歩いて見た「世界文化遺産」登録の適用基準
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前田秀一 プロフィール
「古都・京都の文化財」への適用基準と事例
世界文化遺産登録の適用基準 ⇒ 評価
「2」.ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に 関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
⇒(2) 京都は8世紀から17世紀の間、宗教・非宗教建築と庭園設計の進化にとって主要中心地であった。そのように、京都は日本の文化的伝統の創出において決定的な役割を果たし、特に庭園の場合にお いて、それは19世紀以降世界の他の地域において意義深い影響を与えた。
「4」.人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
⇒(4) 京都の現存文化財における建築と庭園設計の集積は前近代における日本の物質文化のこの側面に関する最高の表現である。
実地訪問事例:
上賀茂神社 (正式名称:賀茂別雷神社)
下鴨神社 (正式名称:賀茂御祖神社)
比叡山 延暦寺
平等院 鳳凰堂 (正式名称:朝日山平等院阿弥陀堂)
臨済宗 天龍寺 (正式名称:霊亀山天龍資聖寺)
浄土真宗本願寺派 西本願寺(正式名称:龍谷山 本願寺)
上賀茂神社 (正式名称:賀茂別雷神社)
神武天皇の御代に、本殿の北北西にある秀峰神山に祭神が御降臨になり、天武天皇の御代(678)現在の本殿に御鎮座になった。
「延喜式」内社、山城国一宮、旧官幣大社、伊勢神宮に次ぐ全国神社の筆頭
賀茂御祖神社(下鴨神社)とともに古代氏族の賀茂氏の氏神を祀る神社であり、賀茂神社(賀茂社)と総称される。賀茂神社両社の祭事である賀茂祭り(通称:葵祭)で有名である。
「延喜式」内社、山城国一宮、旧官幣大社
「細殿」の目の円錐状の二つの砂の山「立砂」はご神体で、神山を模したもの。鬼門、裏鬼門に「清めの砂」をまく起源となっている。
新古今和歌集 「ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしずくに 立ちてぬれまし」 紫式部
賀茂祭り(葵祭)」(5月15日)巡航路
京都御所(10:30発) ⇒ 下鴨神社(11:40着) ⇒ 上賀茂神社(15:30着)
下鴨神社 (正式名称:賀茂御祖神社)
神武天皇の御代に御蔭山に祭神が御降臨になったと伝えられる。
「延喜式」内社、山城国一宮、旧官幣大社、
上賀茂神社とともに、奈良時代以前から朝廷の崇敬を受け、平安遷都の後はより一層の崇敬を受けるようになった。
比叡山 延暦寺
比叡山の山上から東麓にかけた境内に点在する東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)など、三塔十六谷の堂塔の総称である。
最澄は、奈良の東大寺で受戒(正式の僧となるための戒律を授けられること)し、正式の僧となったが、奈良の大寺院での安定した地位を求めず、郷里に近い比叡山にこもって修行と経典研究に明け暮れた。最澄は数ある経典の中でも法華経の教えを最高のものと考え、中国の天台大師智(ちぎ)の著述になる「法華三大部」(「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」)を研究した。
延暦7年(788)、最澄は現在の根本中堂の位置に薬師堂・文殊堂・経蔵からなる小規模な寺院を建立し、一乗止観院と名付けた草庵を立てたのがはじまりである。この寺は比叡山寺とも呼ばれ、年号をとった「延暦寺」という寺号が許されるのは、最澄の没後、弘仁14年(824)のことであった。時の桓武天皇は最澄に帰依し、天皇やその側近である和気氏の援助を受けて、比叡山寺は京都の鬼門(北東)を護る国家鎮護の道場として次第に栄えるようになった。
根本中堂(国宝) 大講堂(重文)-1964年、東麓坂本の東照宮賛仏堂を移築
延暦23年(805)、最澄は還学生(げんがくしょう、短期海外研修生)として、遣唐使船で唐に渡り、霊地・天台山におもむき、天台大師智(ちぎ)直系の道邃(どうずい)和尚から天台教学と大乗菩薩戒、行満座主から天台教学を学んだ。また、越州(紹興)の龍興寺では順暁阿闍梨より密教、翛然(しゃくねん)禅師より禅を学んでいる。このように天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えた(四宗相承)ことが最澄の学問の特色で、延暦寺は総合大学としての性格を持っていた。
左・常行堂、右・法華堂(中央府県境-左・京都府、右・滋賀県) 「にない堂」(弁慶が渡り廊下を天秤棒にして両堂を担いだ伝説あり)
延暦寺は数々の名僧を輩出し、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、融通念仏宗の開祖良忍、浄土宗の開祖法然、浄土真宗の開祖親鸞、臨済宗の開祖栄西、曹洞宗の開祖道元、日蓮宗の開祖日蓮など、新仏教の開祖や、日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、「日本仏教の母山」とも称されている。
平等院 鳳凰堂 (正式名称:朝日山平等院阿弥陀堂)
平等院は、永承7年(1052)関白・藤原頼通によって開創され、鳳凰堂は、その翌年の天喜元年(1053)、阿弥陀如来(国宝)を安置する阿弥陀堂(国宝)として建立された。
鳳凰堂は、極楽浄土の宮殿をモデルにし、中堂・左右の翼廊・尾廊から成る、他に例を見ない建物となっている。堂内には、平安時代を代表する仏師・定朝の作であることが確実な現存唯一の仏像、本尊阿弥陀如来座像をはじめ、雲中供養菩薩像52体、9通りの来迎を画いた壁扉画など、平安時代・浄土教美術の頂点が集約されている。
庭園は、浄土式の借景庭園として史蹟名勝庭園に指定されている。
平成24年9月3日~平成26年3月31日までの18ヶ月間、56年ぶりの修理に入る。阿弥陀堂(通称:鳳凰堂)の屋根のふき替えおよび堂の壁や柱を赤く塗り、屋根にある鳳凰に金メッキを施し平安時代の彩色を再現する。長期間の拝観停止を前にして午後7時よりライトアップによる特別拝観が行われた。
天龍寺 (正式名称:霊亀山天龍資聖禅寺)
臨済宗天龍寺派大本山の寺院。本尊は釈迦如来。
開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石。
足利将軍家と桓武天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模と高い格式を誇り、京都五山(禅寺:天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)の第一位とされてきた。
史跡名勝 曹源池 当寺開山・夢想国師の作庭(1339年) 中国唐宋時代の枯墨山水画と洲浜形の大和絵風ととの調和による秀れた庭園
西本願寺 (正式名称:龍谷山 本願寺)
西本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山。
親鸞聖人の廟堂(墓地)が京都東山に創建されたのが始まりで、各地に寺基を移転した後、1591(天正19)年に七条堀川の地を豊臣秀吉より寄進され、1633(寛永10)年には、ほぼ今日に近い姿となった。
建物の配置と構造は真宗建築の典型で、親鸞聖人像が安置されている御影堂(ごえいどう)が、北隣の本堂(阿弥陀堂)よりも大きく造られている。寛永13年(1636年)に建立された御影堂は、「寛政の大修復」寛政12年(1800年)及び「平成大修復」(1999年 - 2008年12月)と2回の大修復を経ている。
境内には桃山文化を代表する建造物や庭園が数多く残されており、平成6年(1994年)に国の史跡に指定された。
阿弥陀堂門 国宝 唐門
重要文化財 御影堂 内陣
重要文化財 阿弥陀堂(本堂)
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