人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集2(10、11、12)

2023年10月28日 16時41分28秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 2-10「主は私の良き羊飼い」 1957年3月17日(日)
1957年3月17日(日曜日)、全本部教会


マタイによる福音書の25章29節から46節




<祈 祷>
御言葉でで命じられる言葉に従って、生まれ変わった者達が生まれ変わりの光を示すことができるように、また、お父様の意志に従って戦場に進軍しているあなたの真の戦士達の上に、永遠の勝利の盾を高く掲げることを許してください。
厳しい、混沌としたこの土地、罪と死の波が流れているこの土地、真の天国の思いを抱いている者達は、死を覚悟せずにはこの悲惨な土地から去ることはできません。一週間を過ごし、受けた傷を気にせずに、お父様の前に立っています。あわれみ深いお父様!私達にあなたの助けの手を差し伸べ、愛の手で包んでください。
お父様!これらは、あなたが探し求めていた息子と娘達です。どうか、この一時間、あなたの心にあった事情を彼らに語り、また命じてくださいと切に願っています。
これらの些細なもの達は、お父様が命じられた言葉に従って自分のすべてを明らかにし、この一時間でもあなたの前に贖罪の供物として差し出されることを望んでいます。私のお父様、この時間を無駄にしないでください。許し、またこれらを自ら守り、導き、立て、洗礼してください
暗闇のこの世界で天に向かって進むために努力し、亡くなった聖徒達を代わりに、生命の光を放つことができるように、そして罪悪の墓を掘り進むことができるように、私達に許してください、愛するお父様、切に願い求めています。今日は聖なる日で、すべての人々を祝福する日です。
この時、孤独なこの国に、哀れなこの国には進むべき道がないことを自覚しながら、お父様の前にひれ伏す多くの人々がいることを知るとき、お父様、彼らの進むべき道と行動すべき標準を示し、提供しなければならないことを感じます。
私達は、この国にお父様の導きが必要だと感じ、お父様の計画がこの国全体に及ばなければならないと信じています。最終的な使命を、ここに参加している息子達と娘達に委ねていただき、彼らが3,000万人の人々が迷子である中で目を覚まさせ、死の波に巻き込まれている哀れな異教民族まで目を覚まさせていただくことを許していただきたいと願っています。愛するお父様、切に願い求めています。
人間が立てた計画や人間が追求する目標がどれほど偉大であっても、それが天国を動かさない限り、何も実現しないことを知っています。人間の機構や人間の形式は、最後の審判の前で消え去るでしょうが、天国への誠実な心と天国への知識、そして献身だけが、審判の壇の向こうでお父様の愛の中に身を包み、賛美と栄光を受け取る日を許していただきたいと願います。お父様、天国への献身を心に秘め、天国のために忠実である忠実な息子達と娘となり、最後の審判の壇を越えて行けるように、お父様の内面の心に記憶される息子と娘として許していただくことを切に願います。
約束の御言葉と許された恩寵が注がれることを願いながらひれ伏しました。この一年も戦いの闘志を持つ子供達に、内外からの感動的な御業が現れて、その体と心を爆発させ、罪の要素を抑え、善の本質に変えて進むことができるように、愛するお父様、切に願い求めています。
今、私達は散らばった心を集め、傷ついた痕跡をお父様の前にさらけ出し、何もかも差し出す覚悟です。お父様、あわれみの手を伸ばし、勝利の膏を注いで包帯を巻いていただき、切に願い求めます。この一時間をお父様に託しました。悪魔が乗り越えることのないように、神が管理していただけるよう、切にお願いいたします。御名によって祈ります。アーメン。




<御言葉>
私が皆さんと共に考えようとしている言葉の題は『主は私の良き羊飼い』です。このような題名で少しだけお話しいたします。人間は堕落のために持つべき主人を持っていません。また、あらゆるものが主人を失ってしまったのです。今日、人間の信仰と主張の中で、真の主人から生まれたものは何もありません。人間がこのように不完全な状態にあるため、ここから脱却し、完全なものを探そうとし、不安から解放され平安を求めています。
人間は堕落により、生命と愛と希望の主人を失いました。もともと神様は人間を創造された目的は、人間が永遠の生命を中心に、永遠の愛の楽園で永遠の理想を歌って生きることでした。
しかし、人間は堕落により、それを失ってしまったため、神様は再びこれを見つけ出すために長い歴史を経て苦労されています。
また、すべての人間は、心に従わない体を心に従うようにするまで、真の心の所有者になる運命に置かれています。しかし、それは自然に行われるものではありません。死を覚悟し、多くの苦難と闘争の歴史を経なければならないのです。
それでは、このように宇宙的に遮られている運命の道をどのように突破すべきでしょうか?この運命の道は、私達人間がこれまで越えることができず、悲しむしかなかった一つの丘です。人間がこの運命の丘を越える前に、本来の真の主人、すなわち善と愛と理想の主人としての方を見つけることはできません。
そのため、そのような主人である神様は、本来の人間と一緒に楽しむために、一緒に生きるために、堕落した人々を再び引き上げる救いの計画を6,000年もの間に実現させたのです。
神様を中心にした本来の理想の楽園を憧れている私達ですが、私達は不完全であるため、完全な基準に到達するためには戦いの闘志を持つ私達自身であることを認識しなければなりません。また、周囲に立ちはだかっている多くの悪魔や邪悪な人々を見ている必要があります。
そしてさらに、私達は暗闇から引き上げるために、内外で努力している神様の優しい心情を見て、悪の力と闘い勝利することで、この全体の悲しみ、全体の怨みを清算できるような私達にならなければなりません。そうでなければ、私達は帰還の道をたどらず、帰還の道をたどらない限り、最後に真の主人として来られるお父様と向き合うことができなくなります。
神様は、堕落した人間を生命の人間として立てるために、すべての人間が永遠の主役に出会えるその一つの領域まで導く責任を持っています。そのため、神様は弱いし不完全な人間達に、生命の中心であり、また希望と愛の中心であるイエス・キリストを送られたのです。
しかも、神様は私達が迎えるべきその希望の中心を、歴史的な希望の終わりに行って迎えるべきではなく、むしろ私達の日常生活の中に現れて新しい命を吹き込み、神様の希望を達成する存在として立てられました。私達は、希望と生命の中心を私達の生活に据えられた神様の恩寵の前で一つになり、真の主役を迎え、神様の意志を実現しなければなりません。
この宇宙的な主役、宇宙的な生命の中心存在であるイエス・キリスト、つまり私達が進むべき道を導いてくれるイエス・キリストを捉えなければ、私達は希望も見つけられないし、生命や理想も見つけられません。
私達が希望の中心、つまり愛の中心であり生命の中心であるイエス様と一体になるためには、今まで神様が摂理される意志を実現するために戦ってこられたその内的事情や外的事情と通わなければなりません。そうでなければ、真の主役であるイエス様と一体になることはできず、創造主である神様とも一体になることはできません。
すべての人にとって、生命の主役であり、愛の主役であり、また理想の中心になれるイエス・キリストが、私達一人一人を見つけるためにどのような努力の道を歩まれたのか、皆さんは考えるべきです。
イエス・キリストはこの地に可哀想に生まれ、可哀想な生活を送られました。言葉にできない非難を受け、悪の勢力と闘われ、本当の味方を得られずに去られました。さらに、イエス・キリストは去られた後、今日まで何千年もの間、人間に苦しめられているサタンに立ち向かうために戦われているのです。私達が想像できないほどの悲しい心情の中でおられるイエス・キリストであることを皆さんは知るべきです。
この時、羊飼いが羊を分けて立てる言葉は、神様が最後の審判の時にすべての民を分け、良い者は右に、悪い者は左に別けるということを予告しています。そのような審判の日には、どの条件を基準にして右と左に分けるのか?イエス・キリストが生まれてから去られるまでの全生涯を基準にして審判の条件を設定することを理解しなければなりません。
では、イエス・キリストと一体になりたい私達はどうすべきでしょうか? 私達はイエス様の全生涯を見習い、彼と同じ道を歩まなければならず、彼が感じた内的および外的な心情を理解し、彼が考えたことを私達も考えなければなりません。また、彼の希望を私達自身の希望とし、彼の希望を私達自身の希望として受け入れなければなりません。
それができなければ、私達はイエス・キリストと一体になることができず、彼を私達の主役として受け入れることはできません。また、全人類の主役として、歴史的なサタンとの戦いに一人で責任を負って戦われているイエス・キリストを助け、彼に代わって戦い、彼の使命を引き受けられる人がいないなら、人間を救う神の意志は決して達成されないでしょう。その結果、人間は創造主である神を親としても受け入れられないでしょう。堕落した人間は、イエス・キリストを通じてのみ、神を受け入れることができるからです。
さらに、私達自身が堕落の支配下にあることを考えると、イエスが歩まれた全生涯と通過しなければならない歴史的な運命が私達に残っている場合、私達はイエス・キリストを主人として受け入れることができず、神を私達の永遠の父として受け入れることができないことを感じるべきです。
さらに、朗読した聖書には、イエス・キリストが飢え、渇いた、異国人として、裸、病人、刑務所に閉じ込められた状況についての言葉があります。そして、イエス・キリストが再臨し、右の群れに向かって、『私が苦しい時、あなた達は私を助けてくれました。』と言われることを予告しています。
この言葉は、イエス・キリストの存命時に彼に従った弟子達に伝えるための言葉ではなく、最後の審判を受けるキリスト教徒に対して示唆された言葉であることを皆さんは覚えておくべきです。
ここでイエス様が飢えたり、渇いたりしたことは、イエス様が言葉で表現できないほどの悲しい状況を象徴しています。また、イエス様は言葉で言い表せないほどの孤独を感じられたため、旅人としての状況を語られ、不当に苦しんだために刑務所に閉じ込められた状況を語られたのです。
再臨の主イエス様が終末にこれらの状況に直面されることを予告されたイエス様の生涯は、誰も共感することのできない中で、他の人には想像もできないほどの悲しみ、苦しみ、苦痛の道でした。イエス様は生まれてからこのような苦しい生活を送られたことを皆さんが理解するべきです。
このように苦しみを我慢しながら生涯を歩まれたイエス様と直接的な関係を結び、私達自身も彼が共感した悲しさや孤独を感じなければなりません。そうでなければ、私達は天国的な生活の道を歩まれた彼と何の関係もない立場となってしまいます。
地上で、イエス様は約30年にわたり、孤独で孤独で苦しい道を歩まれ、昇天してからも2,000年以上にわたり、孤独な道を歩まれてきました。しかし、イエス様は自分自身のためにこのような道を歩まれたわけではありません。堕落した私達人間のために、すなわち堕落した人間を神の前に立てるために、自発的にその苦しみの道を歩まれたのです。
イエス様は飢えたり、渇いたり、病気にかかったり、旅人となったり、拘束されたりしたことがありました。そして、これらの困難は外的な側面だけでなく、内面的な側面でもイエス様に影響を与えました。イエス様は神の計画を引き継ぎ、それを遂行しなければならなかったイスラエルの民において、神の生命が枯渇し、神の希望が枯渇したことを感じました。
そのため、この使命を果たすために、イエス様は一生懸命になり、旅人としてイスラエル中を巡り、ユダヤ人達を見つけ出しました。本来、ユダヤ人達自身がこのような道を歩むべきでした。しかし、ユダヤ人達がその道を進まなかったため、イエス様は彼らを代わりに捜し、誰も迎え入れない人々の中で、真の神の子娘と真の命と真の愛を探し、築こうとしました。
また、イスラエルの民は自身が苦しんで拘束される立場にあるべきでしたが、イエス様はその代わりとなって苦しみ、拘束された立場にいました。
このような生涯を歩んだ後、亡くなったイエス様は復活し、昇天しましたが、今もなお同じ心情で私達を探し続けており、それを理解すべきです。要するに、イエス様は喜びを享受し、自由に生活するわけではなく、この時代でも内外から強烈な飢えと渇きに苦しむ人々を同情し、真の生命の道を求めてさまよう聖徒達を懸念し、また彼らの代わりに囚われの立場にある者を思いやっており、この地を離れて天国にいるにもかかわらず、一瞬たりとも神と共に喜ぶことができない立場にいるということを理解すべきです。
イエス様は、愛する十二弟子とパンとぶどう酒を分かち合い、『ぶどうの木からこのように新しいものとして、天の父の国で共に飲むまで、もはや飲むことはありません』と言われました。これは、この世界のすべての人々が悲しみが解消されるまで、イエス様も平和を享受できないということを示す言葉です。私達は、自身の罪と愚かさによって、イエス様がより一層孤立し、苦しむことがないようにするために存在するべきではありません。
このような状況を自覚し、身をもってイエス様の苦悩を理解し、イエス様の代わりにサタンと戦い、勝利することで、神の心配事を解消しなければなりません。もし、私達がイエス様の代わりにこの地の人々を気にかける存在にならない場合、終末に再臨するイエス様に対面することはできないでしょう。
イエス様は、その苦悩に満ちた30年以上にわたる生涯と、その後の2000年以上にわたる長い神の計画を経て、悲しみと孤独と苦しみに耐えました。イエス様の情熱的な状況は、単なるイエス様だけに止めておいてはいけません。私達がそれを引き継ぎ、イエス様を守らなければなりません。そうしなければ、私達はイエス様の前で立つことができず、イエス様を主として呼ぶことはできません。それこそが、何よりも重要な仕事であることを理解しなければなりません。
真の主としてこの地に臨まれたイエス様ですが、イエス様は完全に主として受け入れられず、また神の計画を達成するために働かれています。なぜなら、まだ人々が悲しみ、苦しみ、孤独に閉じ込められており、神の計画が完全に達成されていないからです。イエス様は神の計画を完全に実現することによって、すべてを喜びとして判断できる立場にいないのです。
では、どのようにして栄光と喜びの真の主を迎えることができるでしょうか?まず、私達は歴史の過程に積み重ねられた主の悲しみを解消することによって、主を喜ばせることのできる存在にならなければなりません。それをしない限り、イエス様は私達を支配することはできません。そして、イエス様が私達を支配できない場合、神もまた私達を支配することはできないでしょう。
また、私達が完全にイエス様の支配を受けない場合、イエス様と完全な愛の結びつきを築くことはできず、したがってイエス様を真の主として受け入れることはできません。もしもキリストが苦しませ、孤独にし、苦しめ、縛る要因があなた自身に残っているのであれば、キリストが再臨される日、あなたはキリストの前で立つことはできません。
また、歴史を代わってイエス様の悲しみをあなたが担うことができない場合、あなたは歴史的な計画を担当し出てくるイエス様の前に被支配者として立つことはできません。
もしイエス様があなた一人を支配したいという希望があるなら、それは宇宙的な希望であるでしょう。また、イエス様が建てた計画がある場合、それも宇宙的な計画であるでしょう。さらに、イエス様が求める愛と栄光があるとしても、それはイエス様個人のためのものでなく、宇宙的な愛と栄光であるでしょう。
ですから、皆さんは今日、自分自身に悲しみがあるでしょうか?孤独や苦しみがありますか?あるいは、束縛されていることはありますか?宇宙的な主であるイエス様が、皆さんのために悲しみ、孤独、苦しみを受けておられるようなことはあってはなりません。なぜなら私達はイエス様と関係があるため、私達一人一人の小さな悲しみであっても、または苦しみであっても、それは個人にとどまらず、イエス様にまで及ぶものだからです。
私の悲しみが深刻になると、それはすべてのものを支配するイエス様の悲しみとなり、私が孤独を感じるなら、それはすべてのものの主であるイエス様の孤独となり、私が苦しみを感じるなら、それは宇宙を代表するイエス様の苦しみとなります。したがって、皆さんは自分の生活の中で悲しみや苦しみに立ち向かい、それを克服しない限り、宇宙的な主であるイエス様を生活の主として受け入れることはできません。そうなると、皆さんはイエス様が訪れるのではなく、サタンが侵入することになり、それを防ぐ方法がありません。
また、皆さんがイエス様の計画と一致しない場合、イエス様の悲しみが解消されず、サタンとの戦いで勝利を収めて栄光を天に還元できない場合、皆さんはイエス様の全体的な計画が伝えられなくなります。
イエス様は一つの悲しみを感じることで全体の悲しみとして心配し、そのために皆さん一人一人が一部であるが全体の一部であると理解する必要があります。それ故、個別の存在である皆さんが全体の基準を代表して完璧な基準に達しない場合、イエス様の全体の計画も達成されないことになります。言い換えれば、一人が完璧にならない限り、イエス様が設立し進めている全体の計画が実現しないため、また全体の計画が実現しない限り、イエス様は全体を代表する良い羊飼いとして私達を支配することはできないということです。
それによって、神の愛、神の希望、神の命が私達と直接的な関係を持つことができなくなります。イエス様は神の意志の前で希望の実現として、また宇宙的な命の実体、宇宙的な愛の実体として長い歴史の中で存在しています。
今日、私達はこの羊飼いの導きに導かれる羊として、彼が歩むならば私も歩み、彼が決定するならば私も決定し、また彼が喜ぶならば私も喜ぶ立場に立たなければなりません。そうでなければ、イエス様を通じて神の宇宙的な計画が成し遂げられないだけでなく、私を通じても成し遂げられないということです。
だから、皆さんが非常に小さな存在かもしれませんが、宇宙的な善き羊飼いの代わりに立って、彼を尊びながら生きなければならず、皆さんの生活の中で悲しみ、孤独、または苦しみがある場合でも、自分よりも大きな苦しみに立つイエス様の状況を考えて、その困難を乗り越えなければなりません。皆さんがそのような生活を知らない場合、皆さんは善き羊飼いとしてのイエス様の栄光の地位に参加できないことを覚えておかなければなりません。


<祈り>
天のお父様、あなたが永遠の命の主として、全てのものを完全に支配し、それらと一緒に楽しむことができる日が早く、急いでこの地に現れることを切望し、望みます。アーメン。
天のお父様、人間の堕落によって遠ざかってしまったあなたとの距離を縮めるため、永遠の善の支配者、そして永遠の至上の支配者として、イエス・キリストをこの地にお送りいただきましたが、あなたを代わりに真に受け入れなかった人々を許してください。
私達がイエス様を冷淡に扱ったことが、先祖達の欠如から生じたことを知っています。そして今日、私達はまだイエス様の悲しみが残っていることを知ります。どうか、善き羊飼いの使命を受け継ぎ、すべての創造物の前に立って、あなたの願いを実現できる私達になることを許してください。イエス様の願いをかなえることができる私達になることを許してください。あなたの命と愛、イエス様の命と愛を持って現れることができる私達になることを許してください。
もし私達がそうでない場合、キリスト・イエスが善き羊飼いとしてこの世に来られた悲しい状況を永遠に解決できないことを自覚し、私達の心の扉を開いてくださり、善き羊飼いの声を聞けるように導いてください。
悲しい父の状況を知り、孤独な状況を知り、努力される父の状況を知ると、身動きが取れなくなります。父よ、どうか私達が悲しみや孤独、労苦、苦痛をイエス様に託すために祈る、惨めな存在とならないように導いてください。
私達が今、サタンのあらゆる秘密、父の内面の状況、イエス様の内面の思いまで知ることで、父のその状況をお任せし、イエス様の悲しみ、孤独、苦痛、束縛を受け止め、無数のサタンと戦えるよう力を与えてくださいと、お願いいたします。お父様、切に希望し、求めます。
お父様、私達が懸念し、心を込めて努力するイエス様の姿を見ることができるようにし、イエス様が今日も私達の苦しい状況によって十字架にかけられる苦痛を感じているということを私達に気づかせてください。
私達が天に対して悲しみ、天に対して悲しい思いをし、天に対して孤独な立場にいるとき、イエス様がより大きな孤独、より大きな悲しみ、より大きな苦痛を感じることがあることを知らなかったことを認識します。
今、イエス様の苦痛よりも私の苦痛が大きく、イエス様の悲しみよりも私の悲しみが大きいし、イエス様の難しさよりも私の難しさが大きいかもしれませんが、むしろイエス様の悲しみを取り除くために努力でき、イエス様の孤独と苦痛を取り除くために努力し、懸念できる真の娘の姿となりますよう助けてください。そして、善き羊飼いに従い、善き羊飼いの真摯な心を慰めることができる私達の姿となることを許してください。私達が切に望み、求めます。
お父様、ここに集まったあなたの子供達は、今や歴史的な行進に全身全霊で参加しなければならないと理解しました。そして、私達には進むべき運命の道があることを理解し、戦わねばならない責務と使命があることを理解しました。私達が進む道には悲しみ、孤独、または苦しみがあるかもしれませんが、それらを克服できるように許してください。
目に見えないサタンが私達の生活に直接侵入して苦難や恐れを引き起こすかもしれませんが、これに立ち向かって黙々と戦って勝利できるように、イエス・キリストの代理の使命を果たす者達として私達を新たに立ててください。また、イエス・キリストの生涯を引き継ぎ、あなたの御業を達成できるように、私達全員の心と体をあなたの御心に従って差し出し、あなたの喜び、栄光、誇りとなり、あなたの御心に従い、あなたの御命令に従い、あなたの右手に座る子供達として立ててください。お父様、お願いいたします。アーメン。




文鮮明先生 御言葉選集 2 - 11. 私達は誰のために生きているのか (1957年 4月 7日)

私達は誰のために生きているのか 1957年4月7日(日)

聖書拝読 ヨハネによる福音書14章1節から20節

<御言葉>
私達は他の人々とのつながりなしに生活できません。個体も心と体が関係を築き、お互いに利益をもたらす立場をとる事によって存在します。このような立場は、家庭、国家、社会、国際社会、さらには宇宙全体に向けた『利益をもたらす生活』に発展しています。このような利益をもたらす生活は、宗教的に言えば神に仕える生活です。

自分自身を中心に据え、平面的な利益を追求できる基準を見つけ、さらには立体的な関係を築いて一つの中心を持つ基準を見つける必要があります。その後、家庭、国家、世界、宇宙的にも一つの中心とのつながりを持つ生活を送るべきです。このような利益をもたらす中心的な基準がなければ、私達人間は満足と幸福を得る事はできません。

歴史を担い、宇宙が追求する総合的な価値を持つその中心的な基準を見つけ、自己と生の関係を築かなければなりません。また、愛を中心に据え、力の根本と結びつけ、無限に受け入れ、無限に与え、周囲のすべての状況で証明できる存在にならなければなりません。

人間は長い歴史を通じて、自分を託す事のできる永遠に変わらない何かを探し求めてきました。私達は自分自身をそのものに委ね、永遠に神の愛を体験し、その愛を讃える事を望んでいます。したがって、人間は自分自身を永遠に保証できる中心的な存在を探しており、その中心的な存在は永遠の愛の主役であり、生命の主役であり、希望の主役でもあります。さらに、この主役は利益をもたらす生活の代表的な主役としても存在します。

しかし、このような利益をもたらす主役は心の願望と肉体の欲望を結びつけ、利益をもたらす主役であり、歴史を担い、宇宙的な全体性を負担し、代わりになる主役でなければなりません。もしあなたがこのような主役を見つけ、一体理想を築き、それを尊敬し、共に生きる環境を神的に構築できない場合、最終的には宇宙的な戦いと恐怖から逃れる事ができなくなるでしょう。

人間は堕落によって失ったこの永遠の中心的な基準を見つけ出し、それを追求しなければならず、この回帰の旅で戦いは避けられないものであり、個人から始まり、家庭、国家、世界に広がっています。この地上での平面的な戦いが終わった後、入念な戦いの時代が霊界とも戦う事になります。このとき、すべての人々は真の愛、真の命、真の希望の基準を見つけ、この試練と恐怖の時代を克服しなければなりません。

この愛、生命、希望の主役と永遠に共にいる条件を神の前に提示できない場合、すべての人間は恐れと審判の時を逃れる事はできません。

私達はまもなく、善と悪、右と左を判断しなければならない歴史の終わりを迎えるでしょう。そのとき、私達はどうすべきでしょうか? 私達は善と悪、右と左を判断できる基準となる一つの主役を見つけ、善悪の判断だけでなく、私達のすべての事がそれを中心に行われ、それによって私達の霊魂と肉体が一致しない限り、最終的な審判を免れる事はできないでしょう。

歴史上のすべての人々は、あらゆる価値の基準となるその一つの主役を望んで現れました。今、その望みが私達の目の前に達し、その一つの主役を中心に、歴史の前に全責任を果たした実績を示し、歴史に残るすべての人々の願いを実現し、さらには天の意志すらも達成できる存在であるべきです。

神の帰還の目的と人類の歴史は、一つの個人を中心に交差しています。この交差点は個人から国家、世界、宇宙に広がっています。したがって、あなたはあなた一人一人の生活が宇宙を代表する生活である事を認識する必要があります。

神は6千年間、あなたの内面を代表し、この交差点を越える存在を探しに来ました。しかし、もし神がそのような人を見つけて、あなたの内面を表現できず、そしてあなたの願いをこの一つの存在を通じて実現できない場合、神は常に超越神の立場に留まり、私達人間とは実体的な関係を持つ事ができなくなります。

人間は元々他者を思いやる事から生を始める中心とつながっていたが、堕落により、自己中心的な生き方に変わり、すべてを自己中心に考え、自己中心的につながろうとするようになった。

ですから、今、永遠の自由と平和を追求し続ける私達は、すべてを自分のためだけの事に結びつけようとする堕落を捨て、他者のために先になれる自己にならなければなりません。それによって、すべてが『私と他者の関係』を築き、永遠に進む事ができるようになるでしょう。キリストの神性と人性が実証的なものとして現れるために、すべての存在と他者との相対的な関係を築かなければなりません。

そして、このような関係は個人を超えて家庭、国家、世界、そして宇宙的に展開されなければならず、最終的にはこれらすべての包括的な関係は一つの中心的存在のために成立しなければなりません。このようにして、永遠に変わらぬその一つの存在の前で、私達の愛、生命、真理を捧げ、その価値である愛、生命、真理との関係を築き、それを受け継ぎ、感じる事ができる私達にならなければなりません。

この一つの存在、まさにその主役は、人間関係的な希望と天国的な希望、そして歴史的な生命と目的的な生命、歴史的な愛と目的的な愛を調和させ、結びつけてくださる方です。この方こそが再臨の主となるでしょう。

彼は6千年間、あなた方を探し求めている方であり、あなた方は彼の前に立つために真実的に、生命的に、愛に溢れてその資格を持たねばなりません。そして、この関係を宇宙全体にまで拡張し結びつけなければなりません。イエスは「私は道であり、真理であり、命である。」と言いました。それゆえ、私達一人一人が道であり、真理であり、命であるために、私達は宇宙全体を包み込み、共鳴する事ができるべきです。

個人、家庭、社会、国家、世界など、すべてを包括し、天の前に立つ事のできる方が、まさに '主' であります。彼は無限の希望を持ち、私達が想像できないほどの価値を持って現れるので、私達は不変の存在として宇宙的な目的を代表し、負う覚悟が必要で、最終的にはその方に立ち向かう事ができるようになるでしょう。彼こそが人間の愛、生命、真理の本質であり、私達も同じような愛、生命、真理を代表できなければ、あらゆるものの前に立つ事はできません。

このような立場を取るべきあなたの生活はどのようなものでしょうか?自己中心的に悩む人々がいますか?そのような人々は必ず目覚める日が来るでしょう。世界を足場とし、すべての事のために生きる人として、すべてを捧げ、すべてを捨てても喜びを感じるべきです。

あなたは、神の前に何かを捧げていますか?あなたの身体ですら宇宙に吸収される可能性がある事に気づくべきです。神はあなたが喜びをもって自分を捧げる事を望まれ、すべての創造物もそれを望んでいる事を知るべきです。


そのような存在にならなければ、何千年生きたとしてもすべての生き物と愛の関係を築く事はできません。完全に自己を忘れ、それにもかかわらず宇宙を所有している喜びを持つべきです。部分的であると同時に全体を代表したかのように、部分的なものを所有していると同時に全体的なものを所有したかのように喜ぶべき存在が、天には求められています。人々はこれまでに多くの犠牲を払ってきました。

つまり、この地で平和を実現した事はありません。しかし、あなたが神との関係を築き、彼の愛、生命、真理の価値を理解すれば、あなたは命をかけて戦う事になるでしょう。そして、それが無血革命の時代であり、宇宙的な永遠の平和を楽しむ時であるでしょう。その時を迎えるためには、すべてを捧げる事を知らなければなりません。

空白の場所は必ず埋められるものであるため、私達の一つの存在が自分の体を捧げるなら、その空白の場所には必ず他の何かが埋められるでしょう。今日まで、人類はこの事実を知らなかったのです。イエスも自分の体を捧げる事で、その空白の場所に十字架と救いの基準を設ける事ができました。





文鮮明先生の言葉選集 2 - 12. 神の正しい兵士になろう (1957年4月14日)
1957年4月14日(日)、前本部教会。
聖書拝読:テモテ2:1-13

<祈り>
東西の死の波が襲い、私達一人一人の生命の名前でこの死の波を止めなければならない最終的な責任が私達に残るとき、愛するお父様、私達自身が未熟で足りなく、不完全であることを認めることができるように許してください。

あわれみ深いお父様よ!私達の状況を考えず、むしろお父様のあわれみによって生きている私達の状況を許していただきたいと切に願います。

暗い死の地にとどまる私達、霊の力と恵みなしには、お父様に栄光を返すことはできないことを知っております。お父様、約束された恩寵をこの時許していただき、計画の全体の意志を示し、私達に示してください。

足りない私達、どのようにしてお父様の前に立つことができるでしょうか?どのようにして天に顔を上げることができるでしょうか?私達は何度死んでも十分な存在ですし、罪の枠に閉じ込められ、審判の苦しみを受けるべき人間です。そのため、私達はこの時、お父様のあわれみの愛を求め、お父様の恵みを求め、自分自身を裁きの心でひれ伏し、すべてをお父様に差し出し、間違いがあればすべてを清算していただき、許しを得てください。そして、お父様の心に従って、天に向かって大きな恵みを呼び求める私達に導いてください。愛するお父様、切に願い求めます。

お父様!ここに集まったあなたの息子達、娘達をあわれんでください。他人でないこの道を見つけ出すために、心に悲しみが染み込んでいた記憶も持っています。心配と不安に取り憑かれた時もあることを知っています。お父様、この日この場所に座り、他人でない場所かもしれませんが、あなただけが認めることのできる恩寵が降りるように許してください。あなただけが私達を支え、慰め、導いていただけるこの時間を許してください。愛するお父様、切に願い求めます。

お父様、この地に住む何千万もの人々がお父様の怒りを感じることができるように許してください。お父様の悲しみとため息を感じることができるようにしてください。そして、困難な状況にある多くの人々をあわれみの恵みで愛してください、父よ、切に願い求めます。

お父様、過去に私達は真理と主張する言葉を多く聞き、自分の行動が正しいと主張する人々も多く見てきました。しかし、それらによって天国が築かれたことは一度もありませんでした。今まで無駄な言葉だけを聞き、無駄な行動だけを見てきた私達をあわれんでください。そして、この夜の会合であなたの歴史が現れるように許してください。困難な私達の体をよみがえらせ、あなたが命じ、望む意志に向かって走る私達になれるように、無限の恩寵が今日、この場に集まった私達に現れるように許してください、父よ、切に願い求めます。

無知無識の人々の中で天国の悲しみを通じて通じる者がいると言うならば、父よ、たとえ彼が何千万回も悲しみと困難に直面しようとも、彼は確かに勝利するでしょう。ここに集まったあなたの息子達、娘達が、心と体であなたの悲しみを感じさせて、地上で心配するあなたの心情を感じさせて、子供の役割を果たすことができるように、どうか許してください。切に願い求めます。

お父様、この一週間、傷ついた体と心のまま、私達はお父様の前に立っています。悪魔によってもたらされた罪の痕跡を消してください。私達の友達はここに集まった家族だけであり、私達の唯一の頼みの綱も私達だけです。地上で友達を持たずに孤独な私達を、この時間においてあなたの愛に包み込み、慰め、導いてください。どうか許し、励まし、隠れていた愛の恵みを豊かに分かち与えてください、愛のお父様、切に願い求めます。

この日は聖なる日ですので、多くの祭壇で民族を代表して祝福をください。あなたの愛を失った多くの教団の子供達の中でも、あなたの愛を取り戻すことのできる子供達がすぐに現れるように許してください、お父様、切に願い求めます。

お父様、この民族は無知で破滅の危機にさらされないようにしてください。自己を爆発させ、悪の拠点を排除し、お父様の慈悲と愛だけを憧れることができる恩寵を、この民族の上に現してください、お父様、切に願い求めます。

私達はこの時間、あなたの前にひれ伏していますが、お父様に差し上げる贈り物はありません。お父様、どうか許してください。生きるための肉の欲望以外には何もありませんが、この時間に悔い改めの心だけを持つことを許してください、お父様、切に願い求めます。集まった全体の心と体が、お父様が分け与えてくださる意志と愛の恵みに捉えられるように許してください、切にお願いいたします。

主の御名によってお祈りします。アーメン。


<御言葉>
この短いメッセージのタイトルは「神の軍隊になろう」というものです。今、「神の軍隊になろう」というタイトルでお話しいたします。

神は人類のために、歴史の過程を通じて、私達が考えもしない内的な戦いと外的な戦いを繰り広げてきました。つまり、見えない世界ではサタンと戦い、見える世界では善と悪の人々と戦っておられます。

今、私達が天に向かって神の意志を探りながら、神の内面的な計画を理解する責任を負っているのであれば、私達は神の内外の闘いの歴史を神に代わって受け入れなければならないでしょう。そうでなければ、この包括的な闘いは神が望むように人間を通じて勝利に導かれないことを皆さんは理解すべきです。

私達が神の意志を代わりに戦う天の軍隊になるために、どのようにすべきでしょうか?最初に、神の望みを中心に据えた考え方で一致しなければなりません。

神様は6千年間にわたり、その目的を達成するために何をしているのでしょうか?それは、罪悪の世界で生きている私達を、神の栄光の座にまで上げるためです。神はその計画を実現するために、多くの預言者と聖徒を犠牲にしながら、自ら思い悩み、計画を進めておられることを、皆さんは骨身にしみるほど感じなければなりません。そうしなければ、私達は神の計画を理解できないでしょう。

では、神様が望まれる希望の中心、神様が人間に探していただきたい総合的な計画の中心は何でしょうか?それは、万民を高い位置に置くことです。このために神様は今まで努力し、進展されてきました。

罪悪に陥り、サタンの誘惑にとりこになった弱い人間を救うために、神様はご自身の苦難を忘れ、長い歴史の中で尽力されています。神様の希望は、私達人間が神様の実在として神様の性質を持ち、すべてのものを支配しようとする神様の意志を受け継ぐ真の一人を見つけて立てることです。私達はこのような神様の心情を体験しなければなりません。

神様の意志を受け継ぐ真の一人を見つけて立てることは、神様の望む計画の中心として、すべての人が最終的にこの中心を完成させるために歩んでいくものです。この総合的な計画が私達に残っています。したがって、私達は一生涯にわたって、この神様の意志に感謝し、その意志に対する忠誠心を変わらず持つべきです。

世界でも、誰かが友達の成功のために、または友達を栄光の地位に立てるために、生命をかけて困難を耐え忍び、努力する場合、その友達はその人を一生の恩人と考え、その人に対する感謝の気持ちを忘れないことでしょう。

神様は、私達人間が身の程知らずな存在であるにもかかわらず、人間に栄光の栄光をもたらすために、人間達が自分に代わって内的な闘いをした結果、または知らず知らずのうちに努力をし、苦労をし、歴史の過程を通じて尽力してこられました。このことを、皆さんは心身にしみるほど感じなければなりません。

したがって、神の内面的な戦いが、あなた自身の内面的な戦いと一致し、神の外部的な戦いが、あなた自身の外部的な戦いと一致する中心が、あなたに結びついている必要があります。そうでなければ、神の戦士にはなれないことを覚えておかなければなりません。

私達はこのように宇宙的な戦いをしている神の前で、無礼な行為を繰り返してきました。今日、あなたはあなた自身のためにはどんな犠牲でも払えるはずです。しかし、このような宇宙の存在や人間、または霊的な領域にいる多くの霊的存在のためにどれだけ犠牲を払ったでしょうかを反省すると、私達は自分達の不足を痛感せざるを得ないでしょう。したがって、私達が敵対的な運命を共有しているなら、内面的にも外面的にも、すべての存在とすべての人のために自己を犠牲にできる心情を持つべきです。

神様は、このような無知な人々のために地上で中心的存在としてお遣わしになった方が誰であったかを知るべきです。それはまさしくイエス・キリストでした。

神の内面的な計画を代表し、立ち上がったイエス・キリスト、彼の希望の中心、彼の生涯の中心は、ただ神だけを中心にしたものでした。言い換えれば、イエス・キリストは神様が多くの苦労をし、忍耐をされたその忍耐の心情を見習い、あなたの栄光のためには働かない神様のその公的内容を見習い、また戦いたくない神様の原則的内容を見習い、すべての存在とすべての人の前で神を代わりに愛し、天国の権威を持つことができ、現れることを願ったのです。

それだけでなく、イエス・キリストは自分自身が感じる喜びや自分の持つ希望、自分の受け取る栄光が自身だけのものになることを望まなかったのです。イエス・キリストは自分の希望と栄光がすべての堕落した人々に実現し、現れることを願い、その目標の達成のために30年以上も努力されたことを皆さんは理解すべきです。

したがって、私達は天国の建設のための戦いを担当し、現れたイエス・キリスト、天上の中心に来た新しいイエス・キリストの姿を見習い、イエス・キリストが持つ思想のすべてを私達の思想として受け入れなければなりません。

もし私達がイエス・キリストの愛を見習い、永遠に向かって前進しないのであれば、神が望む希望が私達に結びつかなくなるでしょう。この事実を皆さんは心に留めておかなければなりません。

このような天の戦士としての戦いの道を通って、歴史の終わりに達することが私達の運命の道だと言えるなら、私達はこの運命の道を歩みながら、さまざまな悪条件に直面しなければなりません。また、見えない多くのサタンの陰謀があるでしょうし、地上では多くの人々の反対に直面することになるでしょう。

しかし、これらの戦いの中で、私達が神が許される自律性を備えて責任を果たす選民であるなら、私達は外部的には思想的な統一性を備えるだけでなく、実際の生活の中でも、神が耐え、イエス・キリストが耐えたようにどんな試練にも耐え、克服する人々にならなければなりません。

一時間の喜びで私達の体を包む不安を乗り越え、魂が喜びで満たされる希望を持つべきです。一日の運命としてだけでなく、一時間の運命でも永遠に守っていくべきです。私達は神とイエス・キリストとの不変のつながりと同じ期待を持つことによって、不変の中心を不変の目標として持つべきです。それを実現するには、不変の忍耐心を持つことが重要です。

今、私達の前には困難な試練が残っており、これらの試練は避けられないものになりました。イエス・キリストがこの地に来て、30年以上もの間、自分自身を捧げてこの試練を克服するために、死すら厭わず証言し、立証しようとし、それを成し遂げるために自己犠牲を払ったことを私達は見習わなければなりません。

さらに、神は私達の一つの存在を見つけるために6000年もの長い年月をかけて、多くの苦難に立ち向かい、多くの悲しみを経験し、愛する独生子まで十字架にかけても敵との闘いを止めず、計画を遂行し続けられたその神の忍耐を見習わなければなりません。

また、イエス・キリストも、神が内外の苦難に耐えて出ていらっしゃった御旨を受け入れ、無限の困難に対する忍耐の主人公としての資格を備えていたため、十字架に向かう決意をし、その道を切り開いて進むことができたことを理解すべきです。

もし、イエス・キリストが十字架にかかり、その苦難に負けて卑屈で臆病な人になったなら、イエス・キリストの十字架の使命は私達に永遠の命の道を示すことはできなかったことを理解すべきです。

イエス・キリストは、神の全体的な計画を引き受け、4千年の歴史を代表し、天の戦士としての役割を知っており、自分の命を犠牲にし、死を越える難局があっても、すべての苦難を耐え抜ける個性の持ち主でした。


イエス・キリストが苦難に遭ったのは、神が意図的に彼に襲いかかった結果ではありませんでした。イエス・キリストは、神がご自身のために4,000年間努力し、忍耐し続けられたその気持ちを十分に理解していたため、生命を失うことや死の難局が迫っても、それを避けようとしなかったのです。

そうしたイエス・キリストを模篆(もはく)して、天の戦士としての使命を担う私達も、数多くの困難が押し寄せても、それを回避せずに耐え、克服できる人々にならなければなりません。今後、私達には多くの闘いを戦わねばならず、国家的な闘いもあるでしょう。

さらに、天の戦士としての使命もあるでしょう。これらの闘いに立ち向かう態度は、どんな困難な戦いが待ち受けていようとも、その戦いを私達に任せる神の心情を理解し、耐え抜き、克服する忍耐力を持つことです。そうでなければ、私達は歴史の戦いを通じて勝利する神の協力者としての資格を持つことはできません。これを念頭に置かなければなりません。

今日、皆さんはイエス・キリストを信じている自分達を徹底的に分析し、検討し、宇宙に残された困難の責任をイエス・キリストと同じように果たせる人間になっているかを反省しなければなりません。神の御心に従わなかった結果、多くの人々に苦難の使命を負わせることになったイエス・キリストは、自分の時代における宇宙的な苦難を克服するために自己を犠牲にしました。そして、苦難を後続の聖徒達に受け渡すことを防ぐために、自分でその苦難を引き受けたのです。

終末に臨む今、宇宙的な苦難と闘いが進行中であるとしても、歴史を担当し、後代の運命まで担当したイエス・キリストが自己の時代の宇宙的な苦難を苦しい闘いの末に克服したように、皆さん自身も宇宙的な苦難を担当し、すべての条件をクリアし、サタンが非難できるすべての問題を解決するという信念を持って戦わなければならないでしょう。そうできない場合、神の使命を果たす者として、栄光の勝者として、神の前に立つことはできないことを理解すべきです。

そして、私達は宇宙的な戦いに忍耐を持ちながら立ち向かうことができると同時に、自己を捨てることのできる人々であるべきです。今こそ、非常に忍耐が必要な時期です。自己を中心に置いた固執や主張は許されません。もし私達が持つべき主張があるのであれば、それは神の御心を実現するための主張であるべきです。

したがって、私達は天の軍団として立つためには、自己を捨てることを学ぶべきです。イエス・キリストはこの地に降りてきたとき、神から栄光を享受する権利を持っていました。また、人間として感じるあらゆる感情を抱き、栄光を求める感情も持っていました。しかし、神の御心が実現される前には、神が祝福される前には、そしてこの地上のすべての人々が祝福される前に、イエス・キリストは栄光を享受できませんでした。

そのため、私達は、天の軍団として永遠の勝利の土台を築くためには、自己を捨てることを学ぶべきです。イエス・キリストは自己のためではなく、神の前に立ってすべての人を祝福し、すべての人が幸せになる日を迎えるために来られました。彼はそのために自己を犠牲にし、生涯を捧げたのです。

最後の戦いで勝つために、イエス・キリストが自己を犠牲にし、公正のために戦ってきたように、私達も個人的なものを捨て、神が喜ぶ法を確立することで、神に受け入れられる供え物になる必要があります。そうでなければ、イエス・キリストの願いを受け継ぐ勝者として地上に立つ資格を持たないことを理解する必要があります。

神は今日まで内的にサタンと戦い、外的には悪人と戦っていますが、それは無礼な戦いではなく、法に違反する戦いではありません。言い換えれば、神は天理法に背いて戦わないのです。同様に、イエス・キリストも天理法に背いた戦いはしませんでした。

したがって、終末に宇宙的な戦いを戦う際にも、天の法律を知っていることが重要です。この法律を中心に戦える人々となる必要があります。

あなたはおそらく知らないかもしれませんが、サタンも同様に無礼な法律を立てて、天理から逸脱した戦いはできないのです。したがって、回心の条件を設けてサタンと戦う際、人間が神の意志から逸脱すれば、サタンは非難することになります。それはイエス・キリストにも例外はありません。法律から逸脱した場合、サタンが非難するということです。

回心の戦いを通じて進む皆さんにとって、天の法律を確実に理解しなければ、神とイエス・キリストに代わる正兵として勝利の栄光を迎えることはできません。イエス・キリストの没後の2000年のキリスト教の歴史がこれを証明しています。

イエス・キリストと聖霊は、神の内なる計画に従って、天の法の条件を設定し、霊的にサタンと戦っています。しかし、地上の人々の中には、このサタンとの戦いで天の法に従って立ち向かい、神に認められる勇者がいないのです。つまり、この戦いにおいて、天を代表し、イエスを代表して天の法に従って戦う唯一の人物はいないため、イエス・キリストは嘆いているのです。

イエス・キリストが神の内面で何が起こっているのを理解できたのは、神がサタンとの戦いを40年間委ねられたためです。この戦いをイエスと聖霊が他の誰よりも深く理解しているからです。

したがって、イエスが霊的な戦いに取り組んでいる間、肉体的な外部の戦いは地上の聖徒達に委ねられています。したがって、この戦いを担当する私達は、イエスと神がサタンに対して天の法に従って勝利の条件を設定できるように、天の法に従って戦うための勝利の盾を持つ必要があります。

そうでなければ、神と人々はサタンとの戦いで永遠の勝利を収めることができません。また、あなた自身も約6千年間、見えない世界で神の法に立ち向かい、サタンの力に対抗する方法がないことを理解する必要があります。私達がこのサタンを阻止できない場合、地上のサタンとの戦いで最終的に敗北することを理解しなければなりません。

したがって、私達は神がサタンに立ち向かうために用いられ、イエス・キリストと聖霊がサタンに対して戦った天の法の条件を見つけて、それに従ってサタンと戦う基準を持たなければなりません。そうすることで、私達はついにイエス・キリストが耐え続けた気持ちを理解し、イエス・キリストの公的な生涯を体験することができるでしょう。しかし、サタンとの戦いにおいて天の法に従って戦える者にならない限り、まず神は私達を認めないでしょうし、さらにサタンから認められることはありません。

私達人間は、サタンが自身の敗北を認める日を地上にもたらし、この戦いを終結させなければ、6千年にわたる外部と内部の闘争が完全に解決されないことを理解しなければなりません。

私達が天の国を代表して立ち上がるための神の戦士であるならば、そのために必要な武器があります。この武器は暴力を行使する力や権限ではなく、神が人間を彼ら自身と同じ栄光の地位に上げて与える言葉です。ですから、あなたはこの言葉の武器を持ち、その言葉を取り込むべきです。そして、変わらない信仰をもってサタンすら認めることのできる勝利的な個性を持つべきです。これらのことを持っていない場合、私達が宇宙的な戦いを担当する神の戦士になることはできません。

さて、この戦いに立ち向かう皆さんは自己を省みて考えるべきです。それは、皆さん自身が6千年にわたる歴史を代表し、すべての困難を克服する資格があるかどうかです。また、皆さんはあらゆる自己中心性を捨て、神の義の法を立てて、義ではなければ行動しない者としてサタンに立ち向かえるかどうかです。

皆さんは、天を代表して戦って勝利する条件として、天の法的基準を持たねばなりません。これによって、自己を誇示しませんでしたが、見えない世界のサタンが最初に自分の勝利を証明できる神の子供となり、皆さんの対抗者である悪人達が逆に皆さんを神の子供として証明できるようにならなければなりません。それらの人々がなることで、長い戦いの経歴から抜け出し、神の栄光にふさわしい資格を持つことができることを皆さんは理解しなければなりません。

私達は神から召命を受けたとしても、神が私達一つ一つを召命したのではありません。それは宇宙的な人格を持つ者になることを望み、私達を召命したのです。そのような姿を持つ人間を見つけるために、神は6千年にわたって歴史し、統制してきました。

今日、これらの神の計画を理解したならば、皆さんはサタンとの宇宙的な戦いで前線に立つ人格を持たなければなりません。

そのような人格を持った後、皆さんは実生活で家族を天国の家族の位置に立て、さらに国民を意義の前に立て、さらには世界人類と千千万万の聖徒達を代表して出現できる姿として立つべきです。そのような天律の不変の法則を持って、天国建設のために働かなければならない責任が皆さんにはあります。

特に集まった皆さんは、神とイエス・キリストに代わる責任を負っています。この責任は何でしょうか?この世界には数多くの生命が存在し、その中でサタンの束縛から解放されずに苦しんでいる人々がいます。皆さんの責任は、神が望むように、これらの人々をサタンの束縛から解放し、永遠の神の子供にすることです。したがって、皆さんは身体と心を捧げて、これらの苦しむ人々を解放し、神の栄光の場所に昇華させるために戦わなければならない責任を持っていると確信し、一時間ごとに父の前に差し出す子供にならなければなりません。

一方、すべての被造物も、これまでの6千年間の闘いの歴史が終わり、神の栄光を受けた真の子供達が現れるのを待っています。皆さんはこれらの被造物の心情を感じなければなりません。そして、皆さんが神の栄光を達成するとき、その栄光の場所にすべての被造物も参加するべきです。

さらに、皆さんは霊的な世界にいる多くの霊的存在がため息と悲しみの中にいることを感じ、皆さんが勝利の基準を確立することで、彼らも勝利の基準を確立できるようにする恩恵を受ける必要があります。皆さんが永遠の勝利の基準を確立するまで、彼らの責任を担えるべきです。

皆さんは、このような責任を果たす神の子供にならなければなりません。皆さんが責任を負う前に、このような責任を負った方が神であり、この闘いを展開している方がイエス・キリストです。したがって、召命を受けた私達全員が、彼らに似るためにこの仕事に取り組み、神の子供としてこの宇宙的な責任を担い、この闘いで勝利するためにできる限りの努力をしなければならず、天の軍人としてこの宇宙的な責任を遂行できることを自覚しなければなりません。

この責任を果たすために、皆さんは無限の忍耐が必要です。 「たとえイエス・キリストが耐えないとしても、神様が耐えないとしても、私は耐え続けるでしょう」 という覚悟を持つべきです。

神様とイエス様が公正な律法を確立するために戦っているように、私達も一切の体面やプライドを軽視し、ただ天の律法を確立する責任感を持って立つことができる天の兵士としての責任を持つべきです。このような天の兵士が多く現れない場合、サタンを打ち倒すことはできないことを認識しなければなりません。

今日、この使命のために神様から選ばれた人々がすぐそこにいます。したがって、私達はサタンによって苦しむ多くの人々を神様の前に立てるために、耐え忍ぶ道でも死ぬ道でも何の条件にも恐れをなさず、ただ天からの命令に従順に立ち上がる真の兵士であるべきです。私達がこのような天の兵士とならない限り、私達は選ばれし者としての責務を果たすことができず、この地を永遠の勝利の地として回復することはできないでしょう。

私達が天の兵士として勝利することによって、神様は永遠に喜び、イエスと聖霊も永遠に喜び、私達も喜ぶことができる平和の時代がこの地に訪れることを覚えておかなければなりません。

<祈り>
 神様、あなたは善悪の司令官であり、唯一無二の私達の最高司令官であることを感じさせてください。6千年間にわたって変わることなく闘い抜いてこられた父様のか達を似せ、またイエス・キリストの情熱の歴史を見習い、あなたの体面を確立できるような私達の聖徒となることを許してください。

本日、戦いの過程に留まっている私達は、自分を中心に置いた神様になってもらうことを望み、自分を中心に置いたイエスと聖霊になるように祈ります。愚かな者としてのままでいないように目を覚まさせてください。

私達は天の戦いを代表し、その戦いで勝利できる天の兵士として現れなければならないことを理解しています。どの民族を中心にする兵士やどの世界を中心にする兵士としてではなく、永遠の天国の理想、変わらない愛、天の御心のために不変の悔い改めを守る天の兵士として許してください、父様、切に願います。

6千年にわたって耐え忍んでこられた父様が私達に命令を下すとき、私達があなたの心を理解できる価値のある人格者にならない限り、あなたが私達に命令を下すことはできないことを、私達はこの瞬間に知るべきです。

2千年間苦労されたイエス・キリストも、真実であり、公義であり、律法に背かない、天を代表できる不変の姿を持たない資格者ではなければ、直接命じられなかったことを、私達は知るべきです。

今、私達に残された宇宙的な願いがあるなら、それは私達が宇宙全体の責任を担う兵士になって、すべての被造物を解放し、人々を幸せにすることを知らせ、神の命令を受けて責任を果たし、その使命感に熱中できるようにしていただき、父様、切に願います。

私達は天の意志をこの地上に建てるために、天の律法を知り、宇宙の戦いの律法を理解し、変わらず中心となって、永遠の神の理想と栄光がすべての被造物に現れるまで、変わらず休むことなく、ただ闘うことしか知らない子供達になるように、お願いします、父様、切に願います。

すべてを超越し、父様の喜びと栄光のためにだけ死の道であろうともためらわずに進む天の兵士として導いていただくため、主の御名によってお祈りします。アーメン。



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御言葉選集2(8, 9)

2023年10月14日 15時06分15秒 | 学習
「文鮮明先生の説教集 2 - 8. 天国の鍵を私達は持たなければならない」
1957年3月31日(日曜日)、本部教会。マタイの福音書 16:13-20

<祈 祷>
今日、私達の前に現れたイエス・キリストの姿、神を代わりに示された方が、この場に集まった皆さんにも現れるように許して下さい。主よ、お与えいただいたみ言葉が、私達の心と魂の耳を通して聞こえるこの瞬間を許して下さい。イエス様のお言葉は、その時だけに関連するものではなく、今日の私達とも関係がある、歴史を超えたお言葉である事を悟らせて下さい。
ペトロに感じられたイエス様の優しい心情を、この瞬間私達も理解できるようにして下さい。ペトロがイエス様の心を知り、応答した時に、天の全体の計画を受け継ぐ事ができたように、今日この場に集まったあなたの息子と娘達も、お父様のみ言葉を伝える方の心情を理解し、思いやりのある場でみ言葉を聞き、み言葉に忠実に従えるように導いて下さい。
その時、神様が私達に全体の計画と復活の使命を引き継がせてくださる事を知らせ、また、み言葉を私達が聞く際に、み言葉を与える方の内なる心情を理解できるように許して下さい。神様の心情を理解するために、み言葉を理解する私達になるように、お父様、熱望しており、願っております。
今日お分けになるこのみ言葉が、私達と関係を築けるみ言葉となるように許して下さい。ペトロが「あなたこそがキリスト、生ける神の子です」と証言したように、私達も主を見つめ、喜び、主を証言できるように許して下さい、愛するお父様、熱望しており、願っております。
永遠にお父様のみ言葉と調和できる自己であり、お父様の前でも、主の前でも、聖霊の前でも、すべての被造物の前でも不足しない姿で現れる事ができるように、私達自身を見つめる助けを与えて下さい。
お父様、この瞬間に集まったすべての兄弟姉妹の心を導いて下さい。心と心が一つとなり、一つの祝福を共有でき、心と心が一つとなり、一つの愛を感じる事ができる全体的な歴史がこの瞬間に現れるように許して下さい。切望しております。
これまで持っていた私達の従来の考えを捨てる助けを与え、能力のあるお父様が私達を受け入れてくださり、復活の歴史が明らかになるように許して下さい。自己に従順できる心、自己を悔い改められる心、自己を悔い改められる心を持つようにして下さい。この瞬間に語る者と聞く者の心が一つになるように許して下さい。切望しており、願っています。
この瞬間に集まった私達を混乱させるためにサタンが行っている事を知らせて下さい。恵みの雰囲気が漂う場所ですが、常にサタンが狙っている事を知り、恵みが大きければ大きいほど、それに応じてサタンの行動も大きい事を知らせて下さい。久しぶりに参加した家族の中でも、たとえ一つの命でも、敵であるサタンを容認しないように許して下さい。切望しており、願っています。
お父様! 6千年にわたり、自分の側に引き寄せようとするサタンに誘惑され、憎しみを抱いた祖先達と同様に、私達もサタンに引き寄せられ、憎しみを抱かないように守って下さい。
ため息を繰り返す自分自身にならないように許して下さい。私達が原因で後継者達がため息をつく事がないように、自己保護できるこの時を許して下さい、お父様、切望し、願っています。
自己の体を謙虚に保ち、他の人と調和できる柔和な心を持ち、お父様にすべてを明け渡し、憐れみの恩寵だけを求める心を持つ事を許して下さい、お父様、切望し、願っています。すべてを委ねましたので、この時、お父様の御心だけを示して下さいとお願い申し上げます。主の名により祈ります。アーメン。

<御言葉>
皆様にお伝えしたい言葉のタイトルは「天国の鍵を私達は持たなければならない」です。今回、このタイトルで皆様にお話しいたします。
この地上の人々はこれまでに天国を望んできました。歴史の進行に従って、人々は環境的にも世界的にも、あらゆる面で天国の理想がこの地で実現する事を望んで生きてきました。また、神も天国が成就する事を望んで計画し、出てこられました。したがって、私達が実現すべき天国は神の望みであり、同時に人間の望みの中心でもあり、すべての被造物の望みの中心でもある事を理解しなければなりません。
しかし、永遠の理想である天国の中心であり、永遠の希望の中心であるのにもかかわらず、私達はむしろ自分達を嘆かなければならない立場にいます。
このように、私達と天国との距離が遠くなるほど、私達は天国に反対する邪悪な要素に浸る事になり、善の理念を尊敬しても、その理念は私達と関わる事ができなくなり、愛の本質を尊敬しても、私達はその本質と関係を持つ事ができなくなります。さらに、こうなると善を行おうとする願望が熱心であっても、天国との関係を持つ事ができなくなります。
このように、天国は神を中心とした世界であり、私達は天国を築くためには神との結びつきを持つ必要があります。また、神も全ての世界と調和できる天国の理念を達成するために計画しており、それには人間との関係も必要です。
しかし、私達が希望する天国は遠く、私達が住んでいる世界は罪と邪悪の世界であり、私達は神との関係を持ちたいと願っても、その能力を持っていません。
しかし、私達が神との関係を持ち、天国が実現する事を望むなら、天国と私達の結びつきは切り離す事のできない運命的なものであり、私達の時代や場所に限定されたものではなく、永遠のものです。人々が常にそのような天国の理念と理想を感じている事から、神を中心にし、永遠の天国がすでに私達との結びつきを持っていた事が分かります。
イエス・キリストがこの地に来て30年以上にわたり、涙を流しながら苦難の道を歩みながら語りかけた目的は何でしょうか?それはまず、人々に神との結びつきを回復させるためであり、次には人々に天国を紹介するためでした。
イエス・キリストは天国を紹介する際、真実としてその言葉を伝えました。つまり、真実として天国を紹介しようとしていました。神は、人間と永遠に変わらない結びつきを持つための言葉、この地に天国の理念を築くための言葉を、イエス・キリストを通じて人々に授けました。真実を通じて神と人間の関係を回復し、真実を人々に示すためにやって来たのです。したがって、神と人間の関係を築くために来られ、真実の言葉を宣言し始めたイエス・キリストは、神と人間、そしてすべての生き物が望む天国を築くために真実の言葉を宣言し始めたのです。
しかし、イエス・キリストは神と人間の結びつきを回復するために真実を宣言しても、真実と結びつくべきイスラエルの民はイエス・キリストを信じなかったため、イエス・キリストの宣言の目的は達成されなかったのです。これからも、イエス・キリストが宣言した真実の言葉が100%人々に伝わらなかった事が分かります。それは当時の人々がイエス・キリストを信じなかったため、イエス・キリストは彼らに真実を比喩や象徴的に、または含みのある形で紹介するしかなかったからです。したがって、この地に住む多くの人々は、歴史の進行に従って隠された真理の扉を見つけ出すために多くの知識を駆使してきたのです。
今や歴史の終末が近づいており、人々が内外から探し出してきた霊的なものと真理が出会う時が来るでしょう。また、多くの人々がイエス・キリストを信じる真の信者となり、イエス・キリストの心に隠されていた真理も完全に紹介されるでしょう。
したがって、天に向かって進む皆さんは、現在どの道に進んでいるのでしょうか?これまで外部の真理と内部の真理は異なる方向から確立されてきましたが、今はこれらの真理が一つの焦点を中心に一体化できる時です。このように、真理を中心にした神の計画は、歴史の進展に合わせて補完されてきたのです。
では、これまで人々が望んできた再創造の歴史が完結すると、何が起こるのでしょうか?まず、全ての生き物と人間が望む天国の理想を実現できる宇宙的な結びつきを持つ真理の中心が現れます。そして、その中心を持って天国が建設されるのです。もしもそのような真理の中心が現れない場合、神の全体的な天国の理念は実現されないでしょう。
その後、真理の中心による真理の運動が起こり、真理が発見されると、どのような運動が起こるでしょうか?それは生命の運動です。この生命の運動は、生命を中心に据えた統一の歴史として、一つの天国を実現できる天的な力の中心として表れ、このような世界に全ての生き物を導くでしょう。
このように、真の真理が現れた後、統一的な生命の運動が起こり、この運動の後に統一された愛の世界が実現されるでしょう。そうでなければ、私達が望む天国は建設されないでしょう。
では、私達が望むその希望の天国はどのような世界でしょうか?その世界は神が楽しむ事ができる場所であり、イエス・キリストと聖霊が楽しむ事ができる場所であり、無数の聖徒が楽しむ事ができる場所です。同時に、すべての生き物が調和する事ができる場所です。それゆえ、その場所は愛を中心にし、調和する世界であり、生命を中心にし、調和する世界であり、真理を中心にし、調和する世界なのです。これを理解する必要があります。
したがって、神はそのような天国を建設するために最初に人間を通じて起こした運動は何でしょうか?それは真理の回帰運動、すなわち言葉を通じた真理の回帰運動でした。言葉を通じて真理の回帰運動が起こる必要があるのは、言葉を通じてのみ生命の歴史が進行し、生命を通じてのみ愛の運動が現れるからです。
アダムとイブが堕落したときも、言葉を信じなかったために堕落しました。言葉を信じなかったために、言葉の根源である生命と、生命の根源である神の愛を失ったのです。これがアダムとイブが誤った事です。したがって、アダムとイブが犯した誤りを宇宙的に、また全体的に清算しない限り、私達が望む天国、私達が求める理想郷は見つける事ができません。
このような目標を達成するために、長い年月をかけて父、子、聖霊が行動してきました。この三位一体の神のうち、聖霊は人々を真理に導くために行動しています。それゆえ、聖書に「真理の霊が来ると、彼はあなた方を真理のあらゆる点に導くでしょう...」(ヨハネ16:13)と書かれています。このように、聖霊は真理の使命を担当し、行動しています。
聖人イエスはどのような使命を担当していますか?それは生命の主人公として行動しています。そのため、「私は道であり、真理であり、命である。わたしを通じて来ない者は、父のもとに行く事はできません。」(ヨハネ14:6)と言われています。
イエス・キリストはこのような生命の目的を設けるために現れました。では、私達が真理を通じて生命を見つけるために最終的に見つけなければならないものは何でしょうか?それは愛です。私達は聖霊の愛、キリストの愛、そして神の愛に到達しなければなりません。この観点から、三位一体の性格を象徴的に表現すると、父は愛、子は生命、聖霊は真理で表現できるでしょう。
したがって、イエス・キリストが「あなた達は私を誰だと思いますか?」と尋ねたとき、ペテロは「あなたはキリスト、生ける神の子です」と答えました(マタイ16:16)。ペテロのこの答えは、イエス・キリストの真の性格の実在性についての発言であり、それはキリストとして油注がれた方、生ける神としての方、肉体と心を持つ実在体であるという言葉です。
ペテロがイエス・キリストを生ける神の子と述べた事から、私達はペテロがイエス・キリストの内面の気持ちだけでなく、神の全体的な内面の気持ちを知り、神の律法を通じて判断の基準を持つ事ができる事がわかります。したがって、イエス・キリストはこのようなペテロに天国の鍵を託したのです。神と人間と全ての生き物を象徴的に表現すると、神は愛、人間は生命、そして全ての生き物は真理で表現できます。
では、真理の鍵を持つ私達はどのように真実を見つけるべきでしょうか? 何よりも、イエス・キリストと聖霊、神の心に合致する真理の鍵を持つ必要があります。この鍵を持たなければ、肉体の成長はできません。また、真理の中で聖霊との関係を築く事はできません。
今まで信者達が真実を見つけるために苦闘してきた目的は何だったのでしょうか?それは天国の鍵を見つける事でした。そのためにはまず、真実の鍵を見つけなければならない事を理解する必要があります。今日、この世には多くの真理があるように思われますが、天国の真理の扉を開く事ができる真実の鍵を持つ真実はありません。
もしもこのような真理を持つ人がいるのであれば、この真理を知る者には自然に神の愛が注がれるでしょう。そして、私達の中で誰かが神の真理を中心に据え、神の生命と神の愛が注がれる場所に留まるなら、全ての生き物はその人を除いては神との関係を築く事ができなくなります。
したがって、ある存在が神を通じて真実を持ち、神を通じて生命を持ち、神を通じて愛を持つ中心に立つと、彼は全ての生き物の希望の中心であり、神の望まれる希望の核心の存在となり、全ての生き物はその中心の存在から離れなくなります。
この基準から神の真理を語るならば、神の実在の生命を証明でき、実在の神の愛を示す事ができ、実在の神の真理を表現する事ができます。この意味で、イエス・キリストが「私は道であり、真理であり、生命である」と言われたのです。
神はあなたの望む天国を実現する中心的な存在を設けるために歴史を進めてこられました。ですから神によってこの地に立てられるその方は、まず神の真理、生命、愛を受け入れるでしょう。そして次に、愛、生命、真理の実体として立つ事になります。このように神の愛と真理と生命を中心にした人間の基準を完成させるために、神は長い歴史を経てきました。
もしも皆さんが体と心が一体となった実体として神の代理として現れるそのような中心的な存在になれなければ、皆さんは神が築こうとしている天国とは何の関係も持たなくなります。そして、この地の諸民族が望む天国、生き物が望む天国は決して築かれる事はありませんという事を皆さんは理解するべきです。
今日、私達は多くの真理が存在し、多くの生命が存在し、多くの愛が存在するかのような、つまりこれもあれもが同じようで、混乱の時代を生きています。それでは、このような時代に生きる私達はどのようにすべきでしょうか?
今、皆さんは自分自身を全ての生き物の前に晒す時が来たのです。それを晒す前には本性を回復し、成長させる事はできません。皆さんの心の中に悪の要素があるならば、今が実を結ぶ時であり、その悪の要素をそのまま晒し、取り除かなければなりません。その時から新しい出発が始まるのです。そして善の要素があるならば、それを通じて神との関係を築きながら、本性を成長させるためにますますその善の要素を追求し続ける必要があります。それをするためには努力が必要です。
しかし、時が終わりに近づくにつれて、私達人間は探したいものが増えます。つまり、地上のすべてを知りたい、所有したい、すべてを成し遂げたいという欲望が自然と増えるのは、認知が発達し、理性と知恵が高まるためです。
このような状況に直面した私達は、まずすべての人を尊重する人になるべきです。その後、本性の心を持ち、自分自身が地上のどんなものとも交換できない尊い実体であり、すべての生き物と交わりながら自己満足できるようになるべきです。このような心を持つ者こそ、イエスが望まれた復活した人であり、天国の住民と言えます。
終末に立つ私達、審判の日を前にする私達にとって、問題となるのは私達の実績や栄光、理想ではなく、心を中心にして真の自己を見つける事が問題です。
いつか内面の真理は必ず現れ、内面の生命と愛も必ずこの地に現れるでしょう。しかし、人間はこれまで、真実の真理、真の生命、真の愛を区別する事ができない無知な存在である事を知る時が来たとき、他の方法がないので、自分の持っている知識の枠組みで探そうとし、自分の持っている生命の感覚で感じようとし、自分の持っている愛で評価しようとしてきましたが、区別できなかったのです。
同様に、終末に真の真理、生命、愛がこの地に現れても、人々はそれを見分ける事はできません。あなた方は、知識を追求する前に、まず本質を理解するための努力をする事を知るべきです。
そのため、終末に立つあなた方は、頭に油を注ぎ、密室に入り、世俗的な関係と結びつきを断ち切り、心で神と結びつかなければならず、生死の判定を下し、真理の灯りを照らして、「愛の行進を続けるため、すべてを私の永遠の生命、真理の中心、愛の中心として立てた。」と神に誠実に告げる、神の子供にならなければなりません。そうでなければ、天国は私達と関係を結ぼうとする事はできません。これは天の法則がそのようになっているためです。
電流が極から極へ流れると思っているかもしれませんが、実際には極から極へ流れています。天地の本質がそのようになっているため、万物も神に向かって進み、神と結びつくようになっています。したがって、神と人間の断絶されたつながりも、神の側から最初に続けていただけないのです。それゆえに神は私達を迂回して私達を押し進める立場に立たれたのです。
イエスと聖霊が働いており、いますが、あなた方の前に来て引っ張る役割は果たせません。押し進む愛をしており、その愛を受け入れる必要があります。これは見えないため、人々はよく理解していない事です。
現在は終末が近づいている時であるとしても、焦らずに心を落ち着かせるべきです。その時、どれほど生活条件が良く、他の人に嫉妬する事がないほど繁栄している立場にあっても、それに反比例して心の苦しみが増大する事を理解すべきです。
では、終末が近づいている今、どのようにすべきでしょうか?宇宙の中心が現れるとき、あなた方はその到来に備える心の準備をしなければなりません。つまり、宇宙の中心であり、基点であるキリストをあなた方の心に受け入れなければなりません。
あなた方がキリストを実際に心に受け入れると、キリストの内部で感じる気持ちは永遠の命の柱となり、永遠の真理の礎となり、愛の旗を掲げる拠点となります。真理の中心は他の場所にあるのではなく、私達の心の中にあるものです。
あなた方の中で主の心を持ちたいと思う人はいますか?十年にわたる負担を一瞬で捨て、一生をかけて築いたすべての努力を一瞬で放棄できる覚悟がある人なら、終末の審判の恐れを乗り越える事ができるでしょう。私達の師も他の場所にいるのではありません。天国も別の場所にありません。私達の心が真理の師です。イエス・キリストよりも近いのは私達自身の心である事を理解しなければなりません。
たとえ私達に何もなかったとしても、宇宙の神秘と歴史的な伝統を代わりに真理を持って生きるとき、神は私達の心に宿り、喜ばれ、私達も喜びます。私達はその真理を持つために努力しなければなりません。そうでなければ、神を礼拝できないでしょう。神の視点から宇宙のすべてを捉えると、宇宙の生命、真理、そして愛を感じる事ができるでしょう。この事実に気づくと、あなたはその位置から真理の究極の内容を理解し、生命の本質を理解し、愛の理想的な刺激を感じる事ができるでしょう。
そして、私達がイエス・キリストから受けた福音、イエス・キリストが教えた真理、イエス・キリストの生命の要素を確実な心の基盤として受け入れると、どんな宇宙的な邪悪な要素が侵入しようとも、それを排除する事ができるでしょう。そうできれば、私達にはため息や苦しみが問題になりません。また、私達自身にため息や苦しみが残っていても、私達はそれらを克服できるでしょう。
神の生命と神の愛を排除できるものはこの地上には何もありません。そして、私達が真理に近づくほど、真理に没頭するほど、その真理はますます取り戻す事のできない中心になるでしょう。何度も混乱する地であっても、宇宙が突如として破壊されようとも、そのような中心を確立した人は絶対に変わる事はなく、動揺する事もないでしょう。
しかし、あなたがそのような中心を心に受け入れる準備ができていない場合、どんなに真理が現れてもそれを知らず、真の生命が現れてもそれを知らず、真の愛が現れてもそれを知らなくなるでしょう。この観点から見ると、今日のキリスト教が真理、真の生命、そして真の愛を追求するなら、最後まで自己を捨て去り、誰も奪う事のできない心の中心を確立する宗教でなければならない事がわかります。
これまで地球は新しい大陸が発見されてますます広がっていると思われていましたが、逆に日が経つにつれて狭く感じられています。言い換えれば、文明が発展していない時代には世界は広く感じられましたが、歴史が進行し文明が発展するにつれて、世界はますます狭く感じられるという事です。こうした事象を見ると、真実の歴史を経て成し遂げられる理想的な世界は、すべてが直接的な関係を持つ宇宙的な時代である事がわかります。したがって、あなたの心に結実しなければならない天国の基準、すなわち天国の生命と天国の愛は、あなた自身から結実しなければなりません。
真理と生命と愛は同じ家庭のようなものであるため、真理には必ず愛と生命が伴うべきであり、愛にも生命と真理が伴うべきです。生命を見つめるときも同様です。そこにも愛と真理が伴うべきです。
真理と生命と愛がなぜこれほど結びついているのか?皆さんが知っているように、存在するためには必ずしも中心を持ち、上下、前後、左右がある必要があります。存在するものは、何であれ、これらの3つの領域から逃れる事はできません。
これが存在の基本的な形です。このように3つの要素が結合して統一的な形を成していますが、力が逆順に進行すると本来とは異なる力の作用が現れるのです。したがって、もともとは愛と生命と真理の一神であるにもかかわらず、堕落した後、人間が愛と生命と真理がバランスの取れた三角形を形成できない場合、神は調和を実現できなかったという事です。これを理解する必要があります。
しかし、アブラハムを選んで3つのポイントが連結し、すなわち3つのポイントが一直線の形を取る事により、神が立つための基準が設けられました。そして、イエスと聖霊が愛と生命と真理を代わりに表すとき、その基準は方向性を持って地上とより近くなる事ができました。
言い換えれば、直線上に滞在しているときは遠くにいるが、曲線を形成すると距離が近づくという事です。この意味で、イエスと聖霊は神と人を結ぶ橋の役割を果たしているのです。
天国への回帰運動での重要な点は何か?それは神の恩寵に直接触れられなかった人々が、イエスが来られる事によって神と人の直線的な関係が曲がり、神の恩寵に触れる事ができるようになった事実です。
そして、イエスは私達に神が遂行できる実質的な内容を持たせ、人々を神と一体化し、神の外的な作用体となる事ができるようにしました。これを実現するために来られたのがイエスです。この事を考えると、遠くの場所から天国の理念を見る必要がある人々にとって、前後、左右、どこにでも近くにいるイエスと聖霊の愛は宇宙的な福音であるに違いありません。
誰もが宇宙の中で最も貴重な力を抱えるようになると、宇宙の原則に従って宇宙の力と調和できる生命の力がその人に訪れるものです。そうして、その希望的な生命体として、四方向をつなげる愛の感覚を感じる事ができるようになります。愛は互いを調和させ、統合体を形成する作用をもたらします。
したがって、これまで真理の神として現れていた聖霊、生命の神として現れていたイエス、そして愛の神として示されていた神を遠くから見てきましたが、今後は私達の心に受け入れなければなりません。それでは、どのようにして聖霊とイエスと神を私達の心に受け入れる事ができるでしょうか。これが問題です。
神とイエスと聖霊をあなたの心に受け入れるには、自己中心的な頑固さを捨てなければなりません。あなたはこれまでに自己中心的な頑固さを持つ傾向が多かったかもしれません。これがあなたの敵です。あなたはこれを悔い改める必要があります。今日まで、人々は敵が外にいると考えてきましたが、最大の敵はあなた自身であり、あなたの家族です。
私達はどのみち私達に与えられた運命の道を歩まなければならないため、私達は自己中心を超えて環境を通じて国や世界を越えて天国とのつながりを築かなければなりません。私達はこの道を生きて歩むべきであり、それができない場合でも死ぬべきです。何百万年かかっても、私達は運命の目的を達成するために進むべきです。
このような運命からどのように逃れる事ができるでしょうか?この地上で、私達は責任を果たさなければなりません。そして、あなたの中にはまだ何らかの悪意、嫉妬、妬みが残っていますか?それらが残っている場合、自身の罪を決して贖う事はできず、そのような運命から逃れる事はできません。それでは、イエス・キリストは30年以上の間、何をしていたのでしょうか?木工師の家庭で育ちながら、初期の段階で言葉のない生活を送ったイエス・キリストでした。彼は何の闘いを繰り広げたのでしょうか?イエスはマリアの家庭でヨセフを助け、その家計を支える生活的な戦いをしましたが、これは生計のための戦いではなく、自己内部で自己を完成させるための戦いでした。ヨハネの福音書を見ると、イエス・キリストは人の意志によって遣わされたのではなく、神の意志に従って遣わされた事が分かります。
今、復活しようとするあなたに対抗する敵であるサタンを防ぐ武器を持っていますか?これは重要な課題です。しかし、あなた自身ではそのサタンを防ぐ事はできません。あなた自身は無力なので、常に危機にさらされる事になります。
そんなあなたが今、どのようにして敵の侵略を防ぐ事ができるでしょうか?イエスと聖霊を通じて、敵の侵略を防ぐ事ができます。イエスと聖霊はあなたを支援するだけでなく、あなたが独立を望んでいる事を望んでいます。そして、イエスと聖霊はあなたを通じて天と地を結びつける事を願っており、今日の人々がそれを実現できない事に悲しんでいます。
すべてが統一されると、宇宙全体が人間を中心にし、前後、左右、上下の関係を築く事ができ、人間を解放する事ができるでしょう。しかし、人間がこれを達成しないために、天敵の敵意は現在も天と地に満ち溢れているのです。あなたが感じるべきものがあるなら、それは天敵の敵意です。そして、あなたはそのような敵意を解消するために罪と闘わなければならないのです。すべてを捨てなければならない時が来るでしょう、それが終わりです。
そのような終わりに神の意志はどのように現れ、神の真理、愛、生命はどこに現れるでしょうか?それはすべての人間の希望であり、中心を求めるべき場所です。したがって、あなたがその場所を知らない場合、心を立て直し、磨きながら準備しなければなりません。そのように準備を進めていると、その場所に行こうとしなくても、いつかは自然とその場所に行く事ができるようになるでしょう。
それでは、何が真実で、何が偽りなのかをどのように見分ける事ができるでしょうか?その際、神も真実と偽りを教えてくれません。神が何かを真実と教えた後は、その逆を偽りと教えてくださる必要があります。したがって、人間自身が見分け、自身で決定し、自身で探し求めなければなりません。そのために、あなたは知恵のある五人の賢い乙女が主を迎える準備をし、十九節における聖書の言葉の意味を学ばなければならないでしょう。
しかし、あなたがまだそのような心の準備をしていない場合、真理の中心がこの地に現れ、すべてを捨てるように求められるとき、真心以外のすべてを捨てる準備ができていなければなりません。そのような一つの中心を築き、その上に天国を探し求める事が必要です。
しかし、真理を見つけたいと思うなら、どんな言葉でも聞いてはいけません。真実の言葉だけを聞くべきです。それでは、どのような言葉が真実の言葉でしょうか?誰が聞いても、自分自身でも気づかないうちに悔い改めの心が生じ、自分自身でも気づかないうちにその言葉に引き寄せられ、その言葉を消そうとしても消せない言葉があれば、それが真実の言葉です。それが天人の本性に基づく真理の言葉なのです。
あなたがイエス・キリストの言葉を聞くとき、その言葉を天人を代表する真理の言葉と信じ、心の奥に深く刻む事ができるようになるべきです。その言葉はあなたにとって生命の言葉となるからです。しかし、その言葉を聞くと、時には生命の言葉として受け入れられ、時には信じ難い言葉として考えられる事もあるでしょう。
したがって、終わりには本質的な心で宇宙的な真理、宇宙的な生命、宇宙的な愛の中心に立たなければなりません。この完全な中心がまさにイエス・キリストでした。
一つの中心があれば、その中心を中心にして回っている相対的な存在が必ず存在します。陽子を中心に電子が回っているのと同じように、神と人との関係も同じです。私達人間の心は電子のように神の心の中心と関係を持ち、それに作用しているため、神は人間に対して回復の秩序を行う事ができるのです。
こうした事を考えると、私達が一人で真理の言葉を探求するなら、そこで神の生命が活動し、神の愛が動いている事を感じ、真理の道を通じて神の生命と愛を探求する道が、自己の価値となり得る道である事がわかります。
パウロの言ったように、私達が内なる神の愛によって世界の光になる事も、真理が永遠に変わらない中心を持っているためです。


では、私達はこの邪悪な世界でどのようにして善悪を判断し、真理を追求すべきでしょうか?自己を中心におく心を捨て、常に謙虚にならなければなりません。聖書でも、高ぶる者は自己を低くするべきだと言っています。人間の本質は霊的なものです。
そのため、天国に行くと、人間の本質が他者のために存在するようになっている事をより実感するでしょう。しかし、なぜ人間は自己中心的な心ですべてに取り組んでいるのでしょうか?これはすべての人間が天人を裏切った堕落した天使、言い換えればサタンとの血縁関係を持っているからです。
したがって、私達は神の本質を失い、望まないサタン的な本性が私達を支配するようになったのです。しかし、私達は謙虚な心を持ってすべてに臨むべきです。もし天的な高貴な品性を持つ人間が、低い品性の者に支配されようとすれば、彼は滅びる事になります。彼は自分が持っているものすべてを奪われる事になります。したがって、聖書では終末には持たざる者から取り上げられ、持っている者に与えられると言われています。
終末は高慢な人々が増え、自己中心的な世界観を持つ人々が増える時期です。真実が現れる前に偽りが現れるでしょう。堕落した世界では、歴史的な事実として偽りが真実のように現れる事がありました。また、宇宙的な統一の理念が現れる前に、世界を混乱させるさまざまな形の偽りの真理が多く現れるでしょう。
そして、統一的な生命運動が起こる前に、さまざまな形の偽の生命運動が行われ、真の愛の運動が始まる前に偽の愛の運動が行われるでしょう。
歴史の流れを見ると、理性哲学が登場した後に生命哲学が登場しました。将来的には愛の哲学も登場するでしょう。それでは愛の哲学の基準は何でしょうか?人間か、真実か?人間は今後、この種の問題を悩む事になるでしょう。
しかし、私達はこの哲学を知らなくても、誠実な心と生きた心を持って他人の事情を理解できれば、どんな人でも愛する事ができ、その人の心に共感する余裕を持つ事ができます。したがって、あなたは悪い人であっても、良い人であっても、他人の事情を理解できる人になるべきです。
神はどのような方かと言うと、すべての人の内面をよく理解しておられる方です。そのため、悪い人であっても許して下さいます。あなたはこれを知る必要があります。あなたもこの内面的な基準に到達すれば、すべての人と親しくなる事ができます。つまり、悪人であっても、その人の事情があなたの心に映し出されると、その人を理解するようになるという事です。
神の全体的な本質を模倣するために、私達の体と心はこの地球上の誰とも調和できる必要があります。もし数人とも調和できない場合、私達は天と地の非難を受ける事になるでしょう。
では、イエス・キリストはどのような方でしょうか? イエスはこの地、この堕落した世界にイーストをもたらした方です。イーストとは何でしょうか? 聖書の言葉を通じて多くの情報を知っているでしょうが、イーストは調和し変容させるための素材です。そして、ここでイエスがイーストとして来られたと言う事は、イエスが堕落した人々を本来の人間性に変える使命をもって来られた事を意味します。
私達が他の人と調和できない心を持っている場合、私達はその心を動かして、すべての人に完全に一致する私達の心を修行しなければなりません。そうしないと、サタンは終末に私達を審判台に立て、「あなたはこんな欠点があるのではないか?」と言って、そこでできなかった事を非難するでしょう。
この目標を達成するまで、私達は真の自由を楽しむ事もできず、他のどんな希望も実現できません。したがって、人々は堕落性をすべて清算し、すべてを捧げる事によって、宇宙の神秘と通じる事ができる愛と善の本質と要素を備え、神と心の一致を実現し、愛と善の要素を一つの心の中で作用させるための瞬間を待ち望んでいます。言い換えれば、自分の生涯で愛の理想を完成させ、真実の前に人格の完成者となる事を願っているのです。
現代の人々は一般的にこの広大な宇宙を支配しようとしていますが、それは自己破壊を招く事です。それゆえに私は古くから、「宇宙を支配しようとする前に自己を完璧にしろ」というスローガンを私の生活の指針としてきました。実際、キリスト教の信者にとって、このスローガンは何よりも重要です。
このような内容を備え、宇宙を支配できる性格を持つ聖徒が存在するとき、つまり宇宙を支配できる支配力を持つようになるとき、初めて神が踏み越えて進む事のできるショートカットが確立される事になります。この基準を完成させると、初めて創造本来の価値を持っていると見なす事ができます。そのため、イエスは「全世界を得ても、自分の命を失ったなら、何の益になるでしょうか?」と述べました。今日、これらの価値を持つ真の人が登場しなければならない歴史的な時期である事を忘れてはなりません。
その人がこうであるから、私もこうできるという考えを持たず、あなた方はイエス以上の条件を設定できなければなりません。また、天と地の支配権を持っていても、意志のためにはそれを一瞬で放棄できなければなりません。それが一見捨てる事にしか見えないかもしれませんが、実際にはすべてを見つける事ができ、より大きなものを得る事です。
私達に侵入してくる敵は、私達が真実を理解しないようにし、生命と愛に向かう道を塞いでいます。しかし、そのような敵は他の場所にいるのではなく、あなた方自身に存在しています。したがって、何か誤った事があっても、他人を非難する前に、あなた方自身がその事を起こしたのは自分の過失だと考え、自己責任を取ろうと努力すべきです。
あなた自身に不平があっても、それを自分で解決しようとしなければなりません。そして、あなたが家庭だけでなく国の悲嘆にも対処しようとする意志を持たなければなりません。私達の国の苦難を自分の問題と感じ、涙を流す事ができる人々が、3000万人の国民のうち300万人でもいれば、私達の国は生き残る事でしょう。
私達はこの国がこのようになったのは私の責任だと言えるし、世界中がこのようになったのも私の責任だと言えるべきです。イエスを信じるキリスト教徒の数が1000万を超え、10億を超える全世界の人々がキリスト教徒になる事を願う神の前で、私達は恥じるべき存在である事を認識しなければなりません。私達はこのような神の希望を実現しなければならない場にいる事を自覚しなければなりません。
また、神は宇宙全体を創造しましたが、それらは完成しなかったため、神は彼らから怨みを持っており、栄光を受けないでいる事を知らなければなりません。したがって、あなたは神を受け入れる事ができる性格を持つ神の真の子供とならなければなりません。
このような宇宙的な神の悲しい気持ちを理解し、それから彼の前で頭を下げる牧者と羊飼いになるでしょう。もしもそのような牧者と羊飼いがこの地に現れるなら、彼らを中心に新しい宇宙の歴史が展開されるでしょう。
さらに、天律に代わる真理運動、天律に代わる生命運動、天律に代わる神の愛運動が、彼らを通じて起こるでしょう。今日の韓国の人々の中で、このような真理運動が現れるべきです。私達自身がそのような精神的な基準を持つようになったら、神も無視しないでしょう。このような生活を送った後、他の人を通じて自分の人格と価値を発見しようと努力しなければなりません。
イエス・キリストと聖霊は人類を代表してそのような道を歩んだ人々です。したがって、私達はイエス・キリストと聖霊の意志を手本にし、真の聖徒として生きなければなりません。
そうでなければ、悪の実を結び、サタンとの関係を断つ事はできず、人格を完成させる事もできず、また神はあなたを真の子供として立てる事ができません。皆さん、イエス・キリストはかわいそうな人でした。彼はこの地上で最も幸福な人と見なす事ができます。天国の王子としてこの地に来ましたが、不信心なユダヤ人達によってさまざまな陰謀と苦難を受け、後には十字架にかけられました。
このような事実を考えると、皆さんの心と体が快適な場所にいる事はできません。もしもあなたが心身ともにこのようなイエス・キリストの悲しい状況を感じない場合、イエス・キリストを信じているとは言えないでしょう。
もし、あなたが神の悲しい気持ちを理解できれば、千万年の涙を流しても足りないと感じるでしょう。また、イエス・キリストを失った神の悲しい気持ちを感じれば、一生涙を流しても神の気持ちに達する事はできないでしょう。それだけ私達は神に対して感情的な借金を抱えているのです。
このような感情的な負債を背負ったまま、つまり自分が間違っていながらも「父なる神だから許してくださるだろう」と厚かましい人々が多い事です。神はこのような人々も許し受け入れてくださるかもしれませんが、同時に苦痛を感じる事でしょう。したがって、あなたは自分の誤りを謝罪する前に、自分が恥じるべきであり、謙虚な心を持つべきです。
あなたが神の苦しい気持ちを共感すれば、神は苦しみを忘れ、涙であなたを受け入れてくださるでしょう。また、あなたは希望を持ち、天律の道、真理の道を求めていますが、神はあなたに対して心配しています。そんなあなたには神の愛と命の恵みが注がれるでしょう。もし、あなたがこのような生活をしていない場合、そのような自分を心配するべきです。
皆さん、兄弟や同胞を責めないで下さい。世界や神を責めないで下さい。責めるのであれば、自分を責めて下さい。他人を責める前に、神を責める前に、自分自身を責める必要がある事を皆さんは知るべきです。そのような気持ちを持ったイエス・キリストは、苦難に満ちた30年以上の生涯を経てゴルゴダの丘で十字架を背負う運命にあったが、その立場からも神を責めず、黙って神の意志を遂行する自分の責任を心配する心を持って帰られました。そのため神はイエス・キリストを復活させたのです。
そのような感情はサタンの世界では見つける事ができず、サタンの側からは夢すら見ないレベルの感情であり、それによりイエス・キリストはこの世界の中心となりました。皆さんも同様です。皆さんの信仰の段階でもサタンの世界の誰かよりも優れていなければなりません。内面の感情と精神を比較すると、彼らが追随できないほど高い感情と精神の調和を持たなければなりません。その条件を根拠に、皆さんは復活の力の中に入る事ができます。
イエスは死の谷を越えても、自身の個人的な救いを心配せず、残された宇宙的な責任を自分で負う覚悟を持って進む事を知りました。
イエスは十字架で国のために祈り、死んででも責任を果たす意思を持っていただけでなく、死を超えて神の御心を心配しました。だからこそ、神はそのようなイエスを復活させる事ができたのです。したがって、復活したイエスに対してサタンは嘲笑できなかったのです。皆さんも同じような価値観を持った人格者になれば、サタンに嘲笑される事はありません。
天国の住人は、愛、生命、真理の完成者です。そのような皆さんがなると、宇宙的な真理の中心が現れるとき、皆さんはその真理の中心と自然に一体化できるでしょう。また、光が明るい場所でも暗い場所でも違いなく輝いているように、真理の光も世界中のあらゆる場所を照らし出すでしょう。今日の皆さんは、個々の責任と、皆さんが存在する環境で担当している責任の価値を理解しているかもしれませんが、社会的責任や国家、世界的責任については知らないかもしれません。また、皆さん自身が世界的な使命を帯びている事さえ知らないかもしれません。それならば、天から与えられた使命と責任を持つ人々がなぜ一体になれないのでしょうか?それは自己を中心にし、天律に立ち向かおうとするからです。
そのため、皆さんは謙虚で柔和な心で天律の法に従い、それに従って自分が感銘を受けながら、神が喜ばれる道、神の道を歩む事によって、本質的にはすべての人と調和できるようになるべきです。
皆さんが神だけでなく、すべての人と調和し、すべての人に吸収される本質的な要素を持つ立場に立つと、過去から感じ、知っていたすべての概念から脱却し、真理に到達できるでしょう。
人間の本性には神の愛、命、真理が存在しています。そのため、自分の愛と真理に対立する愛、命、真理の内外の形態を持つ中心存在が現れると、自動的に彼と調和する事になります。その理由は、人間が相対的に創造されたからです。本性が追求する希望の真理、つまり永遠で変わらず、唯一の理念にふさわしい自分の心と体として、自分自身を超えて宇宙と関係を築けるからです。なぜなら、自分自身も創造の理念に相対的に反応し、喜びをもたらすようにされているからです。
そのため、私達が「ありがとう」と言える環境、つまり自分自身を中心にし、理想的な世界を構築すると、私達の喜びはすぐに天国の喜びとなり、天国の喜びは私達の喜びとなり、永遠の神と交流できる関係が築かれる事になります。そのような永遠不変の愛、命、真理の中心として、神の子として、全体を代表して歌える皆さんがいなければ、皆さん自身を通じて宇宙を主宰するために存在している天国の理念を実現する事はできないという事を知るべきです。
しかし、そのような存在になると、最終的にはどうなるでしょうか?まず第一に、イエス様に対応するのと同じ立場から、皆さんも神様に対応できるでしょう。第二に、イエス様と聖霊の立場から家族を愛する事ができ、第三に、神様がイエス様を愛されたように、皆さんもすべての人々と愛を共有できるようになるでしょう。そして、真理と命と愛の存在になると、神様を代わりに考え行動できるようになります。皆さんがそのような存在になると、個人を中心に見た場合、上下にあるのと同じように、上下にある宇宙と世界、国、社会、家庭が皆さんを中心にし、自動的につながるでしょう。
このような真理、生命、愛の中心的存在になると、これまで悪者とされていた人々さえも許す事ができ、すべての年長者は自分の親と同じように感じ、すべての同年代の人々は自分の兄弟と同じように、すべての若者は自分の子供と同じように考える事ができます。
つまり、皆さんが宇宙的な天国の理念を代わりにできる存在になり、神様の愛、命、真理の運動を展開するならば、平和の世界がこの地に築かれるでしょう。そのため、自分の親だけが親でなく、自分の兄弟だけが兄弟でなく、自分の子供だけが子供でない事を意味します。
皆さんがすべての人を自分の親、兄弟、子供として見る事ができる人格を持つようになれば、死者の世界で苦しむ人々を見る際、涙なしには対処できなくなり、兄弟や若者を見る際にも、彼らを救おうとする責任感を持って涙を流すようになるでしょう。本当にそのような存在になるなら、そのような存在を中心にしてこの地に天国が築かれるでしょう。

<祈 祷>
この6千年のすべての内容と、お父様の内面的なご事情が、これらの人々にすべて伝わらなかったのではないかと心配しておりますので、お父様、これらの人々をあなたのふところに抱きしめて、すべてを理解できるように許して下さい!そして、これらの人々が心に理解した事があれば、これを最後まで責任を持って受け止める事ができるように許していただきたいと願っています。
お父様、主は与える者の責任がこれほど貴重である事を感じると同時に、受け取る者の責任もそれに引けを取らないほど貴重である事に気づかされ、むしろ与える者よりも受け取る者の責任がより重要である事を認識するようになりました。
主は時期が一時である事を知りつつ、受け取る時は永遠を持って受けなければならない事を知っており、天から一時に与えられたその真理を永遠に保存できる私達になる事を許して下さい。また、一時に授かった命を永遠に保存できる私達になるように許して下さい。一時に授かった愛を永遠に保存できる私達になるように許して下さい。それによって私達は神の真の子供達になる事ができるという事を、お願いし、切に望んでいます。
過去に私達は多くの教えを受け、多くの生命と愛の恩恵を受けましたが、今この瞬間、私達の心は空虚です。空虚な私達の心を満たして下さい。そして、これまで何十回も天を背信した事を、今この時点で懺悔します。お父様、お許し下さい。切にお願いし、望んでいます。
その結果、真理の鍵を見つけ、生命と愛の鍵を見つけて、残された宇宙的な真理と生命と愛の扉を開き、天の中心においておられる神様の内面的な事情を解き明かす事ができる子供達になれるようにして下さい。信じられる真の子供の地位に進む事ができるように、お願いし、切に望んでいます。
残っているすべての事を明らかにし、不足しているすべての事を満たして下さい。そして、永遠の天国が完全に実現される日まで私達を導いて下さい。切にお願いいたします。
すべての御言葉を主の名によってお祈り致します。アーメン。





「文鮮明先生の言葉の選集 2 - 9. 結ばれたものを解こう(1957年3月24日)」

結ばれたものを解こう 1957年3月24日(日曜日)、本部教会。 マタイによる福音書18:15-20

(御言葉)
神の愛は互いに調和する場所に実現されます。個人的なレベルでも、神の愛は心と体が調和する中で実現され、その中で私たち自身が中心に置かれ、兄弟姉妹や仲間たちと調和し、さらに家庭と家庭、国と国、世界と天が互いに調和する場所に神の愛は実現されます。

すべての創造物が神の愛を中心にして調和し、永遠に喜ぶための善の基準を確立していれば、すべての創造物の間に隔たりは存在しなかったでしょう。しかし、人間の世界では、神の愛を中心にして調和しなかったため、個人は心と体が調和しない状態に陥り、さらに隣人、種族、国々間でも調和しなかったため、国と国、世界と天も調和しなくなりました。

神の帰還の目的は、調和しなかったこの創造の中で、調和をもたらす存在を確立し、彼を中心にして天の愛の範囲を拡げ、個人、家庭、国、世界、天との間に存在する障壁を取り扱うことです。

調和可能な存在を確立することが帰還の歴史の目的です。帰還の歴史の一つの成果として、または創造の前に愛の標準と中心として現れ、地上で結ばれた障壁を解消するために来られたのがイエス・キリストでした。そのため、全人類はイエス・キリストを通じてのみ、堕落による原罪、すなわち堕落の条件を解消できます。その理由は、人間自身が地上で堕落の条件を設定したため、人間自身がそれを解消しなければならないが、堕落した人間自身ではそれを解消できず、メシアを通じてのみ解消できるからです。

人間はイエス・キリストと一体となり、アダムによって生じた天地の敵意を解消し、喜びを天に還すべきでした。しかし、イエス・キリストの死によって、その意志は地上で実現されないままに残り、イエス・キリストは死後も今日まで、皆さん一人一人を通じてこの使命を果たすことを望まれました。イエス・キリストの望む存在である皆さん一人一人の行動は、絶対に皆さん一人一人を中心に置かれた個人の行動ではなく、6,000年にわたって結ばれた天の計画を解決するための歴史的な成果としての行動であることを認識すべきです。

このような存在として、皆さんは祖先、イエス、聖霊、神の無限のため息が結びついていることを知る必要があり、4,000年にわたる神の敵意を代表したイエス・キリストの望みと、2,000年にわたる聖霊の望みが結びついていることを知るべきです。

したがって、個人的には兄弟姉妹、国と国、世界と天との間に結ばれたすべてのため息の壁を解消しない限り、イエス・キリスト、聖霊、神に結びついた歴史的なため息は解消されず、神は私を通じて愛することができず、喜ぶことはできません。皆さんは、この偉大な歴史的な使命の手がかりを、皆さん一代一代で皆さんの生活と一生を通じて解明し、さらには子孫を立てて最終的な完了を達成する覚悟がなければなりません。

天地に結ばれた計画を解消する方法を教えてくださったのは、イエス・キリストでした。イエス・キリストは、自分が神の4,000年のため息を解消しなければならない存在であることを知り、天と地に結びついたすべての状況を解消するために熱心な生涯を送られました。さらに、イエス・キリストの生涯は、自己中心的な生活ではなく、アダムによって結ばれたあらゆる状況を解決することに全力を注いだ生活でした。イエス・キリストは人類の堕落と同時に、サタンが本来の場所から離れてしまったため、本来の場所に戻す使命を果たすべく来られたのであり、それはサタンが地上で罪を犯したため、地上に戻す必要があることを理解されたからです。

人間は誤りから堕落しましたが、それでも神は彼らを再びあなたの愛を受ける子供として立てようとし、それが神の計画であり、新しい時代に残された使命であるとしています。

この大局的な使命を果たすために、あなたがたはイエス・キリストと共に責任を担わなければならず、そのためには神の4,000年のため息を身につけ、生前のイエス・キリストの心情と、復活後の今日まで2,000年続いたイエス・キリストと聖霊の熱意を理解できなければなりません。

6,000年にわたる歴史を結実させる責任を担って進むなら、あなたたちはイエス・キリストや先達たちの努力を超える努力をしなければなりません。それができない場合、あなたたちは自分自身の本来の位置を永遠に見つけ出すことはできません。なぜなら、神はイエス・キリストを見つけるために4,000年もの歳月を費やし、一つの花嫁を立てるのに2,000年かかりました。したがって、あなたたちも自分自身の存在を見つけ出すために、6,000年間にわたる神の苦労と全体的な計画を抱き続けて現れなければ、あなたたちの存在を決して見つけ出すことはできないでしょう。

自分自身を見つけるために戦わなければならないということです。そして、戦う際にはまず自分自身と戦わなければなりません。イエス・キリストもサタンに打たれる前にまず自分自身を打たれ、それによってサタンすらも打つことができたのです。私たちもサタンが私を打つ前に、私が自分自身をまず打ち、そしてサタンと戦わなければなりません。

このような試練と苦しみの道を歩むためには、誰かが私を理解してくれる仲間が必要です。イエス・キリストは十字架の上で捨てられましたが、神と聖霊はイエス・キリストを理解していました。ある時点で、神自身があなたを知らないかもしれません。そのとき、あなたを理解してくれる同志が必要であり、人々があなたを拒絶するとき、あなたを理解してくれる神の代わりとなる存在が必要です。したがって、イエス・キリストは2人が共に祈ると、天の父がそれを叶えると言われました。

神はイエス・キリストにその使命を委ね、安心されました。同様に、あなた方もイエス・キリストと聖霊の意志を受け継ぎ、イエス・キリストと聖霊を安心させる責任があります。神が私の父となり、イエス・キリストと聖霊が私の救い主となるために、あなたはその苦悩を引き受け、天の使命を遂行するための主人公として立たなければなりません。私たちは兄弟の重荷を肩に載せることが難しいのに、6,000年にわたって進んできた神の重荷を引き受けることは一層難しいでしょう。

しかし、この主人公が地上に立てられることを天が望み、イエス・キリストと聖霊が待望し、すべての創造物が願ったことです。そのため、このような主人公が2人で共に祈る場所に神は同行せざるを得ません。そして、このような主人公が多ければ多いほど、その民族は天の大きな使命を引き継ぐ民族となり、最終的には世界中の祝福の源となるでしょう。

この交差点(終末)で、皆さんが善を選び悪を克服し、サタンの支配を打破し、天の意志を代表する中心を築くために、天が同行し、束縛から解放される場所を作れば、天は縛られず、そして永遠に天の真の子女として宇宙を代表することができるようになります。


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御言葉選集2(7)

2023年10月09日 15時45分38秒 | 学習
「文鮮明先生御言葉選集 2 - 7. 犠牲となった世界を越えよう 」
1957年 3月 10日, 前本部教会. 御言葉拝読:ロマ書 12:1-12 

<祈 祷>
お父様、6千年にわたるお苦労の中で示された神の意志が、今日、私達の生涯全体を計り直す時である事を私達は忘れません。お父様!今、この瞬間、私達の身体と心が完全にあなたに似ていなければならない時である事を知ります。私達が永遠のあなたの腕に包まれ、あなたの意志が達成されるために何千万もの人々を愛されたあなたの気持ちを受け継ぎ、また私達がそのような父の気持ちを持って現れなければならない時である事を認識させて下さい。
この地は、あなたが苦労され、血を流された地であり、また人間にとって困難な十字架の道、世界的なゴルゴダの場所である事を知っています。お父様、今日私達がどのような立場にいるかを自覚させて下さい。イエス様が30年以上にわたり努力された足跡を私達が辿っている事を認めるならば、私達が生活している環境や、何を望み、何を祈るべきかを確実に自覚させて下さい。
今、残された十字架の闘いが私達の目前に迫っているこの時、私達個々としてこのすべての苦痛と怨みを排除できる自覚を持たなければならない事を知っています。天よ、この時、私達を慈悲深く見守って下さい。自分の不足を感じさせ、自己評価が足りない事を自覚させ、自分が不完全である事をため息つかせ、父の前で悲しみの涙を流す事ができるこの時を与えて下さい。お父様!どうかこの国民に哀れみを示して下さい。この国民の恐れを取り除き、この国民の罪を消し去り、この国民の暗闇を払いのけて下さい。
光の谷へと導く事ができる、父の力強い手が速やかに三千万の人々の中に現れるように許して下さい。そして、眠っている全世界の人々を目覚めさせ、歴史の過程を通じて神聖な歴史を支えてきた千千万の聖徒の願いを私達を通じて解決し、残す事ができるようにして下さい。愛するお父様、熱望し、望みます。
お父様、この時、あなたの前で謙虚になりました。私達は自分を中心にし、どんな主張も立てないように許して下さい。ただ幼い子供のような心で、あなたのひざまえに伏し、あなたの慈悲深い手を握りしめ、あなたの愛の腕に包まれる事ができるように許して下さい。そして、そのような神の賜物を尊重し、あなたに崇拝する心を許して下さい。
すべてを捧げ、自己を捧げる事で、自分自身に対するサタンの非難の余地を一切残さないように導いて下さい、お父様。熱望し、願います。お父様、この日は聖なる日であり、あなたの祝福を受ける日です。国民の代表として集まる多くの宗教団体の上に祝福を注いで下さい。孤独な祭壇を担当しているあなたの息子と娘にも一貫した神の賜物を許して下さい。終わりに向かうこの時に、彼ら全員が共通の目的を証言し続ける事ができるように許して下さい。すべてを支配して下さい。主の御名によってお願いいたします。アーメン。

<御言葉>
平和の心を持って一生を過ごす事が本来の人間の生き方でした。しかし、現代の人々の心には平和がありません。また、自由を中心に据え、永遠の理想の中で生きるべき人々の心にも、天国と共に楽しむ事のできる自由や理想はありません。
そのため、現代の世界中のすべての人々は、いつか完全な自由、理想、平和が実現する事を願っています。これはこの地球に住むすべての人々の切望です。このような完全な自由、理想、平和の世界は、本来の人間の望みであり、それは結局、皆さん自身が体と心を中心に置いて実現しなければならないものです。
さらに、皆さんは自身を中心に据え、家庭でそれを実現しなければならず、社会、国家、世界でも実現しなければなりません。ただし、天と地が一体となり、平和の歌を歌い、自由の歌を歌い、理想的な愛を楽しむ事のできるそのような世界を実現しなければなりません。
そのような世界を実現できない場合、人間は真の喜び、真の解放、真の栄光を味わう事はできません。では、なぜ人間はこのように不幸な運命に見舞われたのでしょうか?それは堕落の結果から来ています。したがって、現代の世界中の人類は、このような対立と闘争を乗り越えなければならず、苦痛と涙の山を越えなければならない運命になり、皆さんも今日、同じような困難な生活を送っている事を実際の生活を通じて感じているでしょう。
人間が望む世界と現実は、その距離が遠く、心はその世界を求めつつも、現実から逃れられないため、人々は苦痛の生活を避ける事ができないのです。ある人が論理的で倫理的な法律を制定し、その法律に従って人々が過ちを悔い改め、考える事ができるようにする事によって、人間が望む理想の世界を実現できると主張しても、それは理論的で論理的なものに過ぎず、実際の生活で人間の理想的な幸福の世界を実現する事はできません。多くの先人達の努力がそれを証明しています。
したがって、私達には終わりに向かって進むべき道と、越えなければならない高い山が残されています。それは永遠の平和、自由、理想を実現できる犠牲の道であるのです。
その高い山を越えるためには、心に永遠の自由をもたらし、永遠の天国の希望を代わりに持ち、永遠の天国の平和を代わりにもたらす一つの中心が現れなければなりません。もしもそのような中心的存在が現れなければ、天と地は永遠の平和、自由、理想を決して実現できないでしょう。それでは、この一貫した6千年の歴史の進行はどのように続いていくのでしょうか?
神とサタンと人間を中心に、どの条件が設定されているか、これが犠牲の高い山なのです。6千年の経緯を振り返ると、旧約聖書時代にはすべての創造物を通じて犠牲の高い山を越え、新約聖書時代にはイエス・キリストの実体を通じて犠牲の高い山を越えたのです。
では、今後の新約時代では、どのような基準で犠牲の高い山を越えるのでしょうか?聖徒、つまり皆さん自身を通じてそれが実現されるのです。このように全体的な神の計画が犠牲を中心にして進行すると考えると、旧約時代はすべての創造物を通じて犠牲の高い山を越えなければならず、新約時代はイエス・キリスト、すなわち神の子を中心にして犠牲の高い山を越えなければならない事がわかります。しかし、現在の新約時代では、新郎と新婦の名前を代わりに持つ事ができる皆さん自身を条件として、犠牲の高い山を越えなければなりません。
皆さんがそのような犠牲の高い山を越える前には、この地上で真の平和、自由、理想の世界は実現されない事になります。
では、6,000年にわたる人類の歴史は何でしょうか? それは形は多様で範囲は広いものの、この6,000年の神の計画の歴史は、最終的には完全な自由、完全な理想、完全な平和を楽しむ事のできる真の人間を見つけ出すための神の努力の歴史なのです。皆さんは原理を通じてこれを理解しているでしょう。
本来、人間はエデンの園で神を中心にし、永遠の自由、理想、平和を楽しむべきでしたが、人類の祖先であるアダムとイブが堕落したため、その本来の世界は崩れ去りました。しかし、堕落したアダムとイブの子孫である私達にも、本来の世界を追求する本質があるため、神の望む世界に向かって進んでいます。私達の望みは変わる事なく、達成しなければならない理想です。
それでは、神がその努力の計画の中で見つけ出そうとしている中心的存在は何でしょうか? それは堕落に関係のない、本質的な真のアダムとエバです。
皆さんも原理を通じて知っているように、人類の真の親となるべき神の子女であるアダムとエバは、堕落によって真の親になれなかったため、本来の歴史とは何の関係もない堕落した人類の先祖となってしまいました。私達は、このように堕落したアダムとエバによって堕落の血縁関係を断ち切り、本来の真の親を迎える日を迎えなければなりません。
もしもその日が訪れない場合、つまり、天と地を動かす事のできる中心的存在、そしてその中心的存在を中心に共に動ける存在が現れない場合、天と地が一つの目的を追求しない限り、この地上には真の自由、平和、理想が実現されないでしょう。そうなれば、人間は宇宙的な運命の循環と帰還の歴史から逃れる事はできません。
もしも皆さんが神の愛を受けたいと望むなら、皆さんは6,000年にわたる神の計画が努力の歴史である事を理解し、また、自身もそのような努力の道を歩まなければならない事を理解しなければなりません。
そして、全体の神の計画が犠牲の高い山を越えるための歴史のプロセスであるならば、皆さんも創造物を条件として犠牲を捧げた旧約時代と同様に、創造物を条件として生活の中で犠牲を捧げなければなりません。
その次に、イエス・キリストがこの地に来て、自己犠牲の高い山を越えなければなりません。そして、その後、皆さん自身を条件として、その犠牲の高い山を越えなければなりません。
このような状況から、神は私達に栄光として臨む事はできないのです。また、平和、自由、理想として臨む事もできません。むしろ、私達に犠牲の高い山を越えさせ、私達を探しに来るしかないのです。現代のイエスを信仰する聖徒達は、この事実を知らないかもしれません。
イエス・キリストがこの地に来たとき、イスラエルの民が信じなかったため、イエス・キリストはその時代のどの民よりも低い立場で生活しました。
イエス様は、イスラエルの民が創造物を犠牲として捧げるのではなく、信仰をもって神を信じ、国民全体が神に帰依する事を望まれましたが、イスラエルの民がこのような神の計画を理解せず、イエスを信じなかったため、彼らは神の計画から外れ、その恨みは今日の私達にも及んでいるのです。
神様が私達に訪れるために、どのような位置にいる必要がありますか?まず、すべての創造物を代替する物質的なものを克服しなければなりません。したがって、イエスは福音が貧しい人々に伝えられるだろうと言いました。次に、私達は自分の子供達を愛する事ができなければならず、最終的には自分の身体さえ犠牲として捧げる事ができなければなりません。これが私達が克服しなければならない犠牲の頂点です。
今日のほとんどの信者は、私達がこの犠牲を克服しない限り、天が私達に訪れ、私達との関係を確立するのは知らないでしょう。神様があなたをそのような道に立たせるとき、あなたはその道を自信を持って進む必要があります。
6,000年の歴史は単なる歴史ではなく、宇宙の帰還の歴史であり、個人の帰還の歴史です。したがって、宇宙の歴史に責任を持つ中心として不変の姿を持つ事ができない場合、天に代わって立つ事ができない場合、歴史の頂点を越える事はできず、神意の法に従う立場には立てない事です。昔のアブラハムの例を見て下さい。
アブラハムは、神の言葉に従って、それまで住んでいた愛しい故郷であるカルデアのウルを去らなければならない立場にいました。つまり、肉体を中心とした物質的な苦しみに耐えなければならなかった立場を考える必要があります。
自分の体を掻きむしっても、まったく崩れ果てたヨブは、決して神を非難せず、黙って熟考し、その苦しみを超えて神の側に立ち、病人の心情を理解する事もできました。ヨブがそうであったからこそ、彼は失ったものと子供達を取り戻し、さらに大きな祝福を天から受けたのです。
イエス・キリストも福音を伝える道に出る際、ますます自身のすべての環境を捨てました。つまり、彼が30年以上も生活してきた自分の家庭環境を捨てたのです。その後、彼は神の王子の立場や、人類の永遠の真の親の立場を捨てたのです。
このように、イエス様は自分の体、自分の家庭、自分の民族、自分の希望さえも捨てなければならない十字架の道でさえ絶望せず、最初に神の前に立つ意思、神との約束を実現する唯一の道だけを見つめて、望まない者の足跡でしたが、希望を持ってゴルゴタの道を超えたのです。
アブラハムは、カナンの地を望んで自身のすべてを捨てて出発したため、彼の子孫達は神の祝福を受ける事ができました。同様に、イエス・キリストも自身の愛する両親、親戚、民族、国をすべて捨てました。そのため、一定の期間が経過した後、それらすべてを再び見つける日が訪れる事になり、それがまさに「再臨の日」なのです。
したがって、再臨の日を契機に、再び来られる主がこれらすべてを回復される事を理解する必要があります。
歴史の過程で多くの預言者とイエス・キリスト自身がこのような道を歩まれたので、私達はどうすべきでしょうか?まず第一に、私達は歴史を代表できる神の象徴として立たなければなりません。そして、今日の最終段階で、イエス・キリストのように、国、教会、全土、そして世界のために犠牲の道を歩み、またアブラハムやヨブのように、全歴史を負担し、苦難の道を歩まなければなりません。そうしない限り、私達は犠牲の頂点を越えた勝者にはなれません。
では、最終段階に立つ私達にはどのような贖罪の使命があるのでしょうか?まず、物質的な贖罪の使命があるでしょう。真の霊的な恩寵を受けると、それに比例して物質的な贖罪の使命があります。したがって、神の意志を達成し、神のために立つ場所を見つけるためには、自分が地上で望んでいた物質的な条件をすべて捨てる事が必要です。
もし、あなたがたがこのような立場を取れないのであれば、あなたは絶対に旧約聖書時代と新約聖書時代を経て、契約の時代に進む事はできません。将来、物質的な試練が訪れるでしょう。個人を中心に打たれる時期がやってくるでしょうし、民族や国家を中心に打たれる時期もやってくるでしょう。
したがって、個人的にも、または民族、国家、そして世界的に、このような物質的な困難に直面する日が、必ずやこの地上に現れるでしょう。そのような時に、最も深刻な困難に直面する民族が存在するでしょう。その時、その民族の悲しみはその民族によるものではなく、6,000年の歴史を代表して受ける悲しみであり、苦しみはその民族によるものではなく、神の歴史的な苦しみを代わりに受けるものでしょう。
しかし、そのような極端な苦しみと悲しみの中で、世界を救うものは物質ではなく人間である事に気付くと、その民族は犠牲の頂点を越える事ができるのです。それは物質的な犠牲が救いを成し遂げるのではなく、神の子であるイエス・キリストが救いを成し遂げるからです。したがって、今日、皆さんは物質だけに執着し、それを生命よりも尊重する場合、犠牲の頂点を越える事はできない事を理解する必要があります。
終末に物質的な試練があるでしょうが、その時には天を訴える民族が審判を受け、個人でも審判を受ける事になるでしょう。これが中心となる原則を持つ支配者である神です。したがって、苦しみや物質的な困難に直面しても、あなたは物質に執着する事はできません。そして、イエス・キリストのように物質を超越しなければなりません。そうしなければ、あなたの道は閉ざされる事でしょう。
これまで、皆さんはイエス・キリストを代表して教会の指導者達を信じ、頼りにしてきましたが、これは永遠のものではありません。回心の過程において、再臨まで、皆さんは十字架の教義を中心に信仰してきましたが、今後、世界的な回帰の段階に進む際には、これまでの信仰と頼りにするだけでは足りないという事です。
それでは、その時にどうすればいいでしょうか?その時には、皆さんはイエス・キリストを通して神が認める事ができる自己を見つけ出し、確立しなければなりません。そうしなければ、終末の審判の頂点を越える事はできません。
したがって、イエス・キリストは「終わりの時には、あなたの頭に油を塗り、密室に入り、祈りなさい。」と言われたのです。神を求めて歩む皆さんにとって、物質は敵となりやすいものです。そして、その次には、愛する子供や愛する夫婦が敵になりやすいものです。
そのため、イエス様は「あなたの家族があなたの敵である。」とも言われました。ここに神の悲しい悲しみが結びついており、今日、私達の信者達の悲しみも結びついています。これが終末の聖徒達が全般的に超越しなければならない難関なのです。皆さんはこれを理解する必要があります。
その次に、自分自身さえも拒絶し、超越しなければなりません。イエス様もゲッセマネの園で十字架を目の前にして、「父よ、父には万事能がある。この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私の望みではなく、父のみ事ばが行われますように。」と祈りました。このような過程を経て、イエス様は自分自身を貶め、拒絶する立場を通過したのです。
したがって、皆さんは自分が持っているすべての希望、喜び、信仰、感情など、これまで所有してきたすべてを一度に捧げ、超越しなければなりません。
言い換えれば、旧約聖書時代は物質的な条件を持って犠牲の頂点を超え、新約聖書時代はイエス・キリストへの信仰によって犠牲の頂点を越えましたが、契約の時代では個人が犠牲の頂点を超えなければならないため、あなた自身が6,000年の犠牲の歴史を代わりに果たす事ができる必要があります。
つまり、あなたが父の前に立ちたいのであれば、あなたは所有している物質、愛する子供、妻、そしてあなた自身を含めてすべてを一つの犠牲として差し出さなければなりません。このような道を進む事で、あなたは歴史的な犠牲の頂点を越える事ができ、その後で初めて神との関係を持つ事ができる事を確実に理解しなければなりません。
他人が否定し、反対するかもしれないこの道を進むあなたは落胆してはいけません。また、この道を進む際に、自分の所有物に対する欲望、子供への期待、愛する夫婦、そして自己への執着心を奪われる過程があるかもしれません。その時、あなたはそのような執着心に固執して、世界を超越しようとしてはいけません。物質、子供への愛、そして自己中心的な希望など、人間的なすべての条件を断ち切る時に、あなたは世界的な犠牲の頂点を超える事ができるのです。
なぜそのような道を進まなければならないのかというと、これまでの回帰の歴史は犠牲の歴史であり、また犠牲の歴史は分かつ歴史であり、分かつ歴史は打つ歴史であるからです。ですから、あなたがたが最後の難関を越えなければならないとき、あなたがたが信じ、従ってきたイエス・キリストが皆さんを打たれ、導いていた聖霊が皆さんを打つでしょう。また、あなたがたが希望として信じてきた神も、世界も皆さんを打つでしょう。こうして天が打ち、地が打つ歴史があっても、最後まで残る事ができないならば、皆さんは決して神の前に立つ事はできないでしょう。
この立場から勝利する者だけが地上で至高の王以上のものを代わりにでき、天国に行っても主の栄光を楽しむ事ができる事を、皆さんは理解しなければなりません。
今日、この国は苦しむ立場にある事が分かります。神の計画からすれば、これは個人が合う時であり、国民と国と世界が合う時です。しかし、皆さんは自分が合っていると嘆いたり、天を訴えたりしてはいけません。この国が合っていると嘆いてはいけません。世界が合っている時が来ても、天を訴えてはいけません。
唯一持っているべき心情は、崩れたり死んだりしても、天だけを頼りにしようという心です。このような心を持って、あなたは個人の十字架を越えなければならず、国家の十字架、国の十字架、世界の十字架を越えなければなりません。こうして世界的な十字架の頂点を越えた後、あなたは栄光で来る再臨の主を迎える事ができるのです。その時が人々が希望する再臨以上のものが実現する時期なのです。
このような世界的な犠牲の頂点を越えた後、あなたは神の愛、神の自由、神の平和、神の理想を所有できます。なぜなら、そのような頂点を完全に越えられない人に神の愛、自由、平和、理想を与えると、サタンが中傷し、その愛、自由、平和、理想が破壊されるからです。したがって、神は世界的な犠牲の頂点を越えられない人に神の愛、自由、平和、理想を許容しなかったのです。
ですから、今、意志を持って進む皆さんは、この宇宙的な犠牲の頂点を越えたかどうか、自問自答しなければなりません。
回帰の歴史を振り返ると、アブラハム時代に「十一族」が始まり、レビ族を中心にして12部族として形成されたユダヤ民族も十一族を捧げ、今日の世界のキリスト教徒も十一族を捧げています。しかし、10の中で1は全体の中で特別な存在であるため、今日のあなたが大韓民国およびキリスト教界において、この特別な地位に立てない限り、イスラエルの中心部族であるレビ族と同じ立場から天を見上げる事はできません。
あなたがそのような地位に進む事を望むのであれば、あなたはすべてを捨てる覚悟がなければなりません。また、世界と天国を求めるのであれば、あなたのすべてを捨てる冒険をする必要があります。このような高みがあなたの前に残っています。したがって、私達を導く神もこの高みを越えるために試練を私達に与え、十字架の頂点を越えさせるのです。しかし、あなたはそのような十字架の頂点が審判の条件として現れるとしても、その頂点を克服できる準備がなければなりません。
このような人々は一つにまとまり、ふたりが一緒になり、一つの祭壇を築かなければなりません。レビ族が12部族に分かれたイスラエル民族を導き出し、イエスの後にはイエスを中心にし、レビ族と同様の使命を果たすキリスト教教団が形成され、世界的な祭壇として拡大されたように、今日でもレビ族と同じ使命を果たす世界的な祭司の宗教が存在しなければならないのです。
そのような宗教に参加したい人々は、先述したように犠牲の頂点を越えなければなりません。ユダヤ民族が心を込めて天に犠牲を捧げた事で犠牲の頂点を越える事ができたように、終末に主の前に立つ選ばれた者として存在したいのであれば、心を込めて犠牲を捧げて犠牲の頂点を越えなければなりません。その後、祭司の使命を代わりに果たし、神の恩寵を受け、神の栄光、自由、平和、理想を実現できるようになるのです。
したがって、あなたは特に警戒しなければなりません。神があなたの財産を試すとき、あなたは神に対する忠誠心を変えてはならず、周囲の環境を完全に断つ事ができる人にならなければなりません。これらの原則を理解すれば、神が打たれる前にあなたが最初に自分の財産を捧げられるべきであり、神が断たれる前にあなたが最初に子供や配偶者との愛を捧げられるべきであり、さらにはあなた自身をも捧げられるべきです。そのような人になれるなら、あなたは6,000年の犠牲の頂点を一度に越える事ができるでしょう。
これらの犠牲の頂点を越えた人々がこの地上に多く現れる事を神は切望しており、今日のあなたがどのような立場にいるのか、自己を確認できるようになるべきです。
実際に、あなたがたが物質を神の前に捧げ、そしてあなたがた自身を含めて神に捧げ、供え物の山を越える事ができるのであれば、あなたがたはこの地上でサタンの訴えを受けずに、知恵をもって父の許しを受けて楽園に入る事ができるでしょう。これを心に留め、私達一人一人が与えられた使命を最善の方法で果たすために最善を尽くす事を願っています。共に祈りましょう。

<祈り>
まず最初に、私達が召命を受けて、宇宙全体の秩序の意志の前に立たされ、全体の目的を達成するために生きなければならない事を忘れないように、お願いします。
今日、公共の秩序の道に進んだ私達が供え物の山を越える事ができなく、あなたが私達の周りに存在するものを断ち切られたにもかかわらず、私達は自己に失望し、自己を嘆き、自己を非難した事を忘れないで下さい。
愛する天のお父様、私達が物質的な山と人間的な山を超えるとき、あなたがこれを打たれても、私達がそれを受け入れる事ができるように許して下さい!私達が持っているすべてを収穫されても、私達の命が続く限り、それを感謝しなければならず、私達の周りにある愛を打たれても、命が続く限り、感謝しなければならず、私達の体を打たれても、命が続く限り、感謝できるようにして下さい。私達がこのようになれるように、導いて下さい。
古代の預言者達と過去の祖先達の足跡を私達も学び、進む事ができるように私達を導いて下さい。アブラハムも、ヨブも、イエスもこのような道を歩まれました。今日、私達もこのような道を歩むべきです。お父様、どうか長い時間を要せずに私達を導いて下さい。
必然的に迫っている憎しみの山を越えるための準備を整え、あなたが非難し、打たれても一人で感謝し、越える事のできる善の祭壇を築いて、栄光の主を高めるための天国の忠実な奉仕者として私達を許して下さい、お父様、切に願います。
お父様、今日、この祭壇を担当している私達を慰めて導いて下さい。聖所と聖なる所に囲まれた壁を宇宙的に開ける事のできる真の子供達にして下さい。そのような道で出会い、打たれたとしてもその苦難を乗り越え、永遠にあなたの前に立つ事ができる勇者達に私達を性別にして下さい。
敵が妨げる供え物の山を越え、家庭を導き、家庭の山を越え、国を導き、国の山を越え、さらには世界を導き、世界の山を越えて、天国に達し、永遠にお父様に真の命、真の平和、真の喜び、真の栄光を備えた者達として、自信を持って訴える事のできる子供達に私達を導いて下さい、お父様、切に願います。
すべての御言葉を主の御名でお願いいたします。アーメン。


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