文鮮明先生御言葉選集 3-4 道とその目的と価値 (1957年 9月 29日)
道とその目的と価値
1957年9月29日(日曜日)、前本部教会。
<祈祷>
愛のお父様! 今日はすべての万民があなたの前に出て、自分のすべてを清算しなければならない日であることを知っています。
私たちは、過去の1週間を過ごす中で、お父様の前に正しくなかったことが多かったでしょう。愛のお父様よ、その間に私たちが不足していたすべてをこの一時間で許してください。おおんぼけへりょうひして ください。そして、柔和で謙虚にあなたの前に伏せ、懺悔できる心情を持つことを許してください。切に願い求めます。
そして、1週間の間に誤ったすべてを清算すると同時に、生涯の間に些細だった私たちのすべても、あなたの前に隠すことなく出せるこの時間に導いてください。切に願い求めます。
お父様、この時間に私たちが先にあなたを見つけた喜びと歓びを感じさせてください。次に、私たちが失ってしまった自分の姿を見つけることができるよう、感謝し、また、あなたを見つけたその喜びと栄光を差し上げることができるよう、許してください。
お父様が探し求めていた本来の姿を見つけるよう、導いてくださったお父様の御恩に、私たちは心から喜び、楽しむことができるこの時間に導いてください。愛するお父様、切に願い求めます。
私たちの心の中でお父様を見つけ、お迎えする前には、私たちの生の目標を見つけることはできませんし、サタンと戦う力の要素を持つこともできません。私たちの中心がお父様と一致しない限り、通じないことは避けられません。私たちの中心が移動しない中で意志を為す力を持つ子供になるようにお許し願いたい。お父様、切に願い求めます。
お父様、この国を憐れみ見てください。そして、この民族を代わりに集まる数多くの祭壇を祝福してください。特に孤独な祭壇でお父様の前に行く気持ちで訴えている子供も多いので、お父様よ、彼らの友となり、彼らの慰めとなりますように。
彼らのすべての生命の指導者となり、彼らに永遠の生涯の理念を共有できるようにし、愛の理念を議論できるこの時間が与えられるようにしてください。愛するお父様、切に願い求めます。
お父様、ここに集まった子供たちが、お父様の前に自分のすべてを出し、真剣に告白しています。愛の気持ちで私たちを探してください、親の気持ちで私たちを見つけてください。私たちに永遠に変わらない人格の中心を持たせてください。そして、お父様の気持ちを理解し、お父様の代わりに意志を負うことができるように、また、この時間にお父様からの命令を受ける子供たちになれるようにお許し願いたい。愛するお父様、切に願い求めます。
この一時間、唯一お父様の前に委ねました。最初から最後まで主宰してください。栄光の勝利だけが全体の頭上に臨むようにお許し願います。愛するお父様、切にお願いし、望んで、すべての言葉を主の御名においてお祈り致しました。アーメン。
<御言葉>
今日、皆さんと共有したいお話のタイトルは『道とその目的と価値』です。『道とその目的と価値』というタイトルで、少しだけお話しいたします。人間だけでなく、この地上に存在するすべての生物は、一つの道を見つけ出しています。目の前に見えるすべてのものも、それぞれの個体目的を達成するために絶え間なく活動しています。そして、人間は長い歴史の中で、自分たちも知らないどんな中心的な道を見つけ出してきました。そのため、現在歩んでいる皆さんの道がその中心的な道と異なるなら、皆さんはその中心的な道を選びながら進む必要があります。
人間には個別に歩むべき道がある一方で、集団・社会・国家・世界を通して進むべき道もあります。さらに進んで天倫を通して進むべき一つの道があることを、皆さんは確実に理解しておかなければなりません。
皆さんは今日の自分がこのような現実の中で生きていること、たとえ一つの個でもこの国の存在が本来天倫の意志に向かって進むべき存在であることを感じるでしょう。しかし、その道を進むにあたり、自分の責任を自ら負うことが難しいことに気づくでしょう。
しかし、もし人間がそのような状態から抜け出し、自分を永遠に責任を負えるし、永遠に誇れる道を歩む人間になれば、今までの歴史の過程でまた地上で感じなかった新しいイデオロギーや事実を多く感じることでしょう。しかし、今日の皆さんは自分が進むべき道の目的地を知らずにただもがいている自分を感じるでしょう。これと同様に、人間は堕落した後、今まで自分も知らない道、目的もない道を彷徨っているのです。
しかし、こうして古代から先祖たちが一つの道を見つけ出してきたことは個人で終わりませんでした。個人が合わさり家庭を成し、家庭が合わさり社会を成し、社会が合わさり国家を成し、国家が合わさり世界を成し、その世界がまた合わさって進むべき何らかの道を見つけて彷徨ってきたのです。今日の皆さんは生活圏内でこれをよく感じていることでしょう。
個人がどのような生のイデオロギーを見つけ出そうとするとき、必ずどのような道を進むべきかを考えなければなりません。そして、その道は自分の一つの個人と全体が関係を結べる一つの結末点を向かう道だということです。このように過去の多くの人々は複雑な戦いの道を彷徨いつつ、その戦いの結末点である統一のイデオロギーを向かって動いてきたことを今日の皆さんは否定できないでしょう。
その戦いの目的が達成されるその日において、その目的自体と私たちが永遠に断つことができず、変わることができない立場から、一つから全体まで関連づけられる一つの大きな価値を見つけると、今日の人間が進んでいる道の目的地が見つかるのです。
しかし、今日の私たちが個々の宇宙的な全体の価値を見つけようとしても、私たちの心と体がそれと合う環境でないため、多くの方向で戦いが起きています。したがって、私の心と体が天倫を向かう道と永遠に一体化できる関係を築かなければ、その目的を見つめ、私が現在の生活から楽しむことができ、その価値を生のイデオロギーの中で楽しむことができるのです。
したがって、今日の世紀末的な環境に直面している皆さんは、自分が進むべき道がどのような目的を中心にし、その道と皆さんが残している距離が何かを、皆さん自身が自己反省しなければなりません。しかし、その道はさまざまなものであるでしょう。
宗教を通して進む道もあるでしょうし、科学を通して進む道もあるでしょう。または政治・経済・哲学など、各分野でそれぞれが進むべき道もあるでしょう。たとえそれらの道が永遠の全体的な道と異なっていても、その結末の目的地が全体が歓迎できる統一に向かって集まる時に、求めていた新しい道が現れることになります。
今日の各個個体が新しい道に出発できる永遠の価値を見つけたかどうかを考えると、誰もがそのような価値や目的を見つけていないことが分かります。つまり、私たちの新しい生のイデオロギーを築くことができ、新しい生の力を形成できる天的な価値、天的な目的自体として動くことができるその基準を、今日の私たちは宗教においても、科学においても、または文化的な面など、どの面でも見つけていないということです。
それではなぜ人間は今でもそのような目的や方向、または目的自体さえも知らない立場にあるのでしょうか?それは今日の私たちの心と体が天倫と合わさるその一基準を見つけて築けなかったからです。つまり、人間は私たちの心と体、天倫が合う一基準を見つけて築く前には、決して宇宙的な目的と結びつく新しいイデオロギーや関係を築くことはできないということです。また、たとえ私の心と体が一つになったとしても、心と体だけが一つになったその場所では、私たちが永遠に安息し、統一のイデオロギーを感じるその場所を自己の一所が取れないということです。
ですから皆さんは、どのような立体的な一つの目的の価値を皆さんの個体と関わるその自体として、全体の生活のイデオロギーと生活の力として表現できる一つの中心を皆さんの心と体を中心に、または魂を中心に動くようになると、そこにやっと神の全体の価値を触れて検討できるということをはっきりと知らなければなりません。
今日の私たちが心と体を通して歩むこの路程は、どのようなイデオロギーの終着点として現れるだけでなく、心と体を超えて永遠で全体的な天的な価値を支配し、一つの主体と関わりを持つようになると、そこにやっと私の心も留まることができ、私の体も留まることができるということです。
ですので今日の人間は心と体が分かれていて、また心と体が天倫と分かれていることを結ぶために、宗教を通してこのような道を見つけてきたし、また神は堕落した人類を救うために、このような道を通して私たちを見つけてきているのです。
では、これまでに人間に紹介された科学的な真理や宗教的な真理が本来、人々が歩んでいくべき究極の道を示してくれたでしょうか?まだそれを示していないということです。まだ人間は心と体が一つになり、永遠の天的な法則、あるいは何らかの絶対的な神、創造主と一体となる一つの基準を私たちの生活を通した生涯のイデオロギーの中で見つけ立てていないということです。
したがって、皆さんはまだ自分がどのような方向に進んでおり、どのような位置にいるかを確実に知ることができないでしょう。皆さんは創造主にはどんなイデオロギーがあり、創造された存在にはどんなイデオロギーがあるだろうとしても、それらが皆さん自体から離れては何の関係もないことを知らなければなりません。ですから創造主と被造物の最高のイデオロギーの中で、私を通じて示されることができ、そのイデオロギーの目的が達成された場所で全てを忘れて楽しむことができる一つの基準を持つべきだということです。もしも皆さんがそのような基準を持たないのであれば、現実の生活で世俗的な環境を乗り越えることはできないでしょう。
したがって皆さんは、そんな絶対的な価値を紹介できる一つの目的体を自分の生涯の状況で見つけ出さなければなりません。しかし今日の多くの人々は、現在を終末だと予告しており、私たちもそれをよく知っています。歴史の最後の終結時代に達したということです。また様々な社会の慣習や環境、自然現象、つまり気候や季節などもこの一つの目的を達成させるために動員されていることを皆さんは知らなければなりません。
そしてこうした状況に直面している今日の皆さんは、皆さん自身が人倫と合うことのできるそのようなイデオロギーだけでは、決してその目的を達成できないと感じるでしょう。またこれまで多くの人々が歩んできたし、また今も多くの聖賢が見つけてきたその過程では、全体の価値や目的を決して達成できないと感じるでしょう。
それではこのような環境と立場に置かれた私の一体自体を見つけ立てなければならない私たちに要求されるものは、何でしょうか?これまでの人倫を離れて天倫と永遠の縁を結ぶことのできるその一つの道を、現代の人類史の終末に示さなければならず、また人間が住んでいるこの世界にその意志を達成させておかなければならないということです。もしもそのような皆さんがなれないならば、皆さんの生涯の状況は絶望から始まり、絶望で終わることでしょう。
このような出来事が実現するための歴史であるため、この巨大な宇宙は個々から出発して全体の目的、つまり統一的な合一点に向かって動いています。そのような統一点は、必ず歴史的な終末時代に現れるでしょう。そして、その統一点もまた一つの中心から離れては永遠の関係を結ぶことができないため、人間が考える人間的な標準を超えた天倫や、または全体の目的と結びつけることができる一つの中心を通じたすべての力の目的体として現れるでしょう。これがまさに歴史的な終末時代に現れる新しい革命であるということです。
今日、私たちが置かれている20世紀の文明圏内、または各自が直面している分野で、新しい革命的な条件を見出し、それを自分の生涯の中で目的の中心に据えるならば、それらの条件は人間の理念を通じても同時に天倫の理念を通じても価値を持つようになります。したがって、もしもあなたがこのような革命的な条件を自分の生涯の中で中心的な生命の目的に据えることができないならば、あなたは人間の全体的な目的と関係を結ぶことはできません。
ですから、今日はすべてが終わった時です。政治であれ、哲学であれ、宗教であれ、すべてが最後に達したのです。これまで宗教は宗教としての使命を果たしながらも、最終的に確立しなければならなかった一つの基準はまだ紹介されていないということです。政治もそうであり、哲学もそうであり、どの文化的歴史の状況もまたそうでした。
しかし、今これが時です。いずれにせよ全宇宙が一つの目的を通じた統一の理念を中心に動いていかなければならない時です。宇宙を創造された造物主がいる以上、それは必然的な使命であり、造物主の理念を通じて表れるそのときには、これまで信じてきたあの程度、これまで崇拝してきたあの文化的な条件がもはや問題を解決するのには到底ならないことです。
つまり、これまで長い歴史の過程を通じて人間の良心を中心にし、または身体を中心にしてそのような問題を解決しようとしましたが、完全に解決できなかったということです。つまり、そのような人間の究極的な問題を解決するには、これまでの宗教、これまでの哲学、これまでの科学では到底無理だということです。
ですから、どれほど20世紀の科学文明を誇る現代人であっても、科学を通して新しい宗教の理念を見出すことができる新しい科学、哲学を通しても哲学そのものに留まらない何らかの新しい理念の哲学、また宗教を通しても今までのあらゆる宗教が持たなかった新しい理念を持つ宗教を見つけなければなりません。そのような時代が必ず訪れることです。
それゆえ、皆さんはどの分野で生活しようとも、どんな瞬間も心からの平安を持つことはできないでしょう。また、皆さんの生活環境において、全体の目的を代わりに果たし、神の前で誇り高く立ち上がれる条件が欠けていることです。ですから、神は今までこのような生活を送ってきた人々を見つめ、ため息をつかれるしかなかったし、歴史の過程は哀れな争いの過程を経てきたのです。
今日、皆さんも自分が置かれている現実の中で究極的な目的地に到達できていないので、皆さんが住んでいる環境、滞在する場所の至るところで戦わざるを得なくなっています。しかし、皆さんはそのような戦いの環境で勝利して、父の前で、他の人の前で、またはすべての創造物の前で、誇りを持って立ち上がり、自慢できる姿として現れていません。
もし、皆さんが嘆きと悲しみ、憤りの中で生きている自分を否定できないならば、まだ進むべき道が残っていることをはっきりと認識しなければなりません。
もしも神が存在し、天運を定められているとすれば、神の目的であると同時に人類の目的にもなり得る一つの目的地と、今日地上に住む私たちの心と体が一体となれるような統一の中心が必ず存在しなければなりません。それを皆さんは見つけなければなりません。
皆さんにもどんな欲望があるでしょうが、その欲望は単なる個人にとどまるものではありません。その欲望は個人を超え、世界を超え、私たちが想像することのできない場所に到達したいというものです。
では、今日の私たちの心に現れるその欲望がどのようなイデオロギーと関連していないかと問われれば、そうではないということです。現在私たちが生活している生活環境は宇宙のイデオロギーと繋がっているのです。
皆さんは自ら一個人を中心にし、これまでの習慣や自らが知っている範囲で自己満足できないと感じているでしょう。それは人間が選択した本来でないものであり、人類の道徳法則や天運の法則を超えて、全てのものを統一的なイデオロギーで支配できる一つの主人公を求めてきたからです。
今日においても私たちの心がそうであり、生活もそうであり、見つめているすべてがそうであるということです。皆さんの個人の生活が個人にとどまるならば、皆さんは一神の価値を全体の前に示すことができないでしょう。なぜなら、人間は現実で生きているけれども自分だけが生きることを望んでいるのではなく、全体が生きることを望んでいるからです。また、人間が欲望を抱えているとしても、それは自分だけのためではなく、全体のための欲望でなければならないということです。
では、今日の皆さんはどこに向かって歩んでいますか。皆さんは自分のために歩んでいますか、社会と交わるために歩んでいますか、それとも国家と交わるために歩んでいますか、あるいは世界と交わるために歩んでいますか?皆さんは世界と交わることのできる歩みを歩まなければなりません。
そのために歴史的な終末時代を迎える今、すべてが世界的なイデオロギーを通じて方向を示さなければならないということです。私たちが計画する事業もそうであり、私たちの生活もそうであり、私たちのイデオロギーも全てがそうであるということです。
しかし、これまでの私の生活はそのようなイデオロギーに基づいておらず、それを紹介する生活とはなりませんでした。また、私たちが生活している現実もそのような環境にはなりませんでした。そして、滞在している環境で自分が最も価値あるものを持っているにもかかわらず、自分の永遠の理想を満たすことができる何かを見つけられない立場にあるということです。そのために今日の私たちにはこれから進むべき未来がまだ残っていることを知らなければなりません。
この時代を歴史的な視点から観察した多くの人々は、今が終末であると言っています。この終末に人間的な要求が絶たれるならば、人間は絶望の中に陥るでしょう。したがって、その時においては人間的な要求が人間の歴史と関係を結びつけ、一つの目的を紹介できる中心が現れなければなりません。そしてその中心が皆さん一人一人を通して、新しい天運や新しい宇宙の歴史と関係を結びつけて現れる時、そこからやっと新しい道に進むイデオロギーが見つかるということを皆さんは確実に悟らなければなりません。
さて、皆さんは自分が立っている環境を再び見直さなければなりません。今、自分がどのような環境に滞在しているか、自己反省する必要があります。皆さんの中に学問を研究する人がいますか?ただし、その学問だけで終わるものではありません。また、宗教を研究する人がいますか?その宗教だけで終わるものではありません。それらを超えて絶え間なくより大きく、新しい次元のものを求めなければなりません。
それはどの方向からもすべてを結びつけ、どの方向からも公共の価値として現れ、どの方向からも生活的、またはイデオロギー的な中心として動かれることができなければなりません。そして、それが皆さんが生活している実生活圏内で直接的な力を示すことができなければならないということです。もしそのような力を示さないならば、人間が希望し、求めている全体的な生の目的地まで導く存在があることを認めることができません。
自然現象によって雨が降ると、その雨水は流れて川に入ります。川を経て海に入ります。海に入った水はここで一つになり、新しい調和を生み出します。海水は再び蒸発して水蒸気になり、再び雨となり、すべての草木を育てるものです。
同様に、何かがどのような経路を辿って全体に統合されるためには、静止した状態で滞在するのではなく、それ自体を超えて新しい価値を見つけることが天運の法則であるのです。
人類の歴史を振り返ると、個々の個人が集まり全体を成すようになりました。彼らはそれぞれ一つの主義を中心に集まりましたが、今では二つの流れが現れる事実がわかります。
しかし、これらの2つの流れが一つに結集するとき、単にその集まり自体に満足するだけではなく、統一された目的地に向かって進むべきであり、また、過去の古くなった形態とは異なる変化に富んだ新しい価値の環境を形成して全体に影響を及ぼすべきだということです。
ですから、今日の皆さんがどの分野で最も優れた能力を持っていたとしても、その能力だけで終わってはいけません。皆さんは全体の目的を見つけ出す過程にあるため、それを踏み越えて一歩進んでいくべき立場にあるのです。
したがって、皆さんはどこまで行っても、今までの科学を通じては天運の法則と関連を持つ調和を生み出すことができず、今までのどんな哲学を持っても新しい調和を生み出し、想像もできない楽しみと感謝を覚えつつ生きる世界を築くことができません。
しかし、人間はどうしても宇宙的な目的の中心を見つけ出さなければならない立場にあるため、私たちが最も優れていると言える何かを持ち、世界を統合し、宇宙と関係を築いていく新しい宗教的なイデオロギーを見つけ出さなければなりません。
哲学を研究する人でも、哲学だけで全てが終わるわけではないことを認識しなければなりません。これまで哲学として人類は立ち上がってきましたが、それだけでは足りなかったので、天運と結びつけることができる宗教を見つける必要があります。科学者も同様です。現代の科学が全体の価値を代わりにして人類の平和と幸福をもたらすことができない立場にあるため、科学者もまた全体的な一つの目的と関係を築いていかなければなりません。
もしそのような関係を築いていけないならば、この世界は一つの統一された世界になることはできません。つまり、だれもが一つの中心を見つけて結びつけられない場合、今日の宇宙が進む全体的な目的地も、そしてその目的を通して現れる全体的な価値もそうした関係とは何の関係もなくなるということです。
そしてまた、そうした立場からすべてが終わるならば、私たちはここから神が存在するという事実を証明することができなくなります。神が存在すれば、そのような全体的な価値の目的を各分野で世界的なイデオロギーとして対峙させ、各個人が追求する目的を証明できるからです。したがって、どんな偉大な科学者、哲学者、または宗教家でも、そうした一つの中心を持つことで初めて、そこから一つにまとまり始めるということです。
しかし、現在までの宗教や哲学ではこの問題は解決されないということです。人は誰でも全体の目的を代わりにでき、全体の価値を代わりにできる一つの中心をいずれかの時点で迎え入れなければならないということです。そうしなければ、各自の身体と心を通じて天運と結びつけるその基準が、世界的などの目的体として現れ相対的な価値を認められるようになるのです。こうして人々が歩んでいる道が目的や価値の面で新しい調和の法則が生じることによって、神の栄光が始まるということを皆さんは知っておかなければなりません。
もともと神がアダムとイブを創造された際、そのようなイデオロギーを持って創造されたのです。無限で絶対なる神が、自らが創造したアダムとイブがその無限性と絶対性を生活のあらゆる面で具現化し楽しむことができるように創造されたということです。
ですから、今日の私たち人間も帰還の誓いを通じて、その無限で絶対なる神を感じることができなければなりませんし、心の世界で感じるその無限で絶対なる価値を実際の有限権限内で理想的な力の要素として立てなければなりません。そうした時に初めて、そこから天地の調和が生じるのです。
信仰の道を歩む私の身体と心が無限で絶対な神の前にとどまり、彼と同居することになると、創造主の目的が私の目的であることを感じることになり、また、その場所で喜びを感じるときに現れるその価値が相対的でなく、立体的に現れるのです。そこから初めて神の栄光が始まるということを私たちは知っておかなければなりません。
しかし、今日の人々はこのような問題を越えられず、すべてがため息と絶望、恐れに包まれています。哲学や宗教、科学もそれ自体がその限界を越えると、すべてが暗黒の中に没してしまっているということです。ですから、そうした立場では必ず無限であり、かつ絶対的な何らかの力と関係を結ばなければならないのです。これは哲学や宗教、科学も同様です。
したがって、皆さんはこうした動きが歴史だけでなく、この世界に存在するあらゆるものを含むことを知らなければなりません。
私たちの心を通じて進んでいくその道が、天運の法則を通じることができる道で終わらず、天運の法則と結ぶことのできるそのような因縁の一つの基点を見つけ出さなければなりません。皆さんには世界の目的を向かって歩んでいると思っていても、その進む過程で自分の心ではなく絶対的な何らかの心と結びつけることを要求され、人間的な因縁を超えた最高の宇宙的な存在を感じてほしいと思うでしょう。
今日の宗教が価値を持つと言われるのは、このような経緯があるためです。宗教は人間が自分の心を通じる特定の感情に留まるためだけでなく、これを超越するある神の存在を認め、その神に内在する無限で絶対的な価値を追求しているのです。ですから私たちの心がその無限な天運の感情と結びついていくと、驚くべき価値が現れるのです。
それでは、多くの人々が今日を終末と予告しているこの時に、皆さんはどのようにすれば良いのでしょうか? 皆さんはこれまで歩んできて、世界的なイデオロギーを代わりにできる道を開拓し、築いたその場で過去のすべてを善の価値として吸収し、すべての生物の前に提示できなければなりません。また、皆さんが動いている環境を全体的な価値を代わりにして表す環境に整えなければなりません。
では、このようなことを何を持って成し遂げることができるでしょうか? これまでのどの学問、どの宗教、どの哲学でもなく、それはただ私たちの心を通じて決まるものです。お互いの感情、神の感情を通じてその心の結節点が統一的な目的体として現れなければならず、またそれが現れる中で生活の価値を見出して築かなければなりません。そうした時に初めて神の栄光が現れるのです。
それでは、これまで人間が何を求めて苦労してきたのでしょうか? 人間の心を代わりにできる天運の感情を見つけ、その感情と私たちの心が一つになるように今まで努力してきました。一つになったその心は絶対的な心と結びついているため、その心は誰が削り取ろうと削り取ることができないということです。ですから、これと同様にどのイデオロギーや主張でも侵犯できないそのような心を私たちは今まで探し続けているのです。
ですからもし皆さんがこれを見つけられなければ、皆さんは必ず悲しみと嘆きから逃れることはできないでしょう。このような分かれ道が今日の私たちの前にあることを皆さんは知っておかなければならず、またそれを見つけるべき摂理の意志どおりに皆さんの心はより高い感情を追求していかなければならないでしょう。
そうしてそのものを私たちの生活領域内において、永遠の目的体として、すべての生物の永遠の目的体として、または永遠の価値の実体として皆さんが証明できなければならず、また皆さんがそのような価値を持つ存在、すなわち皆さん自身がそのような歴史的な目的体として証明され、歴史的な価値の実体として証明されなければなりません。そうした分離された状態でなく一体化して行く場所から初めて神の栄光が現れるのです。
したがって、神を中心に据えたすべての生物が二者ではなく一つの目的体として動いているのと同様に、皆さんの心も何か良いことがあるときには自分だけが楽しむことで終わるのではなく、全体が楽しんで喜ぶことができる全体の価値として結びつけなければなりません。
このように、皆さんの心を中心にして、すべての人の心を一つにするこの道が、皆さんが進むべき道であることを知らなければなりません。つまり、心と心を通じてお互いが調和でき、お互いが楽しむことができるこの一つの道を見つけて進むことが正しい道であるということです。
これまで人間は歴史を超えて変わらない心の法則を持っています。つまり、昔も今も、人間本質の心は時代を超えて変わりません。しかし、人間はその変わらない心を持つ人々が進む価値の道をまだ見つけていないということです。
しかし、今日、私の心と皆さんの心が合わさり、宇宙的な全体の価値と結びついているため、皆さんは必ず天運の感情と通じる一つの秘輪を見つけなければなりません。もし見つからなければ、この地上にどんな理想主義があるとしても、それは地上で崩れ去ることを知らなければなりません。
ですから、これまで人間はそれを見つけるために宗教を探し始めましたが、その仕事を代表して現れたのがキリスト教です。それではキリスト教の中心であるイエス様がこの地上に現れる際、何を持って現れることになったでしょうか? イエス様は愛を中心に現れたのです。
イエス様は人間の心を統一し、人類を統合し、天運さえも統合できる愛としての秘輪を立てて現れたこの事実が、今日私たちにどれだけ驚くべき恩寵であり、驚くべき福音であるかを皆さんは確かに認識しなければなりません。
ですから、皆さんの心が楽しむことができ、皆さんの心が動かせるその愛が、今日の終わりにおいても、生活を通じて、世界を通じて、さらには天運の感情と一体化した愛の関係として現れる基準まで進むべきだということです。また、各分野でそのような目的を示し、そのようにして進める力を備えてきた宗教であれば、必ずそのような愛が必要とされるでしょう。
では、そのような愛を見つけるためには何が必要でしょうか? これまでの私たちの生活や私たちの概念、これまでに私たちが持っていた心やどのイデオロギーでもないということです。皆さんはこれらすべてを清算し、皆さん自身の心に天運の感情があるかどうかを自己反省しなければなりません。
そして皆さんは自分の心を無限に動かし、解放しなければならず、そのような生活の環境を持たなければなりません。もしもそのような皆さんができなければ、皆さんは絶対的な感情と通じる心を持つことはできないでしょう。
そのような境地に住んでいる人がいれば、彼は一つの個体でありながら、全宇宙を貫通する価値を持つ存在として、いつでもすべてを吸収できる中心的存在となるでしょう。そして、彼はそのような使命を十分に処理できるでしょう。したがって、今日、私たちはこの目標に向かって信仰生活を送っています。
しかし、もし今日私たちがこの一日の最後の目的地を見つけられないなら、皆さんはこの地上で永遠に戦いの歴史から逃れることはできず、永遠に嘆きの歴史から逃れることはできず、永遠に悲しみの歴史から逃れることはできないことを意味します。これを皆さんが心に留めておくことを望みます。
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道とその目的と価値
1957年9月29日(日曜日)、前本部教会。
<祈祷>
愛のお父様! 今日はすべての万民があなたの前に出て、自分のすべてを清算しなければならない日であることを知っています。
私たちは、過去の1週間を過ごす中で、お父様の前に正しくなかったことが多かったでしょう。愛のお父様よ、その間に私たちが不足していたすべてをこの一時間で許してください。おおんぼけへりょうひして ください。そして、柔和で謙虚にあなたの前に伏せ、懺悔できる心情を持つことを許してください。切に願い求めます。
そして、1週間の間に誤ったすべてを清算すると同時に、生涯の間に些細だった私たちのすべても、あなたの前に隠すことなく出せるこの時間に導いてください。切に願い求めます。
お父様、この時間に私たちが先にあなたを見つけた喜びと歓びを感じさせてください。次に、私たちが失ってしまった自分の姿を見つけることができるよう、感謝し、また、あなたを見つけたその喜びと栄光を差し上げることができるよう、許してください。
お父様が探し求めていた本来の姿を見つけるよう、導いてくださったお父様の御恩に、私たちは心から喜び、楽しむことができるこの時間に導いてください。愛するお父様、切に願い求めます。
私たちの心の中でお父様を見つけ、お迎えする前には、私たちの生の目標を見つけることはできませんし、サタンと戦う力の要素を持つこともできません。私たちの中心がお父様と一致しない限り、通じないことは避けられません。私たちの中心が移動しない中で意志を為す力を持つ子供になるようにお許し願いたい。お父様、切に願い求めます。
お父様、この国を憐れみ見てください。そして、この民族を代わりに集まる数多くの祭壇を祝福してください。特に孤独な祭壇でお父様の前に行く気持ちで訴えている子供も多いので、お父様よ、彼らの友となり、彼らの慰めとなりますように。
彼らのすべての生命の指導者となり、彼らに永遠の生涯の理念を共有できるようにし、愛の理念を議論できるこの時間が与えられるようにしてください。愛するお父様、切に願い求めます。
お父様、ここに集まった子供たちが、お父様の前に自分のすべてを出し、真剣に告白しています。愛の気持ちで私たちを探してください、親の気持ちで私たちを見つけてください。私たちに永遠に変わらない人格の中心を持たせてください。そして、お父様の気持ちを理解し、お父様の代わりに意志を負うことができるように、また、この時間にお父様からの命令を受ける子供たちになれるようにお許し願いたい。愛するお父様、切に願い求めます。
この一時間、唯一お父様の前に委ねました。最初から最後まで主宰してください。栄光の勝利だけが全体の頭上に臨むようにお許し願います。愛するお父様、切にお願いし、望んで、すべての言葉を主の御名においてお祈り致しました。アーメン。
<御言葉>
今日、皆さんと共有したいお話のタイトルは『道とその目的と価値』です。『道とその目的と価値』というタイトルで、少しだけお話しいたします。人間だけでなく、この地上に存在するすべての生物は、一つの道を見つけ出しています。目の前に見えるすべてのものも、それぞれの個体目的を達成するために絶え間なく活動しています。そして、人間は長い歴史の中で、自分たちも知らないどんな中心的な道を見つけ出してきました。そのため、現在歩んでいる皆さんの道がその中心的な道と異なるなら、皆さんはその中心的な道を選びながら進む必要があります。
人間には個別に歩むべき道がある一方で、集団・社会・国家・世界を通して進むべき道もあります。さらに進んで天倫を通して進むべき一つの道があることを、皆さんは確実に理解しておかなければなりません。
皆さんは今日の自分がこのような現実の中で生きていること、たとえ一つの個でもこの国の存在が本来天倫の意志に向かって進むべき存在であることを感じるでしょう。しかし、その道を進むにあたり、自分の責任を自ら負うことが難しいことに気づくでしょう。
しかし、もし人間がそのような状態から抜け出し、自分を永遠に責任を負えるし、永遠に誇れる道を歩む人間になれば、今までの歴史の過程でまた地上で感じなかった新しいイデオロギーや事実を多く感じることでしょう。しかし、今日の皆さんは自分が進むべき道の目的地を知らずにただもがいている自分を感じるでしょう。これと同様に、人間は堕落した後、今まで自分も知らない道、目的もない道を彷徨っているのです。
しかし、こうして古代から先祖たちが一つの道を見つけ出してきたことは個人で終わりませんでした。個人が合わさり家庭を成し、家庭が合わさり社会を成し、社会が合わさり国家を成し、国家が合わさり世界を成し、その世界がまた合わさって進むべき何らかの道を見つけて彷徨ってきたのです。今日の皆さんは生活圏内でこれをよく感じていることでしょう。
個人がどのような生のイデオロギーを見つけ出そうとするとき、必ずどのような道を進むべきかを考えなければなりません。そして、その道は自分の一つの個人と全体が関係を結べる一つの結末点を向かう道だということです。このように過去の多くの人々は複雑な戦いの道を彷徨いつつ、その戦いの結末点である統一のイデオロギーを向かって動いてきたことを今日の皆さんは否定できないでしょう。
その戦いの目的が達成されるその日において、その目的自体と私たちが永遠に断つことができず、変わることができない立場から、一つから全体まで関連づけられる一つの大きな価値を見つけると、今日の人間が進んでいる道の目的地が見つかるのです。
しかし、今日の私たちが個々の宇宙的な全体の価値を見つけようとしても、私たちの心と体がそれと合う環境でないため、多くの方向で戦いが起きています。したがって、私の心と体が天倫を向かう道と永遠に一体化できる関係を築かなければ、その目的を見つめ、私が現在の生活から楽しむことができ、その価値を生のイデオロギーの中で楽しむことができるのです。
したがって、今日の世紀末的な環境に直面している皆さんは、自分が進むべき道がどのような目的を中心にし、その道と皆さんが残している距離が何かを、皆さん自身が自己反省しなければなりません。しかし、その道はさまざまなものであるでしょう。
宗教を通して進む道もあるでしょうし、科学を通して進む道もあるでしょう。または政治・経済・哲学など、各分野でそれぞれが進むべき道もあるでしょう。たとえそれらの道が永遠の全体的な道と異なっていても、その結末の目的地が全体が歓迎できる統一に向かって集まる時に、求めていた新しい道が現れることになります。
今日の各個個体が新しい道に出発できる永遠の価値を見つけたかどうかを考えると、誰もがそのような価値や目的を見つけていないことが分かります。つまり、私たちの新しい生のイデオロギーを築くことができ、新しい生の力を形成できる天的な価値、天的な目的自体として動くことができるその基準を、今日の私たちは宗教においても、科学においても、または文化的な面など、どの面でも見つけていないということです。
それではなぜ人間は今でもそのような目的や方向、または目的自体さえも知らない立場にあるのでしょうか?それは今日の私たちの心と体が天倫と合わさるその一基準を見つけて築けなかったからです。つまり、人間は私たちの心と体、天倫が合う一基準を見つけて築く前には、決して宇宙的な目的と結びつく新しいイデオロギーや関係を築くことはできないということです。また、たとえ私の心と体が一つになったとしても、心と体だけが一つになったその場所では、私たちが永遠に安息し、統一のイデオロギーを感じるその場所を自己の一所が取れないということです。
ですから皆さんは、どのような立体的な一つの目的の価値を皆さんの個体と関わるその自体として、全体の生活のイデオロギーと生活の力として表現できる一つの中心を皆さんの心と体を中心に、または魂を中心に動くようになると、そこにやっと神の全体の価値を触れて検討できるということをはっきりと知らなければなりません。
今日の私たちが心と体を通して歩むこの路程は、どのようなイデオロギーの終着点として現れるだけでなく、心と体を超えて永遠で全体的な天的な価値を支配し、一つの主体と関わりを持つようになると、そこにやっと私の心も留まることができ、私の体も留まることができるということです。
ですので今日の人間は心と体が分かれていて、また心と体が天倫と分かれていることを結ぶために、宗教を通してこのような道を見つけてきたし、また神は堕落した人類を救うために、このような道を通して私たちを見つけてきているのです。
では、これまでに人間に紹介された科学的な真理や宗教的な真理が本来、人々が歩んでいくべき究極の道を示してくれたでしょうか?まだそれを示していないということです。まだ人間は心と体が一つになり、永遠の天的な法則、あるいは何らかの絶対的な神、創造主と一体となる一つの基準を私たちの生活を通した生涯のイデオロギーの中で見つけ立てていないということです。
したがって、皆さんはまだ自分がどのような方向に進んでおり、どのような位置にいるかを確実に知ることができないでしょう。皆さんは創造主にはどんなイデオロギーがあり、創造された存在にはどんなイデオロギーがあるだろうとしても、それらが皆さん自体から離れては何の関係もないことを知らなければなりません。ですから創造主と被造物の最高のイデオロギーの中で、私を通じて示されることができ、そのイデオロギーの目的が達成された場所で全てを忘れて楽しむことができる一つの基準を持つべきだということです。もしも皆さんがそのような基準を持たないのであれば、現実の生活で世俗的な環境を乗り越えることはできないでしょう。
したがって皆さんは、そんな絶対的な価値を紹介できる一つの目的体を自分の生涯の状況で見つけ出さなければなりません。しかし今日の多くの人々は、現在を終末だと予告しており、私たちもそれをよく知っています。歴史の最後の終結時代に達したということです。また様々な社会の慣習や環境、自然現象、つまり気候や季節などもこの一つの目的を達成させるために動員されていることを皆さんは知らなければなりません。
そしてこうした状況に直面している今日の皆さんは、皆さん自身が人倫と合うことのできるそのようなイデオロギーだけでは、決してその目的を達成できないと感じるでしょう。またこれまで多くの人々が歩んできたし、また今も多くの聖賢が見つけてきたその過程では、全体の価値や目的を決して達成できないと感じるでしょう。
それではこのような環境と立場に置かれた私の一体自体を見つけ立てなければならない私たちに要求されるものは、何でしょうか?これまでの人倫を離れて天倫と永遠の縁を結ぶことのできるその一つの道を、現代の人類史の終末に示さなければならず、また人間が住んでいるこの世界にその意志を達成させておかなければならないということです。もしもそのような皆さんがなれないならば、皆さんの生涯の状況は絶望から始まり、絶望で終わることでしょう。
このような出来事が実現するための歴史であるため、この巨大な宇宙は個々から出発して全体の目的、つまり統一的な合一点に向かって動いています。そのような統一点は、必ず歴史的な終末時代に現れるでしょう。そして、その統一点もまた一つの中心から離れては永遠の関係を結ぶことができないため、人間が考える人間的な標準を超えた天倫や、または全体の目的と結びつけることができる一つの中心を通じたすべての力の目的体として現れるでしょう。これがまさに歴史的な終末時代に現れる新しい革命であるということです。
今日、私たちが置かれている20世紀の文明圏内、または各自が直面している分野で、新しい革命的な条件を見出し、それを自分の生涯の中で目的の中心に据えるならば、それらの条件は人間の理念を通じても同時に天倫の理念を通じても価値を持つようになります。したがって、もしもあなたがこのような革命的な条件を自分の生涯の中で中心的な生命の目的に据えることができないならば、あなたは人間の全体的な目的と関係を結ぶことはできません。
ですから、今日はすべてが終わった時です。政治であれ、哲学であれ、宗教であれ、すべてが最後に達したのです。これまで宗教は宗教としての使命を果たしながらも、最終的に確立しなければならなかった一つの基準はまだ紹介されていないということです。政治もそうであり、哲学もそうであり、どの文化的歴史の状況もまたそうでした。
しかし、今これが時です。いずれにせよ全宇宙が一つの目的を通じた統一の理念を中心に動いていかなければならない時です。宇宙を創造された造物主がいる以上、それは必然的な使命であり、造物主の理念を通じて表れるそのときには、これまで信じてきたあの程度、これまで崇拝してきたあの文化的な条件がもはや問題を解決するのには到底ならないことです。
つまり、これまで長い歴史の過程を通じて人間の良心を中心にし、または身体を中心にしてそのような問題を解決しようとしましたが、完全に解決できなかったということです。つまり、そのような人間の究極的な問題を解決するには、これまでの宗教、これまでの哲学、これまでの科学では到底無理だということです。
ですから、どれほど20世紀の科学文明を誇る現代人であっても、科学を通して新しい宗教の理念を見出すことができる新しい科学、哲学を通しても哲学そのものに留まらない何らかの新しい理念の哲学、また宗教を通しても今までのあらゆる宗教が持たなかった新しい理念を持つ宗教を見つけなければなりません。そのような時代が必ず訪れることです。
それゆえ、皆さんはどの分野で生活しようとも、どんな瞬間も心からの平安を持つことはできないでしょう。また、皆さんの生活環境において、全体の目的を代わりに果たし、神の前で誇り高く立ち上がれる条件が欠けていることです。ですから、神は今までこのような生活を送ってきた人々を見つめ、ため息をつかれるしかなかったし、歴史の過程は哀れな争いの過程を経てきたのです。
今日、皆さんも自分が置かれている現実の中で究極的な目的地に到達できていないので、皆さんが住んでいる環境、滞在する場所の至るところで戦わざるを得なくなっています。しかし、皆さんはそのような戦いの環境で勝利して、父の前で、他の人の前で、またはすべての創造物の前で、誇りを持って立ち上がり、自慢できる姿として現れていません。
もし、皆さんが嘆きと悲しみ、憤りの中で生きている自分を否定できないならば、まだ進むべき道が残っていることをはっきりと認識しなければなりません。
もしも神が存在し、天運を定められているとすれば、神の目的であると同時に人類の目的にもなり得る一つの目的地と、今日地上に住む私たちの心と体が一体となれるような統一の中心が必ず存在しなければなりません。それを皆さんは見つけなければなりません。
皆さんにもどんな欲望があるでしょうが、その欲望は単なる個人にとどまるものではありません。その欲望は個人を超え、世界を超え、私たちが想像することのできない場所に到達したいというものです。
では、今日の私たちの心に現れるその欲望がどのようなイデオロギーと関連していないかと問われれば、そうではないということです。現在私たちが生活している生活環境は宇宙のイデオロギーと繋がっているのです。
皆さんは自ら一個人を中心にし、これまでの習慣や自らが知っている範囲で自己満足できないと感じているでしょう。それは人間が選択した本来でないものであり、人類の道徳法則や天運の法則を超えて、全てのものを統一的なイデオロギーで支配できる一つの主人公を求めてきたからです。
今日においても私たちの心がそうであり、生活もそうであり、見つめているすべてがそうであるということです。皆さんの個人の生活が個人にとどまるならば、皆さんは一神の価値を全体の前に示すことができないでしょう。なぜなら、人間は現実で生きているけれども自分だけが生きることを望んでいるのではなく、全体が生きることを望んでいるからです。また、人間が欲望を抱えているとしても、それは自分だけのためではなく、全体のための欲望でなければならないということです。
では、今日の皆さんはどこに向かって歩んでいますか。皆さんは自分のために歩んでいますか、社会と交わるために歩んでいますか、それとも国家と交わるために歩んでいますか、あるいは世界と交わるために歩んでいますか?皆さんは世界と交わることのできる歩みを歩まなければなりません。
そのために歴史的な終末時代を迎える今、すべてが世界的なイデオロギーを通じて方向を示さなければならないということです。私たちが計画する事業もそうであり、私たちの生活もそうであり、私たちのイデオロギーも全てがそうであるということです。
しかし、これまでの私の生活はそのようなイデオロギーに基づいておらず、それを紹介する生活とはなりませんでした。また、私たちが生活している現実もそのような環境にはなりませんでした。そして、滞在している環境で自分が最も価値あるものを持っているにもかかわらず、自分の永遠の理想を満たすことができる何かを見つけられない立場にあるということです。そのために今日の私たちにはこれから進むべき未来がまだ残っていることを知らなければなりません。
この時代を歴史的な視点から観察した多くの人々は、今が終末であると言っています。この終末に人間的な要求が絶たれるならば、人間は絶望の中に陥るでしょう。したがって、その時においては人間的な要求が人間の歴史と関係を結びつけ、一つの目的を紹介できる中心が現れなければなりません。そしてその中心が皆さん一人一人を通して、新しい天運や新しい宇宙の歴史と関係を結びつけて現れる時、そこからやっと新しい道に進むイデオロギーが見つかるということを皆さんは確実に悟らなければなりません。
さて、皆さんは自分が立っている環境を再び見直さなければなりません。今、自分がどのような環境に滞在しているか、自己反省する必要があります。皆さんの中に学問を研究する人がいますか?ただし、その学問だけで終わるものではありません。また、宗教を研究する人がいますか?その宗教だけで終わるものではありません。それらを超えて絶え間なくより大きく、新しい次元のものを求めなければなりません。
それはどの方向からもすべてを結びつけ、どの方向からも公共の価値として現れ、どの方向からも生活的、またはイデオロギー的な中心として動かれることができなければなりません。そして、それが皆さんが生活している実生活圏内で直接的な力を示すことができなければならないということです。もしそのような力を示さないならば、人間が希望し、求めている全体的な生の目的地まで導く存在があることを認めることができません。
自然現象によって雨が降ると、その雨水は流れて川に入ります。川を経て海に入ります。海に入った水はここで一つになり、新しい調和を生み出します。海水は再び蒸発して水蒸気になり、再び雨となり、すべての草木を育てるものです。
同様に、何かがどのような経路を辿って全体に統合されるためには、静止した状態で滞在するのではなく、それ自体を超えて新しい価値を見つけることが天運の法則であるのです。
人類の歴史を振り返ると、個々の個人が集まり全体を成すようになりました。彼らはそれぞれ一つの主義を中心に集まりましたが、今では二つの流れが現れる事実がわかります。
しかし、これらの2つの流れが一つに結集するとき、単にその集まり自体に満足するだけではなく、統一された目的地に向かって進むべきであり、また、過去の古くなった形態とは異なる変化に富んだ新しい価値の環境を形成して全体に影響を及ぼすべきだということです。
ですから、今日の皆さんがどの分野で最も優れた能力を持っていたとしても、その能力だけで終わってはいけません。皆さんは全体の目的を見つけ出す過程にあるため、それを踏み越えて一歩進んでいくべき立場にあるのです。
したがって、皆さんはどこまで行っても、今までの科学を通じては天運の法則と関連を持つ調和を生み出すことができず、今までのどんな哲学を持っても新しい調和を生み出し、想像もできない楽しみと感謝を覚えつつ生きる世界を築くことができません。
しかし、人間はどうしても宇宙的な目的の中心を見つけ出さなければならない立場にあるため、私たちが最も優れていると言える何かを持ち、世界を統合し、宇宙と関係を築いていく新しい宗教的なイデオロギーを見つけ出さなければなりません。
哲学を研究する人でも、哲学だけで全てが終わるわけではないことを認識しなければなりません。これまで哲学として人類は立ち上がってきましたが、それだけでは足りなかったので、天運と結びつけることができる宗教を見つける必要があります。科学者も同様です。現代の科学が全体の価値を代わりにして人類の平和と幸福をもたらすことができない立場にあるため、科学者もまた全体的な一つの目的と関係を築いていかなければなりません。
もしそのような関係を築いていけないならば、この世界は一つの統一された世界になることはできません。つまり、だれもが一つの中心を見つけて結びつけられない場合、今日の宇宙が進む全体的な目的地も、そしてその目的を通して現れる全体的な価値もそうした関係とは何の関係もなくなるということです。
そしてまた、そうした立場からすべてが終わるならば、私たちはここから神が存在するという事実を証明することができなくなります。神が存在すれば、そのような全体的な価値の目的を各分野で世界的なイデオロギーとして対峙させ、各個人が追求する目的を証明できるからです。したがって、どんな偉大な科学者、哲学者、または宗教家でも、そうした一つの中心を持つことで初めて、そこから一つにまとまり始めるということです。
しかし、現在までの宗教や哲学ではこの問題は解決されないということです。人は誰でも全体の目的を代わりにでき、全体の価値を代わりにできる一つの中心をいずれかの時点で迎え入れなければならないということです。そうしなければ、各自の身体と心を通じて天運と結びつけるその基準が、世界的などの目的体として現れ相対的な価値を認められるようになるのです。こうして人々が歩んでいる道が目的や価値の面で新しい調和の法則が生じることによって、神の栄光が始まるということを皆さんは知っておかなければなりません。
もともと神がアダムとイブを創造された際、そのようなイデオロギーを持って創造されたのです。無限で絶対なる神が、自らが創造したアダムとイブがその無限性と絶対性を生活のあらゆる面で具現化し楽しむことができるように創造されたということです。
ですから、今日の私たち人間も帰還の誓いを通じて、その無限で絶対なる神を感じることができなければなりませんし、心の世界で感じるその無限で絶対なる価値を実際の有限権限内で理想的な力の要素として立てなければなりません。そうした時に初めて、そこから天地の調和が生じるのです。
信仰の道を歩む私の身体と心が無限で絶対な神の前にとどまり、彼と同居することになると、創造主の目的が私の目的であることを感じることになり、また、その場所で喜びを感じるときに現れるその価値が相対的でなく、立体的に現れるのです。そこから初めて神の栄光が始まるということを私たちは知っておかなければなりません。
しかし、今日の人々はこのような問題を越えられず、すべてがため息と絶望、恐れに包まれています。哲学や宗教、科学もそれ自体がその限界を越えると、すべてが暗黒の中に没してしまっているということです。ですから、そうした立場では必ず無限であり、かつ絶対的な何らかの力と関係を結ばなければならないのです。これは哲学や宗教、科学も同様です。
したがって、皆さんはこうした動きが歴史だけでなく、この世界に存在するあらゆるものを含むことを知らなければなりません。
私たちの心を通じて進んでいくその道が、天運の法則を通じることができる道で終わらず、天運の法則と結ぶことのできるそのような因縁の一つの基点を見つけ出さなければなりません。皆さんには世界の目的を向かって歩んでいると思っていても、その進む過程で自分の心ではなく絶対的な何らかの心と結びつけることを要求され、人間的な因縁を超えた最高の宇宙的な存在を感じてほしいと思うでしょう。
今日の宗教が価値を持つと言われるのは、このような経緯があるためです。宗教は人間が自分の心を通じる特定の感情に留まるためだけでなく、これを超越するある神の存在を認め、その神に内在する無限で絶対的な価値を追求しているのです。ですから私たちの心がその無限な天運の感情と結びついていくと、驚くべき価値が現れるのです。
それでは、多くの人々が今日を終末と予告しているこの時に、皆さんはどのようにすれば良いのでしょうか? 皆さんはこれまで歩んできて、世界的なイデオロギーを代わりにできる道を開拓し、築いたその場で過去のすべてを善の価値として吸収し、すべての生物の前に提示できなければなりません。また、皆さんが動いている環境を全体的な価値を代わりにして表す環境に整えなければなりません。
では、このようなことを何を持って成し遂げることができるでしょうか? これまでのどの学問、どの宗教、どの哲学でもなく、それはただ私たちの心を通じて決まるものです。お互いの感情、神の感情を通じてその心の結節点が統一的な目的体として現れなければならず、またそれが現れる中で生活の価値を見出して築かなければなりません。そうした時に初めて神の栄光が現れるのです。
それでは、これまで人間が何を求めて苦労してきたのでしょうか? 人間の心を代わりにできる天運の感情を見つけ、その感情と私たちの心が一つになるように今まで努力してきました。一つになったその心は絶対的な心と結びついているため、その心は誰が削り取ろうと削り取ることができないということです。ですから、これと同様にどのイデオロギーや主張でも侵犯できないそのような心を私たちは今まで探し続けているのです。
ですからもし皆さんがこれを見つけられなければ、皆さんは必ず悲しみと嘆きから逃れることはできないでしょう。このような分かれ道が今日の私たちの前にあることを皆さんは知っておかなければならず、またそれを見つけるべき摂理の意志どおりに皆さんの心はより高い感情を追求していかなければならないでしょう。
そうしてそのものを私たちの生活領域内において、永遠の目的体として、すべての生物の永遠の目的体として、または永遠の価値の実体として皆さんが証明できなければならず、また皆さんがそのような価値を持つ存在、すなわち皆さん自身がそのような歴史的な目的体として証明され、歴史的な価値の実体として証明されなければなりません。そうした分離された状態でなく一体化して行く場所から初めて神の栄光が現れるのです。
したがって、神を中心に据えたすべての生物が二者ではなく一つの目的体として動いているのと同様に、皆さんの心も何か良いことがあるときには自分だけが楽しむことで終わるのではなく、全体が楽しんで喜ぶことができる全体の価値として結びつけなければなりません。
このように、皆さんの心を中心にして、すべての人の心を一つにするこの道が、皆さんが進むべき道であることを知らなければなりません。つまり、心と心を通じてお互いが調和でき、お互いが楽しむことができるこの一つの道を見つけて進むことが正しい道であるということです。
これまで人間は歴史を超えて変わらない心の法則を持っています。つまり、昔も今も、人間本質の心は時代を超えて変わりません。しかし、人間はその変わらない心を持つ人々が進む価値の道をまだ見つけていないということです。
しかし、今日、私の心と皆さんの心が合わさり、宇宙的な全体の価値と結びついているため、皆さんは必ず天運の感情と通じる一つの秘輪を見つけなければなりません。もし見つからなければ、この地上にどんな理想主義があるとしても、それは地上で崩れ去ることを知らなければなりません。
ですから、これまで人間はそれを見つけるために宗教を探し始めましたが、その仕事を代表して現れたのがキリスト教です。それではキリスト教の中心であるイエス様がこの地上に現れる際、何を持って現れることになったでしょうか? イエス様は愛を中心に現れたのです。
イエス様は人間の心を統一し、人類を統合し、天運さえも統合できる愛としての秘輪を立てて現れたこの事実が、今日私たちにどれだけ驚くべき恩寵であり、驚くべき福音であるかを皆さんは確かに認識しなければなりません。
ですから、皆さんの心が楽しむことができ、皆さんの心が動かせるその愛が、今日の終わりにおいても、生活を通じて、世界を通じて、さらには天運の感情と一体化した愛の関係として現れる基準まで進むべきだということです。また、各分野でそのような目的を示し、そのようにして進める力を備えてきた宗教であれば、必ずそのような愛が必要とされるでしょう。
では、そのような愛を見つけるためには何が必要でしょうか? これまでの私たちの生活や私たちの概念、これまでに私たちが持っていた心やどのイデオロギーでもないということです。皆さんはこれらすべてを清算し、皆さん自身の心に天運の感情があるかどうかを自己反省しなければなりません。
そして皆さんは自分の心を無限に動かし、解放しなければならず、そのような生活の環境を持たなければなりません。もしもそのような皆さんができなければ、皆さんは絶対的な感情と通じる心を持つことはできないでしょう。
そのような境地に住んでいる人がいれば、彼は一つの個体でありながら、全宇宙を貫通する価値を持つ存在として、いつでもすべてを吸収できる中心的存在となるでしょう。そして、彼はそのような使命を十分に処理できるでしょう。したがって、今日、私たちはこの目標に向かって信仰生活を送っています。
しかし、もし今日私たちがこの一日の最後の目的地を見つけられないなら、皆さんはこの地上で永遠に戦いの歴史から逃れることはできず、永遠に嘆きの歴史から逃れることはできず、永遠に悲しみの歴史から逃れることはできないことを意味します。これを皆さんが心に留めておくことを望みます。
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