人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

ヨブ記(抜粋)

2023年08月30日 11時01分51秒 | 学習

 ウヅの地にヨブという名の人があった。その人となりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。
彼に男の子七人と女の子三人があり、
その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。
そのむすこたちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。
そのふるまいの日がひとめぐり終るごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「私のむすこたちは、ことによったら罪を犯し、その心に神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このように行った。
ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。
主は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
主はサタンに言われた、「あなたは私のしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。
サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。
しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
主はサタンに言われた、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンは主の前から出て行った。
ある日ヨブの息子、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいたとき、使者がヨブのもとに来て言った、「牛が耕し、ろばがそのかたわらで草を食っていると、シバびとが襲ってきて、これを奪い、剣をもって僕達を打ち殺しました。私はただ一人逃れて、あなたに告げるために来ました」。
彼がなお語っているうちに、また一人が来て言った、「神の火が天から下って、羊およびしもべたちを焼き滅ぼしました。私はただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
彼がなお語っているうちに、また一人が来て言った、「カルデヤびとが三組に分れて来て、らくだを襲ってこれを奪い、つるぎをもってしもべたちを打ち殺しました。私はただひとりのがれて、あなたに告げるために来ました」。
彼がなお語っているうちに、また一人が来て言った、「あなたのむすこ、娘たちが第一の兄の家で食事をし、酒を飲んでいると、荒野の方から大風が吹いてきて、家の四すみを撃ったので、あの若い人たちの上につぶれ落ちて、皆死にました。私はただ一人逃れて、あなたに告げるために来ました」。
このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った、「私は裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。
すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。

 ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。
主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
主はサタンに言われた、「あなたは、私のしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、私を勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。
サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。
しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
主はサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。
サタンは主の前から出て行って、ヨブを撃ち、その足の裏から頭の頂まで、いやな腫物をもって彼を悩ました。
ヨブは陶器の破片を取り、それで自分の身をかき、灰の中にすわった。
時にその妻は彼に言った、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。
しかしヨブは彼女に言った、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」。すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった。
時に、ヨブの三人の友がこのすべての災のヨブに臨んだのを聞いて、めいめい自分の所から尋ねて来た。すなわちテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルである。彼らはヨブをいたわり、慰めようとして、たがいに約束してきたのである。
彼らは目をあげて遠方から見たが、彼のヨブであることを認めがたいほどであったので、声をあげて泣き、めいめい自分の上着を裂き、天に向かって、ちりをうちあげ、自分たちの頭の上にまき散らした。
こうして七日七夜、彼と共に地に座していて、ひと言も彼に話しかける者がなかった。彼の苦しみの非常に大きいのを見たからである。
   ・
   ・
   ・
 こでヨブは主に答えて言った、
「私は知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。
『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、私はみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。
『聞け、私は語ろう、私はあなたに尋ねる、私に答えよ』。
私はあなたの事を耳で聞いていましたが、今は私の目であなたを拝見いたします。
それで私はみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。
主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、「私の怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、私のしもべヨブのように正しい事を私について述べなかったからである。
それで今、あなたがたは雄牛七頭、雄羊七頭を取って、私のしもべヨブの所へ行き、あなたがたのために燔祭をささげよ。私のしもべヨブはあなたがたのために祈るであろう。私は彼の祈を受けいれるによって、あなたがたの愚かを罰することをしない。あなたがたは私のしもべヨブのように正しい事を私について述べなかったからである」。
そこでテマンびとエリパズ、シュヒびとビルダデ、ナアマびとゾパルは行って、主が彼らに命じられたようにしたので、主はヨブの祈を受けいれられた。
ヨブがその友人たちのために祈ったとき、主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。
そこで彼のすべての兄弟、すべての姉妹、および彼の旧知の者どもことごとく彼のもとに来て、彼と共にその家で飲み食いし、かつ主が彼にくだされたすべての災について彼をいたわり、慰め、おのおの銀一ケシタと金の輪一つを彼に贈った。
主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。
また彼は男の子七人、女の子三人をもった。
彼はその第一の娘をエミマと名づけ、第二をケジアと名づけ、第三をケレン・ハップクと名づけた。
全国のうちでヨブの娘たちほど美しい女はなかった。父はその兄弟たちと同様に嗣業を彼らにも与えた。
この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。
ヨブは年老い、日満ちて死んだ。

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御言葉選集2(4, 5)

2023年08月21日 13時44分24秒 | 学習
また、皆さんは約30年にわたる神を中心に置いた真心の生活の中で休む暇のなかったイエス様の生涯、歴史と宇宙を代表して純粋な犠牲者として生きたイエス様の生涯を手本にするべきです。それでは、約30年間こうして生きたイエス様はどのような方であったでしょうか?彼は宇宙的な愛の基準でした。イエス様は心と意志と品質と力を傾けて、本性の人倫の教えを確立し、天倫に向かって進むために、神の愛を手に入れようと努力されました。

また、イエス様が天国でも全ての人々を代表し、総合的な善の基準と正義の基準を確立し、サタンと対決して立ち向かう力を持つことができたのは、地上において性格と意志と力を全うする生活によって、体と心が善の実体として完成したからでした。

だからこそ、皆さんもイエス様と一体になるためには、心を全うし、意志を全うし、性格を全うし、力を全うしなければなりません。その時に初めて、私達はイエス様の立場に立つことができ、イエス様の力によって神の愛を感じることができます。ですから、私達は自分自身を性格を全うし、心を全うし、意志を全うし、力を全うして、父なる神に捧げられる犠牲とならなければなりません。

イエス様が4千年の歴史と全ての人々を代表して神に喜ばれる供え物、生ける祭壇の犠牲、純粋な犠牲として献げられたように、皆さんもまたイエス様に対して純粋な犠牲として差し出されるべきです。

そして、皆さんは自分達の生活と人間性、そして神の性質を全うしなければならず、目的を達成するためにこの地に来られたキリストを代表し、天の苦しみを共有し、イエス様が感じられた天国的な愛の心情を感じ取り、捨てられてかわいそうで貧しい人々に寄り添うために備えられた教会から受け入れられなかった者達を探す必要があります。それによって、あなたがたがそのような人になれば、神の怒りを解消するだけでなく、人類を救うために来られたイエス・キリストの怒りをようやく解消することができるのです。

愛のイエス様はこの世において、裏切りや背信を犯す人々を訪ねて自身の理念を議論する必要がありました。そのため、私達が背信した先祖を持つ私達は天を裏切り、逆らってきた歴史を遡って「父の意志はこれではないでしょうか? この身を受け取ってください!」と言うことができなければなりません。

神はこうして歴史を代表し、立ち向かうことができる純粋な犠牲、触れたことも見たこともない純粋な犠牲として捧げられる人を求めていることを皆さんは知らなければなりません。

あなたがたが人生を全うしても、現在のあなたがたの人生は悪魔の支配を受け入れている人生であり、心を全うしても、悪魔のささやきに従う心であり、意志も同様です。そのため、終末に立たされるあなたがたは必ず悪魔的な人生と心を変えなければなりません。人生観や宇宙観も変えなければならないでしょう。それはこれまでの信仰観では悪魔に打ち勝つことができず、悪魔の誹謗の条件に縛られた舞台を通過できないからです。イエスが純粋な犠牲として十字架に戻られたことは、初めてであり同時に最後でもあります。これはイエスがあなたの性格や心、意志をこの世の人々に紹介されたことです。

イエスは歴史を代表し、すべての存在を代わって神に価値を見出すことができる存在であり、神に真実であると認められ、神に喜ばれ、愛される存在でした。あなたがたはイエスから、悪魔の誹謗を受けることのない、悪魔の所有物にならない人生を感じることがあるでしょう。そのような人生を感じた場合、あなたはイエスの真の人生を理解できるようになるでしょう。また、そのような心を感じた場合、あなたはイエスの内面的な状況を理解できるようになるでしょう。

そして、イエスの人生と内面的な状況を理解しようとする人がいれば、神はその人に対して働かれることができるのです。このようにして、探し求めるべき驚くべき歴史的な宇宙の焦点、越えなければならない宇宙的な関門があることを人々は知らないのです。そのため、イエスの望みである純粋な犠牲として捧げられることを望む希望が残されていますが、今こそ私達キリスト教徒がその希望をどのように見つけて達成するかが問題となっています。

今日、あなたがたがこの希望を見つけようとするなら、過去の不足を認識する必要があります。そして、その不足を神に告白しなければなりません。悔い改めても、涙を流して再び流さなければならず、30年以上も涙を流し続けたイエスの涙を代わりに流す心が必要です。

また、あなたがたはイエスが30年以上にわたり、一心不乱にただ一つの意志を成就するために食べ、飢え、一身に力を尽くした希望の性格を見習うべきです。そして、死の道を歩むべきであったイエスの哀れな心情を感じる必要があります。

イエスは地上の信じない人々のために悔いの涙を流す生活を送られました。それだけでなく、天国にまで行かれて涙を流し続けた事実をあなたは知らなければなりません。このようなイエスの内面的な感情を通じて、内面的な性質の理念を理解し、内面的なイエスの生活の姿を理解し、涙を流してもまだ足りないと感じる必要があります。また、涙が若くて、骨と肉が融けるような悲しい心情を受け継ぎ、性格を通じて、心と意志を通じて、イエスのすべての愛と人格を通じて表現できるようになるとき、そこからあなたがたは天敵的な関係を中心にしてイエスと一体となることができるでしょう。

そのような心情を感じるあなた方なら、死の淵から救ってくださったイエスに対して感謝の気持ちを感じるでしょう。そしてその感謝の心をあなた方の心と体に満たしても、地上や天空に満たしても足りないと感じることになるでしょう。

それでは、イエスはどれだけの悲しみを感じられたでしょうか。あなた方はそれをよく知らないかもしれません。イエスはアダムの罪と共に失われた天地が崩れるような悲しみを和らげるために、そして人間を探し求める神の意志を代わりに実現するために来られましたが、自分を送り出されたその意志を果たすことができなくなったとき、アダムと共に失われたものを神が感じた悲しみを感じられたのです。

今日、歴史的な贖罪を成し遂げなければならない人々は、神を失っても悲しみを知らない人々になり、花婿であるイエスを失っても悲しみを知らない人々になりました。また、自分には神の悲しみを慰める責任があることも知らない人々になりました。あなた方もそのような立場にいるのであれば、あなた方が父を呼んでも神は現れないことになるでしょう。

だからこそ、イエスの言葉が虚無の言葉ではないことを理解する必要があります。イエスは真に神に対して「私の父」と言ったように、心を尽くし、意志を尽くし、性格を尽くす人がいれば、天と地が感動するでしょう。

したがって、あなた方は歴史を超えてイエスと聖霊の心情を同情すると同時に、6千年前に神が悲しんだ心情を同情して神を慰める真の子女となるべきです。そのような人となることで、イエスが望んだ愛が実現されることをあなた方は理解する必要があります。今日、私達は個人的な価値観と歪んだ人生観を持って天を直視しています。

しかし、本当に心を尽くし、意志を尽くし、性格を尽くし、力を尽くす私になれば、父を呼ばなくても父が訪れ、主を呼ばなくても主が訪れて私を抱きしめてくださるでしょう。

そうした状況で、あなた方が父の愛を感じると、心と体全体がその愛に浸り、喜びに満ちた場に入ることができることを意味します。また、そのような父の愛と心情を通して、鉄が磁石に引かれるように、あなた方も神に似た存在になることでしょう。その時には、愛を中心とした関係によって、この世界のすべての人々の前に愛の実体として現れようとされたイエスの約束された王国の理念を実現できるでしょう。そのような人が三人でもいたならば、イエスの時代における人類の完全な復活の歴史は始まることができたでしょう。

イエス様は、「他人を自分自身よりも愛しなさい」と言われた言葉を抱え、4千年にわたってイエスを立てるために努力された神を代わりにし、イエスと聖霊を代わりにできる三人の人々が、神の意志のために死ぬ覚悟をもち、イエスを信じて従っていたなら、悪魔は自然に服従していたことでしょう。

それゆえ、イエス様は三人の弟子を呼び寄せ、難しいときでも幸せなときでも、これらの弟子達を連れて歩かれたのです。しかし、このような三位一体の歴史を代わりに成し遂げるためのこの天仁的な宗教の意図に、無知な弟子達は気づかなかったのです。ですから、あなた方は知恵を持つ必要があります。神の意の知恵と知識を備え、天的な内容を明らかに知ることができるような知恵ある人々とならなければなりません。また、イエス様に従いながらも、イエス様の深い意図を理解できなかった使徒達と同じ立場には立たないようにしなければなりません。

私達は主に呼ばれ、選ばれた教会と神の意志の前で、一生を捧げて天の栄光を現すことのできる人になるべきです。そのときに初めて、イエス様の望みであった天国が地上に現れ、地上で敵であるサタンを自然に服従させることができるでしょう。同様に、神と共に楽しむことができ、神の愛を独占することができる子ども達が現れ、サタンからも崇拝されるようになることを望みながら、三位一体は歴史を作り、多くの先達者達が努力してきたのです。

そのため、天の数々の聖人と天使達、地上の聖人達によって、天に対する性格を中心にし、サタンを服従させて天の栄光を歌わせ、回復の目的のために地上に彼らを動員することができる一つの人格の実体が地上に現れなければなりません。

そうすることで、イエス様の望みと愛を実現し、地上での永遠の神の愛の支配の中で喜びを感じることができるようになります。


<祈り>
 嫌な立場で偏った生活をしているにもかかわらず、自分自身はそうではないと思っているかわいそうな私達に、この時を通じて自己を知らせていただけるようにお願いします。父よ!私達はいつか自分の心と意志と力を父様に捧げたことがあったでしょうか?人類、民族、国家、世界、天宙を代表してそうしたことはなかったと思います。もしそうだとするなら、自分を悔い改め、父の前で自分の不足を感じることのできる子供達となるようにお許しください。

今、私達は分かりましたので、私達のすべての生活を誠実に捧げるべきでしょうし、私達に備わっているすべての力を捧げるべきであり、私達の身体と心を捧げるべきであり、私達の性格を捧げるべきでしょう。

神の意向を理解しながらも、私達はまだ足りないところがありますが、天に捧げるべきものを使い果たしてしまい、無頓着な生活を送ってきました。私達の不足を容赦してください。

これからは、私達は天の意志を成し遂げるために努力されたイエス・キリストを見習って、心の面で全てを純粋なものとして父の前に差し出すことを約束いたします。愛する父よ、私達を祝福し、切に願います。

父よ!この日から、イエス・キリストの心を見習い、生と死を問わずに天を慕い求めるイエス・キリストの心情を体感する者達となることを許してください。

新たな愛を中心とした天の性格と意志を見習う私達が、愛を中心に据えたイスラエルとなるように導いてください。愛を中心にした天国の生活を営み、天を宿すことができるようにしてください。それは天が楽しむことであり、同時にイエスと聖霊が楽しむことであり、多くの聖徒が楽しみ、全地のすべての生物が永遠に楽しむことのできる理想の世界を築くための聖徒として、真の勝利の花嫁となるために悟ることができない者達として目覚めることなく、願っております。

今こそ、私達が悔い改めて涙を流すなら、世界的に涙を流すように導いてください。心を尽くすなら、宇宙的に尽くし、意志を尽くすなら、宇宙的に尽くし、性格を尽くすなら、天的なものとなり、それでも足りないと感じさせながらも、私達を導いてください。

また、私達は純粋なものとして差し出す生活を送り、個人的なものを集めて種族、民族、国家、人類を代表して捧げる栄光を得ることができるように導いてください。新しい心と体を整えて、父の前に進むことができるように導いてください。熱望して、すべてのことをおお願いいたします。アーメン。




文鮮明先生御言葉選集 2 - 5. 天が望む良い実りが得られますように  (1957年 3月 3日)
1957年3月3日(日) 本部教会 
聖書拝読 : ガラテヤ6:1-10

<祈り>
愛されるお父様!いいえ、行くことを望まない場所、行くことができない孤独な帰還の道のりにおいて、堕落による運命の重荷を引き受け、行く者は果たして誰でしょうか?

かつて人類の祖先の堕落により、お父様は怒りを抱かれるようになり、人々の心にも憎しみが残るようになりました。また、ユダヤ民族の不信仰の罪により、この憎しみは世界中にまで広がってしまったことを知っております。このように憎しみの訴えが天地に響いている今、私達に進むべき道をお父様が開いてくださることを切に望み、願っております。

お父様が導かれる道を歩むためには、まず私達の命が休息できる場所を見つけなければなりません。そしてその後、私達の体と心があなたの安息の場とならなければなりません。そして私達が求めるお父様の愛が私達の体と心に宿るべきであることを知っております。慈悲深いお父様、愛のお父様、寛容なお父様、私達の中においでになり、あなたの御心を示すために尽力される私のお父様よ!この取るに足らない群れが、汚れ、傷ついた体と心をそのまま抱えて、恥じ入りもせずお父様のひざの前に出て参りましたが、容赦してくださいませんか。

お父様が私達を赦してくださらない限り、私達の進むべき基準を示してくださらない限り、私達のような哀れな者は存在しません。お父様! ここに集まった群衆は、お父様が望まれるように生きるため、天を仰ぎ見ながら熱心に願い求める子ども達であり、生涯の選命を歩むために全てを捧げても、厳しい風に煽られる幼い子ども達であります。

お父様よ!私達にとって、永遠の理想もお父様であり、永遠の希望もお父様であり、永遠の命もお父様でした。今日の私達が直面する状況をご存知で、私達の望む全ての願いをご存知のお父様、直接的な導きがなければならないことを私達に示してください。

まず、お父様の導きを受けるための本質的な要素を備えた私達になり、お父様の言葉と使命の中で私達の体と心が捕らわれることを許してください。そして、私達があなたの栄光の前で屈することができないような直接的な力の導きが現れるようにしてください。また、私達の全てを主管して、お父様が容認できない罪の根を私達から取り除いてください。愛するお父様、切に願い求め、願っております。

死の波が私達を襲おうとしています。このすべてをお制止いただき、私達を摂理の組織として、あなたが導かれる道の基盤となるものにし、私達全員があなたの側に立ち、悪に立ち向かい勝利する種族となることをお許しください。

この日は聖なる日です。広く存在する子女達が、あなたの前に礼拝するために集まる場所ごとに、あなたの慈悲と愛の手を示してください。

急ぎ選ばれた者達を呼び寄せ、6千年にわたり父なる神の前に敵対の立場にある悪しきサタンと戦い勝利し、帰ってくることができるあなたの真の子女達となるために、一堂に集まることをお許しください。そして、一つの意志、一つの愛、一つの心を共有し、互いに譲歩し、和解し、助け合える私達となり、あなたの望まれる喜ばしい楽園を築くことができるように許してください。切に願い求め、祈っております。

お父様と共にいてくださり、過去の一週間、あなたが許容できない不完全さが私達にあったとしても、お許しください。また、私達の内に秘められた個人的な憎しみがある場合は、それを取り除いてください。自己中心的な心、意志、考え、信念が残っているでしょうか?お父様よ、あなたの力として現れ、ただあなただけが支配し、説明し、私達全体の心を再び形作り、あなたの姿に似た私達となれるようにお許しください。切にお願い申し上げます。

残りの時間もただあなたに委ねます。誠意をもって、意志をもって、この場に臨む時間を通じて私達を導き、導いてください。あなたの御名においてお祈り致します。アーメン。


<御言葉>
神様はすべてのものを創造されたのは、神様が善の本質となる人間とともに、それらを見て楽しむことのできる日を迎えるためでした。しかし、人間が堕落によって神様を喜ばせることのできる善の実を結ばなかったため、神様の意志や万物の希望はかなえられず、人々の望みも叶わなかったです。そのため、この世界のすべての生命は、常にその善の実が現れることを願っていました。さらに神様も、人間達が善の実を結ぶことを望んでおり、そのために今もなお計画を進めておられます。

善の実を求める神様

神様の心を探ると、その中には神様の悲しみがあり、神様の関心が残っており、今日の人々に対する神様の計画が続いていることがわかります。そのため、私達は神様がまだ創造の理想である善の実を見つけ出そうとしていることを理解できます。

今日、私達信者が、このような神様の立場から立ち、神様の内なる心情を共感し、神様の望むとおりに収穫され、神様が誇りに思える善の実の一部とならなければ、神様の意志が成就せず、神様の失望と悲しみを取り除くことはできないことを皆さんも理解しておくべきです。

神の悲しみとは何でしょうか?それは、すべての創造物が善を追求できるように正しい方向性を持ち、すべてのものを支配できる善の実現体である真の人間が存在しないことです。したがって、人間は神の前で生け贄となり、天の父の内面を表現できる善の実現体となるべきです。その中でも、神の祝福を受ける最も代表的な人物が現れるべきです。

現代の私達の信仰する聖徒の中からこのような人物が出てこない限り、神がイエス・キリストをこの地に遣わし、神の計画を成就させる意味も、イエス・キリストが聖霊を送って業をなす意味も全て虚無になるでしょうし、先人達が苦労の中で闘いながら勝利の日を待ち望んできたそのすべての努力も虚無になるという事実を皆さんは心に留めておく必要があります。

それでは、今日の神が求めているものは何でしょうか?終わりの時の全ての民を代表して、善の実体を具現化した一人が裁きの前に立ち、「神の願いはこうであります。善の実体理想を達成することです。そのような実体を具現化した私をご覧になり、天の御心を解き放ち、裁きの行為を停止してください」と言える一人の人物を神は探し求めているのです。

このような神の心にかなう善の実体を築き上げることができないのであれば、神にとって喜びもありえず、したがって栄光も享受することはできません。神に喜びがない限り、すべての創造物にも喜びはあり得ず、神が栄光を享受できない限り、どの人も栄光を享受することはできないのです。このような運命の中で、人生の道を切り拓いて進んでいく使命が今日のすべてのキリスト教徒にあるのです。

この立場から、神の意志の前に、先人達の前に、そして真の宇宙的善の実現体を収穫されるお父様の前に、私は立ち上がり、神と同じ心情で万物を見つめ、神の計画を思いやることができる存在としての私自身にならなければならないのです。しかし、本当に今この時、私自身は神が求める内なる基準にかなう善の実現体として現れたのでしょうか?私達はこれを自問し、自己反省すべき時が来ています。

現在の時は、人類の堕落によって悲しまれる神が6千年の歴史の後、審判という条件を設けて、異なる御園で善の実を収穫しようとする審判の時であると言えます。

聖書には「人は何を蒔くかにかかわらず、同じように刈り取られるでしょう。」(ガラテヤの信徒への手紙 6:7)という言葉があります。

神はアダムとエバを創造した後、彼らに愛を注ぎ、代わりに秘かなる知識と善を取り戻す日が永遠に続くことを願われました。この神の意志と希望は絶対に達成されるべきものでしたが、アダムとエバの堕落によってそれは実現されませんでした。そのため、神はその希望の実現のために、4千年にわたる歴史を経てイエス・キリストを果実として送られることとなりました。

神の意志を実現するためにお送りになったイエス・キリスト

このイエス・キリストはどのような方でしょうか? イエス・キリストは天の意志と地の意志を解決し、善の実体となることのできる方として来られました。そのため、神の前で誇りに満ち、天を代表し、地を代表することができる、神が望まれた理想的な善の実体としてこの世においでになり、生涯を通じて本来の善の収穫物となり、神にささげることが彼の使命でした。そのような使命を持っておられるキリストは、人間の不信仰のためにゴルゴダの丘で十字架を背負い、犠牲の供物となったことによって、実現できなかった善の収穫が行われるべき方となったのです。

そのため、イエスは未だ実現されていない神の意志を抱え、神の本来の意図が再び地上で成し遂げられることを願い、長い年月を通じて祈り続け、この意志を成し遂げるために必ず再臨されることを私達は理解する必要があります。

このようにイエス・キリストは、神の善の対象として救済されるべき民のために来られました。そのため、彼にはこの地に来て悪魔を追い払い、滅ぼすと同時に、神の代理人として神の理想を実現する使命がありました。そして、イエス・キリストは神の目にかなう喜びをもたらす人生の過程を進むべきでした。したがって、イエス・キリストはその使命を果たすために帰られるのではなく、生きている間に達成されなければならないものでした。

イエス・キリストが生きておられる間にこれらのことを成し遂げていれば、今日、私達は再臨を待つ必要がなく、その時点ですでにイエス・キリストを中心にした人生の過程を通じて、神の目的である善の収穫が達成されていたことでしょう。もしそうだったら、キリスト教徒は2千年間、再臨を待ちながら苦労し、祈りの生活をする必要はなかったでしょう。

今日、私達はイエス・キリストが神の使命を遂行するためにこの地で歩まれたその足跡を見習いながら、イエス・キリストが設定した目標と生まれた目的の両方を必然的に実現しなければなりません。今、私達は生命を捧げてでも神の意志を実現しない限り、神は私達を善の実現体として収穫することはできないことを理解しなければなりません。

神は人間を霊的な世界だけで生きる存在として造ったのではなく、この地上で実体を持ち、霊と肉が調和する生活を送るように創造しました。それは人間の霊が神とともにいて万物を支配し、肉体において霊的な存在と肉体的な存在が調和することを可能にするためでした。これが創造の法則です。したがって、4千年の歴史の後、善の実現体としてこの世においでになったイエス・キリストも、ただ霊的な王だけでいてはならないことを理解するべきです。

イエス・キリストは愛する弟子達に、天と地の法則の秘密を明らかにし、教えたいという熱い願いを持っていました。しかし、当時、イエス・キリストのこの熱望を理解し、その意志を引き継ぐ適切な人物がいなかったのです。そのため、勝利の時を望みながら進んでいくイエス・キリストには、語ることのできないほどの苦悩が心に押し寄せていたことを理解する必要があります。

人間のために来られ、人間とともに共感しようとしたイエス・キリストが、人間に対して共感を伝えることができなくなったため、神はイエス・キリストがこの地の人間と共感するために願っており、そのために2千年という長い時をかけて御業を遂行されているのです。

アダムの堕落から約4千年の歴史が経過した後、イエス・キリストはついに神の意志を成し遂げるためにこの世に宇宙的な善の実体として来られました。そのために多くの犠牲を払い、神を奉仕するために自己を捧げられました。また、私達にとってイエス・キリストは苦難と苦しみと労苦の象徴です。イエス・キリストが残したすべての善の実りを私達は霊的な側面だけで求めてはいけません。それは「あなたが地上で何を束ねるかは、天でも束ねられ、地上で何を解くかは、天でも解かれるでしょう」(マタイ 16:19、18:18)というイエス・キリストの言葉と合致するものです。

私達には、個々のものではない共通の願いがあります。それは神の願い、イエス・キリストの願い、聖霊の願い、そして先人達の願いが交わっています。神は6千年の歴史を通じて、人々が自己認識して善の犠牲として差し出せる日を待ち望まれてきました。その理想が成就される時が再臨の時であり、今がその時なのです。

善の根源、愛の根源、命の根源

それでは、善の実現体として収穫されるために来られたイエス・キリストがなぜ帰られた後、再臨を望み、この地上の人々に実践的な信仰を要求し続けているのかを理解しているならば、あなたは試練や苦難、闘いが前に立ちはだかっても、この道を最後まで進み抜く覚悟を持って戦い続けるべきであり、また、自己中心的な生活ではなく、この世界の人々のために行動する必要があることを理解するでしょう。

しかし、これまで人々は自己中心的な生活を送り、自分だけのために行動してきたため、神はそのことを嘆かれています。今日、私達にはそのような生き方をしてはいけないということです。

一日一日の短い生活を通じては自分を中心に置き、行動することができるかもしれませんが、一生を通じて自己を中心に置く基準を見つける必要があります。言い換えれば、日々の生活を通じては直接的に全ての関係がうまくいくかもしれませんが、一生を通じて自己を中心に置いて生きる人がいれば、その人は神に善の実を捧げることはできません。

したがって、あなた方は一生を通じてイエス・キリストと神の親子の関係を結び、その中心を見つけるために苦難を耐え、すべての困難を乗り越える土台を築かなければなりません。もしあなた方がそのような基盤を築かない限り、希望し、イエス・キリストが望まれてきた善の実りをこの世で得ることはできません。あなた方自身だけの人生の過程では、善の基準を確立することはできません。

なぜなら、この世界には良い言葉があり、善良な人々が存在するように見えますが、まだ善の源であり、善の父となる人は現れていないからです。愛や善、命などと言ってはいますが、彼らは皆、自分自身の人生を基準にして話しているのです。善の根源、愛の根源、命の根源が、自分の心を通じて、体を通じて、生活を通じて、一生を通じて自分に入ってきて、自分がその本質と調和できる基準となるまでは、善の実体にはなり得ないのです。

イエス・キリストは宇宙の万物、つまり無数の宇宙の創造主として来られましたし、この世界のすべての生命の源となられた方であることを理解すべきです。そのため、イエス・キリストはこの地上で真の命の根源を見つけることができなかった人々に対して、善の源となってくださりました。また、イエス・キリストは神の計画が不透明な人間社会で、神の意志を実現するための基準を導くためにこられました。

イエス・キリストも霊的な側面と肉体的な側面を持っておられたため、内的で霊的な出来事と外的で肉体的な出来事があったでしょう。したがって、その生涯においても内的な生活と外的な生活があったでしょう。イエス・キリストはこのような生涯を通じて内外の調和を持ち、生命の中心軸を設定し、この地上で神の意志を実現するための基準を確立し、希望された目標を達成するために活動されました。

イエス・キリストはその使命を果たすために適切な生活を送られましたが、その目的を完全に達成されなかったため、再び来られるために2千年を待つ必要があったのです。もし当時その目的が完全に達成されていたならば、聖霊とイエス・キリストと神は私達と共に生活していたことでしょう。

今日、私達が神とイエス・キリストと聖霊から受け継がなければならないものは何でしょうか?この世の人々は、イエス・キリストが望まれて立てられた具体的な善の理念を受け継ぎ、それが自身の体と心に通じ、神の心にまで通じる善の概念、善の宗教、善の基準を確立しなければなりません。そのようなイエス・キリストの善の理念の根底にあるものを持つと、どれだけ切り取られても新たな芽が出ることができるようになります。

私達信者は、そのような善の根底が何であるか、神の愛の根底が何であるか、神の命の根底が何であるか、そして神が立てた計画の根底がどこにあるかを理解しなければなりません。そのような根底を失った人々の人生では、時間性と空間性を超えることはできません。しかし、今日私達が時間と空間の制約を受けている立場から、これを超えて善との永遠の関係の中で生きることができる善の根底を見つけ出すならば、私達は時空の世界を超越することができるでしょう。

同じ根から同じ実を結ぶ

善は始まりと終わりが一つとして現れるものです。そのような立場から、神は「私はアルファとオメガであり、始まりと終わりです。」と語られました。これは根源となる善の本体と地上的な実体が調和するとき、根源となった神が永遠の命を持つならば、私達のような枝葉であるものも永遠の命を持つようになり、神が永遠に善であるならば、私達も永遠の善となり、神が永遠に喜ばれるならば、私達も永遠に喜ぶことができるということです。私達がそのようになれていないのは、神の地上的な実体となることができなかったからです。

ですから私達は、善の親であるイエス・キリストと聖霊を信じ、新たな生まれとして、彼らと一体となり、神の内的であり霊的な理念を外的で実体的な活動に表現していく必要があります。

今日、私達が善の実体となるためには、再臨する主と一体的な関係を持つ必要があります。言い換えれば、神と一体となった心情を持ち、この地上においてお越しになる主を信じて迎え入れる人は、その主と同じ善の実を結ぶことになるのです。そのような事実を知らず、その基準を見つけることができない者は、永遠の喜びや永遠の命、そして永遠の愛を見つけることはできません。

私達はこのような道を見つけ出し進んでいかなければならない運命を持っています。この道はイエス・キリストが人々に示そうとしたが、達成できなかった道であり、イエス・キリストが去った後、現在までに2千年以上にわたって数多くの預言者達が切り開いてきた道です。

現在、私達は終わりの時が近づいていると言っているこの時に、皆さんにとって何がすべきことなのでしょうか?それは善の収穫の実体となることです。もし皆さんが善の根源であるイエス・キリストによって収穫される一つの実体として立つことができなければ、皆さんはイエス・キリストや聖霊、そして神とは何の関係も持たなくなるでしょう。

人間がどのようにして善を失うようになったのかは、昔のアダムとエバの立場を振り返って見ればわかります。アダムとエバはこの地上で人類の祖先として負うべき責任を忘れました。この宇宙的な使命を果たさなかったために、彼らは善の根源を失い、その後の子孫達に対して道を外れた生活を送らせる結果となりました。

こうして自らの責任を忘れ、その責任を果たすことができなかったため、アダムとエバは堕落してしまい、すべての人々も堕落の重荷を背負うこととなりました。そして、それぞれが背負うようになったこの重荷、全ての生命に影響を及ぼすこの重荷を解くことが帰還の歴史です。

アダムとエバは、神が設けた天律という法の中心を守ることにおいて、どのような干渉も受けることはありませんでした。ただし、神との絶対的な関わりだけを持ち、誰であろうと天の法を守り、委ねられた責任を果たす高貴な位置にいました。

アダムとエバだけでなく、天使達にも守るべき天律の法と進むべき道、担うべき責任と使命がありました。しかし、彼らはこれを忘れて行動したために堕落が生じました。こうして堕落の影響によって人間が背負うこの重荷を、イエス・キリストがおいでになって受け、解き放ちたいと願っています。私達にも、イエス・キリストを通して解かれるべきこの重荷が、聖霊と協力して解くべき責任として残っています。

私達がこのような責任を持つ終わりの時代の聖徒であるならば、自己がイエス・キリストと結びつき、聖霊と結びつく心情の中で、彼らと同じ内容の責任を担い、日常生活や社会生活、または理想的な概念までもがこの基準に従って進行する必要があります。神は人間に祝福を与えて、その実りが実現することを長い歴史の間、願っておられます。そしてイエス・キリストを通じてその御心を達成しようとされましたが、イエス・キリストが十字架にかかり、その御心を完全に達成できなかったため、再びその御心を達成するために歴史を進行中です。この過程で、サタンはこれを妨害しようとする戦いを続けています。こうしてサタンの挑戦に立ち向かいながら進むことが、堕落によって生まれた帰還の道です。

もしアダムとエバが堕落しなかったなら、個々の人の責任は個人が背負うだけで終わっていたでしょうが、彼らが堕落したために、すべての人間には自分が負うべき責任が加わると同時に、サタンとの戦いに立ち向かう責任も加わることになったことを知るべきです。つまり、堕落がなかったなら、人間は自らが担った責任だけを果たすことによって神の喜びを自分の喜びと感じ、実りの体現を実現できたでしょう。しかし、人間が堕落したためにサタンと戦わなければならない責任も背負うことになったのです。これが人間の運命です。

自分が背負う帰還の重荷、この重荷を背負い進むためにも、天地万物の苦難を経験しなければなりません。ここには自己を狙う敵、サタンが存在するため、これらも打ち破らなければならないのが人間達です。イエス・キリストが戻られたことで、神の希望が絶たれました。しかし、イエス・キリストを代わりにし、イエス・キリストが達成しようとされた生涯の目的を達成した勝利の実体が現れ、神が直接、彼らの頭に手を置いて、「あなたは永遠に私の愛する子です。」と祝福を与える日まで、私達はどの宗教を通じてでも、彼に出会い、彼を迎えるための扉を開かなければならないのです。私達はまず、宇宙的な力を育てる必要があるでしょう。

今日、私達には国家的な回復の過程、世界的な回復の過程において、歴史を超越する神の善の実体であるイエス・キリストと関係を築く使命があります。また、回復の責任を担い、その善の実体と関係を築き、天のために戦う息子や娘とならなければなりません。そのような人は終わりの時代に差し掛かっても、何の条件もなしに審判を受けることになります。

また、私達がイエス・キリストと友達になるためには、彼が成し遂げられなかった仕事を成し遂げ、彼の生涯の間に彼が望まれた御心を担う位置に立たなければなりませんが、今まで自分がそのような使命を果たしてきたかを反省する必要があります。イエス・キリストが再臨するまで、霊的なイエス・キリストと聖霊はこの世界の堕落した人間を新生させ、本来の命に戻す歴史を進めています。そのような過程を経た人は審判の時を順調に通り抜けることができ、神はその審判を充分に押しのけてくださることになります。

したがって、私達は自分達が創造的な生命の道を歩み、善の実体としての実りを実現しなければ、主が憐れまれた苦しみよりもさらなる苦しみを感じることになることを認識しなければなりません。

一粒の種さえも秋に収穫し、寒い冬を越えて春を迎えて初めて芽を出すことができます。同じように、終わりの時代に生命の本質を立てるために努力する人々には、一方で生命の本質と善の本質を混乱させる力が働くことになります。すなわち、大荒れの嵐が天地に吹き荒れる冬があるように、終わりの時代を迎えた人々にも生命の血が凍りつき、聖霊の働きが停滞し、社会の活動が麻痺する局面が訪れることになるのです。

そのような世界を通り抜け、それに勝ち得た実績を持ち、天国的な中心と生命と愛と善の根源と調和した実体を備えていなければ、世界全体が恐怖に取りつかれ、中心を失い、混乱に陥ることになるでしょう。

そうなれば、二つの習慣が混在している人々は、分別力のある視野を混乱させ、その中でサタンが現れ、人々の生命を奪おうとする恐怖の時代となるでしょう。そのような時に備えて、私達は確固たる中心を築き、そうした要素を克服し、すべての敵意を解消する生命力を備えなければなりません。

こうして神の愛の膝の中で実を結ぶ生命を見ない限り、それは成長している状態で春や夏を迎えるのではなく、秋や冬を迎える立場となることでしょう。今、人々は6千年にわたる歴史を経て宇宙的な善の収穫の時に差し掛かっています。

このような時、皆さん自身が善の種となる可能性を持つキリストの神授された資質、すなわち神の意志に適った人格を備え、また責任を果たす能力を持つ実体でなければ、新しい季節を迎えて永遠の不滅の命の種としてまかれることはありません。

したがって、私達は困難な状況が生じた際には、神の立場となって嘆き、天に対して憂い、天に対して心を寄せる姿勢を持ち、神に対して「父よ、私は他人の願わない不快な仕事を担当する者となります」と祈ることができる子女となるべきです。

善を築き、求めて行く神

6千年にわたり、父、子、聖霊と闘い、また神の計画を見守りながら攻撃の隙間をうかがっていたサタンは、今日では自身の味方を総動員して一斉に攻撃しようとしています。そのような時にこれに立ち向かい、阻止できる子女達がこの地に現れましたか!そうでないため、神とイエス・キリスト、そして聖霊の憂いがこの地に充満しているのです。

このような場で、私達が本当に創造的な理想を打ち立て、出て行く神の意志を理解するとしたら、本当に堂々と立ち上がり、自信を持って前に出ることができるでしょうか?私達はこれでも足りず、あれでも足りないと感じながら、神の使命を担い、また4千年にわたる歴史を担い、戦ってきたイエスと聖霊の立場から、何百万のサタンを自信を持って撃退できる力を備え、6千年間の闘いの歴史を終わらせようとするイエスと聖霊のサタンに対する戦いに参加し、いつの間にか勝利の分かれ道を広げていかなければなりません。

今までこうした風土を築く任務を担うことができる人々はいくついましたか?そうした人々がいないため、神の深情を理解していないのが今日の聖徒達の現状です。

今、ここに集まった皆さん!他人ではない道、他人が行くべきではないこの険しい道を歩むために私がお導きする気持ちを理解していただきたいと願います。皆さんができる限り、どうかどうか神が望まれる場所まで進み、責任を果たせる人々となってくださることを願います。また、神がイエス・キリストを通して遂行しようとされる意志が残っている限り、その意志を成し遂げるために最後まで責任を果たせる人々となってくださることを願います。

皆さんは互いに兄弟姉妹のように愛し合い、励まし合い、互いに責任を担っていける人々となり、個人的な責任、民族的な責任、そして世界的な責任を全うする必要があります。

こうなれば個人的に不足感を感じることがあっても、皆さんが深刻で熱心な心情になったときでも、仲間達が救ってくれることで、神の手が届かずに望むことが実現される喜びを味わうことができるでしょう。今、神がそのような人に感じさせてでもあなたの意志を知らせてくださる時です。

これまで6千年間にわたって忍耐し、受け入れてこられた神の意志を成し遂げるために働いている最中に苦難に見舞われたとき、「私を助けてください」と懇願できる仲間達を多く持っている人は、神の支えを受けることになります。

今日、神が支えられないことはもちろん、イエス・キリストや聖霊さえも支えられない立場にある人を通じて意志を達成する必要があるため、この地上の人類を見ることができない神の多くの心を知る人がいれば、涙を流しながら悲しみを分かち合うでしょう。しかし、そのような心情を持つ人でも、天地の神の悲しみには届かないでしょう。このような宇宙的な対立の根源が残っていることすら、人々は知らないのです。

皆さんは自分の力で神の前に進むことができない場合、忍耐強い仲間達に頼って進むことを知っているべきです。人々が良い友達、良い先生、あるいは良い牧師に出会いたいと思っているのも、実際には良いものと良くないものを区別し、宇宙的な良い成果体と関係を結び、悪いものからは別の道を選び、足跡を急がせることを望むからです。

自分の決意、信仰、生活を通じて、他の人々に神の国を感じさせることができれば、そのような生活を見た人々もそれを追随するようになります。イエス・キリストが神に従って犠牲にされたように、皆さんも神の業を行う人、つまりそのような牧者や指導者に従う必要があります。しかし、あなたを導く人が神の意志に反している場合、あなたがその人を代わりに天に忠実でなければならず、イエス・キリストを代わりに祭壇を担当し、自分自身が犠牲にならなければならないことです。このようにして責任を果たす場を通過していかなければならないのです。

皆さんは今、自分が背負っている重荷がどれほど重いかを理解する必要があります。今でも聖霊には悲しみが残っており、イエス・キリストと神にも悲しみが残っています。したがって、私がこの悲しみを和らげることができる存在になれない場合、私は天の父の前で恥じるべき存在になるでしょう。

神が導く道を開く人

今、私達の努力はこれまで神、イエス、聖霊が戦ってきた努力を上回り、善の結実として収穫される可能性が見え始めています。したがって、私達がそれに相応しい存在にならない場合、神は再び悲しい出来事を経験されることになるでしょう。

自分の責任を果たせずに悲運な歴史が続いているにもかかわらず、この事実を知らずに眠っている多くの人々がいます。しかし私達は神に対して、「父よ、誰がこの仕事の責任を負うでしょうか?私は最初にあなたの意志を知りましたので、私だけでもこの仕事の責任を負いたいと思います。」と言えるようにし、またそのような決意を持つことが重要です。このようにして、地上で実際に暗黒の勢力と平面的な戦いをし、そして立体的にサタンと戦ってきたのが、これまでの聖徒達の歴史でした。

今日、人々はさまざまな宗教を信仰しています。そして他人に自分が信仰する宗教を奨めていることもあります。しかし、その信仰の内容を見ると、常に善と正義を築き上げると同時に、攻撃してくるサタンの勢力を防ぎ、自己を破壊しようとするどんな邪悪な挑戦にも折れない信仰が求められています。そのような信仰の実体をもって結実すべきは、皆さん自身です。

イエス・キリストは歴史的なあらゆる罪の歴史を一代で清算し、新たな歴史の起源を成し遂げるための責任を一人で担当し、神の国を建設するためにイスラエル民族の守護者として、神に「敵の罪を私に負わせてください」と祈りながらその意志を実現しようとしました。

イエス・キリストのそのような意志は、今日まで世界中で広がっています。今日でも韓国の教会を代表して、「神よ、私にこの世界のすべての罪を許し、命を捧げて敵であるサタンと戦えるようにしてください。」と祈り、立ち上がれる息子や娘が多ければ、神の計画の歴史的進展は、この国を通じて成し遂げられるでしょう。

私達は他の人々が知らない中で、神の事情と意志を理解したなら、責任感を持って、ゴルゴダの丘で倒れることがあっても、再び立ち上がって歩んでいたイエスの運命の道を歩み、十字架の道を模範にして勝利を勝ち取って行くことができる、神の真の息子や娘になるべきです。

そして、私達は今、この国を代表してこの道を歩むべきです。進んで世界を代表して、最終的な審判の場に立ってもいい、私達がなるべきです。皆さん、私達の教会が孤独な道を進むとしても落胆しないでください。私達が罵られ、犠牲を強いられ、自分自身が死ぬ場所に立たされるかもしれませんが、そのような私達のおかげで、この国が生きる道があるのであれば、私達は喜んでその道を進むべきです。この道だけが、この国と私達自身の生きる道です。また、それは私達が果たすべき責任を果たし、神が私達に訪れる場を整える仕事です。

イスラエルの民が犯した罪を神の前で完全に償い、人間の前で完全に償い、またサタンの前でも完全に償っておいた後に、イエスの復活があったように、今日、私達にも乗り越えなければならない荷物があり、達成すべき目的が残されており、進むべき道が残されています。どんな反対があろうとも、私達は死を覚悟し、変わらない姿勢を持ち、―もう一度言いますが、「天地が変わろうとも、私だけは変わらない! 天地が動こうとも、私だけは動かない! また天地が混乱しようとも、私だけは混乱しない! この世界に、私に設定された中心が揺るがすことのできる、どんな創造物もない。」―私達はこのような変わらない自信と責任感を持った生け贄とならなければなりません。

私達がそのような生け贄としての責任を果たす姿勢を持つとき、宇宙的に経験すべき苦難を引き受ける条件が整い、ようやく望んでいたイエス・キリストを迎えるための最初の試練を乗り越えることができます。そして苦難と罪の世界を処理する基準を持つとき、イエス・キリストはようやく全ての人々の前に現れるでしょう。その後、全人類がこの地上で天倫(てんりん)を確立する責任を果たしたと見なすことができるのです。

歴史を超越した善の結実体

私達は、この国を責任を果たす国として立て、その目標を実現するための努力を歩み続けてきました。

しかし、私達がこのような道、つまり帰還の道を進む中で、私達の生活環境には闇が残っている場合、悪の本質、死の要素が潜在的に現れることになります。その闇は虚飾(がいしょく)する場所に現れます。したがって、虚飾は自己を破壊するものです。皆さんはそのような虚飾のために自らを破壊する立場に立ってはいけません。

天理の前でぞんざいに通り抜けようとすると、決して通過できません。それっぽいものを持っていても通過できません。そのような立場はかえって自己を罪の中に引きずり込むものとなります。それは自己を欺くものであり、聖霊やイエス・キリスト、そして神さえも欺くものであり、さらには全ての生きものをため息をつかせる要因となります。

したがって、皆さんがこのような場に立った経験があるなら、真の命令に従って恥じ入り、罪の意識を感じるべきであり、その後、神の前、イエス・キリストの前、聖霊の前、そして全ての生き物の前で、自分自身を映し出すべきです。自分の行動と生活が非の打ちどころのない姿で表れるようにしなければなりません。そのためには、虚飾を避けて自己を破壊しないような生活をすることが必要です。また、互いに依存し合おうとすることも悪の要素です。皆さんは自己を頼りとしようとする気持ちを抑えて、悪の要素が内に充満することを避けなければなりません。

イエスを見つめ、信じ、従うことは簡単なことかもしれません。しかし、斜めから侵入してくるサタンの挑戦をどうやって阻止するか、それは容易な問題ではありません。サタンの挑戦を排除するためには、まず自己がどんな挑戦にも破壊されないほど強くなければなりません。そのためには、天に向かう中心を自己の内にしっかりと築くために怠らない心が必要です。

こうして自己を破壊しない生活を送り、確信を持っているならば、ようやく神が人類に接近しようとする道が開かれるでしょう。このような使命を持つ皆さんは、今やその使命を軽視してはなりません。責任が残されている限り、どんな困難にも打ち勝ち、責任を果たすべきです。戦わなければならない運命が残されている限り、死を覚悟して戦わなければなりません。

今、皆さんがイエスが追求した善の目的が何であり、どのようにしてそこにたどり着けるかを知っているならば、そのような道を進むために、心と体、そしてイエスと聖霊の望みに相応しい生活を送るべきです。

そうしたあなたが、右側にはイエス・キリスト、左側には聖霊を立て、神の前で「神の父よ!私は父の望まれる御旨を遂行するためにサタンと闘い、勝利しました」と言えるようになるべきです。それによって神は、彼を通じてこの世の人々の前にイエス・キリストと聖霊の理想を立て、新しいあなたの使命を委ね、そして実現させるでしょう。その結果、神はイエスと聖霊を天国で安息させ、この地上においてその御旨を達成することができるでしょう。

地上の人々が証人として立つ者であるからと言って、そのまま彼が神の御旨を遂行する代表的な存在として立てられるわけではありません。まず最初に、イエスと聖霊が彼を通して喜び、そして彼が担った使命のために歩むことができるようになる必要があります。まだ達成すべき御旨が残っている限り、その御旨は必ず代表的な一人から立てられ、その一人から発した御旨が全体を通じて実を結ぶと、ひとつの宗教として結実し、その宗教を中心として先覚者達が集まるでしょう。

こうして選ばれた中心的人物に従って、永遠で宇宙的なカナンの福祉へ向かうことができるようになれば、それがまさにイスラエルの選民としての責任を果たすことになります。そのときに神は、宇宙的な怨みが漂うこの地上において、サタンの勢力を排除し、イエス・キリストと聖霊とともに願いがかなった喜びを享受し、すべての人々に神が感じる喜びを分け与えることができるでしょう。その結果、人類の中にある怨みまで和らげられることになるでしょう。

あなたは歴史の中で、全体が超えなければならない一つの難関を越え、また恨みが解けることを望み、それらが解決されて神に感謝し、礼拝することができるような位置まで進んで、歴史を超えた善の実体として結実しなければなりません。その結果、最後の日には、言葉に尽くせない恐怖と闘い疲れた怨み、つまり神とすべてのものと人類の怨みを担い、解決することができるあなたになっていただきたいと願います。


<祈祷>
 これらの若者達をお呼びになり、宇宙的な善の実を求めて努力されるお父様!私達は、それぞれがお父様の導きによって宇宙的な運命において善の実を結ぶべき立場にありながら、その事実を認識せず、想像すらしなかったことをお許しいただきますように。

今日まで私達は、この一つの道を歩みながら、図々しさもなく、嫌悪感もなく、傲慢で他人を軽視することもなく、自分自身の存在を忘れ、自分の責任を忘れた者でした。しかし、今私達は心と体が一つになった後、良心に引け目を感じずに立ち上がることができるその存在を通じてのみ、善の実が成されることが天人の道であることを悟りました。お父様、私達がその外道を歩むことができるように、私達の魂を目覚めさせ、導いてください。

もしご覧になると、ふさわしくない内容があれば、それを整えてください。それによって、ただお父様のためになる心情だけが私達の胸に迫り、お父様の心情が私達の生活を若々しくし、お父様のご心情が私達を導いてくださいますように。私の父よ、私達は孤独な息子や娘であり、また、すべての人々が果たすべき分を担当した者です。どうかお父様、私達の心を慰めてください。今日この時まで、お父様が一緒におられたことは、永遠の善の実体を備えるためであり、真理の主となられたイエス・キリストの導きを通じて私達をお父様の前に引き寄せるためであることを知っております。

それを成し遂げるためにお父様は努力され、歴史を進められてきましたが、私達はこれまでどのような生き方をしてきたかというと、何の意味もない日々を浪費しました。また、私達が責任を持とうとしたことや、理想的だったことはすべて虚しいものであり、自分だけのためだったことでした。

お父様、そのような私達ですが、今、あなたの業を託して励ましてください。また、お父様の歴史によって私達を再び立ち上げてください。この地で平凡な生活をしている私達に恵みを与え、立体的な存在となるあなたが来る主を迎えるために、百万のサタンの束縛から解き放たせ、永遠の勝利の基準となる子供達として私達を立ててください。

託された責任を果たし、お父様の前に勝利と解放と自由の国を築き上げて捧げる者となり、全世界がその前に頭を下げる喜びの日を達成できる者が、このつまらない存在の中から一人でも現れるように許してください。

統一教会の信徒一同が、この民族と共に、このような使命を果たせるよう助けてください。また、この地上にあなたが広げられる全体のご意志を、民族的にも世界的にも明らかにして、百万のサタンを追い払い、あなたの願いが成就するまで責任を果たせるようにしてください。お父様、熱心に願い、求めます。

今日のこの言葉によって、これらの人々に永遠の命を備えさせ、この言葉が心身に響き、思考と概念を刺激する言葉となり、信仰と生活を支配し、神を喜ばせることが永遠の生命の目標になるよう、彼らの心を動かしてください。これらの願いを込めて、すべての言葉を、主の名によって祈ります。アーメン。



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御言葉選集2(3, 4)

2023年08月21日 13時44分15秒 | 学習
文鮮明先生말씀選集 2 - 3.  イエス様のご希望になる人となろう
1957年2月17日(日曜日)、前本部教会
ヨハネによる福音書11:1-20

<祈祷>
愛の園と善の園を失われたお父様へ。長い歴史の中でお望みになった目的を見つけられず、真の人間性を見出せなかったお父様の困難な状況を、今日ここに集まった子ども達が理解できるようにお許しいただき、お父様の永遠の計画を達成し、愛に包まれて私達を抱きしめていただけるように、この時間に祝福を願います。

私達は、お父様からでなければ何も持ち合わせていないと感じる貧しい者達です。そのため、お父様の慈悲の手で私達を導いていただきたいと願います。また、先祖から受け継いだ罪と悪性の心が私達の心の扉を閉ざしていますが、お父様の力を示して暗闇の中にも光が差し込むようにし、善い道へと導いていただきたいと切に願います。

天の意志に向かって進みたいと望むあなたの子供達の前には、さまざまな困難が立ちはだかっています。お父様、力を授けていただき、能力の手で私達を支えていただき、お父様が戦われた戦いを私達に託して勝利できるようにしていただきたいと願います。こうして私達は、数々の困難にも立ち向かいながら、神の意志を高らかに賛美できる子ども達となることを熱望し、祈りを捧げます。

この瞬間、あなたのひざの前に立つ私達、お父様の前で捧げるものを自己反省し、認識できるように許してください。もしも父が喜ばれる贈り物がないとするならば、自己を省み、父の慈悲の賜物を受け入れることができるこのひとときをお許しください。愛するお父様よ、切に願い求めます。

天が私達に託した使命は、個々のための使命だけでなく、民族や人類のためであり、無数の信者達の願望までも解き放つべき使命であることを私達は理解しています。私達が貧弱な存在であるとしても、そのような神聖な意志を達成しなければならない使命があることを、この場で祝福されたあなたの子供達の身体と心を献げて、宇宙的な神の意志を達成し、その意志を成就させるのに何の不足もない存在として立ててください。愛の父よ、切に願い求めます。

まだお父様の意志の前に、お父様の賜物の前に、お父様の愛の前に耐えられない要因を持つ子供達がいるとしたら、お父様、歴史の力、再創造の言葉によって、これらの子供達にお父様の心を理解できなかったことに対する悔いの涙を流すことのできるこの瞬間に導いてください。愛するお父様、切に願い求めます。

私達にとってつまらない存在である私達に、三千万の民族を代表して戦う使命を天が託してくださったことに感謝申し上げます。意志を共にし集まったあなたの子供達が戦いの旗を掲げ、天に向かって進む宇宙的な責任があることを、私達は認識しております。お父様、どうか彼らにあなたの力を授けてください。

彼らが父の意志に向かって進むことができるよう、あなたの感動的な歴史と直接的な働きを通して、彼らの人生を通じて明らかにし、永遠に変わらない約束を目指して進む手助けをして下さい。そして、数々の敵と戦い、勝利を収め、すべての人々の前で共におられることを証明しつつ、彼らを導いてください。愛するお父様、切に願い求めます。

この日は聖なる日であり、祝福を授けるために約束された日であることを理解しております。今日ここに集まったあなたの子供達が、深く高いあなたの愛に包まれ、天賦の生活を送るために恵みを与えて頂けるよう、どうかお許しください。切に願い求めます。

孤独な家族が四方に広まり、あなたの許可された言葉を広めるために努力している各所で、お父様、お約束の御旨を現して下さい。それによって生きておられるお父様の子としての証を示し、暗闇の中にいるすべての人々を目覚めさせ、立ち上げる直接的な歴史が現れることをお許しください。愛する父よ、切に願い求めます。

今、お父様の前にひれ伏した私達が、お父様にふさわしくない信念や行動があったとするならば、それを自己でさらけ出し、尊厳ある父の恩寵によって清算を受けるために、謙遜な心を持って敬意を表すことができるよう、お許しください。

この時、悪魔が機会をうかがわないように、お父様、ご主導いただき、苦難を乗り越えて勝利できるよう導かれた父の賜物に感謝し、敬意を表すことができるよう導いて下さい。愛するお父様、切に願い求めます。意志と愛がこの一時に共に働いて下さることを切にお願いし、すべての御言葉を御名においてお祈り致しました。アーメン。

<御言葉>
今日はしばらくの間、「イエス様の望む人となろう」と題されたお言葉を持ちながら、皆様と一緒に考えたいと思います。

神の胸に隠されていた天の意志を代わりに受け入れ、この地上に現れたイエス・キリストは、私達の先祖たちが犯した罪の歴史を踏み越えて、その勝利の山に立つ真の子女を見つける為においでになった方である事を、皆様はよくご存知かと思います。

それでは、イエス様がこの地上の人々の前に現れる際、どのような心をお持ちになって現れられたのでしょうか? 堕落する前の人間が神に向かっていた心を持って現れられました。イエス様は、自分が見聞きし感じるすべての事を堕落の影響を受ける事なく、人間の本質を代表し、神が人間に対して望まれる全体の意志を受け入れ、その生涯の基準を設定し、新しい福音の言葉を宣べ伝えられたことを、皆様に理解いただきたいと思います。

イエス様がご覧になった眼、イエス様がお聞きになった耳、イエス様がお話しになった口、匂いを嗅ぎ取られた鼻、すべての感覚は、地上の人間が自己の欲望を達成するために感じる感覚とは異なっていました。それはただ罪の世界を超えて神の心に適い、神の意志に合致し、神が楽しむことのできる言葉を自己実現し、すべての人がその手本となって自己を高められる勝利の条件として設定されたものでした。

それでは、そのような心を抱かれたイエス様が望む人はどのような人でしょうか?言い換えれば、イエス様が求める人はどのような人でしょうか?イエス様が望まれる人の基準を理解し、その基準を回復する人が存在しなくなれば、イエス様が望まれる意志がこの地上で達成されるだけでなく、神の意志も達成されないことになります。これを皆様は確実に理解されるべきです。

神がイエス・キリストを通じて要求された意志は、イエス様自身を模範として世界的な勝利の条件として、全ての人がイエス様と一体となることを望まれていました。つまり、すべての人がイエス様を手本にし、イエス様と共に楽しむ事のできる人となる事を神も望まれ、イエス様も望まれていました。イエス様は人々を再帰する使命を帯びてこの地に現れたため、その述べられた言葉や感じた感情、感覚は、私たちが今日使用している言葉や感情、感覚とは根本的に異なっていました。

それでは、イエス様を主として迎え入れている現代の私達は、どのようにすべきでしょうか?まず、イエス様が天の意志を成し遂げるという責任感や宇宙全体に対する救いの歴史を完成させるための全体的な責任感をお持ちになっていたその心情を理解することが重要です。そして、イエス様が感じ、共感し、考えていたその基準にまで進んで、イエス様に直接接する相対的な立場に立つ事が必要です。そうした皆様になる事ができなければ、イエス様は哀れな方として終わってしまう事でしょう。


神は全力を傾けてアダムとイブを造り、彼らを通じて喜びを感じようとされましたが、彼らが堕落した事によって神の心に悲しみが生じました。この悲しみを解消するためにおいでになった方は誰だったでしょうか?それは、まさにイエス様でした。しかし、そうしたイエス様が地上においでになって、

どのような目的をお持ちになったのでしょうか? 堕落していない本来の人間のように堕落の影響を受けず、敵であるサタンの中傷を受けずに神の前に立派に現れる事のできる真の人間を見つけて立てようとされたのでした。

このような状況の中で、4千年にわたって準備されてきたユダヤ教は、イエス様が喜び得る真の愛を示すべきであったが、そのような使命を果たせなかったのです。

この立場にいたイエス様は、かつて神がアダムとイブを造り、彼らを通じて喜びを感じようとされたが、むしろ彼らの堕落によって神が悲しむ事と同じように、神の意志の為に備えられていたユダヤ教が不信仰に陥る事によって、イエス様は十字架に行かれる過程で言い尽くせないほどの悲しみを感じられました。

したがって、皆様は祖先に由来する神の悲しみを解消するためにおいでになったが、ユダヤ教の不信仰のために再び悲しみの立場に置かれる事となったイエス様のその心情を解消する聖者とならねばなりません。

もしもそのような人になる事ができないのであれば、皆様はイエス様が望まれる人にはなれず、神が望まれる人にもなれません。これを忘れてはなりません。

今日、私達はイエス様が望まれ、神が望まれる人になるために集まりましたが、私達の周りにはそのような人になる事を妨げる条件が多く存在しています。それはサタンが常に私達の道を妨げようとするためです。このようにして、サタンは常に私達の生活の中で中傷の条件を見つけようとするのです。昔、アダムとイブがなぜ堕落したのかと言うと、聞こえてくる言葉がどのような言葉かを見極める事ができなかったからです。

天使の言葉をイブが聞いた時、その言葉が真実か、偽りかを見極める事なく行動した事が堕落の始まりとなりました。では、今日私たちが復帰すべきなのは、どのようにすればよいでしょうか?正しい耳、真実の耳を持ち、聞こえてくる言葉が善の言葉か悪の言葉かを自分で見極める必要があります。聞こえてくる言葉が何を意味しているか見極める事ができない限り、あなた方も気づかないままにサタンの誘惑に引っ張られ、道を踏み外してしまう事になることを忘れてはなりません。

今日、この地上では、皆様の耳に響いてくる多くの言葉がある事を理解しています。その中には神の代わりとなる天の言葉もあるでしょうし、人間の快楽を中心とした言葉もあるでしょうし、サタンを中心とした言葉もある事でしょう。しかし、皆様が周囲の生活から耳にするこれらの言葉がどの権威から来たものかを見極めることができない限り、いつ、どこで、サタンの言葉を聞く事になり、その結果サタンが皆様の人生を奪ってしまう可能性もあるかもしれません。したがって、常に目を覚まして善悪を正しく見分ける能力を持つ事が重要です。

人々を救うために言葉を伝えられたイエス様は、当時のユダヤの人々に対して「耳のある者は聞くべきである」と叫ばれました。イエス様がこの言葉を述べられたのは、正しい耳を持つ者は自身の言葉を命の言葉として聞き入れるであろうとの確信があったからです。しかし、イエス様が叫ばれた声に耳を傾けて天の言葉を信じる人は、地上の人々の中に一人もいなかったのです。そのため、イエス様の心情は言い尽くせないほどの深い悲しみとなりました。

したがって、今日私達がイエス様の悲しみを解消するために集まったのであれば、イエス様が伝えた言葉を自身の生命を代えた言葉、天を代えた言葉として受け取り、耳を傾ける能力を持つことが重要です。また、自己を省みてみる事も必要です。皆様が耳を傾けて天の言葉を聞く者となる事によってのみ、イエス様の意志の前で立派に立つ事ができる事を確実に理解する必要があります。

そして、イエス様が4千年にわたる神の苦労を代わりに示す言葉として、エデンの園でアダムとイブが堕落した事実を回復する為の神の計画を代わりに示す言葉として、感動的な言葉として、堕落した世界を回復する為の帰還の言葉として、民族の前に語りかけられましたが、その言葉を聞いた人は一人もいなかったのです。

こうして、イエス様を信じることができなかった先祖を持つ私達、神の言葉とサタンの言葉を区別できず、堕落したアダムとイブの血統を引き継いだ私達には、復帰の道を進む過程で私達を妨げるサタン達が多い事を認識し、自分に向かってくる言葉が真実かどうか、嘘かどうかを正しく判断して聞き入れる能力を持つ事が重要です。もし真偽を正しく判断できないのであれば、皆様は神の子である娘である事はできず、またイエス様の花嫁ともなる事はできないでしょう。

では、終わりの時を迎えた今日のあなた達が、イエス・キリストと永遠に離れる事のない花嫁になる為にはどうすればよいでしょうか? まず最初に、イエス・キリストが耳の聞こえない人々を見て、彼らの為に嘆き悲しみ、その声をもう一度聞く事できるようになり、その方を慰める存在になる必要があります。

そのようなあなた達がいるとき、神の望まれる意志、イエス・キリストの望む意志、そして多くの聖徒達が望む意志を、あなた達自身を通じて成し遂げる事ができるでしょう。こうして、あなた達一人一人の耳を通じて聞こえてくる言葉には、歴史的で宇宙的な責任が伴っている事を確実に理解する必要があります。

その次には、正しく見る能力を持つ人となる必要があります。4千年の歴史を代表して天から遣わされたメシアが、そのような単純な姿で現れる事を当時の人々は夢にも考えなかったのです。その為、メシアを見ても、メシアとして見なかったのです。ヨセフの子として生まれ、30歳前後の青年として、大工の仕事をしていたイエスが、神が初めて全人類の前に提示した主人公であった事を誰が知っていたでしょうか?誰も知りませんでした。誰も知らなかったのです。

しかし、今日のあなた達は、イエス・キリストが歴史的な苦難の十字架を背負っている事を正しく理解する能力を持つ必要があります。つまり、その一身自体が神が4千年にわたって努力された全体の取り計らいを埋め合わせる為の努力の贈り物として現れた事を正しく理解する必要があるという事です。

もし当時の人々が、神がイエス・キリストを立てる為に4千年の歴史的プロセスで多くの預言者を送り、イスラエルの選民を形成してきた事を知り、イエス・キリストを正しく見る事ができたなら、なぜイエス・キリストが十字架を背負ったのかという問いに答える事ができたでしょう。ユダヤ人達がイエス・キリストを正しく見る能力を持っていれば、イエス・キリストはゴルゴダの丘で一人にならず、他の人々と共にそこに留まらなければならなかったでしょう。しかし、イエス・キリストは自分自身が喜びの座にあることができない神の意志と、自分自身を人々の前に現すために十字架にかけられたことについての事情を理解し、その事実を認識できる人を探し求めていたのです。

しかし、そのような一人をイエス・キリストは見つけて立てる事ができず、結局十字架に戻られる事になりました。したがって、今日6千年の歴史を終結させるために進む道で、あなた達はあなた達と共にその道を進む人を見つけて立てる必要があります。もしもそのような人を見つけて立てなければ、イエス・キリストが現れた時に私達の先祖達が理解していなかった過ちを償う事はできないという事です。これを心に留めておくべきです。

その為、今日のあなた達は自分達の心を父の前に置き、亡くなったイエス様がどのように私達を見て呼びかけているかを理解する必要があります。すなわち、イエス・キリストが一人で叫んだ後、聖霊を送って私達に向かって手招きし、私達の為に思いやりを行動で示している事を知るべきです。

そして、あなた達自身が2千年前のユダヤ教徒達がイエス・キリストを理解できなかった立場を理解し、イエス・キリストについて「あなたは確かに4千年の間に神の意志を代弁した勝利の存在として現れたのでしょうか」と述べ、それに対して崇拝の意を示す人となるべきです。

それだけでなく、イエス・キリストが来られてから2千年という長い時を経て、あなた自身を見つけて立てるために、霊的な世界でイエスと聖霊が努力してきた事を理解する人となる必要があります。もしもそのような人になれなければ、イエス・キリストの時代に生じた4千年の遺恨を解消する事ができず、イエス・キリストの後の2千年の歴史に結びつく神の悲しみを解消する事もできません。したがって、あなた達は歴史的な負債を抱えている為、過去の預言者達が伝えた言葉や行動を軽率に批判してはいけないのです。

したがって、今日のあなた達は、イエス・キリストが私達に手招きをし、語りかけているその聖なる姿の前で、歴史的な使命に燃えるイエス・キリストの姿の前で、謙虚で敬意をもって礼拝し、さらにはイエス・キリストの友となる事ができる存在が現れるべきです。そのような存在がこの世に現れる事で、あなた達はその模範に従い、30年以上にわたる労苦を経て2千年にわたって努力されたその心情を実証的に慰める事ができる花嫁の立場に進む事ができるでしょう。

では、あなた達が罪と死の暗闇に囚われて嘆く状況に陥った時、イエス・キリストが何度もあなた達を訪れた事を知っていますか? おそらく知らないでしょう。未だ過渡復帰を果たす運命が残されたこの地で、イエス・キリストはあなた達がそのまま歩む事を助けるためにやってきます。言い換えれば、イエス・キリストが十字架の救済の使命を確立する為には、神が4千年にわたって預言者達を送り、計らってきた努力の歴史があった為、神はあなた達自身を通じてこれを再収穫しようとしているのです。

言い換えると、私達は個々の人間かもしれませんが、歴史的な価値を備え、イエス・キリストと完全に一体化できる心を持つために、イエス・キリストは私達を訪れます。6千年の歴史の中で続いてきた罪悪の系統から抜け出さなければならないあなた達だからこそ、イエス・キリストは数多くの預言者達が成し遂げる事のできなかったその遺恨を解消する為にあなた達を探し求めています。つまり、イエス・キリストはどの時点、どの場所においても、創造初の清らかなアダムを見るような心情であなた達に対して臨んでいるのです。

神はノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、4大預言者などを通して意志を成し遂げようとされましたが、彼らは神の意志を完全に果たす事はできませんでした。その歴史的な全体の計画を遂行する為にイエス・キリストが来られたのですが、イエス・キリストもまた、ユダヤ人の不信仰によって意志を完全に果たす事なく、十字架に戻られました。

今、あなた達はこれを引き継いで遂行しなければなりません。その為には、あなた達は宇宙の中心的存在であるイエス・キリストに似る必要があります。つまり、イエス・キリストと同様に、宇宙の中心的存在として歴史を代表し、すべてを収束させなければならず、イエス・キリストが示してくれた生き方をそのまま実践しなければならないのです。そうでなければ、終わりの時にイエス・キリストから証を得る事はできません。今までキリスト教徒は、十字架に戻られた主イエスだけを見つめて信仰生活を送ってきました。しかし、そのような姿勢でいてはいけません。

皆さんは、4千年にわたる歴史の過程を通して過ごされた収穫復帰されたイエス・キリストを理解する必要があり、イエス・キリストの全生涯を見つめて信仰すべきです。今日でも、過去にアブラハムやモーセ、または洗礼者ヨハネが果たした使命を担う人々がいますが、彼らは個人的な使命だけでなく、歴史の過程において現れた多くの人々の使命も担っているのです。

皆さん自身も同様の使命と責任を担っており、それを果たす為にはイエス・キリストの全生涯を見習う必要があります。本当にそうなれば、皆さんは新たな人となる事ができるでしょう。

今日のキリスト教徒の中で、イエス・キリストの言葉に真剣に耳を傾けている人はどれ位いるでしょうか? イエス・キリストは6千年にわたる間、いつでも楽な日がないほど、神の愛情に溢れた心情を持ち、人々を求めて歩まれました。しかし、そのような心情を持ち、イエス・キリストを受け入れ、イエス・キリストの尊厳ある姿の前に立つ事を望んでいた聖徒は少なかったです。今、真の聖徒となる為の道を進む皆さんがまだその基準に到達していないなら、自己を反省する必要があるでしょう。そして、一歩踏み出して、自己を天の前に献げる生贄として立たなければならない事を忘れてはなりません。

今日の人々は、イエス・キリストが愛情に満ちた心で自分達に手を差し伸べているのに、見る事ができない人々になりました。ですから、今、あなた方は聞く耳と見る目を持つ必要があります。真理の言葉を聞く事ができるだけでなく、見る事もできる目を持つべきです。

その後、イエス・キリストを代表して真理を語る事のできる口を持つ必要があります。つまり、あなた方はイエス・キリストが伝えたかった内なる心情を代表して、この地上に住む哀れな人々に正しく紹介する能力を持つべきです。6千年の歴史とイエス様の生涯と状況を正しく伝える事ができる人となる必要があります。イエス・キリストも、神も、そうした人々を求めておられます。

今日、あなた方はイエスの心に子供のような言葉を話すべきです。二つの舌を持つ蛇の系統から生まれたあなた達でも、二つの言葉を話してはいけません。あなた達は神の言葉を聞き、神の姿を見て、その事実を真実をもって、つまり二つの舌を持つ人ではなく一つの舌を持つ人として、人々に示せる人とならなければなりません。神はあなたの代わりになる正しい人、イエス・キリストの代わりになる舌となる人を求めておられます。

本来、私達人間は神を中心に置く本質を持っています。神によって創られた本質を持つ人間の心は常に本来の性質に従い、それを真理の基準として採用しようと願っています。人間は常に真実な性格を持つ存在になる事を望んでいます。

私達はこの本質を取り戻し、イエス・キリストの心と体を見つめ、イエス様の言葉を耳にし、それを私達の心と体の中心に再び立てる必要があります。さらに、これを通じて私達はイエス・キリストの代わりの存在となり、この死の世界においてイエス様が伝えた言葉を伝える存在となるべきです。天はこのようにして、イエス・キリストの言葉を伝える口と舌を持つ者達を求めておられる事を、皆さんは理解すべきです。今日の人々は二つの言葉を話す人々となっています。

心は一つなのに二つの言葉を話す人間となった為、これを清算して一つの言葉を話す人間として本来の姿に回復させる事が、神の計画であると言う事です。

もしあなたが神の言葉を代表して語り、イエス・キリストの心情と生命を代表して語り、この自信を持って日々の生活を送り、一生を変えずに過ごすのであれば、あなたにはサタンの中傷は及ばないでしょう。また、あなたはサタンの試練にも克服する事ができるでしょう。

従って、終わりの時代に生きる今日のあなたは、真実な証人としての真実な聖徒となるべきです。つまり、6千年の歴史を通じて神と一致する事のできる言葉、数多くの聖なる預言者や聖人達を通じて教えられた言葉、個人的なものではなく全体的なもの、そしてイエス様と聖霊が2千年の間に努力し伝えた言葉をあなた自身が具体的に証言でき、再創造の歴史をもたらす神の言葉を伝えるべきです。

真にそのような人がいるならば、神とイエス・キリストはその人と共におられるでしょう。数多くの聖徒達はその言葉を歓迎し、天に帰する人々も自然と霊的な支援を受けてその言葉に従う事でしょう。また、その言葉を永遠のものとして、生涯の中で最も重要なものとして確立し、不変の心情で自らの命を捧げて伝える者がいるならば、神が消える事がない限り、イエスと聖霊、そして数多くの聖徒がいる限り、彼らの保護の下で必ずこの地に再創造の歴史を築く事でしょう。ですから、今こそ私達はイエス・キリストが2千年前に語られた言葉がただその時代だけに適したものでは無い事を理解するべきです。

それでは、イエス・キリストの憐れみとは何でしょうか? 終末が近づくにつれて、そして審判の日が近づくにつれて、イエス・キリストは人々が世界の人類を求めておられた神の心を見習い、犠牲を払う使命を通じて神に近づく事を望まれています。しかし、このようなイエス・キリストの心を知らずに、自己中心的な生活によって暗闇に引き込まれ、審判の台に引きずり出されているのです。イエス・キリストはこのような姿を見つめる際、言葉にできない程の悲しみを感じているのです。

したがって、あなたは2000年前に救いの計画を完遂する為においでになった当時の心情以上に、より深い憐れみの心情を持ち、あなたを見守りながら、彼の内面を共感し、歴史的な全体の計画と宇宙全体に対するイエス様の言葉を人類に伝える真の使者となるべきです。イエス・キリストは、あなたが言葉を代わって伝える事のできる人物が現れる事を切に望んでおられ、それをあなたに委ねようとしている事を理解する必要があります。

また、天律の言葉を代わって語ったイエス・キリストですが、それをすべて伝える事はできずに去られたその悲しみを感じ、審判の恐れを知らない人々に神を代表して語り、聖霊を代表して語る真のクリスチャンを探し求めておられます。そして神も、全ての人々がイエス・キリストの生涯を手本として、イエス様を通じて愛の腕に受け入れられる事を願って、長い歴史を通じて苦労されておられるのです。

今、あなた方は自己を軽視してはいけません。あなた方自身は自己評価する際に非常に微細に感じられるかもしれませんが、神は6千年の間、あなた方一人を見つける為に努力されてきました。

また、イエス・キリストも2千年間、努力され、数多くの預言者達も長い歴史の過程を通じて努力されてきました。従って、あなた方は自己を尊く思い、最後の悪魔との戦いで神に勝利をもたらす条件を提供するための生け贄とならなければなりません。

こうして「宇宙的な存在として、神を代わりに尊重し、誇りをもって生きてきました」と言える勝利者になり、どんな命令も、何を言われても受け入れられるようになる必要があります。実際にそうした自己像を持っているかどうかを反省する必要があるでしょう。

私達の通常の社会生活の中で、外見上では神の子であるイエス・キリストを選ばれた者や、悪魔の支配下にある者と、同じように見えるかもしれません。しかし、神はイエス・キリストが人類を救う為に苦しい状況でこの地に来たという意志を代表し、この地で完全に達成されると信じる真の信者を探しておられます。

もし本当にその様な心情を持っているならば、自分自身に幸せな事が起こったとしても、自由に喜ぶ事はできず、楽しい事があっても軽々しく楽しむ事はできないでしょう。

なぜなら神の悲しい心情は、あなた方の家庭を越えて社会を通じて世界全体に、天にいる数多くの聖徒達の願いにまで関わっているからです。従って、あなた方は神の悲嘆の心情をあなた方の個人的な範囲で切り離してはならず、自己や家庭に限定された生活を送る者となってはいけません。

皆さんは、時間と空間を超えて、至高者である神のすべての存在と共鳴し、全体的な完成を代表する価値ある存在となるべきです。その様な人物がこの世にいれば、天は失望される事はありません。また、その様な人は地獄に行く事はありません。

その様な責任を負い、日々の生活の中で環境の悪に立ち向かわなければならない中で、自分自身を見つめ直すと、心は神の意志を受け入れますが、体はそれに抵抗する事を意味します。人間はこの様にして心と体が一致せず、神の子としての完全なる姿を実現できていないのです。

では、神が求めている完成の基準は何でしょうか? それは、人間が心で神の言葉を受け入れ、そして体もその言葉を再び受け入れて一つになる事です。その後、その言葉が周囲の環境に伝わっていくのです。

もし神の意志が私を中心としてこうして実現されるならば、神が許される心の中心を通じて、私の心は永遠を描きながら動く事ができるという事です。この基準があなたが地上で完成する前には、永遠の神の真の子、真の娘にはなれないという事です。

では、神の子、娘の証はどのようにして知る事ができるのでしょうか? あなたの行動だけでは知る事はできません。行動は誰でもできるものである為、それ自体を見て判断する事はできません。行動する人の心に、神の子、娘であり、イエス様の友と呼べる内面的な価値の要素が存在しなければならず、それが再び具体的に現実に結びつけられて初めて、神の子、娘と呼べるものです。

神から、心で命じられる事を体と自由に受け入れる関係、すなわち心が望む通りに体が動き、体が望むときには心が共に動いてくれる関係を構築する事が、神の子、娘と呼べるものであり、またこの地上で再創造の歴史を起こす事ができるものです。

それでは今、皆さんが神の前で「私達の父よ!」と呼びかけて祈る前に、何を考えるべきでしょうか? それは、あなたの心の核を見つけ、その核がイエス・キリストの姿を代表できるかどうかを自問自答する事です。堕落した人類の祖先からサタンが生命を奪ってしまったため、あなたにはイエス・キリストの姿を代表できるそのような性質がないという事です。そこで、今日まで多くの人々は、この永遠不変の心、人間の良心の核的な谷を越えて、天徳の教義を確立しようと奮闘してきました。ですから、もしもあなたが信仰に基づいてイエス様を受け入れたとしたら、あなたの心の指示に従って身体を従わせる事は問題ありません。

しかし、今日の人々はここで躓いています。心に響いてくるものは身体を刺激しますが、その身体が従順できていないのです。それは、身体を刺激する力が不足している為です。ですから、今日のあなたは身体を強く刺激できる心の力を養う必要がありますが、それにはイエス様の精神と意志を適切に受け継ぐ者になる必要があります。

その為、今日のキリスト教の信者達はイエス様に対して祈っています。彼らは苦難のイエス様を懐かしんでおらず、栄光のイエス様だけを懐かしんでいるのですが、それは避けるべきです。復活と栄光に至るまで、知られざる苦難の努力を経たイエス様である事を知る必要があります。ですから、あなたも知られざる苦難の努力から勝利し、栄光の座に向かうべきであり、歴史的な罪の枷から解放され、復活したイエス様の心に相応しい価値を持つ存在となる事ができるのです。また、この地上で全体的な復活の歴史を起こす事ができる、一人の主人公となる事ができるのです。

今、皆さんは天父に祈る際、愚かな祈りを捧げるべきではありません。あなた方は自分の心を通じて祈る事ができる人間となるべきです。あなた方が言葉や行動を通じて示す事ができる事が、心の中心とつながっている場合、その言葉や行動は神やサタン、また他の人の前でも恥じずに胸を張って行えるでしょう。神はまさにこのような存在を求めておられるのです。

その為、あなた方の心に永遠に存在する本質の力があるならば、真実な人格を形成しなければなりません。あなた方がどのような状況に直面し、どの場所にいようとも、そのような永遠不変の核心的な真理を受け入れて中心とする事で、言葉が生まれるのです。その言葉は神の代わりに再創造の歴史を起こすものとなるでしょう。

では今、あなた方が戦わなければならない敵はどこにいますか? イエス様の教えを信じ、お示しになった苦労の道を歩みながら、イエス様を代表して言葉を伝える際、あなた方を阻むものは何でしょうか?それは、世界を通じて侵入してくるサタンの矢です。エデンの園で最も近くにいた天使が、太陽を堕落させたように、今日のあなた方に対しても、サタンが最も近い姿で現れてあなた方を誘惑しようとする事です。

見た目に美しく、聞こえが良く、理にかなった言葉で表現されるでしょう。そして、表現される言葉は説得力を持って現れるでしょう。その為、あなた方は自分の心を守る事ができる、あなた自身の聴覚が必要であり、視覚が必要であり、変わらない心の基準が必要です。もしもあなた方にそうした基準がなければ、予期せぬ瞬間にサタンの侵入が訪れてしまう事でしょう。

一方、あなた方がその不変の核心を持ち、心が望む通りに身体が動ける為、常に神が喜ばれる生活を送る事ができるなら、あなた方にとって神に罪を許して頂く祈りは必要ないでしょう。堕落した人間としては、回心の運命を超えて償いの祈りが必要です。従って、今日のあなた方にとって最も重要なのは、輝かしく輝く太陽の力に匹敵する心の核心を持っていると言えるでしょう。あなた方が心と身体で理解し、確信し、すべての現象を区別できる宇宙的な知識、知性の基準を持つ必要があります。

そして、イエス・キリストが天性を代わりにし、全体の意志を代わりに表現した言葉を、あなた方が受け継ぎ、人類に伝える事ができる存在となる必要があります。そうでなければ、神はあなた方を安心して信頼し、向き合う事はできないでしょう。

なぜなら神は善行によってのみ現れ、真実の言葉によってのみ自己を示す存在であり、偽りの姿で現れるわけではなく、ただ一つの意志、一つの性格を持たれる神であるからです。従って、行ったり来たりする二つの心を持つ人間とは相対する事ができないというのです。あなた方はこれを確実に理解する必要があります。

また、あなた方は人間こそがサタンよりも恐ろしい存在であることを理解するべきです。神は善に、サタンは悪にそれぞれ自己の立場を表現していますが、人間は両方の行動を兼ね備えているというのです。神を信じて進む時は善を示し、サタンを中心に据える時は悪を示すというのです。

従って、今日のあなた方はどのような立場を取るべきかを考える必要があります。あなた方の日常生活でサタンの立場に陥ってはいけません。立体的にも、平面的にもサタンの中傷的な条件に捕らわれる生活をしてはいけないというのです。絶え間ない祈りと献身的な生活によって、鋭利な刃のような知恵で善悪を適切に区別し、それを持っているべきだというのです。

しかし、知恵だけを追求することは避けるべきです。なぜなら、知恵だけを追求すると、サタンのような巧妙な人になりやすく、失敗しやすくなるからです。

では、信仰すべきだとされていたキリスト教がなぜこうして分裂したのでしょうか? あなた方がどこまで信じるべきなのでしょうか? イエス・キリストを見つめて希望を抱き、信じてきた言葉の内容はどこまでなのでしょうか? 神の意志を代わりに確立した真理の基準はどこまでなのでしょうか? 今日までの言葉だけでは足りません。真理の核心である神の人格を備えて、神と一体となる変わらない姿となるべきです。

その為に、時代が変わり、環境が変わっても変わらない生命体となるべきです。あなた方が神と一体となると、神が変わらない姿ならば、あなた方も変わらない姿となり、神が唯一の存在ならば、あなた方も唯一の存在となり、神が永遠にその理想の地を離れないならば、あなた方もその理想の地から離れないでしょう。しかし、現在のあなた方はそのような立場にないという事です。

現在のあなた方は、朝起きる事も、夜寝る事も、昼間行動する事も、サタンよりも巧妙だと感じる事でしょう。その為、あなた方は自分自身を神よりも、サタンよりも恐ろしい存在として認識しなければなりません。天の主を崩壊させたのはサタンではなく人間であるという事です。天主を栄えさせる事も人間であるという事です。

あなた方はこのようにして天の主を崩壊させたり栄えさせたりする存在が自分自身である事を念頭に置かなければなりません。そして、あなた方は天国の標となる事もできるし、サタンの標となる事もできる十字路に立たされているという事です。

このような十字路に立つあなた方が天国側に属する為には、どの様にすればよいでしょうか?まず、あなた方は天国の言葉を聞く事ができる様にならなければなりません。さらには、天国の姿を見分ける事ができる様になり、天国の言葉を話す事ができる様になる事です。

その様なあなた方が、善悪を見分ける基準となる役割を果たすべきです。その為には、まず自分自身を見つける為に闘わなければなりません。同時に、環境を回復する為にも闘い、世界と天の主を回復する為にも闘わなければなりません。この様な過程を経て、イエス様があなた方に臨む事ができるという事です。

では、イエス様はどの様な姿でおいでになるでしょうか? それは復活の理想的な基準でおいでになる事でしょう。従って、この地上で最高の福音を宣べ伝え、またすべての栄光を示される事でしょう。

この様な宇宙的な復活の主が臨まれる際、あなた方は拒絶されたり、害されたりする事があっても、変わる事なく主を礼拝し、従う人として存在しなければなりません。そうしなければ、イエス様の姿を見て、イエス様の言葉を聞くだけで終わってしまうでしょう。花婿と花嫁の関係を結び、天国を代表して永遠に愛を交わしながら生きる花嫁になる事はできないという事です。

復活直後、マグダラのマリアがイエス様を探しに行った時、イエス様は「私に触れないで。まだ私は父のところに上っていないからだ。」(ヨハネ20:17)と言われました。しかし、イエス様はマグダラ・マリアがあなたを慰める心を持っていた為、彼女に姿を現されたのです。

この様に、自己を超えて宇宙的な理想と意志を感じる事で、その感じる心に主が現れるのです。あなた方が神の言葉を聞き、神の言葉を代わりに伝える事ができれば、主は来る為に呼び出す必要はありません。むしろ、主はあなた方に向かって手招きし、腕を広げておられる事をあなた方は知るべきです。神も同様です。

今日、私達がこのような宇宙的な責任を果たす事ができない場合、眠っている民族と世界を目覚めさせる事はできません。今、私達は時間と空間を超える4次元の世界に入ろうとしている時です。この様な時、あなた方は立体的な天人的な人格者、あるいは天主的な人格者が現れる事を願っている天国の内面的な気持ちを読み取りながら、生活の中で聞く事、見る事、話すこ都を知る人となるべきです。もしその様に言っても「神よ、来ないで下さい。イエス様よ、来ないで下さい。」と言ったとしても、神とイエス様があなた方に続いてこないといけないという事はありません。またその様な人を地獄に送ると言ったとしても、彼は地獄を天国に変える事でしょう。そのような人々が多く現れる事で、この地上に平和が訪れるでしょう。

今日、あなた方は昇天の為に祈るのではなく、神があなた方を見つけて降りてこられる様に祈る方法を知る必要があります。神があなた方を見つけて降りてこられる様にする事ができる人格者、イエス・キリストの花嫁となる真のクリスチャンがこの世に現れるならば、神はご自身で行動して彼らを見つけ出すでしょう。

つまり、神は6千年にわたり待ち望まれた真の平和の子女、真の愛の子女がこの世に現れる時、神は彼らと共に喜び、万物がその喜びと共に踊ることを確信しなければなりません。

この様な宇宙的な使命の責任を肩に負っているのは、今日のキリスト教徒ですが、それを深く理解せずに単に「天の父」と呼びかけているだけです。それではいけないのです。十字架の道、試練の努力を乗り越えて勝利した後に、「天の父よ!」と呼びかける事が必要です。そのような人を天が見つけて下さるのです。また、普段からそのような心の基準を持ち、生活していくと、何を見ようとする前に自然に見え、話す前に言葉が自然に出てくる事になります。この様な段階まで、あなた方は進んでいかなければなりません。

しかし、ここにはあなた方を妨げる敵がいます。イスラエルの民がイエス様の30年以上にわたる勤勉な努力の間に、彼ら自身の慣習的な条件や歴史的な出来事の条件によってイエス様を妨げた様に、今日のあなた方にも同様の出来事が起こる事を意味しています。だからこそ、今日のあなた方は、歴史的に伝わる過去の慣習を大胆に打破して前進する方法を知る必要があります。

復活の成果に向かって新しい理想の地を見つけ出すあなた方よ!歴史的な過程の現象をあなた方の心身に結びつけ、天の意志に仕え、キリストを迎え、キリストの性格を代表する事ができる様なあなた方にならなければなりません。

その様なあなた方でなければ、新しい理想の地で神が話し、示し、耳打ちしたい事を受け入れて処理できないでしょう。イエス様が現実の変化する中で不変の姿で歴史的な過程に現れ、慣習的な条件を打破して神を愛してきたその努力を今日のあなた方が学ばなければならないのです。天の意志の道を進む際に、難しい状況にぶつかるかもしれませんが、不満を抱かず、恐れと恐怖を引き起こすサタンの試練に立ち向かい、主を迎える者にならなければならないのです。

そして、あなた方は主を崇拝する際に、自由の中でも最高の自由、栄光の中でも最高の栄光、喜びの中でも最高の喜びの場所から主を崇拝するべきです。その為には、歴史的に現れたサタンのあらゆる非難の条件から抜け出し、父なる神を呼び求める事ができるようになるべきです。そうした者達になれば、天はあなた方が話す前にあなた方を先に見つけてくださるでしょう。その為、あなた方はそのような基準を日常の生活の中で築いていかなければなりません。

神はこの様に、あなた方の宇宙的な愛を中心とした憐れみ深い人格の価値を持つ一人、イエス・キリストを代表し、歴史を象徴する一人を最初に探し求めておられるのです。こうした人々が集まり、国を見つけ、世界を見つけ、天国を見つけて下さる事を、イエス・キリストは願っておられるのです。そして、これが神の意志である事をあなた方は理解する必要があります。

今日のあなた方自身が、サタンの中傷の条件に捕らわれるかもしれないし、あるいは自身を征服しようとするかもしれませんし、無数の困難な試練の波が押し寄せてくるかもしれませんが、あなた方は不変の姿として神とイエス・キリストの中にあり、全体の秘密を受け継いでそれを解き明かす実践者となり、サタンの中傷の条件から抜け出すだけでなく、サタンと戦い征服する事ができる勝利の主となり、神を讃え、イエス・キリストを讃える事ができる者とならなければなりません。

イエス・キリストは、30年以上にわたり私達と共に過ごし、十字架に帰られるその日が近づいた時、愛する弟子達を集めて、「私はまだ言うべき事が沢山あるが、今はあなた方が耐えられないでしょう。」(ヨハネ16:12)と仰っておられました。これを見ると、使徒達がイエス・キリストの意志を理解していなかった事がわかります。従って、イエス・キリストの意志を理解できない使徒ではなく、イエス・キリストの意志を理解し、妻の立場まで進む事ができる人格の基準を築き上げて、イエス・キリストが残された意志を担い、イエス・キリストを休ませる事のできる人とならなければなりません。そして、サタンを征服し、サタンを胸に抱いて神の前に進み、「永遠の勝利の栄光を一人で受けてください。」と言う事のできる人とならなければならないでしょう。それによって、6千年にわたる帰還の使命が果たされ、イエス・キリストが求める真の花嫁が見つかり、また更にはイエス・キリストが望む真の妻が見つかり、この地上に平和の楽園を築く事ができるでしょう。

今、意志に従って進むあなた方は、自分達がサタンよりも恐ろしい存在である事を忘れずに、どのような過程や困難な仕事があっても、心に決めたその意志を持ち続けて、天の公言を受けるその日まで変わらず戦い、勝利する人とならなければなりません。そして、そのような人となる事によって初めて、イエス・キリストが望む人となり、また全ての人類がそのようなあなた方を愛の基準として、父の前での栄光の座に置く事ができるでしょう。これを忘れてはなりません。



文鮮明先生の説教集 2 - 4. 天の愛を築こうとするイエス(1957年2月24日)
1957年2月24日(日曜日)、前本部教会
聖書拝読 ルカ福音書10:21-37

<祈祷>
 他人によって妨げられ傷ついた身体と心で、父の前にひれ伏しました。この時、多くの神恵みを許可していただかなければなりません。お父様、一週間の間、お父様の望みと願い、理想の為にどれだけ適切な生活をしたのか、私達自身を反省する時、私達の心の中にお父様に差し上げる何かがあるでしょうか?

私達の体でお父様に誇る事ができるものは何でしょうか? 私達の生活によってお父様を喜ばせた何かがあるでしょうか? お父様、お許し頂きます様お願い申し上げます。何も持たずにお父様の前にひれ伏しましたので、この心に命じて頂き、私達の心と体を包んで頂きます様お願い申し上げます。

終わりの日に委ねられた使命の前で、私達が天倫の意志に逆らう反逆者とならない様お願い申し上げます。私達は常に責任を果たそうとする心を持っていますが、責任を果たす生活をできなかった事をお許し頂きます様お願い申し上げます。

私達だけの考えや行動は、卑しさを避ける事はできないかもしれませんが、この時、お父様が慈悲深くお受け入れ頂けるなら、困難を超えて勝利の丘に進む事ができる事を知っております。お父様、困難の中にある私達の心に手を差し伸べて頂きます様お願い申し上げます。
心の悩みを抱えている者がいますか?お父様、これらの方々を慰めていただけることを願っております。

自身の身体と心、自身の生活をさらけ出す事ができない状況にある子供達がいますか? この時、お父様、ありのままに率直にすべてを明らかにする事を許して頂けます様お願い申し上げます。

私達に勝利した生活があるとしても、それをお父様に知られずに隠してしまう事で、むしろ自分を責める事ができるこの時、許して頂き、心の指針に従う事のできる身体となる様に許可して頂けます様お願い申し上げます。

集まった人々が皆、一つの心を持つように許して頂き、一つの姿を模範とするようにして頂けます様お願い申し上げます。そして、この一時だけでもあなたを讃え、心と体が神聖なる愛に満ち、栄光に満たされ、あなたの前で知らず知らずのうちに身も心も差し出し、「私の体と心を生け贄として差し上げますので、お受け取り下さい」と祈る程の熱望の心を持った子供達となる事を許して頂けます様お願い申し上げます。お父様、熱望しております。

お父様、この日は神聖なる日であり、この地上のすべての人々があなたの名を讃美する日です。また、祝福を与えることを約束した日でした。お父様、全人類に祝福を降り注ぎ、三千万の国民を代表するすべての教会に大いなる祝福を許していただけますようお願い申し上げます。

光と闇を判別しなければならない最終的な闘いが私達の目前に迫っているので、多くの人々が光を求めてさまよっている中で、慈悲の手を差し伸べて頂けます様お願い申し上げます。歩みのたびに見つめる視線の前に、あなたの力の手を差し伸べて、彼らを導いて頂けます様に、どうかお願い申し上げます。お父様が彼らを導かれなければなりません。闇の中で迷い、苦しみと欲望に悩む多くの人々が、あなたの前で伏す事のできる栄光の日が早くも訪れる様、どうかお許し頂けます様お願い申し上げます。
また、計画された意図の達成が、子供達を通じて集まり、早くも達成される様、どうかお許し頂けます様お願い申し上げます。お父様、熱望しております。

今、この一時、尊厳ある父の前にひれ伏し、能力の手、創造の言葉の前にひれ伏しています。私達のすべての堕落した性質が変わり、敵対的な生命の要素に応じる良い性質となるよう許して頂けます様お願い申し上げます。

私達が持っている間違った意識や考え、すべての概念を捨て、ありのままを父に率直に示し、告白できるこの時を許して頂けます様、愛するお父様、熱望しております。

今日も周囲に広がっている孤独な子供達が意志を持って戦いに臨んでいる事を知っております。お父様、そこに共におられる様にお願い申し上げます。実際にお父様の共にいる事を証明して頂けます様お願い申し上げます。どこにも留まる所ごとに、驚くべき天空の真実を示して頂き、どこにも留まる所ごとに真実の生水として示して頂けます様お願い申し上げます。

暗い死の影に捕らわれていた命達が、喜びの解放を受けて、お父様の前で真の命を受ける事ができる恵みを、この時許して頂けるよう、熱望しております。

今、この一時、お父様の前に委ねます。お父様の意志に従い、計画し、またご希望通りに勝利を収めて頂けます様お願い申し上げます。一つの命でも悪魔の手に渡る子供達がいないようにお許し頂けます様、お願い申し上げます。
すべてをお託し致しますので、主管して頂き、あなたの御名によってい祈り致しました。アーメン。

この時間、皆さんと共に考えるための言葉のタイトルは『天の愛を築こうとするイエス』です。このようなタイトルで、しばらくお話しいたします。

堕落したこの地上に永遠の一つの中心が立たなかった為、神が求める愛も築かれていないという事を皆さんもよく知っている事と思います。神の創造の目的は、創造された存在達と神が永遠に極限の愛をやり取りできる愛の世界を築く事でした。

しかし、人間は神のその様な意図を知らず、堕落によってその様な世界は実現されませんでした。その為、神の愛は宇宙全体と人間の前に希望の基準として残っている事を皆さんは理解する必要があります。
その為、今日の私達人間には、この神の愛を全ての生き物に対して永遠の理想として見つけ出し、確立する為の合理的な責任があるのです。これまでに数多くの人々がこの地上に生きてきましたが、神の内面的な愛を満たし、人間の全体的な理想を実現できる基準を完全に築く事はまだできていませんでした。

その為、神はこの基準を築く為にこれまで努力してこられました。そして、未来に向けて人々に残された希望的な愛の結びつきが形成され、受け継がれたすべての創造物がその愛を永遠の理想の愛として歌う日が来るまで、神は努力し続ける必要がある事を皆さんは理解する必要があります。

この様な神の努力の歴史が6千年を経た今日において、個々の人が神の愛を感じる特権を持っているとしても、その愛の特権はその人個々だけのものではありません。それは全ての人々と天にいる無数の聖徒、父なる神、聖者、聖霊が喜びうる愛として確立されるべき特権なのです。それによって、私達が喜びを分かち合い、天の世界にいる聖徒達も共に喜びを分かち合う事ができるでしょう。

神の特権が天地が喜ぶ愛として現れる時、言い換えれば見逃してはならない愛が見つかった後、神は初めて全ての怨みや悲しみを忘れ、喜びうる事ができるという事を皆さんは深く共感しなければならないでしょう。

その為、堕落した人間達は生命が残っている限り、死ぬか生きるかに関わらず勝利的な運命の条件であり、変わらぬ愛の実体である一つの中心存在に出会わなければなりません。

その様な中心存在に出会う事によって、神が楽しむ事ができる日、瞬間が訪れるのです。もし人間達がこの使命を果たす事ができないならば、人間の悲しみは終わる事はありません。また、人間の悲しみが続いている以上、天国でも悲しみが続く事になり、天国での悲しみが残っている以上、神の悲しみも続く事になるのです。

この様に、天地を代表して永遠に変わらない愛の実体として立つその一つの中心は、私達人間とすべての創造物が共に出会うべき希望の根源です。この様な希望の根源として、永遠不変の愛の基準を築く為の中心存在として派遣された方が誰であるかというと、それはイエス・キリストです。

しかし、イエス・キリストがこの地においでになるまでの4千年にわたり、天の愛を紹介するために努力した多くの預言者がいました。また、語り尽くせないほどの努力や苦難、逆境の信仰の道を通じて、神が求める愛の基準とつなげるために努力した多くの聖人達もいました。彼らの努力はすべて、神の愛を願い、神の意志に生きる事を望むすべての生物の中心であるイエス様のお越しを願い、努力したものでした。ですから、神はそうした人々を中心にして、民族や国々を選び、イエス様を迎える準備をする様にされました。

一方で、イエス様がイスラエル国を代表しておいでになる事により、天の喜びが地上に齎され、地上の希望が天に齎され、そして天と地が4千年の間持っていた争いを解消し、共に喜びうる様になったのです。

イエス様はまず、あなたの人生で神の愛を感じ取る必要があり、その後、神の愛の実体として全ての人々の前に現れる必要がありました。ですから、永遠の神の愛を4千年の歳月をかけて漸く全人類に示し、4千年間の争いを解消するために愛の化身として派遣されたイエスの心は、常に神の愛を人々に直接伝えることのできる一人の人と出会いたいという思いで満たされていました。その為、イエス様はその様な一つの集まりや民族を探そうとされたのです。

しかし、ユダヤ民族がイエス様を信じなかったことにより、4千年にわたる神の意志とイエス様の生涯を通じて示されようとしていた神の愛が実現されなかったこと、そしてイエス様が十字架の苦しみの道を歩まれることを皆さんは理解する必要があります。


もしユダヤ民族がイエスを神の愛の化身として、4千年の間先祖達が流した血と戦ってきた希望の実体として認識していたなら、彼らはイエスを「あなたは私達の希望であり、永遠の神の愛の化身であり、天国の争いを解消してその喜びを私達に齎してくださる方であり、神の愛を私達にも繋げてくださる先祖である」と言ったでしょう。


しかし、当時、その様な人は誰もいませんでした。イエス様が見聞きし、考えた全ての事は、人間と神との間に築かれた壁を永遠に壊し、愛による勝利の基準を築くためのものでした。しかし、その様な使命に対応できる人は一人もいませんでした。その為、イエス様は「わたしを遣わして下さった父以外は、わたしを知る者は誰もいない」と言われたのです。この言葉の中に、イエス様の思いや悲しみが込められています。天国の争いを解消する為においでになったイエスであり、神の愛を証しする為においでになったイエスであり、万物の世界から天国まで神の愛を通じて繋げて下さる愛のイエスである事を、当時の人々は理解せず、イエス様の意志を知らなかったのです。

従って、今では皆さんは、神から送られたイエス様をユダヤ民族が理解せず信じなかった事により、イエス様だけでなく神までもが悲しむ状況を知り、信じる聖徒達となるべきです。そうしなければ、天の愛と一切の関わりのない人々となる事を理解する必要があります。

今では、イエス様が再びおいでになる終末において、どの様な事を望むかをよく理解する必要があります。再びおいでになる主は、2千年前にユダヤ民族が信じなかった事に対する責任を負い、あなたが神の愛の中心であり、愛の運命の実体として現れるべき事、そしてイエス様が望まれていた事を理解し、あなたの意志を共に実現する真の人々を見つけるでしょう。

あなたのユダヤ民族が信じなかった為、神の愛を齎したイエス様は責任を果たせない悲しい状況に置かれました。これはイエス様の悲しみだけでなく、神を信じると決意した預言者達の歴史的な悲しみでもあり、そして創造の目的を実現しようとする神の父なる心情の悲しみでもありました。

霊的な世界の霊と先祖達の喜び、神の喜びを実現する為においでになったイエス様は、人間の不信仰により十字架に戻られる事となり、その結果、逆に神への悲しみを増す結果を齎しました。これがユダヤ民族が犯した誤りであり、その過ちがまだこの地に残っている事を皆さんは理解する必要があります。

そして、私達はひとりゲツセマネの園で「父よ、もしあなたが望まれるなら、この杯を私から取り去って下さい。しかしあなたの望まれるようになさって下さい」と祈り、孤独な状況にあったイエス様のこの情況は、イエス様だけの事ではなく、30年以上にわたる悲しみに満ちた心情を抱えて十字架に向かったイエス様の情況も、単なるイエス様の事ではない事を理解する必要があります。

その情況は私達の情況であり、今日の人類が直面する情況です。そして、イエス様が祈り、悲しんだのは、あなたが滅びる事や死ぬ事への悲しみではなく、単に悲しむ事を超えて運命を乗り越えなければならないという運命に対する悲しみでもありませんでした。彼は歴史の目的地まで進む責任を担い、敵対的で愛に満ちた心情を抱え、地上で神の愛を迎えるために送られた人々を見つめ、神の愛を人々に伝える使命をどの様に果たすかを懸念し、全ての人類が悲しみの壁を超えなければならない運命を持つ事を憂慮されたのです。彼は自分自身のための悲しみや不満足感を抱えていた訳ではない事を、皆さんは理解する必要があります。

では、私達はどの様な人々になるべきでしょうか? イエス様が4千年にわたる神の計画の歴史の中で、ユダヤ教において天の愛を実現する勝利的使命を果たされた様に、今日の皆さんも6千年の神の計画の歴史の中でキリスト教に立ち、神の愛を証しをしなければなりません。

また、皆さんは永遠に喜びと共に生きる事ができる世界を築くために来るキリストの真の共同作業者となる必要があります。皆さんがその使命を果たさない限り、主はこの地に来る事ができないでしょう。また、神はこの地に神の愛を中心とするメシアを送る事ができないという事を皆さんは理解する必要があります。

6千年にわたり、神の意志を背く先祖達の罪の血を受け継いだ私達が再び先祖達の罪を繰り返すのであれば、主はどの様にして再びその場所においでになるでしょうか?

私達は、初臨のイエス様も宇宙的な愛の中心であり、宇宙の主として天と地を代表し、天の愛を共有する中心存在としておいでになりましたが、当時の人々がその共同作業者とならなかった為、イエス様は十字架に戻られる事となった事を理解する必要があります。

しかし、生命の理想を追求する道において、希望と信仰が失われても、永遠に残る愛のために進む道は、進むしかない歴史的な運命の道です。従って、人類をこの道に導く為においでになったイエス様は十字架に戻られましたが、その使命は聖霊に引き継がれ、地上で続けられた事を理解する必要があります。

その聖霊の導きを受けて、私達はどこまで進んできたのでしょうか? 私達は、復活前のイエス様の立場を経て、復活されたイエス様と出会い、希望を持つ事ができたマリアと同じ立場にまで進んできました。

では、今後、宇宙を包み込む神の愛を見つけるために私達がどのようにすべきかを考えてみましょう。私達はイエスと聖霊の意志を実現する実体的な愛の花嫁となるべきです。イエス様の時代に求められていた実体的な愛の花嫁として。それゆえに、今日私達は花嫁の名前を見つけるために探求しているのです。

しかし、主の花嫁としての歩みを進め、主の花嫁としての徳を守り、主の花嫁としての基準を築かなければならない皆さんは、イエス様を信じるだけで満足してはなりません。ただ口で信じるだけでは、花嫁の基準を築くことはできません。イエス様は歴史的な存在です。

また、現在と未来においても私達の命の主です。そのため、皆さんがそのようなイエス様と交わることのできる愛を持たない限り、いつかイエス様に向かう花嫁の立場に立つことができるかどうかはわかりませんが、イエス様と命の絆を結び、神の愛の鼓動を受け継いで共鳴し続ける永遠の実体としては存在できないということです。

聖徒達がイエス様の愛を探求することは、現実の世界に支配される時空を超えて、歴史を超越し、時間を超越した神聖な愛の世界で、無限の神の愛の価値を讃美し、永遠の神の愛の価値を確立し、命の愛の価値を楽しむことを意味します。

そうしたとき、初めてイエス様がゴルゴダの十字架の道を歩まれた辛い足跡や、ゲツセマネの園で「アバ、父よ、なぜ私を見捨てられましたか?」とおっしゃった声が鳴り止むでしょう。もし2,000年前にそうした真実の聖徒達が存在していたならば、イエス様はこの世に希望の存在として立っていたかもしれません。

しかし、今日まで歴史を経てきた私達の先祖達の中には、このようなイエス様の希望を実現した人はいませんでした。イエス様が来られてから2,000年が経過した今日まで、神の計画の目的は、神の悲しい心を慰める真実の人物、ゴルゴダの丘で悲しみを感じたイエス様を慰める真実の人物、また聖霊を慰める真実の人物、そして天と地を慰める真実の人物を見つけて立てることです。

このような神の御旨を知る人々が、神とイエスと聖霊の前に進み、「これこそ求めることでしょうか」と尋ね、その使命を達成するために促すことができるようになるべきです。こうした真実の聖徒達が現れる前には、神の内にあってもイエスと聖霊との願いが解けることはありません。

では、今日、神の愛との関係を築くことなく生きる社会を認識したとき、私達はどのようにすべきでしょうか?どのような努力が必要でしょうか?私達はイエス様の歩かれた道に続いて行かなければなりません。また、イエス様は「あなたの心を、あなたの魂を、あなたの思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。これが第一の戒めである。第二のものはこれに等しく、あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。これらの二つの戒めにかかって、律法と預言者が全てかかっている」と言われました(マタイ22:37-40)。この言葉を実践しなければなりません。

この言葉には、宇宙の核心的な本質、宇宙の理想的な理念、宇宙の生命の中心となることができる愛の理念が含まれていることを理解する必要があります。したがって、あなたはこの言葉のように、すべてを捧げて神を愛することによって神の愛と結びつくことができるようになるべきです。イエス様はこのために来られた方なのです。

イエス様は「あなたの心を、あなたの魂を、あなたの思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」と語られました。この言葉と同じように、性格を尽くし、心を尽くし、意志を尽くして神を愛した宇宙的な代表者は誰でしょうか。それは間違いなくイエス様です。

イエス様はそのような意志を持っておられることを認めるために、自身の立場を明らかにする必要がありました。愛する弟子達や教法学者達の前で、そのような立場を明かされました。イエス様は天に対して自己の知性を尽くした方であり、心を尽くし、力を尽くし、意志を尽くした方でした。当時のユダヤ人達は神について無知でした。

そんな中で、血気盛んな青年として、天命を受けていたイエス様は、天に対して誠実であることを証明しました。心を尽くし、意志を尽くし、愛の理念を実現するために努力した性格を、皆さんは学ぶべきです。そして性格は何に基づいて動くのでしょうか?それは天命に基づいて動くのです。また、心は何に基づいて動くのでしょうか?心は歴史的存在である人間に基づいて動くものであり、意志は生活を通じて現れるものです。

イエス様は天命と人命の両方に相応しい生き方をされ、そのような人生経験を通じて初めて人間達と天命的な愛との繋がりを築かれ、歴史的な人間の生き様を完成させられました。そして、イエス様は人間の生活の中で神の愛を引き出すために努力されました。

つまり、天命的な愛を人間の生き様にまで引き下げるために、性格を尽くし、意志を尽くし、力を尽くされたのです。そうすることで、象徴的に見れば、イエス様はどのような方でしょうか?人類の性格を代表された方であり、つまり神の性格の中心である方でした。そのため、イエス様の性格の本質を基盤として動くことが、人間の良心であり、その良心を基盤として行動することが人間の実践です。これは全体的な宇宙的な秩序を私達に示すものです。

性格は良心を通じて現れるものです。性格の本質は良心の根源にあるため、性格の本質が外面に現れるのは適切ではありません。しかし、性格は絶えず影響を及ぼし続けています。

たとえば、地球は一見して静止しているように見えますが、実際には太陽を中心に回転しており、また月も地球を周回しているのです。同様に、天性の本質と良心も同じような関係を持っています。イエス様が語られたすべてのことは、形のない神を代表する言葉であり、天性的な人格と人性的な人格、または天命的な人格と実生活的な人格を表す天性の全体的な秩序を代表する言葉であることを理解する必要があります。4千年の歴史の中で、多くの預言者が天性の秩序を確立するために努力しましたが、イエス様は神の全ての性質を最も多く具体化された方でした。

イエス様は歴史の中で初めて神の性質を象徴的に示され、その実りをもたらした初めの実りでした。そして、イエス様が来られる前、多くの人々は良心を基盤にして人間の道徳を確立し、生活してきました。

しかし、彼らは神が望む最高の良心の基準を確立されたイエス様に出会うことで、4千年ぶりに神の前に真の犠牲を捧げることができるようになりました。また、イエス様の福音の中に現れた意志は、神の理想と一致し、達成しようとしていたものでした。また、イエス様は血統的に見ても、歴史的に見ても、過去に現れたどの人からも見ることのない、どこからも見ることのないような血統を引き継いで生まれられた方です。したがって、私達キリスト教徒であり、天に向かって真理の道を歩もうとする私達が、そのような事実を理解し、全体的な責任を担う必要があるでしょう。

イエス様は短い瞬間の生活の中にも、神の愛を中心とした本質が現れており、それは小さなことであっても、大きなことを代わりに果たす不変の決意の体現のような形を持って生きられましたことを理解する必要があります。

イエス様の30年以上にわたる生涯を振り返ってみると、イエス様は全体の生涯を捧げて何を成し遂げようとされたのでしょうか?イエス様は人間として備えるべき品質、心、意志、行いにおいて、歴史を代わりにして神に捧げられる唯一無二の犠牲者として来られ、去られましたことを理解する必要があります。

したがって、私達がイエス様を信じている者、イエス様の意志に従って歩んでいる者、イエス様の心に似せるために努めている者、イエス様の品質を求めている私達自身は、どれだけの日々を意志のために駆け抜けたでしょうか?どれだけ私達の心と意志、品質を父なる神に捧げたでしょうか?こうしたことを反省する必要があるでしょう。

皆さんは、心からの真意に従って生きたいと思い、天から授かった天心の品質を自分のものにしたいと願うでしょう。そうであるならば、品質と心を通じて表れるこの意志を確立し、天倫の意志を代わりに達成しなければなりません。しかし、今まで誰もそのような使命を果たすことができなかったために、神の悲しみはここに結びついてしまいました。

今、皆さんが意志を持っていると仮定するならば、その意志は心のためのものであるべきであり、品質のためのものであるべきです。皆さんが心を持つとしたら、天倫の意志に向かって進むことができる心であるべきですし、品質を持つとしたら、その品質を基盤にして神の全体的な姿を代わりに表現できる能力を持ち、宇宙の愛を守る人格を形成できるはずです。


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御言葉選集2(1, 2)

2023年08月16日 09時21分26秒 | 学習
「文鮮明先生말씀選集 2 - 1. 復帰を目指すイエスの人生観  (1957年 1月 6日)」
1957年1月6日(日)、前本部教会

聖書拝読 マタイによる福音書 6:16-34

<祈り> お父様! 過去1年間、お父様の保護のおかげで過ごすことができましたこと、感謝申し上げます。今、新年の最初の週を迎えて、喜びに満ちた心でお父様の前に礼拝するこの一時です。

今、私達は過去の不足と欠点を振り返り、この新しい年、そしてこの一時間から、お父様が望まれるように謙虚で従順な心を持ち、お父様に敬意を表し、愛に満ちたお父様よ、どうか受け入れて下さい。

私達の心に、お父様にふさわしくないどんな注意や主張があるなら、それをすべて取り去って下さい。また、私達の身体に悪意が入り込んで汚されているなら、聖霊の炎によってそれを浄化して下さい。また、慈悲の賜物として私達をお許し下さい。お父様の喜びの愛を受けることができるように、私達をお父様の喜びにかなった息子娘として創造して下さい。お父様、切望しており、願っております。

お父様、この日から聖なる恵みが結びつき、悪しきサタン達を屈服させる力の歴史が私達を通じて現れるようお許し下さい。私達の心と体が働いて、天地万物を躍動させ、天におられるお父様を喜ばせるために導いて下さい。私達の集まりがお父様の望まれる真の共同体となるよう導いていただき、切に願い求めます。

今、私達が捧げる真摯な心をもって、お父様の内に隠されていた愛を実現しなければならない時が来たことを感じます。お父様の6000年の計画を明らかにしなければならない時が来たことを感じます。お父様、ここに集まったあなたの子供達自身が、性別に関わらず立場に立つことをお許し下さい。お父様の性別による力を受けて、お父様が示された杖を手に取り、紅海を切り裂いたモーセの心情を感じることのできる子供達となるようお許し下さい。お父様、切に願い求めます。

お父様、この一年で三千万の国民にお父様の祝福を注いで下さい。この国民のために集う多くの教派の上に、お父様の栄光と愛がとどまりますように。隠れたお父様の子供達にお父様の約束された御旨を示し、速やかに三千里半島が勝利の地となるようお許し下さい。お父様、どうかお願い申し上げます。

そのようにして眠っているこの国民が喜びの栄光をお父様に帰し、帰還の意志をこの天地に響かせることができるよう導いて下さい。お父様、切に願い求めます。

隠れた聖徒達の誠実な心を私達が持つことをお許し下さい。多くの教派を動かし、三千万国民を目覚めさせ、またこの国民を動員して24億の人々を目覚めさせ、本来の約束の地を速やかに実現できるよう、愛するお父様、どうかお許し下さい。切に願い求めます。

お父様、今この時間に新たに立てられた約束と新たなる律法によって、私達の心と体を性別に合わせて採らせて下さい。お父様の喜びに満ちた恵みを私達に注いで下さい。約束と誓約がここで成就されるよう許して下さい。そしてこの時以降、お父様の前で勝利の供物として差し出されることができるよう、お父様の保護の手が共にありますように、どうかお許し下さい。

お父様が喜ばれる意志のために、私達の心と体、すべてのものを捧げることができる孝行なる子供となることをお許し下さい。お父様、切に願い求めます。

今日も地域に広がり、御言葉を述べ、孤独な祭壇を守っている集団があります。彼らをサタンから解放し、闇の力の前にお父様の実証された力を示して、威厳あるお父様の栄光を示す誇らしい子供達となることをお許し下さい。愛するお父様、切に願い求めます。

また、集まる場所ごとにお父様の子供達がお父様の権能の力を受けることができるようお許し下さい。サタンの侵入から守って下さい。

お父様!この時、三位一体が働いて喜びと栄光の復活の歴史が現れるようにお許し下さい。最初から最後まで、お父様の聖霊が私達の心と体に満ちるようにお許し下さい。切にお願い申し上げます。

すべての御言葉を主イエス・キリストの名によって申し上げます。アーメン。


<御言葉>
『復帰を目指すイエス様の生涯観』という題目で、皆様にしばらくお話しいたします。

腐敗した人類は、まだ世界が証明できるし、大地が証明できるし、天が証明できる永遠の生の価値を見つけていません。そのため、腐敗した人々には、個人の生の価値を見つけ、個人を通じて世界的な生の価値を見つけ、世界を超える敵対的な永遠の生の価値を見つけるための復帰の使命が残っています。

それでは、神様が今日までに摂理の意志を立てて全体の生の価値を見つけ出された目的はどこで終わるのでしょうか?それは皆さん自身や世界で終わるものではありません。天と地が一つになり、神様が喜べる同時に世界が喜べ、世界が喜べる同時に個人が喜べる生の価値を見つけるべきです。その時、初めて天の救いの摂理も終わるでしょうし、サタンを中心とする世界的な人倫も終わるでしょうし、個人的な道徳観念も消え去ることになるでしょう。腐敗した人類には、こうした生の歩みを切り拓いていく責任があることを皆さんは知るべきです。

そして皆さんは、自分自身を単なる個体的な存在として見ることが容易かもしれませんが、自分の内には創造の総体的な理念が含まれていることを知る必要があります。したがって、まず世界的な生の価値を表現しなければなりません。その後で、自分の個人的な生の価値が成り立つことを理解する必要があります。

このような生の価値を見つけるために生活していくことが、信仰生活として知っていることでしょう。ですから、皆さんは自分自身を分析し、自分が求める本性的な命を代わりにし、永遠の命を持つ必要があり、歴史的なあらゆるイデオロギーを一つにまとめて世界的な生を完成させなければならないでしょう。また、皆さんは個人の生活の面から永遠の生や世界的な生と関わりを持つ基盤を築かなければなりません。そうでなければ、現在の生が世界的な生を経て永遠の生となることはあり得ません。

この宇宙的な生を築くべき人類の祖先、アダムとイヴは堕落によってそれを失いました。そのため、それを再び回復するために神様は6千年にわたり努力されました。神様のこの努力の歴史を「回復摂理史」と呼びます。

このような神の尊い価値を見つけ、確立するために、神は4千年にわたる努力と歴史の中で、その総体的な生の価値を代表できる方を送りました。それがイエス・キリストでした。

イエス・キリストは、一つの体となりながら、その体は永遠で無限の世界的な生を代表し、永遠の個人の生を代表しました。このような歴史的な背景を持っておられたため、イエス様は現実を基にして永遠の希望を表現しなければならず、天上で永遠に存続できる生の価値を示す使命を担っておられました。

それでは、この使命を持っておられたイエス・キリストは、どのような基準に従って生活されていたのでしょうか? イエス様は自分自身のために生活されるのではなく、世界のために生活され、さらにはそれを超えて永遠の生のために日々闘われていました。これがイエス様の生活の基準でした。

再度言いますと、イエス様が見つめ、感じたその視点や感情、そして生活されたその生活は、個人だけのものではありませんでした。それらは個人的な側面と同時に世界を代表し、世界を代表すると同時に神を代表したものです。

また、イエス様が伝えた福音の言葉も、単にイエス自身のためだけのものではなく、世界のための言葉であり、さらには神を代わって語られた永遠の命の言葉であるということです。これを感じることのできないキリスト教徒達は、イエス・キリストの真の福音の内容を理解することができず、イエス・キリストが来られた目的を達成できないということです。これを皆さんは知るべきです。

それでは、イエス様はこのような宇宙的な生の価値を実現するために何を提唱されたのでしょうか?イエス様は愛を提唱されました。つまり、宇宙的な生の価値を天上で完結させるために、新しい福音を伝えられましたが、その福音の中心は愛であったということです。

個人が自分の個体的な存在を永遠の価値の基準に結びつける最も重要な要素は何でしょうか?イエス様がおっしゃったように、他人のために自分の命をささげる愛です。実際、イエス様は自分自身のための愛ではなく、他人を自己以上に愛することによって生の価値の基準を確立されました。

このように、全体的な宇宙的な生の価値を代表し表現されたイエス様は、人々に対して、自己の救いを求めるためには他人のために命を捧げる愛を持つことが必要だと教えられました。自分のための愛よりも仲間のための愛、仲間のための愛よりも世界のための愛、世界のための愛よりも神と霊的な領域にいる数えきれない聖徒達までを愛することを持ちながら行動することこそが、イエス・キリストの信者となる要素であることを確信する必要があります。

イエス様は自己の個体的な存在を見つけるための個人的な観念や、または個人的な愛を持って生きたわけではありません。イエス様は友人を愛される際にも、単にその友情だけから愛されたのではありません。その奥には世界を代わりに愛し、さらには神を代わりに愛し、その愛を注いでおられたことです。

このように、イエス・キリストの愛は一対一の関係の中だけの愛ではありませんでした。イエス様がどのような個人を愛されたとしても、そこには神の愛が内包され、宇宙的な愛が内包され、個人的な愛が内包されていたのです。これを体験することが重要であり、そのような体験を通じて初めて、イエス・キリストの生の価値を正しく理解できるのです。

それでは、イエス・キリストは自己の生の基準をどのような基準まで打ち立てたのでしょうか?世界のために自己が存在するという基準を打ち立てたのです。イエス様は自己を犠牲にして友人を愛する際にも、その奥には世界を愛する観念を持たれていました。

イエス様が十字架上で世界的な救いの愛の基準を打ち立てられたことは、個人のために死ぬ覚悟と同時に、全体のためにも死ぬ覚悟と愛の心を持っていたからです。こうしてイエス・キリストが愛と命と尊厳の主人公であったことを皆さんは知るべきです。そして、それだけでなく、そのことだけではありません。

イエス様はその時、天に向かって「父よ、もしそのままできるのであれば、この杯をわたしから取り去って下さい。しかし、わたしの意志ではなく、あなたの意志が成されますように」と祈りました(マタイ26:39)。死の一歩手前でも、父の意志に従って生きることを望まれたことから、イエス様は神の愛を人々に紹介できたのです。こうしてイエス様の使命には驚くべき愛が内包されていることを私達は理解する必要があります。

そして宇宙的な生を回復するために来られたイエス・キリストが生の価値を見つけるために提唱されたものは何でしょうか? それもまた、愛です。そしてその愛は個人それぞれのためだけでなく、世界のためにも、同時に神のためにも、そして永遠の領域、すなわち霊的な領域にいる霊的な存在達まで愛するためのものでした。

それでは、今私達が全体的な回復の生を負う立場にあるとき、日々の生活でイエス・キリストの生の価値を実現するために、感情だけでなく、宇宙的な全体の性格を通じて、イエス・キリストの人格を代わって受け入れる覚悟と決意を持たなければなりません。そのような日々の生活を通じて、世界的な生を完成させ、永遠の生との関係を築くことができるのです。

再度説明しますと、皆さんの日々の生活が自己だけに焦点を当てる瞬間的な生命の価値だけを持つ場合、永遠との関係を築くことはできないということです。ですから、永遠に続く神の愛との関係を築く生活をする必要があるのです。そのときに、永遠で不変な神が皆さんと共におられることを理解することになります。

そして、皆さんはイエス・キリストが一生を通じて毎日神と関係を築いて生きたため、イエス様は昇天しましたが、イエス様を通じて神の意志が継続して成就されたことを理解する必要があります。

それでは、今日、私達がこのような関係を築くためにはどうすればいいでしょうか? つまり、イエス・キリストを信じて歩む際に、私達の中心に置くべき概念は何でしょうか。それは、イエス様と同じように、個人のためだけでなく、世界のために生まれ、さらには天のために生まれたという概念を持つことです。他者のために生きること、他者への愛と奉仕の生活を通じてのみ、神と永遠の関係を築いていくことができるということを、皆さんは確実に理解する必要があります。

今日、私達にとって、イエス・キリストを信じ、その愛に感謝する心があるとしましょう。その感謝を自己だけのものと見なしてはいけません。その感謝をすべての人々のための感謝として実践していくべきです。そのような人がいれば、彼は世界的な使命を引き受け、さらには神の全体的な使命まで負うことができるでしょう。

私達がこのような中心を持って生きる限り、私達は失望することはありません。どのような困難や逆境にも、それを克服し超越する力を持つでしょう。

したがって、さきほど引用した聖書の言葉で、イエス・キリストは「何も思い煩うことはない」と述べられました。つまり、食べることや着ることについて心配する必要はないとされました。これは、個人的な生活を解決するのではなく、まず世界的な問題を解決するために心配し、さらには世界的な問題よりも神の意志を代わりにするために心配する人になるようにという意味です。また、そのような覚悟を持って生きる人にとっては、自己の苦しみが問題ではないことも示されています。

では、神の意志を達成しようとする私達は、どのように生きるべきでしょうか? 毎日の生活が自己の内外の問題だけを解決するためのものになってはいけません。自身の問題を超えて、全体的な問題と関連付けて、永遠の価値を実現する責任感を持って前進する必要があります。そうすることで、皆さんは宇宙的な福音の目的を達成することができるのです。また、そのような使命感を持って伝道の道を進むならば、神が共におられることを知っていただけます。こうして、皆さんが愛の心を持って奉仕するならば、必ずそこに愛の再創造の歴史が生じることでしょう。これをしっかりと理解しておく必要があります。

私達はこれまで信仰生活を過度に自己中心的に行ってきました。自分のために努力し、自分を愛してきました。しかし、これからはそうではいけません。今後の皆さんは、天に向かって愛を求めるならば、すべての人々を愛することを求め、霊的な領域にいる多くの霊的存在達までをも愛することを求めなければなりません。

人類の永遠の生命を見つけるために降臨された歴史は神の計画であり、世界的な生を見つけるために残されたものが人類の歴史の使命であり、一日一日の生を見つけるためにあるのが日常生活の使命です。そして、これを人間の価値的な関係から見ると、世界的な生を見つけるためにあるのが人間関係であり、個人的な生を見つけるためにあるのが倫理観なのです。こうして、世界から個人に至るまでの全ての問題が、自己自身から関連していることを理解する必要があります。

そして、永遠に父なる神が保証できる生命の価値を持つためには、愛を中心に置いたイエス・キリストの生涯観を学ばなければなりません。

では、イエス・キリストの生涯観とは何でしょうか?彼の生涯観は、愛を中心に置き、奉仕の心と宇宙的な支配者の心情を持ち、日々の生活を支配していくことでした。これがイエス・キリストが宇宙的な生を取り戻すために確立した生涯観の中心的内容でした。したがって、皆さんは日々の生活でどんな些細な問題に直面しても、神から託された全体的な生命の復活の使命を負った心でそれに取り組むべきです。また、イエス・キリストが復活のための愛の実践者として立ち上がったことを感じ取る必要があります。

そして、その愛を実践するために、皆さん自身が他人のために尽くす生活をしなければなりません。そうすることで、皆さんは全体的な生命と関わることになり、永遠に存在する神が証明できる生命の価値を実現することができるのです。イエス・キリストは宇宙的な生を取り戻す使命を持って降臨された方であったため、個人的な奉仕や犠牲、苦難の道を歩まれました。そして、このような責任を負う際にも、その時代だけでなく、復活の使命が達成されるまで、全人類の生命を負う意志を持っておられました。

もう一度言いますと、イエス・キリストは2000年以上の歴史が経過した今日まで、宇宙的な生の復帰の使命を担いながら現れています。しかし、イエス・キリスト自身だけではその使命を完結できなかったため、聖霊を送って歴史を進め、そして霊的な領域にいる多くの霊的な存在を動員してその使命を完結させているということを皆さんは知るべきです。

このようにイエス・キリストは宇宙的な生の復帰のために現れましたが、その使命を完結させることができなかったため、まだその使命を果たすべき責任が残っているということです。ですから、イエス・キリストは今日までこの地上でその使命を果たすために努力し続けているのです。

しかし、この責任はイエス・キリストだけでは完結させることはできません。では、誰がその使命を完結させるために使われるべきでしょうか?神は皆さんを通じてその使命を完結させたいと願っています。言い換えれば、イエス・キリストが宇宙的な生の復帰の使命を完結させなかったため、今度は私達がその使命を担う必要があるということです。そして、皆さんが自分達の時代でその使命を完結させる責任を感じるならば、一生を通じてその使命を果たす決意を持つ必要があるということです。

今日の皆さんは、日々の生活の中で、イエス・キリストが宇宙的な生の価値を実現するために創造された歴史的な進展の過程で働いておられることを感じ取る必要があります。そうしないと、これまで宇宙的な生の復帰の使命を果たすために努力してこられたキリストの意志が、皆さんを通じて完結されないままに終わってしまうことになることを理解する必要があります。

今、皆さんはまず、自分達自身を天に誓約の条件として立てることができるようになるべきです。イエス・キリストも世界のため、天国のため、またはすべての人々のためにただ一度だけ誓約の条件を設けましたが、それが何かと言えば十字架です。イエス・キリストはこの十字架を通じて、多くの聖人達が生涯をささげてきたその基準を一瞬にして超越したのです。

したがって、皆さんは宇宙的な生の価値を実現するために、将来のある時点で天の前、世界の前、または個人の前で捧げる誓約の犠牲となる意識を確かに持つべきです。

どこに行っても、どのような状況に置かれても、何をするにしても、その日その時間において、常に誓約の条件として立つことを努力する必要があります。このような生活こそが信仰の生活なのです。

今、皆さんには父なる神の前で宇宙的な生の価値を実現する使命が残されています。そのためには、自分自身を誓約の条件として立て、イエス・キリストとの関係を築く生活を送る必要があります。さらには、自分自身を世界的な条件として立てる決意を持つべきです。それ以上に、これまでの多くの預言者やイエス・キリストを代表して、誓約の犠牲となる覚悟を持つことが求められます。

こうしたように、個々の皆さんが誓約の条件を築くことによって、個人から始まり、カップルとなり、家族となり、さらには教会、社会、国家、そして世界に広がっていく環境が整うと、生の価値を追求するための世界的な苦難は終わることを理解する必要があります。言い換えれば、生命を追求するための世界的な苦難を終わらせる基盤が個々の皆さんから形成されていかなければ、神がイエス・キリストを通じて宇宙的な復帰を遂行しようとする意図は果たされないということです。これを皆さんは確かに理解するべきです。

しかし、これまでの歴史を振り返ると、皆さん自身について考えたり、または現代のキリスト教徒を考えたりすると、宇宙的な生の価値を代表し、個人と家庭が社会、国家、世界とつながる基準が築かれていないことが分かります。一から始まり、全体へと、すなわち世界中の人類全体がその内包されるべきなのに、そのような流れが実現されていなかったことです。このような基準がこの地上で確立されない限り、イエス・キリストの宇宙的な復帰の使命は完了しないことになります。

真の個々であるイエス・キリストは立ち上がりましたが、今まで家庭、社会、国家、世界へと拡大されていかなかったことを理解する必要があります。そのようなイエス・キリストの欲望が宇宙的な欲望として残り、また神の欲望、天国的な欲望として残ったのです。

そのため、人々はこのような欲望を解消し、永遠の天国の勝利が訪れる日を待ち望んでいるのです。皆さんの生活を通じて、天と地の全体的な価値を証明し、天国の全体的な愛を表現する決意を持つべきです。ただし、皆さんが望む生命の価値観と、神が全体的な秩序を実現するために願われている宇宙的な生の価値観とは、異なることに注意が必要です。

したがって、皆さんは希望に満ちた天の法則を基準とする生活の規範を通じて、個人的な生活においても世界的な生活と宇宙的な生活を実現できる心構えを持ち続ける必要があります。そのような心構えが備わるならば、外部的な成果が完全に得られなかったとしても、内面的には引き続き全体と関わりを持ちながら進んでいけることでしょう。

そのために、イエス・キリストも「天国はあなたがたの内にある」と言われました。これはどのような意味なのでしょうか?宇宙的な生の価値と宇宙的な愛と真理の完成者であるイエス・キリストは、神が各個人に授けたすべての価値を完成させ、それが彼ら個人の根底になるべきであることによって、天国が実現するという意味で述べられた言葉です。

このように天国の領域に属する個人が結集し、統一し、世界的な生命の運動を起こし、また天国の領域にいる多くの聖なる存在とも関係を築けるようになるとき、初めてイエス・キリストがこの地において宇宙的な生の復帰を成し遂げようとされた意図が、そのような人々を通じて完成されることを皆さんは理解するべきです。

宇宙的な生の復帰の使命を背負牀おいでになったイエス様を追随していた当時の人々が、そのような使命を想像もしない立場でイエス様に接したとき、イエス様は彼らを戒められ、神の国と義よりも食べたり飲んだり着たりすることを願うべきではなく、それらを生活の基準としてはならないとおっしゃったのです。

一日一日の生活を神の代わりに生き、イエス・キリストを代わりに生き、世界を代わりに戦える覚悟を持って生きる者がいれば、その人は一人ではありません。そのような人には、この世界の終わりまで神が共におられ、イエス様が共におられ、聖霊が共におられるのです。しかし、当時の人々はこのような関係を知らず、自己中心的な生活の概念を持って生きていたため、イエス様は彼らを戒められたのです。

それでは、終わりの時に立たされた皆さんがイエス様を信じる目的は何でしょうか?それは外部的な世界的な利益を求めるためではありません。個人的な安定を得るためでも、個人的に快適な生活を追求するためでもありません。私達が幸福な生活を送ることは、イエス様と神のためにです。しかし、この目的が変わってしまうと、全てがうまくいくかのように見えるかもしれませんが、時間が経つにつれて、むしろ妨害されることがあります。一方、人々がイエス様のために、神のために、世界のために生きるならば、イエス様がおっしゃったように、神がすべてを心配し、用意してくださるということです。

しかし、神のみ旨を成し遂げる責任を負うあなた達にとって、問題はどこまで犠牲を払って神のみ旨を遂行できるかということです。

あなた達が個人のために犠牲を払うなら、個人的な英雄になるでしょう。世界のために犠牲を払うなら、世界的な英雄になるでしょう。そして天地のために犠牲を払って勝利に満ちた生活の基準を築くなら、天地を統べる英雄になるでしょう。

したがって、イエス様は人々が自己の個性を似せ、生命の価値を見つけて築くように、今まで舞台裏で歴史を進めておいでになったのです。

あなた達が自己を見つけて立てることによって、このような生命の復帰の運動を引き起こすことは、人類の歴史的な観点から見ても、現実の世界的な観点から見ても、そして未来の永遠の希望的な観点から見ても、言葉では言い尽くせないほど重要なことです。同時に、あなた達の責任も非常に大きいことです。

皆さんが食べたり生活したりするすべての基準は、キリストを代わりにして全体的な生を回復するためのものとなるべきであり、また皆さんは神が追求されている全生命の価値を、イエス・キリストが築いた愛を中心に実践する責任感を持って立ち上がる者とならなければなりません。そうしたあなた達が存在することで、神の宇宙的な回帰の意志が完結されるのです。そのような人々が集まる場所が天国であり、そのような個人が多ければ多いほど、神が共におられ、さらに喜ばれるということをあなた達は理解するべきです。



<祈祷>
 宇宙的な関係を持つために宇宙的な法則を確立して、神の意志を成し遂げてこられた天のお父様の努力の歴史を私達は心から感じます。お父様よ、あなたが全世界の生命の価値を確立するために6000年間努力されたことを痛感し、私達を導いて下さい。

個人から全体に至るまで、キリストとの関係を持たない宗教は、神が介入することができないことを天の理として知っています。今、私達がイエス・キリストの願う生活を送ることを許して下さい。そして、私達にイエス・キリストの愛の価値を知らせることを許して下さい。愛する天のお父様、切に願います。

イエス・キリストが持っていた生の決意を私達も持つべきだと知っておりますので、私達の個体の生の価値を見つけるための闘いの場で、サタンの侵入を打ち破り、勝利できるよう共におられることを願います。

イエス・キリストが遺した生の価値の回復の道を私達が進む際に、サタンの中傷が存在することを知っておりますので、個人の生活から世界の生、宇宙の生に至るまで広がる使命において、サタンの中傷を受ける者にならないよう導いて下さい。

堂々とサタンの中傷を日々の生活で排除し、歴史的な観点からも排除しようとする決意を持ち、その生命と責任を果たせるよう許していただくよう、愛するお父様、切にお願いいたします。

これから私達が永遠の命の価値を持つ世界的な生を創るためには、地上で万物を統治したイエス・キリストの完全な人格を模範としなければならないことを理解しております。ですから愛のお父様、私達がキリストの人格に類似するように導いて下さい。また、私達は誰であれ実際に闘いの使命に挑む立場にありますので、社会的な活動やお父様の前で立ち向かう人格的な側面、あるいは人々に与えるべき愛の側面で、サタンの中傷を受けないように導いて下さい。永遠のお父様の愛が成就されるよう、私達が熱望するキリストの愛を実現できるよう、共におられることをお願いいたします。キリストが築いた生命の価値を私達が持ち、その価値をこの地上で実現できるよう、お父様、お導き下さい。心から願い求めます。

私達がこの使命を引き受けることで、個人から世界、天に至るまで繋がっていくことをこの瞬間感じられるよう、許していただきますようお願い申し上げます。外的なすべての条件に打ち勝ち、全体的な生命の基準と価値を見つけるために、私達自身を覚悟し、すべての条件を誓いの捧げ物として取り組んでいけるよう、愛するお父様、導いて下さい。切に願い求めます。

すべてをお父様の御心に従って統治していただき、これらの使命をお託しいただくことを切にお願いいたします。主の名により祈ります。アーメン。




「文鮮明先生の言葉選集 2 - 2. 最後の道を行かれながら振り返るイエス」
1957年2月10日(日曜日)、本部教会。
ルカによる福音書22:54-62

<祈祷>
 お父様、一週間にわたり御意を中心に戦い抜いてきた息子娘達、サタンの巧妙な策略に惑わされないよう、この時、お父様の前にひれ伏しております。お父様自ら威厳をもって、それぞれの心身を導いてください。

この時、心に不平を抱いている者がおりますか? 体にサタンの痕跡を持っている者がおりますか? 愛あふれる私のお父様、彼らに再創造の歴史を示し、慈悲の手を差し伸べて、あなたが望まれる意志に不足のない心と体で、お父様に敬意を表することができるように、この時、お父様からの恩寵を願っております。

愛するお父様! 幼い私達を呼び、宇宙的な摂理を予告しようとするお父様の意志に、私達は頭を垂れ、ひれ伏しております。この時、私達の心に直接命じていただき、私達の身体を鼓舞して、望まれる善の領域に向かって、望まれる善の意志に向かって、望まれる勝利の領域に向かって駆け足で進むことができるように、導いていただきますようお願い申し上げます。

また、御意に向かって励むことができる私達になるように起こし、自覚的な力と自覚的な決意を持って進むことができるように許可していただきますよう、愛するお父様、切に願い求めます。

まだまだお父様の前にふさわしくない罪悪の要素が残っている私達ですが、お父様!尊厳ある力の歴史によって私達の罪悪の要素を取り除いていただき、御力の手によって触れて悔い改めの心を起こしていただけますよう、お父様、切に願い求めます。

この日は聖なる日であり、祝福されると約束された日です。多くの祭壇が民族のために集まっているこの時、祝福していただき、勝利の旗を掲げることができるように導いていただきますように。お父様の栄光と慰めを受けるために、この時敬意を表し集まっている多くの息子娘達を祝福し、聖霊の働きを下さるよう、愛するお父様、切に願い求めます。

お父様、私達のすべてを父の前に差し出すために集まっております。お父様の前にふさわしい者達なのか、もう一度自己を分析できるよう導いていただき、もしお父様にふさわしくない未熟な事実がまだ残っているなら、全てを悔い改め、全てを差し出してお父様の助言と指導を受けることができるようお許しいただきますよう、愛するお父様、切に願い求めます。まだ戦いの遠征が続いているこの時、私達の心を合わせて生命の楽園を目指して突き進むための天の指針となる存在となれるよう、お許しいただきますよう、愛するお父様、切に願い求めます。

孤独な息子娘達が地方に散在し、福音の言葉を証するために努力し、労苦の祭壇を築いていることを知っております。彼らがどの場所に集まっても、お父様がご自身で働き、勝利の息子娘であることを証明していただけるよう、導いていただき、お父様がご自身で導かれ、働かれることができる勝利の祭壇を築くことができるよう、許可していただきますよう、愛するお父様、切に願い求めます。

ここに出席している息子娘達、自分を中心に据えた考えや主張を持たないように許可していただきますよう。幼子のような心で、すべてを差し出し、命じられる言葉によって自分の不足を悟り、お父様の前でひれ伏せる息子娘となれるよう、お許しいただき、お父様の再創造の手によって支えられるこの時間となれるよう、お許しいただきますよう、愛するお父様、切に願い求めます。

お父様の前にすべてを委ねましたので、サタンが侵入するこの時を許さないよう、お許しいただきますよう、切に願います。性別の歴史によってお導きいただき、お父様ご自身がご指導いただけるように、また、お父様の栄光だけが顕れるこの時間に導いていただけますよう、切に願い求めながら、すべての御言葉を主の名によってお祈り致しました。アーメン。


<御言葉>
今日のこの時間は、「最後の道を行かれながら振り返るイエス」という題で、しばらくお話しいたします。

アダムとエバが堕落によって神が許された永遠の楽園を失ってしまいました。つまり、彼らは神と共に生きる善の楽園を失ったということです。それにより、彼らは神の存在から離れ、懐かしさを抱えて苦しい生活を始めることになりました。その結果、神の愛から離れた人間は今まで悲しい心情で神を振り返り、苦難の6000年の歴史を歩んできました。

私達の先祖が天に向かって振り返る生き方を歩んだように、今日の人類も自らの本来の位置を取り戻すために、天を仰ぎ見ながらの生涯を歩んでいます。また、人類を救うためにおいでになったイエスも、地上で天を見つめて歩む人々を探し求めておられました。

世界の人々が現れるイエス・キリストの新しい福音によって、自らの生きる道を振り返り、イエス・キリストに縋りつくことができるように願われ、天の愛からイエス・キリストが送られました。しかしその当時の人々だけでなく、今まで多くの人々は天を仰ぎ見ることができる主人公を迎え入れることなく、適切に迎え入れられていないため、天を仰ぎ見て進む生の目的を達成せずに歴史が流れてきました。それゆえ、今日の皆さんも、どうせなら天を仰ぎ見て進まなければならない運命にあるのです。

しかし、人間自体の力では天に向かって戻ることはできないため、神はイエス・キリストを送って、戻ることができない人々に戻る手段を提供しました。もし人々が彼が見る方向を見て、彼が歩む道を歩んでいたならば、人々は神の愛に戻る願いを達成できたでしょう。これが神がイエス・キリストを送った中心の意図であったことを、皆さんは確実に理解すべきです。

当時のユダヤ教徒はもちろん、イスラエルの民族や世界中の人類は、イエス・キリストを抱きしめ、天を仰ぎ見て進むべき生の目的を完成させて、神の元に帰らなければならなかったはずです。しかし、人々の不信仰のために、イエス・キリストは自身の道と人々の道が分かれてしまいました。そのため、イエス・キリストが自身の進む道を止めて地を仰ぎ見る立場にあったことを、皆さんは心に留めておくべきです。

しかし、人間達の中には、今日まで6000年という長い歴史の過程を経ても、天に向かって立ち返り、天のために心を傾け、力を尽くした聖徒達がいなかったということです。また、人間達を代表して天に向かう苦難の道を歩んでいるイエス・キリストの足跡を止めるために、神に自らの命、愛、行動を捧げた聖徒、つまり真の犠牲者が一人もいなかったということです。これが神の深い願いであったことを理解する必要があります。

天を求めて進むべき人間達が地にとらわれ、地の希望を中心にしてイエス・キリストを信じなかったために、神は4000年間にわたり地上を支配される意図が挫折しました。その時、地上の人々の望みを実現するために、神はイエス・キリストを送りましたが、人々がイエス・キリストを見つめ進まなかったために、逆に2000年という長い歴史を通じて、神は再び地上を見つめる立場に立たれることとなり、イエスと聖霊も地上を見つめる立場に立たれたということです。

では、イエス・キリストが30年以上をかけて願った願いは何でしょうか?その願いは単に他人のために尽くすことでした。エデンの園からアダムとイブが追放されたとき、感じた悲しみと切なる思いを抱きつつも、それを表現せず、他人のために生きる生活を送ったイエス・キリストでした。このようなイエス・キリストを当時の人々が自分達のすべての願いを取り戻すことのできる主人公として知り、イエス・キリストに向かって歩み寄ることができたとしても、イエス・キリストは十字架に向かわなかったでしょう。

無知な人々を目覚めさせるために、30年以上の生涯を通じてイエス様が共に歩まれ、同じ行動で神に向かって進むべきイスラエルの民がイエス様を裏切ったため、イエス様は自身の進むべき道を止めることとなりました。このように、天から託された使命を成し遂げることができなくなったイエス様は、人類のために再び天に向かって目を向け、人間の代表として神の元に入る道を歩まなければならないということを、皆さんは心に留めておかなければなりません。

それゆえ、人々が神とイエス様のために真心を持ち、イエス様の進む方向に合わせて歩み、イエス様が歩まれた道を代わりに歩み、保護していたならば、イエス様は人々を愛する神と同じように人々を愛することができ、そしてこの地上で喜びの祭壇を備え、栄光の日を迎えることができたでしょう。しかし、当時の人々が天に向かうその歩みを追わなかったため、イエス様はイエス様の道に、人々は人々の道に分かれることとなりました。

しかし、創造の原理的な責任を負う神は、人が進む方向を変えて、イエス様を通して神の元に進むための勝利の日を実現しようとされました。しかし、地上においでになったイエス様はイスラエルの民に拒絶され、十字架まで進まれることとなりました。そのため、神がイエス様を通して行われるべき意志が失敗に終わったことを、皆さんは確実に理解する必要があります。

しかし、イエス様が十字架の道、ゴルゴダの丘の孤独な道を進む際に、誰を振り返られたでしょうか。それは、愛する12人の使徒の代表であるペテロを振り返られました。なぜなら、自身の後に最初に続かなければならないペテロの心が変わることを心配されたからです。こうして、神の意志を気にかける心情にもかかわらず、愛情に満ちた心でペテロを振り返られたイエス様のその視線を、今日の皆さんは再び感じる者となるべきです。

しかし、ペテロは3度もイエス様を知らないと言いました。そのため、天の意志と完全に分かれた立場に立たされ、イエス様とは無縁の立場に立たされることとなりました。イエス様はそうした状況をご存知でしたが、誰もが死の道を進む自身の後を見守り、心から共感し支えることのできる一人を求め、愛する弟子であるペテロを振り返られたのです。こうして、真の人間を求める神の意志が、愛する弟子であるペテロを見つめるその視線の中に宿っていたことを、今日の皆さんは理解すべきです。

神の全体的な意志を担うイエス様にとって、このような立場に立たれるとき、これ以上の悲しい場面はなかったでしょう。なぜなら、人々の不信仰のためにゴルゴダの道、死の道を進む自身の使命を引き継ぐ者を見つけようとする悲しい心情を理解してくれる人は一人もいなかったからです。そのため、イエス様は言葉では表せないほどの悲しみに沈まれたのです。ただ神のみが、イエス様の悲しい心情を理解し、イエス様の哀れな状況を気にかけてくださったのです。

イエス・キリストは自身の30年以上の生涯を通じて、ただ天の悲しい状況を代わりに背負って進んできた苦労と努力を振り返ると、人間に対して叱責したくなり、地上を呪いたくなる気持ちに沈まれました。しかし、そのような心情を抑えて、自身の足跡を止めて同行しているペテロを見つめられたのです。こうしたイエス・キリストの内面的な心情を、皆さんが感じることができないならば、イエス・キリストを中心にした神の意志を受け継いで堂々と立つことはできないことを、皆さんは確実に理解すべきです。

それでは、こうして孤独な苦労の中で一生を終えようとするイエス・キリストを見つめるペテロの心情はどのようなものでしょうか?彼は過去にイエス・キリストと築いた真の愛の絆を忘れず、孤独の中で嘆息し、言葉にできないほどの悲しい立場に置かれたでしょう。傷ついたイエス・キリストを見て、罪のないイエス・キリストを侮辱し、罪のないイエス・キリストを怨み、縛り上げて連れて行く姿を見つめるペテロの心情ももちろん非常につらかったことでしょう。

しかし、ペテロはイエス・キリストが全人類を戻すための代表的な使命を帯びてきたメシアであることに気づいていなかったため、弟子達を代表して前に出ることができず、自分だけを考える立場に立たざるを得ず、その結果、彼の前に女中達が現れてキリストの仲間ではないかと尋ねた際、三度も「知らない」と言ってしまいました。こうしたペテロの姿勢は、一つの人間としての立場を代表したものであったことを、皆さんは明確に理解すべきです。

私達がこのようなイエス・キリストとペテロの立場を再び振り返ると、三度も「知らない」と言ったペテロをイエス・キリストが再び振り返られたことは、ペテロとイエス・キリストの関係に限定された事実ではなく、歴史全体の過程がそうであったことを示しています。

世界中の人類が天の道を進む中で、キリストの意志を代わって実践する真のクリスチャンの姿勢で立ち向かう際には、必ず三度の讒訴がサタンによって行われるということです。これは6千年の歴史の中でアダムの立場、イエスの立場、再臨の時の立場を象徴的に表すものと言えるでしょう。また、これは終末において世界的な第一次世界大戦、第二次世界大戦、第三次世界大戦の形で現れることでもあります。こうした出来事は歴史全体に現れるだけでなく、今日の個人の信仰の状況においても起こりうることを、皆さんは理解すべきです。

では、皆さんが主に会う直前に何が起こるでしょうか? ペテロが天に向かって「知らない」と言った裏切りの瞬間があったように、終末を迎えた今日、私達にとっても同じような瞬間が訪れる可能性があることを理解する必要があります。

私達には、外部的なペテロの立場を超えて勝利したイエス・キリストの後を追い、自己を見つけて立てる歴史的で神の計画に沿った運命が待っています。このような運命の頂点を超えるには、どのような立場でどのような責任を持たなければならないかを知らなければなりません。

また、イエス・キリストが復活する前にゴルゴダの道を歩まれたように、終末の時、世界中のキリスト教徒は再臨の時にイエスと共に復活の栄光に参加するために、最後のゴルゴダの道を歩まなければならないでしょう。そのような時代が明確に現れることを心に留めておかなければなりません。

それでは、今日の私達はどのような立場で信仰生活を送るべきでしょうか? ペテロにとって、愛する先生が何の罪もないのにローマの兵士に連れて行かれる際、心の中で憂えながらも外見上は「知らない」と言えなかった瞬間があったように、今日の私達にも世俗的な条件によって、意図せずしてイエスを「知らない」と言わざるを得ない立場に置かれる時があるかもしれません。その際、私達はイエス・キリストを「知っている」と言えるようにする必要があります。また、私達は常に自分を注意深く見つめ、信仰生活を送らなければなりません。

地上でゴルゴダの道を歩まれたイエス・キリストは、霊的な領域でも今日まで世界的なゴルゴダの道を歩まれてきました。このように、地上と霊的な世界で、私達は愛する聖徒達を後にして、イエス・キリスト自身が十字架の道、苦難の道を歩んでこられた方が、将来的にはサタンとの一大戦闘を展開されるでしょう。

そのような戦闘の時期が地上に現れるとき、私達はどのような立場に立たなければならないでしょうか? ペテロがイエスを知らないと言ったような立場に立つことはできません。私達はイエス・キリストの立場に立ち、私達のすべての事情や罪、不足を告白し、イエス・キリストが歩まれた苦労の道を歩むことができる勝利の子・娘としての立場に立つべきです。そのような立場に立たなければ、再臨する主を迎える栄光の位に参加することはできません。

ペテロは難しい立場にいた師であるイエスを三度も知らないと言ったが、イエス・キリストは真に自分の体を振り向けてペテロを見つめました。したがって、自分の困難や悲しみ、状況を忘れ、真に自分のために尽くし、自分の将来を心配してくださるイエス・キリストを見て、ペテロの心には一大転機が訪れました。ペテロ自身は三度もイエスを知らないと言ったにもかかわらず、イエス・キリストは本当にペテロのために尽くし、ペテロの前途を憂慮し、ペテロの感情が爆発しました。また、主と共に共に喜びと悲しみを分かち合った昔の絆を感じ、その瞬間、ペテロは自分の本質を認識することになりました。

イエス・キリストは、天の御旨を成し遂げるために自らの命を捧げ、死の道を歩む際も一切の人間的な悲しみを感じず、人類の救いの道を開拓するために努力する姿を見て、ベテロは自身の不足を心で感じました。ベテロはただイエス・キリストのために誠実を尽くさなければならない弟子の立場にいると思い、神に代わって立つイエス・キリストの立場と、自分がイエス・キリストに代わって立つべき立場を比較すると、自分がイエス・キリストを信じる信仰と、イエス・キリストが神を信じる信仰との間には天と地の差があることを感じました。

そして、自分がイエス・キリストを信じていると言っても、主のように天を中心に信じているのではなく、自分自身を中心に信じていたことに気付いた瞬間、自分を見つめるイエス・キリストの視線の前に驚愕しました。つまり、不信仰の自己を放棄して嘆息したのです。

天に向かう信仰の道において、永遠に変わらない姿として宇宙的な使命を一切疑わずに進めるイエス・キリストを見る瞬間、ベテロの心は一変し、自分の一生を通じて主のために生きるべきだという衝動が生まれました。不信仰の自己を認識した時から、ベテロはイエス・キリストと自分との関係、または互いの生涯の経過を比較し、より一層自分の不足を感じるようになったのです。

イエス・キリストは、天の御旨のために、この地上のすべての人々のために自己の幸福を求めず、全身を天に差し出し、十字架に引き渡されても不平を言わない姿を見ながら、三人の弟子達は自分達の生涯があまりにも個人中心的であったことを感じました。それゆえ、自己を中心としないでいらっしゃるイエス・キリストの前で、弟子達は自己を反省し、イエス様の常に望んでおられた御旨を引き継ぎ、この地上でその御旨を実践すると誓い、決意することができました。

そしてその後、ベテロは何を感じたのでしょうか? 自分の不信仰を感じながらも、周囲の不信仰も感じたのです。罪のないイエス・キリストを、どの人に尋ねても罪のないと答えるであろうイエス・キリストを、邪悪な周囲の人々が縛り付け、鞭打つのを見て、ベテロは迫害されるイエス様の視線の中で、イエス様の悲しみに満ち、孤独な心を見抜くことができました。このような不当な立場でも、天の道を進む姿勢を示すイエス・キリストの熱い視線の前で、ベテロは周囲の環境の腐敗を感じました。そして、イエス・キリストの弟子であるベテロは、邪悪な集団と戦い、正義の使命を果たすために、主が再び来られるまで周囲の腐敗した勢力と戦うことを決意したのです。

天に向かうイエス・キリストの善き不変の姿と周囲の腐敗は天と地の差がありました。したがって、一瞬だけイエス・キリストの視線を振り返ることで、ベテロは自分の愚かな人生を清算でき、周囲の環境を浄化し、善の基準を確立するために、ますます神に向かいました。

黙して天のために、地のために、すべての人々のために、御旨のためにお帰りになったイエス・キリストのお帰りを通して、ペテロは自然と主を尊敬するようになり、そのお帰りに悔い改めの涙を流し、嘆きました。

この事実が最後にご自身を振り返るイエス・キリストに、自分を認める使徒がいることを感じさせ、天と人間の関係が回復される瞬間であることを感じさせました。ペテロはただ一人、天と地、そしてすべての人々と多くの使徒達を代表して神の御旨の前で帰られたイエス様に、自分の不足を感じて悔い改めの涙を流したのです。こうして、イエス様が十字架に帰られる前の苦しみを見て、ペテロだけが嘆きながら悲しんだのです。このような出来事があったために、イエス様が使徒達を中心に歴史を進行させる基準ができ、イエス様と人々との関係が新しい基準で結ばれることができるようになったのです。

キリスト教徒がイエス様が十字架に帰られた後、今日まで神の御旨だけを堅持し、復活と再臨の時を待ち望んできたように、あなた達も同じ立場を通るべきです。そしてペテロと同じような立場に帰ってくるべきです。これはあなた達の信仰の旅路に残された最後の運命です。だからこそ、真剣な立場から、真摯にイエス様と自分との関係を振り返り、イエス様の模範を見習い、イエス様の前で謙虚に悔い改めることができるはずです。

今まで私達が信仰生活を歩んできた中で、私達が主をどれだけ心配し、思いやって生きてきたかが問題です。自分は一生を通じてイエス様を気遣って生きてきたと言っても、どうして死の床を通り抜けながらペテロを見つめたイエス様の生涯と比較できるでしょうか?

復帰の原則に従って、イエス・キリスト様が死の道から群衆を振り返られたように、私達も死の道に立たされたとき、イエス・キリストを振り返って見る自信を持つべきです。そのような立場から、イエス様を代わりにする立場で、同時にイエス様を栄光の位に迎えるために私達が振り返り、イエス様の苦しみを代わりにし、イエス様の心配を代わりにする必要があるということです。あなたがたにそのような時があったかどうかが問題です。

もしもあなたがたにそのような時がないならば、最後の時、すなわち復活の栄光を迎えるとき、マグダラのマリアが復活したイエス・キリストを抱きかかえたように、あなたがたも復活の主を抱きかかえ、「私の主、私の花婿」とは言えないでしょう。イエス様が十字架の上からペテロを見つめ、ようやくペテロと三人の弟子は見つけましたが、天国に到る聖者達はイエス様を直接抱きかかえ、進んでいる者はいないということです。

今や終末にある皆さんがイエス様と共に共に生活し、イエス様の真実な弟子となり、イエス様の御心を成し遂げるためには、イエス様が死の道を歩みながらもペテロを振り返られたように、本当にイエス様を気遣い、イエス様を代わってサタンと戦う覚悟を持つ必要があります。そうでない場合、栄光の主を手放して神に礼拝することができないことを皆さんは理解すべきです。

私達は信仰の生活を送っているが、日々の生活全般を通じてイエス様を気遣う生活はできていません。だからこそ、イエス様は何百回、何千回も私達を訪ねて来ておられますが、私達の不信仰な生活のために避けざるを得ず、悲しみの目で私達を見られたことでしょう。

イエス様が私達を悲しい目で見つめる場面が多々ありましたが、私達はその方の事情や心を知らず、自分だけを考え、自分の思う通りになってほしいという楽な信仰生活を続けてきました。

ペテロがイエス様の目を見つめる中で、自身の生涯とイエス様の生涯を比較し、自分の不信を責め、自己中心的に生きていたことに気付きました。同様に、皆さんも自分自身をイエス様の30年以上の生涯と比較し、神のために歴史を刻んできた2,000年以上にわたるイエス様の歴史的な人生の模範と比較すると、自分を中心に置いて生きていたことを感じずにはいられないでしょう。もし皆さんがこのような不信の国から抜け出すことができないなら、再臨するイエス様に出会う道はないことを知る必要があります。

それでは、どれほど遠くまで進むべきでしょうか?皆さんはイエス様の目を通じて、彼の心を理解し、十字架の苦しみを前にしたゴルゴダの決断ではなく、復活の栄光の場所まで進む覚悟が必要です。そのためには、ペテロと同様に、皆さんも自己中心的な信仰観念を反省する必要があります。

イエス様は自己中心的に自分を生きるのではなく、神の意志を中心に生きられました。皆さんも信仰生活において、自分の救いを求めるため、自分だけが良くなるために信じるのではなく、神の意志のために生きることが大切です。

自分の利益のための信仰観念を持っていたペテロは、気付かぬうちに三度もイエス様を裏切ってしまいました。同様に、今日の皆さんも自己中心的な信仰観念を持っている場合、いつ、どの瞬間、どの時点で自分も気づかないままに天国を拒絶することが起こる可能性があることを心に留める必要があります。つまり、皆さんは自己を信じる信仰生活ではなく、イエス様を信じる信仰生活、自己を探求する信仰生活ではなく、イエス様を探求する信仰生活、自己のための信仰生活ではなく、イエス様のための信仰生活を送るべきです。

ペテロが自己を探求する信仰生活を送った際に、言い表せない苦難が彼を妨げ、ついにはイエス様との関係も断たれる結果となったことを思い出し、皆さんもそのような状況を避けなければなりません。自己のための信仰生活から離れ、イエス様と神様のための信仰生活に変える必要があります。

そしてその後、ペテロが不信心な環境を信仰心の環境に回復させ、不信心なことを痛感したように、皆さんも神様が望まれない不信心を見て、表現できないほどの自己嫌悪と後ろ向きな感情を抱きながら、神様の求める善の道を歩むべきです。また、その善は自己中心的な善ではなく、神様を中心に据えた善であり、その善が自己との関わりを築くようにするべきです。

この善の道を見つけるときに、初めてペテロが神の御旨が達成されない状況を見て、悲しんだように、皆さんもペテロの立場を代わって、世界の人類のために悲しむことができ、天国のために悲しむことができます。

今、皆さんには父の前、イエス様の前、あるいは聖霊の前で、最後の勝利の使命を果たす責任があります。そしてゴルゴダの道を進むイエス様を裏切ることなく、その後ろを追いかけることができる人となるべきです。

そして皆さんは自己を心配する人にはならず、むしろ自分の苦しみを忘れ、イエス様の後ろを追いかけながら、「先生!」と声をかけることができるよう努めるべきです。つまり、皆さんはイエス様の心配の目を受ける人ではなく、むしろイエス様の立場に入り、イエス様のために心から慰めることができる姿勢を持つべきです。これを誰が行ったのでしょうか?ただイエス様だけが、この使命が果たされる日を待ち望み、人々のために今日まで尽力してきたのです。

今、皆さんは日常生活の中で、自分自身をイエス様の心配の対象としてではなく、全ての希望をかけておられるイエス様の意志と神の摂理に背く者となってはなりません。ペテロがイエス様を疑った後に自分を振り返り、ため息をついたように、皆さんも自分の疑念をため息し、神の意志を代わって果たすべき苦悩のあるイエス様の立場を通じて、心から死を覚悟し立ち向かうことができる覚悟を持つ必要があります。

そしてイエス様が歩まれたその道を私も進む決意をもって立ち向かい、ゴルゴダを越えてようやく復活されたイエス様を花婿として迎えることができ、天の前で喜びと栄光を捧げることができることを皆さんは忘れてはなりません。

<祈り>
 人類の歴史の使命を遂行し、天の勝利の土台を築く過程で、宇宙的なゴルゴダの精神で悲しい道を歩む使命が今日24億の人々に課せられていることを、私達が愛する父よ、イエス様を送り、心配されていたあなたの心配が昔のゴルゴダだけで実現されたものではなく、今日私達の目の前でもその心配が続いていることを私達に示してください。

現在の自分の未熟さについて心配して泣くことができる一方で、まず最初にイエス様が望まれる成果を心配して涙することができる子と娘として導いてくださいと切実に求めます。

私達自身の不完全さを心配して泣く人であると同時に、神の意志が達成されずに邪悪な世界となり、イエス様に対して叫び声を上げ、侮辱するサタンの誘惑を見て涙することができ、悔い改めることができるように許してください。

イエス様はその生涯の過程で常に神の見る目を感じながら、タンガム復帰の使命を完遂するために最後まで帰ってこられました。私達もいつかイエス様が私達を探しにこられるとき、イエス様の見る目と足跡を忘れないように、お許しいただけるようにお願いします。また、今まで私達がイエス様のその見る目と足跡を無視してきたことを多くの場面で思い知らせてください。

お父様!私達は一度でなく、二度、三度と裏切るかもしれませんが、変わらず私達人間を求めてこられたイエス様の心情をどれほど慰めて差し上げ、どれほど天の前で涙を流されたかを悔い改める私達となるように許してください。お父様よ、孤独なあなたの子ら、世界的な審判の時が近づいていること、宇宙的なゴルゴダの丘が私達の目前に迫っていることを思うと、私達が自分中心の信仰の姿勢を歩まないように導いてください。

私達の命は私達のものではありませんし、私達が生きる人生も私達のものではありません。私達が望む願いも私達のものではなかったのです。したがって、私達が自分自身のために生きる生活にならないように導いてください。私達の能力、要求、欲望、これらすべてを自分自身のために持つことがないように許してください。愛するお父様、切実に求め、願います。

私達がイエス様のかわりに十字架の死の道を歩むかもしれませんが、最終的にはイエス様の不変の信仰を知って、ベテロが心の中でため息をついて神を信じる仲間として、イエス様が十字架を背負いながら進まれるのを見て涙することと同じように、ゴルゴダの審判の日が来る前に、私達がイエス様の前で悔い改めの涙を流し、宇宙的な悔い改めを背負ってお父様の前で涙を流すことができるように導いてください。愛するお父様、切実に求め、願います。

お父様!私達はイエス様の足跡を代わりに歩む覚悟です。私達にこの地上の哀れな人々を救う使命を託してください。残されたゴルゴダの道を私達が歩むことを許してください。そうして私達が世界中のサタンを打ち破り、勝利の栄光の場所を築いて、私達の生涯のうちに復活されたイエス様を迎え入れることができるように、導いてください。愛するお父様、切実に求め、願います。

終末にお父様の御心を必ず成し遂げるように許してください。不信の自己を捨てて永遠に信じることのできる自己となり、不信の世界を離れるように導いてください。お父様と共に永遠に安息でき、天国でお父様の愛を受けて無数のサタンを従わせることができる子らとなるように導いてください。

切実に求め、願います。主の名によってお願いいたします。アーメン。


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御言葉選集1(20)

2023年08月10日 17時16分12秒 | 学習
「文鮮明先生の言葉選集 1 - 20. 天国への帰還を選んだ集団 (1956年12月30日)」
1956年12月30日(日)、前本部教会
聖書拝読 ヨハネによる福音書 15:1-22



<祈祷 (Ⅰ)>
この一年の最後の週を迎えました。お父様、私達がいつお父様の心を思いやり、心配したことがありますか? お父様のために戦ったことがありますか? 一度でもお父様を心から愛したことがありますか?


お父様、一年間、心配される思いを持って下された命令とこの民族のために私達に託された責任を私達が果たせなかったことをお許しください。この一年間、私達のような何も持たない者を立ててくださり、お父様が与えられた指示と命令がたくさんありましたが、その使命を果たせなかったことをお許しください。一身にして、お父様が求められる偉大なる志を成し遂げることをお許しください。


御心に応える地の人々が、時と場所を知らずして天が望まれる願いの達成の基準まで働くことができず、命令に従わないことをお許しください。戦いの中を通ってきたとは言え、勝利の成果がお父様の前に現れなかったことを見ると、お父様、この日再び恥ずかしさを感じずにはいられません。


ここに集まったあなたの息子娘達に対して、ここに過去にお任せになった全ての責任を再び委ねていただき、お父様の御心に従って走らせてください。内面と外面の自己を見極めて、いつでもお父様の愛を受け取ることができる心を持たせてください。自ら考える心を持てるようにお許しください。


お父様、私達に託された使命は、今日の私達自身だけを求められたものではなく、民族を求め、世界を求め、さらには天宙の望みまで解き放つべき使命ですが、その使命を代行し、お父様の指示に従う私達が、お父様の前に矮小(わいしょう)さを感じずにはいられません。


2


お父様、弱く不足な私達自身を再びお父様の前に立たせてください。慈悲と恩寵の手が、この場所を越えて悪魔の世界にまで溢れ出ることができるように許してください。お父様、熱望しております。


お父様、この民族を慈悲深くご覧ください。この民族を代表して集まった数多くの教会にも慈悲を注いでください。彼らにお父様の偉大なる御心と秩序があることを知るようにお許しください。


そして、教会がお父様の御心を受け入れ、民族が受け入れることをお許しください。この民族を通じて世界の24億人がお父様の御心を受け入れ、お父様の願いが成就するようにしてください。その栄光を24億の人々が歌う日が早くも来ることをお許しください。お父様、熱望しております。


この一日、足りないことを全て告げ、再びお父様の慈愛を求め、信じる者達がお父様のひざの前に集まっております。お父様、慈愛によって守ってください。栄光の恩寵として彼らを再び受け入れてください。新たな勇気と力を与えてください。お父様、熱望しております。


今この一時、お父様を拝しながら、天地が躍動し、お父様の尊い愛がこの場所に宿り、お父様と私達が一体となっている中で交わる栄光をお父様の前に差し出し、お父様から愛を受け取れる時間となるようにお許しください。心からお願いし、望んでおります。


3


各地に広がって、一人ひとりが孤独にひざまずき、お父様の前に祭壇を築いている息子娘達がおります。最後の使命全体を彼らに託す場合、どこにいてもお父様の御意に従い、ただお父様の御意を示すことができるようにお許しください。心からお願いし、望んでおります。


この一日、喜びに満ちた栄光が全体の頭上に共にあるようにお許しください。心から切に願いながら、愛される主の名によってお祈りし、お伝えいたしました。アーメン。




<祈祷(Ⅱ)>
お父様! 私達を見下す者達を探し出し、立ち上がらせてくださり、この時まで戦い抜かせてくださった恵みに感謝申し上げます。今日、私達には、身も心も捧げて、お父様の栄光の日のために戦わねばならない使命が残っております。お疲れにならないようお許し下さい。


お父様、ご指示に従って出て行く途中、行くに行けぬ険しい道でも、お父様がご一緒にお導きくださり、死ぬ道でさえも、お父様がご一緒に歩んでくださったことをあまりにも多く感じております。足りないわれわれを導き出し、多くを忍ばれたお父様のその愛に感謝せずにはいられません。


お父様! 約束の日とお許しいただいた日から、随分と時が経ちましたので、お許しいただいた御心に恥じ入るばかりです。今ここに集まったあなたの子供達が、この日に、お父様の御心に応えて栄光として報いることができないならば、涙をもってしてお応えできるようお許しいただきたく思っております。


4


お父様! 忍耐強く忍び寄せるお命令に従い、この民族のために訴えてきた先祖の願いが、この終わりにおいて実現されるようにお許しください。世界の人類の前で早くもお父様の御心を示し、お命令を下さることを、お父様、切に願い求めます。


お父様、民族の代わりに集まったあなたの子供達の中に、このように大きな御心を理解できない子ども達がいるでしょうか? 骨肉に染み入るお父様の心情を思いやることができるように、お許しください。


私達が進むべき道が遠く険しいことを承知しております。何時、どんな障壁がわれわれの前に立ちはだかろうとも、その力で突破し前進することができるように、また敵に立ち向かえない者にはならないようにお許しください。お父様、切に願い求めます。


お父様! 今日、ここに集まったあなたの子供達が、この一連のすべてを清算し、6千年にわたるからみ合い、対立した問題を解決できるようにお許しください。私達の個々の不足を清算すると同時に、この民族の不足をここで清算できるようにお許しください。そして、6千年の人類の歴史におけるすべての恥となった内容を清算するようにお許しください。こうして、この時を悪魔の前で勝利の条件とし、乗り越えて進むことのできる年となるよう、お願いいたします。


お父様、私達を何も知らない子どものようになるようお許しください。導かれると従うことしか知らない、導かれると服従することしか知らないわれわれになるよう許してください。私達それぞれの主観や概念が残らないように許し、お父様の心を見習い、清らかな子供の心を持つ善良な集団となり、死んでも生きてもこの道を守ることができるように、また危険が待つ道であっても駆け抜けることができるようにお許しください。切に願い求め、お願いいたします。


5


遠く離れた地方で、お父様の御心に縋り、守るために死を覚悟し戦っている孤独な仲間達がいます。疲れることなくお願いいたします。この時、彼らに勇気を与え、正義の衝動を許し、新たな決意と新たな御心のもとで喜びと栄光の日を迎えられるよう許してください。お父様、切に願い求め、お願いいたします。


この時、私達の不足をお許しいただきますようお願いいたします。私達には何も持つものもなく、誇るべきものもありません。ただただ、幼子のようにお父様の愛の腕の中に抱かれたいという切なる願いがあります。お父様、この時、真にお臨みいただき、それぞれの心の奥深くを洞察し、お造りになった計画どおりにご自身の祝福を注いでいただけるよう、切に願い求め、お願いいたします。


今日この場に集まった息子娘たちの中で、悪魔に引きずられ続ける息子娘がいないようにお許しください。 聖別の印を受け、喜びと勝利の旗をしっかりと父の前に永遠にホサナの栄光を称えるような決意のこの一時間となることをお許しください。切にお願いいたします。そして、すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。




<祈アy(Ⅲ)>


お父様!  天と地が一つの体のように結びついていることを私達は御言葉を通じて知ることができました。天は主体であり、私達は地に住むものと考えるとき、いつの日も、いつの瞬間でも、天の愛と命の精華を受けずには生きることはできない存在としています。しかしながら、今日、私達は天からの愛の精華、永遠の神から流れる愛を受けて生きるべきでありながら、一片の葉として生きている私の自己中心を許してください。


お父様! これから終わりの日が近づき、審判の日が告げられるとき、私達の一個人が完全なる根としてのイエス・キリストに中心をおいて、お父様の愛に結びつくことをお許しください。永遠のお父様の愛とイエス様と聖霊の愛を通じて結ばれる愛の実が私達の内に実ることを私達は願っていますが、私達がそれに到達するには不足であり、未熟で、父の収穫の鎌を妨げる存在となることを恐れています。


6


今、私達は自身をお父様に託します。お父様、私達を育て、見守ってください。試練と苦難の中で練り上げ、一つの成熟した実として完成させるようお許しください。永遠のお父様の愛の手によって、永遠の天国を成し遂げる実となり、収穫者として備えることをお許しください。


お父様! この出来事は、今日この時に初めて予告されたものではなく、昔ながらの旧約聖書時代や2千年前のイエス様の時にも既に予告されたことを知っております。これを知ると、今日の私達の一個人が結実して天に収穫される実として、天が安息できる結実体となるべきでありますが、個々に判断をすると、まだ完全さを感じていない者がおりますから、自ら父の前に悔い改め、自身の不足を嘆き、イエス・キリストの悲しみを代わりにする悔い改めの子供達となれるようお許しください。お父様、切に願い求めます。


お父様、今日私達がここに集まりました。彼らの心を完全に主管してください。完全にお父様の中心に導いてください。そして、お父様の御心にふさわしくない全ての悪の考えや主張を容認しないでください。


ここに集まった私達の集団は、男性と女性が一つになることで、悪魔が行ってきたことを終結させて、完全に聖別された子供達となれるようにしてください。お父様だけが導かれ、お父様だけが介入できるこの一時をお許しください。切に願い求めます。


今、私達を通じてキリストの日を成し遂げようとしていることを知らせていただき、私達を立ててキリストの愛を示そうとしている時であることを感謝申し上げます。また、私達一個人を立てて、20世紀の今日においてキリストの苦難に耐えることを願っていることをお許し頂く事を感謝申し上げます。お父様、天賦の心情を追求し、自分自身を中心にしないよう導いてください。自己を中心に置いて祈り続ける場所に留まらないようお許しください。


7


すべての悪が侵入する可能性のある要因を乗り越えることをお許しください。お父様が導かれ、お父様の望む御心を達成するために、どんな過酷な闘いの道であっても、倒れるしかなく、絶望するしかない道であっても、忍耐して進むことができるよう、お父様に支えられることを、切に願い求めます。


私達は地上の者ではないことを理解しており、したがって地上の栄光を受けることはできないことを知っています。イエス・キリストを通じて予告されたように、2千年の歴史を経て、真実なお父様の愛と真実なお父様の主管圏を持つ天の民、天の息子娘が存在すると語られた場合、彼らはどの時代においても、地上で歓迎されなかったことを理解しております。


お父様! 今日、私達がイエス様の代わりに、イエス様が地上で果たせなかった使命を果たす祭壇が、この民族の前で迫害される時、それに耐え得るようにお導き下さる様にお願いいたします。また、天のために生きる時、この地上の人々から侮辱を受け、苦難に見舞われ、悲しみを経験しても、それを克服し、残る力を持つことができるようにしてください。


6千年が経過した今日、イエス様は収穫の日を待ち望み、私達を呼び寄せておられます。私達を通じて歴史的な苦難や十字架の涙の跡を残され、私達が勝利の盾となるよう導いてください。希望の実体であるイエス様は、今日も私達が悪魔を主管できる資格を持つ者となることを望んでおられることを知る事が出来る様にしてください。


こうしてお父様の喜ばれる御心を心に抱き、今日も天のために戦わなければならないとき、人生のすべてを捧げてお父様の使命を果たす間、私の使命が終わらない限り、子孫を通じてでも敵である悪魔を打ち破る覚悟を持つ息子、娘となるようお許しください。お父様、切に願い求めます。


8


新年を前にする私達、再び生死を賭けた戦いの道を進むべきであり、心の底から覚悟しなければなりません。どのような敵が反対するかも知らずに、ここで屈することなく、忠誠を守ることのできる子供達となることを願います。お父様、切に願い求めます。こうして、私達はあなたを代表する子供達として、全天宇宙の前にはっきり示すことができ、天地に代わることができる、あなたの子供達となることをお許しください。お父様、切に願い求めます。


この日に許された御言葉を示して、心と体が一体となるように導いてください。霊が霊を導き、お父様の力の御前に再び創造されるこの時をお許しください。切にお願い申し上げます。


すべての御言葉を、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。




<御言葉>


「天国帰還を求めた集団」というタイトルで、しばらくお話しいたします。


皆さん、今日は私達が今年最後の日曜日を迎えました。この1年間に果たすべき使命を果たせなければ、次の年に果たすべきですし、今日の責任を果たせなければ、明日でも必ず果たさなければならないことを、皆さんは復帰の原理を通じてよく理解していることでしょう。


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創造以来の歴史は一日、一年、長い年月が経ち、季節が変わる中で6千年が経過しました。しかし、今ではこの地上で世界的な審判が行われ、神が完成させるべき復帰の計画は、今日の皆さんを通じて、24億人の人類を通じて遂行されるべきであることを、皆さんもよく理解していることでしょう。


それでは、今や私達は6千年の歴史の終わりに立ち、天宙的な帰還の歴史に協力するために参加している私達自身が、自分達の位置を明確に見つけなければならない時が来ています。


したがって、今や皆さん自身が6千年の歴史を超えて最終的な復帰の理想であり、アダムとエバの時代の基準に到達しなければなりません。さらに、皆さんの家庭、社会、そして世界中の人類全体が、その基準を超えなければなりません。その基準を超えるまで、神の計画はこの地上で完結しないことを意味します。


こうして、膨大で恐るべき努力が必要な復帰の使命、私達の先祖が犯した罪、先祖が受け入れられなかった部分を、私達現代の子孫が代わりに責任を持ち、達成しなければなりません。この天宙的な使命が皆さんにあることを、今この瞬間感じなければなりません。


アダムとエバの堕落によって、天国の理念は根本的に破壊され、人間を通じて完成すべき天国の理念は天から切り離されてしまいました。そして今でも、天国を見つけられず、天国を築くべき人々も見つけられず、人々を形成すべき家庭も見つけられず、家庭を形成すべき夫婦や子供、兄弟も見つけられていないのです。


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そのため、神が求めている唯一の中心的な目的は何かというと、それは天国への復帰です。そして天国への復帰運動は力強く進めなければなりません。天の民から天の子供、天の兄弟、天の夫婦、天の家庭までを復帰させ、天国を実現するべきです。このような使命が私達に残されているのです。


今日私達が住むこの地は、今日私達が住むこの世界は、天国の土地でもなく、天国の世界でもありません。神を中心とする世界ではなく、悪魔を中心とする天国に対立する世界です。しかし悪の世界が善の天国へと回復する歴史的な過程は、歴史の終末時代に必ず現れるでしょう。


現在、24億の人類は、神の計画に従って個人的な復帰から家庭、社会、国家、そして世界の復帰に向かう道を進んでいます。


イエス・キリストがこの地上において伝えた福音の中心的な目的もまた、天国への復帰でした。この天国への復帰という基準は、個々の復帰だけでなく、家庭、社会、国家、世界を通じて最終的には天国への復帰を意味します。そのため、皆さんがイエス様を信じ、その日から復帰のための戦いを通じて進んできたのです。


今、世界の人々の生活は世界のために生きることではありません。国家のために生きていると言っても、実際には国家のために生きているわけではありません。家庭のために生きていると言っても、実際には家庭のために生きているわけではありません。また、自分自身のために生きていると言っても、本当に自分自身のために生きている立場にはないということです。


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今日、邪悪な世界に存在する全ての人々は、世界のために生きるべきでありながら、それを実践していません。国家のため、民族のため、人種のため、家庭のため、自己のために生きるべき人々が、その基本的な立場を失い、それとは逆に生きているのです。


現代の人々は、自己を中心として生きている一方で、心を中心として生きることができていません。自分自身を見つめる際にどれだけ遠くなったかというと、心を中心に生きるべき自分であるにもかかわらず、その程度だけ遠くなっています。肉体を中心に生きている自分になってしまったのです。自己を中心にし、肉体的な満足だけを求めて生きている自分になってしまったのです。


神はこのように堕落した人々を復帰させるために、体を通じて心を服従させ、個人を通じて家庭に服従させ、家庭を通じて民族の前に服従させ、民族を通じて国家の前に服従させ、国家を通じて世界の前に服従させる歴史を、これまでに行ってこられました。


そのため、どの社会でも個人主義的な人々は、イエス・キリストを信じて出てくる革命的な精神に対抗する立場を取ってきました。また、家庭を中心にする人々も同様に反対の立場に立ってきました。


神は歴史の進展に従って、個人主義的な時代、家庭的な時代、民族的な時代、国家的な時代という進行に従って歴史を進められるため、その進展する過程には人々が乗り越える難しい局面が存在しました。


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今日、6千年の歴史が終焉するこの時代において、イエス・キリストの理念が地上で世界全体の帰還の理念として確立されました。言い換えれば、今日のキリスト教を中心とする理念が、世界の中心的な理念として表れているということです。しかし、ここで敵の理念の反撃を受けて、これらの二つの方向が戦っているのです。


では、このような立場に立つ現代の私達は、どのような基準を追求すべきでしょうか? イエス・キリストが確立した天国への帰還の理念を通して見れば、私達が進むべき理想の場所は、この世界に限られるものではありません。神が求める復帰の基準は、この地だけではないのです。天と地が結びついて一体となる理念の場所です。そこで、天を中心にして調和し歌い踊る栄光の日を見つけるために、神はこれまでに計画を進めてこられたのです。


こうした状況に置かれた今日の私達に必要なものは何でしょうか? 私達一人一人が罪と堕落の全てを復帰させなければならないということです。


皆さんがイエス様を信じた後も、個人的な戦いが展開されるでしょう。体と心の闘いが繰り広げられるでしょう。その戦いで敗北する者は天国の民にはなれません。体を中心にした悪の動きが心を屈服させようとするとき、それに打ち勝たない限り、天国の民にはなれないということです。


現代において、私達は世界から国家、国家から民族、民族から家庭、家庭から夫婦、夫婦から子供、兄弟まで復帰しなければならない使命を持っています。これは神の天国の理念に基づく原則的な基準があるためであり、私達はまず自己を復帰させなければなりません。


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「天国はあなたの心にある」と言われた通り、天宙的な天国も完成させなければなりませんが、まず個人的な天国を完成させることが大切です。それは、体と心の相対的な基準を確立し、天の主の前に立つ存在となることを意味します。


したがって、今では皆さんは天国の理想をすべての領域に取り込み、調和させることができる、一つの木として例えるならば、イエス様がぶどうの木であり、私達はその枝として、どの側面にも属し、一つの枝の形を持たなければなりません。そして、枝である皆さんが幹を通じて成長すること、これが帰還であると言えます。


これからの皆さんに求められる最初の段階は、天国の民となる段階です。天国の民になる運命が皆さんの前に広がっています。このような皆さんは、新しい歴史的な意識を持つ必要があります。自分の存在は自分自身のためにではなく、天国の仲間である天国の民、天国の兄弟姉妹、天国の夫婦、天国の親のために尽力する意識を持つ必要があります。それは一部の考えではなく、天宙的な意識です。そうした天宙的な意識を持つことが大切です。


また、今日の皆さんが社会で生活する際には、社会的な意識を持ち、国家に属している場合には国家的な意識を持つ必要があります。一つの国に属しているなら、その国の国民を愛することを学ぶ必要があります。今日、私達は天国建設のために尽力する神の前で、心身を通じて意志を主張できる人となるべきです。天国の民を愛することを学ぶべきです。私達は天国建設を通じて、父なる神のも御心である世界的な復帰を達成するために存在していることを認識するべきです。


ただ単にイエスを信じる人ではなく、内面的にも外面的にも天地の運命に調和し、イエスを信じる人となるべきです。神は天宙的な計画を中心に置き、天国への帰還の理念を確立してこられました。私達はそこに立ち、息子娘、そして民として存在するべきです。そして天国の仲間を愛することを学ぶべきです。


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皆さんのそばに、周りには信じる民がいるなら、あなたは彼らを兄弟として、同胞として見なすことができる人になる必要があります。また、全ての人がそのようにするよう努めるべきです。このような状況を見ると、あなたの責任は言葉に表せないほど大きいものです。


それでは、神が終末時代の今日に私達に求めていることは何でしょうか? それは、信仰する聖徒達が結集して天国の土地を建設することです。そのために個々の人が結束し、民族が結束し、天国の仲間を形成しなければなりません。これを皆さんは理解する必要があります。


6千年の歴史を縦に見れば、旧約時代には天国の民を集め、新約時代には天国の子供を集めました。こうして歴史は逆転しながら流れてきたのです。


現代の世界では、天国の仲間の理念を中心に天国を建設しようとする人々がいます。また、天国の子供、天国の兄弟姉妹、天国の夫婦の理念に頼って天国を建設しようとする人々もいます。


これからは、日常生活の中で天国の教えを守ることを学ぶ必要があります。天国の建設のためには、天国の教えを守ることが求められます。また、天国の教えを守ることと同時に、天国の生活を送る方法を学ぶ必要があります。そして、天国の生活を送る方法を学ぶと同時に、天国の愛によって一体となる必要があります。


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それでは、神が天国への復帰を目指してこれまでに歩まれてきた中で、私達は何を中心にして天国の教えを守るべきでしょうか? イエス様を通して私達に伝えられた聖書の御言葉を中心にして、天国の教えを守るべきです。


御言葉はまさに天国の教えであるため、御言葉を中心に生きるべきです。ここに皆さんの道があります。特に皆さんはその聖書の言葉を通して内面的な真実を証明する原則の御言葉を中心にし、天国の教えを守りながら生きるべきです。


それでは、どのように生活すればよいでしょうか? イエス様の30年以上の生涯を代弁するような生活を送るべきです。終末時代にある今日の皆さんの生活は、イエス・キリストを証明する生活であるべきです。そのために、皆さんの生活を人々の前で示すことができるようになるべきです。イエス様が私達に示してくださったような生活を皆さんも実践すべきです。


皆さんは神の御言葉を中心にし、法を守りながら、イエス様の生涯を手本にして和やかな生活を送り、天国に向かう生活をするべきです。


そのため、今や皆さんは天国の教えである言葉を中心にし、イエス・キリストの生涯を模範とする生活を送るべきです。皆さんの希望と理想は神の愛であるべきです。そのために、神の愛と結びつけるために和解の条件を確立していかなければなりません。これは神が今日の世界の全てのクリスチャンに要求していることです。


16


一本の枝の樹液は他の枝にも行き渡ります。どの葉や枝にも循環するということです。同様に、互いに和解し、互いに与えることを知る人々でなければなりません。そのような人々は、理想的な愛が残る神の愛を所有することができるでしょう。


ですから、私達のクリスチャンは、自分自身を中心とする考えを捨て、私の個人的な存在は世界や宇宙を代表する存在だという新しい考えを持つべきです。


したがって、私達の家族を見ても、今日の彼や彼女はただの個人ではないことを理解する必要があります。6千年の歴史を代表し、永遠の計画を代表し、表面的には24億の人類を代表する存在であるという事実を感じるべきです。どんな一人でも、天宙的な神の愛の約束の意味が彼または彼女にあるのです。そのため、あなたはそのような人々と共同して行動するべきです。そのような使命があなたにあるため、神の計画を正しく見る能力を持ち、その計画を代表する集団にならなければなりません。


個人の生活や家庭生活においても同じです。あなた自身の子供、あなた自身の親、そして配偶者もあなた自身のために存在しているのではありません。子供もあなたのための子供ではなく、兄弟もあなたのための兄弟ではなく、同様に親もです。彼らは国や世界を超えて、天国を代表するために存在しているのです。


私達はこれを理解し、そのような次元で子供や兄弟、そして親と向き合う方法を知る必要があります。この事実を認識し、生活で感じるようになると、あなたはどの人物も言葉で言い表せないでしょう。


17


私達の一人一人の存在には、天宙的な神の意志が宿っていることを忘れてはなりません。私達の存在は、自分自身のためだけでなく、世界や天国のために存在している、復帰の使命を果たす存在であることを知り、皆が結びついた生活を送る必要があります。


今日、特異な道を歩んできた私達は、自己中心的な生活から離れなければなりません。自分中心の考えを捨てなければなりません。私達の教会も、教会だけを中心に置いた生活様式を捨てなければなりません。なぜなら私達は皆、宇宙の一つの細胞であり、分子だからです。


終わりの時代にある私達は、歴史的な働きを感じるべきであり、天意の働きを感じるべきであり、神の全愛の働きを感じるべきです。そして、皆さんの一つの体を築いて、天宙的な悪魔との戦いで勝者とならなければ、皆さんは天国の土地に必要な存在にはなれず、またその時、天国は皆さんと関わりを持つようになるでしょう。この一つの希望を実現するために、イエス・キリストが来て行き、三位一体の神が悪魔と戦いながら皆さんが知っておくべきであることを成し遂げています。


今日、皆さんが悪魔と戦おうとするとき、自分達の持っている考えや信念、すべての動機が自己中心的なものであるかどうかを判断する必要があります。すべてを自分自身のためだと考えているなら、皆さんは悪魔の支配から抜け出すことはできません。


そして、世界に向かって進む私達クリスチャンも、内的な歴史的な意識を超えて、天宙的、歴史的な意識で世界を理解し感じる能力を持つ人になる必要があります。


18


それでは、今後の復帰のための世界はどのようになるでしょうか? 復帰を目指す社会、復帰を目指す家庭、復帰を目指す個人はどうなるのでしょうか? 神の復帰の御意志は何でしょうか? これらすべてを理解し超える人になる必要があります。そのためには、聖書の教えに従って生きること、イエス・キリストの奉仕の心を持つこと、互いに和解できるよう努力することが必要です。イエス様は「平和を築く者は幸いである。彼らは神の子と呼ばれるだろう」と言われました。(マタイ5:9)


どこに行っても和解を築く能力を持つ人は神の前に近づくことができます。皆さんには個人全体を和解させる責任があり、全ての人々を和解させる責任、全人類を和解させる責任、世界を和解させる責任、そして天と地を和解させる責任があります。


皆さんが暮らす環境で、この実践的な責任を感じない場合でも、少なくとも心で感じる必要があります。個々の人を和解させる献身的な存在となり、家庭同士を和解させる存在となり、社会を和解させる存在となり、国家を和解させる存在となり、全世界を和解させる存在となる意志を持つことが重要です。そして、悪魔と対抗して父なる神の前に立つ覚悟を持つ人になるべきです。


皆さんがそのような関係を築き生活をしていく中で善行を行う人を見ると頭を下げてその人を尊敬し、悪事を働く人を見るとその人を導く使命は自分が果たすべきだという気持ちが生まれるでしょう。このような実践を通じて生きる人がいれば、その人は個人的な祈りをする必要はありません。家庭のための祈りも必要ありません。皆さんが神の御心が望まれる天国をこの世に築く決意と誓いをし、そのために生きるのであれば、神は共におられるでしょう。


したがって、手を取り合い、和解の祭壇を築くことを知っている国があれば、その国は世界に向かって新たな力強い変化を巻き起こすでしょう。


19


また、教会も同様です。手を取り合い、キリストの模範になり、和解の為に犠牲となる覚悟を持って歩む集団があれば、その歩みが外から見ると不安定に見えたり壊れそうに見えるかもしれませんが、それは事実ではありません。彼らの歩みは、地上の天国建設への堅固な一歩なのです。


イエス・キリストは、天地の驚くべき使命を背負ってこの世に来られた方です。4千年の歴史の中で、天に忠実な者がいなく、天に忠実な子がいない時代に、天が求める忠実な子としての使命を果たすために来られたのがイエス・キリストであったと言えます。


イエス・キリストの約30年の生涯は、天のための生涯でした。そして、世界的かつ天宙的な生涯でもありました。また、彼の生涯は天のための犠牲の生涯でもありました。したがって、歴史上に存在しなかった、天のための忠実な子として来られたイエス・キリストを、あなた方は見習わなければなりません。


父の御心は天国を実現することです。天国とは、世界中の人類が手を取り合い、協力し、和解し、愛に包まれ、共に神の前で栄光を称え、感謝しながら生きる世界です。これを考えると、今日私達が信仰していた信仰生活はあまりにも狭量な信仰生活であったことがわかります。今こそ、その狭量な信仰生活を改めなければなりません。


今は、どの教派主義の時代も過ぎ去りました。どの民族主義の時代も過ぎ去りました。今は、世界的な復帰の理念、世界的な信仰の理念を見つけなければならない時です。


20


今日の韓国の人々は、哀れな民族です。この哀れな人々が知るべきことは、神の歴史は個人を打ち砕いて家庭を築き、家庭を打ち砕いて社会を築き、その社会を打ち砕いて国家を築き、国家を打ち砕いて世界を築く歴史であるということです。これが天の審判です。


人類はこうした審判を経てきましたが、最後に残された問題は何でしょうか?それは対立して戦いながら進んできたカインとアベルの二つの道のうち、カインの道を完全に打ち破ることです。ですから、あなた方はイエス・キリストの言葉に中心を置いた他の人にならなければなりません。イエス・キリストの言葉を律法として他の人にならなければなりません。イエス・キリストの生涯を代表する天の忠臣と天の孝子とならなければならないのです。


それゆえに、統一の理念を追求する神の前に立ち、これまであなたが世界を統合して一つにすることなく、愛せずに抱えていたその怨恨を私を通じて解消してください、と言うことができなければなりません。しかし、今日のクリスチャン達は、彼らの前に歴史的で宇宙的で天的な大きな使命があることを知らずにいます。


では、今日、あなた方はイエス・キリストの愛をどの程度表現しましたか?イエス・キリストによってもたらされた信仰と命をどの程度まで備えていますか?あなた方はその限界線を理解する必要があります。


イエス・キリストによってもたらされる恩寵は宇宙的な恩寵です。そのため、今日の私達は天国の意識を持って生活しなければなりません。あなた方の日常の行動や今日の感情も、「私は天国の代表者だ」という中心を持ち、そのような観念で生活しなければなりません。


21


あなた方が他の人に向かって怒りを爆発させるとき、24億の人々が怒りを受けることになるという感覚を持ち、それを抑えなければなりません。天はこれまでそのような感覚を持っておいでになりました。このような事実を知りながら、あなた方が分裂し、熱心に行動し、神の御心に逆らう行為がある場合、どうなるでしょうか? すべての部位が連携し、互いに協力しなければならないのです。


では、なぜ神は6千年にわたる歴史を導かれたのでしょうか? 歴史全体をあなたのひとつの背中に抱え込むためです。地上だけでなく、霊的な領域にまで、あなたの愛によってすべてが一つになることを願い、その日を崇拝して来られた神様です。このような神の前に、あなた方が恩寵を受けたいのであれば、「父よ、私を呼んでください。」と祈るべきです。


神の愛はあなた方から消えてはなりません。今日、あなた方が知っておかなければならないのは、天から賜わった恵みはあなた達だけのためではないということです。あなた方を生かすと同時に、全人類を救うためのものです。


しかしながら、今日の人々は自己を中心に据えて生きているため、神を求めようとする多くの人々でも、恵みを受ける者はほとんどいないのが実情です。


今日、私達はここから脱出しなければなりません。これを貫通して打ち破り、天宙的な神を「天宙的な神」として迎え入れるべきです。このような天宙的な神の前に、身も心も使命感を強く感じることが必要です。


22


あなたがたが信じ、願い続けている理想の楽園は、あなただけの理想の楽園ではありません。自己を中心に据えて神を求め、信じることを試みたために、堕落した天使が生まれました。


今日の人類が信じている神は、私達自身の神でありながら、人類全体の神でもあります。私達の神でありながら、世界的な神であり、また天宙的な神でもあるということです。それと同時に、天宙的な親でもあります。


しかし、現代のイエス・キリストを信じる人々の信仰を見ると、「私の神様になってください」と言っている人がいて、それ以上に進んだ人々は「私達の家庭の神様になってください」と言っています。ここからもう少し進んで、「私達の教派の神様になってください」と言っている人々もいます。私達はこうした考えを持ってはいけません。


今日の世界には、神を叫ぶ教派がたくさん存在します。しかし、教派の中で叫ぶ神様はもう必要ありません。教派を超えて、全世界の中心として信じて叫べる存在、すべてを代表して私の父と呼べる資格のある存在、そうした存在達が集まらなければ、この地上に神を迎え入れることはできないのです。


そのため、現代の私達は、私達が感じる考えが家庭を通じて全体に関係を持たせる必要があります。新しい道に進む皆さんは、これまでの生活を捨て、天宙的な生活観に向かって新たな歴史の始まりをするべきです。


23


こうした時、皆さんはどのような心を持つべきでしょうか。それは、天宙的な神の存在を受け入れる心を持つべきです。それによって、皆さんは神の愛を受け入れ、神との関係を築くことができるようになります。そのとき、初めて皆さんは天宙的な花嫁の理念を完成させることができるのです。


天宙的な花嫁の理念を完成させた後、復帰した世界に向かうことができます。しかし、民族や人々、兄弟姉妹、そして子供や夫婦までが復帰しなければ、天宙的な神の存在の前で私が花嫁として現れることはできません。その場所に到達するまでに、天宙的な神の愛を中心におき、天宙的な神の存在の前に立ち、その愛と一体となることができます。それによって結ばれた夫婦は、この地上を支配し、天国の家庭を築くことができる夫婦です。また、そのような夫婦として子供をもうけることで、初めて天国の家庭を建設し、その兄弟姉妹や子供達とともに復帰の使命を達成し、地上天国の生活を送ることができるのです。


このように、偉大なる天国復帰の運動が今日の皆さんを通じて提示されています。したがって、皆さんはその意志を達成するために最善を尽くさなければなりませんし、悪魔の前に屈してはいけません。イエス・キリストが一つの意志のために、忠実な子、優れた子としての使命を果たしたように、私達もまた忠実な子としての使命を備えなければなりません。


そして、この民族だけでなく、世界の人々、そしてさらには霊界にいる全ての霊的存在も、天に対する忠実な子としての使命と優れた子としての使命を果たすことができるようになるべきです。これによって、父の前で天国復帰の完遂と勝利の栄光を称えることができる子供、兄弟、家族、または民族となることができることを、皆さんは確信しなければなりません。




<祈り>
 愛するお父様、今日、私達は飛躍しなければなりません。力不足でありますが、一度に何十段もの階段を飛び越えなければならない、これほど巨大な歴史的な終局が迫っています。私一人が審判の過程を優雅に乗り越えなければならない立場にありながら、今日、私達は深い眠りに沈んでいるようです。


24


お父様、私達は世俗に埋没しています。罪と共にあります。このような私達、あらゆる悪の要素をすべて清算した後、天の中心であるお父様の前で勝利の栄光を称えることができる一人の勝者として立てていただけるよう、お父様、切望しており、願っております。


歴史的なすべての状況が今日、私達の一日に結びついているため、それを断ち切り、解放の中心を備えて、イエス・キリストの友人の立場に立ち、父の前で喜びの中で礼拝することができる存在として私達を立てていただけるよう、お父様、切望しており、願っております。


天国復帰を目指す私達が、自分自身を中心に置き、天国の理念に従って生きる者達にならないようお許し下さい。天国の理念に導かれ、その理念を達成するまで進み、犠牲を払い、戦い続けることができるようお許し下さい。あなたを宇宙の父として迎えるまで、忍耐強く戦い勝利することができるようお許し下さい、お父様、切望しており、願っております。


お父様、私達の心を永遠に導いてください。新しい天宙的な生活基準によって、全体の中心であるお父様の前で感謝し、礼拝できるようにし、お父様の愛に包まれる息子と娘になることができるようお許し下さい、お父様、お願い申し上げます。


すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。


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御言葉選集1(19)

2023年08月05日 13時37分20秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 1 - 19. 万民のために来られた主を礼拝する者となろう  (1956年 12月 23日)
1956年 12月 23日(日)、前本部教会。
聖書拝読 マタイによる福音書 8:18-34」


<祈 祷(Ⅰ)>
 不足な私達が聖なるお父様の前に立ち、『お父様!』と呼ぶことができる恵みを与えてくださったことを、お父様、心から感謝いたします。死の嘆きの声が絶えることのない苦悩に生きなければならない私達に、愛するイエス様をお遣わしになり、救いの恵みを与えてくださったことを感謝せざるを得ません。

このために何千年もの歴史の中で変わらぬ努力を成し遂げられた聖三位一体の前に、暗闇のこの世界に光の輝きを照らし出すお父様の努力の前に、まず私達が心と身をささげ、その恵みに報いることのできる子ども達となるようお許しください。

お父様、この驚くべき恵みを心から感謝しながら、闇に閉ざされていた私達の体が天の生命の流れに浸たり、死に閉ざされていたこの一つの体が天宙的なお父様の愛の動脈に結びつけられる恵みを与えてくださったことに感謝致します。

お父様、心と身をすべて差し出しても、お父様の恵みに報いる方法がないことをこの時に感じさせてください。心と身をすべて差し出しても、自ら悔いる心を持つ者となれるようお許しください。心と身をすべて差し出しても、自ら未熟だと感じる事が出来る様にお許しください。

お父様、自身の持てる力と誠実さと心身をすべて差し出してお父様の前に立ちました。慈悲深くご覧ください。お父様の前に一つの犠牲として捧げられるべき私達ですが、この日までそのようになれなかったことをお許しください。

お父様に喜んで受け取って頂くことができる、永遠に誇りに思って頂ける犠牲の姿を早く備える事が出来る様にお導びきください。

   1

お父様、ここに集まったあなたの子ども達は少数の群れですが、お父様がこの民族に対して勝利の犠牲となることを求めていることを知らせてください。この民族が死の波に呑み込まれるのを防ぐためには多くの犠牲が必要であることを知らせてください。

お父様、御心配される全ての分野を責任持つことのできる犠牲と御心配の基になることを実現し、天に勝利の栄光をもたらすことのできる犠牲として、不足な私達を立ててこの一時を導いてくださる恩寵に感謝する心を持って従います。

お父様! まず、この群れを喜んで犠牲として受け入れてください。そして、お父様が求められる一つの勝利の祭壇を築けるように導いてください。そして、愛するお父様、あなたの慈悲の御志をこの民族と全ての人々の前に現れる様にしてくださいと、切望いたします。

お父様、不足な私達を立て、天宙的な全体の使命を任せざるを得ないあなたの事情を思い、御心配される心情を察することができ、深い哀れみを感じるようにお許しください。そして戦いに疲れ果てるかもしれない私達が、お父様の悲しい事情と心情を思いやり、自らを慰めることができるようにお許しください。

私達を呼び、導き、ご心配されるお父様の姿を直面する度に、自ら戦いの力を磨き、再び立ち向かうことができるようにお許しください。天に向かって逡巡(しゅんじゅん)なく進む子ども達となるようお許しください。お父様、切望しております。

2

お父様、今年も終わろうとしているこの時に、一年間私たちに託された使命を完遂できなかったことがあるなら、お父様、お許しください。

天が私達に託してくださった使命は、世界的な歴史概念を超え、天の歴史概念に相当する使命でありますが、私達自身が一年間自己中心的に生きていたことがあるなら、お許しください。託された使命を軽率に考えて来た事をお許しください。

お父様、この日、あなたの前で過ごした過去の一年間に犯した全ての欠点を清算し、新たな心と新たな決意と新たな誓いを持てる様にお許しください。あなたの御心の前で自らの不足を悔い改める貴重な時を持つことができるように、お父様、切望しております。

お父様、私達が歩む道は一生にわたって戦いの過酷な道であり、疲れ果てることなく進んでいけるようにお許しください。落胆しないようにお許しください。後ろを振り返って天地の怨念が私達によって実現されないようにお許しください。お父様、切望しております。

私達は決して後戻りできない天宙的な運命の道に進んでいます。生きている限り進まなければならない道に進んでいますが、身心を捧げても不足を感じるようにお許しください。全ての力を捧げても不足を感じるようにお許しください。

3

不足な身であるため、お父様、慈悲を求める心だけが私達の生の全てを主管するようにお許しください。生活全体を主管するようにお許しください。お父様、切望しております。

この日も孤独な家族が、お父様が約束され、許された御言葉を持ち、四方に散って孤独な祭壇を抱え、お父様の前で切に嘆願していることを知っています。

どこにいてもお守りください。彼らの切なる心の友となってください。心の慰めとなってください。

この時、一つの恩寵の前に、一つの御心の前に、一つの栄光を中心に同じ心と身を持って礼拝できる恩寵をお許しください。切にお願いし、望んでおります。

お父様、今この時、数多くの祭壇が悲しみに満ちた心であなたの前で嘆願していることを知っています。時と季節を知らないあなたの哀れな子ども達にも、慈愛の愛の象徴をお示しください。慈愛の御言葉の象徴をお示しください。抱きしめようとするお父様の愛の中に、すぐに抱かれ、全てが一つの姿として喜びの栄光を捧げ、勝利の祭壇を備えて悪魔を屈服させるための栄光の祭壇を早く実現出来る様に、切にお願いし、望んでおります。

この時も、全世界に広がる天のために祈るあなたの子ども達に、慈愛の恩寵が共に有ってください。

4

すべての御言葉を主の名によって嘆願致しました。アーメン。


<祈祷 (Ⅱ) >
善なる地が成されるようにお許しください。お父様が築かれた本来の楽園は善と愛と美と永遠の正義の盾を備えた地であり、悪魔が侵入する余地のない世界であったことを私達は知りました。

お父様、私の願いはあなたの内に秘められた愛の真実と善の愛と美の栄光であります。お父様、ここに集まったあなたの息子娘達の心の扉を開いてください。そして、あなたが秘められていた永遠の愛の恵みをこの時に与えてください。

すでに約束されたお父様の涙の御言葉があり、お父様が許し与えた使命があり、天の全体的な恵みとお父様の全能、全体的なお父様の栄光を僅かな、不足な私達を通して現そうとする御意志がありますならば、お父様、この時に惜しむことなく現してください。聖霊の炎によって現れてください。栄光の恵みを現してください。再創造の復活の歴史を起こしてください。お父様、切望し願っております。

今までに、お父様の前に容認されていない悪の要素が残っているでしょうか? 慈悲の手によって主宰して、容認できないすべての要素を取り除いて、本来の善の主体となる喜びのこの一時を実現してくださいと願います。お父様、切望し願っております。

5

お父様、この様な哀れみを持たない者、不完全な者、堕落の要素を持つ者達がやがてはお父様の永遠の願いを果たすように導いてください。

6千年にわたり心苦しく悲嘆に暮れていたお父様の心情をこの時に身と心で感じ取り、お父様の悲しみを慰めるために熱心な子らとなるようお許しください。不足な私達であっても、天に向かってこれらすべてを捧げます。お父様、「私達に戦える勇気と力を与えてください。」と言える、切望する子らとなるようお許しください、お父様、切望し願っております。

三千万の人々の中で、他ではなくこの道を選んだ私達、多くの困難を乗り越えてきた私達です。お父様、力と勇気を与えてくださらなければなりません。天の勝利の盾をお許しください。正義の心と正義の装備を身にまとい、最後の戦い、最後の決戦をしなければなりません。お父様、ここに集まったあなたの息子娘達全員が一つの心を持てるようにお許しください。一つの姿を持てるようにしてください。

最後の戦いで悪魔と闘い、勝利の栄光をあなたの前に捧げることができる姿となれるようにお許しください。そして、永遠に誇りを持つことのできる子らの栄誉を立てる様にしてください。

天が召し出された者達には、上に立つ神がいるので、三位一体がこれらをお守りください。忠誠を捧げる全ての万物の前に誇りを持つ大いなる供物となれるようにお許しください、お父様、切望し願っております。

6

お父様、これまで戦い抜いてきた道も険しい道でしたが、これから先の道も戦いの道であることを知り、失望する者にはならないようにお許しください。

私達の国籍はこの国でも、この地上のどの国でもありません。頼るべきは天であり、望むことはお父様の御意以外にありません。最後の日まで戦いの場と困難の高みが残っているかもしれません。苦難や迫害の道に阻まれるかもしれません。しかし心で心配する者にはならないようにお許しください。

天の召しを受けた私達、お父様の愛の化身となり、炎の化身となるようお許しください。悪を清算し、善が根付くような心身を持ち、善の楽園を築くための勝利の場所となるようお許しください、お父様、切望し願っております。

お父様、ここに参加している多くの子らの心を主管してください。自己を知ることができるようにお許しください。努力し、心配し、熱心に精誠を尽くす姿をお父様の前で見せる子らとなれるようにお許しください。

人間的な虚飾や見栄を張らないようにお許しください。正直になれるように導いてください。自身を探り、私の意見や概念、主張をすべてお父様の前に持ち出し、清算を受けられるようにお許しください。永遠の命の香り、お父様だけが味わうことのできる要素をお父様の祭壇に捧げることができるこの時をお許しください。

7

お父様、炎のような眼で洞察してください。それぞれ自ら悔い改めるべきことをお父様の前に完全に悔い改められるようにお許しください。最後の審判の前に立ったことを感じられるようにお許しください。お父様の栄光の腕の中に包まれる恵みを許し、慈悲の歴史を許し、それぞれの身と心を抱擁してくださるように、お父様、切に願っております。

お父様の御意志だけが集まった聴衆の上に豊かに満ちて働くことができるようにお許しください。

切にお願いいたします。すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。



<祈祷(Ⅲ)>

善なる地が成就するようにお許しを与えてください。お父様が築かれた本来の園は善と愛と美と永遠の義の盾を備えた園であり、悪魔が割って入ることのない世界でした。私達はこれを知っております。

お父様、私自身の願いの基準は、お父様の内に隠された愛の真実と善と美の栄光です。ここに集まったあなたの子供達の心の扉を開いてください。お父様の内に隠されていた永遠の愛の恵みをこの時にお許しください。

8

既に約束されたお父様の涙の御言葉があり、お父様が許された使命があり、天の全体的な恵みとお父様の全能の栄光を、取るに足りない私達を通じて現そうとされる御意があります。お父様、この時に惜しみなく現してください。聖霊の炎として現れ、栄光の恵みを現してください。再創造の復活の歴史を起こしてください。お父様、切望し願っております。

今でもなお、お父様の前に許されていない悪の要素が残っているのでしょうか? 慈悲の手で支配して、許されないすべての要素を整理して、本来の善の自己として形成される喜びの一時をお許しください。お父様、切望し願っております。

お父様、哀れみ深く、不足な者達を立て、また堕落の要素を持つ者達を招き立てて、お父様の永遠の願いを実現するように求めているお父様の心が、これほど悲しいことを知らない者達にならないようにお導びきください。

6千年間、悲しみと苦しみに満ちたお父様の心を、この一時に身と心で体験し、お父様の悲しみを慰めるために精誠を尽くす子供となるようにお許しください。不足である事を自覚しながらも、天に向かって「これらすべてを捧げます。お父様、私達に戦う勇気と力を与えてください。」そう言える、切望する子供となれるようにお許しください。お父様、切望しております。

三千万の民衆の中で、他ではなく、選んだこの道を進む私達、正しく正しく難しさの峠を越えてきた私達でございます。お父様、力と勇気を与えてください。

天の勝利の盾をお許しください。正義の心と正義の鎧を身にまとい、最後の戦い、最後の決戦をしなければなりません。お父様、ここに集まったあなたの子供達全員が一つの心を持てるようにお許しください。一つの姿を持つようにしてください。

9

最後の闘いで悪魔と戦い、勝利の栄光をあなたの前に捧げられるようにお許しください。そして永遠に誇りに思える子供達の名分を築けるようにお許しください。

天が呼んだ使命がありますので、三位一体がこれらを守り、忠誠を捧げる万物万象の前に誇りに思える聖なる犠牲となれるようにお許しください。お父様、切望し願っております。

お父様、これまで戦って来た道も険しい道でしたが、これから先の進むべき道も戦いの道であることを知りながら失望する者達にはならないようにお許しください。

私達の国籍はこの国でもなく、この地上のどの国でもありません。頼るべきは天であり、望むことはお父様の御意志以外にありません。最後の日に記されるまでは戦いの任務と困難な峠が残っているかもしれませんが、心で心配する者達にはならないようにお許しください。

天の呼びかけを受けた私達、お父様の愛の化身と炎の化身となるように許し、悪を清算し、善が根付く心と体を備えて善の園を築ける勝利の場となるようにお許しください。お父様、切望し願っています。

10

お父様、ここに参加した多くの子供達の心を主管してください。自分自身を知ることができるようにお許しください。苦労し、心配し、熱心に精誠をあなたに捧げる子供達となるようにお許しください。

人間的な見せかけ、偽りをせず、率直であるように導いてください。私を探り、私の意思や概念、主張をすべてあなたの前にさらけ出し、清算を受けることができるようにお許しください。永遠の命の香り、お父様だけが受け取れる要素を祭壇に捧げることができるこの時をお許しください。

お父様、炎のような目で洞察してください。一人ひとりが自ら悔い改めるべきことをお父様の前に完全に悔い改めるようにお許しください。最後の審判の前に立ったことを感じさせてください。あなたの栄光の腕の中に抱かれる恵みを許し、慈悲の歴史を許し、一人ひとりの体と心を支えてください。お父様、切望してお願いいたします。

お父様の御意だけが、集まった聴衆の上に満ち溢れて働くことをお許しください。切望し、お願いいたします。すべての御言葉を主の御名によってお祈り致しました。アーメン。



<祈祷(Ⅲ)>
ここに私達の心が、約2千年前にイエス・キリストが苦労された心情に共感し、天徳の使命を受け入れさせていただき、天と地の代わりに立ち上がったイエス・キリストの切望する姿に直面する際に、私達の体と心がその苦難に耐えることができるようにしてください。

11

御言葉を通して伝えられたすべての内容を私達が受け入れることをお許しください。狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、ただ人間だけが頭を覆える場所がないと仰った御言葉を思い返すとき、お父様、ここに集まったあなたの子供達の心と体は、聖なる聖堂であり、天の唯一の子、天のために生まれた皇太子イエス・キリストを迎え入れなかった悲しみの歴史が今でも彼らの心に残っていることを知っております。

数千年にわたり先祖が悲しみの城壁を築いてきましたが、この城壁は日が経つにつれて低くなるのではなく、悪魔が多くの策略を巡らし、この城壁を高めています。

今日、全世界の人類は先祖が築いたこの恨みの城壁を取り壊す責任を負っており、また私達もその責任を自覚しなければなりません。イエス・キリストが辛い道を辿られたのはイエス様ご自身の苦悩だとばかり思っていましたが、その苦悩が私達の苦悩として残っていることを知り、今や涙を流しながら天に向かって歩む自分自身を発見致します。

罪に対する深い心情で、先祖が犯したすべての罪の城壁を見つめると、私達自身がどれほど弱い存在であるかが解ります。お父様、これを排除できるようにお父様の力を引き継ぐことができるようにお許しください。

お父様、私達は何も持っておりません。お父様、韓国の民族を見るとき、世界の人類の中でも極めて哀れな民族ではないでしょうか? この哀れな民族の中でも何も持っておらず、孤独に追いやられている私達はより哀れな境遇にいます。

12

しかし、お父様、私達は世界的な祝福が天に封じられていることを知っています。また、お父様の深い御心情にお父様の愛が封じられていることを知っております。

お父様、孤独な立場にいても涙の壁を打ち破り、幸福の場を築いてください。そして、お父様が心から心配していると知る以上、私達は躊躇することなく進んで行けるようにお許しください。

今やお父様の命令を受けて立ち上がった道に、生きるか死ぬか、願いを成し遂げる道に向かって走り出すことのできる天の善なる子供達となることをお許しください。お父様、切望し願っております。

ある若い書記官がイエス様のもとにやって来て、「先生、もしそう願われるなら、私は従います」と言った時、イエス様は「従わないでください」と語られましたが、ここに集まった聴衆の中にはその辛い言葉を聞くことによって生き残る者が一人もいなくならないようにお許しください。

自分自身がイエス様の前に立つとき、愛のイエス、善のイエス、慈悲深いイエス、忍耐のイエス、聖霊の九つの実りの全体性を備えたイエス様が、不安な姿で現れるイエス様が、自分自身の中に聖霊の九つの実りの一つでも収める供物にならなければならないと感じるようになりました。

13

イエス様が収めようとしたものが収めるものがなく、来るべき道を歩まず、望んでいたことを望まなかったとき、イエス・キリストの内なる苦悩がそこに留まっていることに気づかない者達にならないようにお許しください。お父様、切望し願っております。

今ここに集まった全ての群れが、お父様の前に立ち、全てを捨てて私に従え、と仰られたイエス様の言葉に応え、そこに苦難が待ち受けているとしても、その子供達となれるようにお許しください。

お父様の喜びにかなう御心の前に望まれる願いの場を目指し、命じられる時、躊躇することなく準備を整え、躊躇うことなく進むことのできる、天が愛し、支えてくださる子供達がこの時に現れるべき時です。

それにより、6千年の歴史的な恨みを私達が背負い、悪魔と戦わなければならない責任があります。新しい覚悟、新しい決意、新しい誓いを持って、不屈の心と善意を持ち、勝利の勇者として戦えるようにお許しください。お父様、切望し願っております。

ここに許された恵みの前に、御言葉を通して喜びを感じ、愛の恵みが宿り、栄光が誇りとして現れるこの特別な時を、お父様、引き受けてください。私達もまたそれを委ねることを望みます。切望しながら、主の御名によってお祈り致しました。アーメン。

14


<御言葉>
皆さんと共に考えるタイトルは、「万民のためにおいでになる主を礼拝する者となりましょう」という内容について、しばらくの間お話しいたします。

神様と人間と万物、これらすべては一つの創造理想を中心にして永遠に一つでなければならなかったのに、天と万物の中間にある人間が過ちを犯した結果、万物は万物ごと、天は天ごと、人は人ごとに分かれることになりました。

それゆえに、創造本来の世界を再び見つけるために、万物から始まり、人間を通して最後には天に至るまで回帰の歴史を辿らなければならなかったのです。これらのお父様の事情を知らないことはあってはならない事です。

堕落の血統を受け継ぎ生まれた今日の私達、堕落の種族として生きる今日の人類は、まず心と体で神様の心情で満ちていることを感じる人々とならなければなりません。

私達は堕落してしまいましたが、神様が私達人間を創造した関係がある以上、また御旨を成就するために努力されているお父様がいる以上、私達は無意味な立場の存在ではありません。

皆さん自体が邪悪であるとしても、邪悪な立場にいるとしても、自ら過去の歴史を経て出てきた過程で、主の御計画によるお父様の努力の涙の痕跡が皆さんの身に残っていることを最初に認識する人となるべきであり、次には私達を再び見つけ、回復させてくださる御計画、すなわち復帰を成し遂げるために、お父様が数々の苦難を経てこられた痕跡を身に宿していることを皆さんが歴史を通じて感じるべきです。またそれだけでなく、創造本来の理想、神様の内に宿る内なる願いが存在する事を終わりの日にある私達は知るべきでしょう。

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更に私達は無形の神様としておられる神様の思いが私自身に宿っており、無形の神様として復帰の御計画をなさる神様の努力の証しとして、私の体に希望の基盤として残っていることを知らなければなりません。

そしてこの地上にある私達は、神様が皆様の愛らしい心情ほど愛おしく、努力された皆様の苦難の痕跡ほどに、努力し希望として抱かれていた皆様の本来の善の心情ほどに身と心を捧げて下さっている、その思いを代わりに持てる人とならなければなりません。

また、神様の努力に代わる苦難の心情を持ち、見えない神様の苦難を表現できる姿を今日も私達に求められていることを理解する必要があります。そして、歴史的なあらゆる宗教を否定しても、御旨を成就させる希望となれる一つの宗教をお父様が見つけようとされていることを知るべきです。

自然に座っていても立っていても、どんな一瞬の生活過程や瞬間の時間においても心に苦しみを抱え、体に刺激を受ける真摯な信者がこの地上に現れることをお父様が願われている事に心で共感しなければなりません。

そして、無形のお父様が人間と万物を創造し、喜びと栄光を楽しまれようとされた創造理想、「万物の前に人間を立て、みなが善の理想に満ち、神様の愛を誇りに思い、共に楽しみ合うこと」を願われた神様の創造理念は、人間の堕落によってその心の中で半ば残されましたが、これを解き明かす使命を持ってお見えになった方がイエス・キリストであったということです。

そして、神様の4千年の努力の歴史を代わりにして、人類に代わって、万物に代わって、神様の内なる怨みの核心を具体的に解き明かすためにお見えになった方がイエス・キリストであったということです。

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では、イエス・キリストを迎える存在、イエス・キリストを大いに望んだ存在、イエス・キリストと永遠に交わりを持つことができた存在はどこにいたのでしょうか!

イエス・キリストは実体で実在される神様の内なる心情、怨み多い御心情を代わりにされた方であり、神様の実体として現れ、神様の怨みを具体的に解き明かすことができる方であると、当時のユダヤ人達は悟るべきでした。

しかし、イスラエルの民の中には「イエス・キリストを通して慰めを受けたいと思われていた神様の内なる御計画の意図を理解し、この方が4千年間神が憂えられたその心を解き明かすことができる方であり、お父様が探し求められていた永遠の希望の存在として賛美しながら、神様の希望の心情と共感し、そのイエス様を受け入れることができた人」は一人もいなかったのです。

無形の神様の悲しみは有形の人間を通して解決されなければなりませんでした。そして、神様の悲しみと万民の悲しみを代わりにできる方がイエス様でした。

しかし、イエス様は一生涯、喜びの日を持つことがありませんでした。なぜなら、4千年間にわたり神様が流された悲しみの涙が彼の心に残っていたからであり、万民がイエス様と一体となって神様の悲しみを解消しようとしなかったためでした。そのため、イエス様の悲しみを同情し、イエス様の前に立ち上がる者は一人もいませんでした。そうした人物は、イエス様の一生を最初から最後まで振り返っても存在しなかったのです。ですから、そのような怨みの痕跡が現代の私達にまで受け継がれていることを私達は心に留めなければなりません。

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メシアを待ち望んでいたイスラエル民族にとって、天の独り子、天の皇子として誕生されたイエス様が、こうした悲しく嘆かわしい姿で現れることは夢にも思わなかった事でした。

そのため、イエス様は自分を受け入れる存在を探し求められたのですが、自分自身を中心にして探し求めたのではなく、神様の内なる心情を代わりにして探し求められたのです。イエス様は生まれた時から神様の悲しみに共感し、生まれた時から神様の努力を代わりにし、生まれた時から神様の希望を代わりにできる存在を探し求めましたが、馬小屋で誕生され、30年余りの生涯を経て十字架の頂点に立つまで、そのような存在を一人も見つけることができなかったのです。

では、十字架で亡くなられたイエス様は万民が迎合すべき存在でありながら、生きているイエスをどうして誰も迎合しなかったのでしょうか? その責任は人間にあるのです。神様の悲しみを解消しようとし、神様の努力を受け入れようとし、希望の楽園を築くために神様の希望の実体として来られたイエス様の悲しみを共にする事、そして彼の苦難を自らのものとし、彼の希望を胸に抱いて生きる責任を私達の先祖達は果たさなかったのでした。

では、イエス様が今日の私達に求めていることは何でしょうか? 神様のすべての怨みをイエス様が一生を通して解消しようとしていたことが私達の先祖達が責任を果たさなかったことにより、その痕跡はイエス様の一生にまで延長されました。神様の悲しみはイエス様の悲しみとして、神様の努力はイエス様の努力として、神様の希望はイエス様の希望として残され、それらすべては聖霊にまで及んでいるのです。

このように2千年の歴史を通して延長されてきた神様とイエス様と聖霊の悲しみを解消する責任は、今日の私達にあることを感じなければなりません。皆さんはこれを感じる必要があります。

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そして、神の心に隠されている6千年の悲しみの怨みを解消し、6千年の努力を代わりにできる人、6千年の神の希望をこの地上に再び示す人が現れなければなりません。6千年の神の希望を表現する人が私達の中に現れなければなりません。

今、皆さんは驚くべき事に、お父様の恩寵の前に、またはイエス・キリストの恩寵の前に立つ時、皆さんが立つその日が始まりであると理解してはなりません。そして、皆さん自身がお父様の前に立っているのは皆さん一個人が立っているのではなく、皆さんが信じているのも皆さんの一生だけをかけて信じるのではなく、6千年の歴史をかけて信じているという実感を持つ必要があります。

皆さんがお父様の前に自らの罪を悔い改める場に立つとき、それは自分自身に対する悔い改めだけでなく、6千年を代わりに悔い改めると感じるべきです。また、主の恩寵と愛の前で感謝の心を持つときも、皆さんは一つの時間枠内で自分だけが感謝すると考えてはいけません。6千年間に渡りあなた方が来られたお父様の全体の計画、平面的な歴史と立体的な歴史を代わりにして、希望的な一つの基準を代わりにして感謝できる人でなければならないということです。

このように神の悲しみを解消する人、神の努力を代わりにする人、神の希望を代わりに成就させる人が、今日の地上に現れることをイエス様は願われています。

実体的にお父様の意志を実現するためにおいでになったイエス様は、この地上でその使命を果たせなかったために再び来る運命を背負って帰られました。そのため、このイエス様は再び6千年の歴史を代わりにする悲しみの心情を持ち、何もない私達を探し求めておいでになるでしょう。4千年の悲しみだけでなく、その上に2千年の悲しみを持ち、皆さんを探し求めておいでになるでしょう。また悲しみだけでなく、2千年の努力の怨みを持ち、皆さんを探し求めておいでになるでしょう。

19

6千年の希望を持ち、私達の前に現れるイエス様に対して人間が果たすべき責任は、イエス様の心と悲しみ、努力の重荷を実際に代わりに担うことです。
神の4千年の努力を代わりにして4千年の悲しみを解消しようとしてイスラエル民族の前においでになったイエス様をイスラエル民族が信じずに反対し、十字架に追いやったのです。

同様に、イエス様をお父様の努力と4千年の歴史を代わりにして4千年の悲しみを解消しようとしておいでになった方として知り、信じ、受け入れることができる人がイスラエル民族の中にはいなかった結果、イエス様は十字架に戻られるしかなかったのです。そのために、この仕事を完了するために、イエス様は再臨されなければならないのです。

6千年の歴史を総括する終わりの時に立つ私達は、神の前、三位一体の前で一人で立ち、神の悲しみを私の悲しみとしてお預けいたします。神の努力を私の努力としてお預けいたします。神の希望を私の希望としてお預けいたしますと言える心を持たなければなりません。そして、皆さんは一つの個体でありながら、天地を代わりにすることができる心を持ち、イエス様の再臨を準備する人でなければなりません。そのような世界のクリスチャンであらせようとしなければなりません。

イエス・キリストの再臨を準備しなければならない皆さんは、おいでになり去ったイエス・キリストの生涯をもう一度探りなおす必要があります。イエス様がおいでになったとき、イエスがおられたとき、イエス様が去られるときの状況が、皆さんの状況と重なる人とならなければなりません。

皆さんはイエス様が神の慈しみに満ちた心を抱えて万民を救い出す責任が自分にあると感じたような責任感を持つべきであり、悪しき地に生まれて一人で寝られたイエス様の枕に皆さんが実際に寝たという心を持つべきです。

20

イエス様は天の皇子、天の王子でありながらも、この地上にお生まれになる とき、馬小屋の中で眠られることになるのですか? イエス様の悲しみは悲しみではありますが、そのイエス様を見つめる神の内なる悲しみは言葉に尽くせないものでした。

そのような事実を胸に深く感じるようにしてください。そして終わりの時にある皆さんは、イエス・キリストが背負われた使命を私が一人で引き受けるという責任感を持つべきです。

そして万民のためにおいでになったにもかかわらず、軽んじられ、言葉に表せないほどの哀れな状況におられたイエス様の事情を私の事情と入れ替えて考えることができるようにしましょう。イエス様はこの地上に、神様の悲しみを慰めてくれるふさわしい存在がいれば、その一人を抱きしめて自分のすべての願いを実現させたいほどの状況にあったということです。

しかし、神様が4千年の歳月をかけて選び定めたイスラエル民族とイエス・キリストのために準備されていたユダヤ教の指導者達は、イエス様を知らなかったのです。彼らはベツレヘムの牛舎の飼葉桶の中に寝ていたイエス様とは何の関係もありませんでした。これらの出来事は、神様の悲しみを再び繰り返したものでした。誰もが牛舎で生まれたイエス様を受け入れる人はいませんでした。

今、私達は神様の怨みと、この地上に現れ、去っていかれたイエス様の怨みを収めて、すべてを解消できる人となるべきです。そうでなければ、悪魔の侵入条件を自分の体から取り除くことはできません。そして再びおいでになる主が6千年の歴史を代わりにしてこの地上に現れることを知っているのなら、どうか皆さんはイスラエル民族と同じ立場には立たないようにしてください。彼らの信仰はイエス様中心でも、メシア中心でも、神様中心でもありませんでした。彼らは自己中心的でした。メシアは確実に来るはずなのに、それを知りながらもメシアを迎える準備を誰もしていなかったということです。

21

東方の博士達がベツレヘムの飼葉桶の中に寝ているイエス様を礼拝しに来た時、全エルサレムは騒然としました。異邦の国の占い師達がイエス様を探しに来たのです。しかし、この騒ぎは喜ばしいことではなかったのです。喜ばしいことではなかったのです。

今日、天に信頼を置いている皆さん、6千年の歴史を代わりに信じている皆さんは、間違ってもユダヤ教の立場と同じ立場にとどまってはいけません。今こそ、おいでになるメシアのために準備ができるようにし、初臨のイエス様の悲しみを皆さん自身が解消するだけでなく、栄光をお返しすることができるようにしてください。このような責任が皆さんにあるのです。

今日、皆さんが霊的な段階に達し、父なる神様と相談する位置に入ると、皆さんに対してこれをしなさい、あれをしなさいと多くの指示が出されるでしょう。

地上に主がおいでになると、食べるものや着るものが必要となり、滞在する場所を必要とし、活動されるでしょう。しかし、メシアの到来を待ち望んでいたユダヤ民族はこれも知らず、メシアを迎える準備をしていませんでした。準備して待つ者はいませんでした。

もしそのような切実な心を持って準備していた人がいたなら、東方の博士達がエルサレムに来て、そのように語った時、全ユダヤの人々が騒ぎ立ち、東方の博士達を追ってベツレヘムまで行ったでしょう。しかし、旅の途中では東方の博士達3人だけでした。

22

これが神に従って来たと称した私達の先祖達が犯してしまった罪であったということです。

今日、皆さんはそのような立場に立ってはなりません。心も体も、内面も外面も、おいでになる主を迎える準備ができるようにする必要があります。

では、今日の終わりの時代にいる私達、世界中のクリスチャンが果たすべき使命は何でしょうか? メシアの到来を望んだユダヤの人々が、メシアが生まれる場所を用意する民となったとしても、メシアを牛の飼葉桶の中に寝かせなかったでしょう。同じように、メシアの到来に備えて場所を用意できるクリスチャンとなるべきです。

イエス様が十字架に架けられ、墓の上に横たわっている様子を喜ばしいと思ってはなりません。イエス様はすべての民が共に合意するほど、この地上のどの人よりも、4千年の歴史の中でどの人よりも、栄光ある位置に横たわっているべきでした。また、神の子としてすべての民から賛美され称賛されるべきでした。そして、悪魔の前で誇らしく立つべきイエス様でした。

しかし、ユダヤ民族がイエス様をこのように礼拝できない場面を見ている神様の悲しみはどうだったでしょうか?あなた方はこのような神様の悲しみを理解しなければなりません。

23

それゆえに、今あなた方は神様の心を代わりに持ち、2千年前のイエス様の悲しみを理解し、内面的に他の人に知られないように贈り物を準備する人になるべきです。天の贈り物は悪魔の前に現れることはありません。人前にも現れないのです。それはなぜでしょうか? それは誰かが先に知ることは許されないという意味です。知るべき人が先に知るべきです。悪魔が先に知ると、嫉妬を抱くからです。
自分達が、父なる神の前に立ち、この世界のためにおいでになる主を迎えるために、この地上には存在しない、この地上の何ものとも交換できない貴重な贈り物を準備しなければなりません。

主が降臨されご自身で活動されるとき、主が心や体で苦労されないように、主を受け入れる場所をあなた方の体で準備しなければなりません。これはなぜなのかというと、この世界で最も貴重なものは、あなた方の体だからです。

こうして貴重な方であり、天宙を代表する一つの存在であり、お父様の子、父なる神様が愛される独り子がおいでになるとき、永遠に安息できる平和の場所を築かなければなりません。そして心と体が一つになって、イエス様が再びおいでになるとき、イエス様の手足となり、イエス様の生涯を代わりに生き、イエス様を安らかにお迎えしなければなりません。また、イエス様が2千年前に戦われたその戦いを代わりに戦うことができる人とならなければなりません。

イエス・キリストは2千年間戦ってこられましたが、今度は私がその闘いを完全に引き受け、戦う決意を持ち、そのための盾さえ私の片手に用意する覚悟を持たなければなりません。そして、あなた方は生まれおちた時のイエス様の状況を感じ取る一方で、その後地上で生きられた時のイエス様の心情を感じ取らなければなりません。

24

あなた方が今真にお父様を求めに出かけようとするなら、イエス様の愛の腕を求めようとするなら、涙が流れることでしょう。

神様は4千年間心痛まれながらもその心情を示されませんでしたが、イエス様は具体的に涙を流されました。聖書には数カ所しか記されていませんが、実際にイエス様が涙を流された隠された事実は無限にあるのです。

神様は何千年もの間、計画的な歴史を通して愛してこられたユダヤの民を見守る際、一瞬も涙を流されなかったことはありませんでした。イエス様は神の前で祈るたびに涙を流されました。困難で孤独な瞬間にぶつかるたびに、イエス様はただお父様だけが理解してくださる中で悲しまれたのです。しかし、イエス様はこのような悲しみを弟子達に話すことができませんでした。こうしたイエス様の状況をあなた方は知るべきです。

イエス様はゲツセマネの園で一夜を徹して祈られたことが何回もありました。ゲッセマネの園だけで祈られたのではありません。

厳しい道を歩まれても悲しみの状況を理解できる場所は天国以外にはありませんでした。しかし、その悲しみを天国に任せようとはされませんでした。むしろ、その悲しみを自ら引き受けさせてほしいと願われたのです。『お父様、私を見て悲しまれるその悲しみを私が引き受けます。お父様、私を見て慰されてください。あなたの悲しみを私が背負いますから、悲しまれないでください』と訴えたのです。

25

「私が4千年の苦労を引き受けます」とお祈りしただけでした。「お父様、あなたが心配なさらないでください。私がここにいるので、あなたの希望が残っていることを心配なさらないでください」、という祈りでした。

イエス様は幼いころから悲しみを持っていました。世の人々がイエス様を受け入れなかったために成長する過程で悲しみを経験されたのです。
イエス様はヨセフの家庭で養子として育ちました。だから周囲の人々がイエス様について多くのことを言いましたが、彼は黙々として生活を送ったのです。

言葉では語れない天の御心、大きく驚くべき御心を抱えながら、普通の子どもとして成長したのです。私達は30年間も大工の仕事をして暮らした彼の生涯を、良い生活だったと思ってはいけません。イエス様はイスラエルのどの誰よりも高貴な地位に立ち、お父様の喜びと栄光を示しながら生きるべきでしたが、ヨセフの生活を支えるために斧を持ち、垂木を手にして生活したのです。これは何ということでしょうか。

今日、神様の意志を受け入れたいと願う真の子女、神様の心情を理解したいと願う真の子女がいるとしたら、彼らはイエス様が歩まれた生涯を手本にして進むべきです。

あなたがイエス様の使徒としての生涯を知ろうとするならば、驚くべき恵みを代わりに受けたイエス様の心情に共感し、その心情を思いやり、彼の苦しい立場に入り込んで見なければなりません。そのようにしてイエス様の悲しみは時間を超えて、生活の一瞬一瞬を超えたものであり、イエス様の生涯は一つの瞬間にも平安を感じることができない生活であったということを感じるでしょう。

26

しかし、地上に来られたイエス様は地上によって受ける悲しみを天の前に持ち込まないようにと、心からの悔いを感じていました。今日、イエス様を信じる人々は自らの十字架や悲しみを天に託すことがよくあります。しかし、私達はそれをするためにイエス様を信じるのではありません。それに対して、「天の悲しみは私による悲しみであり、その悲しみを私が負い受ける」と言うことができる人は、イエス様の信念、イエス様の生涯の一部を通じてのみ可能な人です。
今日、30年近くもの間、涙と共に過ごされたイエス様の悲しみの足跡が残っているとしたら、皆さんにはそれを解き明かす責任があります。

イエス様は30年以上もの間、悲しみの中で過ごされ、ついには十字架を背負い、運命の時を迎えられました。最後の瞬間に「アバ、父よ、どうして私を見捨てられるのですか?」と言われながらも、神の御心を成し遂げるという切なる心情に耐えていらっしゃったことを皆さんは知らなければなりません。

そうすれば、今日の皆さんが「私はイエスの友達だ」という心を持って世界を見るようになったなら、涙なしにはこの世界を見ることができなくなるでしょう。イエス様は足を踏み出すたび、体を動かすたびに涙を流されたのです。一度も涙を流さなかった日がなかったのです。このようなイエス様と同じように、今日信じている聖徒達の中には、毎日の生活の中で天の前に申し訳ない心を持ち、涙を流す人がいるとしたら、彼はイエス様の友達となるでしょう。

教会や家庭の中で、互いにお互いのために、イエス様の心情を理解し、神様の代わりに涙を流すことができる人がいるとしたら、そこには間違いなく神様に求める必要なく無限の命と愛が共にあるでしょう。こうして神様は情が通じ、愛が通じ、内容が通じるクリスチャンを求めているということを皆さんは知らなければなりません。

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もしも今日イエス様がこの地上に主がおいでになるとしたら、「あなたは果たして苦難の30年近くを過ごした私の友人となっているだろうか?」、と尋ねられるでしょう。また、「あなたはどれだけ神の悲しみを受け入れ、世界的な悲しみを持ちながら今日迄生きてきたのか?」、と尋ねられるでしょう。

地上においでになったイエス様を人々が受け入れなかったために、イエス様を悪魔の前に一つの条件として差し出したということを知る必要があります。そして皆さんはこの条件を超えなければならないのです。

今日私達はなぜ生きているのでしょうか? この身が死ぬ前に、この目に土が入る前に、忠誠を尽くしてイエス様の生涯を追い求め、泣くことができる人となり、イエス様の生涯で踏みにじられたものを取り戻すことができる真の人とならなければならないからです。だからこそ、皆さんは生きている間にこのような責任を果たさなければなりません。

ですから、今の私は単なる私ではないということです。皆さんがこれまで生きてきた年齢だけの皆さんだと思ってはいけません。皆さん一人一人はアダムからイエス様までの4千年、そしてイエス様以降から今までの2千年を合わせた神の再臨の時代を皆さん一人一人が実現する天宙的な使命を背負っている存在なのです。

だからこそ、イエス様が敵の前で堂々と立っていたように、皆さんも十字架の苦しみを受けても堂々としなければなりません。涙を流すとしても自分のために流さず、泣くとしても自分のために泣かないようにしなければなりません。

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泣くならば、イエス様のために泣きなさいということです。それであなたを思い、あなたを考えるイエス様がどれほど喜ばれるでしょうか? そして神様はあなたの状況を理解してくださるでしょう。涙を流すとしても、そのような心で涙を流す人とならなければなりません。自分のために涙を流す者は必要ありません。イエス様のため、神の愛のために涙を流して悔い改める者だけが神の子、娘となるのです。

あなたが十字架の苦しみに直面するとき、真にお父様の愛を感じ、お父様の愛の権威の中に自分がいると感じるなら、祈ることができなくなるでしょう。私はそのようなことを経験しました。肩に何トンもの重い負担がかかっていても、「お父様、これを軽くしてください」と祈りませんでした。そのような祈りはしてはいけないということです。

愛するお父様は、このような立場にある私をよくご存じです。そうでなくても、悲しい立場にあるお父様に対して、「お父様、私はこのような重荷を抱えています」と祈ることによって、辛いお父様の心に第二の悲しみを与えることになると言う事です。

これらのことを理解して、神とイエス様に対処する必要があります。三千万人の民族の中で、このような心を持つ人が幾らかでもいれば、この民族の悲しみを和らげることができるでしょう。私達は自分の悲しみのために涙する人に絶対になってはなりません。

イエス様は天宙的な使命を持ってこの地においでになりましたが、一生涯にわたって苦しみを受けられました。しかし、その悲しみを自分のために祈るのではなく、むしろお父様の心を癒し、心配を安心させるために祈られました。そして地上を見つめ、人間達の無知を容認し、理解して更に与えるために愛されたイエス様でした。しかし、イエス様の生涯は30年の涙の生涯だけで終わったのではありませんでした。

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彼は神様の使命を代わりに果たすために立ち上がったので、生きるか死ぬか、ただお父様の御心だけを栄光にかえる心を持って生きました。イエス様は神様が気にかけて下さるかどうか、地上の人々が気にかけるかどうか、そうしたことは気にせず、時と場所を問わずに御心のために生きられました。

イエス様は自らの使命を完遂しようとされましたが、結局は十字架にかかる運命に直面しました。しかし、彼は苦悩したり絶望したりしませんでした。死の場面に至るまで自分を弁護することはありませんでした。私達が知っているように、ピラトの裁判を経てゴルゴダの丘で十字架に釘付けにされる運命に直面しても、イエス様は自己弁護をせず、変わらない主役でした。

人々が反対することも、自らの責任だと感じたこともあったイエス様でした。イエス・キリストを信じている私達は、誕生から復活までのイエス様の友人となるべきです。

イエス様は生命と友達になるのではなく、むしろ死と友達になった存在でした。歴史の中で多くの人々が死の道を歩みましたが万民の死を代わりにして死の友となり、万民のために死んでくださったのはイエス様だけであったということです。

それゆえ、キリスト教は死と犠牲の宗教であり、キリスト教の真理は死に打ち勝つ真理です。そして、イエス様の活動は自己を破壊することでした。それなのにもかかわらず、愛を持って死を迎えることができるイエス様の行動を皆さんは認識するべきです。

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イエス様は死の友であったため、死が迫っても、それに抵抗することはありませんでした。皆さんは、イエスが敵のために死ぬことができる自由な生活を送ったということを理解する必要があります。

後には神様ですら、イエス様を十字架にかけたまま理解しなかったとされます。その時、イエス様は「アバ、お父様、どうして私を見捨てられたのですか」と叫びましたが、これは絶望の叫びではなく、自分の希望が絶望に転じることを心配しての叫びであり、自分の生涯が虚しく終わるかもしれないという不安からの叫びだったのです。イエス様は自らの任務を果たすために死ぬことに満足していたので、父さまが彼を天国に送るか地獄に送るかなど気にかけることはありませんでした。彼は死の友となる立場にあり、使命を完成させるために死ぬことに満足していたのです。

イエス様は天宙的な愛を持ちながら、それを自己に留めることはありませんでした。驚くべき恩寵を持ちながらも、一度死の友となるために立ち向かう以上には何の後悔もありませんでした。天の希望を成し遂げるために来られたにもかかわらず、天がその希望に対して答えを与えなかったとしても反論したり不平を言わなかったのがイエス様でした。

私達が神様を追い求める旅には終わりがあります。最善の努力を尽くして進むにもかかわらず、結局は天が答えを知らないことがあります。それは世界的な使命が私達の前にあるからです。だからこそ、イエス様も世界的な使命を担う必要があったために、そうした経験をされたのです。同様に、私達にもそうした経験があるでしょう。忠誠を尽くし、生活を捧げても、天が答えを知らない出来事が起こることでしょう。

しかし、あなたは死んでもお父様の御心であり、生きてもお父様の御心であると言えるようになるべきです。また希望を持つなら、お父様の御心を成し遂げるただ一つの希望を持つようにしてください。食べられないことも着られないことも喜ばしいことだと言える心の持ち主になるべきです。

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今日、あなた方は天に行くためにイエス様を信じる者になってはいけません。死ぬためにイエス様を信じる者こそが天に行くでしょう。よく生きるためにイエス様を信じるのではなく、よく死ぬためにイエス様を信じるのであれば、それは非常に尊い信仰となるでしょう。よく生きることを望みながら信じた12使徒達は、イエス様が死ぬ時には皆どこへ行ったのでしょうか?

あなた方は自分の一つの命をよく生きるために信じるのではなく、自分の一つの命をよく犠牲にするために、つまりよく死ぬために信じなければなりません。そのために私達はイエス様の生涯を模範にする必要があります。イエス様の生涯を歴史を代わりに受け入れる責任が私達にはあります。その生涯を私達が持つべき責任があるのです。イエス様の生涯を持つことによって、イエス様の愛を持つことができます。イエス様を迎えることによって、イエス様の愛を受けることができます。さらに、あなた方はイエス様が2千年間にわたって労苦されたことを見習う信仰的な人格を備えなければなりません。

それだけでなく、6千年にわたって神の計画が延長されていますので、6千年の計画を代わりに受け入れて来られる方を迎え入れることができるようになるべきです。あなた方には父なる神が、もしくは主イエス様が現れた時に、主を招待して迎えることができる時間を持つ必要があります。その時間は一時間でも二時間でもなく、永遠に主を迎え入れることができる時間であるべきです。

それでは、主を迎えることのできる花嫁の資格を持つためには、どうすればよいでしょうか? まず第一に、6千年間の神様の憂いを背負い、慰めてあげることができることが必要です。

そして、主に対して自分がこうしようと考え行いましたと、主の前に立ち、こうして準備しましたと言えることが大切です。天宙的な準備を備えて、「主よ、おいでください。主よ、現れてください。」と言える聖徒になることが必要です。こうした聖徒は決して滅びることはありません。

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このような重大な使命が私達の前にあるのです。しかし、多くの人々がこれを知らずにいます。また、イエス様の内なる心情や内なる希望が今私達一人一人を中心に回っていることを知らないでいます。そのような人々はどうなるでしょうか? 知らない者は滅びるでしょう。自ら胸を打つ時が訪れるでしょう。

心から尽くし、身体で尽くし、社会にも尽くし、国家にも尽くし、世界にも尽くし、天地にも尽くすこと、これこそが子の責任であるのです。しかし、今日の皆さんはまだ心からもイエス様に尽くせていないことを知るべきです。まだイエス様に尽くすための出発もしていないということです。

心から尽くし、身体で尽くし、社会で尽くし、国家で尽くし、世界で尽くし、天地で尽くすことによって、栄光が皆さん個人だけでなく、家庭、社会、国家、世界、そして全ての人類に満ち、余りがあるべきだということです。こうした天宙的な使命が皆さんにあるとは、皆さんは想像もしなかったでしょう。

それならば、このような使命を持ち集まった皆さんは傲慢であってはいけません。卑屈で愚かな人にもなってはいけません。数多くの敵の前に立っても堂々としていなければなりません。皆さんには宇宙的な栄光と愛をもたらすイエス様を心から尽くす責任があるのです。宇宙的な地位に心と体を持って立たねばならない皆さんなのです。

しかし、自分のために尽くし、家族のために尽くすだけで満足しているクリスチャンは必要ありません。一つの教会を中心にして満足しているクリスチャンも必要ありません。三千万の民族が全てクリスチャンであっても、民族を代表して立ち上がれるクリスチャン、世界の人類が全てイエスを信じているとしても、その24億の人類を代表して立ち上がれる代表的なクリスチャンが必要なのです。


33


天界にいる全ての天使を指導できる資格者とならなければならない私達なのです。彼らの前でも堂々とこうして価値あることをしたと言えるべきなのです。これを成し遂げるためにだれが来たかと言えば、イエス・キリストが来られたのです。

このように大きな使命を果たしに来られたイエス様、このように私達が絶対に尊ぶべきイエス様ですが、そのイエス様を見据えて出て行く私達は果たしてどう生きてきたのでしょうか? 見るに堪えないことです。見るに堪えないために、6千年間涙を流しても足りないというのです。胸を打ちながら6千年間嘆き悲しんでも足りないでしょう。このような立場にある私達でも厚かましいほどの人間になってはならないというのです。

もしあなたがすぐに死ぬことがあっても、倒れて踏みつけられることがあっても、持つべき真心、持つべき忠節の心だけは変わらずに持ち続けるべきであり、天宙の前に堂々と立って天の子娘としての地位を築くことができるようにしなければなりません。
あなた方は困難な道に立っています。いや行かなければならない運命の道に立っているのです。このような運命の道に立ったあなた方は一生をかけて信念と内なる忠節を持ち、その道を進むべきでしょう。

あなた方は泣かなければなりません。私は主を尊ぶと言いながらも、世界的な主、天宙的な主、6千年の歴史を超えて永遠の異界を抱えてもなお残ることができる主、このような主を尊ぶ私は、今まで家庭の主を尊び喜ぶ私でしかなかったと悔い改めて嘆くべきでしょう。


34


今日の皆さんは、この時代に対する責任と使命を感じていますか? それとも、創造の理念が完成する終わりまで、全体の人類が望んできた理想を自分が代わりに実現しなければならないという事を考えたことがありますか? そのような天宙的な使命感を感じたことがありますか?

そして、あなた方は「私はこのような使命を果たしても生き残ることができる、自分が存在している人間だ」という心の余裕を持って祈ることができなければなりません。そのような立場で祈るときには、多くの言葉や論理は必要ありません。ただ「お父様」と一言言えば十分です。説明は必要ありません。

言葉を発する前に、直感的な衝撃によってためらわずに尊ぶことができる資格を持たなければならない立場に私達は立っています。そのような宝を持ち、私達は立ち上がりました。これから出発するあなた方は、どんな条件に縛られていますか? 途中でどの段階に立ち止まっているのでしょうか? あなた方は生涯の経過で、今どこまで進んできたのでしょうか? 個人から出発して家庭や社会、国家、世界を経て天の領域まで走り抜けなければなりません。そのような天宙的な使命があることを知らなければ、主に出会うことはできません。

イエス・キリストは、あなたを受け入れる真の人を見つけて、6千年のため息を一掃し、彼を抱きしめて感謝の涙を流されるとき、「お父様、あなたが探しておられた存在がここにいます。お父様、喜んでください。」と言われる日が人類の前に訪れるべきです。

その日を基準にして戦い抜くあなた方は、今日も戦い、明日も戦い、生涯を捧げる覚悟のある人でなければなりません。そして永遠の任務から先駆者となり、天宙的な花嫁として装い、天宙的な主を受け入れることができる人にならなければなりません。


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そのような勝利の栄光、お父様の愛、永遠の命を受けて、万物創造主であり、源泉となる花嫁として、お父様と永遠に共にするまで戦い抜かなければならないことを心に留めてください。



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