人間性を改めて知ることが出来ました
改めまして・・・高倉健さんのご冥福を心からお祈りいたします
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