深草北陵〈ふかくさきたのみささぎ〉
北朝第4代後光厳天皇
北朝の初代光厳天皇・第2代光明天皇・第3代崇光天皇が南朝方に拉致され
芳野に幽閉されるに至り、京の都、即ち北朝方には天皇不在が続いた
そんな状態の京の町の秩序を回復するのが第2代将軍足利義詮であった
光厳上皇の皇子を擁立して、北朝を再興することになる
ただし、親王宣下の無いままの即位に及び、15歳の後光厳天皇が誕生する
しかしながら京都の情勢は不安定が続き、幕府内部でも内紛が続く・・・
南朝方の京都攻略等もあって、幾度も天皇は美濃や近江に難を逃れた
この時期、多くの寺社が焼失したりして、朝廷の威光に陰りが見え始める
都の治安は一段と悪化し、盗賊らが街を徘徊するようになった
政治が安定していくのは、義詮が亡くなって義満が将軍になってからである
後光厳天皇は応安4年〈1371〉第2皇子〈後円融天皇〉に譲位して
院政を開始しますが、三年後に病を得て応安7年1月に崩御、深草北陵に葬られます
北朝第5代後円融天皇
後光厳天皇の第2皇子として延文3年〈1358〉に生誕されています
応安4年〈1371〉に今度は親王宣下を受けて、14歳で即位後円融天皇に
今度は、ナント朝廷内にも派閥が、皇位継承をめぐる紛争が続く・・・
その原因は、芳野から帰還していた崇光上皇と後光厳上皇の不仲にあった
崇光上皇は持明院統の皇子を後光厳天皇の後継者にと幕府に働きかけますが
しかしながら幕府は、戦乱の中運命を共にした後光厳天皇への配慮から
幕府は正式に後光厳天皇の第2皇子の即位を認め、第5代後円融天皇に即位されます
第5代天皇に即位したものの、足利義満が頭角を現してきます
参議、権大納言を経て、左大臣まで昇格してき、南北朝時代も終焉へと・・・
朝廷同士の対立ではなくなり、京都の幕府と南朝の対立に代わっていき
ついに明徳3年〈1392〉南北朝の合一が実現するのですが・・・
後円融天皇は在位11年で、永徳2年〈1382〉第一皇子〈後小松天皇〉に譲位します
後円融上皇は南北合一なった翌年の明徳4年4月に崩御され深草北陵に葬られます
北朝第6代後小松天皇は南北合一後に歴代・第100代天皇となりますので
北朝の天皇としては、第5代の後円融天皇までとし、今回が最後になります
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