堺から日本へ! 世界へ!

堺の歴史・文化の再発見、再生、創造、魅力情報発信!

日本と世界が出会うまち・堺 2017 研究発表会

2021-02-25 00:44:17 | 堺のアイデンテlティ―

日時:2017年11月19日(日)13:30~18:15
場所:サンスクエア堺ホール(JR阪和線「堺市」駅近く)

前田秀一 プロフィール

 

参加者の所属校(応募順)
 帝塚山学院中学校・高等学校、帝塚山学院泉ヶ丘中学校、金蘭千里中学校、関西大学中等部・高  等部、開明高等学校、大阪府立三国丘高等学校(定時制の課程)、大阪府立堺工科高等学校、大阪府立園芸高等学校、雲雀丘学園高等学校、大阪府立堺東高等学校(パネル展示のみ)


研究対象・テーマ(順不同)
 百舌鳥古墳群、与謝野晶子、堺の和菓子、戦国時代のクリスマスパーティ、中近世・堺の復元、グリコと大阪、堺大空襲、南海ホークス など

 
                                  激励のお言葉 竹山修身堺市

                                
   審査委員長講評                   堺ユネスコ協会賞 「堺大空襲」

    桃木至朗大阪大学教授             大阪府立三国丘高等学校(定時制の課程)放送研究会
                             授与者 岡 貴久雄堺ユネスコ協会会長
      

参加者記念写真

  

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世界から「堺」へ日本へ! 1.その出会いの歴史年表

2021-02-25 00:43:37 | 堺のアイデンテlティ―

世界から「堺」へ 日本へ! 1.その出会いの歴史年表

前田秀一 プロフィール

 

 < 関連情報 >
  「世界と日本が出会うまち・堺 2017」プロジェクト 
  
主 催 堺市(主管:堺市博物館)/大阪大学(主管:大阪大学歴史教育研究会)
  後 援 大阪府教育委員会 【協 力】堺ユネスコ協会/同プロジェクト研究会

         世界から「堺」へ  日本へ! 2.大航海時代とアジア貿易圏の交易メカニズム こちらか
                3.堺の誇り「伝統産業」 はこちらから

 

上「表」の拡大は、こちらから

 堺で最初に人が生活したところは、今から15,000年ほど前の旧石器時代にさかのぼり南花田(北区)といわれ、その遺跡から当時使用していた石器が多く出土し発見された。
 縄文時代から弥生時代にかけて、石津川流域の台地で四ツ池遺跡が発見され、和泉地域を代表する集落が営まれていたことが解明されている。
 集落の周囲には、溝や河川が張り巡らされ、三方を崖と自然の河川に囲まれた3.5ヘクタールの地に「クニ」と呼ばれる集落(ムラ)が形成され、石津川を利用して、直接、茅渟(チヌ)の海(現大阪湾)に漕ぎ出す舟運の便に恵まれていた。
 そのムラには、水耕稲作の文明があり食糧の大量生産体制が整い、大、中規模の墓が存在し死生観の存在したムラであった。さらに農耕祭礼の道具として銅鐸も発見され金属器を使用した文化が考証されている。
 時代が下って古墳時代(4~5世紀後半)には、当時最先端の土木技術を結集して大仙陵をはじめ規模の大小、墳形の多様な古墳群が川上の丘陵地に築造された。
それらの古墳の造成のために働く人々の生活を賄うため泉北丘陵には朝鮮半島からの技術により600~1,000基にわたる窯が築かれ、大規模な須恵器の生産基地として平安時代まで500年もの間栄えた。
 石津川の流域は、周囲の土壌の養分に恵まれ作物の育成に適し、人が生活するに必要な水の供給、さらに大型古墳の築造に必要とする資材の運搬を助け、堺の文明発達史上重要な役割を果たした。
 特に、河内の石津原の地域には大仙陵をはじめとして大型の前方後円墳が多く、大王(おおきみ)の支配するクニ(倭国)があったことが考察されている。
 当時、倭の王権は、鉄資源を確保するため朝鮮半島に関心を持っていた。朝鮮半島と交流が深まる中、北部の大国・高句麗の南下政策は、倭国にとって緊張感があった。そこで、倭国は中国南朝の東晋、その後宋へ遣使・朝貢(*)することによって高句麗に対抗しようとした。
 中国の歴史書『宋書』倭国伝に「宋」国に対し倭の五王「讃」(421年)、「珍」(438年)、「済」(443年)、「興」(462年)、「武」(478年)が遣使・朝貢したとことが記録され伝わっているが、どの古墳が誰に相当するのかは明らかではない。

 538年、百済から仏教が伝来し、663年、朝鮮半島南部・白村江の戦で百済が新羅に攻め立てられ、天智天皇の命により援軍を派遣したにもかかわらず新羅に敗退して百済から渡来人が増え、地域豪族が建立した寺には仏像が伝来した所がある。
 奈良時代、百済系渡来人の末裔と伝わる行基は、師・道昭の教えに従い飛鳥寺での修業を断念し生まれ故郷に帰郷した。生家を家原寺として改修し民衆救済のための仏教布教に専念した。 池溝開発や道端造営のほか布施屋、施薬院の設置など民衆のために尽くした。
土師郷(中区)に大野寺を建立した際、その境内に民衆の力による作善行の土塔(国史跡)を建立し、その偉業は民衆が力量に応じて参画し目的を達成る現代のNPO活動の先駆けとして高く評価されている。
 中世には長尾街道、竹内街道、高野街道、熊野街道など街道が整備され、高野山や熊野神社など浄土信仰の社寺参拝が盛んになり、堺はその通過都市の位置づけにあった。
 応仁・文明の乱(1467~1477年)後、寛正6年(1465)の第12回遣明船は、西軍の大内氏が制圧した瀬戸内海と兵庫港を避け土佐沖を廻る南海航路を通り、文明元年(1469)初めて堺港に入港し朝貢貿易に関わることになった。
 文明8年(1476)第13回以後大永3年(1523)まで堺から5回遣明船が派遣され、兵庫に代わり国際貿易港として発展した。
<対明貿易の朝貢の条件>
  朝鮮:1年に数回、琉球:1~2年に1回、日本:10年に1回

 世界的な商業都市として、ヒト、モノ、カネ、情報が集積した堺の繁栄は、遣明船が初めて堺港に入港した1469年から大坂夏の陣で兵站基地として狙いをつける徳川方に堺を渡すのを避けるため豊臣方の大野治房一隊によって焼き打ちされるまでの146年間であった。
 その間、1550年までの前半は遣明貿易および仲介貿易に従事する琉球貿易が盛んとなり、フランシスコ・ザビエルが堺の港に上陸した1550年以降1615年までの後半はポルガルを主とした大航海時代の南蛮貿易の拠点として西洋文明に触れる世界の情報センターの役目を果たした。

 ヨーロッパでは、永い間イスラムに制圧されていたポルトガルとスペインで民族主義が盛り上がり、強力な国王を中心として中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。
 さらに技術的に頑強な船が建造され、羅針盤がイスラムを通して伝わったことから航海技術の発展により外洋航海が可能になり、1415年、モルッカ諸島(別称:香料諸島)への独自の交易ルートの開拓を目指してポルトガルとスペインが競う大航海時代が始まった。
 1543年、ポルトガル人が乗った倭寇船が種子島に漂着して鉄砲が伝えられ、鉄砲の模作に成功した種子島の鍛冶屋集団の中にいた堺の橘屋又三郎が鉄砲製造技術を堺に持ち帰った。堺では、分業生産方式でによって大量生産に成功し、以後一大鉄砲生産地として名乗りを上げ日本における戦いの戦術文明の転換を誘導した。

 1549年、鹿児島に到着したフランシスコ・ザビエルは、1550年1月天皇への謁見を目指して堺港に上陸し都を目指した。天皇への謁見の目的は果たすことはできなかったが、引き続きガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスなど宣教師が堺に上陸しキリスト教というヨーロッパ文明の普及が始まった。
 1581年、日本での布教が伸び悩んでいることを案じて巡察師・アレサンドロ・ヴァリニャーノが堺港に上陸し、フロイスを伴って五畿内の布教状況を巡察し、日比屋了珪宅での体験をもとにルイス・デ・アルメイダの見聞を受け入れ、「日本の風習と形儀に関する注意と助言」を著して「修道院や教会を建築する際には、日本の大工により日本風に建築し、階下には縁側がついた二室からなる座敷を設け、そのうち一室は茶室に当てるよう」指示した。
 宣教師として中心的に布教に務めたルイス・フロイスは、「茶室は、その場が清浄であるために、人々に地上の安らぎを与えるので、キリシタンたちも、異教徒たちも、その場を大いに尊重している。司祭としてそこでミサ聖祭を捧げ、キリシタンたちとそこに集まった」と本部に報告した。
 1600年、オランダ船「リーフデ号」が豊後に漂着(4月)し、豊臣政権の五大老の筆頭を務める徳川家康の命で堺港(5月)に曳航され、オランダ人船長に代わりイギリス人航海士・ウィリアム・アダムスが徳川家康の取り調べに応じた。
 オランダとイギリスは、ポルトガルやスペインのようなカトリック教国ではなく、プロテスタント教国としてキリスト教布教を目的にしていないことが評価され、さらにアダムスの航海技術と造船技術が注目され徳川家康はアダムスを外交顧問として処遇し、その後のオランダおよびイギリスとの交易の布石となった。
 リーフデ号には大砲など武器・火薬が積まれており、徳川家康にとってはその後の関ケ原の戦い(10月)の戦備強化に役立った。アダムスは帰化し三浦按針を名乗り徳川家康の旗本に処遇され250石の所領を与えられた。
 1604年、生糸の輸入に関し外国商人が価格決定の主導権を有して利益を独占していたため、これを抑える必要に迫れ、幕府は京都・堺・長崎の特定商人に糸割符仲間をつくらせた。糸割符仲間には輸入生糸の価格決定と一括購入を許し、それを個々の商人に分配させた。
堺のこの糸割符貿易には、薬種、香料、反物等の唐物取引が付随しており、堺商人は有利な立場にあった。

 17世紀後半以降、商業都市としての大坂の繫栄の一方、堺は鉄砲産業に由来する金属加工技術をもとに18世紀初頭にかけて打ち刃物産業への転換が進んだ。織物産業は江戸中期の絹織物から木綿織物へと移行し、酒造りなど醸造業や香料を原料とする線香産業、石津川流域の木綿晒業など、現代の伝統産業の萌芽の時期を迎えていた。
 1858年、日米修好通商条約が締結し、日本の主要港が開港され外国船の渡来が増えた。1868年2月、測量調査のため堺港に入ったフランス軍艦デュプレー号乗り組兵士と幕府直轄地・堺を警護中の土佐藩士が衝突して、フランス水兵11名を殺傷する堺事件が起こった。
 明治に移り、1897年(明治30年)、河口慧海は人々が分かりやすい正確な和訳の大蔵教(仏典の集大成)を作り日本国民の大安心(心が安らぎ動揺しない境地)の基礎づくりを目指し、単独でヒマラヤを超えインド、チベットへ探検し仏教文物収集を行った。  

               
南海電鉄「七道」駅前 河口慧海銅像                     A・堺アセアンウイークポスター

 堺は、古代より積極的に国際交流が行われ、中世には世界的な商業都市としてヒト、モノ、情報の集積する国際都市として多くの国との交流があった。特に、アジア諸国との関係が深く、そのDNAは現代にも引き継がれ、2006年より「堺歴史文化交流会議」が開催され、「堺で出会う東南アジア」市民交流アセアンウィークが毎年「堺まつり」に合わせて10月に開催されている。

<引用文献>
     1.小葉田 淳編集代表1976『堺市史 続編第六巻』堺市役所
     2.小葉田 淳編集代表1971『堺市史 続編第一巻』堺市役所
     3.朝尾直弘・榮原永遠男・仁木 宏・小路田泰直1999『堺の歴史-都市自治の源流』角川書店
     4.堺市立埋蔵文化センター2002『四ツ池遺跡-弥生時代編』堺市教育委員会
     5.角山 榮2000「堺-海の都市文明』PHP研究所
     6.桃木至明・角山 榮監修2009『アジアの海がはぐくむ堺-中近世の港町ネットワークを掘り起こす』堺市市長公室国際部
     7.吉田 豊2009「近世初頭の貿易商人」『近世初頭の海外貿易と陶磁器』関西近世考古学研究会
     8.堺市ホームページ 観光・歴史・文化 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/index.html
     9.以下ホームページ
        堺市博物館、みはら歴史博物館、さかい利晶の杜、堺市立文化館、堺伝統産業会館、堺自転車博物館


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世界から「堺」へ 日本へ! 2.大航海時代とアジア貿易圏の交易メカニズム

2021-02-25 00:43:03 | 堺のアイデンテlティ―

世界から「堺」へ 日本へ!  2.大航海時代とアジア貿易圏の交易メカニズム

前田秀一 プロフィール

 

< 関連情報 >
  「世界と日本が出会うまち・堺 2017」プロジェクト
  
主 催 堺市(主管:堺市博物館)/大阪大学(主管:大阪大学歴史教育研究会)
  後 援 大阪府教育委員会 【協 力】堺ユネスコ協会/同プロジェクト研究会

 

                                世界から「堺」へ 日本へ!
                                      1.その出会いと歴史年表 はこちらから
                                    3.堺の誇り「伝統産業」 はこちらから

 大航海時代
 ヨーロッパでは、他の諸国に先駆けて、永い間イスラムに制圧されていたポルトガルとスペインで民族主義が盛り上がり、強力な国王を中心とした中央集権制度が確立した。さらに技術的に頑強な船が建造され、羅針盤がイスラムを通して伝わったことから航海技術の発展により外洋航海が可能となった。
 1415年、人口110万人の小国ポルトガルは、財宝溢れるジパングや、生糸・絹織物を産出する富めるアジアを見据え、アジアやアラブ商人が占有するスパイス(香辛料)の直接取引を目指し、西回りで独自の大量輸送が可能なモルッカ諸島(別称:香料諸島)への海上航路の開拓に乗り出しスペインと競う大航海時代が始まった。

   

 蛋白源として魚や動物の肉食を食生活の基盤としていたヨーロッパ人にとって、丁子(ちょうじ)やニクズクなどスパイスは蛋白源保存のための最良の防腐剤として毎日の生活に欠かすことが出来なかった。
 現実には、これらスパイスは、アラブ人やインド人および中国人の手を通して買い求めており、然も、地球上で唯一の生産拠点である香料諸島からの入手経路は陸路にしても海路にしてもオスマン帝国を通ることになり、物品税や通行税を課せられ金に匹敵するほど高価な値段で取引されていた。


 

 1451年、スペインは、イタリア人・コロンブスの地球球体説を受け入れ、支援して東回りで航路可開拓に取り組み新大陸を発見し、その後1545年にはポトシ(ペルー)銀山の発見に繋がった。
 1455年、ポルトガルは、スペイン王国の進出に先手を打ち、ローマ教皇からキリスト教布教を大義名分として非キリスト教世界の征服と貿易の独占権を認める教書を獲得した(「胡椒と霊魂」戦略)。
 1517年、マルティン・ルターがローマ・カソリック教会の求める免罪符の購入に異議を唱え、聖書を基本とするプロテスタントが独立し、カソリック教会に危機感が迫った。
 1519年、フェルディナンド・マゼランは西回りでモルッカ諸島に到達するルートの開拓に向かい、南米大陸南端のマゼラン海峡を発見してヨーロッパ人で初めて太平洋を横断した。途中彼自身はフィリピンで命を落としたが、その船団が1522年にスペインに帰り、人類で最初に世界周航に成功した。

  

 1543年、ポルトガル人が乗った倭寇の漂着船により種子島に鉄砲が伝えられ、鉄砲の模作に成功した種子島の鍛冶屋集団の中にいた堺の橘屋又三郎が鉄砲製造技術を堺に持ち帰った。堺では、分業生産方式で大量生産に成功し、以後一大鉄砲生産地として名乗りを上げ日本における戦いの戦術文明の転換を誘導した。
 1549年、ポルトガルの香料諸島への香辛料貿易船に便乗してフランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来し、1550年には京都の天皇への謁見を目指し堺港に上陸した。
 1600年、オランダ船「リーフデ号」が豊後に漂着(4月)し、豊臣政権の五大老の筆頭を務める徳川家康の命で堺港(5月)に曳航され、オランダ人船長に代わりイギリス人航海士・ウィリアム・アダムスが徳川家康の取り調べに応じた。
 オランダとイギリスは、ポルトガルやスペインのようなカトリック教国ではなく、プロテスタント教国としてキリスト教布教を目的にしていないことが評価され、さらにアダムスは航海技術と造船技術が注目されて徳川家康は外交顧問として処遇した。その後、オランダおよびイギリスとの交易の布石となった。
リーフデ号には大砲など武器・火薬を積み込んでおり、徳川家康にとって関ケ原の戦い(10月)に向けて戦備強化に活かした。アダムスは帰化して三浦按針を名乗り、徳川家康の旗本に処遇され250石の所領を与えられた。

  

                                          上「図」の拡大はこちらか(日本語版English

 ヨーロッパ人が来航する16世紀半ば以前は、中華思想に基づき中国を中核とした朝貢冊封体制(朝貢、勘合貿易)のもと東アジア特有の貿易圏を構成し、建前上は一元的な支配・被支配の国際秩序があり、現実的には相互依存の関係秩序が保たれた貿易構造であった。
 対明朝貢貿易の実態は、朝鮮が1年に数回、琉球王国が1~2年に1回、日本が10年に1回の割合で行われていた。この中にあって、琉球王国は「万国の津梁」(国乏しく仲介貿易拠点に徹す)を国策として明と日本の仲介貿易の役割を果たした。
 16世紀後半になると、アジアの海域は香料取引を巡る東南アジア貿易と、中国産生糸・絹織物の輸入国・日本を巡る東アジア貿易の二つの貿易圏から構成され、この二つの貿易圏は日本の銀を軸として密接につながっていた。
 この香料と銀を軸とするアジア内貿易ルートを開拓したのはポルトガル人であったが、キリスト教布教を目的とするカトリック教派は徳川幕府の禁教令により入港禁止(1624年スペイン、1639年ポルトガル)となり、実質的には、オランダがこれまで琉球王国やポルトガルが担っていた日本と中国の仲介貿易権を独占的に引き継いだ。
 1604年、生糸の輸入に関し外国商人が価格決定の主導権を有して利益を独占していたため、これを抑える必要に迫れ、幕府は京都・堺・長崎の特定商人に糸割符仲間をつくらせた。糸割符仲間には輸入生糸の価格決定と一括購入を許し、それを個々の商人に分配させた。
 堺のこの糸割符貿易には、薬種、香料、反物等の唐物取引が付随しており、堺商人は有利な立場にあった。

 <引用文献>
     1.小葉田 淳編集代表1976『堺市史 続編第六巻』堺市役所
     2.小葉田 淳編集代表1971『堺市史 続編第一巻』堺市役所
     3.朝尾直弘・榮原永遠男・仁木 宏・小路田泰直1999『堺の歴史-都市自治の源流』角川書店
     4.堺市立埋蔵文化センター2002『四ツ池遺跡-弥生時代編』堺市教育委員会
     5.角山 榮2000「堺-海の都市文明』PHP研究所
     6.桃木至明・角山 榮監修2009『アジアの海がはぐくむ堺-中近世の港町ネットワークを掘り起こす』堺市市長公室国際部
     7.吉田 豊2009「近世初頭の貿易商人」『近世初頭の海外貿易と陶磁器』関西近世考古学研究会
     8.堺市ホームページ 観光・歴史・文化 http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/index.html
     9.以下ホームページ
        堺市博物館、みはら歴史博物館、さかい利晶の杜、堺市立文化館、堺伝統産業会館、堺自転車博物館

 

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世界から「堺」へ 日本へ! 3.堺の誇り「伝統産業」

2021-02-25 00:42:27 | 堺のアイデンテlティ―

世界から「堺」へ 日本へ!  3.堺の誇り「伝統産業」

前田秀一 プロフィール

 

< 関連情報 >
  「世界と日本が出会うまち・堺 2017」プロジェクト
  
主 催 堺市(主管:堺市博物館)/大阪大学(主管:大阪大学歴史教育研究会)
  後 援 大阪府教育委員会 【協 力】堺ユネスコ協会/同プロジェクト研究会
 

                             世界から「堺」へ 日本へ!
                                  1.その出会いと歴史年表 はこちらから
                                  2.大航海時代とアジア貿易圏の交易メカニズム はこちらから

 井原西鶴の言葉〔井原西鶴 元禄元年(1688)浮世草紙『日本永代蔵』〕を借りれば、「堺は浮ついた商いをせず、暮らしぶりは質素で世間づきあいも上手だが、一獲千金の気概に欠けて老成した印象を与える」と表現され、かつての商人の町は表向きの華々しさには欠けるきらいはあった。しかし、鉄砲鍛冶の流れをくむ打ち刃物のほか食品加工、染色などに分業体制がとられ専門性の高い職人の町として息づいていた。
 明治20年(1887)の産業状態(三浦周行監修1930初版『堺市史本編第⒊第3巻』942頁堺市役所)で見ると、清酒が売上高の一位を占め、醤油、酢と併せると発酵製品の生産が多く堺のまち衆の進取の気概が感ぜられる。

上「表」の拡大は、こちらから
 

  “まち”の成長や社会環境の変化は、そこに住むものの営みに影響を与え、「業」の盛衰を招く時代の変遷の中で、堺の専門職は堺の風土を反映し「誇り」と頑な「こだわり」によって郷土のアイデンティティーを育んでも来た。

1.堺の「業」の盛衰
1)清酒
 堺の酒造業の始まりは中世以来ともいわれ(1493年『蔭涼軒目録』)、1619年(元和5年)には堺の商人が紀州の回船を雇って江戸へ就航させた菱垣廻船で江戸へ運び、そのほか長崎、松前(北海道)、中国、四国、対馬など全国へ出荷していた。
 当時、堺は京都、大坂、奈良とともに、金剛山からの伏流水を活かした全国的な酒の産地であった。堺の酒造の最盛期は明治時代(1868~)で、大正3年(1914)まで約50年近く、堺の製造業の生産金額の1位を占めていた。
 これらの内、清酒、手織り緞通、菜種絞油、真田紐は時代の進展とともに社会環境と生産条件の変化により衰退の道をたどり実質的な生産活動は堺から消えた。
 清酒は、堺市街地の開発と近代工業の発達につれて地下水の使用が増え、地下の伏流水が枯渇し、水質低下のため清酒生産に必要とする水を六甲の宮水(西宮)を買いに行くことになり、堺の酒造りは衰退の道をたどった。
 当初100軒近くあった酒蔵は、1970年(昭和45年)頃には堺市内から完全に姿を消すことになった。
 平成17年(2005)、河内長野の蔵元を病気のため退いておられた西條裕三氏が健康回復に伴い、堺のまちづくり団体・大小路界隈「夢」倶楽部の面々と開口神社境内にある室町時代からの名泉・「金龍井」井戸を整備され、近世の堺を支えた酒造業の復活に思いを馳せられた。
 特別純米酒「夢衆」の上市を弾みに、平成28年(2016)新酒蔵(堺区甲斐町西)を建造し46年振りに純米吟醸酒「千利休」が発売された。
2)堺緞通
 堺で緞通の製造が始まったのは江戸時代の天保2年(1831年)、真田紐を製造していた糸物商・藤本庄左衛が中国緞通、鍋島緞通(佐賀県)を参考にしてであった。織機には世界でも類を見ない巨大な開孔板綜絖(かいこうばんそうこう)と呼ばれる部品を使うなど独自の発展を見せた。
 明治20年代に堺緞通は近郊農村の一大産業となり、「緞通業者は3千人以上、職人は2万人以上」になったが、30年代には、アメリカで高い関税がかけられ、安い海外製が出回るなどして、手織緞通は急速に廃れ、その後は機械化が進み安いカーペットなどに置き替わっていった。
 存続の危機の中、中区在住の辻林白峰氏(本名:辻林峯太郎)が家業として緞通製造に関わり文様を絵画的に表現する技法を磨き上げ、その生涯を緞通にささげられた。
 現在は、「堺市手織緞通技術保存協会」(中区東山)が中心となって有志により継続され、平成6年より大阪刑務所にて職業訓練として手織り緞通が造られ、優れた作品など受注生産を行っている。
 昭和61年(1986)2月5日に「大阪府指定無形民俗文化財」の指定を受けた。
3)菜種絞油
 大蔵永常『清油録』〔1836(天保6)年〕の総論に次の記述がある。
 「神功皇后の御時 摂津国のほとり遠里小野(おりおの)村にて榛(はしばみ)の実の油を製し住吉の神前の燈明そのほか神事に用ふる所の油をみなこの地より納め奉れり」
 「摂津国遠里小野村 若野氏 菜種子油をしぼり出せしより 皆これにならひて油菜を作る事を覚え 油も精液多く油汁の潔き事是に勝るものなければ他の油は次第に少くなり かつ 菜種子の油のみ多くなれり」
 「大阪は諸国へ通路便宜なるに随ひ 元和(1615~1623)の頃より遠里小野其外油うりのともがら多くこの地に引うつりしと見え その後搾具の製作まで追々細密に工夫を用ひたれば 明暦(1655~1658)の頃より古風の製具絶しと見えたり」
 今も、「花田口」、「北花田」および「南花田」の地名が残っている。
 菜種油は、灯明用としては荏胡麻油に比べて優れたていたため、豊臣秀吉は天正11(1583)年大坂城の築城とともに大山崎に産する荏胡麻油を河内・和泉に産する菜種油に切り替え、大山崎の油商人も新興の大坂に移り住んだ。
 明治維新(1868年)後、文明化の流れの中、西欧から電灯技術が導入がされ、大正末期(1926年)にほぼ全家庭に普及するに従い、菜種油の灯明用としての需要は激減し、神社仏閣など特定用途に限られた。堺市内の製油メーカーも淘汰され、食用油など加工製品の開発に注力し堺から菜種絞油の生産はなくなった。


2.堺の「伝統産業」
 堺市では卓越した技能を有している人を「堺市ものづくりマイスター」として認定し、その技術に対する社会的な認知度を向上させるとともに、その優れた技能を継承して発展させるため、堺市ものづくりマイスター制度を実施している。
 「堺市ものづくりマイスター制度」
   http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/dentosangyo/meister/meister.html 
 マイスター認定の対象業種は、刃物(鍛冶4人・研ぎ10人・鋏1人)・注染1人・線香3人・手すき昆布1人・手描き鯉幟1人・和菓子2人で、これに鉄砲づくりに由来する自転車と「大阪府無形民俗文化財」に指定されている手織り緞通を含めて堺の伝統産業と位置付けている。

      

    堺打ち刃物             注染和晒                       線香                                手すき加工昆布

詳細については各画像の下の表示よりホームページにアクセスしてご覧ください。

     

   手描き鯉幟                  和菓子                             自転車                        緞通

 これらの内、打ち刃物のマイスター15人は、いずれも経済産業大臣認定の「日本伝統工芸士」(*)で、注染、線香、手描き鯉幟の計5人は「大阪府伝統工芸士」認定者である。

   

 特に、日本伝統工芸士が揃った堺の打ち刃物は料理を業とする専門家の間で高く評価され、「堺」のアイデンティティーとして広く世界で受け入れられている。

 伝統産業は、本質的に人間に依存するものであって、「ヒト」そのものに由来する部分が大きく、無形の文化遺産でもあり、常に後継者の問題が付随している。つまり、放置しておけば時間とともに失われてゆく文化である。
 「堺市手織緞通技術保存協会」の事例が示すように、「市民」あるいは、「地域社会」の関わりがアイデンティティーの存続に投影されるので、その継承に当たっては地域社会における組織的な支援、すなわち市民意識の向上が鍵となる。
 歴史の息づく堺のまちで、時代を超えて一つの世代から次の世代へ地域の文化と伝統を受け継ぐモデルの実践が、伝統のまち「堺」のユネスコ協会に期待される使命の一つでもある。


<参考資料>
           1. 堺伝統産業館 配架資料 ホームページ
                  打ち刃物、和晒・注染、線香、手すき加工昆布、手描き鯉幟、自転車、手織り緞通
           2.(公社)堺市産業振興センター編集・発行 2008『堺の伝統産業』
           3.三浦周行監修1930初版『堺市史本編第3第3巻』堺市役所
           4.島田孝克編集委員長2000『東京油問屋史』幸書房
           5.調査協力:堺市・商工労働部ものづくり支援課、(公財)堺市産業振興センター販路開拓課

 

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第9回百舌鳥古墳群講演会-海を渡った交流の証し 5世紀の倭と朝鮮半島

2021-02-25 00:41:48 | 堺のアイデンテlティ―

文責 前田秀一 プロフィール

 

アゼルバイジャンの首都バクーで開催される第43回世界遺産委員会(6月30日~7月10日)において、
いよいよ「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録決定が迫ってきました!

<講演の要旨>
◆朝鮮半島で弥生土器や土師器の出土が確認されており、弥生時代から古墳時代にかけ石器や土器に勝る先端素材「鉄」を求めて倭人が海を渡って交流し、特に、鉄を媒介した国際交易は金官加耶において展開されていた。

 

 

◆古墳時代の中期(百舌鳥・古市古墳時代)に至ると、高句麗の南下政策に対応して朝鮮半島南部諸地域との互恵的関係を背景として主体的に馬が導入され、速やかに日本列島内での大規模馬匹生産に踏み切った。


◆高句麗の南下に伴う朝鮮半島南部の軍事的緊張、魏晋南北朝時代の幕開けといった新たな局面を迎えた東アジア情勢に対応する中で、日本列島においても百舌鳥・古市古墳群の被葬者を中心とする勢力が台頭して来た。


◆河内平野に最大規模の古墳が築造された古墳群は直接的な調査が出来ないので情報がないが、その領域にある野中古墳からは大量の鉄製武器・農具が出土し軍事力を掌中におさめた勢力がいたことが説明される。


◆日本での陶質土器(朝鮮半島土器)の出土は少なく、陶邑の小坂遺跡や大庭寺遺跡に限定され、その界隈に渡来人が住んでいたことが分かる。

 

 

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2019近畿ブロックユネスコ活動研究会 in 大阪

2021-02-25 00:37:28 | ユネスコ

日時:令和元年10月5日(土)10時30分~・6日(日)9時30分~

場所:堺市総合福祉会館 4,5,6階

主催:公益社団法人日本ユネスコ協会連盟、近畿ユネスコ協議会

主管:大阪府ユネスコ連絡協議会 後援:大阪府教育委員会、堺市教育委員会

前田秀一 プロフィール

 

 

主催者挨拶 大会会長兼大阪府ユネスコ協議会会長 中馬弘毅氏 

<プログラム>

 第1日目

 ◆事例発表

  1.世界遺産の道を歩く-青年を中心としたピース―ウォーク

        和歌山ユネスコ協会 理事・事務局長 高垣晴夫氏   

  2.アジア留学生を中心とした青年のアジアでの国際ボランティア・国際交流活動

       神戸ユネスコ協会 理事 安井裕司氏

  3.ユネスコ協会と学校が協働する授業づくり

       箕面ユネスコ協会 理事 大濱淳子氏   箕面市立南小学校 教諭 陳 克弥氏

 ◆分科会

 活動報告&意見交換

  1.世界寺子屋運動分科会       長浜ユネスコ協会

  2.世界遺産・地域遺産分科会     奈良ユネスコ協会・青年部

  3.ユネスコ協会と学校の連携・分科会 舞鶴ユネスコ協会

     4.多文化理解・多文化共生分科会   伊丹ユネスコ協会

 ◆全体会  分科会報告を含むパネルディスカッション 「学びあい・つながりあいから活性化へ」

    コーディネーター: 坂口一美氏(大会実行委員長・大阪府ユネスコ連絡協議会会長代行・箕面ユネスコ協会長)

    パネリスト: 安井裕司氏(神戸ユネスコ協会副会長)、中澤静男氏(奈良ユネスコ協会会員、奈良教育大学准教授)

          大濱淳子氏(箕面ユネスコ協会理事)、米田伸次氏(大阪府ユネスコ連絡協議会理事、日本ユネスコ協会連盟顧問)

 

 

地域遺産、世界文化遺産の求心力をまちづくりに活かそう!

課題:パターン化、活動する人の固定化      対策:遺産の深堀り、現代(SDGs:目標、ESD:人の教育) への反映

 

 ◆おもてなし&懇親会(堺市役所本館地下1階「森のキッチン」)

  

 

第2日目

  ◆日本ユネスコ国内委員報告     片山 勝氏(日本ユネスコ国内委員、長浜ユネスコ協会会長)

   日本ユネスコ協会連盟 青年評議員からの報告     谷内裕也氏(奈良ユネスコ協会青年部)

 ◆講演   

        「平和の文化 いま 」               鈴木裕司氏(日本ユネスコ協会連盟理事長)

 

 

    「百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録の意義」  勝真雅之氏(堺市・世界文化遺産推進室長)

      百舌鳥・古市古墳群は、墳墓の規模と形によって当時の政治・社会構造を表現した、古墳時代の文化を物語る傑出した物証。

 

 

 

 

 ◆エクスカーション

  Aコース 世界文化遺産 百舌鳥古墳群、堺市博物館

 

参考:世界文化遺産「仁徳天皇陵」

   Bコース さかい利晶の杜と歴史文化・伝統産業

  

参考:堺のミュージアム「利晶の杜(千利休・与謝野晶子)」  堺の町屋歴史館「旧鉄砲鍛冶屋敷・井上関右衛門居宅、水野鍛錬所」  

 

 

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堺ユネスコ協会 ESD研修会-近畿ESDコンソーシアム

2021-02-25 00:36:57 | ユネスコ

平成29年度 近畿ESDコンソーシアム 総会

日時:平成29年7月8日(土) 午後1時30分~4時30分   場所:奈良教育大学 大会議室(管理棟2階)

                                                                            総会議題:
                                                                                      1.開会あいさつ
                                                                                      2.出席者自己紹介
                                                                                      3.近畿ESDコンソーシアム規約について
                                                                                       エリア教育を目指して「奈良教育大学ESDコンソーシアム」を
                                                                                       「近畿ESDコンソーシアム」と改称し規約を変更した。
                                                                                      4.平成29年度近畿ESDコンソーシアム事業計画

ESD研修会

文責 前田秀一 プロフィール


「2005~2015年:ESD ⇒ 2016~2030年:SDGs 移行について」 
近畿ESDコンソーシアム 事務局 中澤静雄氏

 ミレニアム(2005~2015年)開発目標(MDGs)の成果を土台としながら、あらゆる形態の貧困に終止符を打つための取り組みをさらに進めることをねらいとして日本が主導して国連に提唱した「持続可能な開発目標(SDGs)」が2016年1月1日に正式に発効した。
 旧来の「持続可能な社会づくりの担い手を育成すること」(ESD)を目標とした教育から、2030年を目途に「だれ一人取り残さない世界の実現」を目標とする教育の実現を目指すことになった。

 


「国連 持続可能な開発目標(SDGs)の理解と学校実践をつなぐ」
講師 東京都江東区立八名川小学校 教諭 小野瀬 悠里 氏

 八名川小学校はSDGsの取組として「指導目標」ではなく「評価(成果)指標」を目標とした。
 つまり、課題の「入口」というよりは、「出口」にあるものに問題意識を置いた。
       ◆テーマ:「しん(進、芯、心)のある子の育成―カリキュラム・マネージメント~学習過程の確立」
    ◆テーマの狙い:①学びに火をつける、②追求する(探求型の学び)、③まとめる力をつける。
    ◆目標の選択:SDGs目標8「経済成長と人間らしい仕事」
            若者の完全失業率10%、学校から社会へ移行できていない
              ⇒未来(10年後、特に1年後)志向の学び  ⇒「未来に羽ばたけ!~小学校卒業研究~」
    ◆日常活動: 対話的活動
           八名川小学校の立地条件(松尾芭蕉:江東区深川地域のアイデンティティ)を踏まえ俳句による対話(*)を活用した。
               *:作句(季節を感じる言葉を精選) ⇒ 句会(互いの良さを表現する、互いの良さを認め合う)
    ◆成果と展望:
      成果:子どもの視野が広がった。将来への考え方について変容が見られた。「生き方」、「生き様」
      展望:「八名川の出口」⇒八名川で学んできた意味を最後に振り返る。八名川のESDの集大成
                    ⇒疾風怒濤の時代をどんな目的意識をもって生きていくか

  

 

その他のESD活動における注目点
「東大寺寺子屋」 教育と宗教の関わり方についての判断のあり方

 当初は、教育と宗教の関わり方について議論の対象となり、その課題を「世界文化遺産としての登録基準」(*)に照らしてクリャーした。
  *:該当基準
     2.ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観
           デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
     3.現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
     4.人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。
     6.顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的作品と、
       直接にまたは明白に関連するもの

 

 

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南宗寺 表千家 献茶式 お茶席体験記

2021-02-25 00:33:18 | 茶の湯

前田秀一 プロフィール

 

 毎年、4月27日は茶道・三千家(表、裏、武者小路)が交代で堺市の南宗寺で献茶式を執り行っておられます。
 今年は、表千家・千宗左宗匠(第14代)による献茶式がありました。
 昨年より少し茶の湯を勉強し、お稽古にも通っていましたので、お師匠さんのお勧めに乗せられて恥を顧みず献茶式および関連行事のお茶席に参列させていただきました。
 全国から500人弱の茶の湯の心得をお持ちの方々が一堂に南宗寺および塔頭に参集され、はじめて見る光景に改めて堺の南宗寺の伝統の重みを実感しました。
 方丈(本堂)での献茶式の後、お師匠さんに従い「濃茶」席から参列させていただきました。お客が多いので「大寄席」の方式で20人くらいが一度に会する席となりました。念には念を入れて、席取りをしていただいたのですが、よりによってお菓子のお鉢が私の前におかれあわてました。何かの間違いではと思い、上座のお師匠さんの前に動かすと睨まれて「あなたが初めです」と言われビビりました。
 3人ごとと予測しての席取りだったんですが、お客が多いので4人ごとでとなって目論見が外れたわけです。「濃茶」は駆け出しの私から始めになりどうしてよいやらパニックになりました。上座のお師匠様が小声でお指図に従い所作を始めましたが、さらに困ったのはどの程度いただいてよいやら飲み加減が分からず、横を見ながらお師匠様の顔色を見ながら・・・。お茶碗の淵の汚れをふいていると、「傷がつくから柔らかく・・」と言われ、楽茶碗の取り扱いに対する神経の使い方を教わることにもなりました。
 いただいている時は、必死ですから味もなにもあったものではありませんでしたが、お茶碗をお隣の方へまわしてから、ほっとしている内に口の中に「濃茶」の余韻が蘇ってきて上座に目を移しますと「いいお味でっしゃろ」と優しくお声をかけていただきました。
 やはり、茶事は、「濃茶」と言われるだけあって雰囲気が違いますね。席を離れてから、お師匠様から「濃茶」の回し飲みや「袱紗」扱いはカソリックのしきたりの影響を受けているって聞きますが本当ですか?と聞かれ、今、私が勉強してていることでしたのでお礼の気持ちを込めてご説明させていただきました。
 「濃茶」の後は、本源院についで天慶院で「薄茶」をいただきました。やっと我に返った思いがして少し落ち着きが戻り、何とお師匠様の日頃の教えに従いお茶席を楽しませていただきました。
 「濃茶」から「薄茶」まで茶の湯三昧と聞こえは良いのですが、本音は正座の我慢の限界に耐え忍ぶつらさがあり、待ち時間の長さに心を整えて待つ「禅」の心を考えさせられました。貴重な体験の一日で、帰途には心に重みを実感できる喜びもありました。

 十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図」 詳しくは こちらから

動画に見る 緑のミサ(茶道)と紅いミサ(パンとブドウ酒の儀式) 詳しくは こちらから

 

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角山 榮「真に、堺衆と言うことについて」第2回山上宗二忌講話

2021-02-25 00:31:59 | 茶の湯

文責 前田秀一  プロフィール

 

 4月11日(平成21年)、「堺衆文化の会」会長・谷本陽蔵先生(主宰者)のお声掛けで堺の南宗寺塔頭・天慶院で開催された「山上宗二忌法要」に参列させていただき、角山 榮先生(和歌山大学名誉教授、元堺市博物館長)から「16世紀における堺衆」というお話を拝聴しました。
 天慶院での法要を兼ねた記念のお茶会と講座は昨年から始められ、今回は第2回目です。お茶のおもてなしでは西大寺(奈良)の「大茶会」かと見間違えるような大きな赤膚焼のお茶碗で天慶院・小野雲峰住職様(「堺衆文化の会」副会長)がお点てになられたお抹茶を介添えを頼まれて谷本先生がお召し上がりになられ、ちょっと驚かされました。
 角山先生はとても堺がお好きなのだなと感じました。今回も熱く語って頂き、奥深いお茶の世界と歴史に触れさせて頂けたひと時でした。
 お話を拝聴して特に感銘を受けたのは、千利休が「茶の湯」を大成した茶人でありながら、その一方で魚を商う堺の有力な商人とも言われている背景がよく理解できたこと、反面、自由自治都市とうたわれた「堺」が本当のところは必ずしもそうではなかったという中世の堺の町衆の状況について示唆に富む深いお話を伺ったように思えたことでした。
 以下に要点をまとめてみました。

1.千利休の家業について
 住吉神社と堺が一体となっていて一つの港(住吉津=堺津)ができ、当初、陸揚げ品は朝鮮から輸入された鉄や馬であったものが、鎌倉時代から室町時代に至って魚の集配所となり、今につながる「魚夜市」が立つようになった。そして、漁師が集まり賑わいの町となった。
 魚を商品として日持ちさせるために干し魚(干物)として加工し貯蔵する納屋(なや)=倉庫を持つようになった。卸の魚を扱う商人として、豪商として納屋衆の一人に数えられるようになった。

2.真に、“堺衆”ということについて
 堺が商業都市として脚光を浴びるようになったのは、1469年のことだが、日明貿易で遣明船2隻が応仁の乱による荒廃ため出発港の兵庫港へ入港することができず、急拠、堺港に入港したことに始まる。
 日明貿易の背景は、幕府の権力が弱まるにつれて時の武将(大内と細川)がその権益を横取りし、さらに、南禅寺の下にある五山(天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)も独自に船を出すなど、堺商人はこれらの請負業者として役割を果たす一方で貿易をさせてもらう特権を持っていたというのが実情のようである。
 堺を自由自治都市と言ったのは、京都との比較において言ったのではなく、16世紀の中ごろに堺へ来たポルトガル人(イエズス会の宣教師・ガスパル・ヴィレラ)が西洋の都市と比較して表現したまでであり、本来的な意味においてまで掘り下げて言ったかどうかは疑問が残る。当時、堺商人と一口に言っても、いわゆる「会合衆」(かいごうしゅう)とか、納屋持ちの豪商(納屋衆)とか、生糸を一括購入する特権的商人「生糸10人衆」など様々であり、これらの町人は権力者の請負業であるという立場からすれば必ずしも自由で自治を布いていたとは言い難い。
 ポルトガル人にヨーロッパの中世都市によく似ていると言わしめたのは、幕府の権力が弱まっていた時に勢いのあった堺の町衆の様子に印象を強くして表現したということではないだろうか。
 その点、商人でありながら茶人でもあった千利休や山上宗二は、「茶の湯」においては、上下の関係もなく真剣に勝負するという哲学*「一期一会」、「和敬清寂」を導き、茶の湯において本当の自由と自治を貫いた、まさしく真の“堺衆”だったと思う。
 つまり、堺商人には、特権を背後に富を蓄積した商人や自由を求めてアジア海域に進出し帰国しなかったルソン助佐衛門や具足屋次兵衛など冒険商人がいるが、本当に自由を求めて活動した堺商人は連歌や茶の湯の文化の中に自由の神髄を見出したのではないか。

 *:「一期一会」
    茶会を一生に一度の出会いの場ととらえ、
    相手に誠意を尽くすこころ
   「和敬清寂」
    お互いに心を開いて仲良く、敬いあい、心を
    清らかにして、どんなときにも動じないこころ 

論文 十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図」 詳しくは こちらから

 

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第140回直木賞受賞作・山本兼一著『利休にたずねよ』 あらすじと読書感想

2021-02-25 00:31:06 | 茶の湯

前田秀一 プロフィール

 

 本書は、月刊誌「歴史街道」(PHP研究所)に平成18年(2006)7月号から平成20年(2008)6月号まで2年間連載された掌編(短編型)小説で、それぞれの章が、利休との関わりの深い人物を主人公として完結する単独の物語の連載として構成されている。
 24回の連載の内、登場した主人公は、千利休自身が7回、秀吉が3回、古渓宗陳と宗恩が2回でこの物語の構成における重みを示唆している。
 とりわけ特徴的なのは、天正19年(1591)2月28日朝、利休切腹当日、京都・聚楽第にある利休屋敷の一畳半の茶室で「――かろかろとは、ゆかぬ」どうしようもない怒りがたぎっている利休と後妻・宗恩との会話から始まり、謎めいた利休の茶の湯にかける胸の内を、追憶をたどるように時間を遡りながら物語の核心に迫る展開を取って読者の関心ひきつけることにある。
 なかんずく、物語のモチーフとしては茶道史上には知られていない古い時代の新羅の緑釉の平たい壺を設定し、多感な時代の利休の女性遍歴にからませ、秀逸な文章力で侘び茶の中にある艶をめぐる謎を追い、意外性に満ちた展開があって読者の好奇心を駆り立てる。
 表面的には「歴史街道」の連載小説として歴史小説と見られがちであるが、内容的には茶道史に関わり、物語の展開は19歳のころに出会った高麗からの高貴な女を想う利休の心を描いたプラトニックな恋愛物語とも言える。

『利休にたずねよ』-利休の胸の内にあるもの

 

  天正18年(1590)11月7日 大徳寺門前利休屋敷にて秀吉をもてなす
「菓子は、麩の焼き。小麦の粉を水で溶いて、鉄鍋で薄く延ばして焼き、味噌を塗って丸めたものだ。素朴な見かけだが、味噌にひと工夫しておいたので、噛むほどに味わいが深い。」

〔あらすじ〕
 天正19年(1591)2月28日朝、利休切腹当日、京都・聚楽第にある利休屋敷の一畳半の茶室で「――かろかろとは、ゆかぬ」どうしようもない怒りがたぎっている利休と妻・宗恩との会話から始まっている。
 利休の死に及んで、宗恩はいつにもましておだやかな口調で、意を決して永年わだかまっていた利休の心の中にある想い女のことについてたずねた。思いもよらない宗恩の詰問に利休は驚き否定するが、50年も昔のこと、口に出したことはないが、それでも、その女の凛とした顔は、忘れたことはない。いつも心の中に棲んでいる女・・・19の時、利休が殺した女を思い起こさせられた。
 利休は、掌にすっぽりとおさまるあの女が持っていた緑釉の平たい壺を形見として肌身離さず持ち続けていた。

 秀吉に出会ったからこそ、利休は独創的な侘び茶の世界を創ることができた。
 天正13年(1585)7月11日、秀吉が関白になり、10月7日就任返礼の禁中茶会で後見役を務めるに際して、その前9月に正親町天皇から法号「利休居士」が勅許された。その名を帝に奏上したのは大徳寺の古渓宗陳であった。内裏をさがって大徳寺を訪れ、宗陳に「利休」という号の由来をたづねると「名利頓休、老古錐となって禅にはげめ」と諭され利休は深々とうなずいた。
 人の世は、貪欲(むさぼり)、瞋恚(いかり)、愚痴(おろか)の三毒の焔が燃え盛っている。肝要なのは、毒をいかに志にまで高めることができるかである。高きを目指して貪り、凡庸であることに怒り、愚かなまでに励めばよい。師・古渓宗陳の教えは利休の心にずしりと響いた。

 利休は、秀吉の点前に感じ入るものがあった。野人と侮っていると、ドキリとするくらい鋭さを見せることがある。自分よりも、はるかに鋭利なくせに微塵もそれを人に見せない。鋭さを見せるも隠すも自由自在、どこまでも鋭くなれるし、それを綿で包み隠し笑いにまぎれさせてしまうのもお手のもだと利休は感心していた。
 利休は、茶の湯には人を殺してでもなお手に入れたいほどの麗しさがあり、道具ばかりではなく、点前の所作にもそれほど美しさを見ることができると頑なに信じていた。美しは決してごまかしがきかない。道具にせよ、点前にせよ茶人は常に命がけで絶妙の境地を求めるものであると考えていた。
 一方、秀吉は、なぜ、あの男はあそこまでおのれの審美眼に絶対の自負を持っているのか。悔しいことに、あの男の眼力は外れたことがないことを認めねばならない。悔しいがただものでないことを認めねばならないと、利休に畏敬の念さえ持っていた。
 島津討伐の際に、利休から敵をたらしこむ緩急自在の呼吸を教わった。戦勝の論功行賞で利休の名を挙げるのをはばかり、手柄の第一等は茶の湯であるといった。秀吉は、冗談ではなく本気でそう思った。
 利休は、朝鮮討伐を構想する秀吉を博多湾の浜で野立てに招待した。そこで、利休の指のすきまから鮮やかな緑色の香合を見た。今まで、秀吉が目にしたどんな陶磁器より瀟洒で繊細だった。「わしにくれ。望みのままに金をわたそう」と、黄金一千枚を積んでも利休は首を縦にふらなかった。「お許しください。わたしに茶の心を教えてくれた恩義のおるかたの形見でございます」。秀吉は、利休がずっと隠していた秘密を見た気がして、「女じゃな、女に茶をなろうたか」といった。
 古田織部は、師の利休が、秀吉の勘気をこうむっている。「なんとかせねばならん。」と秀吉に「なにとぞ利休居士にご寛恕をたまわりたく・・・」と頭を下げたが、秀吉は取り合わなかった。
 織部が、退出の挨拶をしようとすると、秀吉が朱塗りの扇子で織部を招き、「わしはどうしてもあの緑釉の香合がほしい。橋立の壺もほしいが、あの香合は別格だ。碧玉のごとく美しい壺だ」。「わしは、あの香合の来歴だけでも知りたい。古い高麗の焼き物らしい。あれだけの香合だ。世に知られてもよいはずだが、誰も知らぬ。どこの伝来品か。聞き出せば、お前の手柄だ」と命じた。
 秀吉は人の心底を見透かす鋭い直感力を持っている。
 利休という男、一服の茶のためなら、死をも厭わぬしぶとさがある。その性根の太さは認めよう。たかが茶ではないか。なぜ、そこまで一服の茶にこだわるのか、秀吉はそれを知りたがった。
 秀吉は、その秘密があの緑釉の香合にあり、その背景に大事な秘めごとがあると見透した。

 利休が、晩年、「上様(秀吉)御キライ候ホトニ、此分ニ仕候ト也」〔天正18年(1590)9月10日昼、聚楽第・利休茶室にて:『宗湛日記』〕と言いつつも、「赤ハ雑ナルココロ也、黒ハ古キココロ也」〔天正15年(1587)1月12日朝、大阪利休屋敷にて:『宗湛日記』〕と侘びの境地の象徴として使い続けた黒楽茶碗のもととなる赤い釉薬をかけた楽茶碗の制作を明国渡来系の瓦職人・屋号“あめや”長次郎に依頼した。
 「白い指が持って、なお、毅然とゆるぎない茶碗をつくってください」と茶碗を使う人の楽を考えて、毅然とした気品のある茶碗――それでいて、はっとするほど軽く柔らかく、掌になじみ、心に溶け込んでくる茶碗の制作を依頼した。
 長次郎は、注文通り、掌にぴったり寄り添う茶碗をこしらえた。しかし、宗易は「あなたの茶碗は媚びてだらしがない」と一蹴し、毅然として気品がある焼物の見本として、道服の懐から緑釉の小壺を取りだして見せ納得させた。
 「これはいい」と宗易の顔がほころんだ。「さっそく茶を点ててみましょう」、毛氈に置いた茶碗を見つめ、宗易は、目を細めている。なにかを思い出している顔つきだ。宗易の目尻に、皺が寄った。茶碗を持つ女の白い手をどこか遠い彼方に見ているかのようだ。ひとつ大きな溜息をついた。
 「あの女に茶を飲ませたい-。それだけを考えて、茶の湯に精進してきました」。「あんな気の毒な女はいません。高貴な生まれなのに、故郷を追われ、海賊に捕らわれ、売りとばされ、流れ流れて、日本まで連れてこられた」。思わぬ話の展開に、長次郎は息をのんだ。宗易はそれきり、口を閉ざした。
 利休が茶を点て、長次郎の前にさしだした。茶碗は、じぶん(利休)でも驚くほど軽かった。(長次郎は)玄妙な気持で、茶を口にふくんだ。やがて、口中に苦みがひろがった。人が生きることのとてつもない重さを、むりに飲まされた気がした。

 利休は、若いころあの女の故郷の家の設えを知りたいと思って学んだことがあった。堺には高麗の商人がいる。その者たちを訪ね、絵や図をたくさん描いてもらった。そこには、やっと潜れる小さな入り口や室床とても狭い二畳の庵室もあった。
 老いとともに、利休は茶室を狭い小間に囲うようにになった。それまでの紹鴎好みの四畳半に飽きたらず、三畳、二畳と狭くした。その方が侘び数寄で落ち着くからだと人に話したし、自分でもそう思った。
 ―― ちがう。あの女がいたからだ。あの女とともに過した狭く枯れた侘びた空間であの女をもてなしてやりたかった。


 利休は、天王山の見晴らしのよいところに堺の浜の小屋を思い起こさせる一辺二尺六寸一分四方の潜り口を設えた一畳台目(一畳と四分の三畳)のほっこりと落ち着く茶室を建て、「待庵」と名づけた。
 「待庵」に秀吉を招いた。名物を使うつもりはない。床には、軸をかけず、花をいけず、虚ろなままにしておいた。利休としては、いまさら柴田の船に乗り換えられない。秀吉に天下を取ってもらわなければ困る。焦らず、時期を待つことだ。待っていれば、かならず雪が深くつもり、街道は閉ざされる。その時こそ勝機、秀吉の出番だ。

 秀吉の使者が伝えた賜死の理由は二つあった。ひとつは、大徳寺に安置された利休の木造は不敬であること、もう一つは、茶道具を法外な高値で売り、売僧となりはてたことであった。
 秀吉に検死役を命じられた蒔田淡路守は、茶の手ほどきを受けた利休に嘘でもよいから頭を下げる真似だけでもと迫るが、「この利休めにとっては、命より、茶が大事でござる」と断った。
 天正19年(1591)2月28日朝、京都・聚楽第・利休屋敷で利休は切腹した。
 宗恩の胸の奥には、秀吉に命じられた死とは別の口惜しさが渦巻いていた。夫にはずっと想い女がいた。悔しいのは、その相手は生きていた女ではなく、心の奥でずっと思っていた女・・・。

 床には、軸も花もなく、白木の薄板と木槿の枝と、緑釉の香合が置いてある。木槿は高麗で、たいそう好まれるとか。花は冥土で咲きましょう。
 なぜ、腹を切らなければならなかったのか。なぜ、死を賜らなければならなかったのか。はっきり分かっていることはひとつある。――くちおしい。
 宗恩は、香合を手に取り、手を高く挙げ、握っていた緑釉の香合を勢いよく投げつけた。香合は石灯籠に当たり、音を立てて粉々に砕けた。

〔読書感想〕
 本書は、茶道史上には知られていない緑釉の香合の存在が際立っていて、思わず関連書籍をひも解かせられた。フィクションと分かってからは歴史書と茶道史書の行間を埋める物語として大変興味の尽きない内容であった。
 利休は、秀吉に出会ったからこそ独創的な侘び茶の世界を大成した。その過程を舞台として相互に能力を認め合う秀吉と利休が、それぞれに茶の湯を通して高めていった審美眼の葛藤の物語として展開し、幾度となく時の為政者の権力が利休の絶対的な自負心の背景を解き明かせようと踏み込んだが、茶の湯の心と目する高麗からの“あの女”への利休の想いを明かさせることを許さなかった。
 また、身近にいながら利休の心の中の想い人“あの女”の存在は、妻・宗恩にとって永年心の中に鬱積した悔しさであり、利休の死の瀬戸際にあって耐えることなく詰問が発せられた。それでも明かされない悔しさは、想い人の緑釉の香合を投げつけ粉々に砕け散らしたが、遺された者として心の中を晴らすことができただろうか。

 今年(平成25年)12月7日、山本兼一原作『利休にたずねよ』が全国東映系で映画化されロードショー公開される。脚本家・今井雅子氏によると「原作」と「脚本」の関係は、例えて言えば、「家」と「リフォーム」の関係にあると説明されている。
 追憶の時を遡る形で展開するこの物語がどのような形でリフォームされるのか大変興味がある。
 なかんずく、利休が決して明かすことがなかったプラトニックなラブ・ロマンスが、茶の湯の表舞台の“陽”に対する“陰”、“心”の部分としてどのように表現されるのか、シーリアスな内容を含む作品としてどのように人々の心に響かせようとするのか公開を楽しみにしている。

 

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