先ずは深草天皇が実在していないのに何故【後深草天皇】が実在するのか
白河天皇が存在しているから、後の白河と云う事で【後白河天皇】が存在する
因果の法則の様に、「因」が在りもしないのに「果」が生まれるわけがない
普通は、過去の天皇名にあやかってその名を頂くと云うのが一般的であるが??
調べてみたら後深草天皇より遡ること413年前の【第54代仁明天皇】に辿り着く
と云うのは、仁明天皇の御陵名が【深草陵】〈ふかくさのみささぎ〉と云うだけ
深草天皇としては存在しないし、歴代天皇の中にもその名は無い・・・のだが
無理やり元を辿って行くと、仁明天皇【深草陵】しか、その「因」は出て来ない
因みに、仁明天皇【深草陵】に参拝した時の写真を掲載しておこう
全く持って不思議な「後・・天皇」の実態でありますが、この様な例は【後深草天皇】だけです
さてこの【後深草天皇】ですが、結果的には後の室町時代に起こる南北朝時代の現況になります
二人とも実子でありながら片方の子供ばかりを可愛がる、そんな天皇が【後嵯峨天皇】です
現在皇位継承が話題になっていますが、神代の昔から同じことの繰り返しの様です
先程も言ったように南北朝の「因」となったのが後嵯峨天皇の二人の息子なんです
兄が【久仁親王】で後嵯峨天皇からの譲位で【後深草天皇】となりますが、まだ4歳でした
勿論父「後嵯峨上皇」の言いなりです、最初は言いなりでも13年間は天皇で居たのが
弟の恒仁親王を可愛がるようになった後嵯峨上皇は突然兄を後深草上皇にして
弟の恒仁親王を【亀山天皇】に即位させます
その後【後深草上皇】は仙洞御所に移り住み、その御所の殿舎名から、
後深草上皇の子孫を、【持明院統】と呼ぶようになります
一方の亀山天皇が退位後に院政を行ったのが大覚寺で、こちらの系統が【大覚寺統】です
この親子三人の天皇は結局、父第88代【後嵯峨天皇】と息子〈弟〉が天竜寺の隣同士の御陵へ
しかし、長男の【後深草天皇】は単独で【深草北陵】に葬られている
上の制札の中で、後光巌天皇と後円融天皇が北朝です・・・深草北陵の横をJR奈良線?が走っていました
この御陵【深草北陵】は別名・・・【十二帝陵】とも云われている
この持明院統の始祖である【後深草天皇】を始め、北朝二代を含め12人の天皇が葬られている
仁明天皇は異称「深草帝」があります。だから後深草天皇が存在します。また、南北朝統一時の天皇に後小松天皇というのがいますが、光孝天皇を「小松帝」というのでそういう名になっています。他にも後水尾天皇や後奈良天皇などがあります。
昔の天皇の名前(諡号・追号)に後をつける時は、決まって世の中が混乱している時です。この風習と、在位時に名前をつけないという風習を破った唯一の天皇が後醍醐天皇です。
後醍醐天皇は醍醐天皇に「憧れて」、「生前に」名前を自分に付けました。
後小松
後柏原
後奈良
後水尾
明治以前は歴代天皇の呼称は複数あって「○○天皇」ひとつで整理されてなかったから、現在「仁明天皇」「光孝天皇」「桓武天皇」「平城天皇」「清和天皇」と呼ばれている天皇達が「深草帝」「小松帝」「柏原帝」「奈良帝」「水尾帝」と"も"呼ばれていた。