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アカシア俳句会「土生重次俳句論」

2024-07-26 18:47:26 | 俳句

抄録・重次俳句論 - 土生重次、かく語りき ー

 

    

 



 

 

                                《「重次俳句論」学びの経過》                既発行『句評』「編集後記」掲載(詳細は該当俳句会をクリック)
                                               ◇「俳句は叙事詩である」 季語―非凡の一節を支えるもの            令和五年『冬季・新年俳句会』
                                               ◇「俳句はモノに託して心を詠う文芸である」                  令和四年『秋季俳句会』
                                               ◇「俳句は〝心〟や〝情〟を直接的に詠ってはならない」              令和四年『秋季俳句会』
                                               ◇「俳句は〝今〟をとらえた文芸である」                     令和五年『春季俳句会』
                                               ◇「俳句は〝何を詠うか〟ではなく、〝いかに詠うか〟だ」             令和五年『春季俳句会』
                                               ◇「俳句は感動を詠う詩である」                     令和五年『夏季俳句会』
                                               ◇「俳句は自然と人間との関わりを詠う詩である」           令和五年『夏季俳句会』 
                                               ◇「俳句は『坐五』(*)がいのち」*:「坐五」 下(しも)五文字    令和五年『秋季俳句会』
                                               ◇「俳句は描写ですよ!」                                    令和六年『冬季・新年俳句会』
                                               ◇「言葉はやさしく、思いは深く」                          令和六年『春季俳句会』
                                               ◇「俳句は映像(イメージ)の交換です」                 令和六年『夏季俳句会』
                  ◇「俳句は哀しみの文芸である」                   令和六年『秋季俳句会』 最終回

 

「アカシア俳句会」活動の詳細は こちらから

 

 


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『正信偈講座』取意讃嘆ノート

2024-06-14 23:46:27 | 宗教

『梯 實圓  正信偈講座』(2023、本願寺出版社取意讃嘆ノート(要約)


文責:釋智秀(前田秀一) プロフィール


   

拡大(pdf)版は こちらか

◆「正信偈」とは
◇親鸞聖人は多くの讃歌を造られた
 親鸞聖人は天性豊かな詩才を備えた方で、漢詩形式の「正信念仏偈(正信偈)」や分かりやすい和語に訳された「和讃」など多くの讃歌を造られています。
 「讃」とは、仏様の徳をほめ称える詩のことで、「和讃」(分かり易い和語翻訳)、「漢讃」(漢詩形式)、「梵讃」(梵語詩)の三種類があります。

◇なぜ、詩の形式なのか
 「正信偈」は「偈頌(げじゅ)」といわれ、言葉をととのえ、韻を踏んで造られた漢詩で教義を顕す詩、いわゆる教義詩です。格調が高く非常に難しい文章です。
 インドでは最初期から教理を詩(「偈頌(げじゅ)」)で顕し、散文(長行)で説明する方法がとられ、龍樹菩薩著『中論』、天親菩薩著『浄土論』などがその事例です。
 その背景は、経文のような尊い言葉を文字に顕すことは、その神聖性を損なうという考え方があって文字に顕すことは避けていました。その代わりに、後世への伝承手段として言葉を記憶して伝えるために韻を踏んだ詩の形を取り入れて記憶に便利なように詩、韻文にしてあります。
 さらに、宗教的な心情が高まると、それを表現するとリズミカルな言葉になりそれぞれの民族の持っている独特のリズムに合わせて読んでいくように、教えが詩の形をとって顕されてきました。

 

               浄土三部経(取意讃嘆用・吉野北組三部経意訳編集委員会)    証信念仏偈(浄土真宗本願寺派日常勤行聖典編集委員会)

◇「正信偈」がわかれば真宗がわかる
 「正信偈」は、『教行信証文類』(浄土真宗の根本聖典)1部6巻に顕されている内容を、ギリギリまで要約して讃迎し、伝承しやすいように詩の形式で説かれています。
 前半部分(依経段)には、「浄土三部経」(『大無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)、特に、お釈迦さまの教えである『大無量寿経』のこころが述べられ、後半部分(依釈段)には『大無量寿経』の教えをインドから中国、そして日本の三国にわたる七人の高僧方のお勧めによって本願を信じ念仏を申す身にしていただいた教えを60行120句の短い言葉の中に込めて要約されました。

◇「正信偈」の序文
 『教行信証文類』全体、すなわち浄土真宗の法義のすべてを要約するものだという意味で、初めに序文が置かれています。
 「この真実の行を明かした願が、阿弥陀仏の四十八願中の「諸仏(しょぶつ)称名(しょうみょう)の願(がん)」(第十七願)である。
その真実の信を明かした願は、「至心(ししん)真(しん)楽(ぎょう)の願(がん)」(第十八願)である。これがすなわち法然聖人が言われた「選択(せんじゃく)本願(ほんがん)の行(ぎょう)信(しん)」である。

 < 第十八願 現代語訳 >
 わたしが仏になるとき、すべて人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。 ただし、五(い)逆(ぎゃく)の罪(*)を犯したり、仏の教えを謗(そし)るものだけは除かれます。
                              *:五種の最も重い罪(父を殺すこと、母を殺すこと、 阿羅漢を殺すこと、僧の和合を破ること、仏身を傷つけること)
                                               出典:白川晴顕2007『聖典セミナー尊号真像銘文』本願寺出版社

 その真実の行信を頂戴して救われていく「機」(救いの目当て)はどういう者かと言うと「一切善悪」、「大小凡愚」である。善人であれ悪人であれ、大乗の人であれ小乗の人であれ、どんな愚かな凡夫であっても、すべて阿弥陀様の救いの対象になっている。その人々が平等に「行信」をいただいて往生をする。その往生を「難思議(なんじぎ)往生(おうじょう)」という。」

 親鸞聖人は、「人間の思い計らいを完全に超越した、海のごとき広大無辺な絶対の真実が、阿弥陀仏の誓願のことば、本願のことばとなって私たちに届いている。それを届けてくれているお経が『大無量寿経』であって、この『大無量寿経』の宗教(究極の法義)を親鸞は〈他力真宗、浄土真宗〉と名付ける。それを『教行証文類』としてここに開顕し、その内容を要約して〈正信念仏偈〉として顕していく」といわれています。

◇「本願を信じ念仏を申す」、これが浄土真宗
本願を信じ念仏申すという「選択本願」(法然聖人の教え)の行信を親鸞聖人は「浄土真宗」と呼ばれました。つまり、教団の名前としてではなく阿弥陀様の本願のはたらきに名付けられた言葉で、具体的には、私が今こうして本願を信じ念仏申していることを「浄土真宗」といわれたのです。
 このように、浄土真宗、すなわち本願の行信を讃嘆する身になったことを慶ばれたのが「正信念仏偈」です。

 

◆阿弥陀仏の四十八願(本願、誓願)
◇二人の王様-世自在王仏と国王(法蔵菩薩➡阿弥陀仏) - 『大無量寿経』の説話
 「世自在王仏」が出現された時に一人の国王がおられたといいます。その国王がたまたま「世自在王仏」の説法を聞いて大変感動します。そして国王は、世自在王仏に帰依して弟子になっていきます。
   「世自在王仏」:「世間にあって自在に人々を救う王様」(聖なる領域をあらわす王様)
   「法を説く国王」:俗なる領域を顕わす王様(最高の富と地位と権力と名誉を持つ国王)
 その国王は、世自在王仏に遇って教えを聞いて、世俗の空しさを知り、弟子となって、富などをすべてを捨ててしまいました。その時、この元国王に「法蔵(ダルマーカラ)」という名前が付けられました。「ダルマ―カラ」は、「ダルマ・アーカラ」の略称で、「ダルマ」は「法」、「真理」という意味、「アーカラ」は「生み出す」、「源泉」、「源」という意味があります。「法蔵菩薩」は、真理を生み出し、真理を顕現させ、真理を万人のものたらしめていくものの名前として呼ばれることになりました。
 法蔵菩薩は、五劫(計り知れないほどのきわめて長い時間)をかけて思惟を重ね「生きとし生けるすべての者を、善悪賢愚の隔てなく救うていく道を完成されました。その誓いを「四十八願」という誓いとして顕しました。
 法蔵菩薩は、限りなく人々を救い支えるために仏陀となられ、万人を平等に救うために、「南無阿弥陀仏」という名号を人々に聞かせて、仏の徳をすべての人に与えていこうとされました。
 法蔵菩薩が、兆載永劫にわたって修業を続け、やがて光明無量・寿命無量といわれる徳を完成して、阿弥陀仏となられました。

 

◆私達を呼び覚ます光
 『大無量寿経』では「阿弥陀仏」の原語は、「アミターバ」とあり、言語の意味から翻訳すると「無量光」となります。
 しかし、これに対して中國の人は、「無量寿」と翻訳しました。おそらく、不老長寿を夢見た中国の人は、無量寿ということから、阿弥陀仏の浄土教に関心を示すようになったのでしょう。
 法然聖人は、寿命を中心に見ていかれ、この世で一番大事な宝は寿命であるといわれ、阿弥陀仏の徳も命に限りがないから成立していると考えておられます。阿弥陀仏は限りのない寿命を本体とし、その仏様が一切の衆生を救っていくはたらきが光明であると説かれています。
 親鸞聖人は、「阿弥陀仏」のことを「尽十方無礒光如来」、「南無不可思議光仏」と語られ、寿命のことに触れず光明を中心とした信仰形態を説かれています。「しかれば、阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし」と阿弥陀仏は光明の仏様で、光明は知恵の形で、知恵は形のないもの、よって阿弥陀仏は形なく十方を包み、十方の衆生を導き目覚めさせる仏様なのだと説かれています。

 

◆本願名号「南無阿弥陀仏」の救い

◇名号による救い
 親鸞聖人は、阿弥陀仏の正覚(しょうがく)(さとり)、悟りの内容を「光明」と「名号」でも顕されています。
 「名号」は、真宗では一番大事な事柄で、浄土真宗とは名号を中心に展開する宗教です。
 「名号」は、阿弥陀仏の願い(第十八願)を具体化したものであり、その名が人々のこころを如来・浄土に開き、救済していくということです。これが真宗の特徴で、阿弥陀仏、浄土といってもすべて「名号」という一点に集約されます。

◇「南無阿弥陀仏」という仏様
 親鸞聖人の名号観において、仏の名前は「南無阿弥陀仏」です。
 「南無」という言葉は、「帰命」と訳しますが、仏に対して帰依(きえ)し、礼拝し、心から尊敬をする、という意味で、礼拝する側の心境を顕わす言葉です。
 親鸞聖人は、「信心」も「帰命」も「はからいなく如来の仰せに順う」という意味にとり、両者を同義語にとされています。従って、「南無」とは、信心を顕わしており、信心を私たちに与え喚(よ)び覚ます阿弥陀仏ということで、「南無阿弥陀仏」だとおっしゃるのです。
 つまり、「南無阿弥陀仏」とは、「南無せしめる阿弥陀仏」、「南無という信心を与えて救う阿弥陀仏」ということです。
 「南無阿弥陀仏」には、阿弥陀仏がお誓いになられた四十八の願い(誓願、四十八願)の内、根本の第十八願(本願)が込められており「本願の名号」といわれました。
 親鸞聖人は、称名の主体は本来衆生であることを踏まえ善導(ぜんどう)大師(だいし)が「正しく往生を決定する行業(正定業(しょうじょうごう))」という考えを導入され、「本願の名号が正定(しょうじょう)の業(ごう)である」と言いかえて主体を如来に転換されました。

◇念仏-阿弥陀仏から頂戴した行
 親鸞聖人は、私が念仏を称えたから私が救われるということではなく、往生成仏の大行として完成している真実行を頂戴していると了解されました。
 つまり、阿弥陀仏が「私」の上に顕現し、南無(われにまかせよ)阿弥陀仏(必ず救う)と、本願の心を言葉で表し招喚されている如来の説法であるような念仏なのです。そういう念仏が「私」を救うのです。そのことを「本願(ほんがん)名号(みょうごう)正定業(しょうじょうごう)」という言葉で表現されています。

 

◆「如来」とは何か
◇如来とは、「如より来る」
 「如」とは、「一如」あるいは「真如」と言われます。私たちの知的な、概念的な思考・判断を超えた覚りの領域です。「如」の状況を覚り、それを我々説き顕すために来る方を「如来」と言う。「如来」と言うのは「如」の世界を私たちに告げ知らせる相(すがた)なのだということです。お釈迦様だけでなくすべての仏陀は「如」より来る。阿弥陀の世界、私達の分別を超えた(無分別)智の領域から私達のところへ言葉をもたらし、その言葉でもって私たちをこの「如」の世界へと導いてくれるもの、それが「如来」なのです。
 お釈迦様は阿弥陀仏が如来してきたのだから、その如来してきた阿弥陀仏、つまりお釈迦様は阿弥陀仏の心を説き顕す。それが釈尊の出現の使命です。
 その故に、「如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり」と言われるのです。

◇仏は、お釈迦様だけではない
 お釈迦様とは、実は阿弥陀様が時間的に限定された形で我々の前に顕れてこられたお方だ、阿弥陀様とは、お釈迦様の悟りの内容なのだということです。お釈迦様と阿弥陀様は別物ではないのです。
 阿弥陀様の智慧はお釈迦様となって私達の前に顕れる、お釈迦様の説法というものは阿弥陀様の智慧の光りなのだ、智慧の光が言葉となったものが『大無量寿経』なのだ、と説いているのです。
 『大無量寿経』は、「仏様がお説きになったもの」であると同時に「仏とは何か」を説いたお経です。
 坂東本という『教行証文類』の親鸞聖人自筆本には、最初は「釈迦」と書かれていた個所を、後でグシャグシャと消して「如来」と書き換えておられます。この消した跡によって親鸞聖人の心の動きが見えてくるのです。「釈迦」という固有名詞では、お釈迦様だけの話になるからです。
 阿弥陀様が相(すがた)をとって顕れてくるのはお釈迦様だけではないのです。無数の仏様方がそうなのだということを考えて、「如来」という普通名詞を使われたのです。
 『阿弥陀経』には、「恒河沙数の諸仏」と説かれ、ガンジス河の砂の数ほどもある仏様方は、皆「如来」なのだ、と。そのガンジス河の砂を全部集めたほどの仏様がいらっしゃる。そしてその仏様方が我々に教えを説き続けているというのです。仏教と言うのは仏になる教えです。

◇念仏は如来のはたらきが私の上に顕れ出たもの
 法然聖人から教えられた本願の念仏とは、「〈南無阿弥陀仏〉と、阿弥陀仏のみ名を唱えよ」と言われたとおりに、口に阿弥陀仏のみ名を唱えながら生きていく姿を「念仏」と言い、本願の「行」と言います。
 「念仏」とは、「私」が称えているのだけれども、それは「私」のはからいによって唱えているのではなくて、阿弥陀如来が選び定めて与えて下さった「南無阿弥陀仏」という「正定業(しょうじょうごう)」、すなわち如来の救いのはたらきが私の口に顕れ出ている姿で、「『私』が如来の行を行じている」というのが親鸞聖人のお考えです。
 私が念仏を称えるということは、お釈迦様が『大無量寿経』や『阿弥陀経』お説きになっているのと同じ意味を持っています。つまり、念仏は凡夫が行っているけれども、凡夫の行いではなく、如来の行を行じていると考えるのです。
 親鸞聖人は、「本願の念仏は私の行動ではなくて、如来の行動が「私」の上に顕れている尊いはたらきである。だから念仏は大行であり、真実の行である。」とおっしゃり、阿弥陀仏の仰せのままに念仏を称えていくと教えられています。
 一生懸命念仏して「これが仏様のおはからいだった」と気が付き、「励ましていただくというのは有り難いな」というふうにいただければ、それを「他力」というのです。

 

◆人生の荒波を超える道

◇愚かさに帰る
 阿弥陀仏の本願念仏は、自力をたのむ邪見で憍慢な悪人には絶対に信じることはできない。絶対にできないということは、人間の手が届くことではない。
 念仏の行というのは易行であり、これ以上の易行はない。けれどもそれを信受することは難真である。
 行は易行、信は難信、これが『大無量寿経』の特徴です。
 『阿弥陀経』の一番最後は「もろもろの衆生のために、この一切世間難信の法を説きたまふ」と書かれ、信ずることが出来ない、実は信じたのではなく、信ぜしめられたのだということを知らせようとされています。
 救いの世界は、自力では絶対に理解することも、信ずることもできない。それはまったく如来の御はからいの開く世界だ。そういう領域だから、私は自分の固有の能力というものを一切はたらかせずに、如来の御はからい(如来の本願の言葉)に自分のすべてを委ねる。本願の言葉は理解できる言葉ではないので、受け入れるしかないのです。これを「信」というのです。
 法然聖人は、何もわからん人間になって「法」を聞けと言われています。それが「信」の世界だと、ただ仏様の言葉が響いているだけなのです。私のはからいを離れて本願を聞くというところのみ、救いの世界は開かれていくのだということです。

 

◆親鸞聖人の信心の構造
 「私は仏様を知ることも、見ることも、わかることもできないものだ。そういう私を如来様が知り、わかり、見ていてくださる。それでよいのだ、それだけで私はかたじけないのだ。」と、主人公は仏様だ、私はその仏様に背いているが、仏様は私に責任をもって包み込んでいるのだ、という形で自分の在り場所を確認しているのです。安住の場というものがそこに開かれているのです。
 親鸞聖人は、「仏様を確認し、仏様から承認を得て仏になるという従来の仏教と違う」ということで源信僧都を非常に高く評価されました。

 

◆お念仏の道を伝えた高僧たち

❖七高僧が明かしてくださったこと
 お釈迦様がこの世に出現された本意は、『大無量寿経』を説いて阿弥陀仏の本願を明らかにすることであり、更にその阿弥陀仏の本願は末法の時代を生きる凡夫に一番ふさわしい教えであることを、印度・中国・日本の七人の高僧方が明かしてくださりました。
 親鸞聖人は、七高僧を、一応、お釈迦様に対して仏弟子としておられますが、その内実は仏様だと見ておられます。この方たちの智慧の領域は仏様と同じと言ってよいのです。阿弥陀様の久遠の悟りが七人の高僧となって様々な時代と民族の中に顕れてきて下さったのです。


 
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❖善導大師 浄土教を救た高僧
◇如来に呼び覚まされ続ける人生 ➡ 古今の過ちを正す
 「念仏では浄土に往生できない」という浄土教の危機的状況にあって、善導大師がお出ましになり、「お前たちの『観無量寿経』の理解は間違っていると諭され、『観無量寿経』領解の正しい枠組を決められました。
 「念仏は即時に往生する行法である。それを可能ならしめるのは阿弥陀仏の本願力である。本願力であるが故に、どんな愚かな凡夫であっても、本願を信じて念仏すれば、本願の誓約の通りに、確実に、阿弥陀仏が成就された真実の浄土である「報土」に生まれることが出来る。凡夫が凡夫のままで、お念仏を申すことによって本願力に乗じて即時に、真実の浄土に往生する道が『観無量寿経』に説かれている。」
 これがお釈迦様のご本意である、ということを『観無量寿経』の注釈書である『観無量寿経疏』によって確立されました。これによって念仏の教えが、再び長安や洛陽を中心にして広まっていきました。

◇お釈迦様、「勧法」を説く 
 韋提希夫人の要請にこたえて、お釈迦様はまず浄土、仏様や、観音・勢至(せいし)などの相を心に思い描いていく十三種の観念の方法を説いていかれます。これを「定善(じょうぜん)」といいます。「定」とは心を一つのところに集中して動かさない状態です。善導大師は「定善(じょうぜん)」を、「息慮凝(そくりょぎょう)心(しん)」(おもんばかりをやめて心を凝らす)と言われています。 

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◇極悪人に念仏を
 『観無量寿経』には、最後のところに一生涯悪いことばかりしてきた人間、つまり、一生涯、「五逆罪」と「十悪」を作ってきて、とんでもない悪行を働いてきた人間が説かれています。
   「五逆罪」:①父殺し、②母を殺し、③聖者を殺し、④仏身より血を出し、⑤教団の平和を乱す逆罪
   「十悪」:殺生、盗み、など10種の悪業
 そんな極悪人が臨終にさしかかり、もう罪滅ぼしも何もできない状態に追い込まれるのですがそんな人間にもなお救いが与えられるのです。そこに『観無量寿経』というお経の特徴が出てきます。
 『観無量寿経』は、定善・散善という「善」が行える人のための道を説くとともに、三福(行福・戒福・世福)の善さえも行えないで悪いことばかりしていた「十悪」・「五逆」をつくるために生きてきたような悪人に念仏を与えて救いの道を開こうとしています。
 定善や散善が出来る人にはその道を与え、何もできない人にも念仏の道を与えて救おうとされています。つまり、善人も悪人も救おうという形をとっています。
 『観無量寿経』では、下品下生(げぼんげしょう)の人(下の下、どうしようもない人)はお浄土に生まれた場合蓮華の華の中に十二大劫(劫:極めて長い時間の単位)という非常にながい間包まれて、身動きが出来ないと説かれています。
 罪の償いが終わると花が開き、お浄土に移り、観音様が来られてすべてのもののまことのすがたと、罪を除き去る教えを説かれます。この人はやっと菩提心(さとりを求める心)を発し、仏道修行をはじめていったと書いてあります。

◇今、溺れている人のために
善導大師は、浄土の教えは、死ぬまで煩悩具足の凡夫でしかありえない者、死ぬまで煩悩を垂れ流している人間、それしか生き様がない人間、そういう人間のために救いの道を開こうとするものだと、以下の様に述べられました。 

◇人間が秘めているもの
 「善人・悪人というけれども、本当は善人・悪人というものがいるわけではなく、よい時と悪い時があるだけなのである。よい時の私と悪い時の私がいるだけである。縁に応じて、縁に触れれば、何をしでかすか分からない、みんなそういう弱さ、危うさをもっている。仏様を見失って、結局は不安な状況にあるのは、善人も悪人も一緒である。」
 不安な状態にある凡夫を矜哀(こうあい)(深く憐れむ)して、本当の救いの道は阿弥陀仏の「光明」、「名号」にあることを『観無量寿経』は表わしてくださっていると、善導大師はおっしゃるわけです。

 

❖源信和尚 日本の浄土教の黎明(平安文化の精神的支柱)

◇背いたまま包まれる 
 「煩悩があるがために、私は自分中心にしてしかもものを考えられない。自分の都合のよいように欲を起こし、自分に都合の悪いものには憎しみを起こして悩み、心を乱している。この煩悩があるために私は仏様のおすがたを見ることができないし、仏様の光明に照らされていることを私は確認することができない、誠に恥ずかしい存在だ。けれども『観無量寿経』では、「念仏衆生を摂取して捨てない」と言われている。
 とすれば、仏様のみ名を称え、仏様の功徳を想い浮かべている私は念仏の衆生だ。このお経に嘘がないならば、私から見ることはできないけれども、私は仏様の光につつまれ摂め取られているはずだ。」
 源信僧都はこのように考えられました。「『観無量寿経』の言葉からは、仏様を見ることが出来ない私は、仏様に背いているともいえ、そのように仏様に背いているものを仏様はいつも照らし護り続けていてくださり、確実に浄土へ連れて行くとしてくださる。それは、今、「念仏」していることにおいて確認することが出来、経典に「念仏衆生」と言われた言葉を私は確信します。」

 

❖法然聖人 「浄土宗」を開く 

◇念仏-救済の願いに包まれる
 阿弥陀仏が本願の中で、「念仏しなさい、必ず救う」と誓われた念仏は、歩いている時は歩いているまま、じーとしている時はじーとしているまま、座っている時は座ったまま、寝た時は寝たまま、そのままの姿で称えるものだということです。
 「時節の久遠を問わず」ということは、長い間称えようと、短い間称えようと関係ないということです。たった一声称えるだけで命が終わる人もあるし、何十年も念仏生活を送る人もある。一声で少ないということはない。百万遍でも多すぎることはない。ただ思い出すごとに称えて、念仏を捨てないこと。これを正しく往生が決定する行いといわれているのです。
 法然聖人は、善導大師のこの言葉を何度も読んでいらっしゃったのですが、初めて「かの仏の願に順ずるがゆゑなり〈順彼仏願故〉」という言葉の重みに気が付かれたのです。
 これまで、法然聖人は、自分で念仏を選んだと思っておられたから納得できなかったのです。
 しかし称名念仏は自分が決めるのではない。仏様が決めていらっしゃる。だから私はただ仏様が決めてくださったことに随順しているのだ、と気が付かれた時に、私が念仏の主人公ではない、本当の念仏の主人公は阿弥陀様だと回心されました。
 阿弥陀様が「南無阿弥陀仏」という阿弥陀仏の名を往生の行として選び取って、「これを称えてくれ」と願いを込めて私たちに与えておられる。従って、私は、私が称えた念仏で救われるのではなくて、阿弥陀仏が私を救おうとして選ばれた念仏によって救われている。私が念仏していることは、阿弥陀仏の本願に包まれていることなのです。念仏は、如来様の救済の願いに包まれていることなのだということに、法然聖人は納得されました。

 阿弥陀仏は、念仏以外の行を「選び捨て」、念仏一つを「選び取り」、念仏を往生の行業として「選び定めた」。法然聖人は、阿弥陀仏のこの「選捨」、「選取」、「選定」の「選択」を「選択(せんじゃく)本願(ほんがん)」と呼ばれました。

 

❖親鸞聖人 自然法爾(じねんほうに「念仏を称える生活の中で、その人は姿かたちがないままに仏となっている」山折哲雄『御堂さん』5頁、2024年1月号
◇求道者:法然、聞法者:親鸞
 親鸞聖人は、法然上人の教え(「浄土教」)が全仏教を包括する意味を持つと理論的に確認し『教行信証文類』に顕されました。
 『教行信証文類』では、『華厳経』、『涅槃経』、『維摩経』など様々な経典を引用して、浄土教の真理性を証明していかれます。その結果を踏まえて、親鸞聖人は、浄土真宗は仏教の中の一宗ではなく、仏教はこの一点に統一されると確信されました。
 法然聖人は本当の意味で道を求めた求道者で、親鸞聖人は聞法者、法然聖人の求められた道の真理性を確認した人です。だから浄土真宗は法然聖人と親鸞聖人の合作です。法然聖人の浄土宗の真実の謂れを浄土真宗と名付けるのです。
 法然聖人を支えたのは善導大師ですが、それは源信僧都の『往生要集』を通して受け入れられた事実であり、源信僧都による中国の思想の解釈の助けがあって可能となりました。
◇「親鸞」の名乗りの意味
 法然聖人は、浄土宗の依りどころとして「三経一論」を挙げられます。「三経」とは、浄土三部経(『大無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)のことで、「一論」とは天親菩薩の『浄土論』を挙げられています。
 しかし、『浄土論』については何も語られていないのです。「三経一論」と言いながら師資(しし)相承(そうじょう)(師匠の教えを代々引き継ぐ)の中に天親菩薩の名前も上げておられません。
 親鸞聖人は、法然聖人が曇鸞大師の書物を通して天親菩薩の『浄土論』の存在を知ったことに注目し、曇鸞大師を通して天親菩薩の『浄土論』の教えを理解するに至った経路を見出そうとされました。
 曇鸞大師が天親菩薩の『浄土論』(詳しくは『無量寿経優婆提舎願生偈』)を註釈する元にしたのが龍樹菩薩でした。龍樹菩薩が仏教の中に難行道・易行道という枠組があると仰っている。曇鸞大師は、その枠組で言えば、浄土教は、難行道ではなくて易行道であると解釈論理を示されました。
 実は『浄土論』に書いてあるのは菩薩道です。浄土に往生しようとする者は、礼拝・讃嘆・作願・観察・廻向という自利利他の行を修め、「妙樂(みょうらく)勝(しょう)真心(しんしん)」と言われる悟りに相応しい心を完成して浄土往生を実現すると言ってあるわけです。
 これは、どう見ても天親菩薩が瑜伽行と言われる仏教をもって浄土教を解釈しているようにしか見えません。
 これに対して、曇鸞大師の『往生論註』には一番最初に龍樹菩薩の「難易二道」を出し「この枠組みの中でこの書物は読むべきだ」と決めて、独自の解釈論理を示して、善導・法然に教えをつなぎ、浄土教が仏教全体を包む教義体系へ仕上げて行く道筋をつくりました。
 その道筋が見えてきたときに、親鸞聖人は、天親菩薩の「親」と曇鸞大師の「鸞」をとって「親鸞」と名乗られました。

 

 

 

< 感謝を込めて >
 この投稿は、亡母五十回忌および亡父三十三回忌法要を迎えるに際して拝読した梯 實圓  2023『正信偈講座』本願寺出版社の豊かな内容を讃嘆し、その趣意を脳裏に沁み込ませる事を目的としてまとめた「小冊子」・梯 實圓 2023『正信偈講座』本願寺出版 取意讃嘆ノートに基づいた「抄録版」であります。
 僭越ではございますが、諸人をあるがままに救わんとする親鸞聖人の教えを皆さまと共有させていただきたいとの意図をもって、ここに投稿掲載させていただきました。
 母の往生を機縁として、恵日山真光寺にて聴聞に与らせていただき、三代にわたる住職様より、折に触れて親鸞聖人のお説教「自然法爾」()を学ばせていただきました。                                                                 
 この度、親鸞聖人御生誕八百五十年・立教開宗八百年慶讃法要記念として発行された 梯 實圓 2023『正信偈講座』本願寺出版社 は、私にとって50年間のお導きの総集編ともいえる御本にて、永年のお導きに感謝の意を込め恵日山真光寺へこの「小冊子」を奉納させていただきます。
                                        *:じねんほうに「念仏を称える生活の中で、その人は姿かたちがないままに仏となっている」

 

恵日山 真光寺 納骨堂 前室(休憩所)に備えご紹介いただきました

恵日山真光寺のホームページ「新着!資料の部屋」にリンクを貼って掲載していただきました。

 

「正信偈講座」をキー・ワードとして検索(少し下の方にスクロール)できるようになりました!

 


西本願寺 阿弥陀堂 帰敬式の日(2016年5月15日) 撮影:釋智秀(前田秀一)

 


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キャリア・デザイン Ⅰ 「堺」 アイデンティティーを築く仕掛け

2023-08-03 21:13:36 | キャリアデザイン

「堺」 アイデンティティーを築く仕掛け

キャリア・デザイン Ⅱ ユネスコ活動 アイデンティティーの仕掛け Y氏への手紙


前田 秀一 プロフィール

はじめに

 「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶に於ける其の貫道する物は一なり。」
           
 松尾芭蕉は、貞享4年(1687)10月から翌年4月にかけて,伊良湖崎,伊勢,伊賀上野,大和,吉野,須磨,明石へ旅し、その道中で綴った3番目の紀行『笈の小文』の冒頭に有名な風雅論を書き記しております。
 和歌の道での西行の業績、連歌の道での宗祇の業績、絵画の道での雪舟の業績、茶の道での利休の業績、時代の変化とともにそれぞれに携わった道は別々だが、そのいずれも貫く「風雅の誠」は同一であり「不易」である。
 一方、俳句論をまとめた書物『去来抄』では、「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」と述べ、「芸道」の生業において「不易流行」は価値を同じくし、時代の変化に沿った新しさを追い求めないと陳腐でつまらないと注意を喚起しました。

 今、世の中は、久しく慣れ親しんだ「IT(パソコン)」の時代から、人知(知識量、論理思考など)を超えた「AI(人工知能)」の時代へと日常生活環境が変化しつつあり、「人間」として失敗を通して学ぶ価値創造のあり方が問われてきております()。   *:引用資料:日本経済新聞2023年8月7日号(Top)岩盤教育「正解主義、AI時代に通じず」

 「時代の流れに左右されず、生きること、自分が自分であり続けるために何が大切なのか」、価値意識のあり方を先達の教えに学んでおります。

 

リスキリング
 5月中旬(2023年)、主宰するHP&ブログ「堺から日本へ、世界へ! 堺の魅力の再発見・再生・創造・発信」に関心をお持ちいただいた京都芸術大学大学院芸術研究科芸術環境専攻学際デザイン研究領域の学生さんから、お話しをお聞きしたいとメールを受信しました。
 関心の要点は、以下堺の歴史・文化および現代に至る広く多様な内容でした。
      ①堺の名称に由来、方違神社および三国丘周辺の歴史
      ②堺と海、川の歴史、旧市街地から仁徳陵周辺エリアに関する情報
      ③堺の風土
      ④堺で生活する人々の課題
 お会いする日時、場所などご相談の中で、お申し入れいただいたご本人は東京在住の方で、ほかにそれぞれに所属企業を別々にされる研究仲間5名が居られ「リスキリング」という意識を持った社会人大学院生であることが分かりました。
 私の発信に関心をお持ちいただいたことは大変光栄なことであり、退職後かれこれ20年に渡り真剣に取り組んできた市民活動の成果をご説明するによい機会と受け止め万全を期しました。

   

 7月1日(土)午後、堺の歴史・文化の原典である堺市博物館で待ち合せ、玄関ホール脇の見晴らしの良い「休憩コーナー」をお借りして5時まで目いっぱいの交換をしました。
 説明する立場にある私ではありましたが、外部からみた「堺」の見え方を教えられ、好奇心にまかせて追い続けた「堺」の魅力の素晴らしさに確信を持つことができました。
 学びの世代➡社会人(企業人)世代➡自由人(退職後生活)世代という経過の中で、自由人として貴重な20数年間にわたる活動のあり方を振り帰る機会に恵まれ、改めて「キャリア・デザイン」という切り口で自分自身を再評価することが出来たことはありがたく感謝しております。

 

キャリア・デザイン

1.市民活動 「堺なんや衆」設立  堺の魅力の再発見・再生・発信

 

市民活動団体 堺なんや衆 堺の魅力の再発見・再生・発信  (stars.ne.jp)

 2000年7月末(誕生月の月末)をもってDIC株式会社(本社・企画開発本部勤務)を退職し、13年間住んでいた東京から、終の棲家「堺」に帰郷しました。
 当時、堺市では、「政令指定都市」への昇格を目指して俄かに「まちおこし」機運が盛り上がり、その準備段階として市民懇話会(主催:堺市)が公募(日当1,000円)され応募出席しました。
 懇話会の席上では、「堺」と言えば旧環濠市街地の意識が過剰で、その領域に住む住民(特に、旧家に関わりのある人々)の自慢話が飛び交い、その話題に終始する始末でした。
 永年東京に住み外から我がまち「堺」を見つめ、学校教育現場における「O-157食中毒事件」や汚染ワースト・リバー「大和川」の報道が連日流れ不衛生な地方都市としてのイメージに恥ずかしさを偲んでいた私にとっては、「堺の住民」として自慢話に終始する人々のモラルに失望を感じました。
 挙句の果て、3ヶ月後、プロジェクトの終了に際し報告書の作成の段に至って事態の収拾がならず、行政担当(主催事務局)は、「成果報告書」が纏まらないことを理由にこのプロジェクトは打ち切りとなり解散する破目になりました。
 参加者の中の有志(堺市および周辺都市住民)が集まって「知っているつもりでも知らないことの多い堺の歴史と文化の再発見、再生、創造、情報発信」を目指して市民活動に取り組みました。
 平成26年(2014)7月26日、「堺市市制記念日」の席で、成果を上げた市民活動団体として表彰を受けました。しかし、表彰理由としての堺市の評価は、文化活動に対する評価ではなく、福祉向上(高齢者の「生きがいづくり」)の評価であったことに失望しました。
 堺市において、文化活動に関する価値意識のあり方に疑問を持ち、改めて思い知らされました。
 参加者の中には「表彰」されたことに満足し、NPO法人活動としての継続の意見が出ましたが、私は目指す方向が違うことを理由に退会しました。

 

2.「堺」 アイデンティティーを築く仕掛け  活動のステップ・アップ


SDGs 堺から日本へ世界へ!  堺の魅力の再発見・再生・創造・発信 (goo.ne.jp)


ブログ コンテンツ目次 (goo.ne.jp)

心の中に生きている本-自分探し (goo.ne.jp)

 「堺から日本へ、世界へ!」の視点に立ち、「堺」の歴史および文化の再発見・再生・に取り組み魅力情報の発信を目指し、多様な活動ステージへステップ・アップしました。

 

◆「茶の湯」の文化  キーワード:再発見 再生 発信      堺なんや衆 堺衆文化の会

 

   世界の茶の文化セミナー 大阪府立大学 一期一会 堺発信「茶(CHA)の心と文化」企画提案 (stars.ne.jp)
        ①堺発信「茶(CHA)の心と文化」
   ②日本と中国 茶文化の比較
   ③古今伝授をめぐって
   ④お茶のおもてなし「一期一会」席

 十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図(stars.ne.jp)
     ①表-1三好政権下『天王寺屋會記』に記された武将の記録
  ②表-2織田・豊臣政権下『天王寺屋會記』に記された武将の記録
     ③表-3五畿内におけるキリシタンの受容

 『山上宗二記』 茶湯者の覚悟十體「濃茶呑ヤウ」(stars.ne.jp)
    ①表-1天文年間後期 同じ茶会で御茶(茶)と薄茶をもてなした場合の茶の種類
    ②表-2天正年間後期 『茶会記』に見るコイ茶(スイ茶)もてなしの事例(抜粋)
    ③表-3天正年間後期 同一茶会でのコイ茶とウス茶もてなしの事例

 

◆「すずめ踊り」伝説の発見・普及活動  キーワード:再発見 創造 発信  堺すずめ踊り協賛会

 

   
 伝説の発見と堺の魅力の創造 「堺すずめ踊り」 人が輝き、地域を元気に!(stars.ne.jp)
   ①仙台城主・伊達政宗公と堺の茶人・今井宗薫交流経緯
   ②仙台城主・伊達政宗公から堺の茶人・今井宗薫宛ての書状(解読)
   ③千利休切腹直前の動向pdf版

 「すずめ踊り」堺の石工活躍の背景 堺まつり 仙台青葉まつり(stars.ne.jp) 

 第7回ゆめづくりまちづくり賞「奨励賞」受賞(安藤忠雄審査委員長) 記念植樹(stars.ne.jp)

 堺☆仙台 絆の物語 
   仙臺すずめ踊り復活 河北新報 2023年9月14日
  “すずめ踊り” 黒田家四百年の伝承
  今を生きる友好“象”徴の物語
  ″すずめ踊り″を絆とした地域コミュニティづくり

 コロナ禍の前に、育って来た個々の祭連(活動単位、14グループ)の自主性を活かした活動へ切り替え、「堺すずめ踊り協賛会」は2020年2月をもって解散しました。
  経過およびその後対策については以下添付資料をご参照ください。
   ①「堺・仙台文化交流」年表(伊達政宗・今井宗薫手紙の交換経緯)
   ②「堺すずめ踊り」普及活動10年の歩み
   ③「堺すずめ踊り協賛会」活動10年のコンセプト
   ④「堺すずめ踊り名称使用権契約書」

 

◆行基事績の再評価  キーワード:再発見 再生 発信  堺行基の会

 歴史を未来へ! 行基活躍の時代背景と事績 (stars.ne.jp)

 現代に生きる僧・行基の伝承・伝説 (stars.ne.jp)

 SDGsモデルとしての行基事績の再評価(stars.ne.jp)
   ①史跡「神崎船息」に関する情報

 

◆ユネスコ活動     キーワード:再発見 再生 創造 発信  堺ユネスコ協会
 

 アイデンティティーの仕掛けとしての歴史・文化遺産活動 堺の歴史遺産を例として (stars.ne.jp) 

 世界から「堺」へ、日本へ! その出会いと歴史(stars.ne.jp)
   ①畿内地方における大型古墳編年表
   ②世界から堺へ、日本へ! その出会いの歴史年表
   ③日本と世界が出会うまち・堺(図)
   ④「禅」に育まれた堺の文化-臨済宗・曹洞宗・黄檗宗
   ⑤堺の誇り「伝統産業」発展経緯
   ⑥幕末・明治維新における日本の歴史的な背景と「出来事」

 まち歩き 堺の「誇り」の再発見・実地見聞 (stars.ne.jp)

 堺の誇り「伝統産業」 堺打ち刃物、注染・和晒、線香、手すき昆布、手描き鯉幟、和菓子、自転車部品、緞通

 

  2011年以来理事および監事として役割を果たしてきました。体制の若返りを目指して2023年度定期総会(5月)をもって退会しました。

 

◆堺の光もの 「堺」とはへの回答     キーワード:再発見 再生 発信  堺から日本へ、世界へ!
       

 

 誇りを知る 1600年の歴史と文化に出会う「堺」!(stars.ne.jp)

 

◆アカシア俳句会 「句報」編集人  キーワード:再発見 再生  大阪府立三国丘高等学校「三丘七期会」
 

アカシア俳句会  「句報」編集人  (stars.ne.jp)

  

 

おわりに
 「茶は渇(かつ)を止むるに非ず、飲むにあらず、喫するなり」  (小川流煎茶流祖・小川可進1786~1855、『漱石と煎茶』54頁)

 夏目漱石は、著書『草枕』に「濃く甘く、湯加減に出た、重い露を、舌の先へひとしずくずつ落として味わって見るのは閑人適意の韻律()である。普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違いだ。下頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液はほとんどない。只馥郁たる匂いが食道から胃のなかへ沁み渡るのみである。」と著し注目されました。
                                                              :閑人適意の韻律=ひまな人間が気ままに行う風流

 漱石は、前田案山子にもてなされた煎茶の中に相手への温かい思いやりと脱俗、清風の理念を感じ取り、決して技巧を露骨に表に出すことなく、ただ相手に美しく感じ覚えさせる煎茶の精神に大きく感化され「知、情、意」の三つの表現のあり方に意を注ぎました。
 「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。・・・」と諳んじ、立ち止まって意味を深く考えず文章の流れに沿って韻律を味わえばよい。
 漱石はそのように読まれる著書『草枕』が「文学」として受け取られないことをよく承知していました。 『漱石と煎茶』 俳句的小説『草枕』の背景 - 堺から日本へ! 世界へ! (goo.ne.jp)
                                
 DIC株式会社を退職後、13年間の在京生活を引き払い終の棲家「堺」へ帰郷した時、先ず、これから先の自分の「ありよう」を見出すために、母の往生に際してご縁をいただいた恵日山真光寺へ聴聞に通いました。
 「あるがまま」、自分へのこだわりと他者への偏見を捨て、全てを受容してみる。汚いものも、弱いものも、他者ではなく自分の内にこそ存在するのだ、と心静かに自分を見つめてみることを学びました。
 自分と向き合う中でのキャリア・デザイン、活動を共にした同志の皆様のご支援のお陰をもちまして果たすことができた充実感は、何ものにも代え難く感謝に堪えません。

 

 

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キャリア・デザイン Ⅱ ユネスコ活動 アイデンティティ―の仕掛け Y氏への手紙

2023-06-11 15:12:01 | ユネスコ

ユネスコ活動 アイデンティティの仕掛け Y氏への手紙

キャリア・デザイン Ⅰ 「堺」 アイデンティティの仕掛けを築く

 

前田秀一 プロフィール

Y氏からの手紙(要旨)

 「ユネスコ協会」の発足に際して力になっていただきありがとうございました。
 また、日常の活動においてもユニークな視点を提起され、今日の発展の基礎を築き、方向性を定めていただいたことに感謝の意を表します。
 SDGsの基本理念「誰一人取り残さない」ことを大切にして、地域に「平和の文化」を築いていく今後の活動を見守り支えていってくださいますよう願っております

Y氏への手紙

 身に余るお言葉に恐縮いたしております。
 むしろ、永年の活動を通して多くの学びをありがとうございました!
 2008年、NPO法人SINEの代表理事から「Y先生が前田さんにお会いしたいと言われています」と声を掛けられ、何事かと思っていましたところ、「ユネスコ協会」設立に際して参加のお誘いでした。
 あれから、かれこれ15年、いろいろ学ばせていただきました。

 個人的には、大阪市立大学の同学年で文学部史学科のYさんに対して工学部応用化学科の私でしたが、お話をしている中で、わずか200人収容の理・工学舎階段教室で、共に理学部生物生態学専攻・梅棹忠夫助教授(当時、1974年初代国立民族学博物館館長)の「文明の生態史観序説」の講義を聴講していたことが分かり驚きました。

 お誘いを受けた時、友人とカンボジアへ旅行をして間もなくの時でしたので、すぐさま上智大学がフランス、イタリア、アメリカほかと協力してアンコールワット遺跡(世界文化遺産第1号)の修復活動に取り組んでいる姿を印象深く見学したこと、またPKO(平和維持隊)としてカンボジア復興のために派遣されながら凶弾に倒れ犠牲となられた中田厚仁国連ボランティアと高田晴行警部補お二人の供養碑にお参りし、記念の新設小学校をお訪ねした時のことなど思い出し世界平和活動に参加できる喜びを噛みしめました。

民間ユネスコ活動と世界遺産・地域遺産 (goo.ne.jp)

 

アンコールワット 歴史 文化 上座仏教 日本人墨書 泉州堺 (stars.ne.jp)

  当初、P学院大学(当時)を訪ね、いろいろユネスコ協会活動としての あり方をご相談しましたが思いのほかうまくゆかず、しばらくの空白を経て、2011年1月22日、Yさんのご尽力で提起された「会則」のもとようやくにして発足しました。
 試行錯誤の中、民間ユネスコ活動70周年に際して提起されたミッション(1.平和な世界の構築、2.持続可能な社会の推進)は分かりやく、自分ごととして「誰一人取り残さない」理念のもとSDGs(持続可能な開発目標)への取組は私自身の行動指針として機軸を与えられました。

 具体的な活動の一例として、「ユネスコ協会」のfacebookタイトル画像として孫の作品(2014年10月「堺まつり」平和ポスター展「フェニックスライオンズ最優秀賞」受賞)を掲げていただき、「日本ユネスコ協会」発信情報(カンボジア、アフガニスタン、ウクライナ戦争被害・救済活動への呼びかけなど)を堺市民へ取次発信を行ってきました。
2023年5月31日現在、参加者(「いいね」)112名、フォロワー117名を得ることができ嬉しく思っております。

 

  ご相談しておりました「SDGsモデルとして行基事績の再評価」については、その後、読売新聞大阪本社文化部にご注目いただきました。
  現在は、「堺行基の会」が注目されホームページへ掲載紹介していただきました(詳細は下記アドレスから)。

歴史を未来へ「SDGsモデルとしての行基事績の再評価」-1.pdf (gyouki.jp)

 さらに2023年4月2日、フィールドワークで木積(貝塚市)を訪ね地元情報として、最寄りの「神崎舟息(こうざきのふなすえ)」(貝塚市)が行基49院の建築に必要とする木材の積出港であったとの貴重な情報を得ました。貝塚市教育委員会の研究資料と大阪府教育委員会のよる発掘調査報告書から裏付けを得ましたので、当初評価を追加訂正(「14」海の豊かさを守ろう)しました(上表参照)。
 この結果については、詳細を含め「堺行基の会」会報10月号(2023年)にて掲載されます。

 Yさんのお導きで世界の平和に向けた活動に関わることができたことは、私にとっては貴重な体験となりました。
 改めて厚く御礼申し上げます。

 

       前田秀一
 SDGs 堺から日本へ世界へ! (goo.ne.jp)

 

 


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SDGs 堺から日本へ世界へ!  堺 日本 世界

2022-04-11 12:43:39 | SDGs

地球上の「誰ひとり取り残さない」

        
  SDGs (持続可能な開発目標) を「自分ごと」として取りくみます!

 

承認番号:令和6年第009号 (前田秀一)

前田秀一 プロフィール


「堺の魅力の再発見・再生・創造・発信」
トップページは、こちらから 

      活動の概要

   ◆″堺″名前の起源 こちらから
     摂津国・河内国・和泉国、三国の境界「三国丘」、1045年「堺」初出、私称展開
  ◆堺の″光″もの こちらから 
     国指定史跡・四ツ池遺跡、世界文化遺産・百舌鳥古墳群、SDGsのモデル・行基大僧正、茶の湯の文化大成・千利休、仏教学者・河口慧海、近代文学先駆者・与謝野晶子
     ◆堺の歴史とまち文化 こちらか
     1600年の歴史と文化に出会うまち・堺、『堺・海の都市文明』、茶の湯大成、『山上宗二記』、茶の湯におけるキリシタン受容、茶人・今井宗薫と徳川家康と伊達政宗、堺の酒産業
   ◆私の活動
      ★ユネスコ活動 こちらから
       世界文化遺産研修会、アイデンティティーの仕掛けとしての歴史遺産、堺まち歩き、世界から堺へ日本へ・その出会いと歴史、SDGsモデルとしての行基事績の再評価
     ★堺のまち文化の再発見・再生・創造 こちらから
       弥生文化の成立、僧・行基の伝承伝説、堺大魚夜市、CHA(茶)の文化、世界の茶の文化、中国茶のもてなし
     ★堺に縁ある伝説″すずめ踊り″の発見、紹介、普及活動 こちらか
       堺にゆかりある「仙臺すずめ踊り」伝説発見、″すずめ踊り″を絆として堺と仙台の市民交流事業推進、「人が輝き、地域を元気に!」を合言葉に堺の市民文化として普及、
                    住みがい・生きがいのあるまちづくり

        キャリア・デザイン

「堺」 アイデンティティーを築く仕掛け - 堺から日本へ! 世界へ! (goo.ne.jp) 新規投稿


「文化の深堀(調査、研究)、創作、紀行
総括目次は、こちらから 
    

                     コンテンツ概要

◆ユネスコ活動(世界遺産、歴史遺産、SDGsほか)      22報
◆茶の湯(歴史、キリシタン受容の構図、体験記ほか)    26報
◆すずめ踊り(伝説の発見、仙臺すずめ踊り、普及活動ほか)21報
◆俳句(金剛俳句会、アカシア俳句会、書評ほか)     10報
◆自分探し(国内外旅行記、キャリアデザインほか)     8報
                     合  計               87報

 

SDGsモデルとしての行基事績の再評価 詳しくはこちらから

 

SDGsの全ての目標に貢献する教育

 


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山上宗二432年忌 記念講演「利休の消息」(直筆手紙)

2022-04-11 12:19:28 | 茶の湯

利休の消息  (直筆手紙)

増田 孝 愛知東邦大学 客員教授

投稿:前田秀一 プロフィール

 2022年3月8日、BSテレビ東京放映「なんでも鑑定団」で、出品者の評価額百万円を大幅に超えた1,200万円と鑑定された千利休直筆書簡(*)が大きな話題になり驚きました。
   *:堺の商人宛に「ルソン(フィリッピン)の壺を金子12,13枚(現在価値約400万円相当)でもいいから買いたい人が複数いる」と利休の目利きの壺を求めた内容

  

 それから数日後、堺衆文化の会・谷本順一会長から恒例の「山上宗二432年忌」に、なんと、お宝大発見を鑑定されて増田 孝先生(愛知東邦大学客員教授)に「利休の消息(手紙)」と題してご講演いただく旨ご案内がありました。

 増田先生のお話しでは、茶会の準備は人任せにしない利休には、書簡に関しては、多くの祐筆(代書担当)がいて、「鳴海」などが有名で、そのほかにも何人かいたので直筆の発見は少ないとのことでした。
 ご講演では、利休自刃2週間前(1591年2月14日付)、細川幽斎の家臣で利休の高弟でもあった松井康之に宛てた最後の直筆手紙(細川幽斎家臣・松井康之宛)を事例として、筆跡、花押はもとより紙の端を割いて巻き留めとする「切封墨引」が残り利休から届いた状態のままであることなど貴重な直筆証左を解説していただきました。

熊本県指定重要文化財(書跡)  松井文庫(熊本県八代市)所蔵

          <文意> 
              わざわざの飛脚、大変ありがとうございます。
              富田知信殿と柘植与一殿を使者に、堺に下るようにと、秀吉様から命じられたので、にわかに昨夜、出立しました。
              淀まで細川忠興様と古田織部様が見送りに来られたのを船着場で見つけ、驚きました。
              感謝の旨をお二人にお伝えください。恐惶謹言。
                      二月十四日
                                          利休宗易
                   松井佐渡様

 

 当日は、臨済宗大徳寺派・龍興山南宗寺で、恒例の三千家(表千家・裏千家・武者小路千)持ち回り「大茶会」(令和四年は「裏千家」主催)開催と重なり、大勢の方々が参加され大盛況(先着40名入場制限)でした。

 

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『漱石と煎茶』 俳句的小説『草枕』の背景

2021-08-14 16:03:14 | 茶の湯

『漱石と煎茶』 俳句的小説『草枕』の背景

前田秀一 プロフィール

 

 

プロローグ
 「茶は渇(かつ)を止むるに非ず、飲むにあらず、喫するなり」(小川流煎茶流祖・小川可進1786~1855、『漱石と煎茶』54頁)

 夏目漱石は、著書『草枕』に「濃く甘く、湯加減に出た、重い露を、舌の先へひとしずくずつ落として味わって見るのは閑人適意の韻律(*)である。普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違いだ。下頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液はほとんどない。只馥郁たる匂いが食道から胃のなかへ沁み渡るのみである。」(『草枕』101頁)と著し注目された。
    *:閑人適意の韻律=ひまな人間が気ままに行う風流(『草枕』203頁)
 
俳句的小説「草枕」の背景
 隠元禅師(1654年明国から来日、日本の黄檗宗開祖)により伝えられた喫茶(煎茶)は、江戸中期には売茶翁を介して門下の伊藤若冲、池大雅、上田秋成、富岡鉄斎など文人が嗜み、煎茶の精神性は頼山陽を介して幕末には尊王の志士たちに影響を与えた。

 

 夏目漱石は、明治38年(1905)に俳句誌「ホトギス」に『吾輩は猫である』を書き、それが好評であったため、主宰の高浜虚子の要請で、その翌年『草枕』を書き「写生文家」として注目を浴びた。
 『草枕』は、主人公・画工(絵描き)の視点から、筋書きを追うことなく、非人情的で詩的に、写生的に描写することに特化し、絵画的に、俳句的に言葉(表現)を織り上げた。
 しかし、文壇主流の人びとは、『草枕』を文学としては受け入れることには異論があったが、漱石自身も「天地開闢以来類のない小説」と語り、むしろ当時の文学論への批評と位置付けていた。
 漱石(国立第五高等学校教授)を茶(煎茶)でもてなした前田案山子(1828~1904)は、熊本県玉名郡小天(おあま)村の豪農(郷士)の出で、明治維新を迎えた時、逸早く「武」を捨て「文」に生きることを決意し、僻村の人材育成に務め、「経世済民」の志をもって中江兆民(1847~1901)の自由民権運動に参加した。明治23年(1890)第1回衆議院議員に選出され、1期務めた後引退し「閑人適意」の生活に入っていた。
 漱石は、前田案山子にもてなされた煎茶の中に相手への温かい思いやりと脱俗、清風の理念を感じ取り、決して技巧を露骨に表に出すことなく、ただ相手に美しく感じ覚えさせる煎茶の精神に大きく感化され「知、情、意」の三つの表現のあり方に意を注いだ。
 読者は、「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。・・・」と諳んじ、立ち止まって意味を深く考えず文章の流れに沿って韻律を味わえばよい。漱石はそのように読まれる作品が「文学」として受け取られないことをよく承知していた(『草枕』235頁)。

エピローグ
 コロナ禍で悶々としている時、かつて「茶の湯」の文化をテーマに市民活動でご縁をいただいた方から、小川流煎茶6代目家元・小川後楽先生の遺作『漱石と煎茶』のご紹介を受けました。
 俳句的小説といわれる夏目漱石著『草枕』の「美しい感じ」や「人生の苦を忘れ慰められる」ような詩文(表現)の中には、漱石の理想や思想が秘められており、それは「煎茶」の世界とその精神に通じることを教えられました。

 「山を登りながら、こう考えた。・・・」と書き出された『草枕』の舞台〔熊本県玉名郡(現・玉名市)小天(おあま)村への山道〕は、小学生時代〔熊本県玉名郡鍋村立鍋(なべ)小学校卒業〕を過ごした郷里・熊本に纏わり、私にとってひとしお思い出深い場所です。

  小川流煎茶‟おもてなし" (写真)と講演要旨は、こちらをクリック
  
「禅」に育まれた中・近世堺のまち衆と文化は、こちらをクリック
  「アカシア俳句会」は、 こちらをクリック

 

 夏目漱石著『草枕』、もう一つの背景

 

 

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アカシア俳句会 (川淵三郎氏文化勲章受章「慶祝俳句会」)

2021-07-31 23:51:56 | 俳句

        「金剛俳句会」(2013~2020年)から「アカシア俳句会」(2020~2024年)

                   そして三丘文芸「ミクニハイク」へと繋がりました!
                                      「ミクニハイク」へはこちらから!

 

 2013年7月、高校七期同期の俳人・土生重次氏(「扉」俳句会)を偲んで、同期の小川誠二郎氏および中野陽典氏の指導のもと「金剛俳句会」(校歌歌詞より)を創立し令和の時代を迎えました。しかし、指導者各位が相次ぎ健康を損なわれ運営の継続が困難となりました。
 教えを受けた「土生俳句」。「扉俳句会」の方針は「一読句意明解」であること、「一句にひと節」と言って一句に何か一点パンチの効いたポイントがあること、「即物具象」、「観念句を排す」などでした。
 読者が句を読んで眼前に景が浮かぶ句を詠め、俳句は韻文の詩であるので景を描写せよ、散文の説明は要らない、形容詞は弱い、名詞は強い、名詞で勝負せよ、自分は何に感動したのか、それを描写せよ等々が教えの眼目でした。
 ご指導いただいた7年間のご薫陶は、八十路を超えた私たちに余白の文化の美しさを愛でることの意義を気づかせていただき衝撃的でもありました。

 

 

堺中学校・三国丘高等学校と「アカシア」の由来

「アカシア」の由来(『三丘百年』より)の詳細は こちらをクリック

 

2023年度 文化勲章

川淵三郎氏が栄えある文化勲章を親授されました
おめでとうございます!

  

   

                            川淵三郎氏 プロフィール こちらをクリック

同窓同期(七期)生として大変光栄でありこの上ない慶びであります
この慶びとお祝いの心を俳句に託して詠みました

拡大版(pdf)は こちらをクリック

 

川淵三郎氏 文化勲章授賞記念祝賀会

詳細はこちらから

令和5年12月23日(土)12時~15時 ホテル・アゴーラリージェンシー大阪堺 ロイヤルホール2

   

        祝賀演奏 日本センチュリー交響楽団弦楽四重奏      謝辞・回顧 川淵三郎氏      同期(七期)生より慶祝俳句披露および贈呈 お礼品 米焼酎「益子の炎」

 

運 営 要 領 詳細はこちら

 

  ◆『抄録・重次俳句論ー土生重次、かく語りきー』

   

拡大版(pdf)は こちらをクリッ

「重次俳句論」学びの実践 経過はこちらから

  句会「会報」
        
         令和6年 10月 秋季俳句会(季語:秋 子季語を含む)           「句報」  「句評」「重次俳句論」 最終回
      令和6年 7月 夏季俳句会(季語:夏 子季語を含む)           「句報」  「句評」「重次俳句論」
        令和6年 4月 春季俳句会(季語:春 子季語を含む)            「句報」      「句評」「重次俳句論」
      令和6年 1月 冬季・新年俳句会(季語:冬・新年 子季語を含む)     「句報」   「句評」「重次俳句論」

      令和5年 10月 秋季俳句会(季語:秋 子季語を含む)           「句報」  「句評」「重次俳句論」
      令和5年 7月 夏季俳句会(季語:夏 子季語を含む)            「句報」      「句評」「重次俳句論」  
      令和5年 4月 春季俳句会(季語:春 子季語を含む)            「句報」  「句評」「重次俳句論」
      令和5年 1月 冬季・新年俳句会(季語:冬・新年 子季語を含む)      「句報」  「句評」「重次俳句論」

          令和4年 10月 秋季費句会(季語:秋 子季語を含む)             「句報」   「句評」「重次俳句論」
      令和4年 6月 夏季俳句会(兼題:梅雨 子季語を含む その他夏の季語)     「句報」   「句評」
      令和4年 3月 春季俳句会(兼題:梅 子季語を含む その他春の季語)      「句報」   「句評」
      令和4年 1月 冬季・新年俳句会(兼題:除夜の鐘 門松 その他冬の季語)     「句報」   「句評」          

      令和3年10月 秋季俳句会(兼題:月 台 子季語を含む その他秋の季語)    「句報」  「句評」 
      令和3年    6月 夏季俳句会(兼題:新緑 子季語を含む その他夏季語)       「句報」  「句評」
      令和3年    3月 春季俳句会(兼題:早春 浅春、花 子季語を含む その他春季語)  「句報」  「句評」
      令和2年12月 冬季俳句会(兼題:立冬 子季語を含む その他冬季語)        「句報」  「句評」

    

    ◆会員交流の「場」
              <投稿基準> ●内容:俳句をテーマとした文章・写真 ●原稿規模:A4版1枚 ●掲載方式:pdf版 ●提出先(管理者):前田秀一

        < 投 稿 > 

     令和5年11月 前田秀一 7年前の思い出「夏井いつき句会ライブ」 冬うらら 句会ライブや 大笑ひ  こちらをクリック

     令和4年12月 前田秀一 佐藤多恵子さん(元俳句結社「京鹿子」同人)遺句作品 俳句の道から師を慕って短歌の道へ こちらをクリック
     令和4年11月 都 福仁 中野陽典さん
(元「扉」俳句会同人)遺句作品 「扉」俳句会 会誌掲載作品抄出 こちらをクリック
     令和4年11月 前田秀一 「脱殻や声の響けり法師蝉」 
才能豊かな同期友人たちを偲びつつ こちらをクリック
     令和4年 9月 都 福仁 中野陽典君 追悼のことば 
何事も静かに喜び、信頼される強い人 こちらをクリック
     令和4年 8月 山家由紀 富岡訓子さん 追悼のことば 
しみじみと友の初盆雲の峰 こちらをクリック
     令和4年 2月 岩壺克哉 俳人でもある東大元総長 
著名な物理学者・有馬朗人氏は著名な俳人でもあった こちらをクリック

                 令和3年 8月 戸堂博之 獺祭 子規を偲んで一句「獺祭忌野球は本名「升」(ノボール)因り」  こちらをクリック
                 令和3年 8月 前田秀一 『漱石と煎茶』 
俳句的小説『草枕』の背景 漱石の理想と思想 煎茶の世界と精神   こちらをクリック

      令和3年 7月 吉田以登 句集『天辺の桜』への道 心がけたこと 心動いたことを句にする こちらをクリック

      令和3年 6月 網 佑子 金剛俳句会と俳句と私 命ある限り感動を原点に、懐いを五七五に! こちらをクリック

      令和3年 5月 佐藤多恵子 俳句結社「京鹿子」編『歳時記』への道 俳句に救われ俳縁に導かれて こちらをクリック
      令和3年 5月 加龍恵子  私と俳句 
歳時記で季語を探して俳句を作る楽しみ!  こちらをクリック

      令和3年 4月 西村敏治  思い出すこと、そして自分への期待 「三国丘」の魅力に引かれて こちらをクリック
      令和3年 4月 佐藤茂弘 「咲く花に友の顔ある吉野山」 
小川誠二郎さんに感謝を込めて こちらをクリック

      令和3年 3月 斎藤優子  道明寺天満宮探梅と石川(大和川支流)散策 俳句の楽しみ こちらをクリック
      令和3年 3月 都 福仁  私が俳句に出会った街 
オランダ・ライデン 荒海や佐渡によこたふ天の川 芭蕉 こちらをクリック

      令和3年 2月 山家由紀  土生さんのこと たくさん作り、たくさん捨てよ! こちらをクリック
      令和3年 2月 中野亘子  俳句と私と短歌 
句友のすすめ、俳句を絆として末永く! こちらをクリック
      

      令和3年 1月 富岡訓子  富岡隆夫日記 「土生重次」のこと お前て結構、天才やったんやな!  こちらをクリック
      令和3年 1月 富岡訓子  俳句への道 夫・富岡隆夫との思い出 
夢のよう、俳句で絆が未来へ! こちらをクリック
      令和3年 1月 前田秀一  小川誠二郎さんからの伝言 
今に繋がる出席簿「1年5組廣田ホーム」 こちらをクリック

      令和2年12月 戸堂博之 『句報』第一報をお届けして 素晴らしいスタートを今後の発展に!  こちらをクリ
      令和2年12月 前田秀一  思い出の一句 春光や鯉の背びれの水面切る こちらをクリック
      令和2年12月 戸堂博之  俳句と私 俳句との出会いとアカシア俳句会の今後 こちらをクリック

      

吟行(金剛俳句会)の思い出

 

  第1回 母校(三国丘高校)近郊 第2回 大仙公園観桜会・利晶の杜茶会  第4回 南宗寺・大安寺・紅谷庵 第5回 大阪樹梅林・西村歯科クリニック 第6回 名刹妙法寺観桜会・茶会    第7回 大阪造幣局観桜会

 


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「禅」に育まれた中・近世堺のまち衆と文化

2021-07-24 23:20:19 | 茶の湯

「禅」に育まれた中・近世堺のまち衆と文化

角山 榮「真に、堺衆ということについて」
第2回山上宗二忌講話 平成21年4月11日 南宗寺塔頭 天慶院にて

前田秀一 プロフィール

<時代背景>           
 住吉大社の「開口庄官」を起源として南北庄の荘園領主が変わる中で、津田氏や今井氏など後に茶人として活躍する商人たちが台頭した。           
 商人たちは会合を重ねて利害の異なる諸集団を一つの都市としてまとめる調停機能を発揮し、外交、自衛組織として室町幕府や守護と関わりを持った。           
 文明元年(1469)、堺の港に遣明船が入港して以来、防衛とともに、商業資産を守るために天文期(1532年から1555年)以降に周濠(環濠)が整備され、堺は世界的な商業都市として発展した。豪商として財を成した商人たちは、その富を寺に寄進し、堺は商人の町と共に寺町として栄え「まち衆」たちの文化(連歌、茶の湯など)を嗜む拠点として役割を果たした。           

 応仁・文明の乱(1467~1477年)後、古代的な美意識が決定的に崩壊し、新たに中世的な美・幽玄への美意識が深まり、「歌」主道論は能楽論や連歌論へと変わった。連歌では高山宗砌、蜷川智蘊、飯尾宗祇などが脚光を浴び、禅竹、心敬など陽の当らないところにいた実力派たちから「侘び」や「冷え」の美が高く評価されるようになった。           
 十六世紀には幕府や細川氏の衰退により世界的な商業都市として栄えた堺は安定した後ろ盾を失うが、管領・細川氏を傀儡とした政権樹立を目指していた阿波の豪族・三好氏が海外貿易の拠点として堺の流通機能に注目し堺の豪商との関係構築をはじめ堺南北庄の代官とは別に堺奉行を設置した。豪商自らも三好政権の中で役割を果たしていくことが求められ、堺奉行にも豪商と交流するために文化的教養が求められた。

     「西行の和歌に於ける、宗祇の連歌に於ける、雪舟の絵に於ける、利休が茶に於ける其の貫道する物は一なり。           
 しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時(四季)を友とす。・・・」    

     松尾芭蕉は、貞享4年(1687)10月から翌年4月にかけて,伊良湖崎,伊勢,伊賀上野,大和,吉野,須磨,明石へ旅し、その道中でつづった3番目の紀行『笈の小文』の冒頭に有名な風雅論を書いた。和歌の道で西行のしたこと、連歌の道で宗祇のしたこと、絵画の道で雪舟のしたこと、茶道で利休のしたこと、それぞれの携わった道は別々だが、その人々の芸道の根底を貫いているものは同一である。           
 中世から近世に至るそれぞれの時代に一世を風靡した芸道を列挙して それを貫くものはひとつ、すなわち「風雅の道」、これは不易(いつまでも変わらない文化)であると主張し、それぞれの時代の文化的背景を的確に言い表した。    

      
<室町文化> 1336年(初代足利尊氏)~1573年(第15代足利義明)           
 八代将軍・足利義政の時(1489~1490)、禅の精神にもとづく簡素さ、枯淡の味わいと風雅、幽玄、侘(わび)を精神的基調とする北山文化(例、鹿苑寺金閣)が開花し、その芸術性が生活文化のなかにとり込まれ根づいた。      

      

 「禅」の系譜 血脈)          

  釈迦牟尼仏(紀元前5,6世紀・仏教開祖)➡1.摩訶迦葉・・・28.菩提達磨(紀元5,6世紀・達磨大師:禅の初祖)➡仏法(印可)を受け継いだ禅師(宗派開祖)           
  「禅」=瞑想=精神統一(坐禅)を通して実戦的体験により自己を整え、「自分という存在」を明らかにする〔「悟り」(真円)の境地に達す〕  。         
      ➡ 仏教から発生した実践哲学 ➡ 教義の根本に坐禅があり、自らが仏となって自らを救おうとする「自力」の教え。

        
 「禅宗」「禅」を旨とする宗派をまとめた「総称」堺の名刹                参考資料:「堺市内禅宗寺院宗派別一覧」こちらから


 「臨済宗」  開祖・栄西禅師(1187~1191年2度目の南宋へ留学)
           生まれつきそなわっている仏性を座禅によって目覚めさせ、人生を豊かに生きる。
          「真実の自己」へ導く修行として公案(禅の問題)が出題され、座禅実践の中で考え抜き段階的に「悟り」(多角形から真円の境地)を目指す。
          日常のすべてが修行であるとし掃除、畑仕事などの労働も重んじる。
         栄西禅師が南宋から帰国の際、茶樹を持ち帰り、『喫茶養生記』を著して茶の薬効を教え、喫茶文化の切っ掛けを作った 。      
          ➡ 堺の名刹 大徳寺派龍興山「南宗寺」(堺区南旅篭町):千利休「茶の湯」(わび・さび)大成          

あらすじは こちらから

    「曹洞宗」  開祖・道元禅師(1223~1228年南宋へ留学)  
         「人は本来仏である」という言葉に出会い、「どうしてさらに修業して悟りを開く必要があるのか」その解を求めて南宋へ渡った。
           帰国後は、越前・永平寺を創建し「坐禅修行」を広めた。
         仏陀が悟りを開いたのは坐禅によるものであり、坐禅こそ仏教の根幹であると「公案」もなく、一気に「悟り」(真円の境地を)を目指す 。

          ➡ 堺の名刹 天皇山「紅谷禅庵」(堺区三国ヶ丘町):牡丹花肖柏、堺の町人衆に古今和歌集を伝授(「堺伝授」) 
            文明・応仁の乱後戦火を逃れて北摂(池田藩)に地に在った連歌師・詩人牡丹花肖柏が、戦乱となった北摂から堺に移り、
            1518年豪商・紅谷喜平の世話で「紅谷庵」(現・堺区中三国ヶ丘町)に住まい堺のまち衆に和歌や連歌の指導を始た。

       

      中世の文化センター「紅谷禅庵」について こちらから   古今伝授としての「堺伝授」受講ノートは こちらから

 「黄檗宗」  開祖・隠元禅師(1654年、日本からの度重なる招請に応じて明国から弟子20人他を伴って来日)
         坐禅を通して自分の心の中に存在している仏性(阿弥陀仏)に気付き自己解決(自己の究明)する。
         ➡「この世の中に存在するのは心だけで、目に見えるすべての物事や起る現象は、心の働きがもたらしたもの」(唯心)の教えを大切にする。
            隠元禅師は、後水尾法皇や徳川幕府の帰依を受け、宇治・大輪田の約9万坪の寺地を賜り黄檗山満福寺を創建した。
         煎茶、普茶料理など文化・芸術・建築・音楽・医術・印刷など幅広い分野で功績をあげ、皇室から国師号を宣下された。   
         ➡「茶の湯」を政道と位置付けた織田・豊臣時代に対して江戸時代では隠元禅師が後水尾院の帰依を受け公家をはじめ尊王派に煎茶が重んじられた。
          江戸中期では売茶翁の薫陶を受けた伊藤若冲、池大雅、上田秋成、富岡鉄斎など文人が煎茶を嗜み江戸後期に活躍する志士たちに繋がっていった。
            ➡ 小川流煎茶(流祖・小川可進)の流儀は こちらから      小川可進「茶は渇(かつ)を止むるに非ず、喫するなり」は こちらから
           ➡ 堺の名刹 大寶山「法雲寺」(美原区今井):狭山藩 後北條氏の菩提寺    後北條氏について詳しくは こちらから

   

 

 

SDGs魅力情報「堺から日本へ、世界へ!は こちらから 


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民間ユネスコ活動と世界遺産・地域遺産

2021-03-01 00:07:22 | ユネスコ

アイデンティティーの仕掛けとしての歴史・文化遺産活動

 堺の歴史遺産を例として

前田秀一 プロフィール

 

 

 2019年7月月6日、大阪の永年の念願であった百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録が決定しました。

 来る2019年10月5日(土)から6日(日)にかけて、「近畿ユネスコ活動研究会 in 大阪」が堺市(堺市総合福祉会館)で開催され、事例発表、分科会報告およびエクスカーションの全てが近畿にある三つの世界文化遺産に関連した内容で行われます。

 堺にとって記念すべき7月6日、副題「民間ユネスコ活動と世界遺産・地域遺産」と設定して、第2回「ESD・SDGsと民間ユネスコ活動」研修会が開催され、堺の歴史遺産を例として「アイデンティティーの仕掛けとしての歴史・文化遺産活動」について報告しました。

 40年前、我が家の隣にフランス人J.M.Cambou一家4人が引っ越してきて、その後3年間我が家の家族とパントマイム交じりのボディー・ランゲージで心の通ったお付き合いをしました。

 カンブーCambouさんが勤めるフランスのエンジニアリング会社が北海油田採掘リグを受注し、その製造を堺の臨海工業地帯にあった日立造船違船に発注され、設計技術者として家族ともども来堺されました。

 家族は、ご夫婦と、当時小学校2年生(通信教育)の長男・クリストフChristophと近くの幼稚園年少組に通った長女・キャロリーンCarolineの4人でした。

 カンブーさんは、仕事がら英語会話ができましたが、奥様以下子供たちは、当初、フランス語しか話せず、歓迎の意を表して受け入れた我が家の家族とは、ボディー・ランゲージで、むしろ心を通わせた交流がはじまり、その中で相互に忌憚なく異文化を学び合いました。

 身近に見る我が家の生活文化をはじめ、堺に所在する百舌鳥古墳群、大阪城、京都・奈良の神社仏閣など日本の歴史や文化に驚くほど強く関心を持たれ、さすが文化の国の人と感じることがありました。

 3年後帰国する際には、我が家で馴染んだ酒徳利・盃や食器一式と義父の水墨画を所望され堺在住記念品として持ち帰えりました。

 1986年、フランスのカンブーさんから「クリストフが高校卒業を機会に、カンボジアへ旅行に出かけ、その後、堺に行くのでよろしく」と電話があり、「政情不安なカンボジアへ?」、「堺へ直行すればよいのに?」と思いながら期待して待ちました。

 しかし、その後、2週間経っても連絡がなく、カンブーさんに彼の動静を訊ねたところ、当時は携帯電話もなく所在不明になっているとのことで、結局、彼は我が家へ来ることはありませんでした。

 2001年、40年間務めたDIC株式会社を退職後、かねての誘いを受けて妻と二人でパリ近郊のカンブーさん宅を訪ね、1週間ホームステイの歓迎を受けました。

「フランス ホームステイの旅」  

 改めて、クリストフから、当時フランスではアンコール・ワット遺跡の荒廃が話題になっており実際に見てみたかったこと、現地では調査団に人手が足りず、請われてボランティア活動に参加したことなど堺に行けなかった事情の説明をうけました。

 1970年、親米のロン・ノル将軍がクーデターを起こしシアヌーク国王を追放して内戦が始まり、政情不安定の中、1989年5月、上智大学の石澤良昭教授が第1回ユネスコ調査団長としてアンコール遺跡の破壊状況を調査し、ユネスコ、カンボジア政府、日本政府へ報告書を提出されました。

 1990年、東京でカンボジア各派が参加する和平に向けた直接対話の場「カンボジアに関する東京会議」が開催され、1991年「カンボジア和平パリ協定」が調印されて20年に及ぶ内戦が終結しました。

 1992年、新憲法発布のもとシアヌーク国王が再即位してカンボジア王国が再興し、世界の支援を受けてアンコール・ワット遺跡が世界文化遺産として登録されました。

 石澤良昭教授をはじめ上智大学の献身的な活動により、日本でも世界文化遺産アンコール・ワット遺跡の修復保存活動の話題が大きくなり、2007年12月アンコール・ワット遺跡を訪ね、新カンボジア国家および国民のアイデンティティーとしてアンコール・ワット遺跡が位置付けられ、その修復に世界が協働していることを目の当たりにしました。

「アンコール遺跡 人類の創造的才能の傑作」

 

 我が家の隣人・フランス人家族が関心を持ったアンコール・ワット遺跡の意義が、その後20年を経た今、改めて私のユネスコ活動の動機づけとなっています。

 我がまち・堺では、「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録が実現し積年の念願を果たしました。

 「百舌鳥古墳群」は、堺のランドマークであり、以来1600年間、堺の歴史と文化風土を意義づける多くの文化財が蓄積し市民の誇りの礎となっています。

 堺ユネスコ協会では、堺市民のアイデンティティーの仕掛けとして歴史および文化遺産を未来へつなぎ、併せて異文化の相互理解と交流を育む心の醸成に取り組みます。

堺の誇り再発見・実地見聞 「堺まち歩き」

 2015年9月、国連は、2030年を目指してSDGs「持続可能な開発目標」を設定し、「だれ一人取り残さない」平和な社会を持続する新たな価値の体系を示しました。

 堺の誇りである「行基」の幾多の事績には、SDGsの理念に重なる点が多くあります。

 堺ユネスコ協会では、SDGsの視座を通して「行基」の事績を考察し、「行基」のテーマの未来への発展性を展望して、身近な「モデル」として示し堺市民がSDGsの意義を共有して持続可能な社会の形成を目指す助けとします。

 

歴史を未来へ! 「SDGsモデルとしての行基事績の再評価」

活動趣旨   取り組みの成果

 

 

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