人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

聖歌

2023年09月16日 16時15分39秒 | 学習

文鮮明師が作られた詩です。
この詩に曲が付けられて聖歌となりました。


1.復帰の園 (1949年)

1.
千歳の願い荒れの園に   勝利の基を求めて
尽くし来られた血のみ跡  これが父の賜う愛
これが父の賜う愛

2.
幸の花咲く自由の道    楽しい望みの花咲きて
喜びうれしい園の香り   これが父の望む理想
これが父の望む理想

3.
咲きそむ自由 幸の園    うれしく楽しい父のもと
とわに生きゆく花の園   これが父の願う園
これが父の願う園

4.
永久の願いのこの理想   父が立てたもう本然の国
たのしく香りて誉れ帰せ  これが父の創る善
これが父の創る善


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2.聖苑の恵み (1953年)

1. 限りなき恵みは我に与わる
 永遠(とわ)の生命(いのち) 喜びなり
 我今 楽しく常に讃(たた)えん
 栄光を高く捧(ささ)げまつれ

2. 一つの喜びわが胸に得て
 理想(のぞみ)を立て 常に歌わん
 我今 楽しく常に讃えん
 栄光を高く捧げまつれ

3. 永遠の生命 我に溢れて
 万(よろず)の祝い ただ誉(ほ)め奉れ
 我今 楽しく常に讃えん
 栄光を高く捧げまつれ

4. 選ばれし恵みに我感謝して
 誠を尽くして 御前にひれ伏(ふ)さん
 我今 楽しく常に讃えん
 栄光を高く捧げまつれ

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3.聖励の新歌 (1950年)

1.
創られしこの地にわれ生まれ
自由と幸のため 選ばれて
真理で求めし聖励のみ旨
この身供(そな)えて成し遂げん 成し遂げん

2.
強く呼びたもう聖励の声
新エデンの知らせを述べ伝え
建設集(つど)いにこの身を捧げ
自由の国を成し遂げん 成し遂げん

3.
成さばや新たな主の家庭を
父の訪ねたもう永久(とわ)の理想
主のみ言(ことば)をあまねく伝え
新天新地を成し遂げん 成し遂げん

4.
わが主の立てたもう一つの義に
新しき歴史は始まりぬ
栄光の理想なる善(よ)き父母に侍(はべ)り
平和の秩序を打ち立てん 打ち立てん

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4.栄光の賜物 (1950年)

1.
はるかに輝く栄えの光
強く生きよ自由の生命(いのち)
この地の果てまで目覚め立て
生命の光 永久(とわ)にあり
生命の光 永久にあれ

2.
呼びて求むる栄えの主よ
大いなる姿は 天地(あまち)を抱き
「蘇(い)きた生命はいずこに」と
尋(たず)ぬる君を如何(いか)に迎えん
尋ぬる君を如何に迎えん

3.
死から蘇きたこの我(われ)は
蘇かしたお方に抱(いだ)かれて
永久(とわ)の愛と恵みの声
いついつまでも喜びを
いついつまでも讃(ほ)めまつれ

4.
栄えに入るのも主の恵み
愛に満つるも主の恵み
崇め崇めて奉(まつ)れども
足らぬこの身を如何にせん
足らぬこの身を如何にせん


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5.勝利者の新歌 (1947年)

1.
ホザナの栄光を求めしわれら  迎えよや新たなる栄えの生命を
約されしみ旨をわれらは成して 自由と幸の歌 喜び歌い
自由と幸の歌 喜び歌おう

2.
暗き闇夜を切り開き      輝く朝は来た新しき夜明けが
鳴らせ高らかに平和の鐘を   自由と幸の歌 喜び歌い
自由と幸の歌 喜び歌おう

3.
新しき生命受けしわれら    誇りていざ歌え新しき歌を
選びたもうみ業を讃えよ高く  自由と幸の歌 喜び歌い
自由と幸の歌 喜び歌おう

4.
創りし主のみ旨尋ねしわれら  天なる美と愛 輝かさん
和動の花園をわれらは求め   自由と幸の歌 喜び歌い
自由と幸の歌 喜び歌おう


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6.悩める心に (不肖年)

1.
暗き力がわれを襲い     思い乱るる弱きわれ
おのが思いのみわずらいて  罪はわが身に生まれ出ずる
罪はわが身に生まれ出ずる

2.
訪ねしわが主のみ声聞けず  無知なるわれはかたくなに
おのが喜びに歩みしに    主は泣き十字架に帰りたもう
主は泣き十字架に帰りたもう

3.
長き闇世を救わんため    険しき荒れ野を歩みつつ
死すべきわれらを訪ねたもう わが主の恵みにいかにこたえん
わが主の恵みにいかにこたえん

4.
栄えの君にまみえんと    罪のこの世と闘いて
苦しみあえぎつ歩みきた   わが身に主は今語りたもう
わが身に主は今語りたもう

5.
栄えのこの日を讃め歌わん  永世極楽四方に満ち
罪とが深きこの身にも    新たなる生命みなぎれり
新たなる生命みなぎれり

6.
おおわが新婦よ来たりしか  岩山荒れ野にわれを訪ね
苦しみ耐えきし汝が姿    この日を願いて耐えきしか
この日を願いて耐えきしか

7.
いざいざ来たりてともに讃えん 汝がため備えしこの日まで
秘めきし宝たえなる愛     汝がため備えし真の愛
汝がため備えし真の愛


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7.統一勇士の歌 (1962年)

1.
心情の因縁で世界は生き    一つに結ばる本然の縁
永久に授受するわれらの故郷  幸の礎のもと千代に生きん
われらは誇れる統一の勇士   強く愛して勇み進まん

2.
永久の心で光彩を放つ     創られし万物の栄光の灯台
生命があふれる本然の人格   理想の価値で花咲かせん
われらは誇れる統一の勇士   強くみ旨立て勇み進まん

3.
秩序の基に真実を立て     永久を約する変わらぬ価値
高く立てらる真理のしるべ   揚々たる善き日をほめ讃えん
われらは誇れる統一の勇士   強く叫びて勇み進まん

4.
東方に明ける輝く文化     全ての民は同胞と
願いし善き父母永久に侍り   誓いて成さん一つの世界
われらは誇れる統一の勇士   強く理想に勇み進まん


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9.朝日に輝く (1959年)

1.
朝日に輝くわが山河
友よもろともに勇み立ち
生命のみ声の満ちあふる
自由の天地に仕えまつれ

2.
果てなき大地よ豊けき地
身も霊もすべて捧げまつり
天地よろずを神に帰し
勝利のみ旗をかざし進め

3.
み父に召されし若き日を
力の限りに戦わん
天なる兵士よ奮い立て
永久の理想を打ち立てよ

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御言葉選集2(5,6)

2023年09月02日 15時19分05秒 | 学習
イエス様は短い瞬間の生活の中にも、神の愛を中心とした本質が現れており、それは小さなことであっても、大きなことを代わりに果たす不変の決意の体現のような形を持って生きられましたことを理解する必要があります。

イエス様の30年以上にわたる生涯を振り返ってみると、イエス様は全体の生涯を捧げて何を成し遂げようとされたのでしょうか?イエス様は人間として備えるべき品質、心、意志、行いにおいて、歴史を代わりにして神に捧げられる唯一無二の犠牲者として来られ、去られましたことを理解する必要があります。

したがって、私達がイエス様を信じている者、イエス様の意志に従って歩んでいる者、イエス様の心に似せるために努めている者、イエス様の品質を求めている私達自身は、どれだけの日々を意志のために駆け抜けたでしょうか?どれだけ私達の心と意志、品質を父なる神に捧げたでしょうか?こうしたことを反省する必要があるでしょう。

皆さんは、心からの真意に従って生きたいと思い、天から授かった天心の品質を自分のものにしたいと願うでしょう。そうであるならば、品質と心を通じて表れるこの意志を確立し、天倫の意志を代わりに達成しなければなりません。しかし、今まで誰もそのような使命を果たすことができなかったために、神の悲しみはここに結びついてしまいました。

今、皆さんが意志を持っていると仮定するならば、その意志は心のためのものであるべきであり、品質のためのものであるべきです。皆さんが心を持つとしたら、天倫の意志に向かって進むことができる心であるべきですし、品質を持つとしたら、その品質を基盤にして神の全体的な姿を代わりに表現できる能力を持ち、宇宙の愛を守る人格を形成できるはずです。







文鮮明先生御言葉選集 2 - 5. 天が望む良い実りが得られますように  (1957年 3月 3日)
1957年3月3日(日) 本部教会 
聖書拝読 : ガラテヤ6:1-10


「祈り」
愛されるお父様!いいえ、行くことを望まない場所、行くことができない孤独な帰還の道のりにおいて、堕落による運命の重荷を引き受け、行く者は果たして誰でしょうか?

かつて人類の祖先の堕落により、お父様は怒りを抱かれるようになり、人々の心にも憎しみが残るようになりました。また、ユダヤ民族の不信仰の罪により、この憎しみは世界中にまで広がってしまったことを知っております。このように憎しみの訴えが天地に響いている今、私達に進むべき道をお父様が開いてくださることを切に望み、願っております。

お父様が導かれる道を歩むためには、まず私達の命が休息できる場所を見つけなければなりません。そしてその後、私達の体と心があなたの安息の場とならなければなりません。そして私達が求めるお父様の愛が私達の体と心に宿るべきであることを知っております。慈悲深いお父様、愛のお父様、寛容なお父様、私達の中においでになり、あなたの御心を示すために尽力される私のお父様よ!この取るに足らない群れが、汚れ、傷ついた体と心をそのまま抱えて、恥じ入りもせずお父様のひざの前に出て参りましたが、容赦してくださいませんか。

お父様が私達を赦してくださらない限り、私達の進むべき基準を示してくださらない限り、私達のような哀れな者は存在しません。お父様! ここに集まった群衆は、お父様が望まれるように生きるため、天を仰ぎ見ながら熱心に願い求める子ども達であり、生涯の選命を歩むために全てを捧げても、厳しい風に煽られる幼い子ども達であります。

お父様よ!私達にとって、永遠の理想もお父様であり、永遠の希望もお父様であり、永遠の命もお父様でした。今日の私達が直面する状況をご存知で、私達の望む全ての願いをご存知のお父様、直接的な導きがなければならないことを私達に示してください。

まず、お父様の導きを受けるための本質的な要素を備えた私達になり、お父様の言葉と使命の中で私達の体と心が捕らわれることを許してください。そして、私達があなたの栄光の前で屈することができないような直接的な力の導きが現れるようにしてください。また、私達の全てを主管して、お父様が容認できない罪の根を私達から取り除いてください。愛するお父様、切に願い求め、願っております。

死の波が私達を襲おうとしています。このすべてをお制止いただき、私達を摂理の組織として、あなたが導かれる道の基盤となるものにし、私達全員があなたの側に立ち、悪に立ち向かい勝利する種族となることをお許しください。

この日は聖なる日です。広く存在する子女達が、あなたの前に礼拝するために集まる場所ごとに、あなたの慈悲と愛の手を示してください。

急ぎ選ばれた者達を呼び寄せ、6千年にわたり父なる神の前に敵対の立場にある悪しきサタンと戦い勝利し、帰ってくることができるあなたの真の子女達となるために、一堂に集まることをお許しください。そして、一つの意志、一つの愛、一つの心を共有し、互いに譲歩し、和解し、助け合える私達となり、あなたの望まれる喜ばしい楽園を築くことができるように許してください。切に願い求め、祈っております。

お父様と共にいてくださり、過去の一週間、あなたが許容できない不完全さが私達にあったとしても、お許しください。また、私達の内に秘められた個人的な憎しみがある場合は、それを取り除いてください。自己中心的な心、意志、考え、信念が残っているでしょうか?お父様よ、あなたの力として現れ、ただあなただけが支配し、説明し、私達全体の心を再び形作り、あなたの姿に似た私達となれるようにお許しください。切にお願い申し上げます。

残りの時間もただあなたに委ねます。誠意をもって、意志をもって、この場に臨む時間を通じて私達を導き、導いてください。あなたの御名においてお祈り致します。アーメン。

<御言葉>
神様はすべてのものを創造されたのは、神様が善の本質となる人間とともに、それらを見て楽しむことのできる日を迎えるためでした。しかし、人間が堕落によって神様を喜ばせることのできる善の実を結ばなかったため、神様の意志や万物の希望はかなえられず、人々の望みも叶わなかったです。そのため、この世界のすべての生命は、常にその善の実が現れることを願っていました。さらに神様も、人間達が善の実を結ぶことを望んでおり、そのために今もなお計画を進めておられます。

善の実を求める神様

神様の心を探ると、その中には神様の悲しみがあり、神様の関心が残っており、今日の人々に対する神様の計画が続いていることがわかります。そのため、私達は神様がまだ創造の理想である善の実を見つけ出そうとしていることを理解できます。

今日、私達信者が、このような神様の立場から立ち、神様の内なる心情を共感し、神様の望むとおりに収穫され、神様が誇りに思える善の実の一部とならなければ、神様の意志が成就せず、神様の失望と悲しみを取り除くことはできないことを皆さんも理解しておくべきです。

神の悲しみとは何でしょうか?それは、すべての創造物が善を追求できるように正しい方向性を持ち、すべてのものを支配できる善の実現体である真の人間が存在しないことです。したがって、人間は神の前で生け贄となり、天の父の内面を表現できる善の実現体となるべきです。その中でも、神の祝福を受ける最も代表的な人物が現れるべきです。

現代の私達の信仰する聖徒の中からこのような人物が出てこない限り、神がイエス・キリストをこの地に遣わし、神の計画を成就させる意味も、イエス・キリストが聖霊を送って業をなす意味も全て虚無になるでしょうし、先人達が苦労の中で闘いながら勝利の日を待ち望んできたそのすべての努力も虚無になるという事実を皆さんは心に留めておく必要があります。

それでは、今日の神が求めているものは何でしょうか?終わりの時の全ての民を代表して、善の実体を具現化した一人が裁きの前に立ち、「神の願いはこうであります。善の実体理想を達成することです。そのような実体を具現化した私をご覧になり、天の御心を解き放ち、裁きの行為を停止してください」と言える一人の人物を神は探し求めているのです。

このような神の心にかなう善の実体を築き上げることができないのであれば、神にとって喜びもありえず、したがって栄光も享受することはできません。神に喜びがない限り、すべての創造物にも喜びはあり得ず、神が栄光を享受できない限り、どの人も栄光を享受することはできないのです。このような運命の中で、人生の道を切り拓いて進んでいく使命が今日のすべてのキリスト教徒にあるのです。

この立場から、神の意志の前に、先人達の前に、そして真の宇宙的善の実現体を収穫されるお父様の前に、私は立ち上がり、神と同じ心情で万物を見つめ、神の計画を思いやることができる存在としての私自身にならなければならないのです。しかし、本当に今この時、私自身は神が求める内なる基準にかなう善の実現体として現れたのでしょうか?私達はこれを自問し、自己反省すべき時が来ています。

現在の時は、人類の堕落によって悲しまれる神が6千年の歴史の後、審判という条件を設けて、異なる御園で善の実を収穫しようとする審判の時であると言えます。

聖書には「人は何を蒔くかにかかわらず、同じように刈り取られるでしょう。」(ガラテヤの信徒への手紙 6:7)という言葉があります。

神はアダムとエバを創造した後、彼らに愛を注ぎ、代わりに秘かなる知識と善を取り戻す日が永遠に続くことを願われました。この神の意志と希望は絶対に達成されるべきものでしたが、アダムとエバの堕落によってそれは実現されませんでした。そのため、神はその希望の実現のために、4千年にわたる歴史を経てイエス・キリストを果実として送られることとなりました。

神の意志を実現するためにお送りになったイエス・キリスト

このイエス・キリストはどのような方でしょうか? イエス・キリストは天の意志と地の意志を解決し、善の実体となることのできる方として来られました。そのため、神の前で誇りに満ち、天を代表し、地を代表することができる、神が望まれた理想的な善の実体としてこの世においでになり、生涯を通じて本来の善の収穫物となり、神にささげることが彼の使命でした。そのような使命を持っておられるキリストは、人間の不信仰のためにゴルゴダの丘で十字架を背負い、犠牲の供物となったことによって、実現できなかった善の収穫が行われるべき方となったのです。

そのため、イエスは未だ実現されていない神の意志を抱え、神の本来の意図が再び地上で成し遂げられることを願い、長い年月を通じて祈り続け、この意志を成し遂げるために必ず再臨されることを私達は理解する必要があります。

このようにイエス・キリストは、神の善の対象として救済されるべき民のために来られました。そのため、彼にはこの地に来て悪魔を追い払い、滅ぼすと同時に、神の代理人として神の理想を実現する使命がありました。そして、イエス・キリストは神の目にかなう喜びをもたらす人生の過程を進むべきでした。したがって、イエス・キリストはその使命を果たすために帰られるのではなく、生きている間に達成されなければならないものでした。

イエス・キリストが生きておられる間にこれらのことを成し遂げていれば、今日、私達は再臨を待つ必要がなく、その時点ですでにイエス・キリストを中心にした人生の過程を通じて、神の目的である善の収穫が達成されていたことでしょう。もしそうだったら、キリスト教徒は2千年間、再臨を待ちながら苦労し、祈りの生活をする必要はなかったでしょう。

今日、私達はイエス・キリストが神の使命を遂行するためにこの地で歩まれたその足跡を見習いながら、イエス・キリストが設定した目標と生まれた目的の両方を必然的に実現しなければなりません。今、私達は生命を捧げてでも神の意志を実現しない限り、神は私達を善の実現体として収穫することはできないことを理解しなければなりません。

神は人間を霊的な世界だけで生きる存在として造ったのではなく、この地上で実体を持ち、霊と肉が調和する生活を送るように創造しました。それは人間の霊が神とともにいて万物を支配し、肉体において霊的な存在と肉体的な存在が調和することを可能にするためでした。これが創造の法則です。したがって、4千年の歴史の後、善の実現体としてこの世においでになったイエス・キリストも、ただ霊的な王だけでいてはならないことを理解するべきです。

イエス・キリストは愛する弟子達に、天と地の法則の秘密を明らかにし、教えたいという熱い願いを持っていました。しかし、当時、イエス・キリストのこの熱望を理解し、その意志を引き継ぐ適切な人物がいなかったのです。そのため、勝利の時を望みながら進んでいくイエス・キリストには、語ることのできないほどの苦悩が心に押し寄せていたことを理解する必要があります。

人間のために来られ、人間とともに共感しようとしたイエス・キリストが、人間に対して共感を伝えることができなくなったため、神はイエス・キリストがこの地の人間と共感するために願っており、そのために2千年という長い時をかけて御業を遂行されているのです。

アダムの堕落から約4千年の歴史が経過した後、イエス・キリストはついに神の意志を成し遂げるためにこの世に宇宙的な善の実体として来られました。そのために多くの犠牲を払い、神を奉仕するために自己を捧げられました。また、私達にとってイエス・キリストは苦難と苦しみと労苦の象徴です。イエス・キリストが残したすべての善の実りを私達は霊的な側面だけで求めてはいけません。それは「あなたが地上で何を束ねるかは、天でも束ねられ、地上で何を解くかは、天でも解かれるでしょう」(マタイ 16:19、18:18)というイエス・キリストの言葉と合致するものです。

私達には、個々のものではない共通の願いがあります。それは神の願い、イエス・キリストの願い、聖霊の願い、そして先人達の願いが交わっています。神は6千年の歴史を通じて、人々が自己認識して善の犠牲として差し出せる日を待ち望まれてきました。その理想が成就される時が再臨の時であり、今がその時なのです。

善の根源、愛の根源、命の根源

それでは、善の実現体として収穫されるために来られたイエス・キリストがなぜ帰られた後、再臨を望み、この地上の人々に実践的な信仰を要求し続けているのかを理解しているならば、あなたは試練や苦難、闘いが前に立ちはだかっても、この道を最後まで進み抜く覚悟を持って戦い続けるべきであり、また、自己中心的な生活ではなく、この世界の人々のために行動する必要があることを理解するでしょう。

しかし、これまで人々は自己中心的な生活を送り、自分だけのために行動してきたため、神はそのことを嘆かれています。今日、私達にはそのような生き方をしてはいけないということです。

一日一日の短い生活を通じては自分を中心に置き、行動することができるかもしれませんが、一生を通じて自己を中心に置く基準を見つける必要があります。言い換えれば、日々の生活を通じては直接的に全ての関係がうまくいくかもしれませんが、一生を通じて自己を中心に置いて生きる人がいれば、その人は神に善の実を捧げることはできません。

したがって、あなた方は一生を通じてイエス・キリストと神の親子の関係を結び、その中心を見つけるために苦難を耐え、すべての困難を乗り越える土台を築かなければなりません。もしあなた方がそのような基盤を築かない限り、希望し、イエス・キリストが望まれてきた善の実りをこの世で得ることはできません。あなた方自身だけの人生の過程では、善の基準を確立することはできません。

なぜなら、この世界には良い言葉があり、善良な人々が存在するように見えますが、まだ善の源であり、善の父となる人は現れていないからです。愛や善、命などと言ってはいますが、彼らは皆、自分自身の人生を基準にして話しているのです。善の根源、愛の根源、命の根源が、自分の心を通じて、体を通じて、生活を通じて、一生を通じて自分に入ってきて、自分がその本質と調和できる基準となるまでは、善の実体にはなり得ないのです。

イエス・キリストは宇宙の万物、つまり無数の宇宙の創造主として来られましたし、この世界のすべての生命の源となられた方であることを理解すべきです。そのため、イエス・キリストはこの地上で真の命の根源を見つけることができなかった人々に対して、善の源となってくださりました。また、イエス・キリストは神の計画が不透明な人間社会で、神の意志を実現するための基準を導くためにこられました。

イエス・キリストも霊的な側面と肉体的な側面を持っておられたため、内的で霊的な出来事と外的で肉体的な出来事があったでしょう。したがって、その生涯においても内的な生活と外的な生活があったでしょう。イエス・キリストはこのような生涯を通じて内外の調和を持ち、生命の中心軸を設定し、この地上で神の意志を実現するための基準を確立し、希望された目標を達成するために活動されました。

イエス・キリストはその使命を果たすために適切な生活を送られましたが、その目的を完全に達成されなかったため、再び来られるために2千年を待つ必要があったのです。もし当時その目的が完全に達成されていたならば、聖霊とイエス・キリストと神は私達と共に生活していたことでしょう。

今日、私達が神とイエス・キリストと聖霊から受け継がなければならないものは何でしょうか?この世の人々は、イエス・キリストが望まれて立てられた具体的な善の理念を受け継ぎ、それが自身の体と心に通じ、神の心にまで通じる善の概念、善の宗教、善の基準を確立しなければなりません。そのようなイエス・キリストの善の理念の根底にあるものを持つと、どれだけ切り取られても新たな芽が出ることができるようになります。

私達信者は、そのような善の根底が何であるか、神の愛の根底が何であるか、神の命の根底が何であるか、そして神が立てた計画の根底がどこにあるかを理解しなければなりません。そのような根底を失った人々の人生では、時間性と空間性を超えることはできません。しかし、今日私達が時間と空間の制約を受けている立場から、これを超えて善との永遠の関係の中で生きることができる善の根底を見つけ出すならば、私達は時空の世界を超越することができるでしょう。

同じ根から同じ実を結ぶ

善は始まりと終わりが一つとして現れるものです。そのような立場から、神は「私はアルファとオメガであり、始まりと終わりです。」と語られました。これは根源となる善の本体と地上的な実体が調和するとき、根源となった神が永遠の命を持つならば、私達のような枝葉であるものも永遠の命を持つようになり、神が永遠に善であるならば、私達も永遠の善となり、神が永遠に喜ばれるならば、私達も永遠に喜ぶことができるということです。私達がそのようになれていないのは、神の地上的な実体となることができなかったからです。

ですから私達は、善の親であるイエス・キリストと聖霊を信じ、新たな生まれとして、彼らと一体となり、神の内的であり霊的な理念を外的で実体的な活動に表現していく必要があります。

今日、私達が善の実体となるためには、再臨する主と一体的な関係を持つ必要があります。言い換えれば、神と一体となった心情を持ち、この地上においてお越しになる主を信じて迎え入れる人は、その主と同じ善の実を結ぶことになるのです。そのような事実を知らず、その基準を見つけることができない者は、永遠の喜びや永遠の命、そして永遠の愛を見つけることはできません。

私達はこのような道を見つけ出し進んでいかなければならない運命を持っています。この道はイエス・キリストが人々に示そうとしたが、達成できなかった道であり、イエス・キリストが去った後、現在までに2千年以上にわたって数多くの預言者達が切り開いてきた道です。

現在、私達は終わりの時が近づいていると言っているこの時に、皆さんにとって何がすべきことなのでしょうか?それは善の収穫の実体となることです。もし皆さんが善の根源であるイエス・キリストによって収穫される一つの実体として立つことができなければ、皆さんはイエス・キリストや聖霊、そして神とは何の関係も持たなくなるでしょう。

人間がどのようにして善を失うようになったのかは、昔のアダムとエバの立場を振り返って見ればわかります。アダムとエバはこの地上で人類の祖先として負うべき責任を忘れました。この宇宙的な使命を果たさなかったために、彼らは善の根源を失い、その後の子孫達に対して道を外れた生活を送らせる結果となりました。

こうして自らの責任を忘れ、その責任を果たすことができなかったため、アダムとエバは堕落してしまい、すべての人々も堕落の重荷を背負うこととなりました。そして、それぞれが背負うようになったこの重荷、全ての生命に影響を及ぼすこの重荷を解くことが帰還の歴史です。

アダムとエバは、神が設けた天律という法の中心を守ることにおいて、どのような干渉も受けることはありませんでした。ただし、神との絶対的な関わりだけを持ち、誰であろうと天の法を守り、委ねられた責任を果たす高貴な位置にいました。

アダムとエバだけでなく、天使達にも守るべき天律の法と進むべき道、担うべき責任と使命がありました。しかし、彼らはこれを忘れて行動したために堕落が生じました。こうして堕落の影響によって人間が背負うこの重荷を、イエス・キリストがおいでになって受け、解き放ちたいと願っています。私達にも、イエス・キリストを通して解かれるべきこの重荷が、聖霊と協力して解くべき責任として残っています。

私達がこのような責任を持つ終わりの時代の聖徒であるならば、自己がイエス・キリストと結びつき、聖霊と結びつく心情の中で、彼らと同じ内容の責任を担い、日常生活や社会生活、または理想的な概念までもがこの基準に従って進行する必要があります。神は人間に祝福を与えて、その実りが実現することを長い歴史の間、願っておられます。そしてイエス・キリストを通じてその御心を達成しようとされましたが、イエス・キリストが十字架にかかり、その御心を完全に達成できなかったため、再びその御心を達成するために歴史を進行中です。この過程で、サタンはこれを妨害しようとする戦いを続けています。こうしてサタンの挑戦に立ち向かいながら進むことが、堕落によって生まれた帰還の道です。

もしアダムとエバが堕落しなかったなら、個々の人の責任は個人が背負うだけで終わっていたでしょうが、彼らが堕落したために、すべての人間には自分が負うべき責任が加わると同時に、サタンとの戦いに立ち向かう責任も加わることになったことを知るべきです。つまり、堕落がなかったなら、人間は自らが担った責任だけを果たすことによって神の喜びを自分の喜びと感じ、実りの体現を実現できたでしょう。しかし、人間が堕落したためにサタンと戦わなければならない責任も背負うことになったのです。これが人間の運命です。

自分が背負う帰還の重荷、この重荷を背負い進むためにも、天地万物の苦難を経験しなければなりません。ここには自己を狙う敵、サタンが存在するため、これらも打ち破らなければならないのが人間達です。イエス・キリストが戻られたことで、神の希望が絶たれました。しかし、イエス・キリストを代わりにし、イエス・キリストが達成しようとされた生涯の目的を達成した勝利の実体が現れ、神が直接、彼らの頭に手を置いて、「あなたは永遠に私の愛する子です。」と祝福を与える日まで、私達はどの宗教を通じてでも、彼に出会い、彼を迎えるための扉を開かなければならないのです。私達はまず、宇宙的な力を育てる必要があるでしょう。

今日、私達には国家的な回復の過程、世界的な回復の過程において、歴史を超越する神の善の実体であるイエス・キリストと関係を築く使命があります。また、回復の責任を担い、その善の実体と関係を築き、天のために戦う息子や娘とならなければなりません。そのような人は終わりの時代に差し掛かっても、何の条件もなしに審判を受けることになります。

また、私達がイエス・キリストと友達になるためには、彼が成し遂げられなかった仕事を成し遂げ、彼の生涯の間に彼が望まれた御心を担う位置に立たなければなりませんが、今まで自分がそのような使命を果たしてきたかを反省する必要があります。イエス・キリストが再臨するまで、霊的なイエス・キリストと聖霊はこの世界の堕落した人間を新生させ、本来の命に戻す歴史を進めています。そのような過程を経た人は審判の時を順調に通り抜けることができ、神はその審判を充分に押しのけてくださることになります。

したがって、私達は自分達が創造的な生命の道を歩み、善の実体としての実りを実現しなければ、主が憐れまれた苦しみよりもさらなる苦しみを感じることになることを認識しなければなりません。

一粒の種さえも秋に収穫し、寒い冬を越えて春を迎えて初めて芽を出すことができます。同じように、終わりの時代に生命の本質を立てるために努力する人々には、一方で生命の本質と善の本質を混乱させる力が働くことになります。すなわち、大荒れの嵐が天地に吹き荒れる冬があるように、終わりの時代を迎えた人々にも生命の血が凍りつき、聖霊の働きが停滞し、社会の活動が麻痺する局面が訪れることになるのです。

そのような世界を通り抜け、それに勝ち得た実績を持ち、天国的な中心と生命と愛と善の根源と調和した実体を備えていなければ、世界全体が恐怖に取りつかれ、中心を失い、混乱に陥ることになるでしょう。

そうなれば、二つの習慣が混在している人々は、分別力のある視野を混乱させ、その中でサタンが現れ、人々の生命を奪おうとする恐怖の時代となるでしょう。そのような時に備えて、私達は確固たる中心を築き、そうした要素を克服し、すべての敵意を解消する生命力を備えなければなりません。

こうして神の愛の膝の中で実を結ぶ生命を見ない限り、それは成長している状態で春や夏を迎えるのではなく、秋や冬を迎える立場となることでしょう。今、人々は6千年にわたる歴史を経て宇宙的な善の収穫の時に差し掛かっています。

このような時、皆さん自身が善の種となる可能性を持つキリストの神授された資質、すなわち神の意志に適った人格を備え、また責任を果たす能力を持つ実体でなければ、新しい季節を迎えて永遠の不滅の命の種としてまかれることはありません。

したがって、私達は困難な状況が生じた際には、神の立場となって嘆き、天に対して憂い、天に対して心を寄せる姿勢を持ち、神に対して「父よ、私は他人の願わない不快な仕事を担当する者となります」と祈ることができる子女となるべきです。

善を築き、求めて行く神

6千年にわたり、父、子、聖霊と闘い、また神の計画を見守りながら攻撃の隙間をうかがっていたサタンは、今日では自身の味方を総動員して一斉に攻撃しようとしています。そのような時にこれに立ち向かい、阻止できる子女達がこの地に現れましたか!そうでないため、神とイエス・キリスト、そして聖霊の憂いがこの地に充満しているのです。

このような場で、私達が本当に創造的な理想を打ち立て、出て行く神の意志を理解するとしたら、本当に堂々と立ち上がり、自信を持って前に出ることができるでしょうか?私達はこれでも足りず、あれでも足りないと感じながら、神の使命を担い、また4千年にわたる歴史を担い、戦ってきたイエスと聖霊の立場から、何百万のサタンを自信を持って撃退できる力を備え、6千年間の闘いの歴史を終わらせようとするイエスと聖霊のサタンに対する戦いに参加し、いつの間にか勝利の分かれ道を広げていかなければなりません。

今までこうした風土を築く任務を担うことができる人々はいくついましたか?そうした人々がいないため、神の深情を理解していないのが今日の聖徒達の現状です。

今、ここに集まった皆さん!他人ではない道、他人が行くべきではないこの険しい道を歩むために私がお導きする気持ちを理解していただきたいと願います。皆さんができる限り、どうかどうか神が望まれる場所まで進み、責任を果たせる人々となってくださることを願います。また、神がイエス・キリストを通して遂行しようとされる意志が残っている限り、その意志を成し遂げるために最後まで責任を果たせる人々となってくださることを願います。

皆さんは互いに兄弟姉妹のように愛し合い、励まし合い、互いに責任を担っていける人々となり、個人的な責任、民族的な責任、そして世界的な責任を全うする必要があります。

こうなれば個人的に不足感を感じることがあっても、皆さんが深刻で熱心な心情になったときでも、仲間達が救ってくれることで、神の手が届かずに望むことが実現される喜びを味わうことができるでしょう。今、神がそのような人に感じさせてでもあなたの意志を知らせてくださる時です。

これまで6千年間にわたって忍耐し、受け入れてこられた神の意志を成し遂げるために働いている最中に苦難に見舞われたとき、「私を助けてください」と懇願できる仲間達を多く持っている人は、神の支えを受けることになります。

今日、神が支えられないことはもちろん、イエス・キリストや聖霊さえも支えられない立場にある人を通じて意志を達成する必要があるため、この地上の人類を見ることができない神の多くの心を知る人がいれば、涙を流しながら悲しみを分かち合うでしょう。しかし、そのような心情を持つ人でも、天地の神の悲しみには届かないでしょう。このような宇宙的な対立の根源が残っていることすら、人々は知らないのです。

皆さんは自分の力で神の前に進むことができない場合、忍耐強い仲間達に頼って進むことを知っているべきです。人々が良い友達、良い先生、あるいは良い牧師に出会いたいと思っているのも、実際には良いものと良くないものを区別し、宇宙的な良い成果体と関係を結び、悪いものからは別の道を選び、足跡を急がせることを望むからです。

自分の決意、信仰、生活を通じて、他の人々に神の国を感じさせることができれば、そのような生活を見た人々もそれを追随するようになります。イエス・キリストが神に従って犠牲にされたように、皆さんも神の業を行う人、つまりそのような牧者や指導者に従う必要があります。しかし、あなたを導く人が神の意志に反している場合、あなたがその人を代わりに天に忠実でなければならず、イエス・キリストを代わりに祭壇を担当し、自分自身が犠牲にならなければならないことです。このようにして責任を果たす場を通過していかなければならないのです。

皆さんは今、自分が背負っている重荷がどれほど重いかを理解する必要があります。今でも聖霊には悲しみが残っており、イエス・キリストと神にも悲しみが残っています。したがって、私がこの悲しみを和らげることができる存在になれない場合、私は天の父の前で恥じるべき存在になるでしょう。

神が導く道を開く人

今、私達の努力はこれまで神、イエス、聖霊が戦ってきた努力を上回り、善の結実として収穫される可能性が見え始めています。したがって、私達がそれに相応しい存在にならない場合、神は再び悲しい出来事を経験されることになるでしょう。

自分の責任を果たせずに悲運な歴史が続いているにもかかわらず、この事実を知らずに眠っている多くの人々がいます。しかし私達は神に対して、「父よ、誰がこの仕事の責任を負うでしょうか?私は最初にあなたの意志を知りましたので、私だけでもこの仕事の責任を負いたいと思います。」と言えるようにし、またそのような決意を持つことが重要です。このようにして、地上で実際に暗黒の勢力と平面的な戦いをし、そして立体的にサタンと戦ってきたのが、これまでの聖徒達の歴史でした。

今日、人々はさまざまな宗教を信仰しています。そして他人に自分が信仰する宗教を奨めていることもあります。しかし、その信仰の内容を見ると、常に善と正義を築き上げると同時に、攻撃してくるサタンの勢力を防ぎ、自己を破壊しようとするどんな邪悪な挑戦にも折れない信仰が求められています。そのような信仰の実体をもって結実すべきは、皆さん自身です。

イエス・キリストは歴史的なあらゆる罪の歴史を一代で清算し、新たな歴史の起源を成し遂げるための責任を一人で担当し、神の国を建設するためにイスラエル民族の守護者として、神に「敵の罪を私に負わせてください」と祈りながらその意志を実現しようとしました。

イエス・キリストのそのような意志は、今日まで世界中で広がっています。今日でも韓国の教会を代表して、「神よ、私にこの世界のすべての罪を許し、命を捧げて敵であるサタンと戦えるようにしてください。」と祈り、立ち上がれる息子や娘が多ければ、神の計画の歴史的進展は、この国を通じて成し遂げられるでしょう。

私達は他の人々が知らない中で、神の事情と意志を理解したなら、責任感を持って、ゴルゴダの丘で倒れることがあっても、再び立ち上がって歩んでいたイエスの運命の道を歩み、十字架の道を模範にして勝利を勝ち取って行くことができる、神の真の息子や娘になるべきです。

そして、私達は今、この国を代表してこの道を歩むべきです。進んで世界を代表して、最終的な審判の場に立ってもいい、私達がなるべきです。皆さん、私達の教会が孤独な道を進むとしても落胆しないでください。私達が罵られ、犠牲を強いられ、自分自身が死ぬ場所に立たされるかもしれませんが、そのような私達のおかげで、この国が生きる道があるのであれば、私達は喜んでその道を進むべきです。この道だけが、この国と私達自身の生きる道です。また、それは私達が果たすべき責任を果たし、神が私達に訪れる場を整える仕事です。

イスラエルの民が犯した罪を神の前で完全に償い、人間の前で完全に償い、またサタンの前でも完全に償っておいた後に、イエスの復活があったように、今日、私達にも乗り越えなければならない荷物があり、達成すべき目的が残されており、進むべき道が残されています。どんな反対があろうとも、私達は死を覚悟し、変わらない姿勢を持ち、―もう一度言いますが、「天地が変わろうとも、私だけは変わらない! 天地が動こうとも、私だけは動かない! また天地が混乱しようとも、私だけは混乱しない! この世界に、私に設定された中心が揺るがすことのできる、どんな創造物もない。」―私達はこのような変わらない自信と責任感を持った生け贄とならなければなりません。

私達がそのような生け贄としての責任を果たす姿勢を持つとき、宇宙的に経験すべき苦難を引き受ける条件が整い、ようやく望んでいたイエス・キリストを迎えるための最初の試練を乗り越えることができます。そして苦難と罪の世界を処理する基準を持つとき、イエス・キリストはようやく全ての人々の前に現れるでしょう。その後、全人類がこの地上で天倫(てんりん)を確立する責任を果たしたと見なすことができるのです。

歴史を超越した善の結実体

私達は、この国を責任を果たす国として立て、その目標を実現するための努力を歩み続けてきました。

しかし、私達がこのような道、つまり帰還の道を進む中で、私達の生活環境には闇が残っている場合、悪の本質、死の要素が潜在的に現れることになります。その闇は虚飾(がいしょく)する場所に現れます。したがって、虚飾は自己を破壊するものです。皆さんはそのような虚飾のために自らを破壊する立場に立ってはいけません。

天理の前でぞんざいに通り抜けようとすると、決して通過できません。それっぽいものを持っていても通過できません。そのような立場はかえって自己を罪の中に引きずり込むものとなります。それは自己を欺くものであり、聖霊やイエス・キリスト、そして神さえも欺くものであり、さらには全ての生きものをため息をつかせる要因となります。

したがって、皆さんがこのような場に立った経験があるなら、真の命令に従って恥じ入り、罪の意識を感じるべきであり、その後、神の前、イエス・キリストの前、聖霊の前、そして全ての生き物の前で、自分自身を映し出すべきです。自分の行動と生活が非の打ちどころのない姿で表れるようにしなければなりません。そのためには、虚飾を避けて自己を破壊しないような生活をすることが必要です。また、互いに依存し合おうとすることも悪の要素です。皆さんは自己を頼りとしようとする気持ちを抑えて、悪の要素が内に充満することを避けなければなりません。

イエスを見つめ、信じ、従うことは簡単なことかもしれません。しかし、斜めから侵入してくるサタンの挑戦をどうやって阻止するか、それは容易な問題ではありません。サタンの挑戦を排除するためには、まず自己がどんな挑戦にも破壊されないほど強くなければなりません。そのためには、天に向かう中心を自己の内にしっかりと築くために怠らない心が必要です。

こうして自己を破壊しない生活を送り、確信を持っているならば、ようやく神が人類に接近しようとする道が開かれるでしょう。このような使命を持つ皆さんは、今やその使命を軽視してはなりません。責任が残されている限り、どんな困難にも打ち勝ち、責任を果たすべきです。戦わなければならない運命が残されている限り、死を覚悟して戦わなければなりません。

今、皆さんがイエスが追求した善の目的が何であり、どのようにしてそこにたどり着けるかを知っているならば、そのような道を進むために、心と体、そしてイエスと聖霊の望みに相応しい生活を送るべきです。

そうしたあなたが、右側にはイエス・キリスト、左側には聖霊を立て、神の前で「神の父よ!私は父の望まれる御旨を遂行するためにサタンと闘い、勝利しました」と言えるようになるべきです。それによって神は、彼を通じてこの世の人々の前にイエス・キリストと聖霊の理想を立て、新しいあなたの使命を委ね、そして実現させるでしょう。その結果、神はイエスと聖霊を天国で安息させ、この地上においてその御旨を達成することができるでしょう。

地上の人々が証人として立つ者であるからと言って、そのまま彼が神の御旨を遂行する代表的な存在として立てられるわけではありません。まず最初に、イエスと聖霊が彼を通して喜び、そして彼が担った使命のために歩むことができるようになる必要があります。まだ達成すべき御旨が残っている限り、その御旨は必ず代表的な一人から立てられ、その一人から発した御旨が全体を通じて実を結ぶと、ひとつの宗教として結実し、その宗教を中心として先覚者達が集まるでしょう。

こうして選ばれた中心的人物に従って、永遠で宇宙的なカナンの福祉へ向かうことができるようになれば、それがまさにイスラエルの選民としての責任を果たすことになります。そのときに神は、宇宙的な怨みが漂うこの地上において、サタンの勢力を排除し、イエス・キリストと聖霊とともに願いがかなった喜びを享受し、すべての人々に神が感じる喜びを分け与えることができるでしょう。その結果、人類の中にある怨みまで和らげられることになるでしょう。

あなたは歴史の中で、全体が超えなければならない一つの難関を越え、また恨みが解けることを望み、それらが解決されて神に感謝し、礼拝することができるような位置まで進んで、歴史を超えた善の実体として結実しなければなりません。その結果、最後の日には、言葉に尽くせない恐怖と闘い疲れた怨み、つまり神とすべてのものと人類の怨みを担い、解決することができるあなたになっていただきたいと願います。


<祈祷>
 これらの若者達をお呼びになり、宇宙的な善の実を求めて努力されるお父様!私達は、それぞれがお父様の導きによって宇宙的な運命において善の実を結ぶべき立場にありながら、その事実を認識せず、想像すらしなかったことをお許しいただきますように。

今日まで私達は、この一つの道を歩みながら、図々しさもなく、嫌悪感もなく、傲慢で他人を軽視することもなく、自分自身の存在を忘れ、自分の責任を忘れた者でした。しかし、今私達は心と体が一つになった後、良心に引け目を感じずに立ち上がることができるその存在を通じてのみ、善の実が成されることが天人の道であることを悟りました。お父様、私達がその外道を歩むことができるように、私達の魂を目覚めさせ、導いてください。

もしご覧になると、ふさわしくない内容があれば、それを整えてください。それによって、ただお父様のためになる心情だけが私達の胸に迫り、お父様の心情が私達の生活を若々しくし、お父様のご心情が私達を導いてくださいますように。私の父よ、私達は孤独な息子や娘であり、また、すべての人々が果たすべき分を担当した者です。どうかお父様、私達の心を慰めてください。今日この時まで、お父様が一緒におられたことは、永遠の善の実体を備えるためであり、真理の主となられたイエス・キリストの導きを通じて私達をお父様の前に引き寄せるためであることを知っております。

それを成し遂げるためにお父様は努力され、歴史を進められてきましたが、私達はこれまでどのような生き方をしてきたかというと、何の意味もない日々を浪費しました。また、私達が責任を持とうとしたことや、理想的だったことはすべて虚しいものであり、自分だけのためだったことでした。

お父様、そのような私達ですが、今、あなたの業を託して励ましてください。また、お父様の歴史によって私達を再び立ち上げてください。この地で平凡な生活をしている私達に恵みを与え、立体的な存在となるあなたが来る主を迎えるために、百万のサタンの束縛から解き放たせ、永遠の勝利の基準となる子供達として私達を立ててください。

託された責任を果たし、お父様の前に勝利と解放と自由の国を築き上げて捧げる者となり、全世界がその前に頭を下げる喜びの日を達成できる者が、このつまらない存在の中から一人でも現れるように許してください。

統一教会の信徒一同が、この民族と共に、このような使命を果たせるよう助けてください。また、この地上にあなたが広げられる全体のご意志を、民族的にも世界的にも明らかにして、百万のサタンを追い払い、あなたの願いが成就するまで責任を果たせるようにしてください。お父様、熱心に願い、求めます。

今日のこの言葉によって、これらの人々に永遠の命を備えさせ、この言葉が心身に響き、思考と概念を刺激する言葉となり、信仰と生活を支配し、神を喜ばせることが永遠の生命の目標になるよう、彼らの心を動かしてください。これらの願いを込めて、すべての言葉を、主の名によって祈ります。アーメン。




文鮮明先生のお言葉選集 2 - 6. どのような復活を達成しようとしているのか? (1957年3月6日)
1957年3月6日(水)、全本部教会
コリント人への手紙一 15:35-44


<祈祷> 私のお父様! 初めに、お父様は善の意志をお持ちになり、すべてのものを創造されました。本質と性質の基準として、変わらぬ姿でおられました。しかし、人々はそのような父の善の相手として差し上げることができず、父の理想を達成することができませんでした。善良な良心の基準から遠く離れてしまったことを知っています。また、これが天とすべてのものの嘆きであったことも知っています。

お父様、私達には永遠の善の基準を生命を捧げてでも求めなければならない運命の道が残されています。この道を最後まで歩む使命が残されています。どうか大いなる力で、この道を歩むことができるようにお許しください。

肉体を通じて押し寄せる悪の要素が善を目指す心の道を遮っています。お父様、この闘いにおいて、善を目指す私達の心が肉体の制約に打ち勝って敗北する様子にならないように、お導きください。

ただ心を導く善の力と愛の力に導かれて、お父様を求め、変わらぬ姿として存在することができるようにし、永遠に分離することのできない永遠の実存として、父の形に似せ、永遠にお父様を敬うことができるように、お願いいたします。

長い歴史の過程を経て罪と戦いながら、私達は傷だらけになりました。罪の根は私達の骨と肉に刺さっています。これを取り除く責任が私達にあるのですが、私達は非常に力不足で御座います。命の権限をお持ちになるお父様、能力の権限をお持ちになるお父様、創造の権限をお持ちになるお父様、取るに足らない私達の心と体に再び能力の手を差し伸べて、死の影に囚われたすべての悪の要素を取り除いてください。そしてその一つの中心から刺激を受けて勝利の心を起こすことができる、天からの直接的な生命の歴史をこの時に現してくださいと、切に願い求めます。

そのようにして私達自身から復活の力を引き出し、私達が置かれている環境でその一つの中心を代表して復活の歴史を興すことができる、あなたの子女としての資格を持つことをお許しくださいと、お父様、熱く願い求めます。

不完全な場所にいるからといって、ため息をつく私達にならないように導いてください。完全な場所に向かって走り抜ける努力の中で、この道を遮る敵であるサタンとの闘いに勝利することで、あなたの真の子女の資格を得ることができるように許してください。そして何百万ものサタン達の前で誇れる、あなたの子女としての私達を導いてください。そうして天の軍の天使達が持つ武器を私達が代わりに持ち、何百万ものサタンと戦って勝利することを許してくださいと、愛する父よ、切に願い求めます。

お父様、この瞬間、わずかな仲間があなたの前で、自分達の不足を告白するために膝をついてひれ伏しています。私達には相応しくないものがあるかもしれませんが、自己嘆きができる悔改の心を与えてください。また、理解できる知恵の心を与え、善悪を識別できる目と心を持たせてください。

そのため、私達が正しく見ることができ、理解できるように、この一時間、あなたの直接的な歴史を私達に共に示してくださいと、切に願い求めます。今、この一時間は、あなたの前で真摯な心だけを差し出せる、真摯な供犠の時です。何も差し出すものがないかもしれませんが、本来の心情だけを全うして差し出せるようにお許しください。

罪に染まった体から悪の要素を取り除いてください。率直に自己をあなたの前にさらけ出し、あなたの命令に従い、あなたが望まれる意志に適った体と心となるようにしてください。愛するお父様、切に願い求めます。この日の夜にも、周囲に広がって孤独な祭壇を築いている数多くの子女達に、あなたが約束された恩寵を均等に注いでください。終末を迎えて告げられたあなたの意志を成し遂げる感動的な歴史と感銘を与える歴史、そして権能ある歴史が、あなたの子供達が滞在する場所ごとに現れるように許してください。また、真摯な祭壇を見つけるために孤独の中で祈りの祭壇を築いている子女達が多いことを想像しますので、早く彼らがあなたの許しを受けて進むべき道を見つけられるよう、あなたが命じて一つの場所に集まるようにお許しください。そして彼らが永遠にあなたの勝利の旗を掲げて進むために足りないことがない子供達に導いてください、愛するお父様、切に願い求めます。

この一時間、天の祭壇に礼拝するために集まる場所ごとに、あなたの聖なる霊の働きが共に有ってください。感動的な歴史と悔悛の歴史を示すことで、終末にこの国に委ねられた使命に耐えるための祭壇を導いてください。

残された時間もあなたの御心に従って導いていただくことを祈りながら、あなたの名によって祈りました。アーメン。


<祈 禱>

今日、皆さんにお伝えする言葉の題は「あなたはどのような復活を達成しようとしていますか」です。アダムとイブが堕落したことにより、私達人間はお父様の愛から遠ざかりました。しかし、堕落する前のアダムとイブは、堕落すると神を楽しむものから、神が変わって恐れの神になり、理想の神が判決の神に変わることを知りませんでした。

そして、堕落の子孫である私達にとっては、神を恐れのお父様としても、理想のお父様としても扱える時が必ず訪れるでしょう。神は人間がその道に見合ったようになるように、何度も摂理の出来事を起こしたのは、人間に神が理想のお父様として立つためでした。

しかし、サタンの支配下にある者達にとって、神は判決の神であり、恐れのお父様として現れることになります。

したがって、私達が神を理想のお父様として受け入れるためには、人間の堕落によるお父様の苦しみを私達が共感し、お父様と同じ立場になってお父様と共に生活できるつながりを築かなければなりません。そうしないと、神は私達に理想のお父様として現れることができず、また、創造の理想の主人公としても現れることができないのです。

このように、私達が理想の神を受け入れるために進むべき旅において、サタンとの戦いの試練を経ぶ必要があります。これは堕落した人々にとって避けて通れない必然的な悔悛と回心の道なのです。

つまり、自分自身が理想を追求し、世界の人々を恐れの判決から救うための戦いの道を歩まなければ、お父様の理想を見つけることができないことを皆さんは理解すべきです。

そして、復活は自然法則のように行われるのではなく、自分自身が恐怖を克服し、闇の力を打ち砕く場所から復活の歴史が成り立つのです。闇の苦難を勝ち抜いた復活の霊だけがお父様の理想に立ち向かうことができることを皆さんは心に留めておくべきです。

神は自身の計画を達成するために6,000年という長い歳月をかけて歴史を進めています。したがって、私達はこの地上に住むお父様の希望の実現として、真実の本質を持ち、悪と戦って勝利した復活体と一体となり、お父様の理想を実現するためにお父様と一体になるべきです。

そうすれば、お父様と私達の心は一つの愛を感じ、創造の理想に戻るためのお父様の摂理を遂行できるでしょう。それ以外の場合、神が6,000年間かけて下された摂理は未完成のままとなります。そのため、私達は戦いの試練を経なければならない宿命に置かれています。

この戦いの試練では、堕落した人間の力ではサタンの勢力を破壊することはできないため、神はサタンを破壊できる主役としてイエス・キリストを送られたのです。

したがって、イエス・キリストはこの地に来て30年以上の短い生涯を過ごしましたが、平和と喜びの日を迎えることはありませんでした。つまり、彼の足跡を辿れば、サタンとの戦いで涙を流した痕跡が見られることを私達は知ることができます。

今日、私達は日常生活でイエス・キリストの悲しい家庭生活を振り返るべきです。そして、生涯を捧げて闇の罪悪を打破するための戦いを展開しながら、天の前で熱心に祈り求める聖徒達になるべきです。

イエス様がこの地に来て30年以上も苦労の道を歩まれた理由は何でしょうか。それは、堕落後にサタンの支配下で眠っている人々を完全に目覚めさせ、神が支配する自由な環境に導き、堕落しない真の人間、つまり本来の人間に戻すことによって、喜びと栄光の場を築くためでした。

そのため、イエス様の生涯で感じられたすべての感覚、または受けた衝撃や刺激は、一日の中でだけ留まったものではなく、限られた時間内にとどまったものではありませんでした。

彼の視点や歩みが当時の時間内のものであったとしても、彼の目的と理想は永遠のお父様の心にある愛と結びつけるためのものであり、彼はお父様の悲しい心情と一体になるために献身的な心情を持っておられたことを皆さんは知るべきです。

イエス様はお父様の愛と理想に共感する心を持って生きたため、彼の知識や感覚など、すべてはお父様の愛と理想から外れたものではなかったことを皆さんも感じるべきです。

したがって、イエス様がお父様の愛を中心にし、お父様の理想を抱き、生涯の試練の中で戦いの道を切り開いたのは、霊的な部分と肉体的な部分を含めて復活し、成熟し、完成する帰還の道を全うし、堕落しない本来の人間の姿を見つけ出すためでした。そのため、イエス様はサタンの勢力に対して一人で戦ったのです。

イエス様は宇宙的なお父様の理想に立ち向かい、お父様の愛を身に纏い、全宇宙の主役として、すべてを復活させて神に捧げる基準を確立するために生涯を捧げて戦いましたが、イスラエルの民は彼を信じなかったため、人間を霊的・肉体的に復活させるお父様の理想を実現することはできず、彼は帰って行かれたことを皆さんは知るべきです。

イエス様がこの地に生まれ、十字架にかかり、3日後に復活されるまでの生涯は、今日の私達の生涯の試練がどのように展開されるかを示し、宇宙的な歴史の進行において、いつかは終末の時期を経なければならないことを示しています。

そのため、私達自身もイエス様のように十字架の道を歩み、サタンと戦わなければなりません。また、イエス様が望まれた理想と愛を私達自身が受け継がない限り、私達はサタンを打ち破ることはできず、イエス様を通じてお父様の理想を実現することはできないことを皆さんは知るべきです。

イエス様は霊的な部分と肉体的な部分を含む完全な復活の実体を持ち、お父様の体となり、全人類に対して指揮を執れる宇宙的な復活の出来事を地上で遂行すべきでした。しかし、十字架で復活の道を選ばれたため、霊的な復活だけが実現された主役として歴史を進めており、霊的な復活の目的を地上で実現するために聖霊を通してこの仕事を行っています。

したがって、今日、私達がイエス様が望む宇宙的な復活の基準を超えるためには、まず、私達が地上でお父様の摂理を代行する聖霊と永遠の関係を築かなければなりません。

そして、失った復活の理想を再び見つけ出すために、聖霊と私達が一体となり、イエス様が戦った戦いを代わりに戦わなければなりません。そうしなければ、私達は十字架を越えて復活されたイエス様が神から復活の恩寵を受けた場所まで進むことはできないのです。

イエス様が再びこの地に来られる際には、2,000年前に来られた経路を繰り返すべきではありません。再び来られる彼は、復活の栄光と天の支配権を持ち、サタンと戦って勝利し、数え切れない聖徒達から崇拝される存在として前進しなければならないことを皆さんは知るべきです。

イエス様の復活後、聖霊には地上でのイエス様がサタンと戦った使命を代わりに果たすべき第二のサタンとの戦いが残っており、イエス様と同じ立場で歴史を進めているのです。

そして、今日まで、クリスチャン達を通じて世界的なキリスト教的な形を築き上げる歴史を進めています。そのような歴史が実現すると、イエス・キリストが十字架を背負ってサタンと戦って勝利されたように、聖徒達と聖霊が一体となり、聖霊と教会が一体となってサタンと戦い、勝利できるようになるのです。

私達は自分の体を生け贄としてささげ、サタンに勝利したキリストのようになるだけでなく、生きている体として、国民をまとめ、世界をまとめて勝利すべきであったイエス様を代わりにする真のクリスチャンとして成長しなければなりません。そうしなければ、私達はイエス様を十字架に追いやる罪を償い、生きて勝利を収めることはできません。

復活の道を歩む私達は、自分の不足を認識し、ため息をつきながら自問しなければなりません。「私は何者か、私自身はイエス様が人類の復活のために戦ったサタンと、また、2,000年間にわたり真剣に戦ってきた聖徒達の世界的な十字架を代わりに持つことができるだろうか?」という問いかけをしながら助言しなければなりません。

終わりの日に私達がお父様の前に立つとき、神は「あなたは復活の栄光のためにどのような生活をしましたか?」と尋ねられるでしょう。その質問に対してためらわずに答える覚悟が私達には必要です。そうでなければ、私達はお父様の理想とは無関係な自分自身となってしまうでしょう。

私達が十字架の厳しい道を歩む場合、私達の中には自分の体を調べつつ、イエス様を追いかけた12人の使徒のように、再び同じことをしないと自信を持って言う人はいないでしょう。

この終末時代の歴史の過程にある私達は、自分自身が復活にふさわしい生活をどれだけ送ってきたかを冷静に分析しなければならず、また、お父様の愛をどれだけ感じ、お父様の理想、すなわちお父様の意志を実現できる自分自身であるかを問いかけなければなりません。

このような立場にある私達自身が、イエス・キリストと聖霊が6,000年の間に解決しようとしていたその十字架の道を堂々と歩むことができる自信を持てない場合、つまり、自分自身が体を支配できず、自分の体が環境を支配できず、心を中心にして永遠に変わらない姿として、サタンからの恐怖を防ぐ能力が霊的な部分と肉体的な部分を合わせて備わっていない場合、イエス・キリストが30年以上も十字架の道を越えて帰られた後、聖霊を送って2,000年間労苦された意志を実現できないことを私達は覚えておかなければなりません。

したがって、終末において、この宇宙的な恐怖の扉を打ち破り前進しなければならない私達には、どのような態度を持つべきでしょうか?皆さんは次のような決意をするべきです。

まず第一に、イエス・キリストの生涯を代わりにできる人々にならなければなりません。イエス様が内面的な復活を達成しようとした心の奥底を見ると、彼はこの世に生まれてから、十字架にかけられるまで、ただお父様のみ旨を達成するために30年以上の生涯を過ごしたに過ぎませんでしたが、彼は運命を迎える瞬間まで、自分の生涯に後悔することはありませんでした。

イエス様は死を嘆き、自分自身を非難することはありませんでした。むしろ、帰られながらもお父様の前で謙遜な心を持っておられたことを皆さんは理解するべきです。

自分の命を捨て、天の御心のために帰られたとしても、「私は父の御心のために堂々と勝利的な死の道を進むでしょう」という態度で、自分を忘れるような心情を持っていたため、その死に対する責任は神が代わりに負って下さることになったのです。

したがって、私達が聖霊の協力を得てキリストの姿を代わりに持つとき、終末の審判の門を通り抜けるために知るべき重要なことは、イエス・キリストが十字架の道を歩いて勝利したその使命を代わりに歩むことが必要だということです。

イエス様は30年以上にわたり、お父様の御心の前で立ち、サタンと戦いながら、一度も自分を主張したことはありませんでした。また、自分に喜びがあっても、それを一人で楽しむことはしませんでした。そして、勝利があったとしても、それを自分の個人的な勝利だと感じたり、その出来事を自分だけが負担したと思うことはありませんでした。

イエス様は十字架にかかり、運命の瞬間まで全ての時間を神に捧げました。そして、神から授かった使命が地上に残ることを心配し、死ぬ瞬間まで唯一お父様の御心を達成しようと努力されました。また、イエス様は敵であるはずの者達まで救うべきだという責任を感じ、彼らのために祈られたことを知っているべきです。

私達が信仰の生活を送りながら復活の恩寵を受けたとしても、自己中心ではなく、イエス・キリストのような心情を持たなければなりません。また、イエス様が行われた多くの奇跡にも理解を示す必要があります。

では、このように苦労の道を歩み、復活の栄光を得た主の前で、私達はどのような姿で現れるべきでしょうか?ここには三つの形態があります。

まず、イエス様が死の道を躊躇せずに歩み、全人類の罪を贖い取ったように、誠実さと、自分は不足しており、決して主の前に立つ資格がないと言う人がいます。言い換えれば、この地に残された罪を背負い、疲れ果てて倒れながらも戦い、涙を流し、自己をささげて死ぬことができる忠誠心を持ちながら、お父様の前で「私は自分があなたの前に立つ資格がない、何度でも死ぬべきです。」と謙遜な心を持つ人がいるでしょう。

そして、神が見ると、顔を上げる勇気を持てない恥ずかしい心と、何も動かない微細な気持ちで、お父様の意志だけを求め、天の栄光を望まない人がいれば、神はその悲しい心を喜びの心に変え、不足があっても不足ではなく、むしろ慰めてくださるでしょう。

私達が天の前で忠実に全身を捧げ、死に向かって進む生ける犠牲物として、天の前で自信を持って立つ責任を果たしたとしても、自身の不足を認めながら心配の念を抱くと、神様はその心配する心に栄光を注ぎ、悲しむ心に慰めを与えてくださるでしょう。言い換えれば、そのような人々は栄光の復活を受けるためにはそのような人々であるべきです。

2つ目は、「私は天のために心を尽くし、天のために行くべき道を全うし、これ以上は父の聖なるものを受けることができるだろう。」と自分を信じてお父様の前に立つ人がいるかもしれません。

本来、人は天に向かって進む道で、行くほど不足を感じるものです。そして、自身の不足や不完全さを感じることで、自身の不足を補完できる道が生まれるのです。

しかし、この世界にはかつて天の前で認められ、天のために努力し働いたことから、父の前で「私はイエス・キリストの行った道をこのように歩んで、父の前に来ました。」と言いながら顔を上げ、自信を持って話す人がいるかもしれませんが、このようなタイプの人が歩んだ道は、イエス・キリストが行った道とは異なるため、あの国に行っても、十字架の門を完全に越えられなくなるでしょう。

第三に、天の前でも人の前でも、そして天国の数え切れない聖徒や天使の前でも立つことのできない、天の敵の立場にいる人々、イエス・キリストの意向とは何の関係もない人々も、死後に復活を受けるでしょう。

第一のタイプの人々は栄光の復活を受け、第二のタイプの人々は恥ずかしい復活を受け、第三のタイプの人々は死の復活を受けることになります。終末には、これらの三つのタイプの復活があるでしょう。

では、今日、皆さんはどのような復活の道を歩んでいますか?皆さん自身を分析し、まだ清算すべき条件が残っていることを発見した場合、それを大胆に清算する必要があります。そして、自分は足りなくて神様の前に立てないという気持ち、行けば行くほどますます足りないことを感じる心情で、頭を下げて犠牲の努力をしなければなりません。そうしないと、皆さんは永遠のお父様の愛を中心にした理想の園で、お父様の造られた万物を遺産として受け取り、永遠の幸福を楽しむことはできません。

最初のタイプの人々が主の前に立つと、その心は深い海に沈むかのように見えますが、最終的には栄光と希望に満ちた心となるでしょう。希望と栄光の心を持って主を迎える第二のタイプの人々は、最終的には深い海に沈むことになります。そして、第三のタイプの人々は、イエス・キリストに対して悲しむこともできず、天とのつながりも望むこともなく、永遠に天とは無関係な死の復活を受けることになるでしょう。

それでは、自分がどのような復活のタイプに属しているかを知った後、皆さんはどのように行動すべきでしょうか?喜びの顔か、嘆きの顔か、どのような表情を持つべきでしょうか?

皆さんは、最初のタイプのように、2千年以上にわたり期待し、夢見てきた主を迎える場合でも、謙虚で感謝の涙を流す聖徒であるべきです。また、第二のタイプのように、主に会った後に悲しむ立場になって、主の前で頭を下げるべきではありません。

そして、皆さんは第三のタイプの人となり、夢の中でもイエス・キリストや神を崇拝できない立場になってはいけません。このような人は希望があるとしても、その希望は自身から生まれ、自身で終わるものであり、彼はどれだけ地獄で苦しもうとも、それ以上は考えられないでしょう。

これを考えると、今日、キリストの福音を信じている私達、つまり復活の計画を達成しなければならない私達は、地獄に行って主の栄光の座に参加できるとしても、謙虚に頭を下げ、謙遜な心で仕えることができるべきです。

私達は、そのような心を持ち、また主の憐れみと父の愛をもって、キリストの復活の栄光を望むお父様の理想を実現するために敵と戦って勝利しなければなりません。もしこの仕事を地上で完結できない場合、冥府に行ってもそれを償わなければならない運命にあるでしょう。

ですから、今日、私達は信仰生活を送る中で完全に自己を忘れ、献身的でありながらも不足を感じ、犠牲を払いながらも不足を感じ、死の場面でも自己を責めることができなければなりません。私達は、天の前で何も誇りを持たない、本質的な人間として、永遠のお父様の復活の理想を達成できることを知らなければなりません。

このような心で生活する人々は、父から恩寵を受けたとき、父を代わって自己を立てようとして、もしかしたら天の前で立ち止まり、恥じたり悲しんだりしないかもしれないと心配することになります。そして、受けた恩寵が大きいほど、それに比例して自己の不足をより大きく感じる人、また受けた恩寵が貴重だと感じるほど、それに比例して父の前で身の程知らずなほど不足を感じる人がいる場合、サタンもその人を試そうとしても試せないのです。

このように、復活の栄光を求めて天の愛を中心にし、自分自身が体と心で天の理想を満たし、父の前で感謝できる日を見つけない限り、神が望む復活の理想を完成させ、お父様の理想とお父様の愛を中心にして永遠の幸福を楽しむことはできないことを、皆さんは理解しなければなりません。

したがって、皆さんは日が経つにつれて自己の不足を感じるべきです。神はこのような人々を中心にして復活の業、新たな創造の業を行うということを、骨身にしみる思いで感じなければなりません。そうでなければ、主が再臨されたとき、誰もが行けない栄光の座に行くことはできません。皆さんはこのことを理解し、この時から新たな決意と覚悟をもって、闇の世界に真の光を証するために献身的な立場に立ち、キリストの復活の栄光を示す生活を送ってください。


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