今、皆さんが知っておくべきことは、イエス・キリストが憐れみ深いマリアの体を通して生まれたと言う事です。冒険的な生涯を持ち、私達の前に現れたイエス・キリストが、聖母マリアのような人物がいなかったら、神様の意志はどうなっていたかと言う事です。聖母マリアのような憐れみ深い女性がいなければ、イエス・キリストの誕生はありえなかったでしょう。地上にマリアのような冒険的な犠牲の土台がなければ、イエス様の新しい命が誕生することはあり得なかったのです。
従順なマリアに天使が現れ、「あなたはみごもり、男の子を産みます」と告げたとき、マリアは「私は男を知らないのに、それはどう言う事ですか?」と尋ねました。天使は再び、「全能なる神があなたを選ばれました」と答えました。その時、マリアは「主よ、私ははしためです。みこころが成るように」と答えました。この一言が天宙的な冒険を示す言葉でした。
36
その当時、処女が妊娠する事実が明るみに出ると、モーセを通して立てられた律法により、即座に石打ちにされることを知りながらも、マリアは現実の環境を超えて、「主よ、御心が成るように。はしためなので、御心が成るように。私は死んでもあなたのもの、滅びてもあなたのものです。御心が成るように」と言ったのです。天はこのような地上の存在であるマリアがいるからこそ、イエス・キリストを誕生させたのでした。
しかしそれだけではありません。皆さんが今日信仰生活を送る中にも、未知の冒険の道がたくさんあります。婚約者であるマリアが懐妊したという事実を、夢を通じて予告されたヨセフは、さまざまな人間的な困難により、マリアとの結びつきを解消しようともしました。自分と婚約していた処女が妊娠しているという事実は、ヨセフにさまざまな人間的な苦悩をもたらしました。しかし、ヨセフはすべての出来事を自分の責任とし、マリアを救おうとしました。それは簡単なことではありませんでした。超現実的なことでした。
そのため、今日の皆さんにも、ヤコブが歩んだ道、ヨセフが歩んだ道を進む使命があり、イエス様が歩まれた道、マリアが歩んだ道を辿る使命が残されています。だからこそ、こうした超現実的な場面が皆さんには待ち受けていること、超現実的に通り抜ける冒険的な峠が皆さんの前にあることを知らなければなりません。
4千年の歴史の憂いを抱え、死ぬか生きるかを問わず天の御意のために犠牲になろうと覚悟して立ち向かったイエス様に人々は気づきませんでした。彼が万民の救い主、メシアであることを知らなかったのです。これらの事実を見ると、イエス様は生まれた瞬間から超現実的で、新しい理想的な冒険の人生を過ごされていたことが分かります。現在、この人生は未完成のままで、再臨に要求される御意として残っていることを皆さんは知るべきです。
イエス様の生涯を見ると、ヨセフとマリアの家庭で生活し、成長される過程でも天の御意に対する悩みや心配がありました。兄弟達からの非難や嘲笑も受けました。イエス様の30年以上にわたる生涯は、ヨセフが最初に持った心情とは一致しませんでした。ヨセフはイエス様よりも自分の息子をより愛していたのです。そのため、イエス様も当時の社会形態に適合した家庭環境を持つことができませんでした。
37
そうして義理の息子のように暮らしながら、最後には十字架にかかることになったイエス様の全ての生涯は、非現実的なものでした。そうした環境で、すべての家庭的な葛藤に直面しながらも、イエス様は沈黙の中でそれを乗り越えました。最終的に天の御意を持って現れ、万民のメシアであることを証しした後の出来事もまた、現実的ではありませんでした。
長い歴史の中でユダヤ教の教えを超えて新しい天の福音をもって立ち上がったイエス様は、どこに行っても、どこに滞在しても、現実的に歓迎されたことはありませんでした。そのような、自分を慰めてくれる場所を見つけたイエス様ではなかったことを理解する必要があります。
神様の御心を知っているイエス様は新しい新約の福音を宣言しました。最初、洗礼者ヨハネがイエス様を証言した時は、ユダヤ教のすべての祭司や書記達が理解できる環境が整っていました。しかし、3年間の公生涯を経てイエス様の立場はますます低下し、最後には漁師達と貧しい女性達だけが従う立場に置かれることになったのです。
神様の使命を遂行するためには、永遠の約束が必要であり、自らの意志としても永遠となる意志が必要でしたが、現実的にはそんなものを見つけることはできませんでした。イエス様が荒野で5000人以上の群衆を集め、彼らのために天に向かって祈りをささげた心情、ラザロの墓前で懇願の祈りをささげた心情は、地上の誰とも比べられないほどの深い悲しみに包まれていたことを皆さんは理解すべきです。
4千年の歴史の中で数多くの先賢達が神様の御心のために冒険的な生活をし、覚悟と内なる悲しみを抱えて戦ってきましたが、その中でイエス様の内なる悲しみには及びもつかないものでした。イエス様は4千年の歴史の中でのすべての怨みや心情を乗り越え、天に昇って神様の内なる悲しみを満たすことが求められました。
38
イエス様を追従する人々はユダヤ人達に歓迎される人々ではありませんでした。ユダヤ教の聖徒達に認められる人々でもありませんでした。
イエス様は社会的に、教会的にどこを行っても誰も歓迎してくれない道を進む事になりました。どこに行っても自由な環境にとどまることができない立場にあったイエス様でした。
モーセがイスラエルの民60万人を導いて出て行く際、彼の前には紅海が立ちはだかり、後ろにはパロの戦車が迫っていました。モーセは死を恐れる60万人の代わりに、そのような死の試練に打ち勝ち、残るための一つの信念を持って立ち向かったのです。それは60万人の民を生き返らせることのできる道であったことを皆さんは知るべきです。
イエス様も同様に、5つのパンと2匹の魚で5000人の群衆を満腹にしたことも同じです。夕暮れ時に野原に広がる数多くの群衆を見つめるイエス様の心情は、実際には地上のどの人からも理解できない心情でした。まさに天の前に現れなければならない一大冒険の心情でした。イエス様がこのような心情を持ち、父なる神様の前に叫ばれたことによって、冒険的な創造の歴史が起こったのです。
生まれながらにして冒険的に生まれ、生きる間に冒険の道を歩まれ、最後には十字架に釘付けになるまで冒険的な基準で戻られたイエス様であることを私達は感じる必要があります。このようなことを見ると、イエス様の生涯は単なるありふれたささいな生涯ではありませんでした。地味でも素晴らしいような、そんな生涯ではありませんでした。
39
今や皆さんは、信じている自分を再分析し、イエス・キリストの生涯に合わせて見直す必要があります。もし皆さんがイエス・キリストの花婿となることを望む心があるとしたら、皆さんはイエス様の誕生から30年の冒険的な生涯を経て、ゴルゴダ山の運命の道、試練と逆境の生活から十字架に至るまでの運命の道、冒険的な死の道を歩まれたその生涯を知る必要があります。
まさにイエス様の生涯は冒険として始まり、冒険として終わる生涯でした。花婿として来られたが、孤独ながらも死の道を歩まれたイエス様、私のために帰られたイエス様、私を救うために帰られたイエス様の骨肉にしみる悲痛な心情を私達は心に感じ取る必要があります。
今日の終わりの時代において、皆さんがイエス様に捧げることができる贈り物があるとしたら、それは何でしょうか? 生涯をささげて冒険的な過程を経てきたイエス・キリストの哀れな心情を胸に秘め、全世界に向けて、全天空に向けて、誰よりも素晴らしい犠牲、全天宙を動員しても見つけることができない唯一の天宙的な冒険の犠牲となることです。
したがって、今までの歴史の過程を経てこられた神様の遺恨の心情を理解し、天と地の位置から上がって行かねばなりません。喜ばしい地位から何かを担当したいと思ってはいけないと言う事です。御意のために死ぬ覚悟を持って生活しなければなりません。考えてみてください。地のために死んだイエス・キリストが地を非難すれば、それ以上非難できる人はいないでしょう。
しかし、イエス様は自分のためにこられませんでした。最初は歴史の復帰のためにこられ、イスラエルの教団のためにこられ、イスラエルの民のためにこられました。従っている弟子達のために来られ、さらには民族と国家、世界そして天のために来られました。彼の生涯は民族と国家と世界そして天のための生涯であり、死に至るまで自分のための死ではなかったと言う事です。
40
しかし、このようなイエス様の足跡を誰が正しいと言ったでしょうか? 死の山頂でさえ愛する弟子達からも裏切られ、一人取り残され、すべてを負担し、立ち向かわなければならなかったイエス様を思い起こしてください! もし人間達に対して憂いを抱き、恨みを持とうとしても、地を打ち鳴らして泣いても、30年の遺恨を解消することはできず、受けた苦しみを報いる方法はないでしょう。しかし、イエス様は当時の人類が悪魔の支配下で苦しむことを心配し、憐れみの心情でありながら、十字架に釘付けになる死の場所でも裏切られた民族、裏切られた弟子、裏切られたすべての人類のために祈る方でした。
人類への憂いを持たれたイエス様であったため、彼はこの地上の祖先達の4千年の歴史に訴えても、当時のすべての人間に訴えても、彼らの友人になることができましたし、反対した民族のために自分を打ち、反対する敵対者のために祈ることができました。これは4千年の人類の歴史において存在し得なかったことです。また、これは天と地に悔恨した罪の壁を取り壊すための天宙的な冒険の行為であったことを、皆さんは知るべきです。
イエス様が全能の王ならば、皆さんはその全能の王の王妃となるために、その約束を信じて死んでも生きても、すべてを御意に委ねて生活しなければなりません。
イエス様はこのような道を歩まれました。イエス様の生涯はそのような生涯でした。イエス様の希望は御意のために生き、御意のためにそのように死ぬことでした。
今、私達に求められることは何でしょうか? そして、私達が知るべきことは何でしょうか? 死の座においても人類のために祝福を祈って下さり、内面の悲しみを抱えて歩まれたイエス様を理解しなければなりません。地上で一つの意志を確立し、冒険の道を進んだイエス様の心を私達の心とし、イエス様の死を理解して、今日、私達が天宙的な冒険の道を通してイエス様の心の中にあった憎しみを解き放たなければなりません。
イエス様を信じる人々の中には、父なる神様に祝福を願う人々がたくさんいます。しかし、祝福を願う前にイエス様の胸中に秘められた悲しみを理解しなければなりません。さらに、イエス様の生涯と十字架の路程を知るべきです。人類が知らない、イエス様と神様だけが知っている冒険的な路程の悲しみがあったことを、今日、皆さんが知り、イエス様が語ることのできなかった内なる悲しみの心情を理解しなければならないのです。
41
ですから、「主よ!私達があなたと歴史的な全ての憎しみを解き放ちますように、私達を鞭打ってください。歴史的な全ての民族を通じて成し遂げようとされた、あなたの御心を成就できるように導いてください。そして、私達が倒れることなく、天宙的な歴史を代わりに成し遂げ、数多くの先祖が残した憎しみを解消する冒険的な献身となるように導いてください。」と言えることが求められるのです。
今、私達が望む希望は、イエス・キリストが地上に遺した御意を成し遂げることです。極限に達したイエス・キリストの御意を再び成就しなければならない運命が私達の運命であると言う事です。歴史は個々の冒険的な使命を経て、家庭を通じて、社会を通じて、国を通じて、世界を通じて進んできました。そのため、キリスト教徒の中で個人がその意志を成し遂げようとする際には、その個人の行程に冒険的な試練が加えられてきました。家庭も同様であり、社会も同様であり、国も同様であり、世界も同じでした。今、そんな冒険的な試練が皆さんの前に置かれていることを皆さんは知らなければなりません。だから、今日、皆さんは冒険的な生死の分かれ道と天宙的な審判の前に立っている私の一心の冒険、私の一心の生命を代わりに、民族の生命を代わりに、世界の人類を代わりに冒険的な献身として捧げることができなければなりません。
そして、過去の先祖達の歩んできた生涯の道とイエス・キリストが歩んだ生涯の道を、今日私達がどんな時代、どんな状況でも見習って歩めるようにしなければなりません。さらに、どのような人がどのような条件を提示しようとも、超現実的な自己を立てて天宙万象の前に訴えることができ、天の御心を代わりにする者として立ち上がる覚悟と度胸を持たなければなりません。
今や再臨の日が近い現代において、あなた方は6千年の歴史の最後に残された唯一の天宙的で冒険的な使命を果たさなければなりません。その使命が天宙的であるなら、あなた方も相対的に天宙的な存在とならなければなりません。ここで冒険的、内面的な覚悟を持たなければ、その使命を遂行することはできないと言う事をあなた方は理解しなければなりません。
神様の御心が私達の信仰生活とは異なる場合、どうなるでしょうか? 今までの超現実的な冒険の努力によって、神様の歴史は進展してきました。
42
このような天宙的な冒険の関門を通らなければ、最後の勝利の旗を掲げて父なる神様の前でホザナを叫び、天宙的な花嫁の立場に代わる存在となることはできません。そして、どのような条件にも縛られず、またどんな環境であっても迫害や非難に耐えることができる唯一無二の天宙的な冒険の基準を築く天の王子王女にならなければなりません。
このような王子王女になる覚悟を持った者こそが神様の計画を最終的に勝利し、その栄光を顕示できるキリストの花嫁であることを、皆さんは理解すべきです。一緒に祈りましょう。
イエス様が全能の王ならば、皆さんはその全能の王の王妃となるために、その約束を信じて死んでも生きても、すべてを御意に委ねて生活しなければなりません。
イエス様はこのような道を歩まれました。イエス様の生涯はそのような生涯でした。イエス様の希望は御意のために生き、御意のためにそのように死ぬことでした。
今、私達に求められることは何でしょうか? そして、私達が知るべきことは何でしょうか? 死の座においても人類のために祝福を祈って下さり、内面の悲しみを抱えて歩まれたイエス様を理解しなければなりません。地上で一つの意志を確立し、冒険の道を進んだイエス様の心を私達の心とし、イエス様の死を理解して、今日、私達が天宙的な冒険の道を通してイエス様の心の中にあった憎しみを解き放たなければなりません。
イエス様を信じる人々の中には、父なる神様に祝福を願う人々がたくさんいます。しかし、祝福を願う前にイエス様の胸中に秘められた悲しみを理解しなければなりません。さらに、イエス様の生涯と十字架の路程を知るべきです。人類が知らない、イエス様と神様だけが知っている冒険的な路程の悲しみがあったことを、今日、皆さんが知り、イエス様が語ることのできなかった内なる悲しみの心情を理解しなければならないのです。
41
ですから、「主よ!私達があなたと歴史的な全ての憎しみを解き放ちますように、私達を鞭打ってください。歴史的な全ての民族を通じて成し遂げようとされた、あなたの御心を成就できるように導いてください。そして、私達が倒れることなく、天宙的な歴史を代わりに成し遂げ、数多くの先祖が残した憎しみを解消する冒険的な献身となるように導いてください。」と言えることが求められるのです。
今、私達が望む希望は、イエス・キリストが地上に遺した御意を成し遂げることです。極限に達したイエス・キリストの御意を再び成就しなければならない運命が私達の運命であると言う事です。歴史は個々の冒険的な使命を経て、家庭を通じて、社会を通じて、国を通じて、世界を通じて進んできました。そのため、キリスト教徒の中で個人がその意志を成し遂げようとする際には、その個人の行程に冒険的な試練が加えられてきました。家庭も同様であり、社会も同様であり、国も同様であり、世界も同じでした。今、そんな冒険的な試練が皆さんの前に置かれていることを皆さんは知らなければなりません。だから、今日、皆さんは冒険的な生死の分かれ道と天宙的な審判の前に立っている私の一心の冒険、私の一心の生命を代わりに、民族の生命を代わりに、世界の人類を代わりに冒険的な献身として捧げることができなければなりません。
そして、過去の先祖達の歩んできた生涯の道とイエス・キリストが歩んだ生涯の道を、今日私達がどんな時代、どんな状況でも見習って歩めるようにしなければなりません。さらに、どのような人がどのような条件を提示しようとも、超現実的な自己を立てて天宙万象の前に訴えることができ、天の御心を代わりにする者として立ち上がる覚悟と度胸を持たなければなりません。
今や再臨の日が近い現代において、あなた方は6千年の歴史の最後に残された唯一の天宙的で冒険的な使命を果たさなければなりません。その使命が天宙的であるなら、あなた方も相対的に天宙的な存在とならなければなりません。ここで冒険的、内面的な覚悟を持たなければ、その使命を遂行することはできないと言う事をあなた方は理解しなければなりません。
神様の御心が私達の信仰生活とは異なる場合、どうなるでしょうか? 今までの超現実的な冒険の努力によって、神様の歴史は進展してきました。
42
このような天宙的な冒険の関門を通らなければ、最後の勝利の旗を掲げて父なる神様の前でホザナを叫び、天宙的な花嫁の立場に代わる存在となることはできません。そして、どのような条件にも縛られず、またどんな環境であっても迫害や非難に耐えることができる唯一無二の天宙的な冒険の基準を築く天の王子王女にならなければなりません。
このような王子王女になる覚悟を持った者こそが神様の計画を最終的に勝利し、その栄光を顕示できるキリストの花嫁であることを、皆さんは理解すべきです。一緒に祈りましょう。
「文鮮明先生御言葉選集 1 - 18. 希望の天国を所有する者たち 1956年12月16日(日曜日)、前本部教会。
聖書拝読 マタイによる福音書11:1-15
<祈祷(Ⅰ)>
愛のお父様! 一週間、貧しいものを受け入れ、細やかに心配してくださったお父様、私達の一日一日が自分達の思い通りにならないようにしてください。私達が願うことも、私達の意のままになることはないように、賜わった恵みを思い起こすとき、お父様、心から感謝いたします。
今日、幼い姿でお父様の前に出て参ります。まず第一に、私達の心と身体が東方の三博士が捧げた金や乳香や没薬のような供物にならなければならないことを知っております。最初に、私の心と身体を差し出させてください。聖壇の前で嫌われる姿にならないようにお許しください、愛するお父様、心から願っております。
これらのことを呼び起こすために努力されたお父様は、6千年の長い道のりを経てこられたことを知っております。
43
私達一人一人が重い使命を持ち、人類の前に立たされたといえるでしょうが、私達一人一人が天の全体の信仰を代表して喜びを示さなければならないことを知っております。
選ばれた目的は、ますます理解するにつれて、足りないものを再び求めたことを思い起こすほど、私達の不十分さをお父様の前で告白せずにはいられません。私達のあらゆる意識や概念、自己主張をすべて捨てて、お父様の前にへりくだっていますので、お父様、お支えください。
死の波は時を超えて動いていますが、その中で子女達を探し求めておられるお父様、お父様が私達に恵みを与えてくださるのは私達が立派だからではないことを知っています。お父様の悲しみがキリストが再びこの地においでになる日まで続くことを知っています。
お父様、全てを委ねますので、心と体を完全に主管してください。
この集まりがただ人々が集まるだけのものにならないように許してください。6千年の歴史を背負い、お父様のお辛い心情を慰めるような姿になることを許してください。私達が一つの供物としてすべての聖道と共に喜びをもって崇拝できるように、三位一体が私達の心と体を完全にお預かりください。愛するお父様、心から願い求めます。
44
お父様、この三千万の民族を憐れんでください。この民族を愛するために長い歴史の中で努力されたことを知っています。私達を選んでくださる時には知らない苦労があると知っています。
祭壇を築き、お父様と深い縁を結ぶ中で、民族を代表して訴えるあなたの子供達がいることを知っており、彼らに感謝せずにはいられません。彼らの前で新しい世界の歴史を起こし、衝動の歴史を起こしてください。一つの民族を代表して一人で責任を持ち立ち上がれる、天の前に責任を負う革命家として立ててください。愛するお父様、心から願い求めます。
民族の怨みが天に掲げられていることを知りますし、地上の人類の怨みも天に掲げられていることを知っています。この天の悲しみを代わりに背負う者がいないことを天が嘆いていることを知るならば、今日ここに集まった子供達に、この地上、この全ての天地にたたえられた怨みを代わりに解放して差し上げるために、お父様の前で懇願する子供達となることをお許しください。悪魔の前でお父様の代わりに戦うことができる子供達となることをお許しください、お父様、心から願い求めます。
心と体が一つとなり、調和しながら一つの意志を持ち、お父様の恩寵を歌うことができるように許してください。解放の恩寵に感謝し、礼拝することができるこの時をお許しください、私のお父様、心から願い求めます。
新しい御言葉を持って各地で戦う子供達がいますので、どこにとどまっていても、お父様と共にあってください。頼るべきはこの地上に何もありません。ただ天の許された恩寵に頼ることしかできません。多くの敵から嘲笑されながら戦わなければならない天宙的な運命に入ってしまったのです。お父様、激励してください。
45
この日も同じ恩寵として、ここに集まった人々の心と体に満ちあふれるほどの天の恩寵を注いでください、お父様、心から願い求めます。あなたの志を代わりにして孤独な場所でお父様の前で心配の祈りをしている子供達もいますので、彼らの心を守ってください。
分け与えていただくこと、許されることの恩寵を下さいますように、切にお願いいたします。この一時ここに臨んでください。主の御名によりお祈り致しました。アーメン。
<祈祷 Ⅱ>
時代を経て世紀を渡り終末の時まで努力しながらご苦労されて来られたお父様。お父様のご苦労の志がこの地上で早く成就することを望む私達が、お父様のその努力を地上で引き継ぎ担うことができるようにお許しください。
お父様の聖断を中心にして敵対的な使命を引き継ぎ、地上でイエス様に代わって悪魔と戦う勇敢な子女となるように許してください。お父様、熱望しております。
この日与えられた御言葉を読みました。イエス様のために歴史的な使命を帯びて地に来た洗礼者ヨハネがイエス様の前に証し的な使命は果たしましたが、敵対的な人々の心を終えるようにして差し上げられなかった事実を私達は知っております。
46
この場に集まった聴衆、ひれ伏すあなたの子供達、自らの一つ一つを省みさせてください。自らの一つ一つをお父様の前に明らかにすることをお許しください。自らの一つ一つをすべての人々の前に掲げて、世紀末的な神様の使命を代わりに果たす姿になるようにお許しください。そして、この時代に天が要求される敵対的な使命とお召しの御言葉に従順な、忠実な者達になるようにお許しください。
御心の時は限られておりますが、人々は悲しいことにこれを知らず、無限に希望を抱いています。また、今日のこの瞬間で生死が決まるということを知らない哀れな人々が多くいます。お父様、初臨の際に洗礼者ヨハネが現れて証言した時の残された内容をここに集まった子供たちが心に刻むことをお許しください。
今、私たちが心を開いて天の内的な祭壇を築けるようお許しください。そして私たちの体を悪魔に対する勝利の供え物としてお父様の前に自信を持って差し出せる息子娘達にしてください。天は自信に満ちた勇敢な勇士を求めておられ、卑屈で卑劣な者が敵の前でひざまずくことを望んでおられないことを知っております。ここに集まったあなたの息子娘達が、御心のためであれば命さえ投げ出すことのできる天の勇士となれるようお許しください。今やそのような勇士が必要な時が来たことを知っています。
天倫の御心を担った洗礼者ヨハネと彼に従った群衆が天の内的な心情に燃え上がり、堕落したユダヤ教全体と対立して新しい事実を展開したように、今日私たちを通してこの民族の前に哀れみの愛の光をお示しください。どうかお父様の摂理の御手を引かないでください。
この民族のために築かれている数多くの祭壇を、お父様、祝福してください。また、すでに確立された教団に固執し、新たな供物とならずに隠れた祭壇を築く、あちこちにいる多くの子供達をお許しください。
47
多くの人々の中で孤独な群れを呼び寄せてくださったお父様。いえ、行きたくて行くのではなく、行かねばならず、それゆえに厳しい道であることを自覚致しております。開拓者の志で戦いの一路を切り拓き、天の戦士として進まねばならないことを恐れることなく、お父様、あなたの御座に跪いている幼い子ども達を抱きしめてください。
彼らの歩む道が、お父様の志の道であるならば、荒れ地の道も恐れず、険しい山頂も恐れません。体が引き裂かれ、傷を負うことさえ、ただ一つの志を中心にし、すべてを切り拓くことができるようにしてください。彼らの心にはただお父様の導きの恩寵だけをお示しください。
この時、多くの言葉は必要のない時です。心を動かして天情に到達すべき時であり、心が動いてお父様の心情を中心にし、全体の家族が調和する時です。お父様、ここに伏しているあなたの子供達を、自ら内外を備え、お父様の心情を代表する本来の人々として立ち上がらせてください。それを切に望み、願っています。
お父様! 孤独な道を辿っているかわいそうな群れに慈悲をおかけください。民族のすべての不十分な点を許し、お父様が背負われた使命を完全に果たせないことをお許しください。熱心に集まったお父様の子供達を励まし、お父様がお立てになったのですから、どうか戦いの最前線で疲れることをなくしてください。
お父様! 彼らが御志のために命を捧げ、戦って戦って勝利の日を勝ち取るまで、変わらぬ信仰を与えてください。不変の一つの中心を備え、敵に投げ捨てられる爆弾のように、環境に動じず、お父様の御旨の勝利のために敵の前で爆発できるようなお父様の子供としてください。お願い申し上げます、お父様、熱望しております。
48
今、御言葉を持って出て行きましたので、お父様、共に有ってください。一つの心を中心にして動くようお許しください。天を心配しながら、自らお父様の心情を見つめる中で、性別を超えて自己を捨て、すべてをお父様の前にささげることができるよう、私達をお許しください。お父様が許容できない人間的な要素や個人的な関心と心情が今も生活の中で何を支配しているか、もし何かあるならば、お父様の力で、再創造の御手でお導きください。
お父様の前に自己を糾(ただ)して、謙遜な献身として伏して自己を告白できる喜びの時をお許しください。心からお願いいたします。すべてをお任せしましたので御心に従って主管してください。あなたの御名に寄ってお祈り致しました。アーメン。
<御言葉>
「希望の楽園を所有する者達」というタイトルで、皆さんと共に考えたいと思う内容をお伝えします。神様の創造理想を考えると神様自身も非物質世界の楽園を望まれたでしょうが、皆さんが直接的に体感できる具体的な世界での楽園を望まれ万物を創造されました。これは皆さんがよく知っていることでしょう。つまり、神様は天国と地上の世界が神様とアダムと太陽を中心にして成り立つことで、霊的な楽園と物質的な楽園の栄光を見るために物質世界を創造されたと言う事です。
今、私たちが心を開いて天の内的な祭壇を築けるようお許しください。そして私たちの体を悪魔に対する勝利の供え物としてお父様の前に自信を持って差し出せる息子娘達にしてください。天は自信に満ちた勇敢な勇士を求めておられ、卑屈で卑劣な者が敵の前でひざまずくことを望んでおられないことを知っております。ここに集まったあなたの息子娘達が、御心のためであれば命さえ投げ出すことのできる天の勇士となれるようお許しください。今やそのような勇士が必要な時が来たことを知っています。
天倫の御心を担った洗礼者ヨハネと彼に従った群衆が天の内的な心情に燃え上がり、堕落したユダヤ教全体と対立して新しい事実を展開したように、今日私たちを通してこの民族の前に哀れみの愛の光をお示しください。どうかお父様の摂理の御手を引かないでください。
この民族のために築かれている数多くの祭壇を、お父様、祝福してください。また、すでに確立された教団に固執し、新たな供物とならずに隠れた祭壇を築く、あちこちにいる多くの子供達をお許しください。
47
多くの人々の中で孤独な群れを呼び寄せてくださったお父様。いえ、行きたくて行くのではなく、行かねばならず、それゆえに厳しい道であることを自覚致しております。開拓者の志で戦いの一路を切り拓き、天の戦士として進まねばならないことを恐れることなく、お父様、あなたの御座に跪いている幼い子ども達を抱きしめてください。
彼らの歩む道が、お父様の志の道であるならば、荒れ地の道も恐れず、険しい山頂も恐れません。体が引き裂かれ、傷を負うことさえ、ただ一つの志を中心にし、すべてを切り拓くことができるようにしてください。彼らの心にはただお父様の導きの恩寵だけをお示しください。
この時、多くの言葉は必要のない時です。心を動かして天情に到達すべき時であり、心が動いてお父様の心情を中心にし、全体の家族が調和する時です。お父様、ここに伏しているあなたの子供達を、自ら内外を備え、お父様の心情を代表する本来の人々として立ち上がらせてください。それを切に望み、願っています。
お父様! 孤独な道を辿っているかわいそうな群れに慈悲をおかけください。民族のすべての不十分な点を許し、お父様が背負われた使命を完全に果たせないことをお許しください。熱心に集まったお父様の子供達を励まし、お父様がお立てになったのですから、どうか戦いの最前線で疲れることをなくしてください。
お父様! 彼らが御志のために命を捧げ、戦って戦って勝利の日を勝ち取るまで、変わらぬ信仰を与えてください。不変の一つの中心を備え、敵に投げ捨てられる爆弾のように、環境に動じず、お父様の御旨の勝利のために敵の前で爆発できるようなお父様の子供としてください。お願い申し上げます、お父様、熱望しております。
48
今、御言葉を持って出て行きましたので、お父様、共に有ってください。一つの心を中心にして動くようお許しください。天を心配しながら、自らお父様の心情を見つめる中で、性別を超えて自己を捨て、すべてをお父様の前にささげることができるよう、私達をお許しください。お父様が許容できない人間的な要素や個人的な関心と心情が今も生活の中で何を支配しているか、もし何かあるならば、お父様の力で、再創造の御手でお導きください。
お父様の前に自己を糾(ただ)して、謙遜な献身として伏して自己を告白できる喜びの時をお許しください。心からお願いいたします。すべてをお任せしましたので御心に従って主管してください。あなたの御名に寄ってお祈り致しました。アーメン。
<御言葉>
「希望の楽園を所有する者達」というタイトルで、皆さんと共に考えたいと思う内容をお伝えします。神様の創造理想を考えると神様自身も非物質世界の楽園を望まれたでしょうが、皆さんが直接的に体感できる具体的な世界での楽園を望まれ万物を創造されました。これは皆さんがよく知っていることでしょう。つまり、神様は天国と地上の世界が神様とアダムと太陽を中心にして成り立つことで、霊的な楽園と物質的な楽園の栄光を見るために物質世界を創造されたと言う事です。
しかし、人間の過ち、すなわち人間の堕落によって神様がこのように望まれていた天国と地上の楽園は痕跡もなく消えてしまったことも皆さんがよくご存知の通りです。このような天国や地上の楽園は神様のために造られたのではなく、人間のために造られたものでした。
アダムとエバを中心にして地上で楽園を築き、地上で楽園の生活をしていた人々が永遠の天国の世界に入り暮らせるようにすることが神様の天地創造の目的でした。しかし、アダムとエバの堕落によって、霊的な天国と物質的な地上の楽園は失われ、天国の世界と地上の世界は悪魔によって神様の前で非難される悲しい世界になってしまいました。
堕落後、地上はもちろんのこと、天上の玉座の下まで悪魔の活動範囲となりました。だからこそ、悪魔は霊と肉の世界の人々を讒言してきたのです。現代の人々の中には、悪魔がこのような権限を持って動いてきたことをよく知らない人もいます。
49
アダムとエバを中心にして、神様の栄光の万物創造を歌い楽しむべきだった地上の楽園が、人間の過ちにより悪魔の前に完全に陥落してしまったことは創造された私達人間の堕落はお父様である神様の前で悲しみを引き起こす結果となりました。この事実を皆さんは骨身に感じるべきです。
神様はこのように汚れた地を再び回復するために、残された天使達を通じて人間との関係を築く救済の計画を進めておられます。堕落によって聖なる神様を背信した立場にある人々、万物に比べても比べ物にならないほど遠くにいる人々に対して、神様は再び向き合ってくださるために救済の計画を進めておられるのです。悪魔に支配され、讒言される人間を神様が主管されるために、歴史を辿り、旧約時代を経て新約時代を経て、今も進めておられます。
旧約時代では、主に神様が自ら歴史を進め、神様の栄光によって自ら人間と対話する時代でした。しかし、その計画が完遂されなかったため神様は悲しみを抱えられ、第二段階として天使達を通じて人間を導く道を開拓しました。これが旧約時代の救済の歴史であると言えます。
旧約時代では使徒のような立場の使命者としてノアやアブラハムが立てられ、神様の御意を伝える使命を果たしました。この闇に覆われた地上の諸民族を親なる神様が直接対話できる場所に導くために、アブラハム一族を選び、イスラエル民族を興されました。こうして、イスラエル民族を通じて、人々が徐々に神様に近づける道を開拓していったのです。
そして霊界では、天使達が歴史を進めるための一つの基準を定められました。アダムとエバに対する神様の意志を完成させる基準を持つことで、父なる神様と直接に対話できる勝利的な領域を築くために、イエス様が来るまで4千年にわたって努力されたのです。皆さんはこれを理解する必要があるでしょう。
50
使徒の立場の使命者しか相対できない立場にある人間を神様の御子が相対できる立場に高めて下さった方がイエス様であり、授かった福音が新約の御言葉です。そのため、イエス様以降の人々はイエス様を通して神様に相対できる立場に置かれるようになったのです。神様の愛を直接受けるべき人々が堕落して神様の愛を直接受けることができなくなった結果、6千年の歴史を経て今も私達が望んでいるのは、息子としてのイエス様の愛を受けた後に神様の愛まで受けられる位置に立つことなのです。
御子(みこ)の愛を受けて創造世界を実現し、愛を中心に幸福を得ようとされた神様と同じ境遇であり、実体を持った息子娘となる必要があるのです。霊的な側面だけでなく、この実体が神様が直接愛し得る位置にまで進むべきなのです。このような使命は人間が堕落した結果、私達に残された使命であると言う事を皆さんは理解すべきです。
イエス様はこの地に来て、人々を神様の愛を受け得る位置に置く使命を持っておられました。それも霊的な側面と肉体的な側面を含めてイエス様と同じような御子の立場から神様の愛を受けることができるようにするためでした。このような使命を持ってイエス様がこの地においでになったのですが、人々が信じなかったために、イエス・キリストは人々を霊的にも肉体的にも神様の愛を受ける位置まで導く使命を完遂することができませんでした。ただ霊的な面で私達を息子、娘として立てる位置にまで開拓されたのです。
それでは神様の復帰の最終的な目的は何でしょうか? この地上において、霊的で肉体的な実体を持つ人々が神様の愛を受けて生きることができる心情基準を完成させることです。
この目的を達成するために、イエス様が帰られて後の2千年間にわたってイエス様に代わって歴史を進めてこられている方が聖霊です。聖霊はイエス様が帰られた後も今も歴史を進めておられますが、神様の創造理想の御志を完成させる目的において、地上に直接的な足場を築く歴史を進めるのではなく、私達が彼を通じて天に向かい進むことができるようにする橋渡しの役割を果たしていると言う事です。これを皆さんはよく理解する必要があります。
51
それでは、地上で天国の生活をすることができる人々はどのような人々なのでしょうか? 無限の霊界、天上天国で暮らすことができる霊的な存在はどのような存在なのでしょうか? 地上でイエス様と聖霊の愛を受け、それを超えて直接お父様の愛を受け、お父様と共に生きながら愛の理想を中心にし、和合の勝者となった人だけが住むことができる場所が地上天国であり、永遠の天上天国であると言う事を皆さんは知っておく必要があります。
神様の創造の基準から見ればそんな心情的位置が希望の天国というものです。これを私達が認めるならば、今を生きている皆さん自身はどの程度に神様の創造目的だった希望の天国を望んでいる姿なのかを考えてみる必要があります。
ヨハネの黙示録14章1節には、小羊がシオンの山に立っており、彼と共に14万4千人が立っているが、その額には小羊の名前と父の名前が書いてあるとあります。
今日の世界にあるクリスチャン達が望む天国の恩恵は何を基準にしているのかと言えば、花婿と花嫁の恵みを基準にしているようです。それだけがすべてだと思っていることです。しかし、それと共に14万4千人が立っており、その額には小羊の名前と父の名前が書いてあるというように、父の名前が問題です。
今日、皆さんが花婿となったイエス様を信じ、花嫁の資格を備えた後にはイエス様の愛に留まることではなく、そのイエス様の愛を基盤として、6千年間自ら人間を愛することができなかった神様が直接愛されるその愛を受け取る事が出来る心情的位置にまで進まなければなりません。
52
これこそが神様の摂理の全体的な目的であり、イエス・キリストを送って2千年間御苦労して来られた目的であったにもかかわらず、今日の聖徒達はこれを知らないでいます。
それでは、今日の私達はいつ、花婿と花嫁の立場を超えて勝利した永遠の実体として地上から天上、すなわち永遠の天国に行きお父様の愛を中心にして交わることができる実体となるのでしょうか? 皆さんはこのような愛の縁を持たなければなりません。これこそがイエス・キリストの目的であり、神様が摂理される目的です。
皆さんは今まで花婿と花嫁の愛を望み、信じながら進んできました。これからは、イエス・キリストの手を握り、お父様の前に立ち『お父様!望まれた6千年の御意を私達が成し遂げた立場でお目にかかります。』と言うような立派な存在にならなければなりません。神様の創造の目的がこれであると思えば、「お父様!自ら愛してください」と言うことができる皆さんになるべきです。このような人々を霊的世界で見つけるだけでなく、実体の世界で見つけるまで神様の摂理は終わることがないことを皆さんは知るべきです。
イエス・キリストがこの地に来て、霊的な子としての愛の権限を得られる希望を創り出したため、地上の人々がイエス・キリストとの関係を結び、一つに和し、その愛の権限を引き継ぐならば、霊界で人間の罪を条件にして非難していた悪魔達も、地上で人間の罪を条件にして非難できなくなると言う事です。
神様が創造されたアダム・エバを悪魔が奪い去りましたが、霊だけを持ち去ったのではなく、霊と肉を合わせて持ち去ったため、天の側からはこの霊と肉を合わせたアダム・エバを悪魔から取り戻して、神様がご自ら愛される道を開拓するために、今日私達、信仰する聖徒達を立てられたことを皆さんは念頭に置かなければなりません。
53
イエス・キリストは、この驚くべき宇宙の創造的理想を中心基準として、この地において姿を現しました。そしてイエス・キリストは最後の戦いの基準をどこに置いたのでしょうか? それはイエス様を追った聖徒達が神様の霊的な愛だけを受け取ったに留まっていたために、彼らが霊肉をあわせて神様の愛を受け取ることができるところに置いたのです。霊肉をあわせて神様の愛を受け取ることが希望であるため、霊的な救いの摂理だけを行ったイエス様は天に行っても地上の私達人間のために祈らなければならないのです。
このように、イエス・キリストの希望がまだ地上で完全に実現されていないため、イエス様を中心にした12使徒以下の楽園にいる多くの霊的な存在がこの一つの希望を基準に総動員されていると言う事を皆さんは知るべきです。
今日、終末に直面している私達には、摂理の中で協力していた天使達の努力の成果が残っています。その他にも、多くの使徒達の努力の成果が残っています。このような歴史的な努力のすべての成果と条件を私達は今日責任を持って受け止めなければなりません。過去の神様の摂理の心情に代わって努力し、協力した無数の聖徒達と、イエス様以下の霊界にいるすべての霊的存在の怨恨も私達が解怨してあげることが必要です。
終末に直面した私達は、過去の歴史を代表して神様の前に立つとき、イエス・キリストの認めを受けなければならず、聖霊の認めを受けなければなりません。そして、イエス様と聖霊の認めを受ける段階を経た後、三位一体が皆さんが神様の前に進むことを許可するかを決定することになるでしょう。このような段階まで歴史が進んでいるのが新約摂理だと言う事を皆さんは理解する必要があります。
ここでの「認定(承認)段階とは何かと言うと、 結婚式の婚約の段階と言えます。 決定段階とは何かと言うと、 私達が花嫁として祝福式に出る資格を備える段階と言えます。 それでは最後に残る段階は何でしょうか? それは「判断(判定)段階 」です。 この段階は、神が人間たちに対して、私の愛する者、永遠に共にする者、創造以上を望み願っていた永遠不変の存在として、神様の愛を受ける存在として、神がご自身の手を上げて万物の前に宣言される日を迎える段階です。 これが「和の判断の段階 」です。
54
神様は今まで6千年間を秩序を立てていらっしゃいましたが、まだ天宙的な審判の日を迎えることができませんでした。 この一日を基準として下さることが審判です。
皆さんはこのような審判の門を通って、神様がアダムに「万物を統治せよ」と祝福されたその祝福を継承しなければなりません。 そして、天の民として立ち上がり、「お父様!愛しております。 私のこのような歴史的な状況をご覧になり、キリストの希望の志、聖霊と神様が望まれる志を知りました。 お父様、祝福してください。」と言える皆さんでなければなりません。 このような人物が終わりの世に現れなければならないと言う事です。
そのような人を導き出し、判断された後に、万物も私達を神様の子供として仕える必要があることを知るでしょう。神様と神様の子の関係を築いた後には、悪魔は服従します。
このような歴史的な経緯を前にした皆さんには、自らを判断し、どのような位置に立つべきかが問題です。最初にイエス・キリストの認知を受け、次に聖霊の認知を受ける立場に立つ必要があります。これを歴史的な経緯に照らしてみると、認知の段階は旧約時代であり、決定の段階は新約時代であり、判断の段階は(再臨)成約時代です。
今日まで歴史は数多くの段階を経て、縦的に進んできましたが、今度は縦横に広がる歴史がやってきます。6千年間にわたって認知的な経緯、決定的な経緯を経て、判断的な経緯に向かっている私達は、縦的に流れてきた歴史と世紀末的な横的な歴史を経て進んでいかなければなりません。
55
神様の歴史は悪魔との戦いの歴史でした。6千年間、悪魔と戦ってきましたが、まだ決着がついていません。多くの先志先駆者たちが来て努力しましたが、地上で神が要求した志を達成することはできなかったのです。このようにして達成されなかった多くの先志先駆者たちの意志が地上で実現されています。皆さんは適切な時期に立ち上がらなければなりません。
終わりの時代には、皆さんには知り得ない数々の奇妙な現象が起こります。私はエリヤです。と言う人物も出てくるでしょう。そのような時が訪れるでしょう。私はエリヤです。私はモーセです。私はパウロです。と言う人物、またはサムエルと言う人物も現れるでしょう。このような現象が起こる理由は、再臨の原理によるものです。つまり、彼らが遺した使命を完了させるために、再臨をしなければならないからです。
彼らが再臨の過程で神様の志を中心にして悪魔と戦いましたが、勝利の基準を確立できなかったため、彼らの使命は後代にまで延長されています。そのため、彼らの使命を引き継いだ人々が現れるのですが、彼らは自分がパウロだ、エリヤだと言う事を知らずにいるため、そう名乗っているのです。
今、終わりの時代に立っている私達が理解すべきことは、6千年間の認識的な経緯と決定的な経緯、そして判断的な経緯をすべて一挙に超え、霊と肉が融合した一つの実体として通過しなければならないと言う事です。そうでなければ、歴史の過程で捕らえられた悪魔の讒訴条件から逃れることはできません。それによって、天の前に進むことができる出来ないが決まるのです。
いまこそ皆さん、終わりの日の聖徒たちは心情を広げなければなりません。天の無限の世界、私達が理想として創造された永遠の理想天国を、現代の地上の人々が見つけなければなりません。天にいるイエス・キリストを通して探すのではなく、地上の人間を通して探すことを理解しなければなりません。イエス様と聖霊は天上に存在し、物質的な存在ではないため、その天国の理想を地上で実現することはできないのです。ですから、物質的な実在を持つ神様の子女たちが地上において永遠の理想天国を実現しなければなりません。6千年にわたる歴史的な過程を経て、悪魔が讒訴していたそのすべての条件からも解放されなければなりません。
56
アブラハムが三つの犠牲、つまり鳩と子羊と子牛を捧げる際、子羊と子牛は切り分けたが、鳩は切り分けなかったため、天が受け入れることができなかった。皆さんはこのようなことを繰り返してはいけません。
皆さんは最後の聖別の門を通過しなければなりません。自分の肉体の罪、すなわち道徳的な罪や遺伝的な罪、血統的な罪、歴史的なすべての罪を正確に認識し、踏みしめて上昇しなければなりません。そのような人にならなければ、万物を支配すると語られた神様の志を成し遂げる、神様の子である息子や娘にはなれないと言う事です。
皆さんは、天川繁星(てんせんはんせい)運行の歴史をよく知っているでしょう。現代の皆さんは個体的な存在ではありません。神様は皆さん一人一人を大切にし、皆さんを愛していますが、その愛は皆さん一人のための愛ではありません。6千年にわたる帰還途中で労苦した先祖達の成果として捧げられる愛なのです。
今この終わりの日に皆さんが、神様が直接自分を愛しているという声や命令を受けたとき、それが自分個体に留まる愛だと思っていたら、大きな誤解です。皆さんがその愛を受けるまでには6千年もかかったのです。ですから、その愛は歴史的な愛であり、6千年の歴史の成果を目的とした愛なのです。皆さんはこれを理解しなければなりません。
従って、その存在は神様の資質に似ており、歴史的な目的の前に残ることのできる愛の性格を持つ必要があります。このような基準に従って、神様は闘争の歴史を展開してこられたと言う事です。
57
「イエス・キリストは、4千年の帰還の歴史が経過した後、1つの愛の実体として現れるとき、多くの宗教や多くの民族を統合し、成果を上げることができる1つの実体として天が神を立てられたことを知りました。そのため、イエス様はユダヤ人達に福音を伝える際にも自らの主張を述べなかったと言う事です。」
アダムとエバを中心にして地上で楽園を築き、地上で楽園の生活をしていた人々が永遠の天国の世界に入り暮らせるようにすることが神様の天地創造の目的でした。しかし、アダムとエバの堕落によって、霊的な天国と物質的な地上の楽園は失われ、天国の世界と地上の世界は悪魔によって神様の前で非難される悲しい世界になってしまいました。
堕落後、地上はもちろんのこと、天上の玉座の下まで悪魔の活動範囲となりました。だからこそ、悪魔は霊と肉の世界の人々を讒言してきたのです。現代の人々の中には、悪魔がこのような権限を持って動いてきたことをよく知らない人もいます。
49
アダムとエバを中心にして、神様の栄光の万物創造を歌い楽しむべきだった地上の楽園が、人間の過ちにより悪魔の前に完全に陥落してしまったことは創造された私達人間の堕落はお父様である神様の前で悲しみを引き起こす結果となりました。この事実を皆さんは骨身に感じるべきです。
神様はこのように汚れた地を再び回復するために、残された天使達を通じて人間との関係を築く救済の計画を進めておられます。堕落によって聖なる神様を背信した立場にある人々、万物に比べても比べ物にならないほど遠くにいる人々に対して、神様は再び向き合ってくださるために救済の計画を進めておられるのです。悪魔に支配され、讒言される人間を神様が主管されるために、歴史を辿り、旧約時代を経て新約時代を経て、今も進めておられます。
旧約時代では、主に神様が自ら歴史を進め、神様の栄光によって自ら人間と対話する時代でした。しかし、その計画が完遂されなかったため神様は悲しみを抱えられ、第二段階として天使達を通じて人間を導く道を開拓しました。これが旧約時代の救済の歴史であると言えます。
旧約時代では使徒のような立場の使命者としてノアやアブラハムが立てられ、神様の御意を伝える使命を果たしました。この闇に覆われた地上の諸民族を親なる神様が直接対話できる場所に導くために、アブラハム一族を選び、イスラエル民族を興されました。こうして、イスラエル民族を通じて、人々が徐々に神様に近づける道を開拓していったのです。
そして霊界では、天使達が歴史を進めるための一つの基準を定められました。アダムとエバに対する神様の意志を完成させる基準を持つことで、父なる神様と直接に対話できる勝利的な領域を築くために、イエス様が来るまで4千年にわたって努力されたのです。皆さんはこれを理解する必要があるでしょう。
50
使徒の立場の使命者しか相対できない立場にある人間を神様の御子が相対できる立場に高めて下さった方がイエス様であり、授かった福音が新約の御言葉です。そのため、イエス様以降の人々はイエス様を通して神様に相対できる立場に置かれるようになったのです。神様の愛を直接受けるべき人々が堕落して神様の愛を直接受けることができなくなった結果、6千年の歴史を経て今も私達が望んでいるのは、息子としてのイエス様の愛を受けた後に神様の愛まで受けられる位置に立つことなのです。
御子(みこ)の愛を受けて創造世界を実現し、愛を中心に幸福を得ようとされた神様と同じ境遇であり、実体を持った息子娘となる必要があるのです。霊的な側面だけでなく、この実体が神様が直接愛し得る位置にまで進むべきなのです。このような使命は人間が堕落した結果、私達に残された使命であると言う事を皆さんは理解すべきです。
イエス様はこの地に来て、人々を神様の愛を受け得る位置に置く使命を持っておられました。それも霊的な側面と肉体的な側面を含めてイエス様と同じような御子の立場から神様の愛を受けることができるようにするためでした。このような使命を持ってイエス様がこの地においでになったのですが、人々が信じなかったために、イエス・キリストは人々を霊的にも肉体的にも神様の愛を受ける位置まで導く使命を完遂することができませんでした。ただ霊的な面で私達を息子、娘として立てる位置にまで開拓されたのです。
それでは神様の復帰の最終的な目的は何でしょうか? この地上において、霊的で肉体的な実体を持つ人々が神様の愛を受けて生きることができる心情基準を完成させることです。
この目的を達成するために、イエス様が帰られて後の2千年間にわたってイエス様に代わって歴史を進めてこられている方が聖霊です。聖霊はイエス様が帰られた後も今も歴史を進めておられますが、神様の創造理想の御志を完成させる目的において、地上に直接的な足場を築く歴史を進めるのではなく、私達が彼を通じて天に向かい進むことができるようにする橋渡しの役割を果たしていると言う事です。これを皆さんはよく理解する必要があります。
51
それでは、地上で天国の生活をすることができる人々はどのような人々なのでしょうか? 無限の霊界、天上天国で暮らすことができる霊的な存在はどのような存在なのでしょうか? 地上でイエス様と聖霊の愛を受け、それを超えて直接お父様の愛を受け、お父様と共に生きながら愛の理想を中心にし、和合の勝者となった人だけが住むことができる場所が地上天国であり、永遠の天上天国であると言う事を皆さんは知っておく必要があります。
神様の創造の基準から見ればそんな心情的位置が希望の天国というものです。これを私達が認めるならば、今を生きている皆さん自身はどの程度に神様の創造目的だった希望の天国を望んでいる姿なのかを考えてみる必要があります。
ヨハネの黙示録14章1節には、小羊がシオンの山に立っており、彼と共に14万4千人が立っているが、その額には小羊の名前と父の名前が書いてあるとあります。
今日の世界にあるクリスチャン達が望む天国の恩恵は何を基準にしているのかと言えば、花婿と花嫁の恵みを基準にしているようです。それだけがすべてだと思っていることです。しかし、それと共に14万4千人が立っており、その額には小羊の名前と父の名前が書いてあるというように、父の名前が問題です。
今日、皆さんが花婿となったイエス様を信じ、花嫁の資格を備えた後にはイエス様の愛に留まることではなく、そのイエス様の愛を基盤として、6千年間自ら人間を愛することができなかった神様が直接愛されるその愛を受け取る事が出来る心情的位置にまで進まなければなりません。
52
これこそが神様の摂理の全体的な目的であり、イエス・キリストを送って2千年間御苦労して来られた目的であったにもかかわらず、今日の聖徒達はこれを知らないでいます。
それでは、今日の私達はいつ、花婿と花嫁の立場を超えて勝利した永遠の実体として地上から天上、すなわち永遠の天国に行きお父様の愛を中心にして交わることができる実体となるのでしょうか? 皆さんはこのような愛の縁を持たなければなりません。これこそがイエス・キリストの目的であり、神様が摂理される目的です。
皆さんは今まで花婿と花嫁の愛を望み、信じながら進んできました。これからは、イエス・キリストの手を握り、お父様の前に立ち『お父様!望まれた6千年の御意を私達が成し遂げた立場でお目にかかります。』と言うような立派な存在にならなければなりません。神様の創造の目的がこれであると思えば、「お父様!自ら愛してください」と言うことができる皆さんになるべきです。このような人々を霊的世界で見つけるだけでなく、実体の世界で見つけるまで神様の摂理は終わることがないことを皆さんは知るべきです。
イエス・キリストがこの地に来て、霊的な子としての愛の権限を得られる希望を創り出したため、地上の人々がイエス・キリストとの関係を結び、一つに和し、その愛の権限を引き継ぐならば、霊界で人間の罪を条件にして非難していた悪魔達も、地上で人間の罪を条件にして非難できなくなると言う事です。
神様が創造されたアダム・エバを悪魔が奪い去りましたが、霊だけを持ち去ったのではなく、霊と肉を合わせて持ち去ったため、天の側からはこの霊と肉を合わせたアダム・エバを悪魔から取り戻して、神様がご自ら愛される道を開拓するために、今日私達、信仰する聖徒達を立てられたことを皆さんは念頭に置かなければなりません。
53
イエス・キリストは、この驚くべき宇宙の創造的理想を中心基準として、この地において姿を現しました。そしてイエス・キリストは最後の戦いの基準をどこに置いたのでしょうか? それはイエス様を追った聖徒達が神様の霊的な愛だけを受け取ったに留まっていたために、彼らが霊肉をあわせて神様の愛を受け取ることができるところに置いたのです。霊肉をあわせて神様の愛を受け取ることが希望であるため、霊的な救いの摂理だけを行ったイエス様は天に行っても地上の私達人間のために祈らなければならないのです。
このように、イエス・キリストの希望がまだ地上で完全に実現されていないため、イエス様を中心にした12使徒以下の楽園にいる多くの霊的な存在がこの一つの希望を基準に総動員されていると言う事を皆さんは知るべきです。
今日、終末に直面している私達には、摂理の中で協力していた天使達の努力の成果が残っています。その他にも、多くの使徒達の努力の成果が残っています。このような歴史的な努力のすべての成果と条件を私達は今日責任を持って受け止めなければなりません。過去の神様の摂理の心情に代わって努力し、協力した無数の聖徒達と、イエス様以下の霊界にいるすべての霊的存在の怨恨も私達が解怨してあげることが必要です。
終末に直面した私達は、過去の歴史を代表して神様の前に立つとき、イエス・キリストの認めを受けなければならず、聖霊の認めを受けなければなりません。そして、イエス様と聖霊の認めを受ける段階を経た後、三位一体が皆さんが神様の前に進むことを許可するかを決定することになるでしょう。このような段階まで歴史が進んでいるのが新約摂理だと言う事を皆さんは理解する必要があります。
ここでの「認定(承認)段階とは何かと言うと、 結婚式の婚約の段階と言えます。 決定段階とは何かと言うと、 私達が花嫁として祝福式に出る資格を備える段階と言えます。 それでは最後に残る段階は何でしょうか? それは「判断(判定)段階 」です。 この段階は、神が人間たちに対して、私の愛する者、永遠に共にする者、創造以上を望み願っていた永遠不変の存在として、神様の愛を受ける存在として、神がご自身の手を上げて万物の前に宣言される日を迎える段階です。 これが「和の判断の段階 」です。
54
神様は今まで6千年間を秩序を立てていらっしゃいましたが、まだ天宙的な審判の日を迎えることができませんでした。 この一日を基準として下さることが審判です。
皆さんはこのような審判の門を通って、神様がアダムに「万物を統治せよ」と祝福されたその祝福を継承しなければなりません。 そして、天の民として立ち上がり、「お父様!愛しております。 私のこのような歴史的な状況をご覧になり、キリストの希望の志、聖霊と神様が望まれる志を知りました。 お父様、祝福してください。」と言える皆さんでなければなりません。 このような人物が終わりの世に現れなければならないと言う事です。
そのような人を導き出し、判断された後に、万物も私達を神様の子供として仕える必要があることを知るでしょう。神様と神様の子の関係を築いた後には、悪魔は服従します。
このような歴史的な経緯を前にした皆さんには、自らを判断し、どのような位置に立つべきかが問題です。最初にイエス・キリストの認知を受け、次に聖霊の認知を受ける立場に立つ必要があります。これを歴史的な経緯に照らしてみると、認知の段階は旧約時代であり、決定の段階は新約時代であり、判断の段階は(再臨)成約時代です。
今日まで歴史は数多くの段階を経て、縦的に進んできましたが、今度は縦横に広がる歴史がやってきます。6千年間にわたって認知的な経緯、決定的な経緯を経て、判断的な経緯に向かっている私達は、縦的に流れてきた歴史と世紀末的な横的な歴史を経て進んでいかなければなりません。
55
神様の歴史は悪魔との戦いの歴史でした。6千年間、悪魔と戦ってきましたが、まだ決着がついていません。多くの先志先駆者たちが来て努力しましたが、地上で神が要求した志を達成することはできなかったのです。このようにして達成されなかった多くの先志先駆者たちの意志が地上で実現されています。皆さんは適切な時期に立ち上がらなければなりません。
終わりの時代には、皆さんには知り得ない数々の奇妙な現象が起こります。私はエリヤです。と言う人物も出てくるでしょう。そのような時が訪れるでしょう。私はエリヤです。私はモーセです。私はパウロです。と言う人物、またはサムエルと言う人物も現れるでしょう。このような現象が起こる理由は、再臨の原理によるものです。つまり、彼らが遺した使命を完了させるために、再臨をしなければならないからです。
彼らが再臨の過程で神様の志を中心にして悪魔と戦いましたが、勝利の基準を確立できなかったため、彼らの使命は後代にまで延長されています。そのため、彼らの使命を引き継いだ人々が現れるのですが、彼らは自分がパウロだ、エリヤだと言う事を知らずにいるため、そう名乗っているのです。
今、終わりの時代に立っている私達が理解すべきことは、6千年間の認識的な経緯と決定的な経緯、そして判断的な経緯をすべて一挙に超え、霊と肉が融合した一つの実体として通過しなければならないと言う事です。そうでなければ、歴史の過程で捕らえられた悪魔の讒訴条件から逃れることはできません。それによって、天の前に進むことができる出来ないが決まるのです。
いまこそ皆さん、終わりの日の聖徒たちは心情を広げなければなりません。天の無限の世界、私達が理想として創造された永遠の理想天国を、現代の地上の人々が見つけなければなりません。天にいるイエス・キリストを通して探すのではなく、地上の人間を通して探すことを理解しなければなりません。イエス様と聖霊は天上に存在し、物質的な存在ではないため、その天国の理想を地上で実現することはできないのです。ですから、物質的な実在を持つ神様の子女たちが地上において永遠の理想天国を実現しなければなりません。6千年にわたる歴史的な過程を経て、悪魔が讒訴していたそのすべての条件からも解放されなければなりません。
56
アブラハムが三つの犠牲、つまり鳩と子羊と子牛を捧げる際、子羊と子牛は切り分けたが、鳩は切り分けなかったため、天が受け入れることができなかった。皆さんはこのようなことを繰り返してはいけません。
皆さんは最後の聖別の門を通過しなければなりません。自分の肉体の罪、すなわち道徳的な罪や遺伝的な罪、血統的な罪、歴史的なすべての罪を正確に認識し、踏みしめて上昇しなければなりません。そのような人にならなければ、万物を支配すると語られた神様の志を成し遂げる、神様の子である息子や娘にはなれないと言う事です。
皆さんは、天川繁星(てんせんはんせい)運行の歴史をよく知っているでしょう。現代の皆さんは個体的な存在ではありません。神様は皆さん一人一人を大切にし、皆さんを愛していますが、その愛は皆さん一人のための愛ではありません。6千年にわたる帰還途中で労苦した先祖達の成果として捧げられる愛なのです。
今この終わりの日に皆さんが、神様が直接自分を愛しているという声や命令を受けたとき、それが自分個体に留まる愛だと思っていたら、大きな誤解です。皆さんがその愛を受けるまでには6千年もかかったのです。ですから、その愛は歴史的な愛であり、6千年の歴史の成果を目的とした愛なのです。皆さんはこれを理解しなければなりません。
従って、その存在は神様の資質に似ており、歴史的な目的の前に残ることのできる愛の性格を持つ必要があります。このような基準に従って、神様は闘争の歴史を展開してこられたと言う事です。
57
「イエス・キリストは、4千年の帰還の歴史が経過した後、1つの愛の実体として現れるとき、多くの宗教や多くの民族を統合し、成果を上げることができる1つの実体として天が神を立てられたことを知りました。そのため、イエス様はユダヤ人達に福音を伝える際にも自らの主張を述べなかったと言う事です。」
イエス・キリストは、4千年にわたる復帰の歴史を経た後、愛の実体として現れ、数多くの宗教や民族を一つにまとめて結実させる存在として、神によって選ばれたことを理解していました」。そのため、イエス様はユダヤ人達に福音を伝えるとき、自分自身の意見を伝えたのではありませんでした。イエス様が語った福音は、4千年に渡る歴史の中で多くの先知先烈たちが苦労されたことを背負い、その代わりとして実体として語ったものでした。
そしてイエス様は、福音を一時的な立場で伝えませんでした。イエス様はその時の全ての人々だけでなく、未来永劫の人々まで神様の愛を受け取ることができる福音を伝えようとしました。そのため、人々が永遠に神様の御旨を継承していると言うならば、その継承されているすべてのものはイエス・キリストにより為されたと言う事を皆さんは知らなければなりません。
皆さんの働きは天地に代わる働きです。皆さんが神様の真の子女となることは、イエスと聖霊の希望であり、天上の無数の聖徒達の希望でもあります。彼らは真の子女が地上に現れ、一つの勝利の基準を確立することを望んでいます。また、そのような基準を確立した神様の子女、真の実体が現れることを願っています。これらの事実を私達は理解するべきであり、自己を極微々たる存在として考えてはいけません。この観点から、皆さんはイエス・キリストが「全世界を得たとしても、自らの命を失えば何の利益があるでしょうか」、と言われたことを理解する必要があります。
信仰を持っているクリスチャン達、今ここに集まった信仰者の皆さん。皆さんはどれだけこのような天宙的な価値を感じてきましたか? 自己が変わらない神様の子であることをどれだけ認識してきたでしょうか。この意味で、イエス・キリストが「私は神様の子です」と自信を持って叫んだことは、今日のキリスト教徒が見習うべきひとつの標語です。
歴史の終末期である今日、自らを「変わらない天の子である」と宣言できる存在、天の前でも悪魔の前でもどんな人の前でも変わらない神様の子、神様の娘であると言える存在をイエス様は求めています。このような存在をイエス様が要求しているのです。
58
皆さんはこれまで数十年間、信仰生活をしてきながら、信仰的な生き方の基準を築こうとしてきました。しかし、天は歴史の舞台で天宙的な使命を果たすことができる人、神様の子であると自信を持って言える人を探し求めています。自信を持って堂々と神様の前に立てる息子や娘を求めているのです。
無謀な悪魔の中傷にも屈せず、天使がやってきて押し出そうとしてもそれを阻止でき、イエス様や聖霊がやってきて押し出そうとしてもそれを防げる人を探し求めています。
イエス・キリストは4千年の歴史を代わりに背負って十字架を担いで血が流れ、運命を受け入れる瞬間まで、「私は神様の子である」と変わらぬ心を持ち続けました。運命の時、天が自分を知らないと言っても、イエス様は4千年の帰還の歴史を深く感じていたために変わりませんでした。
神が造られたすべての被造物の中で、神様の子であり、霊と肉体の両方を備えた神様の子女はそれまで存在しませんでした。イエス様はこの世界の悲しみにぶつかり倒れ、また倒れる中で自らは「神様が愛される子である」という認識を持っていました。この認識を持ってイエス様はどんな困難にも立ち向かい、堂々と戦い続けたのです。皆さんもこれを知るべきです。
このような希望と志を持ってこの地においでになったイエス・キリスト、この希望と志を人間の世界で実践すべきイエス・キリストはどうなったのでしょうか? 考えもしなかった十字架がどうして起こったのでしょうか? 皆さんがもしイエス・キリストの心情に共鳴できる立場から、どれほど地を打ち鳴らし、万物を呪っても、その悲しみは解消されないでしょう。
59
長い歴史を経ても、人々は神様の心情を無視し、神様の御心を捨て、神様に対して背信してきました。そのため、神様の帰還原理により、イエス様は人間の代わりに神様からも捨てられた立場に置かれました。
イエス様は「アバ、父よ、どうして私を捨てられましたか」と仰られ、十字架に向かわれたのは、私達の先祖アダムからその後4千年間、人間が神様に対して背信し犯した罪の償いのためでした。人間が神様を背くことによって、帰還原則により、神様はイエス様を捨てるしかありませんでした。
しかし、イエス様は天に背くことはありませんでした。神様の子は悪魔の世界に捨てられても神様の子であり、神様の子は地獄に行くとしても神様の子です。このような中心を持ち、30年以上の生涯を捧げて労苦されたイエス・キリストでした。
今、このようなイエス様を信じている皆さん。花婿となるイエス様の前で花嫁となるために信仰を持って進んでいる皆さん。皆さんは6千年の歴史を代わりに果たす神様の子として立つべきです。神様の前で悪魔を見事に打ち破ることができる人を天が求めていることを知らなければなりません。
これまでの歴史的な多くの聖徒たちは、なぜイエス・キリストや聖霊までもが悪魔の試練を受けなければならないのかと考えるかもしれません。それは、霊と肉体を備えて完結させなければならない使命がまだ完結されていないからです。
60
では、これまで2千年間、イエス様と聖霊が悪魔と戦ってきたこの闘いはいつ終わるのでしょうか? 神に対する悪魔の中傷がいつ終わるのでしょうか? それが終わるためには、イエス・キリストの様に実体を持ち、地上で4千年の歴史を代わりに果たして罪と悪魔を打ち破った神様の子であると自信を持って語る心情を持った人が現れなければなりません。そうでなければ、6千年間神に対して中傷してきた悪魔を打ち破り、またイエス様と聖霊が悪魔と戦ってきた闘いが終わることはありません。これをキリスト教徒は知らなければなりません。知れば、そのようなことなのです。
楽園にいる哀れなイエス・キリストは、今日まで罪深い人々を見つけ出さなければならない運命に置かれています。あなたが祈る事をしない時でも、イエス様は祈らなければならないと言う事です。聖霊も休むことができません。神様も休むことができません。このように少しも休む時間のない歴史を経て現在に至っているのです。
今、私達は神様の子であるという意識を持ち、「神様の威厳とイエス様の威厳と聖霊の威厳が私によって立ち上がれるように」と祈るべきです。皆さんは神様の威厳を立ち上げなければなりません。イエス様の威厳を立ち上げなければなりません。聖霊の威厳を立ち上げなければなりません。
人類を愛すべき天倫の縁を持ちながらも、人類を愛せない悔しい立場にある神様は、内面的にまさにそのような条件に囚われていたのです。
もしも、神様が天の世界を代わりに誇示できる資格を備えた私の子供であると、神様自身が仰ることができる存在が現れるなら、ただ現れるだけでも、その時には悪魔は訴えることができません。その時には悪魔は訴えることができないと言う事です。
61
イエス・キリストが「私は神様の子です」という意識を持っていたように、今、イエス様と聖霊の労苦を受け継いで、6千年の歴史の終わりの時代に、天宙全体に向けて、神様とイエス・キリストの望む志がこれです。私は歴史を代わりにする神様の子です。私だけが神様の子であると言える聖徒たち、このような観念を求めて進んでいく聖徒たちが、この国、韓国に多数いるのならば、そのような聖徒たちが世界のどの国よりも韓国を中心の国にするでしょう。
今や私達は神様の子としての意識を完成させ、勝利の日をお父様の前に披露し、悪魔の前で自慢できる存在、天がこのような存在を求めておられることを知らなければなりません。
現在までに6千年の歴史が経過してきましたが、神様は肉と血が完成された唯一の存在を悪魔の前に立たせ、「あなたがこれまで反対してきた人々の中で永遠に反対できない私の真の子を立てる。真の娘を立てる。あなたはこれに屈服しなければなりません。」と、それを言う存在がいなかったと言う事です。
天はこのような人を探しています。この使命を果たすために再臨主が来られると言う事です。このようなことを言う人は狂っていると言われるでしょう。考えるべきことは考えないで… しかし、これは事実です。皆さんはこれを知る必要があります。
6千年の歴史が経過した今日、私達は6千年の歴史的使命を決定し、判定することができる神様の権限を持ち、神様の代わりに審判する権限を持ち、鉄の杖を持ち、主が審判される時、主を受け止めることのできる人とならなければなりません。
62
イエス様は自らが神様の子であることを知りました。その後、イエス様は神様の御志のために戦ったのです。「私は神様の子である。今まで気づかなかった、誰も主張しなかった神様の子である。」という自覚を持っていたのです。
「神様の子となった私は、神様の仕事を代わりに担うと自覚し、自信を持って立ち上がることができました。」と、今日までの歴史の中で数多くの先駆者がいましたが、その様に神様の子として神様の仕事をすべて引き受けようと語る人は一人もいませんでした。イエス様以外にはいなかったのです。それゆえにイエス様が救い主となったのです。
今日、終わりの時代にあたって私達は6千年の歴史を導いて来られたお父様の前に、「6千年の歴史を代わりに成し遂げる父の子である、娘である」として立ち上がることが必要でしょう。イエス様をご覧ください。お父様の仕事をする際には、失敗しても、死んでも諦めませんでした。
失敗しても、死んでも気にせず進まなければなりません。条件はありません、条件はありません。イエス様をご覧ください。悪魔を屈服させる道であれば、体はどうであれその道を進みました。これが神様の子となること、神様の仕事を担うことができる忠誠の精神だと言う事です。悪魔を屈服させる道があるなら、死も気にせず進んでいかれたのがイエス様でした。
この終わりの時代において、神様の仕事を担ったイエス・キリストが遺した遺産を私達が受け継いだと言うならば、私達は死んでも生きていても、悪魔を屈服させる道であれば、体が切り裂かれようとも気にしません。悪魔を屈服させる道を知り、その道に一気に進むことができる聖なる一団が現れたなら、この世界は神様の世界になり得るでしょう。
63
神様の子として神様の仕事を担った後でようやく、神様の愛を受け入れることができます。神様の愛は戦いをして手に入れるものではありません。皆さんはこれを知る必要があります。
神様は平和と愛の楽園を創るために万物を創造されました。楽しみの中で万物と関係を持つために万物を創造され、楽しみの中で人間と関係を持つために人間を創造されました。人間が争い、悪魔が争う天地になることを望んで創られたわけではありません。それは天理法度の原則に反することです。そのため、人間を愛で引き上げるために、その愛の役割を神様が代わりにしているのです。そのため、人間はイエス様と神様を通じて天を目指し進むことができました。
「聖なる神よ!イエスよ!神よ!私に恵みを授けてください。」と言って祈り続けるだけでは恵みが奪われると言う事です。終わりの時代には神様の恵みが降りてくる時ですから、イエス様が再臨するのです。
今日の道の世界では登る道を開拓し、永遠に登る道を探し求める人々だけがいます。しかし、登ることだけを知っていてもいけません。その時期を通じて上りながら、再びその恵みを見つけて降りて来て成し遂げることができる人とならなければなりません。
今、私達は天の賜物を求め、神様の子であるイエス様を中心にして神様の使命を代行しようとしています。しかし、イエス様と聖霊に対して悪魔が戦っていたことは何かを理解しなければなりません。その悪魔を屈服させる手段を知らなければなりません。
64
そして私達が特に越えなければならない頂きとは何かというと、神様とイエス様と聖霊に対抗して戦っていた悪魔を屈服させることです。そのためには、悪魔が戦っていた盾が何か、悪魔がどのように条件を立てて侵入してきたのかを理解しなければなりません。それを知ることで悪魔を自然に屈服させることができると言う事です。そして、それによって神様はあなたがたに対して「私の永遠の子である」と言えるでしょう。
では、悪魔はどのような存在なのでしょうか? 悪魔はどのような姿をしているのでしょうか? ここにも悪魔に似た人々が多いようですが…
私達の前には、私達が生きて進むことができなければ、死んで進むべき天宙的な運命の道があります。何億千万年かかっても私の魂が死なない限り、その魂によって進むべき道があります。永遠の命の境遇で生きてこの道を通り抜けなければ死んで進まなければなりません。過去の先駆者達も永遠の生を求めて一時的な問題を考えずにその道を進みました。
イエス・キリストも悪魔と戦うために荒野に立った時、一日断食するだけでは叶わないと思い、二日断食し、十日断食し、二十日断食し、四十日断食したのです。皆さんは一度撃たれた銃弾のような運命、爆弾のような運命、戻れない運命に置かれています。イエス様もこれを自覚し、その道から引き返すことはできなかったのです。統一教会に入られた皆さんも、戻れない道に入られたのです。これを心に留めてください。
イエス様も死の壁が立ちはだかるときには惨めでした。全ての民が背を向け、全ての人々が背を向け、イエス様を追っていた使徒達さえも背を向け、すべての人が背を向ける中で、哀れと言えばそれ以上の哀れはあり得なかったでしょう。しかし他の人々は引き返すことができるが、死の道からも引き返すことのできないイエス様の立場を皆さんは理解しなければなりません。
65
今日、皆さんがイエス様を信じて天の意志を受け入れて進むことにおいても、このような決意を持ち、教会を導き、民族を導き、世界のために訴えるならば、神様の子女でないわけにはいかないでしょう。そのような覚悟で皆さんは神様の意志を代行し、神様の仕事をしなければなりません。
イエス様は霊界に行かれたからといって、休んでおられるわけではありません。霊界に行かれても、十字架の苦しみ以上の困難があろうと、私達を探すために、この地を探すために悪魔と戦っているのです。このような天宙的な試練と戦いが行われているとき、皆さんは「悪魔よ、来るなら来い、去りたければ行け。私は変わらず行く。」という気迫を持ち、試練を恐れることなく進まなければなりません。そのような人が神様の民であり、神様の子女なのです。
今、私達は神様の子女としてお父様を中心に家庭を築き、民族を築き、お父様が愛することのできる国家と世界を築き、さらには神様の前にふさわしい地上天国まで築かなければなりません。これこそが神様の永遠の御心であると言う事です。
このような歴史的なすべての事実を皆さんが知り、前後左右に悪魔が中傷できないように防御して、悪魔の侵入を撃退し、そして更には悪魔を屈服させることができる皆さんにならなければなりません。
創造の概念から見れば、ようやく実体を持ち、神様の愛を受けた子女となり、人間の前に支配される存在を堂々と主管できる人はどこにいるのでしょうか?そのような人になるまでは天国に行くことはできないと言う事です。それゆえ、まだ天国に行った人はいないと言う事です。楽園とは中間段階の霊的領域です。
66
このような天宙的な運命の壁を乗り越えるためには、攻撃してくる悪魔を完全に撃退できなければなりません。そのような人にならない限り、神様の労苦は皆さんを通じて達成されないと言う事です。それゆえ、神様は今日までに悪魔を完全に撃退できる人、労苦の心情を理解してくれる真の子女を求めておられるのです。
もし人類が神様のこの一つの苦労を永遠に理解しないのなら、この地上での天国は実現できないと言う事です。霊的な領域でも天国は実現できないと言う事です。
もし皆さんが、お父様の前に進みたい願いがあるというのであれば、 自分だけで「何億もの悪魔よ、私のところへ来い。私が進む道を24億人の人間が反対しようとも、天地が反対しようとも私は進むであろう。」と言う事ができなければなりません。皆さんはこのような覚悟の下で、お父様の前に誓いを立てて進んでいかなければなりません。
自分の家族に苦しみがあろうと、民族に苦しみがあろうと、国家に苦しみがあろうと、全ての人類に苦しみがあろうと、何十億もの人々が統一教会を壊そうとしても、私はそこで崩れることができないという覚悟を持って進まなければなりません。行くか、行かないかを迷ってはいけません。進む道があり、行かざるを得ない立場にいる私達であることを皆さんは心に留めておかなければなりません。
今、悪魔と戦うために立ち上がったと言う皆さんは悪魔を打ち倒し4千年の歴史を代表して第2の勝利のアベルとして立てられたイエス・キリストが持っていた誓いと覚悟で神様の仕事を担い、戦うという責任感を皆さんは見習わなければなりません。イエス様がそのような覚悟と誓い、そのような責任感を持って戦ったからこそ、悪魔を屈服させることができたのです。
67
今や肉体を持ち、実体を持った私達が悪魔を屈服させなければなりません。この地上にそのような山のような存在が現れることで、やっと6千年にわたる神様の労苦の心情も、イエス・キリストの労苦の心情も解放できるのです。
そして神様が主管される天も私達のものであり、神様が主管できる地も私達のものとなるのです。これは神様の創造目的なのです。皆さんはこのような神様の創造目的を達成するために地上で責任を持ち、戦って勝利する人だけが天国を所有できると言う事を知らなければなりません。
皆さんの働きは天地に代わる働きです。皆さんが神様の真の子女となることは、イエスと聖霊の希望であり、天上の無数の聖徒達の希望でもあります。彼らは真の子女が地上に現れ、一つの勝利の基準を確立することを望んでいます。また、そのような基準を確立した神様の子女、真の実体が現れることを願っています。これらの事実を私達は理解するべきであり、自己を極微々たる存在として考えてはいけません。この観点から、皆さんはイエス・キリストが「全世界を得たとしても、自らの命を失えば何の利益があるでしょうか」、と言われたことを理解する必要があります。
信仰を持っているクリスチャン達、今ここに集まった信仰者の皆さん。皆さんはどれだけこのような天宙的な価値を感じてきましたか? 自己が変わらない神様の子であることをどれだけ認識してきたでしょうか。この意味で、イエス・キリストが「私は神様の子です」と自信を持って叫んだことは、今日のキリスト教徒が見習うべきひとつの標語です。
歴史の終末期である今日、自らを「変わらない天の子である」と宣言できる存在、天の前でも悪魔の前でもどんな人の前でも変わらない神様の子、神様の娘であると言える存在をイエス様は求めています。このような存在をイエス様が要求しているのです。
58
皆さんはこれまで数十年間、信仰生活をしてきながら、信仰的な生き方の基準を築こうとしてきました。しかし、天は歴史の舞台で天宙的な使命を果たすことができる人、神様の子であると自信を持って言える人を探し求めています。自信を持って堂々と神様の前に立てる息子や娘を求めているのです。
無謀な悪魔の中傷にも屈せず、天使がやってきて押し出そうとしてもそれを阻止でき、イエス様や聖霊がやってきて押し出そうとしてもそれを防げる人を探し求めています。
イエス・キリストは4千年の歴史を代わりに背負って十字架を担いで血が流れ、運命を受け入れる瞬間まで、「私は神様の子である」と変わらぬ心を持ち続けました。運命の時、天が自分を知らないと言っても、イエス様は4千年の帰還の歴史を深く感じていたために変わりませんでした。
神が造られたすべての被造物の中で、神様の子であり、霊と肉体の両方を備えた神様の子女はそれまで存在しませんでした。イエス様はこの世界の悲しみにぶつかり倒れ、また倒れる中で自らは「神様が愛される子である」という認識を持っていました。この認識を持ってイエス様はどんな困難にも立ち向かい、堂々と戦い続けたのです。皆さんもこれを知るべきです。
このような希望と志を持ってこの地においでになったイエス・キリスト、この希望と志を人間の世界で実践すべきイエス・キリストはどうなったのでしょうか? 考えもしなかった十字架がどうして起こったのでしょうか? 皆さんがもしイエス・キリストの心情に共鳴できる立場から、どれほど地を打ち鳴らし、万物を呪っても、その悲しみは解消されないでしょう。
59
長い歴史を経ても、人々は神様の心情を無視し、神様の御心を捨て、神様に対して背信してきました。そのため、神様の帰還原理により、イエス様は人間の代わりに神様からも捨てられた立場に置かれました。
イエス様は「アバ、父よ、どうして私を捨てられましたか」と仰られ、十字架に向かわれたのは、私達の先祖アダムからその後4千年間、人間が神様に対して背信し犯した罪の償いのためでした。人間が神様を背くことによって、帰還原則により、神様はイエス様を捨てるしかありませんでした。
しかし、イエス様は天に背くことはありませんでした。神様の子は悪魔の世界に捨てられても神様の子であり、神様の子は地獄に行くとしても神様の子です。このような中心を持ち、30年以上の生涯を捧げて労苦されたイエス・キリストでした。
今、このようなイエス様を信じている皆さん。花婿となるイエス様の前で花嫁となるために信仰を持って進んでいる皆さん。皆さんは6千年の歴史を代わりに果たす神様の子として立つべきです。神様の前で悪魔を見事に打ち破ることができる人を天が求めていることを知らなければなりません。
これまでの歴史的な多くの聖徒たちは、なぜイエス・キリストや聖霊までもが悪魔の試練を受けなければならないのかと考えるかもしれません。それは、霊と肉体を備えて完結させなければならない使命がまだ完結されていないからです。
60
では、これまで2千年間、イエス様と聖霊が悪魔と戦ってきたこの闘いはいつ終わるのでしょうか? 神に対する悪魔の中傷がいつ終わるのでしょうか? それが終わるためには、イエス・キリストの様に実体を持ち、地上で4千年の歴史を代わりに果たして罪と悪魔を打ち破った神様の子であると自信を持って語る心情を持った人が現れなければなりません。そうでなければ、6千年間神に対して中傷してきた悪魔を打ち破り、またイエス様と聖霊が悪魔と戦ってきた闘いが終わることはありません。これをキリスト教徒は知らなければなりません。知れば、そのようなことなのです。
楽園にいる哀れなイエス・キリストは、今日まで罪深い人々を見つけ出さなければならない運命に置かれています。あなたが祈る事をしない時でも、イエス様は祈らなければならないと言う事です。聖霊も休むことができません。神様も休むことができません。このように少しも休む時間のない歴史を経て現在に至っているのです。
今、私達は神様の子であるという意識を持ち、「神様の威厳とイエス様の威厳と聖霊の威厳が私によって立ち上がれるように」と祈るべきです。皆さんは神様の威厳を立ち上げなければなりません。イエス様の威厳を立ち上げなければなりません。聖霊の威厳を立ち上げなければなりません。
人類を愛すべき天倫の縁を持ちながらも、人類を愛せない悔しい立場にある神様は、内面的にまさにそのような条件に囚われていたのです。
もしも、神様が天の世界を代わりに誇示できる資格を備えた私の子供であると、神様自身が仰ることができる存在が現れるなら、ただ現れるだけでも、その時には悪魔は訴えることができません。その時には悪魔は訴えることができないと言う事です。
61
イエス・キリストが「私は神様の子です」という意識を持っていたように、今、イエス様と聖霊の労苦を受け継いで、6千年の歴史の終わりの時代に、天宙全体に向けて、神様とイエス・キリストの望む志がこれです。私は歴史を代わりにする神様の子です。私だけが神様の子であると言える聖徒たち、このような観念を求めて進んでいく聖徒たちが、この国、韓国に多数いるのならば、そのような聖徒たちが世界のどの国よりも韓国を中心の国にするでしょう。
今や私達は神様の子としての意識を完成させ、勝利の日をお父様の前に披露し、悪魔の前で自慢できる存在、天がこのような存在を求めておられることを知らなければなりません。
現在までに6千年の歴史が経過してきましたが、神様は肉と血が完成された唯一の存在を悪魔の前に立たせ、「あなたがこれまで反対してきた人々の中で永遠に反対できない私の真の子を立てる。真の娘を立てる。あなたはこれに屈服しなければなりません。」と、それを言う存在がいなかったと言う事です。
天はこのような人を探しています。この使命を果たすために再臨主が来られると言う事です。このようなことを言う人は狂っていると言われるでしょう。考えるべきことは考えないで… しかし、これは事実です。皆さんはこれを知る必要があります。
6千年の歴史が経過した今日、私達は6千年の歴史的使命を決定し、判定することができる神様の権限を持ち、神様の代わりに審判する権限を持ち、鉄の杖を持ち、主が審判される時、主を受け止めることのできる人とならなければなりません。
62
イエス様は自らが神様の子であることを知りました。その後、イエス様は神様の御志のために戦ったのです。「私は神様の子である。今まで気づかなかった、誰も主張しなかった神様の子である。」という自覚を持っていたのです。
「神様の子となった私は、神様の仕事を代わりに担うと自覚し、自信を持って立ち上がることができました。」と、今日までの歴史の中で数多くの先駆者がいましたが、その様に神様の子として神様の仕事をすべて引き受けようと語る人は一人もいませんでした。イエス様以外にはいなかったのです。それゆえにイエス様が救い主となったのです。
今日、終わりの時代にあたって私達は6千年の歴史を導いて来られたお父様の前に、「6千年の歴史を代わりに成し遂げる父の子である、娘である」として立ち上がることが必要でしょう。イエス様をご覧ください。お父様の仕事をする際には、失敗しても、死んでも諦めませんでした。
失敗しても、死んでも気にせず進まなければなりません。条件はありません、条件はありません。イエス様をご覧ください。悪魔を屈服させる道であれば、体はどうであれその道を進みました。これが神様の子となること、神様の仕事を担うことができる忠誠の精神だと言う事です。悪魔を屈服させる道があるなら、死も気にせず進んでいかれたのがイエス様でした。
この終わりの時代において、神様の仕事を担ったイエス・キリストが遺した遺産を私達が受け継いだと言うならば、私達は死んでも生きていても、悪魔を屈服させる道であれば、体が切り裂かれようとも気にしません。悪魔を屈服させる道を知り、その道に一気に進むことができる聖なる一団が現れたなら、この世界は神様の世界になり得るでしょう。
63
神様の子として神様の仕事を担った後でようやく、神様の愛を受け入れることができます。神様の愛は戦いをして手に入れるものではありません。皆さんはこれを知る必要があります。
神様は平和と愛の楽園を創るために万物を創造されました。楽しみの中で万物と関係を持つために万物を創造され、楽しみの中で人間と関係を持つために人間を創造されました。人間が争い、悪魔が争う天地になることを望んで創られたわけではありません。それは天理法度の原則に反することです。そのため、人間を愛で引き上げるために、その愛の役割を神様が代わりにしているのです。そのため、人間はイエス様と神様を通じて天を目指し進むことができました。
「聖なる神よ!イエスよ!神よ!私に恵みを授けてください。」と言って祈り続けるだけでは恵みが奪われると言う事です。終わりの時代には神様の恵みが降りてくる時ですから、イエス様が再臨するのです。
今日の道の世界では登る道を開拓し、永遠に登る道を探し求める人々だけがいます。しかし、登ることだけを知っていてもいけません。その時期を通じて上りながら、再びその恵みを見つけて降りて来て成し遂げることができる人とならなければなりません。
今、私達は天の賜物を求め、神様の子であるイエス様を中心にして神様の使命を代行しようとしています。しかし、イエス様と聖霊に対して悪魔が戦っていたことは何かを理解しなければなりません。その悪魔を屈服させる手段を知らなければなりません。
64
そして私達が特に越えなければならない頂きとは何かというと、神様とイエス様と聖霊に対抗して戦っていた悪魔を屈服させることです。そのためには、悪魔が戦っていた盾が何か、悪魔がどのように条件を立てて侵入してきたのかを理解しなければなりません。それを知ることで悪魔を自然に屈服させることができると言う事です。そして、それによって神様はあなたがたに対して「私の永遠の子である」と言えるでしょう。
では、悪魔はどのような存在なのでしょうか? 悪魔はどのような姿をしているのでしょうか? ここにも悪魔に似た人々が多いようですが…
私達の前には、私達が生きて進むことができなければ、死んで進むべき天宙的な運命の道があります。何億千万年かかっても私の魂が死なない限り、その魂によって進むべき道があります。永遠の命の境遇で生きてこの道を通り抜けなければ死んで進まなければなりません。過去の先駆者達も永遠の生を求めて一時的な問題を考えずにその道を進みました。
イエス・キリストも悪魔と戦うために荒野に立った時、一日断食するだけでは叶わないと思い、二日断食し、十日断食し、二十日断食し、四十日断食したのです。皆さんは一度撃たれた銃弾のような運命、爆弾のような運命、戻れない運命に置かれています。イエス様もこれを自覚し、その道から引き返すことはできなかったのです。統一教会に入られた皆さんも、戻れない道に入られたのです。これを心に留めてください。
イエス様も死の壁が立ちはだかるときには惨めでした。全ての民が背を向け、全ての人々が背を向け、イエス様を追っていた使徒達さえも背を向け、すべての人が背を向ける中で、哀れと言えばそれ以上の哀れはあり得なかったでしょう。しかし他の人々は引き返すことができるが、死の道からも引き返すことのできないイエス様の立場を皆さんは理解しなければなりません。
65
今日、皆さんがイエス様を信じて天の意志を受け入れて進むことにおいても、このような決意を持ち、教会を導き、民族を導き、世界のために訴えるならば、神様の子女でないわけにはいかないでしょう。そのような覚悟で皆さんは神様の意志を代行し、神様の仕事をしなければなりません。
イエス様は霊界に行かれたからといって、休んでおられるわけではありません。霊界に行かれても、十字架の苦しみ以上の困難があろうと、私達を探すために、この地を探すために悪魔と戦っているのです。このような天宙的な試練と戦いが行われているとき、皆さんは「悪魔よ、来るなら来い、去りたければ行け。私は変わらず行く。」という気迫を持ち、試練を恐れることなく進まなければなりません。そのような人が神様の民であり、神様の子女なのです。
今、私達は神様の子女としてお父様を中心に家庭を築き、民族を築き、お父様が愛することのできる国家と世界を築き、さらには神様の前にふさわしい地上天国まで築かなければなりません。これこそが神様の永遠の御心であると言う事です。
このような歴史的なすべての事実を皆さんが知り、前後左右に悪魔が中傷できないように防御して、悪魔の侵入を撃退し、そして更には悪魔を屈服させることができる皆さんにならなければなりません。
創造の概念から見れば、ようやく実体を持ち、神様の愛を受けた子女となり、人間の前に支配される存在を堂々と主管できる人はどこにいるのでしょうか?そのような人になるまでは天国に行くことはできないと言う事です。それゆえ、まだ天国に行った人はいないと言う事です。楽園とは中間段階の霊的領域です。
66
このような天宙的な運命の壁を乗り越えるためには、攻撃してくる悪魔を完全に撃退できなければなりません。そのような人にならない限り、神様の労苦は皆さんを通じて達成されないと言う事です。それゆえ、神様は今日までに悪魔を完全に撃退できる人、労苦の心情を理解してくれる真の子女を求めておられるのです。
もし人類が神様のこの一つの苦労を永遠に理解しないのなら、この地上での天国は実現できないと言う事です。霊的な領域でも天国は実現できないと言う事です。
もし皆さんが、お父様の前に進みたい願いがあるというのであれば、 自分だけで「何億もの悪魔よ、私のところへ来い。私が進む道を24億人の人間が反対しようとも、天地が反対しようとも私は進むであろう。」と言う事ができなければなりません。皆さんはこのような覚悟の下で、お父様の前に誓いを立てて進んでいかなければなりません。
自分の家族に苦しみがあろうと、民族に苦しみがあろうと、国家に苦しみがあろうと、全ての人類に苦しみがあろうと、何十億もの人々が統一教会を壊そうとしても、私はそこで崩れることができないという覚悟を持って進まなければなりません。行くか、行かないかを迷ってはいけません。進む道があり、行かざるを得ない立場にいる私達であることを皆さんは心に留めておかなければなりません。
今、悪魔と戦うために立ち上がったと言う皆さんは悪魔を打ち倒し4千年の歴史を代表して第2の勝利のアベルとして立てられたイエス・キリストが持っていた誓いと覚悟で神様の仕事を担い、戦うという責任感を皆さんは見習わなければなりません。イエス様がそのような覚悟と誓い、そのような責任感を持って戦ったからこそ、悪魔を屈服させることができたのです。
67
今や肉体を持ち、実体を持った私達が悪魔を屈服させなければなりません。この地上にそのような山のような存在が現れることで、やっと6千年にわたる神様の労苦の心情も、イエス・キリストの労苦の心情も解放できるのです。
そして神様が主管される天も私達のものであり、神様が主管できる地も私達のものとなるのです。これは神様の創造目的なのです。皆さんはこのような神様の創造目的を達成するために地上で責任を持ち、戦って勝利する人だけが天国を所有できると言う事を知らなければなりません。