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堺の歴史・文化の再発見、再生、創造、魅力情報発信!

キリシタン受容の構図-文献

2021-02-24 23:59:34 | 茶の湯

「十六世紀 茶の湯におけるキリシタン受容の構図

前田秀一 プロフィール

<本論要旨> こちらから 

(引用文献)
1)熊倉功夫校注2006『山上宗二記 付茶話指月集』岩波文庫 青50-1岩波書店
2)松田毅一1968『南蛮史料の発見 よみがえる信長時代』中公新書51中央公論社
3)江馬 務 佐野泰彦 土井忠生 浜口乃二雄訳1967『ジョアン・ロドリーゲス日本教会史上』
   大航海時代叢書Ⅸ 岩波書店
4)千 宗左1977「江岑夏書」千宗室編纂代表『茶道古典全集 第十巻』 淡交社 p71
5)永島福太郎1977「解題」千 宗室総監修『茶道古典全集 第七巻』 淡交社 p437~460
6)神津朝夫2007『堺衆 山上宗二』龍興山本源院・小野雲峰、一会塚発起人代表・(株)つぼ
   市製茶本舗・谷本陽蔵 p49
7)永島福太郎1977「天王寺屋會記 自会記」千宗室編纂代表『茶道古典全集 第八巻』淡交社
8)永島福太郎1977「天王寺屋會記 他会期」千宗室編纂代表『茶道古典全集 第七巻』淡交社
9)林屋辰三郎ほか七名編集代表1994『角川茶道大事典 本編』 角川書店
   p26:  武内範男「明智睦秀」      p228:  武内範男「織田信長」  
  p229:  武内範男「織田信長」       p761:  村井康彦「千 利休」
  p813:  瀧浪貞子「高山右近」      p1045:  谷 直樹「南宗寺」
  p1320:  泉 澄一「三好實休」      p1320:  泉 澄一「三好長慶」
10)天野忠幸2010『戦国期三好政権の研究』清文堂
11)堺市役所1977三浦周行監修『堺市史 第二編本編第二』 堺市役所
12)桑田忠親校注1997『太田牛一 新訂信長公記』新人物往来社
13)湯川 制監修1974『今井宗久茶湯書抜 静嘉堂文庫蔵本』 渡邊書店 p34
14)松田毅一 川崎桃太郎訳1981『フロイス日本史4 五畿内編Ⅱ』 中央公論社
15)永島福太郎編1989『天王寺屋会記五 紙背文書』淡交社 p84~85、
16)森本啓一2004「荒木村重の織田信長への謀反の期日」『村重 第4号』荒木村重研究会p22、
17)松田毅一 川崎桃太訳1978『フロイス日本史3 五畿内編Ⅰ』中央公論社
18)松田毅一 川崎桃太訳1981『フロイス日本史4 五畿内編Ⅱ』中央公論社
19)松田毅一 川崎桃太訳1977『フロイス日本史2 豊臣秀吉編Ⅱ』中央公論社
20)松田毅一 川崎桃太訳1978『フロイス日本史5 五畿内編Ⅲ』中央公論社
21)松田毅一 川崎桃太訳1977『フロイス日本史1 豊臣秀吉編Ⅰ』中央公論社
22)松田毅一 佐久間正近松洋男訳1990『ヴァリニャーノ日本巡察記』東洋文庫229平凡社p23
23)西村 貞1948『キリシタンと茶道』全国書房
24)松田毅一監訳1998『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第2巻』 同朋舎 p274
25)角山 榮2000『堺-海の都市文明 PHP新書104』PHP研究所 p155

参考文献
1.堺について
   泉 澄一1981『堺 中世自由都市 歴史新書<日本史>64』教育社
   角山 榮2000『堺-海の都市文明PHP親書104』PHP研究所
   吉田 豊1998「堺中世の会合衆と自由」『堺市博物館報17号』堺市博物館 p.2、
   森村健一2008「利休の考古学 自由都市 堺」『千利休』別冊太陽日本の心155平凡社p23、
2.茶の湯
   千 宗左 千 宗至 千 宗守監修1989『利休大事典』淡交社
   倉澤 洋2000「茶道と宗教-キリシタンの見た日本の茶湯」
           『東洋と西洋 世界観・茶道観・藝術観』東方出版社
   谷 晃2001『茶会記の研究』淡交社
   神津朝夫2005『千利休の「わび」とはなにか 角川選書378』角川学芸出版
   千 宗至監修2008『利休宗易 裏千家今日庵歴代第一巻』淡交社
3.仏教とキリスト教
   増谷文雄1968『仏教とキリスト教比較研究 筑摩叢書113』 筑摩書房
   八木誠一2000『パウロ・親鸞*イエス・禅』法蔵館
   佐藤 研2007『禅キリスト教の誕生』岩波書店
   木村典雄1963「真宗と基督教に於ける救済比較研究」龍谷大学卒業論文
4.キリシタン文化
   松田毅一1967『近世初期日本関係 南蛮史料の研究』風間書房
   河野純徳訳1994『聖フランシスコ・ザビエル全書簡3東洋文庫581』平凡社
   松田毅一監訳1997『イエズス会日本報告集 第Ⅲ期』第1巻~第7巻(1549~1587年)同朋舎
   松田毅一監訳1987『イエズス会日本報告集 第Ⅰ期』第1巻~第3巻(1589~1601年)同朋舎
   五野井隆史2002『日本キリシタン史の研究』吉川弘文館
   堺市博物館2003『南蛮-東西交流の精華』堺市博物館
   堺市みはら歴史博物館2006『南蛮との出会い-ポルトガル・スペインが残したもの』
   岡美穂子2010『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』東京大学出版会

 

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第7回ゆめづくりまちづくり賞「奨励賞」受賞記念植樹

2021-02-24 23:57:45 | すずめ踊り

“堺すずめ踊り”普及活動10周年事業

  

前田秀一 プロフィール


 “堺すずめ踊り”普及活動10周年を記念して快適都市実現委員会(国土交通省近畿地方整備局)主催、安藤忠雄審査委員長による第7回 ゆめづくりまちづくり賞に応募しました。
 厳正なる審査の結果、堺すずめ踊り協賛会の「堺にゆかりある“すずめ踊り”を絆とした“人が輝く元気なまち”づくり」の活動が「奨励賞」を受賞しました。
 審査の結果によりますと、当会は、特に活動の持続可能性を見据え実技者単位の組織と財政基盤づくりの組織を分離するなど他地域へのモデル性が高いこと、さらに泉州堺の石工衆が陸奥の武将・伊達政宗の前で踊ったとの伝説がある“すずめ踊り”を、これまでになかった堺に普及させるなど地域の魅力を発見した点等において高い評価を得ました。

  


“堺すずめ踊り”普及活動の経緯と展望

“堺すずめ踊り”普及活動10年の歩み」こちらから
「泉州堺の石工活躍の背景 徳川家康、今井宗薫、伊達政宗」こちらか
「“すずめ踊り” 黒田家400年の伝承」こちらから
「“堺すずめ踊り”20周年の盛会を目指して!」こちらから


「中之町公園」界隈と“すずめ踊り”伝説のゆかり

参考:利晶の杜」へはこちらから

 堺は、中世には世界的な商業都市として栄え、会合衆と呼ばれる町衆が納める自治都市でした。
 これら堺の商人が蓄えた富は、寺町としての堺を支え、茶の湯など堺独自の文化を醸成し、多くの種類の職人が共存していました。
 元禄二年(1689)「堺大絵図」にはそれぞれの職人が寄り合う町にそれぞれの職種に応じた固有の町名がつけられ多種な堺衆文化を形成していたことがうかがえます。

 その一例として、大町以南の大寺院区には寺院の石造物と関わりの深い石工衆の町があり、大永三年(1523)十二月吉日付念仏寺供料等寄進目録には、すでに石屋町(現中之町西二丁)の町名が見え、その界隈に関連職業集団として石工衆が北石切町(現中之町三丁)と南石切町(現寺地町西三丁)に分かれて住んでいたことが知られています。
 慶長五年(1600)、関ケ原の戦いで徳川家康軍の勝利に貢献し陸奥の武将・伊達政宗が初めて自分の城を造る時に、懇意にしていた堺の商人で茶人・今井宗薫を通して徳川家康に築城の許しを得、八年間の上方生活で身近に観察した桃山文化を陸奥で再現したいと石工衆をはじめ職人衆の手配を頼みました。

 
 慶長八年(1603)、仙台城新築移転の儀式の宴席で泉州堺から来ていた石工衆が城主・伊達政宗の前で即興的に踊りを披露し、西国らしい小気味良いテンポ、躍動感あふれる身振り、伊達家の家紋「竹に雀」にちなんで、跳ねる姿がえさをついばむ雀に似ているとして“すずめ踊り”と名付けられたそうです。
 しかし、踊りを披露した石工衆たちは、お城の築造につぶさに関わり、構造的な秘密を知っていたため仙台の地に引き留められました。与えられた城下の土地を北石切町と南石切町と名付けて住みつき、石尊神社・瀬田谷不動尊の祭礼などに“すずめ踊り”を奉納しながら今日まで石工衆の子孫により踊り伝えられてきたそうです。

 

第7回ゆめづくりまちづくり賞「奨励賞」授賞式、記念植樹

平成27年3月24日(火) 午後2時~   堺区中之町西2丁「中之町公園」

     

      ”堺すずめ踊り”の人々                         賞牌授与                  国土交通省、堺市、地元住民の方々

賞牌披露(左:葛村和正堺すずめ踊り協賛会会長、右:牟禮輝久近畿地方整備局広報広聴対策官)

 

              お祝の言葉 笠谷 実 堺市文化観光局長         お礼の言葉 葛村和正 堺すずめ踊り協賛会会長


左から 葛村和正「協賛会」会長 笠谷 実堺市文化観光局長 波々伯部 稔英彰校区自治連合会副会長、
牟禮輝久近畿地方整備局広報広聴対策官、北側和代「協賛会」事務局長、早川すずえ「連盟」事務局長、
永松義敬所長大和川河川事務所所長

第7回ゆめづくりまちづくり賞「奨励賞」記念植樹 記念写真

 

式典終了後 くつろぎの光景

  

植樹:平成27年3月24日            初開花:平成27年3月30日                    満開:平成27年4月2日


石工衆の里にソメイヨシノが蘇った!

 

< ”堺すずめ踊り”普及活動情報 >
 ◆歴史と伝説 詳しくは こちらから
  1.  泉州堺の石工活躍の背景 家康・宗薫・政宗 その出会いと連携  こちらから
  2.  千利休切腹の背景 伊達政宗と徳川家康  こちらから
  3.近世 五箇荘の領主・今井氏の活躍と伝説  こちらから

 ◆普及活動経緯(情報) 詳しくは こちらから

 


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”すずめ踊り”ゆかりの地伝説「顕彰碑」建立

2021-02-24 23:57:09 | すずめ踊り

堺の石工とすずめ踊り

 

近世 五箇荘の領主・今井氏の活躍と伝説 こちらから

第7回ゆめづくりまちづくり賞「奨励賞」受賞記念植樹 こちから
石工の里(旧跡)「中之町公園」に仙臺すずめ踊り“伊達の舞”がやって来た! こちらから

堺すずめ踊り 15年のあゆみ こちらから
堺すずめ踊り歴史と伝説 こちらから

 

前田秀一 プロフィール


 

 
左より北側一雄衆議院議員、西村昭三英彰校区自治連合会長、宮前 誠堺市文化観光局長、奥野圭作堺すずめ踊り協賛会会長

平成30年10月20日(土)午前11時30分~11時 堺区「中之町公園

                              式次第   紙芝居「すずめ踊り物語」 堺すずめ踊り協賛会
                          開式    主催者挨拶 英彰校区自治連合会 会長 西村昭三
                          協賛者挨拶 堺すずめ踊り協賛会 会長 奥野圭作
                          来賓挨拶  堺市文化観光局   局長 宮前 誠
                          除幕       上部写真
                          演舞    堺すずめ踊り協賛会
                          閉式挨拶  中之町フラワウェーブ 代表 波々伯部 稔

主催:堺区・英彰校区自治連合会  共催:堺すずめ踊り協賛会

 

  
紙芝居「すずめ踊り物語」 堺すずめ踊り協賛会
 

 
堺すずめ踊り 演舞披露 堺すずめ踊り協賛会

    
記念植樹「ソメイヨシノ」       花のボランティア「中之町フラワーウエーブ」の皆さん

 


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「堺すずめ踊り」の祭典 普及活動15周年「フェニーチェ堺」公演

2021-02-24 23:55:22 | すずめ踊り

 

前田秀一 プロフィール

 

 堺市民芸術文化ホール「フェニーチェ堺」のグランドオープン(10月1日)に先駆けて、杮落ちし先行使用の「晴れ」の舞台で「堺すずめ踊り」の祭典を開催しました。  

 退職後、市民活動の中で堺とゆかりの深い「仙臺すずめ踊り」と出会い、桃山文化を想起させる華やかな雰囲気に魅せられて、仲間ととも堺市民文化として普及する活動に取り組んできました。  

 平成17年10月、仙臺すずめ踊り連盟の皆さんを第32回堺まつりに招聘し、初めて堺市民に紹介して以来15年目の節目年に、活動成果の発表とともに、堺市内在住篤志家(匿名希望)のご協力を得て陸奥の大名・伊達政宗から堺の茶人・今井宗薫に宛てた「書状軸」を公開展示しました。  

 1,000人収容の大ホールにほぼ満員の観覧者をお迎えし盛大に執り行うことが出来ました。

 

動画こちらから

 

 文禄2年(1593)朝鮮出兵の際、豪華できらびやかな戦装束が評判になり「伊達男」の勇名を馳せるなど伊達政宗の派手好きは、時の天下人・豊臣秀吉の派手好きにも和して気に入れられました。

 反面、料理をこなす「おもてなし」大名でもあり、手紙も流麗達筆でマメに書くなど几帳面な性格の持ち主だったそうです。

 伊達政宗が生涯に書き残した手紙は多く、徳川家康の側近的な地位にあった大老・土井利勝に宛てた79通を筆頭に、今井宗薫に宛てた手紙の数は32通もあり(第5位)、上位者の中では唯一の商人出身旗本でした。伊達政宗ほどの大大名でも今井宗薫を介さねば徳川家康に上申できませんでした。

  

 小田原城での初対面以来、関ヶ原の戦い前後にかけて伊達政宗と今井宗薫との手紙の交換は25通が知られ、その内訳は、今井宗薫⇒伊達政宗:10通、伊達政宗⇒今井宗薫:15通でした〔注1〕。

 伊達政宗は、大名や公家宛の書状には鶺鴒(セキレイ)の花押を用い、親族・家臣・私用には大きな丸味のある花押を使い厳密に分けていました。

 本書状は、「相談があるから来てほしい」という簡単な内容ですが、自筆で鶺鴒の花押まで書し、しかも第三者からは内容不明であることに注目しますと、用件は大事につきお会いして相談したいとも読み取れ、伊達政宗と今井宗薫の親密な関係性がうかがえます。

 関ケ原の戦い後の手紙の交換が多いのが特徴的で、その中には、伊達政宗から戦勝の論功行賞として仙台城築城許可願いなどもあったことが推察されます。

 〔注1〕高橋あけみ2003「今井宗薫と伊達政宗-宗薫家茶の湯書(佐藤家本)の意義」熊倉功夫編2003『茶人と茶の湯の研究』294頁思文閣出版

 

伊達政宗・今井宗薫書状交換年表 拡大版は、こちらから

 

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「すずめ踊り伝説」 近世 五箇荘の領主・今井氏の活躍と伝説

2021-02-24 23:54:44 | すずめ踊り

近世 五箇荘の領主・今井氏の活躍と伝説

 

第7回 ゆめづくりまちづくり賞「奨励賞」受賞 詳しくはこちらから
主催:快適都市実現委員会 委員長 安藤忠雄

”すずめ踊り”ゆかりの地伝説 「顕彰碑」建立 詳しくはこちらから

泉州堺の石工の里(旧跡)「中之町公園」に仙臺すずめ踊りりがやって来た! 詳しくはこちらから

 

前田秀一 プロフィール

 

1.話題の提起-徳川幕府直轄地としての北区(1)
 徳川幕府の畿内支配は、当初は地域の土豪や豪商を利用しながら、やがては、これらを駆逐して、直轄支配の力を強めていった。
 元禄7年(1694)12月、河内国八上郡には関東の名門で、当時若年寄りの秋元喬知の領地7,000石が設定され、元禄13年(1700)には丹南・丹北郡にも加増され、幕末まで現在の北区のほぼ全域が譜代大名館林藩秋元但馬守の所領となった。
 多くの畿内代官が没落していった中で、今井家(堺)、末吉家(平野)、角倉(すみのくら)家(京都)の三家はその在地での勢いを認められて直轄領の代官となり、この時代の流れを潜り抜け、その後代官は返上しながらも、旗本として仕え知行地は確保し維新を迎えた。
 明治2年(1869)9月13日付太政官布告により旧旗本知行地は一斉に上地を命じられた。
 今井家領地(当主・今井彦次郎、本名:正武、東京南品川在住)に関しては、明治3年(1870)1月に堺県より「知行地が上地され、県の支配に入るべき」旨の布達が、北花田、遠里小野新田、大豆塚村の庄屋年寄中へ出された(堀内利文文書)。
 維新当時、北花田、遠里小野、大豆塚に1,300石の知行地を有しており、この石高は宗薫が家康から与えられ知行石高と等しく、代官は止めたが旗本として最後まで守り伝えた。

2.五箇荘の領主・今井氏の活躍と知行の変遷(2~4
 永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の際、今井宗久は摂津国西成郡芥川で迎え、名物・松島の葉茶壺、紹鴎茄子を献上した。信長は関心を高め「御茶湯御政道」へ発展した。
 宗久は、信長の矢銭2万貫(現価推定:約20億円)の受け入れを堺のまち衆(会合衆)に説得尽力した。その後、信長に仕え、千宗易、津田宗及とともに茶頭を務め、摂津国住吉郡に2,200石の采地(領地)を与えられ、代官に処せられた。
 兵糧、弾薬の供給、尽力など商人としての力を評価され、信長に多くの特権を与えられた。
  永禄12年(1569)
   ◆堺五箇荘の代官職と塩合物過料銭の徴収権
   ◆淀川の自由通行券(今井船)
  元亀元年(1570)
   ◆堺鉄砲鍛冶の統制権〔河内鋳物師、吹屋(鍛冶屋)を集め、鉄砲、火薬製造した〕
   ◆生野銀山など但馬銀山の支配権
   ◆堺南材木町、甲斐町の運上船の徴収権
   ◆堺北庄、端郷の棟別銭の徴収権
 豊臣秀吉は新興の小西隆佐や千宗易を重用し、今井宗久の晩年は秀吉の寵遇も薄れていた。宗久が亡くなると知行2,200石の内、1,200石を豊臣氏の蔵入り地として収公し、宗薫には1,000石を継がせ、引き続き代官に任じた。  

 文禄3年(1594)、秀吉の命により宗薫から今井兵部(*)へ代官職が委譲され、兵部は文禄以降の豊臣政権にあって、直臣吏僚の一人として僧侶と武士の身分をもって秀吉に仕えた。

  

   *:今井兵部
    ・天正11年(1583)、信長の死後、今井宗久と同郷の近親者で近江の河瀬氏から宗久のもとに養子となった河瀬宗綱(二代目・今井兵部)が、
      その子・富綱(三代目・今井兵部)とともに、本願寺・顕如に連れられて大和・今井郷へ入り称念寺の住職となった。
    ・文禄3年(1594)、秀吉の命により宗薫から代官職を委譲され、文禄以降の豊臣政権にあって、直臣吏僚の一人として僧侶と武士の身分を
     もって秀吉に仕えた。
    ・秀吉の庇護は厚かったが、江戸時代に入ると寺内町の存続をきらった徳川幕府は、延宝7年(1679)、「郷中並」に扱い代々続いた今井兵部氏
     は武士の身分を返上し釈門に専念した。

  

 

 

 宗薫も、秀吉から次第に疎んじられていたが、慶長3年(1598)太閤秀吉が亡くなると、宗薫は「惣無事令」にも拘らず、慶長4年(1599)正月、家康の命を受け政宗の娘・五六八(いろは)姫と松平忠輝(家康6男)との婚約の儀を整え、家康と政宗との連携に尽力し関ケ原の戦いの戦勝に貢献した。
 関ケ原の戦いの後、家康に元の知行1,000石を安堵され、その後、摂津国住吉郡の内に300石加増され合計1,300石となった(元和3年8月28日付 秀忠朱印状)。和泉、河内両国の代官に任じられ、旗本に加えられた。
 宗久より6代目・今井好澄(法名:宗徹)は、元禄8年(1695)2月18日初めて将軍綱吉に拝謁し目の患のため代官を辞し、以降末代まで江戸に出て旗本として徳川幕府に仕えた。
 地元では、庄屋年寄中が旗本今井家の代官を務めた。

3.今に生きる伝説(5)

1)今井宗薫「・・・五箇荘村大字花田に屋敷跡がある『堺市史第7巻別編』の拠りどころ

 五箇荘村の領主・今井宗薫の屋敷ついては、「旧住吉郡、現大阪府泉北郡五箇荘村大字花田に屋敷跡がある。(慶長)十九年(1614)大坂の役起こるに及び、宗薫は関東に通ずるの嫌疑を受け、大坂方においては之を悪むこと甚だしく、堺の邸宅は襲われ、遂に父子共に捕えられて大坂城内に禁固された。此の時家財茶器等は没収するところとなった。」(『堺市史 第7巻続編』179頁)との記述があるが、残念ながら、現地においても、また文献上においてもその屋敷跡がどのあたりであったのかまったく手掛かりがつかめていない。

 一方、今井家の北花田領の南側に位置する堺と我堂を結ぶ道路(現・府道大堀-堺線)の光竜寺川に架かる橋が「今井橋」(「阿坂墓地」の南側)と名付けられているのを発見した。

 

  


「今井橋」のネーミングについて(堺市・土木部北部地域整備事務所回答)(6)
  ① 記録としての初出の時期:
    現行の橋の建設年次は昭和33年(1958年)
  ② 初出の資料名:
    平成18年(2006年)堺市が政令都市の移行した際に大阪府から引き継いだもので、管理上の「図面」を引き継いだ。
  ③ 名前の由来:
    引き継いだ「図面」関連資料の中に建設時の名前の由来等わかる資料は含まれていない。
    通常、道路管理者が地元の話も聞いたうえで名づけることが多いので、当時の大阪府が地元に相談して名前を付けたものと思われる。
  ④ 「今井橋」周辺の歴史的なこと
    堺市博物館学芸課よりの回答
    「府道大堀⁻堺線は戦前からの主要道路で昭和17年(1942年)の航空写真においても大きな道として写っており、阿坂墓地関係の寺の住職、
      郷土史家に聞いてみたが不明だった。今井宗久が五箇荘村の代官であった事実から命名された可能性があると思われる。」

2)地名から見る北区の伝説 「北区」ホームページより抜粋引用

五箇荘  大化の改新の時に設けられた口分田の跡があり、平安時代から鎌倉時代にかけて、寺社や貴族と結んだ田園が増えた。五箇荘には当時五つの荘園があったといわれている。

南花田・北花田  遠里小野(江戸時代に大和川の水路が付け替えられ、大阪と堺が分断されたので、現堺と大阪の両市に遠里小野、浅香がある)から五箇荘にかけて、灯油などの原料に使われる「あぶらな」、「えごま」の栽培が中世から近代にかけて盛んに行われた。この周辺は、開花期には一面に見事な花盛りになった。この花田へ通じる入口を「花田口」と名づけられ、さらにその道路が「花田口筋」と呼ばれた。

金岡     明治22年(1889)の町村制により金田村と長曽根村が合併し、金岡神社にちなんで金岡村と名づけられた。堺の刃物と鉄砲産業発展の源は丹南の鋳物師集団にあり、この地がかつて丹南鋳物師の居住地であったことから村名が金田村に替わり、さらに付近に黒土・日(火)置・丹冶比など、鍛治に関係の深い地名が多いことから「金の岡」(金岡)と名づけられたという説もある。永禄12年(1569)、今井宗薫が鍛冶屋の許可を巡って「金田寺内町」に送った書状がある。

  

与謝野晶子『ふるさとのうた』より(7)

    川ひとすじ 菜たね十里(じゅうり)の 宵月夜(よいづきよ) 母が生まれし 国美(うつくしむ  

 晶子の少女時代、堺の郊外(旧五箇荘=遠里小野、北花田一帯)では一面の菜の花畑が見られた。一筋の大和川が流れ、美しい月光が菜の花を照らしだしている。母への愛情を直接述べず、母の故郷への慕情を読んでいる。

    菜種(なたね)の香(か) (ふる)き堺を ひたすらむ 踏(ふ)まほしけれ 殿馬場(とのばば)の道

 菜種の花の香りが故郷・堺の町をひたしていることだろう。女学校(現泉陽高等学校)に通学していたころ歩いた殿馬場(昔、奉行所があり、馬場があった)の道をもう一度踏みしめてみたい。

 大蔵永常1836『清油録』に「神功皇后の御時より遠里小野村にて榛(はしばみ)の実の油を製し住吉の神前の灯明その他神事に用ふる所の油をみなこの地より納め奉れり」の記述あり 

 遠里小野村では、古来より住吉神社をはじめ神社仏閣に灯明用油を納めていた。原料も荏胡麻から稲の裏作が可能で絞りやすい菜種に代わり庶民も灯火の恩恵に浴するようになった。 明治20年には菜種絞油の生産高は打ち刃物に匹敵して業界第5位の位置付けにあったが(8)、明治24年(1891)ころから電灯が普及するに従い堺の菜種油産業は廃れ、五箇荘の地から一面の花畑の光景は消えて行った。

3)“すずめ踊り”伝説 
 豊臣秀吉は織田信長の「惣無事」(戦闘停止命令)を天下統一の大義名分として引継ぎ、天正15年(1587)12月、「惣無事令」に従わない関東・奥羽地方討伐を見据え、目先の小田原城・北条氏討伐に向けて進行した。
 伊達政宗は、北条氏との盟約を守って迷ったが、秀吉の兵の動員数に押されて秀吉に服従することを決意し、切腹覚悟の白装束で遅れて小田原城に参内した。許されたが、秀吉の命により自分の城に帰ることなく上洛し、25歳から35歳まで伏見(現京都市伏見区桃谷町正宗)に屋敷を構え桃山文化を目の当たりにした。
 秀吉の死後、「惣無事令」違反にもかかわらず、今井宗薫は徳川家康の要請を受けて家康の六男・松平忠輝と政宗の長女・五六八(いろは)姫との婚約の儀を整え盟約を結び付けた。宗薫は一連の功績により徳川家康から旗本に処せられ1,000石の知行を与えられ、政宗は宗薫を頼り、宗薫は徳川将軍と政宗の仲介役として大いに貢献した。
  <宗薫と政宗の手紙の交流>(9)
    ・宗薫⇒政宗 計10通(天正18年8月12日~寛永3年8月5日) 寛永4年4月11日 今井宗薫死亡
    ・政宗⇒宗薫 計15通(慶長4年3月8日~寛永3年9月23日)   特に、関ケ原の戦い前後に多い
  <政宗が宗薫を頼りにした事例> (慶長6年(1601)4月18日付政宗⇒宗薫手紙 大阪・観心寺所蔵)
     「秀頼様がご幼少の間は、家康様のお側に置いて成人させ、日本の政治を行うほどの人物では
      ないと家康様がご覧になるのなら2~3ヶ国でもあてがえばよいのではないか。
      大坂に置いておくと、秀頼様を大将にまつりあげ謀反を起こすことにもなりかねない。
      そのために秀頼様が切腹なされるような事態になれば、太閤殿下の亡魂に対しに申し訳ない。」
   伊達政宗でも今井宗薫を介さねば徳川家康に直接献策できなかった。  

 政宗は、関ケ原の戦いで会津藩・上杉景勝と戦い、家康軍戦勝の後方支援の役目を果たした。
 戦後の恩賞として、初めての自分の城の築造を願い出て許され、陸奥に桃山文化の再現をめざすべく、上方から石工棟梁(泉州堺の黒田屋八兵衛ほか3人)および大工棟梁を招聘した。

 慶長8年(1603)、仙台城完成の移徒式(わたまし)の宴席で、泉州堺から馳せ参じた石工衆たちが城主・伊達政宗の前で即興的に披露した踊りを、伊達家の家紋「竹に雀」に因んで“すずめ踊り”と名付けられたと伝えられている(伝説)。

  

伊達家家紋「竹に雀」(瑞鳳殿扉)         棟梁⁻黒田家 第十八代 黒田孝次氏         大坂の陣天下一祭 堺すずめ踊り(大阪城)


 その後、石工衆たちは城下に土地を与えられ、「石切町」と名付けて住み続け堺へ帰ることはなく仙台の地で石尊神社(瀬田谷不動尊)の例祭などで踊り伝え、今日まで伝承されてきている。

 

踊ることは生きること -堺すずめ踊りへの期待-(12)
関西大学人間健康学部 教授 原田純子
会報『堺すずめ踊り』第13号 3頁 平成26年7月1日発行 堺すずめ踊り協賛会

 1603年といえば、家康が徳川幕府を開いた年です。徳川家対豊臣家という東西の緊張が高まる中、庶民の間には現世主義的な風潮が広まり、今を楽しく生きることに熱心であったという時代です。宗教的な念仏踊りや可憐なややこ踊り、仮装の盆踊りともいわれる風流踊りなどが隆盛する中、出雲阿国が「かぶき踊」をもって京でデビューしたのもこの年です。このような時代、人々が踊る目的は何だったのでしょうか。
 歴史学者・アンチオープは、「ほとんどすべての人間社会の生活のなかにダンスが一定の位置を占めているという、ダンスの普遍的特性を示す事例は数多い。(中略)人間は単独あるいは集団で、悲喜感情を表現し、恐怖や説明のつかない事象を鎮め、疲れを振り払って力を回復するために踊り、またそれによっていま置かれている現実を乗り越えたり、他者との対話、コミュニケーションをはかるのである(p.163)」と述べています。ダンスとは本来、他者に対する表現であると同時に自己の存在を確認する行為であり、人々を結び、絆を強めるものです。
 政宗公の御前で「即興的に」踊ったと伝えられている堺の石工たちも、踊ることには抵抗がなかったのだと想像します。しかも、その踊る姿が“餌をついばむ雀”のように見えたというのですから、踊りの形式もある程度整っていたのかもしれません。彼らは踊ることに慣れ親しみ、日常のなかで踊っていた踊りを披露したということなのでしょう。このように、踊ることは生活の一部であり身近な行為でした。娯楽が増えた現代では、踊りはかつてほど必要不可欠なものという認識はなくなりましたが、本質的な意味は変わっていないと考えます。
 幼稚園から中学校まででダンスが必修化された今、踊りに期待されているのは、リズムに乗って踊る楽しさともに、仲間とコミュニケーションをはかりながらひとつのものを創り上げていく面白さや達成感を味わうことだと私は考えています。仲間と意見をぶつけたり、互いを尊重したりしながら踊りを仕上げていく過程は、とくに対面コミュニケーションが苦手で自己肯定感が低いといわれている若い世代にとって、大変貴重な経験です。
 踊りがもつこのような意義をあらためて認識しつつ、堺の市民文化として、すずめ踊りも是非さまざまな場所に出掛けていただき、人と人とを結び、生きる歓びや自己の存在を確かめるという踊り本来の役割を担って欲しいと思います。
 踊りを踊ることや教えることは世代を超えたコミュニケーションです。

 

<引用文献・資料>
 1.小葉田 淳 編集代表 1971『堺市史 続編 第一巻』堺市役所
 2.編集顧問・高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬 1964『新訂寛政重修諸家譜第四』(株)続群書類従完成会
 3.泉 澄一 2000『堺と博多 戦国の豪商』創元社
 4.吉田 豊 2010「宗久茶屋と鉄砲伝来-堺史研究における伝説と通説」『堺市博物館報』 第29号、44頁 堺市博物館
 5.堺市役所 1930『堺市史 第七巻 別編』179頁 清文堂出版
 6.堺市・土木部・北部地域整備事務所 2016.8.22.報告書「阿坂墓地南側、光竜寺川に架かる“今井橋”の謂れについて」
 7.小川雅司(羽衣国際大学准教授)2013『与謝野晶子 ふるさとのうた』3頁 14頁 堺山之口連合商店街振興組合
 8.三浦周行監修1930年初版『堺市史 本編 第3 第3巻』942頁 堺市役所
 9.高橋あけみ2003「今井宗薫と伊達政宗-宗薫家茶の湯書(佐藤家本)の意義」熊倉功夫編2003『茶人と茶の湯の研究』294頁 思文閣出版
 10.河内長野市2010「市指定文化財 伊達政宗自筆書状」檜尾山観心寺所蔵 河内長野市ホームページ
 11.中田易直校訂「元禄堺町略図」1917『糸乱記』付図 近藤出版社
 12.原田純子2015「踊ることは生きること-堺すずめ踊りへの期待」会報「堺すずめ踊り」第13号 3頁 平成26年7月1日発行 堺すずめ踊り協賛会
 13.読売新聞 「天国の姉に雀踊り披露」2012年(平成24年)5月20日号 仙台13版 
 14.前田秀一編集2016『堺すずめ踊り 普及活動10周年写真集』 堺すずめ踊り協賛会

 

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泉州堺の石工活躍の背景 家康・宗薫・政宗 その出会いと連携

2021-02-24 23:53:47 | すずめ踊り

<語り部講座>
   仙臺すずめ踊り 泉州堺の石工活躍の背景 その2


徳川家康 今井宗薫 伊達政宗 その出会いと連携

前田秀一 プロフィール


   「関連情報」
     堺の歴史とまち文化  詳しくはこちらから
     仙臺すずめ踊り 泉州堺の石工活躍の背景 その1  詳しくはこちらから
    利休切腹の背景 伊達政宗と徳川家康  詳しくはこちらから

 仙台城の石垣造りに馳せ参じ、完成後の移徒式の宴席で踊ったと伝わる泉州堺の石工衆の“粋”(ダイナミズム)に感じて“堺すずめ踊り”の普及活動に取り組み、今年10周年を迎えた。


 

第40回堺まつり 仙臺すずめ踊り 伊達の舞     第30回仙台・青葉まつり 堺すずめ踊り


 図らずも、今年から来年にかけて大坂冬の陣(慶長19年11月)および大坂夏の陣(慶長20年5月)以来400年目を迎えるのを記念して、太閤・秀吉没後の豊臣家や「大坂の陣」についての理解を深める事業「大坂の陣400年天下一祭り」が大坂城公園および周辺地において開催されることになった。

 折しも、30年ぶりの発掘調査の結果、豊臣期大坂城の中枢を占めた重要な石垣の部分が発見され、さらに平成27年(2015年)に向けて全体像が明らかにされる予定である。
   「豊臣石垣コラム」 詳しくはこちらから

 豊臣期大坂城の石垣の築造は、自然石をそのまま積み上げる「野面積(のづらづみ)」方式と言われているが、これは織田期安土城の築城の際に「穴太衆」が駆使した石垣づくりの工法であり、近世初頭の城郭づくりに活かされ広く普及した。

      
安土城 野面積み石垣          自然石の中には、神仏を否定した信長の命で仏石も使用された


 泉州の石工は、近世に和泉国日根郡、現在の大阪府阪南市、泉南市、泉南郡岬町付近を本拠に全国で活躍した石工集団で、近世初期に同じ近畿地方から出て全国で活躍した。
  

  

     宝永4年(1707)堺絵図 「石屋町」、「北石切町」、「南石切町」    泉州・堺の石工頭領 黒田屋八兵衛墓碑


 近江の穴太衆と異なるのは、近世城郭の巨大な石垣建設のための石組み工事より、むしろ石彫を得意とし石材の細密な加工や細かな碑文の製作も可能で、築城が活発でなくなった近世中期以降にもその足跡を各地に残し活動時期が長かったことが知られている。

 泉州・堺の石工が仙台城で築造した石垣は「野面積」であった。
     仙台市文化財調査報告書 第270号「仙台城址3」平成15年度報告書 詳しくはこちらから

 安土城の築造は、「天下布武」を掲げる織田信長が陣頭に立って進め、豊臣期の大坂城は「天下惣無事」令の威容を表す城として築造された。伊達政宗は関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て青葉山に登り、徳川幕府の「天下普請」に先駆けて仙台城の縄張りをはじめた。
 関東を超えて遠距離にある奥州・仙台への泉州・堺の石工の派遣は、堺の茶人で商人であった今井宗薫によって斡旋されたが、今井宗薫と伊達政宗の出会いの機会がどのように設けられたのか、それがどのように展開して繋がっていったのか、高橋あけみ氏の研究成果(1)の中に経緯を追ってみた。
 

                                                                                                                               「交流経緯」拡大版はこちらから                                                                                      
 伊達政宗と今井宗薫の出会いは、天正18年3月1日、豊臣秀吉が東国征伐の第1段として北条氏の小田原城攻めに出陣した時であった。
 政宗は秀吉の東国征伐の本気度に驚き、あわてて小田原に参陣し6月5日に到着したが、遅参を怒った秀吉が会見を拒否し底倉に待機を命じられた。
 6月7日、施薬院全宗ら5名により尋問を受けた後、翌8日に宗薫が施役院全宗とともに千利休の代理で政宗を見舞い、二人が初対面した。
 6月9日、秀吉に対面して釈明した際、政宗は「千利休の茶の湯を拝見いたしたい」と申し出て秀吉のご機嫌をとり、茶の湯に関心があることに免じて酌量され遅参を許された、
 7月5日、小田原の落城後、奥州知行割仕置をすませ、豊臣秀吉が名実共に天下統一を果たして帰洛する際、8月12日付けで宗薫から政宗宛に手紙が送られ、両者間の初めての文通となった。
 以後、慶長4年から6年の間、天下分け目の関ヶ原合戦(慶長5年9月15日)を挟んで集中的に宗薫と政宗間の手紙の交換が行われた(表‐1)。確認できたものとして、宗薫と政宗の間には終生計46通が交換され、それらの内、宗薫⇒政宗13通、政宗⇒宗薫33通あった。
 これらのうち、特に注目をひくのが、慶長4年正月、徳川家康の命を受け宗薫が家康の第六男・松平忠輝と政宗の長女・五郎八姫との婚約を仲介したのを機会に、政宗から宗薫へ家康への誓詞や伝言を含めて手紙が送られるようになり、慶長5年(1600)9月25日には、早々とその内容に関ヶ原合戦(慶長5年9月15日)や戦後処理のことも含まれるようになった。
 慶長5年(1600)12月24日、政宗は徳川家康の許しを得ていち早く青葉山に登り仙台城の縄張りをはじめた。
 慶長6年(1601)4月21日付の宗薫に宛てた政宗の手紙(6)には、

 「豊臣秀頼は、江戸か伏見か、家康様のおそばにおいて、おとなしく成人させ、無事成人の暁には家康様のご分別でしかるべく取り立てるのがよい。・・・現在のように大坂にふらりと置いておくと、世にいたずら者どもが現れ、秀頼様を大将にまつりあげ、謀反を起こすことにもなりかねない。そのために秀頼様が切腹なされるような事態にでもなれば、それこそ太閤殿下の亡魂に対して申し訳が立たない。」

と13年後の大坂の陣を洞察した内容を書き送り徳川家康の重臣・本多正信への進言を依頼した。


 松平忠輝と五郎八姫は慶長11年(1606)に結婚するが、宗薫は大坂方に睨まれ、慶長19年(1614)11月大坂冬の陣が起こると関東に通じているとして大坂方に捕えられ、家財や茶器などを没収され、大坂城内に監禁された。

 幸いにして織田有楽のとりなしで命拾いした宗薫は高野山に追放となるが、大坂夏の陣では家康のもとで再び政宗のもとへ情報を送っている。


 元和の時代になっても、宗薫は家康と政宗の政治的な連絡役として活躍し、政宗は宗薫に一目置いていたと見られる。
 しかし、宗薫の晩年は、大坂方に家財と茶器を没収されており、今井家秘伝の茶の湯書の元本を仙臺藩士に書写させるなど、当初の勢力はなく息子・平左衛門とともに政宗邸を訪れ茶会にも加わり政宗を頼っている様子がうかがえた。
 
 大坂の陣で灰燼に帰した大坂城は、元和5年(1619)に幕府直轄領(天領)に編入され、翌元和6年(1620)から2代将軍徳川秀忠によって再建が始められ3期にわたる工事を経て寛永6年(1629)に完成した。
 徳川幕府の目的は、特に伊勢と越中を結ぶ線より以西の大名計65家を対象に、温存されている勢力を削ぐ一策として、西国大名を天下普請と称し大規模な大坂城公儀普請に駆り出し、その財政を逼迫させることにあった。


 徳川期大坂城は、豊臣期大坂城の石垣と堀を破却して、全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上により高く石垣を積んだため豊臣期大坂城の遺構は地中に埋もれてしまった。
 大坂城の城郭の大きさは豊臣時代の4分の1の規模に縮小されたものの、天守はその高さも総床面積も豊臣期のそれを越える規模のものが構築された。

 特に、堀の掘削と石垣構築は過酷とも言える負担として諸大名に割り当てられ、二重に廻らせた堀割は江戸城をしのぐ規模となった。                    

 大量の巨石を積み上げ、しかも石材間の噛み合わせ密にして精度よく築いていた石垣積みの技術(「打込接ぎ」、「切込接ぎ」、「算木積み」)は当時としては最高出の来栄えで、各藩を競わせた成果でり、要した工期10年間はむしろ短期の工期とも言える。

 

 徳川期大坂城石垣の一部には、廃城となった伏見城の石材が、約1/3程度使用されている。
 残りについては、良質な花崗岩の産地であった瀬戸内海の多数の島々から尼崎港や西宮港に陸揚げされ、兵庫県では芦屋や御影近辺、そして生駒山の日下や石切辺りから切り出され運ばれた。
 江戸城の場合は、将軍の居城と言うことで見えるところには刻印は打てなかったが、大坂城の場合は以下の理由で多数の刻印(右図事例)が打たれている。
    1.良質の石を算出する石丁場の確保、印つけ
        -大名家の家紋、担当家臣の印、石工の符丁
    2.石垣を積む担当丁場の区分の明確化
        -石垣普請と言う“いくさ”の戦績誇示
    3.工程表示

 大坂城は、石垣の規模が格段に大きいだけでなく、堅くて良質の花崗岩からなり、しかも要所には、比類のない巨石が多く使われており、従来の築造技術よりは飛躍的に高度化し全国の城郭のなかでも抜きんでた存在である。

<まとめ>

 泉州堺の石工が馳せ参じた経緯と豊臣期および徳川期の大阪城築城の状況を勘案すると、戦国時代の当時にあって茶人として政治的な地位を得ていたとはいえ、今井宗薫の斡旋で泉州堺の石工が仙台城築城に関わったのは特異なケースと言える。
 さらに今井宗薫はかつて豊臣方から嫌疑をかけられており、そのため、石工たちは仙台城が完成しても秘密保持のため留めおかれ、群雄が割拠している関西(堺)へは帰ることを許されなかったと考察する。

 一方、大阪城普請の場合は、いずれも、時の戦略家(武将)が縄張りを担当し、諸大名に公儀普請を負わせた。
    豊臣期大阪城  縄張り 黒田官平衛   天下惣無事
    徳川期大阪城  縄張り 藤堂高虎     天下普請
 当時城下町ではなかった堺の商人や石工衆(その背景には堺の寺院がある)との直接的な支配関係があったのかどうかは
不明である。
 場合によっては、時の天下人(為政者)による大号令の取り組みであったことを考えると、人海戦術的に駆り出されて参加していたかもしれない。

 

<引用文献>
1.高橋あけみ「今井宗薫と伊達政宗-宗薫家茶の湯書(佐藤家本)の意義-」
        2003熊倉功夫編『茶人と茶の湯の研究』294頁 思文閣出版
2.津村晃佑「現代に生きる伝統芸能-すずめ踊りの人類学的研究」
             2003『東北人類学論壇』第2号 39頁(東北大学文学研究科文化人類学研究室)
3.天野光三、左崎俊治、落合東興、川崎勝己、金谷善晴、西川禎亮
        「徳川期大坂城の石積み施工技術に関する考察」1996『土木史研究』第16号 619頁
4.菅野良男2011『刻印で楽しむ三大名城の石垣物語』
5.ウィキペディア フリー百科事典「安土城」、「大坂城」、「仙台城」、「泉州石工」
6.市指定文化財「伊達政宗自筆書状」(河内長野市・観心寺所蔵)
http://www.city.kawachinagano.lg.jp/static/kakuka/kyousha/history-hp/bunkazai/date-base/isan-date/city/shi72.html 

 

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千利休切腹の背景 伊達政宗と徳川家康

2021-02-24 23:52:23 | すずめ踊り

千利休切腹の背景 伊達政宗と徳川家康

前田秀一 プロフィール

 

「堺の歴史とまち文化」 詳しくはこちらから

 町人の娯楽や情報交換の手段としてたしなまれていた「茶湯」は十六世紀後半に至って新しい展開を始めた。
 足利将軍家(~1573年)では儀礼として用いられていた「茶湯」は、織田信長(~1582年)によって「御茶湯御政道」として政治の道具とされ、後を継いだ豊臣秀吉(~1598年)は千利休を指南役として「御茶湯御政道」の政治的、経済的活用を継続し、さらに千利休の大成により「茶湯」に文化的価値を加えた。
 織田信長の後継争いに勝った豊臣秀吉は、信長の遺志をついで天下統一を目標に掲げ、四国、九州、関東、東北へと兵を進め、その先に「朝鮮出兵」を見据えた。
 奥羽仕置の結果、天正19年(1591)2月4日伊達政宗が上洛し臣従したことにより、豊臣秀吉は名実ともに天下統一を成し遂げることになった。
 反面、これを機会にあたかもご用済みにでもなったかのように、千利休は蟄居の身となり豊臣秀吉から切腹を命じられ辞世に無念を託してこの世を去った。

 千利休の死に関して「茶湯」論に関するものが多いが、その背景を補う「政治的謀殺」論の展開も少なくない。
 カナダ在住のオルガ・ポホリレス氏が『野村美術館研究紀要 第4号』、1頁〔(財)野村文華財団、1995年〕に「千利休の政治的側面」について総論を寄稿している。日本文化の規範に関わる人物について外国人の目からどのように見えたのか大変興味があった。
 文献情報検索の結果、ごく最近(平成26年3月17日)福井幸男氏が大変興味ある研究論文「千利休切腹の原因およびその後の千利休の死をめぐる言説に関する研究」を桃山学院大学文学研究科に学位論文として提出し、審査の結果、博士(文学)号を授与されていたことが分った。
 近世初頭、堺と仙台両市の象徴的な人物・千利休と伊達政宗が徳川家康を含めて深い関係にあったという事実に奇しき縁を感じた。

 

      第30回仙台・青葉まつり 堺すずめ踊り     第40回堺まつり 仙臺すずめ踊り 伊達の舞

 平成17年(2005)以来、堺にゆかりの深い“すずめ踊り”を絆として堺と仙台の市民交流活動に取り組み、今年〔平成26年(2014)〕で10年目を迎えることになった。

“すずめ踊り”を絆とした堺と仙台の市民交流活動 詳しくはこちらから

 慶長5年(1600)、徳川家康の許可を得て伊達政宗が仙台城築城に取り組んだ。その際、かねて懇意にしていた堺の茶人で商人・今井宗薫が相談に乗り石垣の築造に堺の石工衆を派遣した。
 慶長8年(1603)、新城移徒式の宴席で、招かれた石工衆がお祝いに即興的に飛んだり跳ねたりして踊りを披露した。その踊りが、えさをついばむすずめのようであったことから、伊達家の家紋(「竹に雀」)に因んで“すずめ踊り”と名付けられたと伝わっている。
 その伝説を絆として、「人が輝き、地域を元気に!」を合言葉に堺と仙台両政令都市の市民交流活動が始まった。
 この伝説のダイナミズムの根源として、中近世の象徴的な人物・千利休と伊達政宗、両者を取り巻く徳川家康の奇縁を探ってみた。

拡大版は こちらから

 オルガ・ポホリレス氏は、利休の切腹原因に触れた論説を以下のように大別している。
   ・中央集権派(石田三成ほか)が地方分権派(徳川家康ほか)への見せしめの政治的策謀
      朝尾直弘1963「豊臣政権論」『日本歴史9 近世1』岩波講座
      村井康彦1977『千利休』NHKブックス
   ・「身分法令」に抵触し身分を逸脱した商人上がりの御茶頭の抹殺
      芳賀幸四郎1963『千利休』吉川弘文館
      唐木順三1963『千利休』筑摩叢書
      桑田忠親1981『千利休-その生涯と芸術的業績』中央公論社

 朝尾直弘氏は、「利休の死は豊臣政権内部で行われた苛烈な権力闘争の結果もたらされたもので、利休の政治的な役割の側面、特に硬軟拮抗していた東国征伐において政治的な役割を果たしていた利休を勢力の増大した石田三成派が仕組んだ謀殺であった」と説きポホリレス氏は支持した。

 村井康彦氏の論は、「問題とされた大徳寺三門は利休が茶器の不正な鑑定によって得た富で造営したのだと何者にか纔言され」「利休が茶器の鑑定や売買において不正を働いたという点で罪状の第2に挙げられた。」

  

 「しかし、おおよそ天正十四,五年をさかいとして利休の好みと世間一般の嗜好とは明らかに乖離し始めており、たびたび引き合いに出すが、例の黒茶碗の話に示されるように、そうした傾向に対して利休自身は激しい抵抗を試みていた。これ以後の利休は、頑迷になることが自己主張であり、それがおのれの美意識を表明することでもあった。その美意識の断絶が、新義の道具を構えること、すなわち世間の目にはよくないものをいいようにいう、不正と思われるおそれは十二分にあったし、ある場合にはそれを承知で敢えてしていた。ここに至れば利休の「敵」はひとり秀吉に限るものではなく、世間一般であったとすらいえた。 
  不正は利休にとっては世間に対する挑戦であった。その意味で、利休賜死は直接的には三成派による政治的謀殺と考えるが、しかしその観点からだけでは処刑は秀吉側近(一派)の推進するところとなって、肝心の秀吉の意思が宙に浮いてしまうのではないか。仮に側近によるお膳立てであったとしても、最終的には秀吉が同意している以上、右の罪状は秀吉を納得せしめたものであったはずである。この茶器鑑定をめぐる問題は口実にすぎないだろうが、しかし決して虚構されたものとか、賜死の理由として不十分といった軽々な罪状ではなかった。」

 村井康彦氏から大徳寺三門木像問題を表面化させた考証者として名前を挙げられた桑田忠親氏は、「新進歴史学者の異説」(恐らく朝尾直彦氏、村井康彦氏と思われる)に対して以下反論した。
 「利休を地方分権派の荷担者とみなし、伊達政宗謀反の嫌疑を、家康の仲裁で秀吉が赦免し、地方分権派の勝利となったので、それを根に持った石田三成らの中央集権派の人々が、その報復として利休をやり玉に挙げたというのは、どう考えても変である。」
 「利休が好意をもっていたのは、当時、会津の黒川(若松)城に封ぜられていた蒲生氏郷の方である。氏郷は、利休の茶湯の愛弟子(利休七哲の高弟)でもあった。だから、その氏郷が政宗の策謀にかかって苦戦しているのをはなはだ心配しているわけだ。つまり、利休は政宗のことを憎んでいたのである。だから3月になって秀吉が奥州へ出馬し、政宗を討ち、氏郷の危急を救うことを、内心、期待していたに相違ない。ところが、秀吉会津出馬の噂を聞いた政宗は、周章狼狽し、早速、死装束に身をやつして西上し、2月4日に上洛し、罪科を秀吉に詫び、赦免を請うた。秀吉はまたもや政宗の猿芝居にたぶらかされ、奥州再征を中止した。」「利休処罰の動機は、秀吉の東国経営方針などとは無関係であろう。」
 「利休が処罰された原因と動機は、・・・秀吉が天下平定後、日本の国内に封建的な社会秩序を建設するに当たって最も目ざわりだったのは、大名を大名とも、武士を武士とも思わない不敵な堺町人であり、・・・頭の高い、知行三千石取の御茶頭、いや天下一の茶湯の名人千利休であった。」「利休を擁護していた一派の勢力が、豊臣秀長の病気によって弱体化したのに乗じ、前田玄以や木下祐慶ら反体制派の人々が利休の失脚を推進させた。」「反利休派の人々の意見も入れて、もっともらしい罪状として取り上げたのが、大徳寺木像安置の一件と茶道具目利き売買不正の一件であった」

 

   福井幸男氏は、千利休切腹の原因に関する「諸説」を批判的に検討し、「史料記述」および切腹における「特異性」の分析・検討を踏まえて新たな視点・角度から千利休切腹の真相を究明した。
 その結果、主たる罪状は大徳寺三門木像安置と茶湯道具目利き不正売買に集約されたが、この点については「処断当局者による公示罪状である」ということに注意を促している。
木像安置が首罪であると当時の人たちが思ったのは、切腹前に利休の木像を一條戻橋で磔にし、高札で罪状を事前に公示していることや、切腹後にその木像の足で踏ませた形で利休の首を獄門に懸けるなど周囲に対して見せしめとする視覚効果を狙ったと考察した。

 

 一方、首罪の大徳寺三門木像安置に関しては、鎌倉幕府法および分国法の規定や天正17年当時の京都が大坂と並ぶ最重要直轄領として厳重管理されていたこと、さらに江戸期に徳川宗家の菩提寺・知恩院の三門楼上に造営した棟梁・五味金右衛門夫妻の木像が安置されていることを事例に挙げ、木像の落慶法要から問題化されるまでの1年2ヶ月もの長い期間の後であったことを考えると、当初特に問題視されていなかったことを、単に利休処罰のための口実としてでっち上げたにほかならないと考察した。
    
 これらの考察から、「処断当局者による前代未聞の木像磔や切腹にもかかわらず獄門、しかも木像の足で踏みつけると言う特異性は、武門として密かに一目置いている徳川家康に対する官位による威圧と結論付けた。」
 さらに、「切腹直前の利休屋敷の厳重警固(上杉景勝率いる三千人の兵動員)は、側近官僚に捏造された「反朝鮮出兵密談」に利休が一枚噛んでいるという疑いに対する警告および政宗上洛直後、利休は家康、政宗らと妙覚寺で茶会に臨んでおり、万一不穏な動きがあれば断固処断するという警鐘メッセージとして秀吉が利休に切腹を命じた家康へ見せしめの措置であった」と考察した。

  

 千利休像(大仙公園)     臨済宗大徳寺派南宗寺禅堂鬼瓦      伊達政宗像(仙台青葉城跡)

 茶の湯を通して「内々の儀」に深く関わりどの大名や武将よりも剛気に直言し失言など恐れない千利休は、伊達政宗の臣従で東国も手の内に治め、ついに天下人となった関白秀吉にとってもはや疎ましい存在になってきた。
 むしろ、天下統一を果たした関白秀吉は、待望の世継ぎ鶴松の将来のため、豊臣家の態勢固めを念頭に利休に代わって身近に石田三成ら権力派を重用し、さらに朝鮮出兵をまじめに考える今となっては、利休は無用の長物とさえ考えるようになってきた。
 秀吉の参謀として態勢を固めた中央集権派は、武門として一目置く徳川家康への牽制も兼ねて、最大の擁護者・豊臣秀長が亡くなったこの機会に千利休を政治的に謀殺する計画を隠密に進め、口実として大徳寺三門利休木像安置を不敬罪とし、茶湯道具目利き不正売買の風評をでっち上げ、三千石の知行に処せられた身分を建前として利休の切腹を秀吉に進言した。
 その首謀者が石田三成であったことを浮かび上がらせた。

<引用文献>
1)オルガ・ポホリレス1995「千利休の政治的側面」『野村美術館研究紀要 第4号』 (財)野村文華財団 p.1
2)寺本伸明、梅山秀幸、布引敏雄2014年3月17日 
  「博士論文の要旨および博士論文審査結果の要旨」桃山学院大学文学部
     福井幸男 「千利休切腹の原因およびその後の千利休の死を巡る言説に関する研究」 
3)福井幸男2011「千利休切腹の原因および原因に関する一考察」
            『人間科学 第40号』 桃山学院大学綜合研究所、1頁 2011年3月
4)千 宗室監修2008「利休宗易年譜」『裏千家今日庵歴代第1巻 利休宗易』淡交社 p.138
5)仙台市史編さん委員会編2006『仙台市史 特別編7』仙台市 244頁

 

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“堺すずめ踊り”10周年へのプロローグ

2021-02-24 23:51:53 | すずめ踊り

 平成17年10月15日(土)~16日(日)、第32回「堺まつり」〔主催:(公社)堺観光コンベンション協会〕に仙臺すずめ踊り連盟を堺に御迎えして初めて堺市民の前で“すずめ踊り”を紹介演舞していただきました。
 その起源は、今を遡ること400年前・慶長8年(1603)の仙台城完成の移徒式(移転のための儀式)後の酒席の宴で、堺の茶人で商人・今井宗薫世話で石垣築造に馳せ参じた堺の石工たちが伊達政宗公の御前で喜びを表現して踊ったと伝えられています。
 堺と縁の深い物語のある“すずめ踊り”の躍動感と素晴らしさに魅せられて、普及活動に取り組みました。それ以来、今年で10年目の節目の年を迎えることになりました。
 その後、5月第3土曜日と日曜日に開催される「仙台・青葉まつり」(第22回)には、堺から“堺すずめ踊り”の一団が訪問し、両政令都市間の市民相互交流へと発展して参りました。
 “堺すずめ踊り”では、“すずめ踊り”を絆として両市交流が始まって以来10年目を迎える今年10月から来年5月にかけて「“すずめ踊り”交流10周年記念行事」に取り組むことになりました。
 10年間の活動の中で、いろいろなご縁に恵まれ、年間の恒例行事も定着して、着実に活動の成果を世にお示しできるようになって参りました。
 ここに、「10周年記念行事」に備えて取り組みを始め足取りをご紹介します。

“堺すずめ踊り” 詳しくはこちらから

前田秀一 プロフィール

 

大阪天満宮 初踊り奉納 “堺すずめ踊り”こと初め
平成26年2月23日(日)

「大阪天満宮 初おどり奉納」についての詳しくは こちらから

 

 

東北芸能祭 in 堺
平成26年3月9日(日) 大阪府立大学 白鷺Uホール

「東北芸能祭 in 堺」についての詳しくは こちらから

 

楽しいんやさかい 大和川水辺の楽校
平成26年5月6日(日)


 かつて、日本ワースト・ワンと言われた大和川でしたが、大和川における「子どもの水辺協議会」の皆さんのご尽力でウナギの稚魚が生息するまでにきれいな大和川として蘇りました!
 遊びの場、自然学習の場として水辺を利用することを通じて、子ども達の自然体験や生活体験の不足を補うことを目的としたプロジェクトです。
 楽しぃんやさかい大和川「水辺の楽校」特設舞台で“堺すずめ踊り”を披露しました!

 

 

第30回仙台・青葉まつり 訪問交流参加
平成26年5月17日(土)~18日(日)


 恒例により総勢60名からなる“堺すずめ踊り”訪問団が、今年は格安航空(Peach航空)を利用して訪問参加し、“すずめ踊り”を絆として仙台市民と交流を深めました。
 “堺すずめ踊り”では、今年が“すずめ踊り”の普及活動に取り組んで以来10年の節目の年を迎えることを記念して法被と扇子を新調し、仙台市民の皆さんに大きな反響をいただきました。

 

 

  

   

 

関西大学 第4回「堺キャンパス祭」招待演舞 
平成26年6月8日(日)


 今年のテーマは、「Departure !」.
 平成22年(2010)に開設した人間健康学部は、平成26年(2014)3月に1期生を送り出しました。最初の卒業生を送り出したことは、学部にとって次の新たなステップを踏み出したことでもあります。
 平成17年(2005)10月に普及活動を開始した“堺すずめ踊り”は今年(平成26年)10年の節目を迎えます。
 20周年への「Departure!」を目指して関西大学人間健康学部「身体表現」(舞踊学)ゼミ准教授・原田純子先生よりご招待を受け演舞をご披露させていただきました。 

 

 

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“堺すずめ踊り”普及活動10周年

2021-02-24 23:51:21 | すずめ踊り

  

平成17年10月16日(土) ⇒ 平成26年10月18日(土)

堺の誇りを知る 第41回 堺まつり

前田秀一 プロフィール

 

 堺すずめ踊り」については、こちらから

“堺すずめ踊り”10年間 生立ちの記は、こちらから

“10周年記念行事へのプロローグ”は、こちらから

堺の魅力情報はこちらから

 「人が輝き!地域を元気に!」を合言葉に、堺にゆかりの深い“すずめ踊り”を堺の市民文化として普及する活動に取り組んで以来、堺の誇りを知る第41回「堺まつり」への参加をもって10周年の節目の年を迎えることになりました。
 お陰様で、堺の誇る伝統文化“ふとん太鼓”とともに第41回「堺まつり」大パレードで観覧者の皆様ご注目の演舞として位置づけられるようになりました。
 今年もまた、仙臺すずめ踊り“伊達の舞”をお迎えし、“すずめ踊り”を絆として10周年目の記念の交流を深めました。

オープニング “なんばん市ステージ”

10月18日(土) ザビエル公園 特設舞台(堺区) 

  

堺すずめ踊り                    仙臺すずめ踊り “伊達の舞”

写真:仙臺すずめ踊り“ 天之舞月組 お囃子方 小幡大輔氏ご提供 

 

前夜祭

10月18日(土) 午後6時~ 堺市産業振興センター イベントホール(北区)

仙臺すずめ踊り 伊達の舞 演舞は、こちらから

 

祝10周年 堺・仙台“すずめ踊り”交流 2014

10月18日(土) 午後7時~ ホテルアゴ―ラリージェンシー堺 3階 利休の間

主催:堺すずめ踊り協賛会 後援:堺市、堺観光コンベンション協会、堺商工会議所

 

開会の挨拶 堺すずめ踊り協賛会 葛村和正会長           お祝いの挨拶 仙臺すずめ踊り連盟 上野隆士会長

 

祝いの舞 堺すずめ踊り               祝いの舞 仙台 伊達の舞

絆の“すずめ踊り” 堺・仙台 総踊り

10周年祝い記念写真

 

司会進行 堺勇舞雀

祭連 “すずめ踊り“競演 「夢」舞台

 

仲囲巣連                       堺市立三国丘幼稚園 

  

 市扇雀                         堺凛雀&楽雀&東川家

 

 響&泉州堺すずめ組                堺勇舞雀&泉州堺すずめ組

堺すずめ踊り 総踊り

仙台 伊達の舞

 

堺・仙台 すずめ踊り 総踊り

 

大小路シンボルロード 大パレード

 

堺すずめ踊り連盟 流し踊り

 

堺市立三国丘幼稚園 流し踊り

 

市扇雀 流しお踊り

 

仙台すずめ踊り 伊達の舞 流し踊り

 

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“すずめ踊り”競演 “思い”が“形”に!-第39回堺まつり

2021-02-24 23:50:53 | すずめ踊り

“すずめ踊り”を絆とした地域コミュニティづくり

平成19年度「堺の魅力づくり」市民自主事業「シンポジウム」は、こちらから

「関西元気な地域づくり発表会」(近畿地方整備局企画部)は、こちらから

合言葉 人が輝き、地域を元気に!

目標 堺市内七区に少なくとも一つの祭連を立ち上げ、“すずめ踊り”を堺市民文化として普及する 

前田秀一 プロフィール

 

 期間中、幸いにもお天気に恵まれ第39回「堺まつり」に仙台から総勢約70人の仙臺すずめ踊り連盟の皆さんをお迎えして堺市民および観光にご来堺の皆さんに“すずめ踊り”の楽しさと輝きをご紹介しました。

第39回 堺まつり “すずめ踊り”見どころマップ 

第39回堺まつり〔主催:(社)堺観光コンベンション協会)〕総合ガイドブックより引用、加筆

 

平成24年10月20日(土)

なんばん市(ザビエル公園)ステージ

堺すずめ踊り連盟

仙臺すずめ踊り連盟

仙台 七郷すずめ連 動画はこちらから

仙台 愛子(あやし)すずめ踊り会

 

「堺まつり」(第36回)前夜祭 仙臺すずめ踊り 演舞動画 (於・堺市民会館) 

 

仙台・堺“すずめ踊り”交流会 2012

平成24年10月20日(土) アゴーラリージェンシー堺 3階 利休の間

主催:堺すずめ踊り協賛会

後援:堺市 堺観光コンベンション協会 堺商工会議所

協賛:大小路界隈「夢」倶楽部

列左より   前田堺商工会議所会頭 米谷堺市議会副議長 狭間堺市副市長 
和田堺観光コンベンション協会会長 吉川堺市議会議長 竹山堺市長

 狭間副市長は、ご就任後初めての「“すずめ踊り”交流会」へのご出席ですが、“堺すずめ踊り”が「堺の魅力づくり」市民自主事業として補助金制度(*)に応募し、プレゼンテーションした際の審査員をお勤めになられ“すずめ踊り”普及活動の経緯はご理解いただいております。
  *:「堺の魅力づくり」市民自主事業補助金制度への応募状況
      平成18年度 助成金額 337,919円 
               主な活動:市内7区巡回講座(講話、写真展、ワークショップ)、会報発行
      平成19年度 助成金額 632,975円
               主な活動:講演と実技による“仙臺すずめ踊り”学習シンポジウム開催

                     “すずめ踊り”を絆とした地域コミュニティづく  ➡ こちらから

                     実技指導ワークショップ開催、普及教材(DVD)制作、会報発行 


 平成21年度からは、「各区の魅力づくり」市民自主事業と制度の変更がありましたが、堺すずめ踊り連盟傘下の祭連「みはら夢雀」(美原区、平成21年度229,891円)および「仲囲巣連」(堺区、平成22年度214,500円)が応募され、現在、“堺すずめ踊り”の主要祭連として地域コミュニティづくりの活動をされています。

 

 

泉州堺親子三代すずめ お披露目演舞

交流 総踊り

 

平成24年10月21日(日)

大小路界隈“堺すずめ踊り”「夢」舞台開口神社境内)

堺市立三国丘幼稚園 4歳児

 平成18年(2006)9月16日、仙臺すずめ踊り連盟・谷 徳行副会長ほかスタッフの皆さんによる指導会をきっかけとして、園児の指導カリキュラムの中に組み込まれ、運動会では園児たち期待の演舞種目として定着してきました。
 「堺まつり」には、第33回(平成18年10月15日)より毎年参加され、恒例の演舞として観覧者皆さんから拍手をいただいております。

初舞台祭連の紹介

 

泉州堺親子三代すずめ

今日のハレ舞台を目指して今年・夏より猛練習をしてきました!

 

堺で初めての男踊り祭連 堺勇舞雀(さかいゆうまいじゃん)

 メンバーがデザインして、祭連頭(まづらかしら)の母上が帯、袖口および扇子入れなど手作りでハッピに“思い”を込めています。 ・・・ 乞ご期待!

参加者総踊り

 

大小路シンボルロード 大パレード

スタート前 堺ふとん太鼓と仙臺すずめ踊り連盟 コラボレーション

堺すずめ踊り

 

堺市立三国丘幼稚園

仙臺すずめ踊り連盟 動画はこちらから

仙台 愛子(あやし)すずめ会

仙台 七郷すずめ連

 

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