人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集3(4)

2024年01月27日 16時19分54秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 3-4 道とその目的と価値 (1957年 9月 29日)

道とその目的と価値

1957年9月29日(日曜日)、前本部教会。


<祈祷>
 愛のお父様! 今日はすべての万民があなたの前に出て、自分のすべてを清算しなければならない日であることを知っています。
私たちは、過去の1週間を過ごす中で、お父様の前に正しくなかったことが多かったでしょう。愛のお父様よ、その間に私たちが不足していたすべてをこの一時間で許してください。おおんぼけへりょうひして ください。そして、柔和で謙虚にあなたの前に伏せ、懺悔できる心情を持つことを許してください。切に願い求めます。
そして、1週間の間に誤ったすべてを清算すると同時に、生涯の間に些細だった私たちのすべても、あなたの前に隠すことなく出せるこの時間に導いてください。切に願い求めます。
お父様、この時間に私たちが先にあなたを見つけた喜びと歓びを感じさせてください。次に、私たちが失ってしまった自分の姿を見つけることができるよう、感謝し、また、あなたを見つけたその喜びと栄光を差し上げることができるよう、許してください。
お父様が探し求めていた本来の姿を見つけるよう、導いてくださったお父様の御恩に、私たちは心から喜び、楽しむことができるこの時間に導いてください。愛するお父様、切に願い求めます。
私たちの心の中でお父様を見つけ、お迎えする前には、私たちの生の目標を見つけることはできませんし、サタンと戦う力の要素を持つこともできません。私たちの中心がお父様と一致しない限り、通じないことは避けられません。私たちの中心が移動しない中で意志を為す力を持つ子供になるようにお許し願いたい。お父様、切に願い求めます。
お父様、この国を憐れみ見てください。そして、この民族を代わりに集まる数多くの祭壇を祝福してください。特に孤独な祭壇でお父様の前に行く気持ちで訴えている子供も多いので、お父様よ、彼らの友となり、彼らの慰めとなりますように。
彼らのすべての生命の指導者となり、彼らに永遠の生涯の理念を共有できるようにし、愛の理念を議論できるこの時間が与えられるようにしてください。愛するお父様、切に願い求めます。
お父様、ここに集まった子供たちが、お父様の前に自分のすべてを出し、真剣に告白しています。愛の気持ちで私たちを探してください、親の気持ちで私たちを見つけてください。私たちに永遠に変わらない人格の中心を持たせてください。そして、お父様の気持ちを理解し、お父様の代わりに意志を負うことができるように、また、この時間にお父様からの命令を受ける子供たちになれるようにお許し願いたい。愛するお父様、切に願い求めます。
この一時間、唯一お父様の前に委ねました。最初から最後まで主宰してください。栄光の勝利だけが全体の頭上に臨むようにお許し願います。愛するお父様、切にお願いし、望んで、すべての言葉を主の御名においてお祈り致しました。アーメン。



<御言葉>
 今日、皆さんと共有したいお話のタイトルは『道とその目的と価値』です。『道とその目的と価値』というタイトルで、少しだけお話しいたします。人間だけでなく、この地上に存在するすべての生物は、一つの道を見つけ出しています。目の前に見えるすべてのものも、それぞれの個体目的を達成するために絶え間なく活動しています。そして、人間は長い歴史の中で、自分たちも知らないどんな中心的な道を見つけ出してきました。そのため、現在歩んでいる皆さんの道がその中心的な道と異なるなら、皆さんはその中心的な道を選びながら進む必要があります。
人間には個別に歩むべき道がある一方で、集団・社会・国家・世界を通して進むべき道もあります。さらに進んで天倫を通して進むべき一つの道があることを、皆さんは確実に理解しておかなければなりません。
皆さんは今日の自分がこのような現実の中で生きていること、たとえ一つの個でもこの国の存在が本来天倫の意志に向かって進むべき存在であることを感じるでしょう。しかし、その道を進むにあたり、自分の責任を自ら負うことが難しいことに気づくでしょう。
しかし、もし人間がそのような状態から抜け出し、自分を永遠に責任を負えるし、永遠に誇れる道を歩む人間になれば、今までの歴史の過程でまた地上で感じなかった新しいイデオロギーや事実を多く感じることでしょう。しかし、今日の皆さんは自分が進むべき道の目的地を知らずにただもがいている自分を感じるでしょう。これと同様に、人間は堕落した後、今まで自分も知らない道、目的もない道を彷徨っているのです。
しかし、こうして古代から先祖たちが一つの道を見つけ出してきたことは個人で終わりませんでした。個人が合わさり家庭を成し、家庭が合わさり社会を成し、社会が合わさり国家を成し、国家が合わさり世界を成し、その世界がまた合わさって進むべき何らかの道を見つけて彷徨ってきたのです。今日の皆さんは生活圏内でこれをよく感じていることでしょう。
個人がどのような生のイデオロギーを見つけ出そうとするとき、必ずどのような道を進むべきかを考えなければなりません。そして、その道は自分の一つの個人と全体が関係を結べる一つの結末点を向かう道だということです。このように過去の多くの人々は複雑な戦いの道を彷徨いつつ、その戦いの結末点である統一のイデオロギーを向かって動いてきたことを今日の皆さんは否定できないでしょう。
その戦いの目的が達成されるその日において、その目的自体と私たちが永遠に断つことができず、変わることができない立場から、一つから全体まで関連づけられる一つの大きな価値を見つけると、今日の人間が進んでいる道の目的地が見つかるのです。
しかし、今日の私たちが個々の宇宙的な全体の価値を見つけようとしても、私たちの心と体がそれと合う環境でないため、多くの方向で戦いが起きています。したがって、私の心と体が天倫を向かう道と永遠に一体化できる関係を築かなければ、その目的を見つめ、私が現在の生活から楽しむことができ、その価値を生のイデオロギーの中で楽しむことができるのです。
したがって、今日の世紀末的な環境に直面している皆さんは、自分が進むべき道がどのような目的を中心にし、その道と皆さんが残している距離が何かを、皆さん自身が自己反省しなければなりません。しかし、その道はさまざまなものであるでしょう。
宗教を通して進む道もあるでしょうし、科学を通して進む道もあるでしょう。または政治・経済・哲学など、各分野でそれぞれが進むべき道もあるでしょう。たとえそれらの道が永遠の全体的な道と異なっていても、その結末の目的地が全体が歓迎できる統一に向かって集まる時に、求めていた新しい道が現れることになります。
今日の各個個体が新しい道に出発できる永遠の価値を見つけたかどうかを考えると、誰もがそのような価値や目的を見つけていないことが分かります。つまり、私たちの新しい生のイデオロギーを築くことができ、新しい生の力を形成できる天的な価値、天的な目的自体として動くことができるその基準を、今日の私たちは宗教においても、科学においても、または文化的な面など、どの面でも見つけていないということです。
それではなぜ人間は今でもそのような目的や方向、または目的自体さえも知らない立場にあるのでしょうか?それは今日の私たちの心と体が天倫と合わさるその一基準を見つけて築けなかったからです。つまり、人間は私たちの心と体、天倫が合う一基準を見つけて築く前には、決して宇宙的な目的と結びつく新しいイデオロギーや関係を築くことはできないということです。また、たとえ私の心と体が一つになったとしても、心と体だけが一つになったその場所では、私たちが永遠に安息し、統一のイデオロギーを感じるその場所を自己の一所が取れないということです。
ですから皆さんは、どのような立体的な一つの目的の価値を皆さんの個体と関わるその自体として、全体の生活のイデオロギーと生活の力として表現できる一つの中心を皆さんの心と体を中心に、または魂を中心に動くようになると、そこにやっと神の全体の価値を触れて検討できるということをはっきりと知らなければなりません。
今日の私たちが心と体を通して歩むこの路程は、どのようなイデオロギーの終着点として現れるだけでなく、心と体を超えて永遠で全体的な天的な価値を支配し、一つの主体と関わりを持つようになると、そこにやっと私の心も留まることができ、私の体も留まることができるということです。
ですので今日の人間は心と体が分かれていて、また心と体が天倫と分かれていることを結ぶために、宗教を通してこのような道を見つけてきたし、また神は堕落した人類を救うために、このような道を通して私たちを見つけてきているのです。
では、これまでに人間に紹介された科学的な真理や宗教的な真理が本来、人々が歩んでいくべき究極の道を示してくれたでしょうか?まだそれを示していないということです。まだ人間は心と体が一つになり、永遠の天的な法則、あるいは何らかの絶対的な神、創造主と一体となる一つの基準を私たちの生活を通した生涯のイデオロギーの中で見つけ立てていないということです。
したがって、皆さんはまだ自分がどのような方向に進んでおり、どのような位置にいるかを確実に知ることができないでしょう。皆さんは創造主にはどんなイデオロギーがあり、創造された存在にはどんなイデオロギーがあるだろうとしても、それらが皆さん自体から離れては何の関係もないことを知らなければなりません。ですから創造主と被造物の最高のイデオロギーの中で、私を通じて示されることができ、そのイデオロギーの目的が達成された場所で全てを忘れて楽しむことができる一つの基準を持つべきだということです。もしも皆さんがそのような基準を持たないのであれば、現実の生活で世俗的な環境を乗り越えることはできないでしょう。
したがって皆さんは、そんな絶対的な価値を紹介できる一つの目的体を自分の生涯の状況で見つけ出さなければなりません。しかし今日の多くの人々は、現在を終末だと予告しており、私たちもそれをよく知っています。歴史の最後の終結時代に達したということです。また様々な社会の慣習や環境、自然現象、つまり気候や季節などもこの一つの目的を達成させるために動員されていることを皆さんは知らなければなりません。
そしてこうした状況に直面している今日の皆さんは、皆さん自身が人倫と合うことのできるそのようなイデオロギーだけでは、決してその目的を達成できないと感じるでしょう。またこれまで多くの人々が歩んできたし、また今も多くの聖賢が見つけてきたその過程では、全体の価値や目的を決して達成できないと感じるでしょう。
それではこのような環境と立場に置かれた私の一体自体を見つけ立てなければならない私たちに要求されるものは、何でしょうか?これまでの人倫を離れて天倫と永遠の縁を結ぶことのできるその一つの道を、現代の人類史の終末に示さなければならず、また人間が住んでいるこの世界にその意志を達成させておかなければならないということです。もしもそのような皆さんがなれないならば、皆さんの生涯の状況は絶望から始まり、絶望で終わることでしょう。
このような出来事が実現するための歴史であるため、この巨大な宇宙は個々から出発して全体の目的、つまり統一的な合一点に向かって動いています。そのような統一点は、必ず歴史的な終末時代に現れるでしょう。そして、その統一点もまた一つの中心から離れては永遠の関係を結ぶことができないため、人間が考える人間的な標準を超えた天倫や、または全体の目的と結びつけることができる一つの中心を通じたすべての力の目的体として現れるでしょう。これがまさに歴史的な終末時代に現れる新しい革命であるということです。
今日、私たちが置かれている20世紀の文明圏内、または各自が直面している分野で、新しい革命的な条件を見出し、それを自分の生涯の中で目的の中心に据えるならば、それらの条件は人間の理念を通じても同時に天倫の理念を通じても価値を持つようになります。したがって、もしもあなたがこのような革命的な条件を自分の生涯の中で中心的な生命の目的に据えることができないならば、あなたは人間の全体的な目的と関係を結ぶことはできません。
ですから、今日はすべてが終わった時です。政治であれ、哲学であれ、宗教であれ、すべてが最後に達したのです。これまで宗教は宗教としての使命を果たしながらも、最終的に確立しなければならなかった一つの基準はまだ紹介されていないということです。政治もそうであり、哲学もそうであり、どの文化的歴史の状況もまたそうでした。
しかし、今これが時です。いずれにせよ全宇宙が一つの目的を通じた統一の理念を中心に動いていかなければならない時です。宇宙を創造された造物主がいる以上、それは必然的な使命であり、造物主の理念を通じて表れるそのときには、これまで信じてきたあの程度、これまで崇拝してきたあの文化的な条件がもはや問題を解決するのには到底ならないことです。
つまり、これまで長い歴史の過程を通じて人間の良心を中心にし、または身体を中心にしてそのような問題を解決しようとしましたが、完全に解決できなかったということです。つまり、そのような人間の究極的な問題を解決するには、これまでの宗教、これまでの哲学、これまでの科学では到底無理だということです。
ですから、どれほど20世紀の科学文明を誇る現代人であっても、科学を通して新しい宗教の理念を見出すことができる新しい科学、哲学を通しても哲学そのものに留まらない何らかの新しい理念の哲学、また宗教を通しても今までのあらゆる宗教が持たなかった新しい理念を持つ宗教を見つけなければなりません。そのような時代が必ず訪れることです。
それゆえ、皆さんはどの分野で生活しようとも、どんな瞬間も心からの平安を持つことはできないでしょう。また、皆さんの生活環境において、全体の目的を代わりに果たし、神の前で誇り高く立ち上がれる条件が欠けていることです。ですから、神は今までこのような生活を送ってきた人々を見つめ、ため息をつかれるしかなかったし、歴史の過程は哀れな争いの過程を経てきたのです。
今日、皆さんも自分が置かれている現実の中で究極的な目的地に到達できていないので、皆さんが住んでいる環境、滞在する場所の至るところで戦わざるを得なくなっています。しかし、皆さんはそのような戦いの環境で勝利して、父の前で、他の人の前で、またはすべての創造物の前で、誇りを持って立ち上がり、自慢できる姿として現れていません。
もし、皆さんが嘆きと悲しみ、憤りの中で生きている自分を否定できないならば、まだ進むべき道が残っていることをはっきりと認識しなければなりません。
もしも神が存在し、天運を定められているとすれば、神の目的であると同時に人類の目的にもなり得る一つの目的地と、今日地上に住む私たちの心と体が一体となれるような統一の中心が必ず存在しなければなりません。それを皆さんは見つけなければなりません。
皆さんにもどんな欲望があるでしょうが、その欲望は単なる個人にとどまるものではありません。その欲望は個人を超え、世界を超え、私たちが想像することのできない場所に到達したいというものです。
では、今日の私たちの心に現れるその欲望がどのようなイデオロギーと関連していないかと問われれば、そうではないということです。現在私たちが生活している生活環境は宇宙のイデオロギーと繋がっているのです。
皆さんは自ら一個人を中心にし、これまでの習慣や自らが知っている範囲で自己満足できないと感じているでしょう。それは人間が選択した本来でないものであり、人類の道徳法則や天運の法則を超えて、全てのものを統一的なイデオロギーで支配できる一つの主人公を求めてきたからです。
今日においても私たちの心がそうであり、生活もそうであり、見つめているすべてがそうであるということです。皆さんの個人の生活が個人にとどまるならば、皆さんは一神の価値を全体の前に示すことができないでしょう。なぜなら、人間は現実で生きているけれども自分だけが生きることを望んでいるのではなく、全体が生きることを望んでいるからです。また、人間が欲望を抱えているとしても、それは自分だけのためではなく、全体のための欲望でなければならないということです。
では、今日の皆さんはどこに向かって歩んでいますか。皆さんは自分のために歩んでいますか、社会と交わるために歩んでいますか、それとも国家と交わるために歩んでいますか、あるいは世界と交わるために歩んでいますか?皆さんは世界と交わることのできる歩みを歩まなければなりません。
そのために歴史的な終末時代を迎える今、すべてが世界的なイデオロギーを通じて方向を示さなければならないということです。私たちが計画する事業もそうであり、私たちの生活もそうであり、私たちのイデオロギーも全てがそうであるということです。
しかし、これまでの私の生活はそのようなイデオロギーに基づいておらず、それを紹介する生活とはなりませんでした。また、私たちが生活している現実もそのような環境にはなりませんでした。そして、滞在している環境で自分が最も価値あるものを持っているにもかかわらず、自分の永遠の理想を満たすことができる何かを見つけられない立場にあるということです。そのために今日の私たちにはこれから進むべき未来がまだ残っていることを知らなければなりません。
この時代を歴史的な視点から観察した多くの人々は、今が終末であると言っています。この終末に人間的な要求が絶たれるならば、人間は絶望の中に陥るでしょう。したがって、その時においては人間的な要求が人間の歴史と関係を結びつけ、一つの目的を紹介できる中心が現れなければなりません。そしてその中心が皆さん一人一人を通して、新しい天運や新しい宇宙の歴史と関係を結びつけて現れる時、そこからやっと新しい道に進むイデオロギーが見つかるということを皆さんは確実に悟らなければなりません。
さて、皆さんは自分が立っている環境を再び見直さなければなりません。今、自分がどのような環境に滞在しているか、自己反省する必要があります。皆さんの中に学問を研究する人がいますか?ただし、その学問だけで終わるものではありません。また、宗教を研究する人がいますか?その宗教だけで終わるものではありません。それらを超えて絶え間なくより大きく、新しい次元のものを求めなければなりません。
それはどの方向からもすべてを結びつけ、どの方向からも公共の価値として現れ、どの方向からも生活的、またはイデオロギー的な中心として動かれることができなければなりません。そして、それが皆さんが生活している実生活圏内で直接的な力を示すことができなければならないということです。もしそのような力を示さないならば、人間が希望し、求めている全体的な生の目的地まで導く存在があることを認めることができません。
自然現象によって雨が降ると、その雨水は流れて川に入ります。川を経て海に入ります。海に入った水はここで一つになり、新しい調和を生み出します。海水は再び蒸発して水蒸気になり、再び雨となり、すべての草木を育てるものです。
同様に、何かがどのような経路を辿って全体に統合されるためには、静止した状態で滞在するのではなく、それ自体を超えて新しい価値を見つけることが天運の法則であるのです。
人類の歴史を振り返ると、個々の個人が集まり全体を成すようになりました。彼らはそれぞれ一つの主義を中心に集まりましたが、今では二つの流れが現れる事実がわかります。
しかし、これらの2つの流れが一つに結集するとき、単にその集まり自体に満足するだけではなく、統一された目的地に向かって進むべきであり、また、過去の古くなった形態とは異なる変化に富んだ新しい価値の環境を形成して全体に影響を及ぼすべきだということです。
ですから、今日の皆さんがどの分野で最も優れた能力を持っていたとしても、その能力だけで終わってはいけません。皆さんは全体の目的を見つけ出す過程にあるため、それを踏み越えて一歩進んでいくべき立場にあるのです。
したがって、皆さんはどこまで行っても、今までの科学を通じては天運の法則と関連を持つ調和を生み出すことができず、今までのどんな哲学を持っても新しい調和を生み出し、想像もできない楽しみと感謝を覚えつつ生きる世界を築くことができません。
しかし、人間はどうしても宇宙的な目的の中心を見つけ出さなければならない立場にあるため、私たちが最も優れていると言える何かを持ち、世界を統合し、宇宙と関係を築いていく新しい宗教的なイデオロギーを見つけ出さなければなりません。
哲学を研究する人でも、哲学だけで全てが終わるわけではないことを認識しなければなりません。これまで哲学として人類は立ち上がってきましたが、それだけでは足りなかったので、天運と結びつけることができる宗教を見つける必要があります。科学者も同様です。現代の科学が全体の価値を代わりにして人類の平和と幸福をもたらすことができない立場にあるため、科学者もまた全体的な一つの目的と関係を築いていかなければなりません。
もしそのような関係を築いていけないならば、この世界は一つの統一された世界になることはできません。つまり、だれもが一つの中心を見つけて結びつけられない場合、今日の宇宙が進む全体的な目的地も、そしてその目的を通して現れる全体的な価値もそうした関係とは何の関係もなくなるということです。
そしてまた、そうした立場からすべてが終わるならば、私たちはここから神が存在するという事実を証明することができなくなります。神が存在すれば、そのような全体的な価値の目的を各分野で世界的なイデオロギーとして対峙させ、各個人が追求する目的を証明できるからです。したがって、どんな偉大な科学者、哲学者、または宗教家でも、そうした一つの中心を持つことで初めて、そこから一つにまとまり始めるということです。
しかし、現在までの宗教や哲学ではこの問題は解決されないということです。人は誰でも全体の目的を代わりにでき、全体の価値を代わりにできる一つの中心をいずれかの時点で迎え入れなければならないということです。そうしなければ、各自の身体と心を通じて天運と結びつけるその基準が、世界的などの目的体として現れ相対的な価値を認められるようになるのです。こうして人々が歩んでいる道が目的や価値の面で新しい調和の法則が生じることによって、神の栄光が始まるということを皆さんは知っておかなければなりません。
もともと神がアダムとイブを創造された際、そのようなイデオロギーを持って創造されたのです。無限で絶対なる神が、自らが創造したアダムとイブがその無限性と絶対性を生活のあらゆる面で具現化し楽しむことができるように創造されたということです。
ですから、今日の私たち人間も帰還の誓いを通じて、その無限で絶対なる神を感じることができなければなりませんし、心の世界で感じるその無限で絶対なる価値を実際の有限権限内で理想的な力の要素として立てなければなりません。そうした時に初めて、そこから天地の調和が生じるのです。
信仰の道を歩む私の身体と心が無限で絶対な神の前にとどまり、彼と同居することになると、創造主の目的が私の目的であることを感じることになり、また、その場所で喜びを感じるときに現れるその価値が相対的でなく、立体的に現れるのです。そこから初めて神の栄光が始まるということを私たちは知っておかなければなりません。
しかし、今日の人々はこのような問題を越えられず、すべてがため息と絶望、恐れに包まれています。哲学や宗教、科学もそれ自体がその限界を越えると、すべてが暗黒の中に没してしまっているということです。ですから、そうした立場では必ず無限であり、かつ絶対的な何らかの力と関係を結ばなければならないのです。これは哲学や宗教、科学も同様です。
したがって、皆さんはこうした動きが歴史だけでなく、この世界に存在するあらゆるものを含むことを知らなければなりません。
私たちの心を通じて進んでいくその道が、天運の法則を通じることができる道で終わらず、天運の法則と結ぶことのできるそのような因縁の一つの基点を見つけ出さなければなりません。皆さんには世界の目的を向かって歩んでいると思っていても、その進む過程で自分の心ではなく絶対的な何らかの心と結びつけることを要求され、人間的な因縁を超えた最高の宇宙的な存在を感じてほしいと思うでしょう。
今日の宗教が価値を持つと言われるのは、このような経緯があるためです。宗教は人間が自分の心を通じる特定の感情に留まるためだけでなく、これを超越するある神の存在を認め、その神に内在する無限で絶対的な価値を追求しているのです。ですから私たちの心がその無限な天運の感情と結びついていくと、驚くべき価値が現れるのです。
それでは、多くの人々が今日を終末と予告しているこの時に、皆さんはどのようにすれば良いのでしょうか? 皆さんはこれまで歩んできて、世界的なイデオロギーを代わりにできる道を開拓し、築いたその場で過去のすべてを善の価値として吸収し、すべての生物の前に提示できなければなりません。また、皆さんが動いている環境を全体的な価値を代わりにして表す環境に整えなければなりません。
では、このようなことを何を持って成し遂げることができるでしょうか? これまでのどの学問、どの宗教、どの哲学でもなく、それはただ私たちの心を通じて決まるものです。お互いの感情、神の感情を通じてその心の結節点が統一的な目的体として現れなければならず、またそれが現れる中で生活の価値を見出して築かなければなりません。そうした時に初めて神の栄光が現れるのです。
それでは、これまで人間が何を求めて苦労してきたのでしょうか? 人間の心を代わりにできる天運の感情を見つけ、その感情と私たちの心が一つになるように今まで努力してきました。一つになったその心は絶対的な心と結びついているため、その心は誰が削り取ろうと削り取ることができないということです。ですから、これと同様にどのイデオロギーや主張でも侵犯できないそのような心を私たちは今まで探し続けているのです。
ですからもし皆さんがこれを見つけられなければ、皆さんは必ず悲しみと嘆きから逃れることはできないでしょう。このような分かれ道が今日の私たちの前にあることを皆さんは知っておかなければならず、またそれを見つけるべき摂理の意志どおりに皆さんの心はより高い感情を追求していかなければならないでしょう。
そうしてそのものを私たちの生活領域内において、永遠の目的体として、すべての生物の永遠の目的体として、または永遠の価値の実体として皆さんが証明できなければならず、また皆さんがそのような価値を持つ存在、すなわち皆さん自身がそのような歴史的な目的体として証明され、歴史的な価値の実体として証明されなければなりません。そうした分離された状態でなく一体化して行く場所から初めて神の栄光が現れるのです。
したがって、神を中心に据えたすべての生物が二者ではなく一つの目的体として動いているのと同様に、皆さんの心も何か良いことがあるときには自分だけが楽しむことで終わるのではなく、全体が楽しんで喜ぶことができる全体の価値として結びつけなければなりません。
このように、皆さんの心を中心にして、すべての人の心を一つにするこの道が、皆さんが進むべき道であることを知らなければなりません。つまり、心と心を通じてお互いが調和でき、お互いが楽しむことができるこの一つの道を見つけて進むことが正しい道であるということです。
これまで人間は歴史を超えて変わらない心の法則を持っています。つまり、昔も今も、人間本質の心は時代を超えて変わりません。しかし、人間はその変わらない心を持つ人々が進む価値の道をまだ見つけていないということです。
しかし、今日、私の心と皆さんの心が合わさり、宇宙的な全体の価値と結びついているため、皆さんは必ず天運の感情と通じる一つの秘輪を見つけなければなりません。もし見つからなければ、この地上にどんな理想主義があるとしても、それは地上で崩れ去ることを知らなければなりません。
ですから、これまで人間はそれを見つけるために宗教を探し始めましたが、その仕事を代表して現れたのがキリスト教です。それではキリスト教の中心であるイエス様がこの地上に現れる際、何を持って現れることになったでしょうか? イエス様は愛を中心に現れたのです。
イエス様は人間の心を統一し、人類を統合し、天運さえも統合できる愛としての秘輪を立てて現れたこの事実が、今日私たちにどれだけ驚くべき恩寵であり、驚くべき福音であるかを皆さんは確かに認識しなければなりません。
ですから、皆さんの心が楽しむことができ、皆さんの心が動かせるその愛が、今日の終わりにおいても、生活を通じて、世界を通じて、さらには天運の感情と一体化した愛の関係として現れる基準まで進むべきだということです。また、各分野でそのような目的を示し、そのようにして進める力を備えてきた宗教であれば、必ずそのような愛が必要とされるでしょう。
では、そのような愛を見つけるためには何が必要でしょうか? これまでの私たちの生活や私たちの概念、これまでに私たちが持っていた心やどのイデオロギーでもないということです。皆さんはこれらすべてを清算し、皆さん自身の心に天運の感情があるかどうかを自己反省しなければなりません。
そして皆さんは自分の心を無限に動かし、解放しなければならず、そのような生活の環境を持たなければなりません。もしもそのような皆さんができなければ、皆さんは絶対的な感情と通じる心を持つことはできないでしょう。
そのような境地に住んでいる人がいれば、彼は一つの個体でありながら、全宇宙を貫通する価値を持つ存在として、いつでもすべてを吸収できる中心的存在となるでしょう。そして、彼はそのような使命を十分に処理できるでしょう。したがって、今日、私たちはこの目標に向かって信仰生活を送っています。
しかし、もし今日私たちがこの一日の最後の目的地を見つけられないなら、皆さんはこの地上で永遠に戦いの歴史から逃れることはできず、永遠に嘆きの歴史から逃れることはできず、永遠に悲しみの歴史から逃れることはできないことを意味します。これを皆さんが心に留めておくことを望みます。

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御言葉選集3(3)

2024年01月21日 16時05分28秒 | 学習
文鮮明先生の御言葉集 3 - 3. 本郷の縁を求めて進もう(1957年9月22日)

1957年9月22日(日曜日)、前本部教会

聖書拝読:ヨハネによる福音書 14:1-7


<祈祷>
 戦いの一週間を制して出ましたので、父なる神の深い愛の聖なる姿が私たちの心と体に臨まれますように。私たちは父のふところに包まれ、愛のお父様、満ち足りたあなたの命に沈む愛の喜びを、この子どもたちに授けてください。

お父様の心情、お父様の尊いものをこの時に理解できないとすれば、私たちの誤ったすべての罪の縁を消し去ることはできないことを知っています。慈悲深いお父様、これからはただあなたの愛の中に身を委ねさせてください。そして、私たちがあなたの御旨の前に誠実に心を尽くせるように、お父様の計画の前に心を傾けさせてください。

お父様の導きに従って、私たちが本来の目的を理解し、本来の心情を心に感じられるようにしてください。それによって、地上に立てられた私たちの全般的な責任を担い、他者のためになる愛する子どもたちとなるように許してください、私のお父様、熱望しています。

今日まで困難な道を歩んできたとき、悲しい状況があるときには、私たちよりも先に悲しんでおられたお父様でした。私たちが絶望の中で自己嘆息するときも、お父様が私たちのすべての罪を代わりに悔い改め、敵が中傷する場で代わりに戦ってくださったお父様であることを思い起こします。

この一瞬でも、身も心も捧げて差し上げようとも、今までご苦労されたお父様の御恩の前に報いる方法はないことを心と体で感じさせてください、愛するお父様、熱望しています。

お父様! 多くの人々の中で取るに足らない者たちを呼び立て、数多くの民族の中でこの民族を呼び立てられたお父様の前に、何も自慢できるものを持っていません。今私たちが望むことは、お父様が苦しまれるとき、一緒に悲しむことができる私たちであり、お父様が喜ばれるときにも一緒に喜べること、お父様が望まれるとき、私たちの心と体がその意志のために燃えることです。

今日ここに集まった子どもたちよ、お父様に守られてください。お父様だけが中心となり、お父様だけが私たちの主となり、私たちが地上で自慢するものが何もなくても、私たちが立っている場所が孤独な場所であり、私たちの歩みが険しい道であることを覚えています。お父様、お任せしてご主導ください。

最後の戦いで倒れるかもしれませんが、「父」と呼ぶその一言の声を通して慰めを受け、私たちは父様の愛の勧告を受け、再び戦っていかなければならないことを誓い、覚悟しているあなたの子どもたちですので、お父様、どうか私たちの身心をサタンに渡さないでください。

どうかお父様の愛の権威の中に抱擁してください。そして、お望みの楽園を築き、すべての人々が喜べるその日を、これらを通して現わすことができるように、お父様、最後まで引き止めて導いてください。切に望んでいます。

今日のこの一時、お父様が許可された御心がこの聖堂に満ち溢れて、この時を過ごすこの場所が6000年の労苦の結晶であることを知らせてください。また、6000年の苦労が若い血の祭壇であることを知らせてください。そして、全人類を代表して捧げるこの一礼が、父の心と意向を開き、父を慰める礼となるように許してください、お父様、切に望んでいます。

今、私たちのすべてを差し出すとき、お父様の御心の前で光となり、お父様の意向の前で誇りに思える中心として残るように許してください、愛するお父様、切に望んでいます。

この日も孤独な家族が地方に散らばり、困難な戦いを繰り広げているかもしれませんので、お守りいただき、保護いただきたいと願っています、お父様、切に望んでいます。この一時間の礼拝の上に、父の慈悲の恩寵が同行し、お願い申し上げます。すべての言葉を主の御名によってお祈り致します。アーメン。



<御言葉>

 皆さんと一緒に考える内容は「本郷の縁を求めて進もう」です。この題目を持って少しだけ説明させていただきます。
今日、私たちは堕落していなかった本来の楽園に向かって再び回復していかなければならないことは、皆さんは既に原理を通して学んでいるでしょう。
堕落した人間としてではなく、堕落していない本来の状態、神を失った人間としてではなく、神を失っていないその場所、真の親を失った経緯としてではなく、真の親を失っていないその場所を見つけなければならないのです。神と理想の真の親を中心に据えた平和の楽園で、子どもたちとして生活できるその場所を見つけていかなければなりません。そのためにも今日、私たちには新しい救いの御心が残されているのです。
もし人類の祖先が善の楽園にいたとき、神と永遠の縁を結んでいたならば、今日私たちにとって救いという言葉は必要ないでしょう。救い主を通して行く条件は必要ないでしょう。信仰という言葉を立てて神を求める必要もないでしょう。これらが不要だとすれば新しい時代という言葉も必要ないでしょうし、悔い改める必要もないということです。
それでは今日の自己を立て直して分析してみると、私たちには新しい希望が要求され、新しい指導者が要求され、新しい生活、新しい実践が必要であり、これらすべてが何によって起こったのかと言えば堕落のためです。
堕落以降、今日まで長い歴史が経過しましたが、まだ人類が望む故郷である本来の理想が実現していません。人々は心からその故郷を懐かしみつつも、その故郷を見つけて楽しむことはできず、その故郷の中で永遠の幸福を味わっていないのが現状です。
歴史上、本来の理想の楽園で楽しんだ者は一人も現れませんでした。どのような新しい使命を負った道の主人公でも、地上でその理念を実現していった者はまだ一人もいません。この日まで、創造主はもちろん、私たちが信じているイエスも、本来の理想の理念を地上で完成させられなかったことを意味します。
人が本来の理想の楽園を懐かしみながら生きるならば、それはどうしてもその責任が神にあるということです。この神の責任と、本来の理想を実現する人間の責任を結びつけるのが宗教です。そのために宗教的な儀式や祈りといった条件を提示し、神は歴史を進めておられることを皆さんも理解しておくべきです。
今日、私たちが住んでいるこの地を見渡すと、どうしても善意の結びつきに従って生きていかなければならない人々であることを否定できないならば、私たちが善良な人とならないことはありません。善意の生活ができる土地、理想の故郷を達成するその日まで、私たちの人生は平坦なものではなく、戦いの歴史が続き、絶え間なくお互いを中傷し合っているのです。だから人々は自分への中傷と嘆きの条件が永遠にこの地で解決されることを望んでいたのです。
これが人の悲しみであり、地上の悲しみです。悲しみと嘆きを経験すべきでない人々が堕落によって悲しみと嘆きの環境に直面しているために、子供たちが受ける悲しみと嘆きを心配している立場から逃れられない創造主として、人が悲しむと神も悲しまなければならず、人が悲しむと神も悲しまなければならない立場にあるのです。
私たちは自分の存在を立て直し、宇宙的な生を持たせる結びつきがあることを理解する必要があります。私たちが生きる環境の背後にも何らかの結びつきがあることです。
ですから、私たちが生命の理念を追求していく中で、最も貴重なものは何でしょうか?それは、自分の生命の背後から、自分が持つ理念と関係を結ぶ生命の結びつきを持つことです。そのような生活の結びつき、環境の結びつき、そして理念の結びつきを見つけるまで、皆さんの心は休むことなく、どんな結びつきでも見つけようとするでしょう。
そして、このような結びつきを見つけて、人間関係だけを解決するのでしょうか?いいえ、人間関係だけを解決するのではなく、これを人間関係を超えて天人に結びつける必要があります。そうした生涯の結びつきであり、生活的な結びつきであり、環境とまたは世界的なあるいは宇宙的な結びつきとしてのその場は、自己を中心にし、証明できる生活を感じることができるとき、人間はついに勝利の日を迎えるでしょう。
人が地上に住む限り、この環境で人間的な法則を超えた生涯の基盤を持つ者はいません。これを考えると、今日私が生まれるためには、地上に存在するためには、どんな縁を通していけばよいのかと言えば、親の縁を通していかなければならないということです。親の縁を通さないと存在できないことを皆さんは心に留めておかなければなりません。
地上に生まれた皆さんは、どのような縁と目的権内にあるかと言えば、富裕な縁を持っているということです。そして富裕な縁を通した後には、どのような縁を持つべきか?生活の理念を追求する際、夫婦の理念を超えることはできないということです。生命の縁と生活の縁を持った後には、何があるべきか?生活の縁と関係を結べる国家と国民の縁を結ばなければならないということです。これが今日私たちが生きている縁権であるということです。
それでは現在私たちが生きている縁権内で、私たちは満足できるでしょうか?いいえ、ということです。これらすべてが備わっていても、心から要求される絶対的な縁があるということです。その縁を私たちは懐かしみ、探していることを皆さんは自分たちの生活で感じるでしょう。
その縁は何でしょうか?それは相対的な立場から人間に対して主体として存在する神の縁です。この世にはそれを感じない人が多いでしょう。
それでは人間がこの地に生まれるとき、どのような永続的な縁を持って生まれたのでしょうか?生を得るための親との縁があり、生活の理念を見つけるための夫婦との縁を通さなければならず、実践的な活動のための国家的な縁を通さなければならず、人間関係を超えて永遠に安息できるその一日を見つける必要があるということです。
しかし、この地は腐敗した世界です。したがって、この腐敗権内で帰還権内に上がろうとする私たちの道を妨げ、これを踏みつけて上がっていくための一筋の縁として、この地に立てられたのが救済の使命を担当する宗教ということです。
地上に私たちが住むとき、天人の法則と人倫の法則に私たちは従わなければならないことです。そして生を任せられる親と通し、夫婦と通し、国家と通し、それが全世界に縁を結ぶことができる自分になり、万物と交わることができるその一日を見つけるためには、命が尽きる日まで皆さんは闘わなければならないということです。激しい戦いを展開しなければならないということです。
歴史の始まりが戦いで始まったため、歴史の終結も戦いで成り立っているということです。もちろん過程もそうです。どれだけ自分を愛してくれる親を持っていても、自分が抱きしめられる国家を持っていても、心の安息の基を失ってしまったこの地の人間であるからこそ、このような戦いを避けることはできないということです。
では、神が優しく思っていることは何でしょうか? この地上には両親のいない人々が悲しんでいるのを見て優しく思っている神ではなく、地上で夫婦がいなくて悲しんでいる神でもありません。国や民族がいなくて悲しんでいる神でもありません。
神が悲しんでいるのは何でしょうか。天倫の理念を通じて成就されていない縁が地上に存在することが神の悲しみであることを皆さんは知るべきです。今日、堕落の子孫である人々が気づくべきことは、自分が抱えている両親や住んでいる国やこの世界が神の理念をただそのまま紹介できていないということです。このような堕落の領域に住んでいる人々は、どうせ一歩進んで果たさなければならない責任や使命があるにもかかわらず、それを知らない人々に対して只々お叱りになるだけが、天の難しさなのです。
それでは、人間が今、永遠の理念の規範を見つけ出すためには、どのような手段を通じて、どのような歩みを踏むべきでしょうか? 現在のものではない飛躍的な条件が必要です。それが何かを知らない条件です。その条件を担うためにこの地に遣わされた方が、あなたが信じているイエスであることを、皆さんは知るべきです。
堕落の子孫である世界の人類は今日、どのような立場にあるのでしょうか? 神を永遠の親として崇める立場から離れていることです。神を通じて生涯の出発を見た人間が堕落によって神を中心にして永遠の喜びの条件を提供できる花嫁と花婿の縁も断たれてしまいました。
この本質的な関係が破壊されたため、個人的には失敗であり、家庭的にも失敗であり、その次には全人類の主である神の栄光を継承できる資格を失い、また神と人間の最大の喜びを約束してくれる環境も失ってしまったのです。
それでは、人間がイエスを信じ、信仰の道を歩むべき本来の目的は何でしょうか? それは堕落の血統を受け継ぎ、現在の環境で楽しむことではありません。それを越え、いつの日か罪悪によって絡まれているすべての原因を清算し、本質の中心を見つけることです。
本質の中心は何でしょうか? そこには両親がいなければならないし、夫婦もいなければならず、自分の家庭を守ることができる環境と国もあるはずです。これらすべてを見つけて成し遂げることが、私たちが信仰する目的なのです。そして神は悪い人間であるが、善意を吹き込むとともに、良心を動かして、このような理念の基準まで引き上げるために尽力されていることを、皆さんは知るべきです。
これを知った上で、皆さんは自分のすべての誠実を尽くし、本質の法則に反している人々や、世界的なものに関して戦うための変わらぬ信念を持たなければなりません。
親から養育され、親の生活を通して、国家的な縁権または世界的な縁権の中で生を営んでいる人々の生活を見ると、人倫を中心とした生活でもなければ、永遠を中心とした生活でもないことがわかります。
堕落した結果として生じたこの地上のあらゆる生活の形態と思想は、やはり審判の日を控えて清算されなければならない運命に置かれています。永遠の理念が実現されていない土地においても、親の縁がなければ悲しむし、夫婦の縁がなければ悲しむし、自分や自分の家族を保護してくれる国がなければ悲しむことを知っているのは、人間がお互いに理解しているからです。
このように変わる可能性がある縁でも、環境を整えなければ悲しむ。永遠の理念を中心にした縁を整えなければ悲しまないでしょうか?このように、人々は地上で人間的な条件をすべて与えられても、そこに加えて天倫の永遠の縁をまた望むことになるということです。
では、今日、私たちの信者はどのように生きるべきでしょうか?変わる可能性のあるイデオロギー的な条件を持って生きるのではありません。変わらない不変の縁を回復し、その縁は別々に存在するのではなく、自分が住んでいる生活領域で全体が一つの縁として結びついていることを知り、自ら神と関係を結びながら生きるべきです。
神との関係を結び、それが実証的な価値を回復し、その時間領域と環境領域で神を心に留め、すなわち神と一体となった縁の中で生きる神の子女にならなければなりません。
そのような生活を可能にする神の実体を感じるならば、その価値は一部のものではなく、全体的な価値が実現されるとき、個々と全体の価値は自分を中心に動き始めるということです。
神は人間に良心を起こさせるように歴史を進めています。この罪の歴史は、いずれ変化を経なければなりません。そして一旦変化し、善の世界になると、その後も変わらない理念の扉を人間に紹介するために、神は計らって出てきています。神ではなく、この仕事をなさるためにこの地においでになった方がイエス・キリストです。そのため、イエスは神とあなたが一体であると言われました。さらに、彼は自分が神の子であり、しかも独り子であると言われました。さらに、彼は人類の花婿だと言いました。これらのことを知るべきです。
信仰の理念で生きてきたユダヤ民族の精神は何でしたか?それは神を信じる信仰でした。だから彼らは神を頼りとする信仰で、神の国が確立されることを望みました。そのような希望を実現させるものがまさにイエスがこの地に来た目的でした。
したがって、イエス様は、「私は諸王の王である」とおっしゃいました。そして、生活の観点からは、どのようなお話をされましたかというと、「私は花婿であり、あなたたちは花嫁である」と仰いました。これは夫婦の一体性の理念を生活領域に確立するためのお話でした。そのため、イエス様は帰られる際にもあなたと聖霊を通して親の歴史を約束されました。
ある面では、イエス・キリストがこの地に来た目的は、地を創造された神は見えないため、見えない神を証明するための人間の代表者として、または神の代理者として来られたと言えるでしょう。
では、このような使命を持ってこの地に来られたイエス・キリストの視野はどのようなものでしたか。まず最初に、皆さんはイエスが天と地を創造された神を「父」と呼べる立場にあったことを知らなければなりません。
今日、多くの人々が堕落の領域、つまりこの地に住んでいますが、イエス様の視点と堕落した人々の視点は異なります。イエス様は神を「私の父」と呼ぶこの一問題に全心を傾けました。さらに進んで、「私の父だけが最上だ」という縁を実現するために悩まれました。
そして、人間に対して「私は花婿」という名詞を立てようとしました。しかし、イエス様は神の前で人類の花婿の資格を備える前に、天の前で花嫁の立場を完成させる段階を経られました。
そのような立場を経て、真の親の理念を持ってこの地に来られたイエス・キリストでしたが、地に住む人々はイエス様を崇めませんでした。彼らは自分たちが崇めている親、自分と共に生活する夫婦、自分が活動する国を持っていたし、自分たちが望む世界もありましたが、それだけでは完全できないことを知りませんでした。
彼らが持っている希望を広め、その理念を生かし、その全体的な生活、歴史的な生涯の条件を生かす神的な価値を持つ理念の中心存在であるイエス・キリストを崇める必要がありましたが、彼らはそうしなかったのです。
神と人類のすべての希望を完成させるために来られたイエス・キリストは、どのような生活をされていたのでしょうか? イエス様は地上のヨセフの家庭で生まれましたが、ヨセフの子ではありませんでした。また、マリアの子でもありませんでした。そして、イエス様が望まれた縁は地上の人々の希望と同じものではありませんでした。
変化する環境で悲しむ親の縁や夫婦の縁、人々が活動している環境的な縁、さらには審判権内にある世界的な縁を超えて、イエス様は善の中心である変わらない天倫の親の心情を感じられたのです。これが神の喜びでした。これが人間が堕落した後4000年の歴史が経過する中で現れる神の子になることができた内容でした。
地上において神を「私の父」と呼べる存在がいなかったこの地に、ようやく神を「私の父」と呼べる存在が現れたのです。こうして変わりうる親の血統を持って生まれた人々が、変わらない永遠の親の縁を見つけ入ることができるようになったのです。
キリスト教の中心は何かというと、聖書です。聖書の中心は何かというと、イエス様です。イエスの中心は何かというと、愛です。そして、愛の中心は花婿と花嫁です。そして花婿と花嫁の中心は何かというと、真の親であることです。皆さんはこの道を歩み出しています。
しかし、皆さんはどれほど知恵があり、自分を立てて神の前に自慢できるとしても、堕落した親の血統を受けて生まれた人々です。変わらない真の親の血統を受けない死んだ人間なのです。死んだ人間は変わらない真の親との縁を結ばなければ、天倫の永遠の縁を取り戻すことができません。このようなものを取り戻すために霊界が動員されて戦っているのであり、この永遠の縁をキリスト教徒たちは願っているのです。天に親の縁が決定され、天に夫婦の縁が決定され、天に国家的な縁が決定されれば、神の栄光がこの地上に移されることができるのです。
創造主の理念を実現するには、人間を生まれさせる親の縁、生活のための夫婦の縁、活動のための国家の縁、宇宙的な縁が結ばれなければなりません。このような宇宙的な創造の理念が人々の生活環境に築かれなければ、神が降臨できないのです。
イエス様が来られてから2000年の間になされたことは何かというと、開拓の仕事でした。それでは今日、開拓の先駆者として来られたイエス様を信じて進む私たちはどうすれば良いのでしょうか? イエス様は「私こそが道であり、真理であり、命である。私によらなければ、だれも父のもとに行くことはできない。」(ヨハネ14:6)と仰いました。
イエス様が行かれた道とはどのような道かというと、親の縁、夫婦の縁、国家の縁を結ぶ道でした。そしてイエス様は天倫の心情を通しておられる方であり、天国の心情を通しておられる方であり、創造者の心情を通しておられる善の中心でした。イエス様は「私は道である。」と言われましたが、この道は何の道を指しているのでしょうか? 「愛の道」を指しているのです。そして真理は「十字架の真理」であり、命は「全体的な命」を指しています。したがって、イエス様を信じなければならないのです。
今日、地上に住んでいる皆さんは生活していく中で心に傷を負ったり、お互いに自分の心情を吐露できる生活領域に住んでいます。しかし、今日の皆さんは希望の主体である神とは連絡を取ることができないと感じるでしょう。これが悲しみです。これを誰が解決してくれるべきなのか、これを解決できる内面的な基準を持つ者がいないということです。
これが天国の嘆きであることを皆さんは理解する必要があります。人は人同士で相互に見たり聞いたりし、自分の感情を表現できますが、創造主である神の感情は6000年の歴史の中で苦しんできました。しかし、どの国にも伝えられていないというのが現実です。天国の感情と連携できる国家的な基準を確立するために、天国はこれまで努力してきました。
このような歴史が6000年を経ても、まだ天国と人間との永遠に忘れられないつながりが確立されていないというのが現実です。このような基準を確立するために、神は多くの預言者を遣わし、イエス・キリストさえも遣わし、導いてこられたことを理解する必要があります。これが神が真の息女を見つけ出そうとした努力であったことを理解する必要があります。
神は理想の中心として、理想的な生活観を達成する立場にいながら、堕落の領域にいる人間と直接的な関係を築くことができないため、先知たちを遣わし、進化を進めるべく動いてこられたのです。これもまた天国の苦労であると言えます。
真に全人類が神を父として迎えるために、神の代理者である救世主を受け入れられる唯一の基準がこの地上に確立されることを神も切望し、期待されているのです。ですから私たちは、人々が本来の人間性の基準と天国が要求する天人の基準に立って、神の父の前で礼拝できるその日を見つけ出し実現させなければなりません。
それでは、イエスが心に秘めたもの、イエスが悲しんだものは何でしょうか?今日、この地上の人々は親がいなかったり、または夫婦や国がないために悲しんでいる人が多いです。しかし、イエスが悲しんだのは神の悲しみを癒すことができなかったことであり、また真の親を中心に真の天国を築くべきであったがそれができなかったことでした。
そして、イエスは絶えず変化する状況で生きる人々に永遠に変わらない天人のつながりを結ぶために努力されました。したがって、皆さんはイエスが示された真理、命、そして愛の道を歩む必要があります。
イエスはこの地上にいながら不変の原則の中心を確立する使命を持って来られましたが、地上で生活できる基盤を失ってしまったため、帰られてこの使命を達成しに出ているのです。
肉と霊が合わさった世界の中心に来られたイエスでしたが、十字架に架けられたために霊的に人々に接するしかなかったのです。これがイエスの悲しみです。しかし、これはまだ神の計画の完成ではないため、再びこの地上に臨まれなければならない条件が残されているということです。
イエスがこの地上に来られて感じたもう一つの悲しみは何だったのでしょうか?もし人々が堕落していなかったなら、自ら良き親を迎え入れて生活できたでしょうが、堕落のために4000年という長い年月の間、真の親を迎え入れられなかったことに対して悔やまれたのです。これが当時の人々が見逃してしまった、イエスが真の親の心を持ち、父の立場に立たれたことなのです。
イエス・キリストの到来を知らないことが神の悲しみであり、神の子供である人類が親とのつながりや豊かさを持てないことが天国の愛と悲しみであります。
現代の腐敗の報いは何でしょうか?永遠の創造主である神を父と呼べないことが腐敗の報いであり、仇です。イエスはこれをよく理解しており、人々に自ら現れて愛の手で導こうとしましたが、人々はその気持ちを理解せず、愛の言葉を述べたとしても人々は無視し、悲しい涙を流しても人々はイエスの情熱を知らなかったのです。
今日、地上に住む皆さんは親に孝行し、国に忠誠を誓い、つまり人間関係の道を歩むべきです。イエスは人間が歩むべき人間の道と天国の道を統合するために来られた方でした。このようなイエスの気持ちを理解したのは誰でしょうか?今日、イエスを裏切る人々が多く、その気持ちを忘れてしまう中、2000年以上前の人々はますますイエスを知らなかったのです。皆さんは、私が本当のクリスチャンなのかと自問する必要があります。
さて、皆さんが達成し、回復しなければならないことは何でしょうか?イエスの気持ちを理解すること、そして6000年にわたって悲しまれた神の気持ちを慰める仕事です。皆さんはイエスを受け入れず、神を悲しませた2000年以上前の人々の代わりに悔い改めなければならず、また現実的な無知を悔い改めなければなりません。
イエスを最後まで見捨てずに従ったのは誰でしょうか?イエスの十二弟子でしょうか?いいえ、イエスの十二弟子の中でさえ三弟子もイエスを最後まで信じて従いませんでした。
神の愛を人々に紹介し、その愛を実践しようとされたイエスでしたが、人々と愛のつながりを持たずに去られました。天人の愛の言葉を伝え、熱い心を持たれたイエスでしたが、捉えて「わが子よ、わが父よ」と豊かな心を交換できる相手を見つけられずに去られたことを理解する必要があります。弟子たちは眠っていましたが、ゲツセマネの庭で夜を徹して悲しみの涙を流しながら祈られたイエスの気持ちと状況を理解する必要があります。イエスの愛の言葉が良いと言う人は多かったが、2000年以上前にイエスは愛する対象がなかった。
このようなイエスの気持ちを通さない限り、イエスと豊かなつながりを結ぶことはできません。
また、イエスを通して夫婦の結びつきを築くこともできず、忠臣、賢女の立場に立つこともできません。
それでは、今日のクリスチャンが探し出さなければならないもの、これから戦って克服しなければならない唯一の中心は何でしょうか?
神を「アバ」と呼び、6000年の歴史的な悲しみに共感し、和解することが求められています。悲しむ父の心を理解し、父を呼び寄せる一言で天と地が再び結びつくでしょう。これらの基準を再び確立できない場合、神の悲しみはあなたから離れることはなく、神の審判の条件から逃れることはできません。
それでは、これを達成するためにはどうすればよいでしょうか?何をすべきでしょうか?イエスの意志を理解するためにはどうすればよいでしょうか?真剣に、教えられた通りに、イエスが歩まれた通りに歩むことが求められています。
イエスはこの地上において肉体を持ち、親に対する孝行の情を示すこともできましたが、それを実現できませんでした。夫婦のつながりも持たず、神の怨みが和解されていないことを知って、快適な環境を捨て去りました。すべての社会的な関係を断ち切ったのです。これが今日、道義のない世界を求める人々が抱える不可避の状況です。
そのためには、避けて通れない天人的な条件があったため、イエスは家庭での拒絶を黙って受け入れ、社会からの排除を黙って受け入れ、サタンの中傷にも黙って言葉を返さなかったのです。
6000年にわたり地上の人間に対して望んでいた神の花嫁を見つけられず、一つの息子娘を見つけられなかったイエスが誰を恨むことができたでしょうか?それでは、イエスの望みは何でしょうか?それは、あなたがイエスと一体化できる中心存在として、イエスの総合的なイデオロギー、つまり生活のイデオロギー、夫婦のイデオロギー、親のイデオロギーを受け継ぐことができる真の姿として現れることです。
そして、イエスはあなたが望む愛のイデオロギーを実現できる人物を望んでいます。そのような姿が現れると、神の計画を打ち明けて協議できる時が来るということです。
これらの人物が現れなかったため、これまでに神の計画はすべて隠され、言うべき言葉のない状態でした。また、イエスも教えるべき状況に教えることができなかったのです。なぜなら、本来の理想を代わりに地上に善のイデオロギーを実現していく真の人物が出てこなかったからです。
したがって、神の計画は象徴的な計画でした。ですから、私たちはこの象徴的な神の計画を具体的に解く運命に置かれています。
創世以後、現在まで、地上において神が心を打ち明け、協議できる一人の人間も現れませんでした。また、イエス様が来られた後、今日に至るまで、自らのすべての信念を打ち明け、語ることのできる一人の人もいませんでした。
そして、イエス様の全体的な信念を形成できる具体的な環境が整っていなかったことも、皆さんがご存知の通りです。では、だれが歴史を代わって神とイエス様の対話相手になるべきなのでしょうか? それは全人類がイエス・キリストの対話相手となり、神の愛の対話相手となるべきです。この段階に達する前には、永遠の縁を歌うことのできる愛を通して親の縁を築くこともできず、夫婦の縁、国家的な縁も築くことができません。
今日の皆さんが本来の道を見つけ出そうとする際、この地上のすべての条件が皆さんに立ちはだかる時が来ます。終わりの時が近づくにつれて、皆さんが良いと思うだけでは十分ではありません。それはどうせ変わらなければなりません。そうでなければ審判の門を越えることはできません。また、永遠の親の縁、夫婦の縁、実践的な国家の縁を築くことができるのです。
終末の天の信念を求めて歩む人がいれば、その人の親が反対することが起こるでしょう。皆さんがその信念を見つけ出すと、皆さんの親が切り捨てる遊びが始まるでしょう。夫婦が切り捨てる遊びが起こり、国家と世界が切り捨てる遊びが起こるのです。
ですから皆さんは、イエス様が歩まれた道を歩んでいく必要があります。イエス様は親から、兄弟から、教会や国家・世界からも捨てられました。しかし、イエス様は牧者の心情で天眞の変わらない法と信念を抱き、帰られたため、その信念は生き残ったのです。そして、イエス様を中心にした勝利の環境が形成されてきたのです。
イエス様を追い出した人類ゆえに、掌握降臨復帰の原則に従い、イエス様を求める人々は親が反対する環境を経て行かなければならず、夫婦が反対する環境を経て行かなければならず、国家が反対する環境を経て行かなければなりません。その決意を持った皆さんがなるべく良い結果が期待されるでしょう。
また、変わらない天眞の親との縁と、本来の夫婦の縁を通して、イエス様のお話にある花嫁の縁によって、一体的な生活信念を築くと同時に、神を拝み、地に対して愛し、国に忠誠できる貢献者になるべきです。その後になって、イエス様の願いがかない、神の愛がようやく人間との関係を築くことができます。
回復の過程で生じる難局を乗り越えるために、過去には天使を通じて摂理を行い、その後、唯一の子を通じて摂理を行いました。今後は父を通じて支配される時がやってきます。ですからパウロは、キリストにある神の愛について語ったことがあります。イエス様の愛だけではだめで、また聖霊の愛だけでもだめです。イエス様と聖霊の愛を通して神の愛と縁を結ぶ基準まで進む必要があります。
それを達成するためには、地上のどんな愛の条件にも縛られてはいけません。また、地上のどんな栄光の座にとどまってもいけません。希望の一日が迫るこの時、私たちは父が審判する恐怖の一日が訪れることを感じなければなりません。
本来のその道を歩むために出発した私たちは、すべてを捨て去らなければなりません。最初に物質を捨て去り、次には親と子供、すなわち家庭を失わなければならず、そして国家と世界まで失う道を歩まなければなりません。
なぜなら、十字架の勝利の頂点を超えられるとき、イエス様は親も失い、親戚も失い、教会も失い、神が約束された宇宙支配の信念すらも失ってしまいましたが、ただ一つの中心だけが変わらないままであったからです。イエス様の中心とは、永遠に変わらない親と夫婦、家族、国、そして世界を構築するものでした。
同様に、皆さんも変わらない永遠の縁のために、一時的な地上の価値と縁を捨て去る覚悟を持つべきです。終末には、自分が良いと思うことによって審判される時がやってきます。皆さんは何を望まれますか? 学者になりたいですか? 間違えれば学位が首を絞めることもあるということです。また、権力を望まれますか? その権力が首を絞めることもあるということです。そして、恵まれた人々はその恵みによってつまずくことがあるということです。これが終末審判と呼ばれるものです。自分が良いと思っていた条件、自分が命じていたその唯一の条件が、皆さんを審判台に差し出すかもしれないということです。
皆さんは困難な状況、厳しい状況でも裏切らず最後まで残り、復活して第二の自分を生み出すことができるべきです。そうした人々だけが天国に行くことができると確信してください。ですから、イエス様は「だれでもわたしに従いたいなら、自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従って来るべきである。」(マルコ8:34)とおっしゃったのです。
そして、イエス様は「わたしが世に平和をもたらしに来たと思うな。平和ではなく、剣をもたらしに来たのだ。」(マタイ10:34)ともおっしゃいました。今日、この時は終わりです。イエス様の言葉どおり、自分の家族が敵です。さらには自分の肉体、国家、社会など、回復されていないすべては敵です。
これほど厳しい状況に対して「父よ、こんな状況を誰が理解できるでしょうか?」と訴える心、天眞の心を持った人だけが真生命を得、勝利の復活を果たすことができるでしょう。イエス様はゲツセマネの庭での最後の審判の祈りで「父よ、もしこの杯をわたしから過ぎ去らせることができるならば、お願いいたします。しかしこれがわたしの願いでなく、あなたの望みであるならば、どうぞ。」(マタイ26:29)とお祈りになりました。
このような信仰が復活の条件となったことを理解し、天の原点に立って戦ったイエス様の心情を理解し、神とイスラエルの民族に結びついたその縁が、あなたを通して結びつけられ、その悲しみを解放できる人にならなければなりません。
このような状態になった後、天が誇りに思える個人になり、その後は天が誇りに思える夫婦、親、孝子となり、国や世界を構築できるようになったとき、その時には宗教は不要になります。信仰という名詞も必要ありませんし、救い主という名詞も必要ありません。ふたりではなく、一つの一体的な縁の中で、神はようやく人間に対して自らの栄光を示す新しい出発をすることになります。
そのような環境に入るためには、あなたはイエス様の後にただ従うべきです。つまり、イエス様の生活理念をそのまま継承し、変わらぬ復活の基準を確立しなければなりません。その基準は人間中心ではなく、天の原点を中心にしています。
だからこそ、天の原点となる親の立場、天の原点となる夫婦の立場、天の原点となる孝子の立場を経て、あなたは天の原点の法則を確立し、聖女の法則を確立し、忠臣の法則を確立しなければなりません。
歴史の中でどれだけの孝子、忠臣、聖女がいたでしょうか? しかし、神からの愛を受けることができる人だけが、サタンの世界に縛られたすべての条件を解き、本来の楽園に入ることができるのです。
そのようなあなたになるためには、どうすればよいでしょうか? 神の心情と一体にならなければなりません。神の意志と一体にならなければなりません。そしてその後、この地上のすべての人間と一体にならなければなりません。イエス様はこの地において一体になるために、一つの天の法を見つけて具体的に実践するために来られた方でした。それは神の意志を中心にし、すべての人間が一体となる使命を持って来られたイエス様でした。
今日、あなたたちはもはや一体とならなければなりません。天に認められる孝子・聖女となり、親を拝むためにはまず兄弟が一体とならなければなりません。そして家庭、国家、世界が一体になるようにしてサタンを見極めることができるあなたにならなければなりません。
そのような使命を果たすためには、あなたはこれから戦わなければなりません。サタンはあなたが復活の栄光の権限に入っても、あなたの後をついてきます。この追いかけるサタンをあなたは追い払わなければなりません。それにはどうすればよいでしょうか? 神を中心にして地上で主人公を見つけ、親を見つけ、夫婦を見つけ、子供を見つけ、天の理念を実践できる天国を築き、天の世界を築かなければなりません。
それまではサタンは常にあなたたちの後をついて回るでしょう。現在、あなたたちの信仰状態はどうですか? あなたたちは神とイエス・キリストの心情に通じる不変の理念の中にいます。しかし、これだけではすべてではありません。あなたたちは責任を持って実践しなければなりません。あなたたちは統一教会に入って、ある程度真理の基準を知っているでしょう。しかし、真理を知り、真理の解放権の中にいて、真理に従ったからといって、あなたが真理の実体になったでしょうか? すべてそうではありません。
イエス・キリストは復活の後、2000年以上にわたり霊的な領域で天の意志のために戦ってきました。同様に、あなたたちも天のために戦える環境を持ち、2000年間の歴史が苦しい歴史であったように、あなたたちも苦しみに打ち勝ち、新しい真理と一致した信仰を持たなければなりません。
神と私たちが結びついていること、父の変わらない心情を私たちは知っています。したがって、私たちは神に慰めを与え、見えないサタンに備えて立ち上がることができる天の兵士にならなければなりません。
6000年の人類の歴史は神の悲しい歴史です。したがって、あなたは死んでも変わらずに父の意志に従う覚悟を持たなければなりません。このような覚悟がなければ、あなたが統一教会に入ってもすぐにやめてしまうでしょう。2000年前にも多くの人々がイエス・キリストに従ってよいだろうと思ったが、イエス・キリストが十字架の道を進まれるのを見てすぐに逃げ出したことです。
神の創造の理念を持ち、変わらない心で生死の境地を行き来し、サタンの前でも変わらない心を中心に持っていたイエス・キリストと同様に、責任を持ち、失った愛と命の回復のために神と一体となり、サタンの前に立つ人がいれば、それは真の信仰を持った人です。
今、神の理念を実現するためには、ますます人間が一体にならなければなりません。悲しみや苦しみに直面しても失望せずに真の結びつきを回復し、原罪とサタンの歴史を払拭し、変わる環境を変わらない環境に開拓しながら、すべてが一体にならなければなりません。一体の中でサタンと対峙しなければなりません。
あなたたちは天の新しい理念を広めることができる天の家族になりましたか? 家族の一員であれば、まず親を拝む必要があり、親の認めを受けなければなりません。親を受けた後、兄弟たちが楽しむことができるのです。そして、その家族が楽しむことができる環境も整っています。
そして、私の一身の喜びが親と隣人の喜びであり、国や世界、神の喜びであるようにしなければなりません。そして、すべての人類を親兄弟と同様に扱い、生活することで天の意志が実現されたと言えるでしょう。
それには、イエス・キリストの教えに従う必要があります。「私は道であり、真理であり、命である」と説いてくださった、命と真理と愛の道をみんなで歩むべきです。究極的には、イエスが十字架を背負いながらも変わらない心でいたように、変わらない心を持ち、すべての困難や苦難を乗り越えて、父の前に立たなければなりません。
その先に、父があなたたちをサタンの前で誇示できるようになり、本来の世界に戻ることができます。そうすることで、神に対して本来の親子の結びつきを感じ、人間同士やすべてのものに対する本来の結びつきと愛を理解できるでしょう。




<祈祷>
 家庭でも国家でも、そのイデオロギー的な努力から自らが楽しむことのできる結びつきを見つけようとしている自分たちに気づかせてください。ここに集まった息子娘たちに対して、この時間に気づかせてください。
自分の体の結びつきを解消しなければならない使命が残されているし、心の結びつきを解消しなければならない使命が残されています。そして、今まで自分たちは地上の結びつきによって体と心が動いてきたことを知るとき、父よ、今、私たち自身が再創造の源となって爆発していけるように、天の力と愛と生命を許可してください。
こうしてすべての敵の讒言と死の条件を克服し、父の愛と一体となり、永遠の真理の実体となり、宇宙の前で誇示できる位置に立てるよう、切にお願いいたします。
父よ!ここに集まった息子娘たち、どうぞ変わらない心で永遠の栄光の中で、父と共に住むことができる息子娘・孝子・孝女・良女・忠臣たちになれるよう導いてください。
このすべての祈りを主の御名によってお祈り致しました。アーメン。

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御言葉選集3(2)

2024年01月20日 17時21分09秒 | 学習
文鮮明先生の語録選集 3 - 2. 耐え忍ぶ者となろう (1957年9月15日)

1957年9月15日(日)、前本部教会。

聖書拝読:ローマ書 8:12-30

<祈り>
 お父様! 一週間にわたり、御許しいただいた恵みを抱え、悪の中で戦い抜いて、この日再びお父様の前に集まりました。もし私たちに不足があるとしても、お許しください。
私たちはお父様に差し上げるものを持ってきませんでした。お父様の心配事の対象として臨んできましたが、慈悲深いお父様、力強いお父様、愛に満ちたお父様、私たちを今の私たちとして残さないでください。
私たちをお預かりいただかなければなりません。何百万ものサタンたちが私たちを包囲し、私たちの命をねらっていますので、お父様、私たちを守ってください。
今日、私たちの個々がお父様の深い愛の中で浸り、お父様の栄光を心から歌うことができるように許してください。そして、ここにひれ伏して礼拝できるこの一時間をお許しいただきたいと願っています、お父様、切に望んでおります。
一週間を過ごす中で、お許しいただけなかった行動が生活の中に残っていることを知っています。お父様の意向にそぐわない要素が多くあるでしょう。慈悲深いお父様、力強いお父様、勝利の権威を持って現れ、再創造の手を再び許してください。切に望んでおります。

 お父様! この日は聖なる日ですので、三千万の国民を代表して集まる多くの教団の上に祝福を注いでください。また、お父様の意志を成し遂げるために、秘められた祭壇を築いている孤独な息子娘たちが、この時もお父様の前にひれ伏していることを知っています。彼らの上にも均一な恵みをもって歴史してください。最後の約束された最後の恵みを彼らの前に許してください。
そして、最後の勝利の祭壇を築くことができ、あなたの栄光を三千里の半島に立てることができるように、お父様、切に望んでおります。
今、この場に集まったあなたたち、お父様の前に全てを委ねます。聖なる供え物として受け取ってください。一つの命でもお父様の御心から外れないように導いてください。たとえサタンの攻撃に遭っても、堂々とお父様を「私のお父様」と呼べる真の子女となることを許してください。切に願っています。
この日も地方に散らばって困難な戦いを繰り広げている孤独な子女たちがいます。集まる場所ごとにお父様の再創造の力を発揮し、お父様の子女であることを証明できるように許してください。愛するお父様、切に願い求めます。
今、お父様の前に捧げるこの一時間の内容を、全てお預かりいただき、ご主観してください。切にお願いし、いつでも、すべての言葉を主の御名において祈りました。アーメン。


<御言葉>
 皆さんにお伝えしたいメッセージのタイトルは『耐え忍び父の子女となろう』です。このタイトルで少しの間お話し致します。
万物を創造された神様は、腐敗したこの世界を捨てられず、今もなおサタンとの激しい戦いを繰り広げ、一人でその責任を果たしてこられたことを皆さんはよくご存じでしょう。
この神様が望まれる究極の目的は何でしょうか?何を求められているのでしょうか?数々の悲劇的な歴史を経ながらも人類を捨てずに引き上げてくださる内容は何でしょうか?それは神様が人間に対して「あなたは私の親しい子供である」と言えるようになることです。この理想を実現するために、神様は今まで戦い抜いてこられました。
神様の楽園で、神様の栄光の中で神様の愛を中心にし、すべてが調和する中で、万物の主として神様の前で「私の父よ、栄光がありますように」と言えたアダムが、堕落によってその価値を失いました。ですから皆さんは、今呼んでいるその父様が悪の立場から呼ばれるそのような父様ではないことを知る必要があります。ですから私たちは悪の世界から離れ、善の理想の楽園に入らなければなりません。その理想の楽園は、人間が神様の栄光を示せると同時に、喜びに満たされて生きることができる世界です。
言い換えれば、人が善であれば万物も善であり、人が正しいことをすれば万物も正しいことをするようになり、人と万物が善であり正しいことを決定する中で、創造主である神様もまたその中で善であり正しいことを決定できる世界です。それだけでなく、相対的な神様と人との関係を超え、一体となることのできる理想の楽園なのです。
神は人間たちがこのように神と一体となることを望まれ、一体となり驚くべき愛を中心にして喜びに満たされるその光景を描きながら、そのような世界を創造されました。しかし、人間たちは堕落によってこれが彼ら自身の仇となり、同時に天巡の仇ともなり、堕落以降今日までその仇に仇を重ねている悲しい歴史を繰り広げてきたことを、今日私たちはよく知っています。
では、神様が今日この地に向かって統治し最大の希望は何でしょうか?それは堕落の親を持つ人類を再び神の側に立て、私はあなたたちの永遠の父であり、あなたたちは私の永遠の子女と呼ぶことです。その日を迎えることが、堕落した人類の歴史的な望みであり、天巡に立ち向かう敵対的な望みであることを、皆さんは認識する必要があるでしょう。
今日、自分自身を反省し、天巡の前に立ち振り返ってみると、これまで神の愛を中心にして動かれた出来事がなかったことを感じるでしょう。また、父の前で真の子女として「父よ!」と言えなければならず、天の支配を受ける信仰生活を送るべきであったにもかかわらず、自分はそうできなかったことを感じるでしょう。今、私たちはいつか、一瞬、神を中心にして「私の父よ!」と呼ぶことで自分を変え、父の心を喚起し、愛を中心にして神と新たな親子の関係を築く立場に進まなければなりません。
これを人間にとって感じさせ、人間と神との親子の関係を築くために尽力されている父であることを、皆さんは心から感じるべきです。残っている私たちの最後の希望、すなわち神の恩寵の中で私たちが立てられる基準は何であるかについて、私たちがどれだけ実践してきたかにかかっています。私たちの生活圏でどれだけ実践したかによって、自分たちの価値を見出すことができるのです。
そして、神がこの地に対して嘆かれているのは何故でしょうか?神がこの地に対して嘆かれるのは何故でしょうか?神はサタンのために嘆かれるのではありません。悪が嫌いだから嘆かれ、罪人が多いから嘆かれるだけではありません。真の神の嘆きとため息は、神がまだ人間たちに「私の愛する子供たちよ」と言えないこと、その子供たちから「私の父よ!」と呼ばれる言葉を聞けないことにあるのです。歓迎される環境を持てないことが神の真の嘆きであることを、皆さんは理解する必要があります。
今日、私たちは神を「お父様」と呼んでいます。しかし、私たちが呼ぶ「お父様」には様々なものがあります。真のお父様もあり、偽りのお父様もあるのです。その理由は、人間が堕落したからです。
人間が呼ぶべき本来の真のお父様は、永遠の命の主であり、理念の中心であり、人間のすべての幸福の中心です。したがって、私たちは心に侵入する悪を断ち切り、心置きなくお父様と呼び、お父様の御心を行うことができれば、別に天国が必要ないことが分かります。
しかし、人間が堕落した結果、これを失ってしまったのです。ですから堕落した人間は、結局は本来の真のお父様を求めて歩む宿命の道に置かれているのです。
では、今あなたがどのような価値ある内容で「お父様」と呼んでいるかを考える必要があります。そして、私が呼んでいるお父様はどのような方かも知る必要があります。
私たちが真のお父様と呼ぶその方は、6000年間休まずに戦い抜き、史上の苦難に耐えながら今日の私の一人一人を見つけるために努力されてきたお父様です。そして、地上に住むどの人間も感じることのできない最大の悲しみと悲しみを感じているお父様であることを、皆さんは認識する必要があります。あなたがこれをどれだけ実感するかが何よりも重要であることを知る必要があります。
心から湧き上がる「お父様」と呼ぶ人がいるなら、彼は神の悲しみと苦しみを感じるでしょう。また、神の無力さがその人に伝わるでしょう。ですから神と人間の間で感情が交流し、天巡の大理念を達成するために、自らの一歩を越えなければならないときに、初めて神と私たちは生命を中心にし、永遠の結びつきを築くことができるのです。あなたはこのような段階を経験しなければなりません。
現在のあなたは神と完全な関係を築いていないことを感じるでしょう。しかし、神とあなたとは感情的に、そして事実的に永遠の結びつきが築かれています。そして、その結びつきから逃れることは不可能です。ですからあなたはこれを感じながら、真の子女の立場から「お父様よ!」と言える一時間を希望して進んでいかなければなりません。
繰り返しになりますが、人間が真の子女の立場から「お父様」と呼ぶことが人類の希望であり、すべての創造物の願いであり、神の願いであることを、私たちは肝に銘じ、この地上で神の真の子女として帰還の運命を修正していかなければなりません。ここで私たちがただ一つ願うことがあるとすれば、真の愛を中心にして神との結びつきを回復することです。
皆さんは、神の心を痛め、悲しみがこの地上に広がり、神の悲しみが溢れ出していることを感じ、父の立場から帰還の祭壇を築かなければなりません。そして、神の子供として立ち返る皆さんにとって、どのようにして帰還の道を歩むべきか? 父を愛し、父の悲しい状況を父自身の代わりに気にかけ、真心で感情が交わる中で、「私の父」と呼べるよう努力するべきです。
人々が呼ぶ「父」には「他人の父」もいれば、「義理の父」もいて、「真の父」もいます。しかし、今日の信者の中には神を「父」と呼びながらも、その父が「真の父」でなく、むしろ「他人の父」や「義理の父」の立場にいることがよくあります。
これは神の望みではありません。神にとっての人間への望みは、すべての回帰の条件を超えて神を「真の父」と呼べる日を実現することです。神はこれを6000年もの間望んでいます。ですから皆さんは、神がこの地上に対して苦労されていることを理解し、その苦労を乗り越えて戦ってこられたことを知るべきです。今、私たちはそのような父を尊重し、永遠の父の前で自己中心的な生活をしていないかを振り返るべきです。
今日、他とは異なる苦難の道を選んだ皆さん! 6000年の天の苦労の末に見つかった皆さん! 皆さんは真の父の遺産を受け継ぎ、いつでもサタンに対抗できる天の代理者となりたいという心を持たなければなりません。そしてそのためには、自分を真の父の前に全うに差し出し、新しい使命を引き継ぐと宣言できなければなりません。そして皆さんはいつでも父の歩みが心に浮かび上がり、父の苦悩と憂慮を全うに負担できるようにならなければなりません。それによって神の怨みは何でしょうか? 今日のキリスト教では神が栄光の中にいると考えられていますが、それは真実ではありません。
人間が信じず、受け入れなければ神の意志は実現しません。ですから神は今もなお、人間たちが全うすることを切に願っており、それゆえに皆さんは地上で天の法を立て、栄光の天国を築き、神の永遠の善の理念をこの宇宙に実現させなければなりません。
神はお一人ではどんなに意志を遂行しようともできないということです。また、サタンも善の立場に立つことはできません。人間が救済してくれない限り、永遠に悪の立場にとどまらざるを得ません。しかし、人間にはそうでない可能性があります。神の前で栄光ある姿で立つこともできれば、サタンの側に立って天を敵対することもできるのです。
したがって、神やサタンよりも人間の方がもっとも怖ろしい存在であると言えます。人間でなければ神の意志は実現しませんし、また人間でなければサタンの策略も空しくなります。意志の達成や罪の成立は神やサタンに依存しているのではなく、人間にかかっていることを皆さんは理解するべきです。
神はこのような人間を見て、天の法と善の理想の世界に対する神の理念を信じ、それを実現しなければならない人間がどのように振る舞うかを見守り、悲しまれていたのです。ここに神の悲しみと苦悩が備わっていることを皆さんは知るべきです。
私たちが望むことは、ただ真の子として神を父と呼ぶことです。実際、そうした人が三千万人の国に一人いれば、この国には未来が拓けるでしょう。その人を中心に宇宙的な歴史が展開されます。なぜなら、哀れな国を代表し、宇宙を代表して真の父と呼べる存在がいるならば、神の意志を引き出すことができるからです。今日、私たちはこれを知る必要があります。知ると同時に信じなければなりません。
私たちはこれまで異なる道を歩み、多くの困難に直面してきました。 十字架の道も歩みました。 天使たちが皆さんの進む道を心配していたこともあったでしょう。 しかし、それが問題ではありません。 問題は私たちの困難や状況を心配してくれた父の前でどのように立つかです。
私の悲しみが問題ではありません。悲しみや苦痛、十字架が問題でないことです。最大の勝利の場が整備された場所、人間の理念と天の理念が結びついた場所に立つとき、これまでの難しい状況を慰めることができる真の自分になれたかどうかが問題です。
それでは今日、私たちはどのような立場にいて神を真の父と呼べるのでしょうか?真の父と真の子は血縁的な関係を持っていなければなりません。引き裂いても引き裂けない、自然に結びつく、血と肉によるつながりがあります。このような立場から見れば、神と私たちとは血縁的なつながりがあることがわかります。ですので私たちは神を真の父と呼ぶことができるのです。
人間は堕落しました。人間が責任を果たし、永遠の善、天の愛を中心にし、神の直系の子供になることができたら、どんな誰が侵入して堕落させることができたでしょうか? 人間はこのような希望を抱いた実体だったということを皆さんは理解するべきです。
それでは、今日、皆さんはどのような場所に滞在していますか? 皆さんは神との直系の関係を持ちつつ、サタンの支配圏に滞在しているのです。神が許可された直系の子供の縁を持ちながら、またサタンとも堕落の縁を持っているのです。
このような人間を救済するためにこの地に来られる方はどのような方でしょうか? その方は人間を代表する立場におられるだけでなく、神と永遠に断ち切れない縁を結びつけて現れる主人公なのです。このような縁と使命を持ってこの地に臨まれた方が、それがイエス・キリストであるというわけです。ですから、イエス様は福音を宣べ伝えながら、「私は神の子である」と言われたのです。
また、神と一体を成すと述べられました。これは驚くべき言葉です。普通の人々からは見出せない言葉です。したがって、神とイエス様は血縁的な縁を結びつけ、愛を中心にした関係であったため、新たな変革の歴史を起こすためには避けられない存在でした。この点でイエス様の血と肉は父のものであり、すべては父のものであったと言えるのです。このように神とイエス様とは切り離せない縁が結ばれていたのです。
では、なぜイエス様はこのような方である必要があったのでしょうか? 堕落した人間たちは罪悪の縁を受け継ぎ、生まれながらにして父の血肉を代わりに塗りつけることができる方が必要だったからです。この必然的な計画により、イエス様はこの地に来られるべきだったのです。
しかし、派遣を受けたイエス様がこの地に来られても、誰もイエス様を信じてくれませんでした。こうしてイエス様は結局、十字架を背負うことになりました。その前日に弟子たちと最後の晩餐を共にされながら、「あなたたちは私の血と肉を食べなければならない」と言われたのです。
これは何を意味しているのでしょうか。人間の心と体、血と肉は神が決定するように共に生き、共に定めなければなりません。すなわち、神との一体化を成し遂げ、血縁的な縁を結ばなければならないが、その仲介者としてイエス様を通じてその使命を果たすことが語られています。このようなことが皆さんの生活圏内で実現されない場合、サタンは確実に皆さんを訴えるでしょう。人間は神と一体化し、イエスが来られたことを信じ、友人の立場からイエスを迎えることができなければなりませんが、問題は皆さんにかかっています。
イエス様が持たれていた血と肉、骨、体と心は、皆さんも同じように持っています。これはイエス様と人間が一体化する根拠となるものです。したがって、イエス様が神と一体化したように、皆さんも体と心が神と一つになり、共に生き、共に定めなければならないのです。実際にそうなるなら、これは誰が奪い去ることができるものではないでしょう。
次に、私たちは神を真の父と呼ぶことができる真の息女とならなければなりません。そして、神が私たちに真の息女と呼べる言葉と、私たちと共に生きる言葉を持っていなければなりません。つまり、神と私たちは真の親子のつながりを持たなければならないということです。血統的に神の子どもとなると同時に、神の言葉を保持しなければならないということです。
イエス様がこの邪悪な世界に来て叫ばれた言葉は地上の言葉ではありませんでした。イエス様の言葉はこれまでになかった真実の言葉であり、地上にあったものとはまったく異なる新しいイデオロギーであり、革新的な事実を提示する言葉でした。
それでは今、私たちは神を真の父と呼ぶ存在として、神が持っている言葉を私たちも話せるようにならなければなりません。神の言葉は行われる場所ごとに善の業績が起こり、復活の歴史・再創造の歴史が生まれるような言葉です。したがって、私たちは悪を清算し、復活の歴史を起こし、再創造の力を行使できる言葉を持つ人々にならなければなりません。このような言葉を持つ人々が集まって生活する場所が天国です。
今日、あなたが書いている言葉はあなた自身から出た言葉か、あなたが信仰する主が書いている言葉かを考えるべきです。また、あなたは主の言葉を誇れる環境を持っているかも考えるべきです。
イエス様の言葉は天にも通じ、地にも通じ、すべての創造物に通じない言葉はありません。同様に、私たちも父と呼ばれるようになったとき、父が聞くことができる言葉、父の意志を代わりにできる言葉を持つ人にならなければなりません。
今日この地にはさまざまな種類の言葉があります。言葉らしい言葉もありますし、言葉らしくない言葉もあり、言葉もあります。今度は人間が求めるべき最後の言葉、天倫の言葉と縁を結んだ私たちも、すべての被造物と一体になれる言葉を持たなければなりません。そうでなければ、すべてを支配しようとしても支配できないことです。
腐敗は私たちが知るべき言葉を失くしたこととも言えます。だから私たちは持っているべき言葉がどこにあるかを見つけなければなりません。歴史の進行を通じて、多くの人類はこの言葉を回復するために苦労してきました。人類を通じて可能であると同時に天倫を代弁できるその言葉を私たちは持たなければなりません。こうした事実を生活領域で感じるあなたがならなければならないです。
次に、父の生活を代わりにできる真の息女にならなければなりません。あなたの命は現段階の環境で始まり、終わらなければならない命ではありません。これまでの生命体は歴史的な腐敗の因縁を脱することができず、社会的な環境と縁を切り離すことができていませんが、実際には宇宙の奇恩を代わりにでき、過去のイデオロギーを代わりにでき、未来のイデオロギーを証明できる立場にあるということをあなたは知らなければなりません。
皆さんは神を代わりにする生活をしなければなりません。神を代わりにして栄光と幸福と喜びを享受し、神様と共に生きる日々とならなければなりません。最愛のイエス・キリストが死なれるまでに探し求められたすべての人々を代表する先祖の遺産を継承し、お父様が悲しまれながらも訪れてくださった心情を感じる皆さんであるべきです。これによって、地球とサタンの前で神の子女として証明されるでしょう。
神の真の子女として生きようとしても、この邪悪な世界は皆さんを全力で誘惑しようとします。これは複雑な6000年の回帰の歴史を見ればわかります。しかし、人間の心を通じて終末時代に動いてきた回帰史料史であっても、皆さんは最終的に神と共に生きる生活理念を確立しなければなりません。
その過程に参加した人、つまり今までに神が現れた事実を知っている人がいるとすれば、彼は神が成し遂げようとする意志を知ることができるということです。そして、過去に創造の時に世話をされた神の心情、もっと深く掘り下げれば一つの草一本を作られた心情すら感じることができます。そのような心情にぶつかると、神が万物に対して抱かれる心情を知ることができます。そして、人間に対して抱かれる心情まで感じることができるのです。
その心情を感じた後、またどのような人にならなければならないでしょうか?神を代わりにして地上の人々を心配し、彼らのために泣いてあげることができる、悲しみを共有できる人になり、また人間が数々の歴史の過程で苦しんできたことに同情できる人にならなければなりません。
そして、神の意志、神の回帰史を負ってきた多くの先達の生涯の表面を皆さんが地上で一瞬でも感じて同情できる人にならなければなりません。また、昔のアダムとエバが堕落したときに感じた神の悲しみを感じなければなりません。アダムとエバを失って悲しまれたことと、天と地を失って悲しまれた神様の心情を感じる人にならなければなりません。
歴史の過程で回帰の意志を受け入れ、イエス様の贖罪を成就しようとした人がいれば、神はその人を中心にして意志を更に活発に実現させ、彼の悲しみを共有し感じた多くの人が彼と共に努力してきました。
アダム以降、ノアは120年間この地で神の意志を受け入れていきました。120年間、神の思想を地上に表現した生活は、今日、神様のお父様の心情に私たちを結びつけ、お父様の子であることを実証し、私たちを中心にした生活環境と結びつけてくれる基盤を築いた生活であり、同時に神と通じる思想を表現した生活でした。
この段階に入ると、皆さんはアダムの立場について理解でき、神に対して優れた心情を抱くことになります。また、ノアおじいさんが120年間、信じない世界の人々に対して心情を抱きながら出てきた心、自分だけが知っている心情を無知な民の前に表現するために心情を傾けていた心情を感じることができるでしょう。
皆さんはノアの心情からアブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、イエス様、そして今日まで努力してきた回帰の主要人物たちの心情を理解し、彼らのために泣きながら涙を流すことができなければなりません。自分が歴史的な内容を持った思想を否定せず、天倫の歴史を裏切らないなら、生活を通してこのような歴史的な悲しみを感じることになるでしょう。
今日ここに集まった皆さんは、歴史的な道を歩んできた数多くの先達たちが神の生活の理念を実践するために出てきながら持っていた同情心を引き継ぐべきです。そして、皆さんは死んでもすべての困難に立ち向かい、全ての人々の心情に共感しながら結束し、歴史の意義を代わりにし、お父様の前に進むべき道を一致させなければなりません。
回帰の宿命が歴史的な悲しみの宿命であると知っている以上、皆さんは悲しみに満ちた生活を送らなければなりません。皆さんが神と結びつくために神の一つの意志に向けて涙したことが、天と地が通じる道であることを理解しなければなりません。それでは、今、皆さんは自分自身を立てて、「ああ、神よ、私はどの立場にいますか?」と問いかけ、自分自身を反省しなければなりません。
昔の先祖たちが歴史的な神の摂理を実現する生活を共感しながら通り抜けたとき、ノアの心情を理解できるようになり、またアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセなど、数多くの先達たちの心情を理解できるようになります。皆さんはこのように、天に向かって、全ての人々を代表して流した涙の伝統を残さなければなりません。そうしたものを持っている人は、地獄に行くとしても行くことができなくなります。
したがって、今日のキリスト教徒の中には、過去の歴史の過程に来て、天倫の意志を完全に実現できずに行った人類を代わって涙を流せる子供たちがいなければなりません。そのような子供たちに天倫の意志を託すことができるのです。また、現代の人類を代わって悲しい気持ちを持ち、未来を心配して全ての人々を代わって涙を流せる子供たちがいなければなりません。
神はそのような状況を通して、現在そのような立場にあり、将来もそのような状況に陥るであろう子供たちを探しておられるということです。神とは正反対の生活をしている群衆に対して涙を流し、歴史に対して涙を流せる人が今日の終わりに新しい再創造の歴史を示す主人公となるべきだということです。
神の計画を抱きしめ、涙を流し、新しい思想に繋がり、涙を流す夫婦がいれば、その家庭は最高の家庭となります。また、神を抱きしめ、涙を流す国民がいれば、その国民は新しい思想の中心民族となります。その民族を通じて宇宙的な神の全体的な愛と真理が紹介されることでしょう。
過去と現在と未来を代わりに父を抱きしめ、「私の父よ、悲しみを託してください」と訴えることができる集まりや団体、またはどんな社会や国家があれば、周りにどれだけ強力な文化があっても、その文化領域はこのような国が団体を踏み越えて進むことができないということです。
私たちが目指して戦っていかなければならないのは、より良い歴史と現実、未来を築くことです。そして、神の生活の理念に閉じ込められる日を回帰して、天国が喜べる生活環境を提供しなければなりません。こうなったとき、人間とすべてのものを創造された父、歴史的な父、現在と未来を統制される父が皆さんを責任持ってくださるでしょう。
次に私たちは何を持っているべきでしょうか?どのようなイデオロギーを持つべきでしょうか?神のイデオロギーを持つべきです。私たちは個人であるが、世界と宇宙的な視点から見れば、宇宙とも通じ、神の全体的な天倫のイデオロギーとも通じる位置に立たなければなりません。そのようなイデオロギーに浸り、そのイデオロギーに導かれて戦っていくとき、何百万もの敵に立ち向かって戦っていける位置に堂々と立てるようになります。
今日の終わりにおいて知っておくべきことは、私たちがこれまで生きてきたこの地が天倫のイデオロギーを代わりにできる土地ではないということです。しかし、私たちは悪から始まったこの歴史を悪で終わらせることはできません。そして、悪の歴史を経ている現在、私たちは天倫を抱きしめ、そのまま座り続けることはできません。私たちは必ず後代の人々のために新しいイデオロギーを提示しなければなりません。
では、イエス・キリストの味方である善の歴史は何でしょうか?それは歴史的に経過した神の歴史であり、天倫の意志のために歩んできた歴史です。このような現実の出来事には全体の歴史が詰まっているため、私たちはそれを通じて過去の歴史を学び、現実を超越して未来の希望的なものを感じながらイデオロギーを備えていかなければなりません。
今日私たちがそのイデオロギーの中に立つと、そのイデオロギーによってすべてと通じるようになります。したがって、私たちはそのイデオロギーを使って現実生活を十分に分析し、その価値を現実の生活のイデオロギーと結びつけて、全体のイデオロギーと関係を築く基準を持たなければなりません。そのような基準がない限り、神の真の子や娘にはなれません。
イエス・キリストが来てから今日まで、神の摂理は完全に結びつけられていないままです。聖書を通じて提示されたイデオロギーは人々が実践していないことを意味します。だからこそ神はすべてを整えるために黙って6000年もの間準備してきたのです。哀れな世界と哀れな人々を見ながら泣かれるかもしれませんが、その日には広く顔を覆い、去っていく人々を非難されないで耐え忍ばれたのです。神はなぜ今日まで耐え忍ばれてきたのでしょうか?神は一度全体的な勝利の基準を立て、そのために戦ってきたからです。しかし、長い間忍ばれてきた神の怒りは、天倫的なイデオロギー、宇宙的なイデオロギー、人間的なイデオロギーが一つとなる日が来たときに現れます。これが裁判の日です。過程では愛を示されますが、最後には審判されます。神はこのような関係を残し、これまでの歴史を進んできたのです。
ノアの審判の時と同様に、終末の私たちにとって知っておくべきことは、そのイデオロギーを代表できる自分になる必要があるということです。そして、天敵的なイデオロギー、人道的なもの、言葉を伝えること、天国の宗教を広めること、天国の生活を広めること、そして一つの信念とイデオロギーを広めることができる預言者の使命を自分で果たさなければなりません。これが宇宙的なイデオロギーを通じて神の子女が持つべきイデオロギーであるということです。そのイデオロギーを持ってすべてを反省すると、視野が広がるでしょう。
この使命を担うようになると感じる悲しみは、宇宙的な悲しみであり、歴史的な悲しみであり、希望的な悲しみであることを知らなければなりません。自分だけのために悲しむことはなく、父を呼ぶべきではありません。神を代わりにして地上で多くの責任を一人で担い、戦っていく決意を持ち、神の苦悩を感じながら、必ずしも神の種族としての尊厳を確立し、また天敵的なイデオロギーを感じながら、天にふさわしい生活をしなければなりません。
したがって、神の子女であることを血統を通して示し、真理を通して神の子女であることを示し、生活を通して神の子女であることを示し、仕事を通して神の子女であることを示すこの一つの基準を見つけて確立しなければなりません。その基準を見つけて確立できない場合、教会に出て信仰生活をすることはただの使者であるということです。
まだ神に対して「父」と呼ぶことができる立場にない人は、神の愛の手が差し伸べられるようにする必要があります。その救済のプロセスを経ないで神を代わりにして全人類を代表できる真の子女として「父」と呼ぶことはできません。
宗教的な出来事や血統的な出来事など、地上の人道的な生活はすべて天倫によって達成されてきたので、あなたはこれらのイデオロギーを通してすべてを批判できる中核的な価値を自分の中で確立し、全人類の前でその価値を誇示できる日をもたなければなりません。これが起こるのを見た後に、神がこれまで戦ってきた歴史を終わらせることができるのです。
これまでの戦いは神とサタンとの戦いでしたが、これからは天を代わりにして地を中心にし、人々同士の戦いに引きずり込んで、その戦いを負担できる主人公が現れなければなりません。
そのような戦いの時に、我々は勝利の条件として何を確立できるでしょうか?我々が本来天に属しているか、地に属しているか、あるいは罪に属しているか、善に属しているかを知り、実際に敵対的な真理の生活をする必要があります。これが重要な勝利の条件となるのです。敵対的な生活、真理の生活を通じた人格を持っていれば、自分の仕事を宣告でき、敵対的な人格を持つ人々と和解できることです。
サタンも神が信じ、託すことのできる存在を立てた場合、それを拒否することはできません。神を礼拝する者は誰ですか?それは今日終末に立っている聖徒たちです。また、神を安息させる者は誰ですか?それは取るに足らない私たちです。
このように神の意志が私たちの両肩に、体と心にかかっていることを私たちは知っておかなければなりません。人類史上の中核的な条件を前に掲げ、私たちは驚異的な天と地の使命を受けているのです。あなたが地上の問題に苦しむ立場にあってもいけないのは、まだ自分のための緩い生活観を確立できる過程にあるということです。
私たちが地上で天国の法則を提示して勝利した後は、安息することができるでしょう。今日のあなたはこのプロセスに直面しているということです。これがどこで起こるか?それは先進国と呼ばれる先進国が持っている優越性よりも誰が神に近いかということです。
今日、私たちが知るべきことは、「私は神の民である」、「私は天の民である」、「私は天の子供である」という自覚を持つことで、これを持って生きると、必ずしも戦いの時節を経なければならないということです。この世界は邪悪な世界であり、悪の歴史を持つ社会であることの結果として、このような人々を歓迎しないということです。
ですから、ここでは水と火のように一体になることが難しいものを一体にするためには、憐れみ深い法則、すなわち敵対的な内容を持ち、真理を持ち、次に生活環境と人格を持ち、そしてイデオロギーを通して愛を持つことが必要です。これらの条件が宇宙の終わりにおいて、宇宙の審判を代わりにする条件です。
それでは今日、我々は責任を果たし、直接的な使命を達成した私たちになっていますか?神の審判を代わりにできる真理、生活観を通じた人格、神の意志を通じた愛を備え、宇宙に生命力を主張できる私たちですか?
エデンの園で万物の前に人を造り、「万物を統治せよ」という祝福の言葉は、まだ達成の一日を見ていません。私たちはその言葉の達成のために働かなければなりません。そうすればすべてが父に栄光をもたらすことになります。
ここから新しいイデオロギーによる新しい愛、新しい生活による新しい人格、そして新しい言葉と真理を持ち、また新しい血統による子供として出発することになります。
あなたが動くのを見ると、現在はあなた一人を歩かせ、希望のイデオロギーがあなたに入り込み、歴史的なイデオロギーがあなたに入り込み、現実のイデオロギーがあなたに入り込んでいるだけでなく、あなた一人を立て、天と地の上で直系の子供たちの栄光を証明できる日を前に置いていますが、あなたはこれを忘れてしまい、自分が置かれるべき立場を知らず、自分が滞在すべき環境、自分が戦っていくべき希望的な環境を見逃してしまうこともあります。
私たちが進むべき道は、どうやってもこの地上に神の全体的なイデオロギーを実現し、神が安息できる直系の栄光の基地を造りつつ、地上のすべての戦いを終わらせることです。そのためにはあなたは愛を持って戦わなければならないということです。
このようなイデオロギーを持つために動くあなたたちは宇宙を代わって愛を持たなければなりません。また実践的な生活観と実力を持たなければなりません。こうして愛と実力を備えた時、これまで天と対立してきたサタンが自然に屈服してくることになります。
今日、あなたたちは神の願いを持つ子どもが現れることを願っている神の意志を知る必要があります。そして神の力強い悲しみ、不当さ、怒りを先に感じ、これを解決していく力を尽くさなければなりません。こうして希望の一意志に向かって前進できる人になり、カナンの豊かさに向けて進むイスラエルの60万人の代わりに責任を持つ者にならなければなりません。
今日の人は平凡な生活環境、自由な生活環境が整っていないため戦っていますが、彼らは荒野に出て疑念を抱くカナンの7つの部族と戦わなければなりませんでした。あなたたちもこのような戦いの時節を経なければなりません。
さて、天は今日、あなた一人を見て、あなたが歴史的な犯罪者であるか、信仰的な変節者であるか、機会主義者であるか、あるいは歴史と現実と未来を責任を持っている実体となっているかを考えています。これらの条件をかけられ、あなたに対処しているということをあなたは知らなければなりません。
それでは今、どうするか?今日、あなたは天の前に捧げられる供物にならなければなりません。供物とは何か?割らなければならないものです。歴史的に見ても割ったものもあれば割らなかったものもありましたが、割らなかったものは供物にはなりませんでした。今後は国家的な供物もあれば世界的な供物もあるでしょう。
このような供物のイデオロギーを持ち出す人々は、自分の個人のために生きてはならず、社会のため、国のため、世界のために生きなければなりません。あなたは供物の場で敗北する人になってはなりません。そんな分裂する場所、戦いの場でも、「喜べ、ハレルヤ!主の栄光、6000年の神の怨みを解消できる栄光の一日が今日だ。アーメン。」と言えるべきです。
昔のヨシュアとカレブの立場を代わりに堂々と立たなければならず、選ばれた第一のイスラエルのように荒野に出て信仰の基準を失わずに、勝利する天の選民とならなければなりません。そしてこの意志の中で耐えてカナンの福を得て、天に立ち向かい再び責任を果たしたヨシュアとカレブの立場に立ち、勝利しなければなりません。そして勝利の立場から永遠に父を讃える真の子女とならなければなりません。


【祈祷】
 愛するお父様、あなたが呼ばれる時、「お父様、私は信じています。」「主よ、私はここにいます。見せてください。」と言える姿勢が、この地上に多く現れるように許してください。
この日を待ち望んでいるすべてのものがために嘆息しています。聖霊も嘆息しています。無数の聖徒たちも嘆息しています。そして今この時に、あなたの悲しみに心から泣いて、これに気づかせて、今日の私の哀れな姿を泣いてはいけない自分であり、世俗的なすべてを捨てなければならない自分であることを悟らせてください。
この思考力を通じて実現できる信念を受け取りましたので、これを実現できるように許してください。
天に通じ、宇宙に通じ、その価値に対抗できる天敵の子供の姿を備えて、天の摂理歴史的な喜びの日を私たちの前に実現してください。父よ、願い、望みます。
今日ここに参加した子供たち、これからあなた自身を父と呼べる真の子女になるように導してください。そして私のために戦わず、父のために戦ったと言えるように導してください。全体の価値を代わりにし、天敵の人格を持った天敵の人間の生活となり、天敵の愛に到達できる勝者の姿を備えて許してください。サタンに強く抵抗する子女になるように導してください。熱心にお願いいたします。
私たちの不足した状態で今、真の父を崇めることを望むので、今私たちがサタンの餌にならないように許してください。父に切望してお願いいたします。すべての言葉を主の御名によってお祈り致します。アーメン。

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御言葉選集3(1)

2024年01月13日 16時00分20秒 | 学習
文鮮明先生の御言葉集 3 - 1. 私達は何時お父様の前に立つべきか (1957年9月8日)

私達は何時お父様の前に立つべきか

1957年9月8日(日曜日)、前本教会(青坡洞1街)

聖書拝読:ヨハネによる福音書3:1-21



<祈り>
 慈悲深きお父様! 死のこの庭に命の光をもたらしてください。愛のお父様! この荒野のような場所に愛をもたらしてください。栄光のお父様! 乾いた魂に栄光の恩寵として現れてください。全能のお父様、亡くなった命を集めて、あなたの聖なる座にひざまずけるこの時を許してくださいと、切に願い求めます。


私達に眠っているこの民族を目覚めさせることを許してください。混沌の中で眠っているこの人類を目覚めさせる、息子娘たちが早く立ち上がれるようにしてください。そして、集まる息子娘たちが生命の旗を高く掲げ、民族を父の前に導く同時に、地上の人類を父の前に導く幸福の日が早く訪れるようにしてくださいと、お願いいたします、お父様、切に望みます。


今日、お父様のひざの前に立っている私達が、自分を省みて、性別を持ちながらもお父様の聖なる前に伏せる姿勢を自己観察できるように許してください。もし私達がお父様の御心にそぐわない罪があれば、お父様、生命の光で私達の心を照らし、自己咎めができるようにしてください。そして、聖霊の力によって私達の体を固め、罪から解放されるために復活の歴史を起こしてください。


各自がお父様の前に責任を持ち、お父様との繋がりを築き、お父様の永遠の遺産を受け継げるこの時間を許してください、お父様、切に望みます。


そして、お父様の心情に悩まれている全ての事情を、この時間に私達自身が体験できるように許してください。ここに集まった各自に内面的な使命を託してください、切にお願いいたします。


一週間を過ごす中で犯した不適切なことをすべて許してください。まだお父様が望まれていない心と体を持ち、お父様の前に伏せている場合は、お父様、炎のような目で私達を観察してください。尊厳あるお父様の前ですべてを告白できるこの時間を許してください。自己咎めてお父様の前で懺悔できるこの時間を許してください、切にお願いいたします。


この日も地方に散らばって孤独に、御言葉の旗を掲げて戦っている息子娘たちのために、統一的に働きかけ、多くの愛を持つ父の手が彼らの頭上に、彼らの身心に満ち満ちて現れ、暗い環境を切り開くための不足がないように導いてください。


これまで父様の導きによって宣言されたすべての生命の言葉が地上に落ちないように許してください。今、暗闇の中にいた息子娘たちが現れ、父の言葉によって復活の恩寵を受けることができるように許してください。これらの息子娘たちをこの国の生命の主として立て、喜びの恩寵の中で模範的な生活ができるように許してください、切に願い求めます。


地方に散らばり、孤独な祭壇を築いている息子娘たちや父の名のもとに集まるすべての祭壇に一律の恩寵として働きかけてください、切にお願いいたします。そして、天の理念の中で一致して、一つの世界、一つの意志、一つの目的に向かって動く喜びの日が早く訪れるように許してください、切にお願いいたし、望みます。


今、初めから終わりまで全うに主宰してください、切にお願いいたします。主の名で祈ります。アーメン。




<御言葉>
 皆さんと共に考えようとする言葉の題は『いつ、私達は父の前に立つべきか』です。このようなタイトルで少しご説明いたします。


地上に住む人間たちは、いくら優れていたり、優れているように見えたりしても、それ自体が堕落の系譜を持ち、生まれながらにして原罪を抱えている存在です。つまり、罪を抱えているということです。


ですから、人間たちはこれまで罪の歴史を経てきましたし、この世界や宇宙で悪と対決し、知ることもあれば知らないこともある、というような戦いの喧嘩帳を経てきました。そして、私達が希望の一日を見据えようとすると、そこには無数の荒野の条件がその進路を妨げていることを皆さんは生活の中で、あるいは生涯の中で経験してきたことでしょう。


では、このような環境からどのようにして解放されることができるのかということが、これまでの歴史の過程を経て、良心的で善良な人々が望んできた指針であり、標準であったことを皆さんはよくご存じかと思います。


しかし、『今日の私』よりも『明日の私』がより善でありたいとするならば、絶対的に実在する神を私達の生活領域に引き入れなければなりません。つまり、その神を論理的な神や概念的な神としてだけでなく、生活の中で経験的な神として認識しなければならないということです。これは私達の信仰者にとって非常に重要な問題です。


人間は堕落したため、結局は堕落の運命を脱して進むべき道が残されています。これまで多くの預言者や賢者たちが、誠実さと忍耐と知恵をもって、この人間が進むべき道について努力してきましたが、その道は未だに進めずに宇宙的な運命の道として残っています。


また、人間が犯した罪によって生まれた壁は一つや二つではなく、どこまでも果てしなく道を遮っています。私達はこれを打ち破り、超えなければならない立場にあります。


こうした立場にいる人々が信仰の対象、つまり絶対的な神、絶対的な実在体の神を崇拝し、進んでいったものの、彼らはそれに関していくつか知らない事実があることに気づくようになりました。ですから皆さんは、曖昧に概念的に神の実在を認識してはなりません。しかし、論理的な面だけで神の実在を理解しようとすると難しいでしょう。なぜなら論理領域内にとどまる神ではないからです。論理的に神を理解しようとする信仰が私達の生涯を永遠の生命の実体に完成させることができるでしょうか、と問われたとき、ここには多くの問題があるということです。


それでは、このような環境で生きる今日の私達は、真にされた主様と父様の前に進むにはどうすればよいのでしょうか?私達が進みたいものは人間の歴史的な希望であり、同時に神の摂理の目標となっています。


そうした環境にいる私達が神に近づき、信仰の道を歩んでいくとき、私達が進む道を何が妨げるのでしょうか?まず第一に、自分でも知らぬうちに生じる疑念が前進を妨げるでしょう。また罪の試練が妨げ、予期せぬ死の力が道を妨げることでしょう。私達はこれらの疑念の山を乗り越えねばなりませんし、罪の山を乗り越えねばなりませんし、死の山を超えねばなりません。


そして各自が永遠の理想と関係を結び、その結ばれた関係が自分の生活を支配し、自分の生涯の目的を支配してくれることを望む欲望が人間たちは芽生えてきました。また、このような永遠の関係を結ぶ一つの基準を人間たちは知らず知らずに追い求めてきたのです。人間はこのようなプロセスを必ず経なければなりません。


そして皆さんは生活圏内で神の実在を理解できることを望み、神の実体と出会うことを崇めています。しかし、その神の実体を信仰の対象として立て、進んでいくとき、さまざまな疑念の出来事が多いでしょう。しかし、その疑念の条件にとらわれて進んではなりませんし、それを通過しなければなりません。そして皆さんは大きな死の影の下にいることを感じなければなりません。


それでは、これらを感じた後、どうすれば良いでしょうか?これらを心に抱えたままでは真の信仰の道を歩むことはできません。これらの問題を解決する手段がないということです。もし神が存在すると認めるならば、神に対して持っているすべての疑念を正直に打ち明ける信仰の対象者として立ち止まることができなければなりません。また、自分の犯したすべての罪による苦しみ、すなわち自分が自ら犯した遺伝的な罪まで含め、全てを神に正直に告白できなければなりません。


さらに、前進を妨げる運命と戦わねばならない状況にあっても、永遠の希望の世界に向けて一歩ずつ進まねばならず、永遠の命の理想を感じる約束の天国に入らねばならないにもかかわらず、まだ力のない死の支配の下にとどまっていることを克服しなければなりません。


では、もし皆さんが神様の父を求める心があるならば、皆さんは今まで抱えてきた疑念や罪、死についての内容をすべて放り出さなければなりません。皆さんがこれまで留まっていた場所、罪の歴史や堕落の環境には神様や善との関係を築くことはできません。皆さんが良くなる環境は、そうした環境でない新しい環境でなければなりません。


では、皆さんがこのような環境から抜け出すためにはどうすればよいでしょうか?皆さんは「私はこうした不足な姿ですので、お父様、お受けください」という切なる心情を持たなければなりません。そのような心情が皆さんの心に座れば、皆さんは永遠の命の世界に入ることができるようになります。


そして、皆さんが直面している周囲の環境から得た疑念を捨て去り、「お父様、わたしたちの体と心からこれを取り除いてください」と言えるようになり、罪に縛られている自分をお父様やどんな信仰の対象者にもそのまま託せる勇気を持たなければなりません。そうでなければ、そのような心情だけでも心の中心に据え、考えなければなりません。そうしないと、皆さんは信仰の道を歩むことができません。


神様が人間に対して訪れる時、どのような条件を提示されるかと言えば、信仰を提示されることです。ですから人間は信仰によって自分の全てを忘れ、疑念を抱かせる環境を打破し、信じられる環境を整えなければならず、罪の環境を整理し、善の環境を作り上げ、死の環境を打破し、命の環境を整えなければならないのです。


これらのことを終えた後、はじめて永遠なる神様の愛を中心にし、神様の無限の栄光を神様代わりに歌うことができ、神様の権威を自ら表現できるようになります。その瞬間を見据え、人間の心が動かされてきたことです。この事実を否定できる者は誰もいないでしょう。


今日、私達は滞在している罪の環境を無慈悲に清算しなければなりません。また、自分の全てを父の前に差し出すことができ、今まで築いてきた父との関係における疑念を全て明らかにし、今まで持っていたすべての罪の要素を排除し、今まで属していた死の支配から解放される信仰の基準を持たなければなりません。


それにはどうすればよいでしょうか?持っている疑念を解明できる方法を見つけなければなりません。生命に進むことができる方法を見つけなければなりません。もしもこのような道が人間の世界に存在しないならば、神様は訪れることができません。自分の過ちに気付き悔い改めることができるように、良心を刺激する存在が神様であるならば、その神様が望む最大の望み、命、そして人間性の基準を確立しなければなりません。そのような瞬間が訪れたら、歴史的な終末時代はいずれやってくるでしょう。


では、この宇宙的な運命の道を前に掲げ、皆さんはどれほど考えてきたでしょうか?実際、今日、皆さんは宇宙やこの社会、世界、さらには自分自身に対してすら疑念を抱く環境にあります。


これらの問題を解明できる中心的存在は誰でしょうか?それは神様です。また、人間が興味を持っているすべてを知る唯一の存在もまた、神様であり、それを解決してくださるのも神様だけです。


従って、皆さんは自分と関連するこのような宇宙的な疑念を一掃し、「神様よ、私は今宇宙に関するすべての疑念を持ち出しました。あなたと私の間に天巡的な縁があるとされるならば、私を捨てないでくれるあなたとして知っています。これらのすべての疑念を受け入れて解明してください。」と言って、神様に託してしまえる度胸も必要です。


このように疑念される問題を解決できない立場にいるとき、これを解決することは信仰の道理として知り、それを解決しようとして難しい戦いを繰り広げ、生きる人がいるならば、彼は一人で歩んでいるが結局は普通に歩いている信仰者以上の立場に出ることができるということです。


私達が善の道を妨げながら悪の道を開いてしまうこのようなサタンの戯れを打ち破り、個人的に勝利の目標に向けて開拓していこうとするとき、自分の疑念を全て信仰の主体者の前に正直に告白する必要があります。告白そのものも神聖な行為と言えるでしょうが、真実に自分がぶつかった宇宙的な意識の限界に対して挑戦できる誠実性を持ち、天に向かって「父よ!神よ!」と叫ぶとき、父もそれに応えるべき責任があるのです。


真実は神によって捨てられることはなく、真実は天地が崩れることがありません。ですから、あなたがたは自分たちの心に疑念の残るすべての事柄について、真実の心で、誠実で献身的な心を持ち、神に訴える覚悟をもって取り組むべきです。


この疑問が解消されない限り、私達は罪の道を立て直す手段を持っていません。どれだけ大きな恩寵を受けていても、疑問が完全に解消されていない限り、再び失敗する可能性があります。


堕落の起源を振り返ると、アダムとイブが堕落したのは疑念を抱いたからです。ですから、私達が回帰の過程にあるとき、何か疑問があればそれを解明しなければなりません。疑問が大きければ大きいほど、その心は大きく拘束されるものです。ですから、疑問を解明するために神に果敢に立ち向かう勇気と決意を持った人になるべきです。


長い歴史の中で、人々は人生観や宇宙観に関して多くの疑問を解決しようと努力してきました。しかし、まだその疑問は完全に解消されていません。今、その疑問を解消するために、その問題に正面から立ち向かって、天に誠実な姿勢で、存在する情熱を振り絞る人がこの地に現れる時が来るでしょう。そして、神はその人を立ててくださり、また彼の疑問を解決してくださるでしょう。


長い歴史を経て、このような 慘\ケ(天倫)の秘密を明らかにするために多くの賢者たちが出入りしました。しかし、人類が疑問に思ってきた全体的な内容は完全に解明されていませんでした。ですから、このような宇宙的な疑問を解消するためには、イエス様が来られる必要があり、解決されない人間の罪を解決するためにも、イエス様が来られる必要があり、死の問題を解決するためにもイエス様が来られる必要がありました。


人類のこのような疑問や死、罪を解決できる方はイエス様以外にいませんでした。そして、イエス様は4000年の歴史の中で、神のために真実な生活を過ごした方でした。彼は宇宙的な疑念を解明するために自己超越し、彼の個人的な栄光を超越して宇宙の栄光のために努力し、彼のすべてを無視して神のみ旨を達成するために無限に犠牲をしてくださったのです。


そのような一貫性のある心と生活のおかげで、イエス・キリストは歴史を代表して天の前に最高の先駆者として立てられました。そのため、イエス・キリストは歴史的な疑念の壁を打破して前進し、自分を信じなさいと堂々と叫ばれました。


「私を信じなさい」とイエス様が言われたこの一言がなぜ信仰の基準となりえたのか、また「私を信じなさい」という信仰の基準をイエス様がどのように設けたのか。これを完全に解明するには時間がかかることをご存知のイエス様が、それを簡略化して、いずれ自然に理解できる方法を紹介しようと言われたのです。


イエス様は地上の人間社会だけでなく、天の世界についてもご存知でした。ですから、イエス様は「私が地のことを語っても、あなたがたは信じないなら、ましてや天のことを語るとどうして信じるだろうか?」(ヨハネ3:12)と言われていました。人間の言葉では疑問の頂点を越えることはできません。必ず天の言葉を通して全ての疑問が解明されるべきです。


では、いつ天の言葉を聞くことができるのでしょうか?それは人類が訪れる最後の時、キリスト教が言う最後の審判の日です。神はその時を基準にして、すべての回帰の機会をもたらされました。しかし、すべての疑問や死、罪の条件や要素を取り除く新しい言葉がこの地に現れるとき、その言葉を受けることができる自分がいるかどうかが問題になります。


もしこのような言葉を受け入れたいと思うなら、あなたは天のためにイエス様が忠誠を尽くされたように、イエス様のためにも忠誠を尽くす者でなければなりません。また、尊い贈り物を受け取ろうとする時には、それを受け取ることのできる器として整っている必要があります。そして、将来的な全体的な疑問の解明の価値がある言葉が現れるとき、あなたはそれを受けることのできる自分たちがいなければならないことを理解する必要があります。


それでは、何によってその言葉を受け取ることができるでしょうか?それはまさにあなたの真心と忠誠です。イエス様が4000年の歴史を代表して天に対して忠誠していたように、あなたも6000年の歴史を代わって天とイエスの前に忠誠しなければなりません。これらのことができなければ、全体的な解明のある時代に断じて立ち向かうことができないでしょう。


では、このような解明の言葉はどのようなものでしょうか?これはあなたがまだ聞いたことのない新しい言葉として現れるでしょう。また、この言葉はどのようなものでしょうか?この言葉は個人の疑問を解明できるだけでなく、世界全体や宇宙に関する疑問を解明できる言葉として現れるでしょう。この言葉はまたどのような体系を備えたものでしょうか?これは一言で表現するのが難しいですが、おおよそ言ってしまえば、6000年間続いた疑問の歴史を解明できる具体的な内容を備えた言葉でしょう。実際には、今後の時代にはそのような具体的な内容を備えた言葉が現れるでしょう。


そして、将来現れるその言葉を私達個人に適用してみると、その言葉は私達の生活環境を支配できる言葉として現れ、またその言葉を通して永遠の世界を目指す絶対者の支配権と私達の生活は密接な関係を築くことができるようになります。その言葉はこれらの具体的な内容を備えていなければならないということです。ですから、私達が神と一体化したその言葉と一体になると、その一体になった場所にはどんな疑問や死、悪の侵入も許されないということです。


そして、その言葉は私達の信仰を完成させる絶対的な言葉でなければなりません。また、私達に絶対的な善を追求させる言葉であり、永遠の命を感じさせる言葉でなければなりません。


これまで人類が追求してきた真理の探求の歴史を振り返ると、最初に人類が追求した対象は宇宙でした。つまり、『この宇宙は何か』という問題を通じて人々は悩みました。その後、人間を中心に探求してきました。つまり、『人間とは何か』という問題に悩んできたのです。こうして人間は理性を中心にこれまで真理を探求してきましたが、人間のその理性は完全なものでしょうか?そうではありません。理性自体だけでは完全になり得ません。そしてその理性は人々を絶対的な価値を向上させることはできず、永遠の人間の生活理念にはなりえないものです。


そこで人間は絶対者、言い換えれば宗教的に言えば神を認めざるを得なくなりました。しかし、その神は人々が犯した罪の許しを求める人間的な神でした。超越的な神として個々の人間との関係を築く神にはなりませんでした。あくまで人間の思考に基づく神でした。しかし、このような神は完全な神信仰ではありませんでした。


この立場から一歩踏み出して正しい信仰の人々は絶対的な神を認めつつも、その神とどのような関わりを持っていないかということです。


論理的な立場に留まっているだけで、どうすれば飛躍的な神の存在を感じることができ、その神の存在が自分と実際に関わりを持つことができるのか、という問題を解決していないのです。


私達はこれを解決できる思想を持たなければなりません。そしてその思想は宇宙論を代わりにし、人間の理性の価値を代わりにし、人間の生命の価値を代わりにし、絶対者の思想、つまり神の思想にまで通じるものでなければなりません。そのような思想が私達と関わりを持たない限り、だめなのです。それはどんな人間の表現をもってしてもだめで、どんな人間の人格修養としてもだめなのです。


では、今日の私達が天巡の新しい思想権内に生まれた以上、私達は自分の生涯中に天主的な思想を見つけなければなりません。神の思想に通過されたイエス様であることを知らなければならず、最高の良心の基準と最高の善の基準に立つイエス様は神の全体的な性質を代わりにした方であるということを私達は自動的に信じ、理解できる段階まで進まなければならないのです。


なぜ私達はイエス様のようになっていないのでしょうか? それは私達が今何をしていても、私達の留まっている環境が何かを望む私達の心を抑圧する力として強く迫っているからです。人々はこの事実を忘れています。また、私の良心が最高の善、つまり絶対者の実在に向かっているとしても、そのような心は円滑に行動に移されていないのです。なぜなら、堕落の報いによってこの世界が罪悪の世界になったからです。


私達の本心、本性の力を抑え込んでいる私の心の力よりも強い闇の力が私達を抑え込んでいます。この闇の力をキリスト教ではサタンと呼んでいます。私達はこの闇の力を打破していく方法を考えずにはいられません。


闇の力と私達の体にある悪の要因は、私達に疑念を抱かせ、罪悪の行動を引き起こして私達を死の世界に引きずっています。私達はこれを阻止して押し戻す環境を持つべきです。こうした環境を築こうとする宗教がキリスト教なのです。


だからこそ、イエス様は自らが神を信じて進んだことと同じように私達に「私を信じなさい」と語られたのです。その「私」とはイエス様だけが達成した「私」でしたが、そのような個人を作り、人間の世界に拡張する運動を誰が行うのでしょうか?これは人間の力ではなりえないことで、神がなすべきことです。しかし、ここで人間の信仰が必要とされるのです。言い換えれば、イエス様が神を信じることによって、周囲の環境に広がる闇の力を生活の中で打破されたように、私達も神を信じて進む時、瞬時にサタンが私達の行動や動く場所に現れるかもしれませんが、最終的には天が現れてサタンを打ち破ってくださるのです。これが一つの基準を築くためにイエス様が信仰の条件を築いた理由です。


それでは、私達が信仰の条件を築くためにはどの基準まで信じなければならないのでしょうか?あなたが想像して信じることができる程度だけでなく、あなたの考えが及ぶ限りではなく、それ以上を信じてはいけないのです。


その基準は今日のこの世界で信じている基準ではないということです。大きくて高い神の存在を信じるのであれば、その大きくて高い神の価値に比べてみると、信仰の基準を築かなければなりません。


では、現在の人々はどの程度信じていると言えるでしょうか?その信仰の程度はイエス様が「私が地上のことを語っても、あなたがたは信じないので、まして天のことを語ればどうして信じるでしょうか」と言われたように非常に低いです。イエス様はこのように人々の信仰の程度について悲観的な言葉を述べています。では今日の信仰を持つ人々が絶対的な信仰の基準を築くことができるでしょうか、これが問題なのです。


今日までキリスト教は聖書の神を信じてきましたが、神自体も信仰があるというのが実情です。神自体も無限の創造のイデオロギーを持ち、そのイデオロギーを実現する信念があるのです。従って、私達は無限の信仰を追求し続けなければなりません。もし私達がそのような信仰を持てば、聖書にあるすべての言葉を信じることができるでしょう。


また、聖書にあるすべての言葉を信じることができるなら、イエス様がここに来て行われなかったであろう言葉まで考えることができます。従って、イエス様が言葉にできなかった部分を私達が見つけ出すことで、宇宙的な疑問の頭を越え、宇宙的な死や苦難、そして宇宙的な罪の歴史を経てきた先祖たちに慰めをもたらすことができます。


今は主を信じていますが、イエス様だけを信じているだけではだめです。私達はイエス様を信仰の条件を通じて永遠の命を賭け、イエス様との関係や縁を結ばなければなりません。そして、私達はイエス様と信仰の関係を結んだその土台の上で、神の実在を感じなければなりません。本当にイエス様を信じれば、これらのことを成し遂げることができるでしょう。


無限の信仰の冒険を追求する者には、無限の発展が可能です。今日の一般のキリスト教徒はこの事実を知らずにいます。無限の信仰のイデオロギーにとらわれて、天国が実現することを願う真の信者を天国は待っていることを知るべきです。


今、あなたは信仰のジャンルで生命の条件を通過することができなければならず、天の秘密を通してそれを達成することができなければならないため、そのような道を見つけて築かなければなりません。


それらを通過した後は、疑念の頭を越え、罪の頭を越え、死の頭を越え、悪を中心としたすべての欲望の頭も越えなければなりません。そして、それらの頭をすべて越えた後には、何をすべきでしょうか?その後には、私達は神を崇めなければなりません。信仰の主体であり、善の主体であり、命の主体である主を、私達の心に崇めることができなければなりません。これがイエス様が「私が父の中にあり、あなたがたが私の中にあり、それを知るであろう。」(ヨハネ14:20)と言われた言葉と同じ一体の境地です。


無限の希望を持った創造主である神を信じ、その神を自分の心に崇めており、安易に対処できるその姿がどれほど素晴らしいか。神は私達がそうなることを望んでいるという事実を知るべきです。霊的な真実は、何万冊もの本でさえも十分に記録できないほど多くの内容があるのです。


聖書に記録された言葉が人間が進むべき信仰のジャンル全体を含んでいるか、または全体の価値を回復できる内容を持っているかというと、私はそうではないと言いたいと思います。これを言うと非難されるかもしれませんが…


従って、信仰の条件としてイエス様を信じるように言ったのは、神が人々にイエス様を最大の価値を持つ方と信じさせるためであり、私達がイエス様を信じ、イエス様と関係を築いていくと、ますます直接的に神が私達の生活を導くことができ、神の導きを受けることで私達は神の価値と結びつくことができ、神と感情的な関係を築くことができます。このようにして神の真理も私達の生活の中で現れることができ、神の真理と対立する要素を私達は持っているのです。


結局は、すべての信念体系を統合し、すべての民族を統合できる生活環境を構築する必要があります。そのような生活環境の中に入ることで、善の希望を抱くことができ、善の命を持つことができ、善の絶対的な価値を示すことができます。人類がその立場に立てば、神は特定の民族の神ではなく、全てのものの神として現れることができます。あなたが生前にそうならない限り、あなたは神の直系の子供になることはありません。


今日、あなたは既に他の人ではないという道を歩んでいます。他の人ではないという道を既に歩んでいます。そして、あなたは信仰の標準を宇宙の創造主の性格に置き、信仰しています。あなたの信仰の標準を達成する日には、悪の要素があなたから消えるでしょう。そうなると、あなたはこの世界のすべてを消化することができるでしょう。


真の信者であれば、悪と同じように存在しているとしても、その悪に影響を受けず変わりません。従って、環境がどんなに悪くても、神の真の子娘になればその環境に支配されないでしょう。このような真の信者にならない限り、天意に立ち向かうこともできませんし、神の前に立つこともできないでしょう。


それでは、なぜイエス様は自分を神の独生子と言ったのでしょうか?イエス様が人々にとって信じがたい条件を提示したのは、それらが信じることで瞬時に飛躍的な利益が得られるようにするためでした。従って、人々が無限の信仰でイエス様を信じ、真剣に天に向かって叫ぶと、信仰が急速に成長することになります。


天国の中心に向かうあなたの信仰の度合いが高ければ高いほど、それだけ多くの霊的なものがあなたを通じて進化でき、あなたが無限の信仰心を持っていれば、あなたの人格を通して想像できないほどの超感覚的な世界の事実や宇宙の事実を瞬時に感じることができます。しかし、人間はこれらの驚くべきものを失ってしまったというのが現実です。


行って、行って、そして更に行かねばならないのは、無限の世界を追求している信仰者の態度である。一定の境界内に留まるような信仰を叫んでいる群れに打ち勝つためには、最終的には宇宙的な大きな戦いを戦わなければならないだろう。


これまでの歴史を振り返ると、新しい時代を導くためにやって来た多くの先知先哲たちはほとんどが排斥されました。彼らを追い払ったのは私達の先祖たちでした。イエス様がおいでになった時も、ユダヤ人たちはイエス様を嫌い、反対しました。彼らは知りませんでした。彼らが信じていることが最善だと思い、宇宙を代弁し、自分たちの解釈で天主を代弁していたのです。


こうして私達の先祖たちは天運の道に抵抗し、天運の歴史を破壊する誤りを数えきれないほど犯してきました。それでは今、この終わりの日に、誰が100%の信仰を持つことができるでしょうか?悪に打ち勝つための戦いに挑んだあなたがその立場に立たなければなりません。そして、その信仰の基盤の上に熱心な責任感を持って絶え間ない努力で実践していかなければなりません。あなたがこの立場に立たない限り、無限の愛のイデオロギーを持ち、花婿の名前で来られる方の前に対象の資格で立つことはできませんし、また無限に生殖し繁栄しろとおっしゃる神との関係を築くこともできません。


このように見ると、罪とは何かと言えば、信じないことです。神が送られた人物を信じないことが罪であり、そのかたの言葉を信じないことが罪になるのです。従って、あなたは宇宙的な神のイデオロギーを受け入れなければなりません。そして、堅固な信仰を持ち、実践していかなければなりません。しかし、あなたがこのような信仰を持ち進めようとすると、あなたの心の中には逆にそれに反する疑念が生じるでしょう。


それはあなたの心に悪の勢力が作用しているためです。その悪の勢力はあなたの心に恐怖と不安を感じさせます。ですから、あなたはその悪の勢力に飲み込まれる信仰をしてはいけません。これらのことを消化しながら乗り越えられる度量を持って進んでいかなければなりません。このような立場にいらっしゃったイエス様であったからこそ、彼は十字架を背負う場所を避けずにおられたのです。こんなイエス様を誰が非難できるでしょうか?真に神を信じる者ならば、イエス様を決して非難することはできないでしょう。


イエス様と同じ立場から、私達は新しい信仰の態度を見つけて歩んでいかねばなりません。私達が真実に新しい信仰の態度を歩んでいくならば、そこには実証的な事実、神と結びついた事実、神と関連した事実を見出すことができるでしょう。そうなれば、ここで望む統一を志向する創造主の理想を実現する道を見出すことができるでしょう。


今日、死を覚悟して新しい信仰の道を歩む皆さん。絶対的な信仰で神の希望に向かって進むなら、その信仰の姿勢を通じて皆さんは神聖な価値を見つけることができます。だから皆さんはこの信仰をもって責任感を感じ、その信仰をもって実践する真の弟子たちとならなければ、絶対にお父様の前に立つことはできません。絶対的なお父様の前に真の子女として立つことも、忠臣の姿勢で立つこともできないのです。


今、私達は絶対的なお父様の前に真の子女として立つために、新しい信仰でこのすべての疑念の世界、このすべての死の世界、このすべての罪の世界、このすべての恐怖の世界を越えなければなりません。私達が天が要求する信仰の内容を理解していれば、それを証明できる基準を立てて天の前に立たなければなりません。そうでなければ、まったく神の真の子女になることはできません。


このような信仰で進むとき、皆さんは神と永遠の関係を築くことができ、永遠の善と永遠の命を楽しむことができ、苦しみから永遠の解放を得ることができ、永遠の天国の領域で生きることを心に留めておかなければなりません。


<祈り>
 かつては神だけを頼りにしてこの世界を任せてみましたが、それが崩れ去りました。その後、人間の理性を通じてこの地を見つけるべきだと主張してみましたが、今見ても、それを通じても意志は達成されていないことが事実として現れています。


ですので私達は天も頼るべきであり、人間も頼るべきであり、天と人が協力して達成すべき部分が残されていることを感じないわけにはいきません。父なる神よ、私達を私達だけに任せ置かないでください。


人類が歴史的な試練を乗り越えてきたとき、信仰だけではだめであり、自分だけではだめだと理解しています。自分を超越し、宇宙的なイデオロギーと真理を見つけるための力を私達に与えてください。


私達もまた立場を持つと同時に、天が私達に対して立つことができる基準を設けなければならないことを理解しており、絶対的な信仰を通じて完全に知る立場からお父様をお父様と呼ぶことのできる立場まで、私達を導いてください。


イエス様は私達に言われました。「花嫁と花婿の関係として私を求めなさい」と。内面的な側面で交わることができるのが心情であり、内面的な側面で交わることができるようにしてくださるのがお言葉なのであれば、お言葉を通してそれが可能になるようにしてください。そして、そのお言葉を通して真理と心情を知り、心情的なイデオロギーを通して神の心情を知る立場まで、お父様、私達に結びつけてください。熱望しています。


天のお父様、今日、私達が非常に狭い状況にとどまらないように許してください。小さなことに執着し、自分の全体的な価値を失う愚かな態度にならないように許してください。

大いなるお父様の恩寵を敬意をもって迎え入れながら、大いなるお父様の神聖なる性格を見つめることを許してください。その性格はまだこの地にどのような姿で現れるかわからず、また天が私達を通してその性格が現れることを望んでおられると言えば、もっと大きな信仰の基準を持ち、その信念に見合った真心と誠実をもって、お父様の前で進んでいけるように許してください。そして、その責任を果たすことができるように導いてください、お父様、切に願っています。


お父様、この時に許しを得る最後の恩寵を与えてください。栄光のお父様の子女として、今日の生活の信念として、永遠のお父様の全体的な信仰の理念を受け入れ、実践して、すべての人々に対して誇りに思える勝利の姿になるように導いてください、お父様、切に願っています。


すべてのみ言葉をこれらの心の中に命の泉として植え付け、そのみ言葉がこれらの心の中で歴史を作り出せるようにお助けください。切にお願い申し上げながら、御名において祈ります。アーメン。

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御言葉選集2(23,24)

2024年01月08日 15時50分15秒 | 学習
文鮮明先生の言葉集 2 - 23. 堕落の頂点を越えて本来の楽園に入ろう (1957年7月28日)

1957年7月28日(日) 前本部教会

聖書拝読:創世記1:28、3:6-24



 創世記1章28節および3章6節から最後の節までを見ると、ますます最初に神が人間に祝福を授けた事実と、その後人間の堕落により神が裁きの神として立たれた事実がわかります。これらの節はアダムとイヴが堕落する直前から、堕落してエデンの園から追い出されるまでの記録です。

この出来事はアダムとエバから起こったものであり、彼らが人類の祖先であり、すべてのものの支配者であったため、彼らだけが裁きの呪いを受けただけでなく、生命の世界のすべての存在にもその影響が及んだのです。

人間の堕落によって神の歓びは悲しみに変わり、人間の希望は失望に変わり、天地は悲嘆と敵意を抱くようになりました。当時のアダムとエバの心情が私たちにまで続いていることを忘れてはなりません。

すべてのものの前でアダムが神の祝福を受けた時の喜びと、堕落後に全てを失い、創造主である神の前で追放された時の心情とは、極端に異なっていました。

アダムとエバは全てのものの前で立つことができず、上下左右を見渡しても中心を見つけることができなかったのです。最終的に私たちが直面しているのは、この歴史的な惨めな因縁から解放されなければならない運命であることを覚えておかなければなりません。

アダムが犯した罪悪は歴代の先祖を通じて時代や国家、または民族を超えて法的な形を取り、私たちにまで続いてきたのです。ですから皆さんは、自らが再び全宇宙的な価値を持ち、天性の意志を表現してその価値が天性の価値と同じになるべきだと認識しなければなりません。

これらの価値は、どんな歴史的な困難を経ても、私自身が宇宙の中で立ち上げなければならないものです。それでない限り、人間の理想と神が創造した創造の本来の楽園は、私を通じて現れないのは当然のことです。エデンの園の悲しみは単なるエデンの園の悲しみにとどまらず、堕落したアダムとエバに対する神の悲しみと失望は今日の人間の苦悩にまで続いていることに気付かなければなりません。

したがって、何よりも重要な問題は自分自身であり、私は単なる特定の家族や民族に限定された存在だと思われるかもしれませんが、そこに限定された私自身ではありません。私は希望の理想をかけて天秤にかけ、その立場にあるかのようにいます。このような私を見つめる神の希望は宇宙的であり、歴史的なものです。

そのような神の希望が実現すると、すべての人類は私と関係を築こうとするでしょう。この驚くべき事実を考えると、私は彼らの希望を実現し、また彼らと共に私の本性の美を神の前に示すことができなければなりません。

しかし、そのような価値をどこで見つけるかは、人間が解決しなければならない重大な問題です。これを見つけるためには、私たちはどうすればよいのでしょうか?アダムとエバの堕落直前の立場と堕落直後の立場をよく考える必要があります。そして、神はアダムとエバを直接「私の息子、娘よ!」と呼ばれることが希望であることを知らなければなりません。

では、堕落とは何でしょうか?堕落とは神と人間が切り離せない親子の関係を断ち切ったことです。神が造られたアダムとイヴは最初に神を「父」と呼ぶべきでしたが、サタンを「父」と呼ぶようになった事実が歴史的な悲しみの源となりました。アダムとエバが神を信じずに裏切ったことが宇宙的な恨みの種としてまかれたのです。

それでは最後に何が起こるでしょうか?最後には親子の関係が乱れる出来事が起こるでしょう。祖先が神を追放した不信の因縁があるため、その血統を受け継いだ人々にも最後には子供が親に対抗する出来事が起こるのです。

皆さんはこのような時代が来ると、裏切りが不可能な真の親をこの地で見つけなければなりません。皆さんは現在の環境が信仰の縁で結ばれたものではないために不信の現象が起こっていることを理解しなければなりません。

親子の関係がこうであり、夫婦の関係がこうであり、また親戚の関係が不信の傾向となり、人々が追求している意志まで根本的に崩壊させる拒絶現象があらゆる所で現れたら、それが最後の時であることを理解しなければなりません。

私たちが生きている現実で、こうした現象が起こることを傍観しても、私たちは決してそのような立場に立ってはいけません。アダムとエバは神の言葉を守らず、サタンの言葉を聞いて堕落したので、神の言葉がある一方で思いもよらないサタンの言葉も生まれたのです。それによって今日、この地にもこの2つの異なる言葉が生まれ、一方は真実に属し、もう一方は偽りに属して、いつでも皆さんの生活に直接影響を与えています。

では、この状況で私たちはどうすればよいのでしょうか?私が求める真の父、私が信じている神、その神から出た言葉を守り、その言葉を生命の基準、イデオロギーの基準、戦いの基準として確立しなければなりません。そうでなければ、地上で万物を支配できる祝福を受けることはできなくなります。

今日、この地には中心を失った人がたくさんいます。特定の宗教や教派による個人のイデオロギーに中心を置いた言葉はあるが、神の言葉を自身の永遠の基準として変わることなく生命をかけて闘う群れはますます少なくなっています。サタンのように自分を中心とする言葉を述べる者がますます増えている現象が起こっているのです。

エデンの園でアダムとエバを蛇と呼ぶ際、それは舌が2つあるもので、1つの舌で2つの言葉を話す者を象徴しています。したがって、天倫を代替する言葉を抱えた者はそれを中心にして、その言葉を守る責任があるのです。

これもあれもない立場に立ってはいけません。これもあれもない立場は、こちらに行って混乱を引き起こし、あちらに行って混乱を引き起こす立場よりもさらに悪くなる場合が多いです。

アダムとエバは堕落して自らの身体を失い、信仰を失い、言葉を失い、同時に実質を失いました。しかし私たちは信仰と言葉を再び見つけ、残されたのは唯一、実質を回復するだけであり、この実質を回復する時が私たちが望む '再臨の日' であることです。

したがって、回復された実質的な基準に達するために私たちが越えなければならない頭があります。問題は、皆さんが神が再臨して運行できる実体になっているかどうかです。

神はアダムに対して相対的な立場から命じ、相対的な立場から信仰の条件を見て彼を扱いましたが、これからは実体を見つけさせることになります。したがって、相対的な立場ではなく、私の心と体が一体となり、私の一つの実体を見つけなければなりません。このような実体を見つけるためには、創造の法則を通して行わなければなりません。

もともと人間は神と心が一つであり、心と体が一つであり、体と対立するすべてが関係を結ぶべきです。これが真の絶対的な基準です。

人として生まれた以上、真の絶対的な基準を通じて完成させなければならないため、私たちは心が指向するイデオロギーを見つけ、心が命じると体が従う心と体の一致点を見つけ、また体と心が共に指向する目的を地上に残しておかなければなりません。

回復の過程にある皆さんはこれまで矛盾していた心と体が一つにならなければなりません。そして神の言葉と一体になり、神を信じることができ、また天の中心に立てた転落前のアダムとイヴの立場にあるなら、私の心は体と一つになり、体は心と一つになることができます。この立場に立つと、万物とも一体になる生活環境を開拓していくことができるのです。

それでは終わりの日の皆さんにはどのような使命があるのでしょうか?宇宙的な価値を代替できる実体復帰のために準備し、歴史的な天的な価値を引き継いで実践しなければならない責任があるのです。

この責任の実践の程度によって、皆さんには相対的なこの地上での指導的な権限が与えられるかどうかが決まり、その与えられる権限の程度によって天的な人格が形成されるかどうかが決まります。皆さんはこれを知らなければなりません。それゆえに復帰祭礼は聖幕から始まり、聖殿を経て実体に至るものです。

イエス・キリストはこのような人格者として来られたため、彼を中心にして神は絶対の歴史をなし遂げ、今日私たちはキリストに従って信仰の道を歩んでいます。そして人間がキリストに似るようになると罪悪の歴史は逆転するのです。私たちは今、審判の決戦場に移りつつあります。

皆さんが今、復帰祭礼を責任を持っている自分であることを考え、自分を全宇宙の前に立てて見てください。千の物があれば千の主人として、万の物があれば万の主人としての資格が自分にあるかが問題です。

万物の希望は何でしょうか。それは他の何物でもなく、ただ人を通して神の前に進む栄光の日を迎えることです。

神が復活できる実体対象となるには、どこに行こうとどんな環境にとどまろうと、私がそれをしなければならないという責任を感じなければなりません。皆さんはこのような責任感を感じながら生きていますか?「これも私の仕事で、あれも私の仕事だな!どれも私に関係のないことはないな!父よ、私が生きてこの仕事を成し遂げなければ、死んででも達成させてください!」というように訴えつつ、何事でも責任を持って生きなければなりません。

万物は私と関係を結び、私と共に生きて楽しもうとしていることを皆さんは知らなければなりません。また、これまで悲しみをもたらしたサタンが神に対して人々を中傷するのに対して敵意を抱き、戦わなければならない責任が皆さんに残っています。

「父よ!愛される父よ、私が父の代わりに戦います。父の敵を私が返します。父の失われたものを私が見つけます。父のイデオロギーを見つけるために私たち自身を父の意志に従って使いなさい。」と言える存在にならなければ、神の実体聖殿の復帰の意志を達成することはできません。

したがって、皆さん自身は常に天国を成し遂げるために、今いる生活環境の中で天倫に相応しい自分でなければなりません。善悪を分離する聖なる生活を通じて、自分に革新をもたらし、永遠に変わらぬ戦士として天の軍勢の勝利の姿を持ち、神の父の子娘としての誇りを知らなければなりません。

そうでなければ、終末の審判の頂を超えて復帰されたエデンの理想的な園に入り、真実の体として完成できるということを皆さんは気づかなければなりません。



文鮮明先生説教集 2 - 24. 神のためのイエス・キリストの指定(1957年8月4日)

1957年8月4日(日)、総本部教会

聖書拝読:マタイによる福音書7:1-27


<祈り>
 一週間、許された御旨に従い、父の望みを見据えながら闘ってきた子供たちが、この時、父の祭壇の前にひざまずいて伏せられました。慈悲に満ちた父よ、愛に満ちた父よ、慈悲深い父よ、あなたが統括してください。私たちの心は言い表せないほどの初めての立場に置かれています。

私たちの心に親和の恩寵と天国の慰めがなければ、私たちと同じくらい哀れな存在がいないと知っています。そうした私たちを数え、慈悲の恩寵を授けてください。
 弱い者の友になるために努力しているのも、あなたであることを私たちは知っています。弱い者たちの心を強くしてください。孤独な者たちの心を慰め、してください。

 天倫の驚異的な意志を心の奥深くに刻み込み、天の恩寵に没頭して感謝礼拝を捧げられるように許してください。あなたが望まれる栄光を示し、喜びの歌を捧げられるこの時間を許してください、愛する父よ、熱望します。

父よ、私たちが苦しい状況にあるとしても、眠っているこの国を代わって立ったであろう、それが父の楽しみの栄光となるべきであることを知っています。私たちの悲しみ、絶望、嘆きが私を中心にしないで、すべてのものと天のためにあるとすれば、それ以上栄光なるものはないことを知っています。天のために懸念し、地のために懸念できる心だけが、この時私たちに満ち満ちて起こるように許してください。自ら天から委ねられた使命を感じなければならない時間を、熱望します、願います。

 これで私たち自体が天国の意志に立ち向かっていることを確かに自覚させてください。私たちが動くことも天を代わって動くという自覚的な心情を持たせ、民族を代わってサタンと対抗して戦い、あなたが委ねてくださった責任を果たすことを許してください。あなたが許可された祝福を民族を代わって受け、処理できるような子供たちに導いてください、愛する父よ、熱望します、願います。

 そして眠っているこの国民を目覚めさせるようお許しいただき、暗闇に飲み込まれつつある世界中の人々を救うために、父の前で訴えることのできる子供たちとなるよう導いてください。

 私たちが責任を果たす際に、個々の生命だけを責任を持つ立場に立たないように助けてください。私たちの命を父の前に差し出し、国を代表し、人類を代表する責任者として立つことができるように導いてください。お願いします、父よ、切に望みます。

 今この一時、私たちの身体と心の誠実さを父の前に捧げられるようお許しいただき、その誠実が父の心に深く触れ、父が私たちを慰め、祝福できるように導いてください、愛する父よ、切に望みます。

 この日、地方に散らばって孤独で父の前に戦いの旗を掲げている場所ごとに、父よ、一緒にしてください、統括してください、守ってください。生きている父の子供たちであることを明らかにして逆境の中でも誇りに思えるよう導いてください、愛する父よ、切に望みます。

 今、孤独な状況にある子供たちもいるだろうと知っていますので、彼らの環境とすべての事情を統括し、慰めていただき、普遍的な恩寵として彼らの前に現れていただくようお願いいたします、父よ、切に望みます。

すべてをお任せしていただきましたので、お許しいただいた御旨と栄光だけが私たちの身体と心に満ち満ちて現れてくださるよう、切にお願いいたします。すべての御言葉を主の名によって祈ります。アーメン。


<御言葉>
 この時、皆さんに「神のためのイエス・キリストの指定」という題で少しご説教させていただきます。

 現代において多くの人々は、人生の根本的な目的をはっきりと知らずに、各自のやり方で生きています。つまり、人間がなぜこの地に生まれ、どのように生き、死んだ後にどこに行くのかという人生の根本的な問題を正確に知らずに生きているということです。

しかし、それは簡単なことです。人間は神のために存在しています。つまり、神のために生まれ、神のために生き、神のために死ぬことが人間の本来の道であるということです。

しかし、人間の祖先であるアダムとハワはこの人間の本来の道を歩むべきだった。つまり、互いに神のために生きる相対的な道を歩むべきだったが、そうした道を歩むことができなかったということです。これが堕落の原因であり、それ以来、人間たちは堕落の原因を克服しようとしてきました。

しかし、堕落の血統から抜け出せなかった人々は、栄える生活をしようとしましたが、最終的には自分を中心に据えた生活でした。言い換えれば、自分のために生まれ、自分のために生きて、自分のために死んだ生活でした。

しかし、神は歴史の過程を通じて、人間が知らなくても創造理念を実現するために、宇宙的な生の価値、宇宙的な生命の価値を見つけ出して立てることができました。皆さんはこれをもう一度考え直す必要があります。

従って、皆さんは天倫に対して人間の悔い改めを守り、天上の因縁を代わりにでき、人倫の因縁を代わりにでき、宇宙の因縁を代わりにできる価値を見つけ出して立てる必要があります。さらに、神の意志に向けて永遠に変わらない皆さんの立場を回復し、永遠に生きるその一人の価値を歌うことができる存在になり、自分が全体と因縁を結び、その因縁の実践が神の創造の美を完全に示すことができるようにしなければなりません。これが、神が人間に対して調整される最高の目標です。

従って、皆さんはそうした宇宙的な人間本来の悔い改めの心を見つけ出し、神の前で誇りに思い、全人類の前で誇りに思い、被造物の前で誇りに思える日を見つけ出さなければなりません。皆さんは、死んでもその一日を回復しなければならない宇宙的な運命の道に置かれています。これを心に留めておかなければなりません。

この不変の悔い改めの基準を立てて天を向かえようが、人類を向かえようが、または被造物を向かえようが、その価値と栄光をただ一人で示すことができる人、変わりようがなくて変わりようがなく、破れようが破れようが戻せない忠誠を備えた真の個性者はこれまでにいませんでした。歴史の中で天が送り、証明してくれた多くの先進的な人々はいましたが、そのような真の個性者はいませんでした。それゆえ、人間たちは長い歴史を通じて、この一人の個性者を見つけ出しています。

今日、人間たちはこれまでに来たすべての先進的な人々の使命と信仰を引き継ぎ、天倫と人倫の前に不変の姿勢で立つと誓い、その一人と出会わなければなりません。そうでなければ神が望む責任を果たすことができず、人類の歴史は天倫が望むその一つの目的に近づくことができません。

従って、その一つの中心存在がこの地に必ず現れなければなりません。そうでなければ、歴史の終結の時代に現れるであろうと言われた方がこの地に鮮明に現れないし、神を中心とした理想的な世界が築かれることはできないのです。
その中心存在は、全ての被造物の価値と栄光を代わりにし、自らの生活領域内で敵対的なイデオロギーの価値を示し、全体と調和できる一つの核となる力の作用体として存在しなければなりません。

人類を救済するために調整してこられた神様は、調整歴史の時代ごとにそのような中心の人物をこの地に遣われました。人類の歴史がこのような連関的な歴史で、つまり中心の人物たちを通じて引き継がれていなければ、神の調整の意志を今日私たちが継承することはできなかったでしょう。

歴史の最後の目的は、一つの世界観を通じて帰一の理念を見つけることです。今日この地に住む人々は、必ずしもこの事実を認めています。

それでは、そのような調整歴史の帰一点とは何でしょうか? それは、人間が天倫の前に永遠に立っていることができ、天倫、人倫、宇宙を代わりにする一つの人格を備え、不変の忠誠の態度で神と永遠に共同生活できる標準を確立することです。従って、人類の歴史の目的がその一つの帰一点に向かっているため、私たちは人類の歴史がどのようなイデオロギー、どのような信念、どのような建設的な活動に中心になって推進されているかを考えることができます。
そして、その一つの標準は歴史的な標準であり、人間の本質的な標準であり、これまでの人間が歴史的に望んでいた一つの標準です。そして、人々はまた、これまでその一つの標準を完成させた中心の人物が自分たちの目前に現れることを願っていました。

つまり、過去または未来にその中心の人物が現れず、自分たちの時代に現れて自分たちと関係を結び、自分たちも天倫の標準を完成させた存在、永遠不変の先祖の栄光を享受する存在になって万物の前で誇れることを願っていたのです。

実際にその一つの存在が皆さんの目の前に現れるとき、皆さんはその方を中心存在として迎え入れ、その方の悔いを見習うことができなければなりません。その時には、そのような皆さんが存在しているかどうかが問題になるでしょう。

神様は今日まで何千年もの歴史を経て、その時代を代表し、その時代に適した一つの中心の人物としてその時代を責任持っており、その時代の人々が守るべき天倫を引き継ぐことのできる忠誠と礼儀正しい人格者を遣われましたが、その当時の人々はそれを知らなかったのです。

一方で、人類の歴史は多くの信念が一つの理念に統合されつつ、帰一の目標に向かって進んでいます。それでは、なぜこれほど多くの信念が一つに統合されて出てくるのか、そして天倫の調整が出発から経過を経て目的地に至るまで一つに帰一されて出てくる理由は何でしょうか? それは時代ごとに調整の目標が変わると、調整の帰一の目的を達成することができないためです。こうして神の調整が永遠の軸を中心に一貫して一つの標準に向かって前進していることを、皆さんは知っておかなければなりません。

これはあるイデオロギーを通して現れる信念ではなく、イデオロギーを通して現れる法もなく、イデオロギーを通して現れる人倫の道徳でもありません。これは人倫を超越した天倫の法度を中心に、歴史的なすべてのものと対峙して戦い抜いてきた神の調整の約束です。

従って、私たちは天倫の意志を代わりにし、不変の秩序を築くことができる天倫の人格者とならなければなりません。そして、皆さんが神の調整の出発点から目的地まで不変の経路を経て、一つの帰一の価値を見つけ、全体の価値を代わりにできるようになるべきです。それだけでなく、見つかったその帰一の価値が全体の回帰の条件として立てられるべきです。そうでなければ、神の意志を代表する人格者として調整されるべきである神の意図が完了しないことになります。

歴史の進行を見れば、民族や地域を中心に、そこに適した宗教が形成されてきたことがわかります。その中で、長い歴史的背景を持ち、不変の人格を主張し、天的な愛と価値のつながりをもたらす宗教が存在する必要があります。
その宗教は時代や環境が変わっても、これを達成するために絶対的な基準を設け、最後まで出て行くべきだということです。また、その宗教は人間が生まれた目的、生きるべき目的などを示し、また歴史や文化などの面で貢献できる歴史的背景を持っていなければなりません。

そのような宗教を見つけるには、その宗教が信仰的なイデオロギーを実践するために地上で無限に戦ってきた宗教であるかを考慮する必要があります。歴史的背景を持ち、一貫した神のイデオロギーや愛を人間の前に示すために時代や信念が変わっても不変の姿で、逆境の中でそれを補完することに貢献している宗教であるかを考慮する必要があります。

そのような宗教であれば、その宗教を中心にして動く根本的な目的は、天倫を代わることであり、人倫を代わることであり、全地上のイデオロギーを代わることです。また、不変の忠誠を備え、一つの実践的な存在と関係を結ぶことができる宗教であるということです。それがキリスト教なのです。

キリスト教が今日まで発展してきた過程には、イエス・キリストを中心とした理念があり、その理念を実現するための生活があり、またその理念を達成することへの切望があったことです。ですから、今日のキリスト教で叫ばれている理念は、イエス・キリストが旅立っていった理念と一致していなければならず、キリスト教徒の実践的な生活もイエス・キリストが行った実践的な生活と一致していなければなりませんし、キリスト教徒の欲望もイエス・キリストの欲望と同じでなければなりません。

従って、すべてのキリスト教徒はイエス・キリストの不変の秩序を代わりにし、彼の許可を得た天倫の事業を受け継ぐことができなければなりません。そのような聖者たちにならなければ、キリスト教の理念であるイエス・キリストの意図を達成し、人類を一つに帰一させなければならない理念を不変の忠誠を持つ一つの理念、一つの信念、一つの実践的な対象体として天倫の前に示すことはできません。

それでは、イエス・キリストの30年以上にわたる人格を見ていくと、イエス・キリストは当時に限られた個人の人格者ではありませんでした。彼の人格は自分の一個の存在だけでなく、4千年の歴史を代表する天的な価値の人格であったということです。これを理解する必要があります。

イエス・キリストが主張した理念は、多くの先知たちが歴史的に期待していた理念であり、同時に調整の目的を達成するための造物主の理念でもありました。その使命を遂行するために涙を流しながら苦しい道を歩んだのがイエス・キリストの生涯でした。

従って、皆さんは不変の心でイエス・キリストの理念と生涯を通して、彼の指導と人格を手本にすべきです。そして、イエス・キリストが残した使命を引き継いで、2千年を越えた6千年の歴史を代わって不変の忠誠を持つ人格者として天国の前に現れなければなりません。もしもそのような皆さんがならなければ、天倫を代わる理念、イエス・キリストが望んだ理念、今日私たちが探している理念とは永遠の関係を築くことはできません。これを皆さんは心に留めておく必要があります。

それではイエス・キリストはどのように生きたのでしょうか? イエス・キリストはただ神の御心を彼の生涯の目的とし、その御心が成就されるまで全てを引き受け、天倫の前に誓って自らの快適を考えずに守る生活をしました。

それでは、なぜ神はイエス・キリストを全人類の救い主として立てることができたのでしょうか? 4千年の歴史的過程を通して、イエス・キリストだけが神の意志のために全生涯をささげ、創世以来初めて神の意志のために忠誠と守りを実践したからです。従って、イエス・キリストは永遠のメシアとして立てることができ、モーセを中心に引き継がれてきた調整の歴史がイエス・キリストの理念を通じて新しい段階に入ったのです。

最後の審判が迫る中、絶え間ない恐怖のゴルゴダの丘を越えなければならない今日のあなたたちにとって、あなたたちの訴えをどうやって終わらせることができるでしょうか?これまでのこの土地のイデオロギーでは不可能です。

ですから私たちには、私たちの進むべき道を導くための中心的存在が必要です。歴史的に見ても、神様は当時のイデオロギーでは不可能だと知っていたため、神の計画に従う多くの宗教を通じて、中心的な人物を私たちに送り届けると約束しておられます。これがいわゆる再臨の出来事です。これを理解する必要があります。

今、私たちは神に対して、または万物に対して相対的な価値基準に立ってはなりません。絶対的な神の人格と絶対的な神の不変の理念、そして天的な生活の理念を代わりに持つ中心を持つ者として、神の御心に従って始まりから終わりまで永遠に関係を築くことができる立場に立ち、万物の前で自らの価値を示すことができるようにならなければなりません。そして、あなたたちはそのような人間になるための導く真理を見つけなければなりません。そのような真理を見つけるために歩み出たあなたたちなら、何よりもイエス・キリストの希望、イエス・キリストが望んだ理念、イエス・キリストの生活の基準を引き継ぎ、そこに新しい理念を加えることができなければなりません。さらに、自らそのような活動の舞台を見つけなければなりません。

そして、理念的な基準と実践的な基準を備えて、すべての面において統制できる絶対的な立場を自分たちで見つけ、最後の日に天が探している人格者、天上の全体の目的を代わりにできる真の人にならなければなりません。そうでなければ、自分で悔い改める心情がある人にならなければなりません。

今日、私たちは個人であるが、個人として終わってはなりません。私たちが信じているキリスト教も単に民族や国家のための宗教として留まってはならず、世界と人類のための宗教にならなければなりません。また、人類の歴史を代われるし、人類の歴史的な希望を担当できると同時に人倫と天倫の理念を代われるようにならなければなりません。

そのような歴史と歴史的な希望と人倫と天倫の理念が、あなたがたの生活する環境と結びついていることを、あなたたちはしっかりと感じなければなりません。不変の人格者として希望の実体として2000年前においでになったイエス・キリストの前に恥じないで現れ、「主よ、これがあなたの望みでしょうか?私が成し遂げましょうか。」と言えるようにならなければなりません。

そして私たちは天倫の原則を代わりにして変わらない悔い改めを持ち、最後に「天よ、受け取ってください。」と祈ったイエス・キリストを振り返らなければなりません。

それでは、神の御心を達成する歴史的な使命を持ってきたイエス・キリストは、どのような心構えで難しい環境を乗り越えて開拓してきたのでしょうか?イエス・キリストは人々に人間性を回復し、天的な関係を築き、人類の歴史的な希望を実現する責任を感じ、誰もが感じ得ない強烈な感情を抱え、難しい状況を乗り越えました。

それでは、イエス・キリストはどのような難しい状況に直面していたのでしょうか?イエス・キリストは自分自身だけでなく、当時の人々にとっては見えない数々のサタンと戦わなければならない難しい立場にありました。また、イエス・キリストは当時の人々が妨げ、歴史的な習慣や時代の概念が妨げる中、一人で開拓していく難しい立場にありました。

こうして難しく孤独な立場にいたイエス・キリストを代わって戦ったり、イエス・キリストを代わって勇気を持ってその難しい道を切り開いてきたのは誰でしょうか!今日の皆さんは、イエスの立場にあった状況を代わって理解し、いつか世界を救うために戦うことのできる人、地上で人間の責任を果たす人にならなければなりません。そのような人が現れなければ、イエスが望んだ以上のことはこの地上で成し遂げられません。

そして、歴史的な人格を代わって救済する存在としてやってきたイエス・キリストに対して、当時の人々は無視しました。だからイエス・キリストは非常に孤独で孤立した道を歩みました。しかし、イエス・キリストは個人的な希望を持っていませんでした。彼の持っていた希望はただ堕落した人間を救うことだけでした。

それにも関わらず、今まで人々はイエス・キリストのそのような孤独な立場や、孤独の中で自己のことを考えずに人類を救い出すために全体的な希望を掛けたイエス・キリストを知らなかったのです。また、イエス・キリストを追随する弟子たちさえも、このようなイエス・キリストの立場を理解していませんでした。このようにして、イエス・キリストは悲しい孤独な王であったことを理解するべきです。

また、イエス・キリストは自分だけのために祈ることはありませんでした。イエスが言った言葉、イエスが見聞きし感じ行ったすべては、自己のためではありませんでした。それらは歴史を代わり、人類を代わり、天的で永遠不変の神の実在的な価値を示そうとしたものでした。

こうして知られざる中で涙を流し、悲しい生活をしていたけれども、偉大な意志を持ったイエス・キリストであったことを理解するべきです。皆さんはイエス・キリストがそのような難しい環境を全て忘れ、創造主の理念と信念を失わずにサタンと戦い続けなければならなかった残念な状況にあったことを謙虚に受け入れなければなりません。そして、自ら嘆くべきであり、感慨深さを持つべきです。

イエス・キリストは、この地に来て自分自身のためのイデオロギーを確立するのではなく、天的な原則のためのイデオロギーを確立しました。そのイデオロギーは神の内面的な感情を代表する不変のイデオロギーであり、歴史上の多くの信仰や思想などの基本的なイデオロギーでした。では、そのようなイデオロギーを持って立ち上がったイエス・キリストはどのように生活されたのでしょうか?

イエス・キリストはどのような心持ちで環境を克服し、天とのつながりを築いたのでしょうか?イエス・キリスト自身は神の善を中心にし、神の栄光を歌うことのできる本来の人間、腐敗する前のアダムと同様に喜びを感じる存在であり、無限の価値を持つ存在でしたが、腐敗したこの地に生まれ、神を代表してその難しい環境を制圧してからでした。

人間は腐敗したため、悲しみの生活を避けることができませんでした。また、人間が腐敗したため、苦しみを経験し、死の世界に住まわなければなりませんでした。そんな悲しみや苦しみ、死の呪いに包まれたこの地に来たイエス・キリストは、その呪いを踏みつけて立ち上がり、その心に天的な原則を確立し、それを掴んで戦った主役でした。

イエス・キリストは神の悲しみを自分の悲しみとして感じるために悲しい道を歩んでいきました。彼が気にかけていたのは、自分のために悲しむことではなく、自分のために悲しむのではなく、歴史を通じて、人々を代表して、神の掲げた使命を果たすべきだったためです。

イエス・キリストはどんなに血を流す場所や、悲しみや苦しみに耐える場所、恐怖に捉われる場所に置かれても、その中心だけは変わらずでした。

もし天のイデオロギーを受け継いで地上に不変の道を切り開く全体的な使命を担当するイエス・キリストがそのような環境で中心が変わっていたら、勝利的な天的な歴史は始まることはありませんでした。イエス・キリストは難しい環境、望みが絶たれた立場、サタンの中傷を受ける場でさえ、それらすべてを打ち勝って勝利的な天的な原則の道を切り開いていったのです。

イエス・キリストはこの道を切り開くために、歴史上になかった愛を強調しました。そして、どんなに難しい環境に直面してもそれを乗り越えるためには忍耐を持つべきだと説き、罪人たちが悪に対して誠実である限り、神の意志のために忠実であるべきだと語られました。

これがキリスト教で語られる聖霊の九つの実りの基本です。愛の生活をすることで喜びと平和が生まれ、忍耐を通して慈悲と良善が現れ、忠実な生活をすると柔和さと謙遜が生まれます。

イエス・キリストは、堕落の中にある人間たちのすべての悪の要素を取り除くために、天的な愛と天的な忍耐、天的な忠誠を強調しました。これらは天国のイデオロギーを達成できる実践的なイデオロギーであり、今日のあなたの心には、こうしたキリストの愛がありますか?また、忍耐と忠誠の心を持っていますか?イエス・キリストは神の心を代わりに表現した愛の具現体であり、苦しいゴルゴダの道でさえ、あらゆる人の苦しみを憂慮する忍耐の主役であり、歴史の誰よりも天に忠実な代表者でした。

それでは、このようなイエス・キリストの愛、忍耐、忠誠はどこから派生したものでしょうか?これらはイエス・キリスト自身から派生したものではありません。単にイエス・キリストはその神の愛を人間たちにつなぐ媒体の役割を果たしていたのです。

無知な人間を救うために来られたイエス・キリストは、神の愛の具現体であり、神的な価値の実体でした。それではイエス・キリストはどのようにして歴史になかった神の愛を表現できたのでしょうか?それは神との意志のためにすべての困難を克服でき、自分の命さえも犠牲にできたからです。従って、そのようなイエス・キリストには神の愛が訪れ、歴史上初めて神の愛を直接再現できたのです。

イエス・キリストはこの地に来て神の愛を求めるとき、論理的な側面を前面に押し出したのではありません。イエス・キリストは愛に対する定義や論理について話しませんでしたが、歴史を具現化する実践的な面で愛を代表したのです。

彼は自分が感じなかったし、行動しなかったことは語りませんでした。イエス・キリストは行動を通してしか神と永遠の関係を築けないことを知っていたからです。従って、このようなイエス・キリストの実践的な愛はどこから来たのでしょうか?イエス自身からではありません。神の内面的な心情を感じ取れたからこそ、イエス・キリストはその内的な基準を立てることができたのです。これを人間たちはよく知らなかったのです。

それでは神の愛はどのようなものでしょうか?今日の地上の人々は何度でも裏切り、変わることができるかもしれませんが、神はそうできないということです。神の愛は永遠不変のものです。人々はお互いを裏切り、疑ってきたのは、このような神の愛の心情を知らなかったからです。

それでは神の忍耐はどこから来たのでしょうか?神が戦いの歴史を進めたのは愛を成就するためであり、悪に対して無限に辛抱強く耐えたのは善の生活理念を確立するためでした。つまり、人間一人を立てるための変わらぬ天理法度の基準を立て、6千年間耐え忍んだのです。

神はこのように真意を成就するために、あなたのような人、全体の価値を代わりにできる人を見つけるために、人間が神に忠実になる前に、神が最初に人間に忠実であり、無限に忍耐強く耐えてきたのです。

ですので、皆さんは天倫を中心にし、運行される神とその意志を達成するために、無限に人間に対して忠実であったその事情を思いやるべきであり、この意志を立てるために無限に犠牲を払っておられた神の心情、また未来のイデオロギーを確立するために無限に越えていく神の心情、無限に授けようとする神の愛の心情を思いやるべきです。

また、皆さんは自分のどんな主張、自分のどんな概念でも神の前に立てないことを知らなければなりません。無限の愛を与えるために4千年間も辛抱強く耐えておられた神の愛を受ける者は誰だったのでしょうか?そのような者はイエス・キリストしかいませんでした。これを知っていたイエス・キリストは、一人であってもその愛を感じ、神の前で感謝することができました。

そして4千年間悲しまれ、4千年間戦い、辛抱強く耐えてこられた神であることを知り、その忍耐の価値の結果を示すことで、サタンの前で誇ることのできる一つの人格者はどこにいたのでしょうか?やはり、イエス・キリストしかいませんでした。そして彼自身を通して人間の導くべき道を希望する神の希望を背負い、神の忍耐を代わりにして一人で天倫の道を歩まなければならなかったイエス・キリストは、落胆に満ちていました。これを皆さんは知るべきです。

ですので、イエスが神のあらゆる信仰心の心情を感じたように、皆さんも神の信仰心の心情を感じるべきです。こうして皆さんは堂子の立場に留まるのではなく、始めから創造のイデオロギーとして確立されていた神の天倫の全体的な価値を代わりにできなければならず、天主的な価値と歴史的な価値が自分の価値と比較されることができると気づかなければなりません。

そしてイエス・キリストが神の愛を代表し、天の忠誠を代表した歴史的な存在としてこの地においでになったため、すなわち天倫の人としてこの地においでになったために、天国の全ての戦いが地上に移ったことを知らなければなりません。

ですので、イエス・キリストがこの地においでになって意志を完全に達成できずにお帰りになったその残された使命を引き継ぐことができなければ、イエスはこの地に再び来ることができず、地との関係を結ぶことができないということです。

しかし、一人も信じてくれなかった立場にあったイエス・キリストを見つめる神の悲しみは言い表せないものでした。また、イエス・キリスト自身も死の道を越えなければならない立場で、自らを見つけるために4千年間苦労し、出会いたいと思っていた神の悲しみは言い表せないものでした。

従って、皆さんは天徳を中心にして活動される神とその御心を成就するために、無限に人間に忠実だったその事情を思いやるべきであり、この御心を立てるために無限に犠牲を重ねてこられた神の心情、また未来の理念を築くために無限にあなたを超越した神の心情、無限に授けようとする神の愛の心情を思いやるべきです。

また、皆さんは自分のどんな主張や信念を持っていても神の前に立てないことを知らなければなりません。無限の愛を与えるために4千年間耐えてこられた神の愛を受ける者は誰だったのでしょうか?そのような方はイエス・キリストしかいませんでした。このことを知るイエス・キリストは、孤独な時でもその愛を感じ、神の前で感謝できました。

そして4千年間悲しまれ、4千年間戦い、我慢強く耐えてこられた神であることを知り、その忍耐の価値の結果を示すことで、サタンの前で誇れる一つの人格者はどこにいたでしょうか?もちろん、イエス・キリストしかいませんでした。それゆえ、自分を通して人間の進むべき道を導いてくれる神の希望を背負い、神の忍耐を代わりにして一人で天道の道を行かなければならなかったイエス・キリストは、苦難に満ちたものでした。これを皆さんは知らなければなりません。

従って、イエス様が神のあらゆる忠節の心情を感じたように、皆さんも神の忠節の心情を感じなければなりません。そして皆さんは王子の立場に留まるのではなく、始まりから創造の理念を立てる神の天道の総合的な価値を代わりにできなければなりません。そして天上的な価値と歴史的な価値が、自分自身の価値と比較できることを理解しなければなりません。

そして、神の愛と神の忍耐と神の忠誠を感じたイエス・キリストは、神が4千年間苦労し、忍耐して見つかった希望の自己であることを感じたイエス・キリストを見習って、彼の愛と忠誠と忍耐を引き継がなければなりません。皆さんは、そのような一人の人を求めていたイエス・キリストの心情を理解しなければなりません。

そして、皆さんはイエス・キリストが天の愛を代表し、天の忠誠を代表する歴史的な存在としてこの地においでになったため、つまり天徳の人としてこの地においでになったために、天上のすべての闘いが地上に移されたことを知るべきです。

従って、イエス・キリストがこの地においでになって御心を完遂できないまま去られたその残された使命を引き継ぐことができなければなりません。そのような人が現れなければ、イエス・キリストはこの地に再び来ることができないだけでなく、地上と関わることができないということです。

しかし、イエス・キリストを信じてくれる者が一人もいなかった状況を見つめる神の切なる思いは言い表せませんでした。そして、イエス・キリスト自身も死の道を越えて自分自身を見つけるために4千年間苦労してきた神を思いながら言い表せないほどの悲しみを感じたのです。

ここに神の重い悲しみが残っていることを知ったイエス様は、「アバ、父よ、できればこの杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の意志ではなく、父の御心が成りますように。」(マタイ26:39)と祈っていました。

それでは、十字架で亡くなったイエス様がどのようにして復活できたのでしょうか? イエス様は神の子としての尊厳を失わずに、自らの死を嘲笑するサタンや敵対者たちに対して eerることができ、死を超越することでサタンができない宇宙的な支配者の道を開拓したため、復活できたのです。

また、サタンの世界にはない忍耐と愛と忠誠心を受け継ぎ、サタンの世界では考えられない出来事、すなわち自らを殺した敵に祝福を与えることを達成したため、イエス様は復活できたのです。このような復活の主を信じることで、キリスト教徒は永遠の命を得ることができます。

今日、皆さんは神が立てた天徳の原則を知る以上、何度死んでも何度滅んでも変わらない決意を持って出かけたイエス様のこのような心情を見習わなければなりません。また、イエス様が私たちのために立てた忠誠心と忍耐を見習い、彼の後継者となり、この地に残された彼の遺産を受け継いで実践する復活の子にならなければなりません。

そして、皆さんは神と喜びのときも悲しみのときも変わらぬ心の関係を築き、神の愛を共に増やし、サタンとの戦いでイエス様を代わりに戦える人にならなければなりません。

そうした人こそがイエスの兄弟であり、4千年間神が優雅に求めた人であることを理解してください。また終わりの日に立った皆さんは、イエス様の愛と忍耐と忠誠心を見習い、イエス様の代わりに、イエス様の思想を平面的にだけでなく、立体的にも完成させなければならず、歴史的なすべてのサタンとの戦いで勝利し、サタンを屈服させることができなければなりません。これが終わりの日に立った聖徒たちの使命ですので、覚えておいてください。



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