文鮮明先生御言葉選集 1 - 19. 万民のために来られた主を礼拝する者となろう (1956年 12月 23日)
1956年 12月 23日(日)、前本部教会。
聖書拝読 マタイによる福音書 8:18-34」
<祈 祷(Ⅰ)>
不足な私達が聖なるお父様の前に立ち、『お父様!』と呼ぶことができる恵みを与えてくださったことを、お父様、心から感謝いたします。死の嘆きの声が絶えることのない苦悩に生きなければならない私達に、愛するイエス様をお遣わしになり、救いの恵みを与えてくださったことを感謝せざるを得ません。
このために何千年もの歴史の中で変わらぬ努力を成し遂げられた聖三位一体の前に、暗闇のこの世界に光の輝きを照らし出すお父様の努力の前に、まず私達が心と身をささげ、その恵みに報いることのできる子ども達となるようお許しください。
お父様、この驚くべき恵みを心から感謝しながら、闇に閉ざされていた私達の体が天の生命の流れに浸たり、死に閉ざされていたこの一つの体が天宙的なお父様の愛の動脈に結びつけられる恵みを与えてくださったことに感謝致します。
お父様、心と身をすべて差し出しても、お父様の恵みに報いる方法がないことをこの時に感じさせてください。心と身をすべて差し出しても、自ら悔いる心を持つ者となれるようお許しください。心と身をすべて差し出しても、自ら未熟だと感じる事が出来る様にお許しください。
お父様、自身の持てる力と誠実さと心身をすべて差し出してお父様の前に立ちました。慈悲深くご覧ください。お父様の前に一つの犠牲として捧げられるべき私達ですが、この日までそのようになれなかったことをお許しください。
お父様に喜んで受け取って頂くことができる、永遠に誇りに思って頂ける犠牲の姿を早く備える事が出来る様にお導びきください。
1
お父様、ここに集まったあなたの子ども達は少数の群れですが、お父様がこの民族に対して勝利の犠牲となることを求めていることを知らせてください。この民族が死の波に呑み込まれるのを防ぐためには多くの犠牲が必要であることを知らせてください。
お父様、御心配される全ての分野を責任持つことのできる犠牲と御心配の基になることを実現し、天に勝利の栄光をもたらすことのできる犠牲として、不足な私達を立ててこの一時を導いてくださる恩寵に感謝する心を持って従います。
お父様! まず、この群れを喜んで犠牲として受け入れてください。そして、お父様が求められる一つの勝利の祭壇を築けるように導いてください。そして、愛するお父様、あなたの慈悲の御志をこの民族と全ての人々の前に現れる様にしてくださいと、切望いたします。
お父様、不足な私達を立て、天宙的な全体の使命を任せざるを得ないあなたの事情を思い、御心配される心情を察することができ、深い哀れみを感じるようにお許しください。そして戦いに疲れ果てるかもしれない私達が、お父様の悲しい事情と心情を思いやり、自らを慰めることができるようにお許しください。
私達を呼び、導き、ご心配されるお父様の姿を直面する度に、自ら戦いの力を磨き、再び立ち向かうことができるようにお許しください。天に向かって逡巡(しゅんじゅん)なく進む子ども達となるようお許しください。お父様、切望しております。
2
お父様、今年も終わろうとしているこの時に、一年間私たちに託された使命を完遂できなかったことがあるなら、お父様、お許しください。
天が私達に託してくださった使命は、世界的な歴史概念を超え、天の歴史概念に相当する使命でありますが、私達自身が一年間自己中心的に生きていたことがあるなら、お許しください。託された使命を軽率に考えて来た事をお許しください。
お父様、この日、あなたの前で過ごした過去の一年間に犯した全ての欠点を清算し、新たな心と新たな決意と新たな誓いを持てる様にお許しください。あなたの御心の前で自らの不足を悔い改める貴重な時を持つことができるように、お父様、切望しております。
お父様、私達が歩む道は一生にわたって戦いの過酷な道であり、疲れ果てることなく進んでいけるようにお許しください。落胆しないようにお許しください。後ろを振り返って天地の怨念が私達によって実現されないようにお許しください。お父様、切望しております。
私達は決して後戻りできない天宙的な運命の道に進んでいます。生きている限り進まなければならない道に進んでいますが、身心を捧げても不足を感じるようにお許しください。全ての力を捧げても不足を感じるようにお許しください。
3
不足な身であるため、お父様、慈悲を求める心だけが私達の生の全てを主管するようにお許しください。生活全体を主管するようにお許しください。お父様、切望しております。
この日も孤独な家族が、お父様が約束され、許された御言葉を持ち、四方に散って孤独な祭壇を抱え、お父様の前で切に嘆願していることを知っています。
どこにいてもお守りください。彼らの切なる心の友となってください。心の慰めとなってください。
この時、一つの恩寵の前に、一つの御心の前に、一つの栄光を中心に同じ心と身を持って礼拝できる恩寵をお許しください。切にお願いし、望んでおります。
お父様、今この時、数多くの祭壇が悲しみに満ちた心であなたの前で嘆願していることを知っています。時と季節を知らないあなたの哀れな子ども達にも、慈愛の愛の象徴をお示しください。慈愛の御言葉の象徴をお示しください。抱きしめようとするお父様の愛の中に、すぐに抱かれ、全てが一つの姿として喜びの栄光を捧げ、勝利の祭壇を備えて悪魔を屈服させるための栄光の祭壇を早く実現出来る様に、切にお願いし、望んでおります。
この時も、全世界に広がる天のために祈るあなたの子ども達に、慈愛の恩寵が共に有ってください。
4
すべての御言葉を主の名によって嘆願致しました。アーメン。
<祈祷 (Ⅱ) >
善なる地が成されるようにお許しください。お父様が築かれた本来の楽園は善と愛と美と永遠の正義の盾を備えた地であり、悪魔が侵入する余地のない世界であったことを私達は知りました。
お父様、私の願いはあなたの内に秘められた愛の真実と善の愛と美の栄光であります。お父様、ここに集まったあなたの息子娘達の心の扉を開いてください。そして、あなたが秘められていた永遠の愛の恵みをこの時に与えてください。
すでに約束されたお父様の涙の御言葉があり、お父様が許し与えた使命があり、天の全体的な恵みとお父様の全能、全体的なお父様の栄光を僅かな、不足な私達を通して現そうとする御意志がありますならば、お父様、この時に惜しむことなく現してください。聖霊の炎によって現れてください。栄光の恵みを現してください。再創造の復活の歴史を起こしてください。お父様、切望し願っております。
今までに、お父様の前に容認されていない悪の要素が残っているでしょうか? 慈悲の手によって主宰して、容認できないすべての要素を取り除いて、本来の善の主体となる喜びのこの一時を実現してくださいと願います。お父様、切望し願っております。
5
お父様、この様な哀れみを持たない者、不完全な者、堕落の要素を持つ者達がやがてはお父様の永遠の願いを果たすように導いてください。
6千年にわたり心苦しく悲嘆に暮れていたお父様の心情をこの時に身と心で感じ取り、お父様の悲しみを慰めるために熱心な子らとなるようお許しください。不足な私達であっても、天に向かってこれらすべてを捧げます。お父様、「私達に戦える勇気と力を与えてください。」と言える、切望する子らとなるようお許しください、お父様、切望し願っております。
三千万の人々の中で、他ではなくこの道を選んだ私達、多くの困難を乗り越えてきた私達です。お父様、力と勇気を与えてくださらなければなりません。天の勝利の盾をお許しください。正義の心と正義の装備を身にまとい、最後の戦い、最後の決戦をしなければなりません。お父様、ここに集まったあなたの息子娘達全員が一つの心を持てるようにお許しください。一つの姿を持てるようにしてください。
最後の戦いで悪魔と闘い、勝利の栄光をあなたの前に捧げることができる姿となれるようにお許しください。そして、永遠に誇りを持つことのできる子らの栄誉を立てる様にしてください。
天が召し出された者達には、上に立つ神がいるので、三位一体がこれらをお守りください。忠誠を捧げる全ての万物の前に誇りを持つ大いなる供物となれるようにお許しください、お父様、切望し願っております。
6
お父様、これまで戦い抜いてきた道も険しい道でしたが、これから先の道も戦いの道であることを知り、失望する者にはならないようにお許しください。
私達の国籍はこの国でも、この地上のどの国でもありません。頼るべきは天であり、望むことはお父様の御意以外にありません。最後の日まで戦いの場と困難の高みが残っているかもしれません。苦難や迫害の道に阻まれるかもしれません。しかし心で心配する者にはならないようにお許しください。
天の召しを受けた私達、お父様の愛の化身となり、炎の化身となるようお許しください。悪を清算し、善が根付くような心身を持ち、善の楽園を築くための勝利の場所となるようお許しください、お父様、切望し願っております。
お父様、ここに参加している多くの子らの心を主管してください。自己を知ることができるようにお許しください。努力し、心配し、熱心に精誠を尽くす姿をお父様の前で見せる子らとなれるようにお許しください。
人間的な虚飾や見栄を張らないようにお許しください。正直になれるように導いてください。自身を探り、私の意見や概念、主張をすべてお父様の前に持ち出し、清算を受けられるようにお許しください。永遠の命の香り、お父様だけが味わうことのできる要素をお父様の祭壇に捧げることができるこの時をお許しください。
7
お父様、炎のような眼で洞察してください。それぞれ自ら悔い改めるべきことをお父様の前に完全に悔い改められるようにお許しください。最後の審判の前に立ったことを感じられるようにお許しください。お父様の栄光の腕の中に包まれる恵みを許し、慈悲の歴史を許し、それぞれの身と心を抱擁してくださるように、お父様、切に願っております。
お父様の御意志だけが集まった聴衆の上に豊かに満ちて働くことができるようにお許しください。
切にお願いいたします。すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。
<祈祷(Ⅲ)>
善なる地が成就するようにお許しを与えてください。お父様が築かれた本来の園は善と愛と美と永遠の義の盾を備えた園であり、悪魔が割って入ることのない世界でした。私達はこれを知っております。
お父様、私自身の願いの基準は、お父様の内に隠された愛の真実と善と美の栄光です。ここに集まったあなたの子供達の心の扉を開いてください。お父様の内に隠されていた永遠の愛の恵みをこの時にお許しください。
8
既に約束されたお父様の涙の御言葉があり、お父様が許された使命があり、天の全体的な恵みとお父様の全能の栄光を、取るに足りない私達を通じて現そうとされる御意があります。お父様、この時に惜しみなく現してください。聖霊の炎として現れ、栄光の恵みを現してください。再創造の復活の歴史を起こしてください。お父様、切望し願っております。
今でもなお、お父様の前に許されていない悪の要素が残っているのでしょうか? 慈悲の手で支配して、許されないすべての要素を整理して、本来の善の自己として形成される喜びの一時をお許しください。お父様、切望し願っております。
お父様、哀れみ深く、不足な者達を立て、また堕落の要素を持つ者達を招き立てて、お父様の永遠の願いを実現するように求めているお父様の心が、これほど悲しいことを知らない者達にならないようにお導びきください。
6千年間、悲しみと苦しみに満ちたお父様の心を、この一時に身と心で体験し、お父様の悲しみを慰めるために精誠を尽くす子供となるようにお許しください。不足である事を自覚しながらも、天に向かって「これらすべてを捧げます。お父様、私達に戦う勇気と力を与えてください。」そう言える、切望する子供となれるようにお許しください。お父様、切望しております。
三千万の民衆の中で、他ではなく、選んだこの道を進む私達、正しく正しく難しさの峠を越えてきた私達でございます。お父様、力と勇気を与えてください。
天の勝利の盾をお許しください。正義の心と正義の鎧を身にまとい、最後の戦い、最後の決戦をしなければなりません。お父様、ここに集まったあなたの子供達全員が一つの心を持てるようにお許しください。一つの姿を持つようにしてください。
9
最後の闘いで悪魔と戦い、勝利の栄光をあなたの前に捧げられるようにお許しください。そして永遠に誇りに思える子供達の名分を築けるようにお許しください。
天が呼んだ使命がありますので、三位一体がこれらを守り、忠誠を捧げる万物万象の前に誇りに思える聖なる犠牲となれるようにお許しください。お父様、切望し願っております。
お父様、これまで戦って来た道も険しい道でしたが、これから先の進むべき道も戦いの道であることを知りながら失望する者達にはならないようにお許しください。
私達の国籍はこの国でもなく、この地上のどの国でもありません。頼るべきは天であり、望むことはお父様の御意志以外にありません。最後の日に記されるまでは戦いの任務と困難な峠が残っているかもしれませんが、心で心配する者達にはならないようにお許しください。
天の呼びかけを受けた私達、お父様の愛の化身と炎の化身となるように許し、悪を清算し、善が根付く心と体を備えて善の園を築ける勝利の場となるようにお許しください。お父様、切望し願っています。
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お父様、ここに参加した多くの子供達の心を主管してください。自分自身を知ることができるようにお許しください。苦労し、心配し、熱心に精誠をあなたに捧げる子供達となるようにお許しください。
人間的な見せかけ、偽りをせず、率直であるように導いてください。私を探り、私の意思や概念、主張をすべてあなたの前にさらけ出し、清算を受けることができるようにお許しください。永遠の命の香り、お父様だけが受け取れる要素を祭壇に捧げることができるこの時をお許しください。
お父様、炎のような目で洞察してください。一人ひとりが自ら悔い改めるべきことをお父様の前に完全に悔い改めるようにお許しください。最後の審判の前に立ったことを感じさせてください。あなたの栄光の腕の中に抱かれる恵みを許し、慈悲の歴史を許し、一人ひとりの体と心を支えてください。お父様、切望してお願いいたします。
お父様の御意だけが、集まった聴衆の上に満ち溢れて働くことをお許しください。切望し、お願いいたします。すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。
<祈祷(Ⅲ)>
ここに私達の心が、約2千年前にイエス・キリストが苦労された心情に共感し、天徳の使命を受け入れさせていただき、天と地の代わりに立ち上がったイエス・キリストの切望する姿に直面する際に、私達の体と心がその苦難に耐えることができるようにしてください。
11
御言葉を通して伝えられたすべての内容を私達が受け入れることをお許しください。狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、ただ人間だけが頭を覆える場所がないと仰った御言葉を思い返すとき、お父様、ここに集まったあなたの子供達の心と体は、聖なる聖堂であり、天の唯一の子、天のために生まれた皇太子イエス・キリストを迎え入れなかった悲しみの歴史が今でも彼らの心に残っていることを知っております。
数千年にわたり先祖が悲しみの城壁を築いてきましたが、この城壁は日が経つにつれて低くなるのではなく、悪魔が多くの策略を巡らし、この城壁を高めています。
今日、全世界の人類は先祖が築いたこの恨みの城壁を取り壊す責任を負っており、また私達もその責任を自覚しなければなりません。イエス・キリストが辛い道を辿られたのはイエス様ご自身の苦悩だとばかり思っていましたが、その苦悩が私達の苦悩として残っていることを知り、今や涙を流しながら天に向かって歩む自分自身を発見致します。
罪に対する深い心情で、先祖が犯したすべての罪の城壁を見つめると、私達自身がどれほど弱い存在であるかが解ります。お父様、これを排除できるようにお父様の力を引き継ぐことができるようにお許しください。
お父様、私達は何も持っておりません。お父様、韓国の民族を見るとき、世界の人類の中でも極めて哀れな民族ではないでしょうか? この哀れな民族の中でも何も持っておらず、孤独に追いやられている私達はより哀れな境遇にいます。
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しかし、お父様、私達は世界的な祝福が天に封じられていることを知っています。また、お父様の深い御心情にお父様の愛が封じられていることを知っております。
お父様、孤独な立場にいても涙の壁を打ち破り、幸福の場を築いてください。そして、お父様が心から心配していると知る以上、私達は躊躇することなく進んで行けるようにお許しください。
今やお父様の命令を受けて立ち上がった道に、生きるか死ぬか、願いを成し遂げる道に向かって走り出すことのできる天の善なる子供達となることをお許しください。お父様、切望し願っております。
ある若い書記官がイエス様のもとにやって来て、「先生、もしそう願われるなら、私は従います」と言った時、イエス様は「従わないでください」と語られましたが、ここに集まった聴衆の中にはその辛い言葉を聞くことによって生き残る者が一人もいなくならないようにお許しください。
自分自身がイエス様の前に立つとき、愛のイエス、善のイエス、慈悲深いイエス、忍耐のイエス、聖霊の九つの実りの全体性を備えたイエス様が、不安な姿で現れるイエス様が、自分自身の中に聖霊の九つの実りの一つでも収める供物にならなければならないと感じるようになりました。
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イエス様が収めようとしたものが収めるものがなく、来るべき道を歩まず、望んでいたことを望まなかったとき、イエス・キリストの内なる苦悩がそこに留まっていることに気づかない者達にならないようにお許しください。お父様、切望し願っております。
今ここに集まった全ての群れが、お父様の前に立ち、全てを捨てて私に従え、と仰られたイエス様の言葉に応え、そこに苦難が待ち受けているとしても、その子供達となれるようにお許しください。
お父様の喜びにかなう御心の前に望まれる願いの場を目指し、命じられる時、躊躇することなく準備を整え、躊躇うことなく進むことのできる、天が愛し、支えてくださる子供達がこの時に現れるべき時です。
それにより、6千年の歴史的な恨みを私達が背負い、悪魔と戦わなければならない責任があります。新しい覚悟、新しい決意、新しい誓いを持って、不屈の心と善意を持ち、勝利の勇者として戦えるようにお許しください。お父様、切望し願っております。
ここに許された恵みの前に、御言葉を通して喜びを感じ、愛の恵みが宿り、栄光が誇りとして現れるこの特別な時を、お父様、引き受けてください。私達もまたそれを委ねることを望みます。切望しながら、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。
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<御言葉>
皆さんと共に考えるタイトルは、「万民のためにおいでになる主を礼拝する者となりましょう」という内容について、しばらくの間お話しいたします。
神様と人間と万物、これらすべては一つの創造理想を中心にして永遠に一つでなければならなかったのに、天と万物の中間にある人間が過ちを犯した結果、万物は万物ごと、天は天ごと、人は人ごとに分かれることになりました。
それゆえに、創造本来の世界を再び見つけるために、万物から始まり、人間を通して最後には天に至るまで回帰の歴史を辿らなければならなかったのです。これらのお父様の事情を知らないことはあってはならない事です。
堕落の血統を受け継ぎ生まれた今日の私達、堕落の種族として生きる今日の人類は、まず心と体で神様の心情で満ちていることを感じる人々とならなければなりません。
私達は堕落してしまいましたが、神様が私達人間を創造した関係がある以上、また御旨を成就するために努力されているお父様がいる以上、私達は無意味な立場の存在ではありません。
皆さん自体が邪悪であるとしても、邪悪な立場にいるとしても、自ら過去の歴史を経て出てきた過程で、主の御計画によるお父様の努力の涙の痕跡が皆さんの身に残っていることを最初に認識する人となるべきであり、次には私達を再び見つけ、回復させてくださる御計画、すなわち復帰を成し遂げるために、お父様が数々の苦難を経てこられた痕跡を身に宿していることを皆さんが歴史を通じて感じるべきです。またそれだけでなく、創造本来の理想、神様の内に宿る内なる願いが存在する事を終わりの日にある私達は知るべきでしょう。
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更に私達は無形の神様としておられる神様の思いが私自身に宿っており、無形の神様として復帰の御計画をなさる神様の努力の証しとして、私の体に希望の基盤として残っていることを知らなければなりません。
そしてこの地上にある私達は、神様が皆様の愛らしい心情ほど愛おしく、努力された皆様の苦難の痕跡ほどに、努力し希望として抱かれていた皆様の本来の善の心情ほどに身と心を捧げて下さっている、その思いを代わりに持てる人とならなければなりません。
また、神様の努力に代わる苦難の心情を持ち、見えない神様の苦難を表現できる姿を今日も私達に求められていることを理解する必要があります。そして、歴史的なあらゆる宗教を否定しても、御旨を成就させる希望となれる一つの宗教をお父様が見つけようとされていることを知るべきです。
自然に座っていても立っていても、どんな一瞬の生活過程や瞬間の時間においても心に苦しみを抱え、体に刺激を受ける真摯な信者がこの地上に現れることをお父様が願われている事に心で共感しなければなりません。
そして、無形のお父様が人間と万物を創造し、喜びと栄光を楽しまれようとされた創造理想、「万物の前に人間を立て、みなが善の理想に満ち、神様の愛を誇りに思い、共に楽しみ合うこと」を願われた神様の創造理念は、人間の堕落によってその心の中で半ば残されましたが、これを解き明かす使命を持ってお見えになった方がイエス・キリストであったということです。
そして、神様の4千年の努力の歴史を代わりにして、人類に代わって、万物に代わって、神様の内なる怨みの核心を具体的に解き明かすためにお見えになった方がイエス・キリストであったということです。
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では、イエス・キリストを迎える存在、イエス・キリストを大いに望んだ存在、イエス・キリストと永遠に交わりを持つことができた存在はどこにいたのでしょうか!
イエス・キリストは実体で実在される神様の内なる心情、怨み多い御心情を代わりにされた方であり、神様の実体として現れ、神様の怨みを具体的に解き明かすことができる方であると、当時のユダヤ人達は悟るべきでした。
しかし、イスラエルの民の中には「イエス・キリストを通して慰めを受けたいと思われていた神様の内なる御計画の意図を理解し、この方が4千年間神が憂えられたその心を解き明かすことができる方であり、お父様が探し求められていた永遠の希望の存在として賛美しながら、神様の希望の心情と共感し、そのイエス様を受け入れることができた人」は一人もいなかったのです。
無形の神様の悲しみは有形の人間を通して解決されなければなりませんでした。そして、神様の悲しみと万民の悲しみを代わりにできる方がイエス様でした。
しかし、イエス様は一生涯、喜びの日を持つことがありませんでした。なぜなら、4千年間にわたり神様が流された悲しみの涙が彼の心に残っていたからであり、万民がイエス様と一体となって神様の悲しみを解消しようとしなかったためでした。そのため、イエス様の悲しみを同情し、イエス様の前に立ち上がる者は一人もいませんでした。そうした人物は、イエス様の一生を最初から最後まで振り返っても存在しなかったのです。ですから、そのような怨みの痕跡が現代の私達にまで受け継がれていることを私達は心に留めなければなりません。
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メシアを待ち望んでいたイスラエル民族にとって、天の独り子、天の皇子として誕生されたイエス様が、こうした悲しく嘆かわしい姿で現れることは夢にも思わなかった事でした。
そのため、イエス様は自分を受け入れる存在を探し求められたのですが、自分自身を中心にして探し求めたのではなく、神様の内なる心情を代わりにして探し求められたのです。イエス様は生まれた時から神様の悲しみに共感し、生まれた時から神様の努力を代わりにし、生まれた時から神様の希望を代わりにできる存在を探し求めましたが、馬小屋で誕生され、30年余りの生涯を経て十字架の頂点に立つまで、そのような存在を一人も見つけることができなかったのです。
では、十字架で亡くなられたイエス様は万民が迎合すべき存在でありながら、生きているイエスをどうして誰も迎合しなかったのでしょうか? その責任は人間にあるのです。神様の悲しみを解消しようとし、神様の努力を受け入れようとし、希望の楽園を築くために神様の希望の実体として来られたイエス様の悲しみを共にする事、そして彼の苦難を自らのものとし、彼の希望を胸に抱いて生きる責任を私達の先祖達は果たさなかったのでした。
では、イエス様が今日の私達に求めていることは何でしょうか? 神様のすべての怨みをイエス様が一生を通して解消しようとしていたことが私達の先祖達が責任を果たさなかったことにより、その痕跡はイエス様の一生にまで延長されました。神様の悲しみはイエス様の悲しみとして、神様の努力はイエス様の努力として、神様の希望はイエス様の希望として残され、それらすべては聖霊にまで及んでいるのです。
このように2千年の歴史を通して延長されてきた神様とイエス様と聖霊の悲しみを解消する責任は、今日の私達にあることを感じなければなりません。皆さんはこれを感じる必要があります。
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そして、神の心に隠されている6千年の悲しみの怨みを解消し、6千年の努力を代わりにできる人、6千年の神の希望をこの地上に再び示す人が現れなければなりません。6千年の神の希望を表現する人が私達の中に現れなければなりません。
今、皆さんは驚くべき事に、お父様の恩寵の前に、またはイエス・キリストの恩寵の前に立つ時、皆さんが立つその日が始まりであると理解してはなりません。そして、皆さん自身がお父様の前に立っているのは皆さん一個人が立っているのではなく、皆さんが信じているのも皆さんの一生だけをかけて信じるのではなく、6千年の歴史をかけて信じているという実感を持つ必要があります。
皆さんがお父様の前に自らの罪を悔い改める場に立つとき、それは自分自身に対する悔い改めだけでなく、6千年を代わりに悔い改めると感じるべきです。また、主の恩寵と愛の前で感謝の心を持つときも、皆さんは一つの時間枠内で自分だけが感謝すると考えてはいけません。6千年間に渡りあなた方が来られたお父様の全体の計画、平面的な歴史と立体的な歴史を代わりにして、希望的な一つの基準を代わりにして感謝できる人でなければならないということです。
このように神の悲しみを解消する人、神の努力を代わりにする人、神の希望を代わりに成就させる人が、今日の地上に現れることをイエス様は願われています。
実体的にお父様の意志を実現するためにおいでになったイエス様は、この地上でその使命を果たせなかったために再び来る運命を背負って帰られました。そのため、このイエス様は再び6千年の歴史を代わりにする悲しみの心情を持ち、何もない私達を探し求めておいでになるでしょう。4千年の悲しみだけでなく、その上に2千年の悲しみを持ち、皆さんを探し求めておいでになるでしょう。また悲しみだけでなく、2千年の努力の怨みを持ち、皆さんを探し求めておいでになるでしょう。
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6千年の希望を持ち、私達の前に現れるイエス様に対して人間が果たすべき責任は、イエス様の心と悲しみ、努力の重荷を実際に代わりに担うことです。
神の4千年の努力を代わりにして4千年の悲しみを解消しようとしてイスラエル民族の前においでになったイエス様をイスラエル民族が信じずに反対し、十字架に追いやったのです。
同様に、イエス様をお父様の努力と4千年の歴史を代わりにして4千年の悲しみを解消しようとしておいでになった方として知り、信じ、受け入れることができる人がイスラエル民族の中にはいなかった結果、イエス様は十字架に戻られるしかなかったのです。そのために、この仕事を完了するために、イエス様は再臨されなければならないのです。
6千年の歴史を総括する終わりの時に立つ私達は、神の前、三位一体の前で一人で立ち、神の悲しみを私の悲しみとしてお預けいたします。神の努力を私の努力としてお預けいたします。神の希望を私の希望としてお預けいたしますと言える心を持たなければなりません。そして、皆さんは一つの個体でありながら、天地を代わりにすることができる心を持ち、イエス様の再臨を準備する人でなければなりません。そのような世界のクリスチャンであらせようとしなければなりません。
イエス・キリストの再臨を準備しなければならない皆さんは、おいでになり去ったイエス・キリストの生涯をもう一度探りなおす必要があります。イエス様がおいでになったとき、イエスがおられたとき、イエス様が去られるときの状況が、皆さんの状況と重なる人とならなければなりません。
皆さんはイエス様が神の慈しみに満ちた心を抱えて万民を救い出す責任が自分にあると感じたような責任感を持つべきであり、悪しき地に生まれて一人で寝られたイエス様の枕に皆さんが実際に寝たという心を持つべきです。
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イエス様は天の皇子、天の王子でありながらも、この地上にお生まれになる とき、馬小屋の中で眠られることになるのですか? イエス様の悲しみは悲しみではありますが、そのイエス様を見つめる神の内なる悲しみは言葉に尽くせないものでした。
そのような事実を胸に深く感じるようにしてください。そして終わりの時にある皆さんは、イエス・キリストが背負われた使命を私が一人で引き受けるという責任感を持つべきです。
そして万民のためにおいでになったにもかかわらず、軽んじられ、言葉に表せないほどの哀れな状況におられたイエス様の事情を私の事情と入れ替えて考えることができるようにしましょう。イエス様はこの地上に、神様の悲しみを慰めてくれるふさわしい存在がいれば、その一人を抱きしめて自分のすべての願いを実現させたいほどの状況にあったということです。
しかし、神様が4千年の歳月をかけて選び定めたイスラエル民族とイエス・キリストのために準備されていたユダヤ教の指導者達は、イエス様を知らなかったのです。彼らはベツレヘムの牛舎の飼葉桶の中に寝ていたイエス様とは何の関係もありませんでした。これらの出来事は、神様の悲しみを再び繰り返したものでした。誰もが牛舎で生まれたイエス様を受け入れる人はいませんでした。
今、私達は神様の怨みと、この地上に現れ、去っていかれたイエス様の怨みを収めて、すべてを解消できる人となるべきです。そうでなければ、悪魔の侵入条件を自分の体から取り除くことはできません。そして再びおいでになる主が6千年の歴史を代わりにしてこの地上に現れることを知っているのなら、どうか皆さんはイスラエル民族と同じ立場には立たないようにしてください。彼らの信仰はイエス様中心でも、メシア中心でも、神様中心でもありませんでした。彼らは自己中心的でした。メシアは確実に来るはずなのに、それを知りながらもメシアを迎える準備を誰もしていなかったということです。
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東方の博士達がベツレヘムの飼葉桶の中に寝ているイエス様を礼拝しに来た時、全エルサレムは騒然としました。異邦の国の占い師達がイエス様を探しに来たのです。しかし、この騒ぎは喜ばしいことではなかったのです。喜ばしいことではなかったのです。
今日、天に信頼を置いている皆さん、6千年の歴史を代わりに信じている皆さんは、間違ってもユダヤ教の立場と同じ立場にとどまってはいけません。今こそ、おいでになるメシアのために準備ができるようにし、初臨のイエス様の悲しみを皆さん自身が解消するだけでなく、栄光をお返しすることができるようにしてください。このような責任が皆さんにあるのです。
今日、皆さんが霊的な段階に達し、父なる神様と相談する位置に入ると、皆さんに対してこれをしなさい、あれをしなさいと多くの指示が出されるでしょう。
地上に主がおいでになると、食べるものや着るものが必要となり、滞在する場所を必要とし、活動されるでしょう。しかし、メシアの到来を待ち望んでいたユダヤ民族はこれも知らず、メシアを迎える準備をしていませんでした。準備して待つ者はいませんでした。
もしそのような切実な心を持って準備していた人がいたなら、東方の博士達がエルサレムに来て、そのように語った時、全ユダヤの人々が騒ぎ立ち、東方の博士達を追ってベツレヘムまで行ったでしょう。しかし、旅の途中では東方の博士達3人だけでした。
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これが神に従って来たと称した私達の先祖達が犯してしまった罪であったということです。
今日、皆さんはそのような立場に立ってはなりません。心も体も、内面も外面も、おいでになる主を迎える準備ができるようにする必要があります。
では、今日の終わりの時代にいる私達、世界中のクリスチャンが果たすべき使命は何でしょうか? メシアの到来を望んだユダヤの人々が、メシアが生まれる場所を用意する民となったとしても、メシアを牛の飼葉桶の中に寝かせなかったでしょう。同じように、メシアの到来に備えて場所を用意できるクリスチャンとなるべきです。
イエス様が十字架に架けられ、墓の上に横たわっている様子を喜ばしいと思ってはなりません。イエス様はすべての民が共に合意するほど、この地上のどの人よりも、4千年の歴史の中でどの人よりも、栄光ある位置に横たわっているべきでした。また、神の子としてすべての民から賛美され称賛されるべきでした。そして、悪魔の前で誇らしく立つべきイエス様でした。
しかし、ユダヤ民族がイエス様をこのように礼拝できない場面を見ている神様の悲しみはどうだったでしょうか?あなた方はこのような神様の悲しみを理解しなければなりません。
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それゆえに、今あなた方は神様の心を代わりに持ち、2千年前のイエス様の悲しみを理解し、内面的に他の人に知られないように贈り物を準備する人になるべきです。天の贈り物は悪魔の前に現れることはありません。人前にも現れないのです。それはなぜでしょうか? それは誰かが先に知ることは許されないという意味です。知るべき人が先に知るべきです。悪魔が先に知ると、嫉妬を抱くからです。
自分達が、父なる神の前に立ち、この世界のためにおいでになる主を迎えるために、この地上には存在しない、この地上の何ものとも交換できない貴重な贈り物を準備しなければなりません。
主が降臨されご自身で活動されるとき、主が心や体で苦労されないように、主を受け入れる場所をあなた方の体で準備しなければなりません。これはなぜなのかというと、この世界で最も貴重なものは、あなた方の体だからです。
こうして貴重な方であり、天宙を代表する一つの存在であり、お父様の子、父なる神様が愛される独り子がおいでになるとき、永遠に安息できる平和の場所を築かなければなりません。そして心と体が一つになって、イエス様が再びおいでになるとき、イエス様の手足となり、イエス様の生涯を代わりに生き、イエス様を安らかにお迎えしなければなりません。また、イエス様が2千年前に戦われたその戦いを代わりに戦うことができる人とならなければなりません。
イエス・キリストは2千年間戦ってこられましたが、今度は私がその闘いを完全に引き受け、戦う決意を持ち、そのための盾さえ私の片手に用意する覚悟を持たなければなりません。そして、あなた方は生まれおちた時のイエス様の状況を感じ取る一方で、その後地上で生きられた時のイエス様の心情を感じ取らなければなりません。
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あなた方が今真にお父様を求めようとするなら、イエス様の愛の手を求めようとするなら、涙が流れることでしょう。
神様は4千年間心痛まれながらもその心情を示されませんでしたが、イエス様は具体的に涙を流されました。聖書には僅か数カ所しか記されていませんが、実際にイエス様が涙を流された隠された事実は無限にあるのです。
神様は何千年もの間、計画的に歴史を通して愛してこられたユダヤの民を見守る際、一瞬も涙を流されなかったことはありませんでした。イエス様は神の前で祈るたびに涙を流されました。困難で孤独な瞬間にぶつかるたびに、イエス様はただお父様だけが理解してくださる中で悲しまれたのです。しかし、イエス様はこのような悲しみを弟子達に話すことができませんでした。こうしたイエス様の状況を皆さんは知るべきです。
イエス様はゲツセマネの園で一夜を徹して祈られたことが何回もありました。またゲッセマネの園だけで祈られたのではありません。
厳しい道を歩まれても悲しみの状況を理解できる場所は天国以外にはありませんでした。しかし、その悲しみを天国に任せようとはされませんでした。むしろ、その悲しみを自ら引き受けさせてほしいと願われたのです。『お父様、私を見て悲しまれるその悲しみを私が引き受けます。お父様、私を見て慰されてください。あなたの悲しみを私が背負いますから、悲しまれないでください』と訴えたのです。
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「私が4千年の苦労を引き受けます」とお祈りしただけでした。「お父様、あなたが心配なさらないでください。私がここにいるので、あなたの希望が残っていることを心配なさらないでください」、という祈りでした。
イエス様は幼いころから悲しみを持っていました。世の人々がイエス様を受け入れなかったために成長する過程で悲しみを経験されたのです。
イエス様はヨセフの家庭で養子として育ちました。だから周囲の人々がイエス様について多くのことを言いましたが、彼は黙々として生活を送ったのです。
言葉では語れない天の御心、大きく驚くべき御心を抱えながら、普通の子どもとして成長したのです。私達は30年間も大工の仕事をして暮らした彼の生涯を、良い生活だったと思ってはいけません。イエス様はイスラエルのどの誰よりも高貴な地位に立ち、お父様の喜びと栄光を示しながら生きるべきでしたが、ヨセフの生活を支えるために斧を持ち、垂木を手にして生活したのです。これは何ということでしょうか。
今日、神様の意志を受け入れたいと願う真の子女、神様の心情を理解したいと願う真の子女がいるとしたら、彼らはイエス様が歩まれた生涯を手本にして進むべきです。
あなたがイエス様の使徒としての生涯を知ろうとするならば、驚くべき恵みを代わりに受けたイエス様の心情に共感し、その心情を思いやり、彼の苦しい立場に入り込んで見なければなりません。そのようにしてイエス様の悲しみは時間を超えて、生活の一瞬一瞬を超えたものであり、イエス様の生涯は一つの瞬間にも平安を感じることができない生活であったということを感じるでしょう。
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しかし、地上に来られたイエス様は地上によって受ける悲しみを天の前に持ち込まないようにと、心からの悔いを感じていました。今日、イエス様を信じる人々は自らの十字架や悲しみを天に託すことがよくあります。しかし、私達はそれをするためにイエス様を信じるのではありません。それに対して、「天の悲しみは私による悲しみであり、その悲しみを私が負い受ける」と言うことができる人は、イエス様の信念、イエス様の生涯の一部を通じてのみ可能な人です。
今日、30年近くもの間、涙と共に過ごされたイエス様の悲しみの足跡が残っているとしたら、皆さんにはそれを解き明かす責任があります。
イエス様は30年以上もの間、悲しみの中で過ごされ、ついには十字架を背負い、運命の時を迎えられました。最後の瞬間に「アバ、父よ、どうして私を見捨てられるのですか?」と言われながらも、神の御心を成し遂げるという切なる心情に耐えていらっしゃったことを皆さんは知らなければなりません。
そうすれば、今日の皆さんが「私はイエスの友達だ」という心を持って世界を見るようになったなら、涙なしにはこの世界を見ることができなくなるでしょう。イエス様は足を踏み出すたび、体を動かすたびに涙を流されたのです。一度も涙を流さなかった日がなかったのです。このようなイエス様と同じように、今日信じている聖徒達の中には、毎日の生活の中で天の前に申し訳ない心を持ち、涙を流す人がいるとしたら、彼はイエス様の友達となるでしょう。
教会や家庭の中で、互いにお互いのために、イエス様の心情を理解し、神様の代わりに涙を流すことができる人がいるとしたら、そこには間違いなく神様に求める必要なく無限の命と愛が共にあるでしょう。こうして神様は情が通じ、愛が通じ、内容が通じるクリスチャンを求めているということを皆さんは知らなければなりません。
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もしも今日イエス様が、「この地上に主がおいでになるとしたら、あなたは果たして苦難の30年近くを過ごした私の友人となっているだろうか?」、と尋ねられるでしょう。また、「あなたはどれだけ神の悲しみを受け入れ、世界的な悲しみを持ちながら今日迄生きてきたのか?」、と尋ねられるでしょう。
地上においでになったイエス様を人々が受け入れなかったために、イエス様を悪魔の前に一つの条件として差し出したということを知る必要があります。そして皆さんはこの条件を超えなければならないのです。
今日私達はなぜ生きているのでしょうか? この身が死ぬ前に、この目に土が入る前に、忠誠を尽くしてイエス様の生涯を追い求め、泣くことができる人となり、イエス様の生涯で踏みにじられたものを取り戻すことができる真の人とならなければならないからです。だからこそ、皆さんは生きている間にこのような責任を果たさなければなりません。
ですから、今の私は単なる私ではないということです。皆さんがこれまで生きてきた年齢だけの皆さんだと思ってはいけません。皆さん一人一人はアダムからイエス様までの4千年、そしてイエス様以降から今までの2千年を合わせた神の再臨の時代を皆さん一人一人が実現する天宙的な使命を背負っている存在なのです。
だからこそ、イエス様が敵の前で堂々と立っていたように、皆さんも十字架の苦しみを受けても堂々としなければなりません。涙を流すとしても自分のために流さず、泣くとしても自分のために泣かないようにしなければなりません。
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泣くならば、イエス様のために泣きなさいということです。それであなたを思い、あなたを考えるイエス様がどれほど喜ばれるでしょうか? そして神様はあなたの状況を理解してくださるでしょう。涙を流すとしても、そのような心で涙を流す人とならなければなりません。自分のために涙を流す者は必要ありません。イエス様のため、神の愛のために涙を流して悔い改める者だけが神の息子、娘となるのです。
あなたが十字架の苦しみに直面するとき、真にお父様の愛を感じ、お父様の愛の権威の中に自分がいると感じるなら、祈ることができなくなるでしょう。私はそのようなことを経験しました。肩に何トンもの重い負担がかかっていても、「お父様、これを軽くしてください」と祈りませんでした。そのような祈りはしてはいけないということです。
愛するお父様は、このような立場にある私をよくご存じです。そうでなくても、悲しい立場にあるお父様に対して、「お父様、私はこのような重荷を抱えています」と祈ることによって、辛いお父様の心に第二の悲しみを与えることになると言う事です。
これらのことを理解して、神とイエス様に対処する必要があります。三千万人の民族の中で、このような心を持つ人が幾らかでもいれば、この民族の悲しみを和らげることができるでしょう。私達は自分の悲しみのために涙する人に絶対になってはなりません。
イエス様は天宙的な使命を持ってこの地においでになりましたが、一生涯にわたって苦しみを受けられました。しかし、その悲しみを自分のために祈るのではなく、むしろお父様の心を癒し、心配を安心させるために祈られました。そして地上を見つめ、人間達の無知を容認し、理解して更に与えるために愛されたイエス様でした。しかし、イエス様の生涯は30年の涙の生涯だけで終わったのではありませんでした。
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彼は神様の使命を代わりに果たすために立ち上がったので、生きるか死ぬか、ただお父様の御心だけを栄光にかえる心を持って生きました。イエス様は神様が気にかけて下さるかどうか、地上の人々が気にかけるかどうか、そうしたことは気にせず、時と場所を問わずに御心のために生きられました。
イエス様は自らの使命を完遂しようとされましたが、結局は十字架にかかる運命に直面しました。しかし、彼は苦悩したり絶望したりしませんでした。死の場面に至るまで自分を弁護することはありませんでした。私達が知っているように、ピラトの裁判を経てゴルゴダの丘で十字架に釘付けにされる運命に直面しても、イエス様は自己弁護をせず、変わらない主役でした。
人々が反対することも、自らの責任だと感じたこともあったイエス様でした。イエス・キリストを信じている私達は、誕生から復活までのイエス様の友人となるべきです。
イエス様は生命と友達になるのではなく、むしろ死と友達になった存在でした。歴史の中で多くの人々が死の道を歩みましたが万民の死を代わりにして死の友となり、万民のために死んでくださったのはイエス様だけであったということです。
それゆえ、キリスト教は死と犠牲の宗教であり、キリスト教の真理は死に打ち勝つ真理です。そして、イエス様の活動は自己を破壊することでした。それなのにもかかわらず、愛を持って死を迎えることができるイエス様の行動を皆さんは認識するべきです。
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イエス様は死の友であったため、死が迫っても、それに抵抗することはありませんでした。皆さんは、イエスが敵のために死ぬことができる自由な生活を送ったということを理解する必要があります。
後には神様ですら、イエス様を十字架にかけたまま理解しなかったとされます。その時、イエス様は「アバ、お父様、どうして私を見捨てられたのですか」と叫びましたが、これは絶望の叫びではなく、自分の希望が絶望に転じることを心配しての叫びであり、自分の生涯が虚しく終わるかもしれないという不安からの叫びだったのです。イエス様は自らの任務を果たすために死ぬことに満足していたので、父さまが彼を天国に送るか地獄に送るかなど気にかけることはありませんでした。彼は死の友となる立場にあり、使命を完成させるために死ぬことに満足していたのです。
イエス様は天宙的な愛を持ちながら、それを自己に留めることはありませんでした。驚くべき恩寵を持ちながらも、一度死の友となるために立ち向かう以上には何の後悔もありませんでした。天の希望を成し遂げるために来られたにもかかわらず、天がその希望に対して答えを与えなかったとしても反論したり不平を言わなかったのがイエス様でした。
私達が神様を追い求める旅には終わりがあります。最善の努力を尽くして進むにもかかわらず、結局は天が答えを知らないことがあります。それは世界的な使命が私達の前にあるからです。だからこそ、イエス様も世界的な使命を担う必要があったために、そうした経験をされたのです。同様に、私達にもそうした経験があるでしょう。忠誠を尽くし、生活を捧げても、天が答えを知らない出来事が起こることでしょう。
しかし、あなたは死んでもお父様の御心であり、生きてもお父様の御心であると言えるようになるべきです。また希望を持つなら、お父様の御心を成し遂げるただ一つの希望を持つようにしてください。食べられないことも着られないことも喜ばしいことだと言える心の持ち主になるべきです。
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今日、あなた方は天に行くためにイエス様を信じる者になってはいけません。死ぬためにイエス様を信じる者こそが天に行くでしょう。よく生きるためにイエス様を信じるのではなく、よく死ぬためにイエス様を信じるのであれば、それは非常に尊い信仰となるでしょう。よく生きることを望みながら信じた12使徒達は、イエス様が死ぬ時には皆どこへ行ったのでしょうか?
あなた方は自分の一つの命をよく生きるために信じるのではなく、自分の一つの命をよく犠牲にするために、つまりよく死ぬために信じなければなりません。そのために私達はイエス様の生涯を模範にする必要があります。イエス様の生涯を歴史を代わりに受け入れる責任が私達にはあります。その生涯を私達が持つべき責任があるのです。イエス様の生涯を持つことによって、イエス様の愛を持つことができます。イエス様を迎えることによって、イエス様の愛を受けることができます。さらに、あなた方はイエス様が2千年間にわたって労苦されたことを見習う信仰的な人格を備えなければなりません。
それだけでなく、6千年にわたって神の計画が延長されていますので、6千年の計画を代わりに受け入れて来られる方を迎え入れることができるようになるべきです。あなた方には父なる神が、もしくは主イエス様が現れた時に、主を招待して迎えることができる時間を持つ必要があります。その時間は一時間でも二時間でもなく、永遠に主を迎え入れることができる時間であるべきです。
それでは、主を迎えることのできる花嫁の資格を持つためには、どうすればよいでしょうか? まず第一に、6千年間の神様の憂いを背負い、慰めてあげることができることが必要です。
そして、主に対して自分がこうしようと考え行いましたと、主の前に立ち、こうして準備しましたと言えることが大切です。天宙的な準備を備えて、「主よ、おいでください。主よ、現れてください。」と言える聖徒になることが必要です。こうした聖徒は決して滅びることはありません。
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このような重大な使命が私達の前にあるのです。しかし、多くの人々がこれを知らずにいます。また、イエス様の内なる心情や内なる希望が今私達一人一人を中心に回っていることを知らないでいます。そのような人々はどうなるでしょうか? 知らない者は滅びるでしょう。自ら胸を打つ時が訪れるでしょう。
心から尽くし、身体で尽くし、社会にも尽くし、国家にも尽くし、世界にも尽くし、天地にも尽くすこと、これこそが子の責任であるのです。しかし、今日の皆さんはまだ心からもイエス様に尽くせていないことを知るべきです。まだイエス様に尽くすための出発もしていないということです。
心から尽くし、身体で尽くし、社会で尽くし、国家で尽くし、世界で尽くし、天地で尽くすことによって、栄光が皆さん個人だけでなく、家庭、社会、国家、世界、そして全ての人類に満ち、余りがあるべきだということです。こうした天宙的な使命が皆さんにあるとは、皆さんは想像もしなかったでしょう。
それならば、このような使命を持ち集まった皆さんは傲慢であってはいけません。卑屈で愚かな人にもなってはいけません。数多くの敵の前に立っても堂々としていなければなりません。皆さんには宇宙的な栄光と愛をもたらすイエス様を心から尽くす責任があるのです。宇宙的な地位に心と体を持って立たねばならない皆さんなのです。
しかし、自分のために尽くし、家族のために尽くすだけで満足しているクリスチャンは必要ありません。一つの教会を中心にして満足しているクリスチャンも必要ありません。三千万の民族が全てクリスチャンであっても、民族を代表して立ち上がれるクリスチャン、世界の人類が全てイエスを信じているとしても、その24億の人類を代表して立ち上がれる代表的なクリスチャンが必要なのです。
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天界にいる全ての天使を指導できる資格者とならなければならない私達なのです。彼らの前でも堂々とこうして価値あることをしたと言えるべきなのです。これを成し遂げるためにだれが来たかと言えば、イエス・キリストが来られたのです。
このように大きな使命を果たしに来られたイエス様、このように私達が絶対に尊ぶべきイエス様ですが、そのイエス様を見据えて出て行く私達は果たしてどう生きてきたのでしょうか? 見るに堪えないことです。見るに堪えないために、6千年間涙を流しても足りないというのです。胸を打ちながら6千年間嘆き悲しんでも足りないでしょう。このような立場にある私達でも厚かましいほどの人間になってはならないというのです。
もしあなたがすぐに死ぬことがあっても、倒れて踏みつけられることがあっても、持つべき真心、持つべき忠節の心だけは変わらずに持ち続けるべきであり、天宙の前に堂々と立って天の子娘としての地位を築くことができるようにしなければなりません。
あなた方は困難な道に立っています。いや行かなければならない運命の道に立っているのです。このような運命の道に立ったあなた方は一生をかけて信念と内なる忠節を持ち、その道を進むべきでしょう。
あなた方は泣かなければなりません。私は主を尊ぶと言いながらも、世界的な主、天宙的な主、6千年の歴史を超えて永遠の異界を抱えてもなお残ることができる主、このような主を尊ぶ私は、今まで家庭の主を尊び喜ぶ私でしかなかったと悔い改めて嘆くべきでしょう。
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今日の皆さんは、この時代に対する責任と使命を感じていますか? それとも、創造の理念が完成する終わりまで、全体の人類が望んできた理想を自分が代わりに実現しなければならないという事を考えたことがありますか? そのような天宙的な使命感を感じたことがありますか?
そして、あなた方は「私はこのような使命を果たしても生き残ることができる、自分が存在している人間だ」という心の余裕を持って祈ることができなければなりません。そのような立場で祈るときには、多くの言葉や論理は必要ありません。ただ「お父様」と一言言えば十分です。説明は必要ありません。
言葉を発する前に、直感的な衝撃によってためらわずに尊ぶことができる資格を持たなければならない立場に私達は立っています。そのような宝を持ち、私達は立ち上がりました。これから出発するあなた方は、どんな条件に縛られていますか? 途中でどの段階に立ち止まっているのでしょうか? あなた方は生涯の経過で、今どこまで進んできたのでしょうか? 個人から出発して家庭や社会、国家、世界を経て天の領域まで走り抜けなければなりません。そのような天宙的な使命があることを知らなければ、主に出会うことはできません。
イエス・キリストは、あなたを受け入れる真の人を見つけて、6千年のため息を一掃し、彼を抱きしめて感謝の涙を流されるとき、「お父様、あなたが探しておられた存在がここにいます。お父様、喜んでください。」と言われる日が人類の前に訪れるべきです。
その日を基準にして戦い抜くあなた方は、今日も戦い、明日も戦い、生涯を捧げる覚悟のある人でなければなりません。そして永遠の任務から先駆者となり、天宙的な花嫁として装い、天宙的な主を受け入れることができる人にならなければなりません。
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そのような勝利の栄光、お父様の愛、永遠の命を受けて、万物創造主であり、源泉となる花嫁として、お父様と永遠に共にするまで戦い抜かなければならないことを心に留めてください。
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