P150
統一教会員も、これと同じです。統一教会自体について見る時、一九七〇年代が結実の時代だとするなら、葉の様な全ての要因は全部消えるべきでしょう。枝だけが残った所に、一つの結実の価値をもった実が、全体の価値として現れる、その様な柿の木の実の様な存在になり得るかという事が問題です。
この様な実には、宣伝する必要がありません。それ自体を見て、内外に備わったその価値を、誰もが一〇〇パーセント評価する事が出来るのです。そうする為に、その柿の木なら柿の木自体が、実として完成する時迄、どれほど苦労の過程を経た事でしょうか。
その実は完熟する迄、枝に咲いた他の多くの花の実よりもっと闘争をし、もっと努力したという事実を、我々は知るべきです。夏の間、風が吹いて雨が降り、暴風雨が吹きつける、その様な険しい環境と、栄養が足りず未熟なままで実が落ちるかもしれないといった、いくつもの環境を皆克服したのです。
その木が実を沢山つけられずに、実を一つだけ残したとすれば、その実は、木の全体のエキスと外的な闘争力を総合した内容をもった実なのです。その様な実だけが残ったならば、その一つの実が、その木の価値に代わり得るのです。それが柿の木なら、その一つの柿の実によって秋を迎える時、自らの価値と威信と権威を立てる事が出来るのではないだろうかと言うのです。
木に花が沢山咲き、実も沢山結んだでしょうが、それらが全部落ちてしまって、秋になったのに一つの実も結べず枝だけ残ったならば、その木はどれほどみすぼらしく、悲しいでしょうか。しかし、多くの実は結べなかったとしても、どんな木の実とも比較出来ないほど完熟した一つの実をつけたなら、その一つの実を持って、数千、数万の実の前に堂々と誇る事が出来るのです。
現代社会に数多くの宗教があります。キリスト教ならキリスト教の中にも、数多くの教派があります。この様な現実の中で、結実の時代を迎えた統一教会自体を中心として見るなら、神様が我々に、ある結実を要求しておらるのです。先ほど言った様に、一つの木に多くの実が結ばれなければなりませんが、そうできずに一つの実だけを残したとしても、その実が、その木としてはそれ以上出す事の出来ない完全な実なら、その木は、その実によって秋を迎えた価値と権威と威信を立てる事が出来るのです。
これと同様に、我々統一教会も、必ず結実がなければなりません。統一教会が出発して、今迄激しい波風と試練を経ながら、一つの結実に向かって進んでいます。ここから、どんな結実に成るかという事が、大いなる問題であらざるを得ません。
この様な立場で皆さん自らが、果たして自分は正常な春を迎えたか、正常な夏を迎えたか、そして、正常な秋を迎えて完熟した実になり得るだろうか、という事を点検して見なければならないでしょう。
P151
実自体を見れば、そこには木の枝もあり、木の葉もあり、根もあり、また種もあるのです。その実を摘んだという事は、その木自体をもったというのと同じ立場です。実には種が多い為に、その実を中心として数十あるいは数百本の木を持つ事が出来ます。
一つの木の実はその木が十年過ぎても、二十年過ぎても、その木が引き継がせてあげようという全体的な生命の要因を、相続してもらわなければなりません。それでこそ完全な実として収められるのです。
そして実が育つ過程に、その要因を一度でも切断してはいけません。絶えず育つ様に置いておかなければなりません。生命が始まったその日から、実として収められ、主人の手を経て倉庫に入って蓄えられる時迄、その要因が、どのひと時も途切れてはいけないのです。風が吹く時や、あるいはそれよりもっと暴風雨が吹きつける時や、どんな試練の過程があっても、この要因が途切れてはいけないのです。その要因は、終始一貫、連綿として、それ自体に保有されていなければならないのです。
この様な観点から見る時、皆さん自身は信仰の道に入ってきて、自分の新しい生命が発生するのを感じ、喜悦を感じ、新しい希望を感じるでしょう。「私はこの様な木になり、この様な人格者になり、世界の前にこの様な存在に成る」という決心をして立ち上がったその日からは、秋の収穫期の為に準備する全ての内的な要因が、絶える事があってはいけません。時がたてばたつほど念を押し、そこにプラスする過程なくては、完熟した結実を見る事が出来ないのです。(三六│一〇)
第二節 審判と公認
一 審判の種類
怨讐を愛さなくては行く事の出来ない道が、原理の道であるという事を御存じの神様が、終わりの日に審判を通じて世界人類を滅ぼされるでしょうか。違います。神様は、人間に対しては父母の立場にいらっしゃいます。今日キリスト教で言う、いわゆる「火の審判」というものは、言葉そのままの「火の審判」ではないのです。(三一│一六七)
師弟の間にも、先生が守るべき法があり、弟子が守るべき法があるのです。統一教会でも、先生が守るべき法があり、皆さんが守るべき法があるという事を知るべきです。ですからみ言に対する審判は、み言を聞いている皆さんが受けるという事です。み言を誤って聞けば、審判を受けるのです。
その次には、実体を成すのです。実体を成すべきなのに、実体を成す為の活動が出来なければ実体審判があるのです。審判には、み言の審判があり、実体の審判があり、心情の審判があります。三大審判過程を経なければならないのです。
まず、原理のみ言が審判し、その次には実体の審判をするのです。誰が審判するのでしょうか。伝道やいろいろな活動を熱心にし、全ての法度を守り、実体を成した人達が審判するのです。一生懸命にした人達が審判するのです。それが審判です。み言どおりにしない時は、サタンも審判するのです。他人が、実体が、讒訴するのです。皆さんは、先生が審判し、統一教会の幹部たちが審判し、み旨に従ってきた人達が審判するのです。
P152
皆さんは、どの様に行くべきでしょうか。サタン世界で食口を経て、先生の認定を受けて、霊界を経て、神様の所へ行くのです。それが行くべき道です。法です。その様に行くのが正しい方向です。
讒訴条件があれば、これが合わさって、実体的に讒訴するのです。実体審判です。そこで嘘が通じますか。仕方無くするのは、しないのと同じです。神様と先生を思いながら、その仕事をすれば、神様の中身が、先生の中身が、その中に刻み込まれるのです。栗のいがに中身が入ったのと同じ様にです。この様に、心の中で神様を思い、先生を思えば、先生のみ言が、神様のみ言が、中身に成るのです。
皆さんは、神様と先生と食口たちが歓迎し得る人に成るべきです。それで皆さんは、むいてみたとたんに栗の実のようでなければなりません。我々は、神様の為に、「真の父母」の為にそうならなければなりません。その様な仕事をするのです。霊界に行って、神様の為に「真の父母」を中心として生活しようとするならば、ここで拍子が合わなければなりません。それでこそ調和するのです。
それ故、恐ろしい実体判断を受ける過程を経なければならないのです。これが法です。この様に成る日には、心情的基盤が自動的に生じるのです。皆さんが熱心に伝道したり苦労しているのに、何故悪口を言われて迫害されるのでしょうか。それは、皆さんに心情がないからで、心情を探す為なのです。愛を探す為です。その様な人達を愛する事が出来る人に成る為なのです。皆さんがこの様な訓練過程を経ない事には、いくらの人になろうとしても駄目なのです。言い換えれば、サタン世界の愛以上の愛を、自分が見つけなければならないのです。そうでなければ、天国に行けないのです。愛を探し求め、天国に行こうと、そうするのです。愛を探し当てた人が、天国に行くのです。
その時の審判主は誰でしょうか。神様が審判主になり、イエス様が審判主になり、先生が審判主に成るでしょう。ですから、実践をしなければなりません。これが、我々の当面の課業であり、神様の命令だという事実を知るべきです。(一〇三│二三六)
二 天国に行くパスポートを準備せよ
誰にも最後の日が来ます。サタン世界で最後の理想世界を立てる為には、あらゆる体験をして、そこに合格しなればいけません。
天国に行くパスポートをもたなければなりません。パスポートをもらった個人と家庭と国家が沢山現れなければなりません。パスポートをもった国家があってこそ、神様が天地を任せる事が出来るのです。
パスポートは、サタンを追放するのです。サタンは来れないと言うのです。生活の中で、サタンが関係しません。サタンの干渉を受けない様にするには分立しなければなりません。個人分立、家庭分立、氏族分立、民族分立、国家分立、世界分立、天宙分立迄しなければなりません。「統一原理」でサタン分立歴史を習ったでしょう? 何を持って分立するでしょうか。蕩減の道を通じて分立しなければなりません。
P153
学者も大統領も例外ではありません。蕩減の道は探して行かなければなりません。蕩減の道は教えてもらって行く道ではありません。自分が探して行かなければなりません。これをしないと、地獄に行くのです。地獄の鎖が皆さんの目に、鼻に、考えに、皆引っ掛かっているという事実を知るべきです。これは脅迫ではありません。堕落という事をひっくり返す為に必要な事なのです。
白い紙に書いてある文を消すのは、どれほど大変ですか。サタンが書いた文字を消すのは、インクの字を消すよりも難しいのです。それを消すには一度死んでから生き返らなければなりません。生きているとは名ばかりで、死んでいるという事を知るべきです。これが残っている限り、サタンが、「私のものだ」と言うのです。それでイエス様は、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死なん」と言いました。(一二九│一八三)
霊界には、イエス様とか孔子、釈迦の様な立派な人達がいます。聖賢たちも多く、偉人達も多く、立派な人達が多いのに、何を持って上がっていきますか。
またそこには、ローマの迫害時代に殉教して死んだ人が多く、公的に犠牲になった人達がどれほど多いでしょうか。それなのに、何を持って、どの様に上がっていきますか。
ここでは、アメリカの軍隊のある小隊に入るには、証明書があってこそ入ります。それなのに、霊界という高次元の立場迄踏んで上がる事が出来ますか。数千億が集まって、時間と空間を超越して眺めているのに、「あの人は歓迎する」と言われるほどになりましたか。皆さん、自信がありますか。霊界は距離がありません。彼らは、皆さんが上がっていくのを見守っているのです。それなのに、どの様に上がっていきますか。
そこを通過する為には、証明書が必要です。証明書がなければ通過出来ません。「私は文学博士の学位を持って行く」と、その様に言って行く事が出来ますか。それは、霊界のトイレの紙くずほどにもなりません。
私が何故この堕落世界で、この悪なる世界で反対するのを突き抜けて、上がっていかなければならないのでしょうか。証明書をもらう為です。この世的な事ではありません。私が世の中に出ていったなら、誰もうらやましくないほど出世をした事でしょう。その様な能力をもった人です。(一四六―三三〇)
イエス様は、天国は相続しましたが、この世は相続出来ませんでした。では、この世は誰が相続したのでしょうか。カインが相続しました。それ故この世は、カインの国です。ですから、アベルは天国を相続した後に、この世のカインが保証する証明証をもらわなければなりません。天国に行くには、サタンの証明証をもらって行かなければならないのです。
堕落人間は、この二つの原則に引っ掛かっているのです。この様な原則が解けなかった為に、今迄の六千年の歴史が繰り返しの連続だったのです。ですが、今分かったのです。聖書を見ると、「また真理を知るであろう。そして真理は、貴方がたに自由を得させるであろう」(ヨハネ八・三二)というみ言があります。それが分かったのなら、歯を食いしばってでも愛さなければなりません。どの程度迄愛すべきでしょうか。怨讐であるカイン迄愛さなければなりません。(三四│二七八)
P154
人間の堕落は、神様の立ち会いのもとでなされたのではなく、サタンが主体となってなされたので、堕落圏から逃れるには、サタンを屈服させなければなりません。「サタン、こいつ! お前と組んで私がこの様になったから、お前を屈服させて、私は帰る!」と言うべきです。それで、サタンを屈服させた証書をもらわなければ、神様の愛を受ける事は出来ません。イエス様も三大試練で勝利しました。歴史的に勝利したというサタンのサインをもらわなければ、天国に行く事は出来ないのです。
どの様にしてでも、サタンのサインをもらわなければなりません。イエス様がサタンから三大試練を受けて勝利した時、その立場でサタンが涙を流しながら、「貴方と私は永遠に違う」と認めました。(二四│三三七)
カインを屈服させる為には、終わり迄カインを愛し切らなければなりません。その様な人でなくてはカインを救う事が出来ないのです。
皆さんが天国に行くには、サタンの証明証をもらわなければなりません。サタンの証明証とは何でしょうか。罪人が釈放されるには、まず検事を通じ、弁護士を通じてから、判事によって釈放されるのです。この様な立場で見る時、サタンは検事であり、神様は判事であり、イエス様は弁護士です。
サタンが、「お前はこれこれこの様にしただろう?」と言って、さっと罠にかけて神様に、「この人は、この様にしなければならない!」と言えば、神様もどうする事も出来ないのです。すると、イエス様は弁護士の立場で、「神様、この人の先祖はこの様な事をしました。本来、血統は悪くない人です。これこれの条件に引っ掛かったので、その条件に該当した蕩減条件を立てさせ、罪を脱がせてやらなければなりません」と言うのです。この様な事をしてきています。
それ故、皆さんが天国に行くには、サタンの証明書をもらわなければならないのです。サタンを愛したと認定されなければ、永久に天国に行けません。それで統一教会は、その様な事をしようと言うのです。反対する人を怨讐として対すべきなのにもかかわらず、愛さなければならないとは、あきれた事です。怨讐を愛せと言うのです。彼らの為に福を祈ってやらなければならないのです。その様にしなければいけません。カインとアベルが一つにならなければ、復帰が出来ないのです。父母に帰る事が出来ないのです。(四八│三一六)
キリスト教は、歴史時代に数多くの人々と共に、悲惨な運命を開拓しながら、真のオリーブの木を探す歴史を経てきたのです。真のオリーブの木は、すなわち神様の息子です。その息子が来れば、その方の樹液を受けて、枝をもらわなければなりません。その枝に自分を接ぎ木しなければならないのです。その様に成ると、歴史時代の全ての先祖たちが蕩減条件を提示して、サタンに引っ掛かって倒れ、今迄結ばれている歴史的な条件が、その場で全部無くなるのです。
沃土、暖かいねぐらの様な基盤ではなく、砂利の多い土地の様な所で、接ぎ木されると言うのです。
今迄サタン世界にない本性を備えたので、神様の息子になり得るという証明書を、サタンからもらわなければならない為です。それは神様がして下さるのではありません。神様が自由にして下さるなら、六千年前に全てして下さったのです。
P155
刑務所から出てくる為に、判事が公認してくれるのではありません。では、誰がしてくれるのでしょうか。検事が公認してくれるのです。公判廷では、検事はサタンです。それ故、裁判の場で検事の公認を受けなければ出てくる事が出来ないのです。それ故、サタンの公認を受けなければ、神様は「お前は私の息子だ。私が生かしてやろう」と言えないのです。必ずサタンの公認を受けてこなければならないのです。皆さんは、サタンの公認を受けましたか、受けていませんか。サタンの公認を受けなければなりません。
統一教会は、何を教えてくれる教会でしょうか。サタンから公認を受ける方法を教えてくれる所です。サタンから公認を受けると言っても、霊的にだけ公認を受けたのではいけません。霊肉を合わせた実体として公認を受けなければならないのです。(一七│一二四)
天国に行くパスポートを、何もせずに持つ事は出来ません。ただ座って、試験も受けないで、論文も書かずにもらった学位は、偽物です。統一教会にも本物と偽物がいます。正確な尺度で測った後にこそ、本物に成るのです。(一二九│一八六)
天国へは、どんなにきれいで純粋な心を持っていたとしても行く事が出来ません。天国に入る手続きを踏まなければなりません。登録をするには、資格証を出すべきでしょう? いくら「私は絶対的に純粋な心をもった純粋な人である」と言っても、天国に行けないのです。通過し得る形式がなければなりません。
滅びゆくこのアメリカに行ってくる為にも、ビザとか何とか、どれほどややこしいですか。天国に入るのは、アメリカに入る事よりも難しいのです。あらゆる法の手続きを踏まなければなりません。それを学ばなければならないのです。それ故統一教会でなく統一大学です。天国の大学だと言うのです。ですから、先生が地上で指示した全てが、あの世に行く時において条件に成るのです。「これが出来なくては行けません!」と、この様に言えば、先生を見て「何もしないで命令だけするのではないか」と言うでしょうが、先生はそれを皆実践して命令するのです。何故そうなのでしょうか。「真の父母」なら教えてあげなければならないからです。
先生は相談する相手がいないのです。アメリカの大統領にも、復帰摂理について相談出来ません。ここにドクター・ダーストが来ているとしても、復帰摂理路程を相談出来ないのです。相談する様になれば、天使長が讒訴するのです。天使長は人間を堕落させた張本人です。それ故神様と先生以外は知らないのです。
今は、統一教会が世界の峠を越えていくのです。今は統一教会を誰かがなくす事はできず、先生を誰も監獄にほうり込む事は出来ないのです。皆さんが今、結婚して生活して息子、娘を生む事は忙しい事ではありません。皆さんは何時死ぬか分かりません。行く途中に、車の事故に遭って霊界に行くかもしれません。ありとあらゆる事が、沢山起きるのです。何時どの瞬間に行くか分かりません。
祝福された家庭が、これから霊界に行く問題を等無視して、自分たちだけで面白く暮らして霊界に行くならば、統一教会の先生の前に出る事が出来ますか。祝福を受けた家庭というものは、長成期完成級圏内にいる為に、世界圏に迄上がる事ができていません。長成期完成級にいる為に、世界を越えなければなりません。その様な過程にいる為に、越えなければならないのです。
先生が、霊界に行く事が出来る道を皆準備したのに、皆さんがしないでじっとしていたら、どれほど悲惨でしょうか。
P156
先生は無能力な人ではありません。性格を見ても、誰にも負けない性格です。先生は踏まれる事を嫌いますが、踏まれても生きてきたし、反対されるのが嫌ですが、反対されて生きてきたのです。その様な基盤で、統一教会に入ってきた皆さんは、どの様に行くべきかという事がはっきり分かる人です。早く国と世界を越えていかなければなりません。皆さんはお嫁に行くのが忙しいですか、暮らすのが忙しいですか、霊界に行く準備をするのが忙しいですか。
自分が生きるという事は、霊界に拍子を合わせる為のものです。誰もが、霊界に拍子を会わせて生きなければならないのです。我々、統一教会を信じていった人達が霊界に行く時には、先生が教えてあげた条件が、霊界の門前にしっかりと打ち込まれていて、皆さんに質問するのです。
先生が今迄教えた事全てが条件になって、書かれているのです。そこで答えられなければ入れないのです。中間ぐらいの霊界で待たなければなりません。そこで、先生が霊界に来るのを待たなければなりません。「先生が霊界に早く来たらいい」と待つのに、先生が霊界に行っても、先生が行く所に皆さんが全て入れるわけではありません。(一四六│三三七)
「悪魔を追放しよう!」、これが先生の標語です。人類歴史の数多くの人々を蹂躙してきた悪党、サタンのしてきた全ての行動を公儀の裁判長である神様の前に検事となって讒訴しようと言うのです。我々が検事になって、悪魔サタンを讒訴しようと言うのです。そうすれば、悪魔が検事に屈服するでしょうか、屈服しないでしょうか。そこには弁護士がいません。悪魔には弁護士がいません。しかし人間には弁護士がいるのです。
イエス様があの世に行って、弁護士の役割をしているのです。イエス様が弁護士になって、「この人は私の名を信じ善なる事をしました。善であろうとし、公理の法度を守った人は悪魔も連れていけないという事は悪魔と神様と協定した条約ではないですか」と言うのです。そうすると神様も、「そうだ」と言うのです。
イエス様の名で善成る立場に立てた人達は、悪魔が引いていく事は出来ません。それで、「イエス様を信じなさい」と言うのです。よく調べもしないで、イエス様を信じさえすれば天国に行きますか。私が霊界に行って、立派な牧師たちが地獄に行ってひれ伏して、「私は文先生がこの様な方だとは知らなかった!」と言っているのを沢山見ました。夢の様な話です。皆さんの従う先生は、その様な人です。高次元の世界、五次元世界以上の理論を持っている責任者なのです。私に従おうとすれば、その様な内容を知らなければなりません。(一四九│九八)
我々には、国がなければなりません。国はありますが、我々が行く国は、他の国です。その国の公認された市民権を新しくもらわなくては、天国に入る事は出来ないのです。公認された市民権をもった人には、サタンが東西南北を通じても、過去、現在、未来を通じても、讒訴しようとしても讒訴出来ないのです。(一四八│二八七)
P157
第三節 霊界入籍
一 天国市民が楽しむ自由
女性が美人として生まれれば、間違いなく外的についていくのです。醜い女性は、外的に行くのではなく、内的に行く様になっているのです。外的に行けば行くほど、サタン世界に染まったサタンのぼろきれになりますが、内的に行く様になれば、神側に近づきます。内的に行くすべを知る人は、外的な側にも思いどおりに行く事が出来ますが、外的な側に行った人は、内的な側に絶対来る事が出来ないのです。
では、統一教会の人達は、どの様な人に成るのでしょうか。内的世界にも入るすべを知り、外的世界にも出ていくすべを知り、また出てから入ってくるすべも知り、東西南北を訪ねていく事が出来る人に成るのが理想的です。内的世界が主体になって、外的世界を支配し得る人をつくろうと言うのです。
外的世界は、悪が侵犯した為に、その世界に行けば地獄に行き、内的な世界に行けば、善成る霊界である天国に行くのです。この外的世界と内的世界を自由に往来する事ができれば、地獄にも行く事ができ、天国にも行く事が出来るという事なのです。それを知っているがゆえに、「どこに行っても歓迎され得る人になってみよう」というのが先生の主張です。それが神様の主張です。
神様は、地獄に自由に行く事が出来ます。手続きを踏まずに行く事が出来ます。また、天国の王宮に行くにも、手続きを踏まずに行けます。どこでも思いどおり行けるのです。(一一六│一七七)
二 霊界に行く時持っていく贈り物
霊界の神様の前に行く時に、持っていく贈り物とは何でしょうか。お金でもなく、学士、博士の名誉でもありません。自分の愛する夫がいいとか、豊かに暮らしているとか、その様な事ではありません。その様なものは贈り物にはならないと言うのです。そこには世界の為、神様の為の愛を持っていかなければなりません。それが残るのです。ヨハネによる福音書第三章十六節に、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」とあります。神様が世の中を愛するとあります。それで、ひとり子を与えてくださいました。ひとり子は、世の中を愛する為に来た人です。
それ故、愛を中心として信ずれば、滅びないのです。救われるのです。主人が世界を愛するので、世界を共に愛さなければならないという事なのです。今日のキリスト教は、教派の名で全部分かれていきました。世界がどうで、神様がどうでという事は考えもしないのです。自分の教派と自分の国だけを愛して滅びていくこのキリスト教を眺める時、我々は教派を超えて、国を超えて世界を愛し、神様を愛さなければならないのです。(九八│三二九)
いくら殺人強盗だとしても、証拠物がない時は、判事でもどうする事も出来ません。強盗が、「私が殺人をしたのを何時見たか」と立ち上がれば、どうしようもないのです。しかし、証拠を突き付ければ、微動だに出来ません。証拠がなければ、証拠を探さなければなりません。賛美歌に「イエス、イエス、信じる事は、もらった証拠が多い」という句があります。皆さんは、もらった証拠がありますか。もらったと威張って伝道に出るものの、その様なものが証拠だと思いますか。その様な証拠を持って何をしますか。伝道して残った人もいなければ、何の関係もないという事です。
P158
皆さんは、天国に行く時に贈り物として持って行く物がありますか。霊界に行けば、殉教した功臣たちが前にずらりと並んでいるのに、彼らの前に皆さんが持って行った風呂敷を開いて見せる事が出来るでしょうか。大した物でもないのに開いて見せる事が出来るでしょうか。皆さんがどの様な苦労をしましたか。それぐらいの苦労をしただけで、どうして国の為、世界の為だと言えるでしょうか。「苦労をするにはしましたが、私は苦労したと思いません」と、それでこそ当然なのです。まだ行くべき道が残っています。霊界に行って風呂敷を解いて、「これは一生の間私が用意した贈り物ですので、お受け取りくださいませ」と言えなければならないのです。女性たちが嫁に行く時は、荷物をしっかりと持って行きながら、天国に行く時は手ぶらで体だけ行く事が出来ますか。
皆さんは統一教会の信徒として、神様からどんな使命をもらった者たちですか。皆さんは、神様の精兵として、神様の息子、娘として、結婚する様になれば、その家の中の家門を受け継がなければならないのです。そうする為に、皆さんは暮らす様になります。独立性を育てなければならないのです。この様な高潔な使命が、皆さんにあるのです。それ故、先生と毎日生活できず、離れていても、また、神様が何時も皆さんに直接命令しなくても、皆さんは、神様の管理圏で使命を賦与された人達であるという事を忘れてはいけません。
皆さんは、自身を絶対視しなければなりません。そうして、その絶対的な価値によってなされた成果が万民のものとして、後代の後孫のものとして、天上世界の宝物として、永遠に保障されるという決意をもたなければなりません。これが任命された者の責任です。その責任を果たせなければ、乞食よりもっと可哀想です。乞食達は時が来れば、もらってでも御飯を食べますが、責任を果たせない人は、時間に合わせて御飯も食べられないのです。
この様な責任を完遂するのに、神様が「十年間にせよ」と言ったなら、十年間、忠誠と精誠を尽くさなければなりません。歴史を輝かす事が出来る子女の道を、価値ある道として復帰してくる期間を、どの様に短縮させますか。神様が計画した十年という期間を、七年に短縮させる為には、自分の汗が必要であり、自分の血が必要であり、自分の努力が必要であり、自分の苦労が必要なのです。その消耗の代価を通じて、量と質をそこに補充しなくては、国家的で世界的な版図を収拾する事は出来ないのです。統一教会の信徒達は、この様な責任を負って行く人達にならなければなりません。
その様な時代が来たのです。既に基礎を築いて、外部工事は皆終わり、これからは装飾をする時代です。内部装飾は、主人の手が必要な為、私がいなければいけないのです。壁などは直接関係がありませんが、直接関係してくる、必要とされる全ての与件を備える為には、必ず段階的期間が必要です。それ故、準備時代、実践時代、成就時代があるのです。
P159
自分の生涯を、時期に合わせて計画し実践していかなければなりません。準備時代には、あらゆる精誠を尽くして準備し、実践時代には、あらゆる精誠を尽くして実践し、成就時代には、あらゆる精誠を尽くして成就しなければなりません。それでこそ、内部装飾がうまくいくのです。その装飾は誰が見ても、「その精巧さにおいて、精誠を込めた度数がずば抜けている」と言われなければなりません。
ですから、皆さんはみ旨の世界において、準備時代が来て「準備しなさい」という任命を受ければ、準備しなければいけないのです。その次には、実践時代が来ます。その時は、昼夜を問わず実践をしなければなりません。その次には成就時代が来ますが、その成就時代は希望が宿る時期なのです。(三二│七一)
三 三大主体思想と入籍
心は、神様の代わりです。心は、烈祖、先祖たちを代表するのです。心は師を代表し、心は国王を代表するのです。所で、これ迄この心を、どれほど蔑視し、蔑ろにしてきましたか。宇宙の中心として真なる父母の立場にあり、真なる師の立場にあり、真なる主人の立場にある、真の愛の主体としていらっしゃる方の代わりであるその心が、この地上で、自分一人を収拾する為にどれほど犠牲になってきましたか。
蔑まれ、引きずり回されながらも、人が悪い考えを持って明け方に泥棒でもする様になれば、「おい、こいつ!」と、再び忠告するのです。皆さんがその様な心を、どれほどもてあそびましたか。心は、父母の代わりであり、師の代わりであり、主人の代わりです。心の世界では、公判が必要ありません。皆さんが、皆さん自身を誰よりもよく知っています。第三者、証人は必要ないのです。
父母の前で堂々と出来ない自分、師の前で恥ずかしい自分、国の君主の前で恥ずかしい自分、神様の前に恥ずかしい自分です。そうである為に、「悔い改めよ」と言うのです。本郷に帰るには、悔い改めなければならないのです。
本郷では、神様を王として侍らなければなりません。神様は、宇宙の王であり、国の王であり、氏族の王であり、家庭の王です。神様は、宇宙の師であり、国の師であり、氏族の師であり、家庭の師です。神様は、宇宙の主人であり、国の主人であり、氏族の主人であり、家庭の主人です。これが三大主体思想です。ここには、「為」にする愛、「為」にして忘れる事が出来る愛の本質があるが故に、この三大主体思想が天国を代表するのです。
自分自身が、その三大思想を全部備えるなら最も理想的ですが、それを全部備えられなくても、「真の父母」の立場に立てば、主は右、主人は左に立つのです。それ故、この三つのうち、どの一つでももてばいいのです。真なる父母に成るなり、真なる師に成るなり、真なる主人に成るなり、いずれか一つの立場だけにでも立つ様になれば、天国入籍は問題ないのです。(二〇九│一五四)
四 入籍の条件
堕落とは何かと言うと、み言と実体と心情の因縁が離れていったのです。ですから、皆さんがみ言を知って、み言を実践しなければなりません。み言を実践するには、父母の心情を備えて動いていかなければなりません。蕩減復帰をする事が出来る実体的な行動を経た者となって、初めて祝福してあげる事が出来ます。口先だけではいけません。こうして、天の一族、言い換えれば、この国の生命体に成るのです。
<TOP> <前ページ> <次ページ>