1日早い投稿です。
父は旧国鉄職員で、機関車の運転手であった。
週の半分は米子、小郡で折り返しの宿泊をしていたからあまり家には居なかった。
子供の頃は町内の子供会や野外スポーツ少年団の活動が盛んで、保護者のみなさんは大体母親だ。
それでも父が休みの日にはよく海水浴へは連れて行ってもらった。
素潜りが得意で、なかなか上がってこないから「まずいでぇ」とざわめき始めたら上がってくる。
サザエにボベに、両手いっぱいに抱えて。
兄が高校進学で父とやり合った。トップクラスの成績にもかかわらず、若干成績の劣る彼女が受験する高校に行く、と言う。
その時、父の容態がおかしくなった。救急車を呼ぶと脳梗塞だった。
私が大学入試に受かった際、合格通知をずっと枕元に置いていた。私が体調を崩し中退した時は、もう1年分学費を振り込んでいた、と後から母に聞いた。(これって、履歴書詐称?)
定年後、喘息、糖尿、病が続いた。
私が結婚して3年目、子供を授かった。ちょうど祖父の何回忌だったろうか。身重の妻を心配して先延ばしにした。
その途端に癌が父の身体を蝕んだ。そしてお腹の中で命の鼓動を響かせる娘の前で、息絶えた。65歳。
父の納骨の日。親戚がほとんど集まった。父は8人兄弟、母も6人。従姉妹従兄弟合わせると大層な人数だ。
その日、朝から妻が激しいつわりにみまわれる。
生まれた。父と入れ替えのように。。。父が累代の安住の地へ行く様は目にできなかったが、親戚中がお祝いに駆けつけてくれた。妙な時間だった。
時は過ぎた。私も父親ではあるが、もはや実態としてはそうではない。
見出しの写真は、4歳の娘と2歳の息子(当時)が父の日にプレゼントしてくれた物だ。
今でも大事に取ってある。
写真は出せないが、行きつけの楽器店でギター講座を娘が受講していたという。その時の写真をメールで貰った。
私が初めて手に入れたギターを抱えていた。置きっぱなしだったギターだ。素直に嬉しかった。
いつか親子で一緒に。そんな日を夢見ながら。
叶えば良し。叶わなくても良し。寂しくても良し、期待を持つのも良し。
誕生日だろうが記念日というものに無頓着ではあるが、子供だけはやはり違うかな。
もう若くないね。親父の歳まで両手の指は何本か折れている。
父の日。父のアルバムに目を通す。死んだその日以来か。楽しそうだ。息子の私が知らない笑顔がある。そして訳の分からない機関車の構造図やら説明できない設計図やら。勉強家だったという話は母から聞いているが、半端ない。戦時中で兄弟が多かったから尋常小学校卒だが、頭のいい人だった。遊びもよく知っていたぞ(笑)
父の日か。母親とはまた違う。
過去と未来を巡る良き日となれば幸いである。今はそれ以上望まない。
今は。。。。である。