人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集2(20,21,22)

2023年12月23日 16時10分04秒 | 学習

文鮮明先生の言葉集 2 - 20. 神のための勝者となろう (1957年6月30日)

日付: 1957年6月30日(日曜日)、前本部教会。

聖書箇所: ルカによる福音書 19:8-44, 22:39-46, 23:44-49


<祈祷>
アダムの後、お父様が労苦してくださった約4千年にわたり、お送りくださったイエス・キリストは、涙と汗と血の実りとして、お父様の実体として、お父様の涙を代わりにし、汗を代わりにし、血を代わりにする使命と、お父様の怨みを解く使命を帯びてこられたことを私たちは知っています。

そのようなキリストは、天を代わりにして涙の道を歩み、すべての人々を代わりにして休むことのない労苦の道を歩み、汗を流す共生の厳しい状況を歩まれたことを考えると、お父様、私たちがそのようなキリストに対応できるかどうか、心から反省するこの時を許してください。

そして、4千年にわたり苦労してきた多くの先知先列たちの血の祭壇を通じて、その実態を探しに来られ、血を流し、いばらで覆われていたその姿を手探りで感じられる私たちになれるように導いてください。

イエス様が十字架を背負ってゴルゴダ山に向かって登っていくとき、遠くから彼女を見つめて悲しむ弱い女性たちを見て、「エルサレムの娘たちよ、私のために泣かないで、あなたとあなたの子供たちのために泣け。」とおっしゃったキリストの切ない心情を今、この時間に私たちが感じることができるように許してください。

十字架の苦悩を知らない者は、十字架の救いを受けることはできません。また、イエス様が十字架に進むときの心情を感じることを知らない者は、真理の場に立つことはできません。それを知っているので、お父様、この時に集まった息子娘たちをあわれんで見てください。

私たちが持っていなくても、お父様に捧げるものがなくても、ゲツセマネの庭で孤独なキリストの姿を心に刻んで、忍び寄る敵に立ち向かい、善の番人になることができるように許してください、お父様、熱望しております。

イエス様がゲツセマネの庭で叫んだ最後の訴えを私たちが今日、この荒涼とした世界に向かって叫びながら、世界的なゴルゴダ山を越えなければならない時が来たことをおおきに、キリストを遠ざけず、自分のために生きる子供たちにならないように導いてください、お父様、熱望しております。

今、ここに集まったこれら多くの生命をお父様が責任を持たれ、彼らが純粋な心で進みたい回帰の道を歩むことができるように導いてください。この場に燃えるような恩寵を注いでください。

お父様! ここに集まった子供たちの中に神の意志を知らない者がいますか、または死に埋もれてお父様の心情を感じない者がいますか?お父様、聖霊の炎として現れ、イエス・キリストの復活の歴史を示してください。イエス様が十字架の死から復活されたように、その復活の歴史が私たちにこの時間に現れるようにおおきに、お父様、熱望しております。

お父様! たくさんの人々の中で私たちを呼んでくださり、ありがとうございます。ただ私たちが任された使命を受け入れ、あなたの御心を遂行できないのではないかと心配しております。

お父様! ここにひれ伏した子供たち、イエス・キリストの心情を代わりにして困難があるときには自らがまずその困難を引き受け、悲しいことがあるときも自らがまずその悲しみを引き受け、自らが苦しみを受けて倒れる際があっても、天が望まれる御心であればこれを喜んで受け入れながら戦っていける姿になるように許してください。

今日ここに参加した子供たちの中で、たとえ一つの命でもサタンに引き寄せられないようにしてください。久しぶりに生きる道を見つけてここまで来たのですから、捨てないでください、Dナ┥リイ, 心からお願いいたします。

この時、伝える者の心と受ける者の心が一つになり、Dナ┥リイの心に私たちの心と体が動くようにしてください。そうして私たちはDナ┥リイと一体となり、Dナ┥リイに受け入れられる供物として再創造されることができるように願っています。この時に孤独な祭壇が点在し、祈り続けている子供たちにも均等な恩寵を注いでください。サタンが乗り越えないようにしてください、・リイの名において祈ります。アーメン。


<御言葉>
今日、皆さんと共有したいメッセージは、「神のための勝者になろう」というものです。このタイトルでお話しいたします。

人間の堕落によって創造主である神様が今日までに長い歴史を経ても、造られたすべてのものと共に喜びと栄光を享受した日はありませんでした。再び言えば、神様が喜ぶことができる勝利の日を迎えていないということです。しかし、そのような勝利の日を迎えられなかった原因は神様にあるのではなく、すべてのものの主人である人間にあります。ですから、勝利の日は神様だけの努力で見つけることができるものではなく、人間の努力が結びついて初めて見つかるものです。そうでなければ、神様と万物が勝利する栄光の日を迎えることはできません。

それでは、創造主である神様が万物を造られた目的は何でしょうか? それは善の目的を達成した人間を中心に、すべてのものが神様の愛を歌い、神様に栄光を返す姿を見て神様が喜ばれることを願っているからです。しかし、人間の堕落によって神様の創造目的は達成されなかったため、神様はそれを回復するために6000年もの間、長い戦いの歴史を経て来られたのです。

このように、創世以降、現在まで宇宙的な勝利の日を迎えられなかった神様は、地上の人間を通して望まれるその勝利の日を迎えようとされています。したがって、地上の人間がその日を見つけられない場合、この地上で人間を虐げているサタンを打ち倒すだけでなく、天で神の前で人間を咎めるサタンの権力も打ち破ることができないでしょう。

それゆえに神様はどんな苦労も惜しまず、どんな犠牲も惜しまず、どんな戦いも惜しまず、今この時まで皆さん一人一人を立てるために盾となって現れられたのです。

これを見れば、私たちは神様の望みが何かを知ることができます。神様は皆さん一人一人を立て、人間を堕落させた敵サタンを見分け、サタンが主導する悪の歴史を終結させようとされています。

私たちはそうした神様の望みを達成し、天の前やすべてのものの前で堂々と立ち、天の前で勝利の栄光を返す人にならなければなりません。そうでなければ神様が苦労しておいでになった目的が達成されることはありません。人間たちは長い歴史の中でこのような勝利の日を見つけようとしましたが、これまで見つけることができませんでした。

しかし、神様はそのような勝利の一日を見つけることができる方を送ってくださったのです。その方こそがイエス・キリストです。その方は神様が人間を救いたいと思っておられた内面の心情や、すべての民族の不当な状況を共感し、この地上でサタンとの戦いで勝利できる代表者として来られた方でした。

したがって、皆さんは今や神様が望まれる御心と、人類が望む御心を達成するために、道を阻むサタンに対して、創造主の心情を持ち、すべての生き物を代表した歴史的な責任者として、また先駆者として立ち上がり、勇敢に戦わなければなりません。

また、彼が望んでいた御心を皆さんの生活の中で実践しない限り、キリストの悲しみはもちろん、神様の悲しみや全人類の悲しみが再びこの地上で芽生えることを皆さんはますます感じるべきです。

では、神様の御心を達成させるために来られたイエス・キリストの生涯を引き継ぎ、神様と人間が喜ぶことのできる一日を迎えるために戦わなければならない責任を負った私たちは、これからどのような生涯の道を歩んでいくべきでしょうか? 今日、これが何よりも重要な問題です。

イエス様の生涯は自らのために生きたものではありませんでした。上は天、下は地、つまりすべての創造物をひとりで責任を持って、神様の御心が達成されるその一日を基準に黙々と戦っていく生涯でした。

イエス様は宿る場所や昼夜を問わず、見える世界のあらゆる苦しみに耐え、さらには見えない場所で道を遮るサタンと戦い、全体的な責任を担いながら勇敢に戦った勇者でした。

したがって、今日私たちは誰もがキリストを先駆者と仰ぎ、彼の御心を受け入れ、彼が行けば一緒に行き、戦えば一緒に戦い、つまり共に同行しながら神の御心と人間の願いを達成するために戦いを展開していかなければなりません。

また、イエス様は4,000年の歴史を担いで民族や世界のために来られ、さらには霊的な領域の多くの生命まで負担されました。だからこそ、彼は自らのために戦ったのではありませんでした。言い換えれば、民族だけを思って戦ったわけでも、世界だけを思って戦ったわけでもありませんでした。歴史や宇宙を超越した神聖な使命を一身に抱え、神の御心を成し遂げるために戦われたのです。

このような戦いはイエス様の30年以上にわたる生涯を通じて続き、帰られた後も2,000年という長い歳月を経て今日まで続いています。人間は休むことがありますが、彼は休む間もなく神が望む希望の御心、人間が望む希望の一日を見つけ立てるために聖霊と共に戦いを進めていることを皆さんは痛感するべきです。

人間を救うためにこの地に来て人間の過ちで十字架に戻られたことも一因ですが、彼は帰られた後も人間の罪を代わりに負い、今日まで2,000年という長い時をかけて霊的なゴルゴダの十字架の道を進まれたのです。私たちはこのようなイエス様をこれまでどのように信じてきたのか、私たちの過去を振り返り、反省しなければなりません。

では、イエス様はどのような方でしょうか? 彼は天の唯一の御子であり、天の王子であり、すべての人の救世主であり、栄光のメシアとして、苦しみとは何の関係もない方です。 そのようなメシアを見ることはもちろん神が喜ばれることであり、またすべての人々もイエス様を歓迎し、賛美し、喜んでいるべきでした。 しかし、イスラエルの民が彼を信じず、のろったため、その喜びが悲しみに変わったのです。 この責任を誰が負わなければならないでしょうか? それは皆さんご自身が責任を負わなければならないことです。

今日の世界的なキリスト教の形成は、イエス様が30年以上にわたり人類のために知られざる苦労の涙を流した基準があったからであり、十字架に戻られた後、今日まで人類を救うために歴史の進展とともに涙の道を歩まれた2,000年の悲しみと結びついた歴史の過程があったからです。

さて、私たちはイエス様が涙を流しながら歩かれたその道をたどり、彼を悲しませたイスラエルの民族の過ちまで責任を負い、サタンに対して復讐するための戦いを進めなければなりません。

そして、皆さんは彼が共生的な時を準備する間、ただ黙想に没頭して生活していたと考えてはいけません。ヨセフの家庭で30年間、大工としての生活をしながら、イエス様は計り知れないほどの知られざる涙を流されました。イエス様の悲しい事情を兄弟たちも知らなかったし、ヨセフとマリアでさえも知らなかったのです。イエス様は何も誰かに話すことのできない寂しい気持ちの中で孤独な道を歩まれました。

イエス様は4,000年の罪の歴史を終わらせ、神の涙と人類の涙を清算する責任を負って、確固たる信念と不変の姿勢でサタンと戦われました。それゆえに、私たちがそのようなイエス様の実践的な生涯を手本にすると、勝利的な生活の基準を確立できるのです。

イエス様はなぜ、そのような血の涙を流す生涯の道を歩まれたのでしょうか? それは4,000年という長い歴史的な過程が涙の道であったことをイエス様が知っていたからです。

イエス様は神が涙の歴史を経て出てこられ、また神の御心を受けて多くの先知たちもこのような涙の道を経て出てきた事実を知っていました。そのため、神の御心を成し遂げるには、彼自身もそのような涙の道を歩まなければならないと考え、自分の生活が将来に大きな影響を与えることを知っていました。

したがって、イエス様は神と先知たちが流した歴史的な涙を全て浄化しなければならない責任を感じながら、全人類に希望をもたらすために血の涙の苦難の道を自ら選んで歩まれたのです。

今日、宇宙的な希望の一日、勝利の一日を築くためには、サタンとの戦いの道は避けられません。したがって、私たちの使命が大きければ大きいほど、それに比例して私たちの責任も大きいものです。ですから、この戦いの道で勝利を収めるためには、より大きな涙の谷を通過する必要があります。

イエス様は罪もなく、欠点もなく、また神の子以上の望みも持たずにおられましたが、弟子たちも連れずに一人でゲツセマネの園に登り、神の前で涙の嘆願をすることになりました。これはどういったことでしょうか? 皆さんはイエス様が歩まれたこの血の涙の道の心情を感じなければなりません。

そして今日の皆さんは天の勝利を促進しようとするならば、本当にイエス様が歩まれた宇宙的な涙の頂を越える準備が整っているかを反省してみるべきです。人間が堕落のために神の庇護を離れて以来、人類の歴史は涙で続いているので、これを乗り越えるためには涙の道を歩まなければなりません。これは単なる神の計らいからだけでなく、ある民族や国家が進む道においても同様です。

国家のために涙を流し、その民族を背負いながら涙を流す者を私たちは預言者(先知者)と呼びます。一つの国もただ成り立つだけでなく、こうした先知たちが築いた涙の歴史を経て成り立つものです。同様に皆さんもこの歴史的な涙の頂を超えない限り、決して勝利の日を迎えることはできません。

イエス様は30年以上にわたり涙の頂を超えゴルゴダの道、拓くべき道を歩まれ、血の涙を流されました。今日の皆さんが神の御心を成し遂げ、イエス・キリストの怨念を解決して差し上げなければならない責任を負う者であれば、皆さんの心の中でも知られざる血の涙が湧き上がっているべきです。

兄弟のために涙を流し、世界のために涙を流し、天を傷つけずには流れ止まない涙を流す天の使徒がいると言えるならば、ここに勝利するための一つの条件が成り立つのです。イエス様はエルサレムを見つめ、悲しみに包まれた中で泣かれたことがありました。しかし、そのようなイエス様の心情を知る者は一人もいなかったため、イエス様は十字架に戻られざるを得ませんでした。

今日、私たちは堕落したアダムの子孫として、堕落したアダムの悲しみを解消しなければならない責任が私たちにあります。また、堕落による罪を清算するための第二のアダムとして来られたイエス・キリストの悲しみまで解消しなければならないのです。

過去の歴史は再生の歴史であり、成長の歴史であるため、部分的な責任を果たすことによって意味の前に立つことができましたが、完成時期を迎えた今日、私たちにとってはそのような部分的な使命を果たすだけではなりません。

皆さんが完成時期の使命を果たすためには、過去に来たり去ったりした人々が頑張ったことよりも、千倍以上の努力が必要です。そして、皆さんは神がこの地を離れることなく、悲しまれた悲しい心情を背負って寒さや暑さ、昼も夜も関係なく、どんな状況に置かれてもこの地を離れず、誰よりも多くの涙を流す人にならなければなりません。

今日、この国が統一の法を見つけて築くためには、上の人が下に、下の人が上に、このようにして涙が交換され、神の前まで届けられなければなりません。こうなれば、この国は滅びることはありません。同様に、私たちが神の悲しい事情や地を愛される父の心情を知り、父の心と共感できるようになれば、私たちは決して滅びません。

ですから私たちは涙を流す人にならなければなりません。最後には悲しみの涙でも喜びの涙でも、人は涙を流さなければなりません。そして約2,000年前、イエス様が苦難の十字架を前にゲツセマネの園を通り抜けなければならなかったように、私たちも同じように十字架の壁が張り巡らされた世紀末の終わりの時を迎えなければなりません。

また、イエス様が知られざる者の中で神を代わって涙を流されたように、イエス様を失った使徒たちやその民族、世界中のすべての人々も同様に涙の道を避けることはできません。

こうして終わりの時の人々にはどうしても越えなければならない涙の頭が置かれることになり、その時に私たちは天のために泣くのか、それとも自分のために泣くのか、という分かれ道に立つことになります。

この時にサタンがどのような人を狙っているかと言うと、天の計らいを妨げ、個人の欲望を満たそうとする人を狙っているということです。ですからもし皆さんが歴史的な涙を流すべき場所で、自分のために涙を流すことになれば、サタンの支配下になることになります。逆に天の計らいを持ち、涙を流すことになれば、天の側の人になります。

イエス様が天を明るくすることができ、また、すべてのものがイエス様を崇めることができたのは、イエス様が流された涙が、自分や自分の国だけでなく、世界だけでなく、神の永遠の希望の意志を抱えて流された涙だったからです。このようにイエス様の涙は、神の希望と調和し、万民の希望と調和し、すべての創造物の希望と調和できる場で、全ての生き物のために流された涙でした。

イエス様がこのように涙を流して生きるうちに帰られたので、イエス様を礼拝すべき私たちも、彼が涙を流された宇宙的な悲しみを共感して涙を流すことが避けられませんし、すべての生物まで共に悲しむことができません。

イエス様はこうして民族のために、世界のために、天のために涙を流されましたが、今日の皆さんはどうでしょうか?皆さんもイエス様と同じように、個人を中心にした涙の道を歩み、家庭と民族、そして世界を中心にした涙の道を歩んだ後、天国の子孫たちの怨念まで背負って涙を流す責任を果たさなければなりません。

今、皆さんが天が望む希望の園に立ちたいと思いますか?その場合、自分を中心にして苦しみから逃れるために天に訴える心を持つべきではありません。そうなるとサタンの罠にかかってしまいます。本当に皆さんが天国の家庭の権限に入りたいなら、個人を超えて家庭を担当し、イエス様の代わりに涙の祭壇を築かなければなりません。

また、天国の種族の権限に入りたいなら、イエス様の代わりにして種族のために涙を流し、民族の権限に入りたいなら、イエス様を代わりにして民族のために涙を流さなければなりません。

そして、皆さんは地と天まで責任を果たし、進んで行ったイエス様の尊厳を立て、常に神の意志に対して心配することができる人にならなければなりません。

イエス様が帰られた後、2,000年以上にわたる歴史の進行で神が人をどのように導いてきたかと言うと、神が人に涙を流させました。ですからキリスト教徒が歩む道は涙の道であり、涙なしに運命が成し遂げられることはありませんでした。

イエス様が帰られた後、使徒時代を経てローマで70の悲劇が長い間続き、個人から家族へ、家族から次第に広がり、今日の世界的なキリスト教の構図を形成しました。しかし、そうしたキリスト教徒たちの中で、今まで本当にイエス様の代わりに世界のために涙を流した人は多くありませんでした。

今は終末の時であり、世界的な涙のゴルゴダを超えなければなりません。したがって、個人のために泣くときも、家族のために泣くときも、国家のために泣くときも過ぎ去りました。神様は何千年もの歴史を通じて、私たちが神の意志のために世界のために涙を流す聖徒になることを望んでいます。

この土地には神のために涙を流す聖徒がいなかったため、私たちはこの任務を担当し、天のために涙を流さなければなりません。そうでなければ、イエス様は再び涙を流され、神も再び涙を流されることになります。

今、私たちは神の前に、イエス様が勝者として立たれるために人間の歴史を担当し、サタンと戦いながら涙を流されたように、「私たちも涙の先駆者として神との縁を結びたい」と祈る時が来ました。

世界の動向を見れば、今までキリスト教を支持できるように、国家主義を廃し、来られるその悲しみの主人公を迎えることができる世界的な構図を広げていることがわかります。そして今は人類が世界的にイエス様を迎えるべき時であることもわかります。したがって、今日の人類は世界的なゴルゴダの丘を越えなければならない時です。

このような時を迎えた皆さんにとって、泣いても「天のために泣くか、地のために泣くか、それとも自分のために泣くか」という問題が提起されますが、ここでどれのために泣くかによって、皆さんが進む道が変わることになります。この苦しい世界で生きる人々にとって、皆さんが神の意志を広げたいと願うなら、皆さんは全体の意志を忘れて自分の意志を中心にして悲しみ、泣く者になってはいけません。そうした人は自然に意志に向かう道で追放され、結局何も成し遂げられません。

意志に従って進む私たちは、自らの事情で涙を流してはいけません。そして、意志を持つ国家や世界があれば、それらも自己都合のためだけに涙を流してはいけません。私たちは唯一、全世界の人類のために涙を流さなければなりません。

人間と中断された天倫の意志が、皆さんによって再び結びつけられなければならないときがきています。皆さん自身がサタンと戦い、勝利の涙を流し、サタンが中傷できないその日を見つけられなければ、神が望む世界的な勝利の日を見つけることはできません。

イエス様がこの地に来られて意志を果たすために血と汗と涙の道を歩まれたように、皆さんも宇宙的な勝利の日を迎えるためには、血と汗と涙の道を歩まなければなりません。宇宙の歴史も涙の道、苦悩の十字架の道を歩むことなしにはありえず、どの一個人が成功するためにも、血の汗を流す道を通さなければならないのです。つまり、私たちはみな、苦難を耐え忍び、痛みを乗り越えてサタンと戦っていかなければなりません。皆さんは真に天のためにどれだけ努力して戦いましたか?皆さんは個人のために、または家族のために涙を流し、汗を流したことがあったでしょう。

しかし、イエス様はご自身の家族だけでなく、民族や世界を越えて責任を持って涙を流し、汗を流されました。今、皆さんもイエス様のように、皆さん個人を越えて家族や国家を越え、世界のために涙を流し、汗を流す道を進まなければなりません。

涙と汗を流す戦いの農場を経ることが、勝利できる最初の要素となります。したがって、皆さんが勝利するためには、涙の道を経り、汗を流す道を経て、苦闘していく息子娘にならなければなりません。また、イエス様はゲツセマネの園で涙を流し、汗を流し、祈りを捧げられましたが、皆さんもそのようなイエス様の気持ちを持たなければなりません。

このように涙を流し、汗を流しながら一つの目標に向かって進む団結した民族は、今までに滅びた歴史がありませんでした。霊界で天国権に入った栄光の霊たちはどのような集団でしょうか?彼らはイエス様が行かれた道を見習い、この地で休まずに涙を流し、汗を流しながら戦いの農場を切り開いてきた人々です。

私たちにはこのような宇宙的な神の意志を成し遂げる勝利の条件を設ける責任があると理解すれば、私たちはこの地に来たり行ったりした歴史上のどの人よりも、より多くの涙と汗を流さなければなりません。

皆さんは家族を愛していますか?そうであれば、家族のために汗を流さなければなりません。また、皆さんが民族を愛するなら、民族のために汗を流さなければなりませんし、世界を愛するなら、世界のために汗を流さなければなりません。私たちも他の誰も行かない隠れた祭壇を築き、世界人類を代表してゲツセマネの園で祈り続けたイエス様を見習い、世界人類のために汗を流し、涙を流すことのできる第二のイエス様の姿を示さなければなりません。

実際に、神の御心のために生涯をささげ、涙を流して祈ったことはありますか? 汗をかきながら祈った時間はありますか? 私たちが涙の過程を経て汗をかく道を歩んだとしても、私たちの前には最後には血を流す死の道が残っていることを忘れてはいけません。イエス様も3年間の公生涯農場を経て、すべての人類を代表して十字架に釘付けになる死の道を歩まれました。

神の唯一の御子であるイエス様ですら、このように霊的な勝利の日を迎えるために、自らの命を父に捧げ、血を流す苦労を経ていかれました。そして今日、私たちはイエス様を代わりにして宇宙的な使命を担おうと立ち上がったわけですから、イエス様が行かれたその道を見習わなければなりません。

皆さんにはまだ命がありますか? 皆さんには希望がありますか? 皆さんには進もうとする意志がありますか? そうであれば、それらは自分だけのものではないことを理解しなければなりません。

もしイエス様がご自身の命が自分のためのものだと思われたなら、十字架の死を越えて復活を成し遂げることはできませんでした。自分の命が父なる神様のものであることを知っていたからこそ、イエス様は十字架に掛けられる苦しみと試練を忍んで進まれたのです。したがって、その十字架の道は決してイエス様個人のためではありませんでした。

皆さんにとっても、皆さんの命は自分自身のものではなく、この世界も人間のものではなく、宇宙も人間のものではありません。これらはすべて神様なる父のものです。

皆さんはどのような思想やイデオロギーを中心に据えていますか? 父を求めるあなた方自身の心と信念を見つめ直さなければなりません。死に至る運命の道を越えなければならない私たちは、なぜこのような道を歩まなければならないかをそれぞれが考えてみるべきです。 イエス様は涙の道、汗の道を歩まれた後、最後にはお自身の一身を天に捧げられました。

私たちに生命があるとすれば、その命は自分自身のものではなく、希望を持っているとすれば、それもまた自分だけのものではないことを知らなければなりません。

イエス様に従ってサタンの世界に対抗し、勝利するべきあなたたちであれば、自分の命に対する未練を抱き、天に捧げようとしないかを考えなければなりません。

私たちが永遠に父の意志を達成するためには、極めて神聖な生け贄にならなければなりません。自分を中心に据えた要素がある場合、そこにサタンが中傷できる生け贄となるでしょう。

あなたたちは「父よ、わが子よ」と神様に呼ばれる者になりたいと願いますか? そうであれば、天の真理、天の命、天の愛を確立し、すべてのものとあなた自身を天のものとして確立しなければなりません。

イエス様は「父よ、もしできることであれば、この杯をわたしから取り去ってください。しかしこれよりも、わたしの望むとおりでなく、御心のままになさってください」とお祈りになりました。しかし逆に「しかし、わたしの望むとおりでなく、あなたの望むとおりになさってください」ともお祈りになりました。

同様に、あなたたちも自分の意志を父の意志と一致させ、天の祭壇を築かなければなりません。そうでないと、神の望みを達成することはできず、サタンとの戦いで勝利することもできないでしょう。

人間は堕落したため、数千年にわたり労働と涙の道を経て、血と涙の価値ある犠牲となり、神の前に生け贄となりたくて戦ってきました。同様に、今日の私たちも国のために生け贄となる道を進むべきです。そうすれば、あなたたちを追随する者たちも同じ道を進むことになり、敵であるサタンすらも降伏させて友達に変えることができるでしょう。

神の望みのために6000年間労し、キリストの宇宙的な責任を引き受けて神の栄光を歌うべき時が来ました。今日まで神に反抗してきたサタンですら、あなたたちに対しても反対するでしょう。しかし、このようなサタンの反抗が転じて、サタンがあなたたちと共に神の前に生け贄を捧げる日が、終末、大審判の日なのです。

私たちがサタンに従順できる条件、つまり天意を中心に据え、出発できる条件を整え、サタンに命令できるようになるとき、サタンもその命令に従うようになります。したがって、あなたたちは宇宙の中でサタンとの戦いで勝利する者となり、天においてサタンとの闘いで勝利する者とならなければなりません。

私たちがこのように勝者となり、天の前に現れる時、私たちはようやく永遠の神の意志を超えた楽園で、サタンと無縁の中で、神中心で永遠に変わらない真の姿となり、生きていくことができます。

サタンもこの最後の戦いが始まることを知っているため、全力を傾けて侵略してくるでしょう。したがって、その戦いで勝利するためには、神も知恵を絞る必要があり、神の子であるあなたたちも全力を挙げなければなりません。

この戦いでは、サタンは盲目的にあなたたちに屈せず、むしろサタンの支配を受けている人間たちと共に、全力で対抗することを知っておかなければなりません。私たちが天のために涙を流すように、サタンもサタンの意志のために涙を流し、私たちが天のために汗をかくように、サタンも自分のために汗をかき、私たちが死を覚悟して戦うように、サタンも自分のために死を覚悟して戦うのです。これを理解する必要があります。

こうして、両勢力が対決する中で私たちが勝利するためには、自分のために生きてはいけません。徹底的に父のために生き、自分の意志を無にして父の前にすべてを捧げ、父の価値を確立するために努力する必要があります。これがサタンとの戦いで勝利し、永遠に神と子の関係を結ぶための道です。

あなたたちはすでにサタンを打ち破り、神との関係を築く道を見つけたことでしょう。したがって、これからはもっと父のために自己を犠牲にする生活を送る必要があります。

<祈祷>
お父様! 私たちが今、神のための勝者になるための道を進むべきだと知っています。この道は涙の道であり、血と汗の道であり、またこの道は自分の血と肉をすべての要素に分離して、すべての人々の前で分け与える犠牲の道であることを知っています。

この道を外れるとき、私たちは父が望む宇宙的な勝利の楽園で生きることができないことも知っています。父よ!私たちの生命は私たちのものではなく、私たちの愛も私たちのものではなく、私たちの子どもたちも私たちのものではなく、私たちのすべての物質も私たちのものではないことを知ります。

私たちが私たちの欲望で自分のためにすべてを所有しようとすれば、私たちに所有されるものは何もないことを知っています。ですから私たちのすべてを父に差し出すことができる犠牲の立場に立って、許可してください。

人間であれば誰でも6000年の因縁を浄化し、勝者になるべきだと知っていることを知っています。ですので、お父様、今日ここに集まった子供たち、この道を進むために涙の道でも、血と汗の道でも、死の道でも全うせず、ただあなたを代わって世界的で天的な使命を全うして帰還した立場から、永遠に父の栄光を歌うことができるように許可してください。

ですから、そして敵であるサタンを支配し、喜びの涙で、全てを天の前に返すことができる子どもたちの姿で、私たちを立ててくださいと熱望し、希望しています。これらすべてをあなたの前に委ねたので、私たちに勝利のための涙の道、汗の道、血の道を歩ませてください。

この勝利の道を切り拓かなければならない使命が、今日私たちに授けられましたので、私たちがこの歴史的な勝利の使命を果たして、十字架の犠牲に捧げられるように許可してください。そして私たちが「私は父の犠牲です」と誇りに思える場で、サタンのためにも涙を流すことがあれば、サタンも「正しい。あなたは確かに神の子です」と認めざるを得ないことを理解しています。

ですので、私たちがそのような団結となるように許可してくださいと、熱望し、望んでいます。
すべての御言葉を主の御名において祈ります。アーメン。




文鮮明先生말씀選集 2 - 21. 神の御心の前に残る者  1957年 7月 7日

1957年 7月 7日(日), 前本部教会.

聖書拝読:マタイによる福音書 15:7-18


 神様は今まで労苦して従ってこられたのはただご自身の御心を遂行するためでした。しかし、その御心の根本はどこにおかれているかと言えば、人間と神様が共に楽しい交わりをもつことができる場所におかれています。

私たち人間が神様の望まれる御心を遂行し、神様と永遠に共に楽しい交わりを持つようになると、神様は人間の真のお父様となり、人間は神様の真の子どもとなるのです。こうなると神様の御心はまさしく人間の御心となり、人間は全ての被造物とも調和しながら神様に栄光を帰し、永遠に神様の知恵、慈愛、そして恵みを賛美し続けることになります。そのような日が来ることを神様と人間、そして万物が待ち望んでいるのです。

 御心は神様の創造理想であり、堕落した人間にとっても永遠の理想です。そのため、その御心が達成されると、神様と人間が一つとなり、神様が喜ばれれば人間も喜び、人間が喜べば神様も喜ぶのです。つまり、神様の御心が人間の御心となり、二つではなく一つとなって共に動くことで、人間は神様に永遠の理想の喜びを返し、またそれによって自らも永遠の喜びを感じることになるのです。

 神様はこのような御心を立てるために、徹底的に通じ合い、一体化できるような一人の人間を探し出されるでしょう。そしてその人を通じて御心を実現されるでしょう。ですから神様の御心と完全に一致し、また神様の御心を実現できる人ならば、その人は神様の知恵と慈悲深い性格を持ち、そのまま全ての創造物にも現れることができるでしょう。

 このように永遠で絶対的な神様に似て、神様の知恵を示し、神様の愛を注ぎ、神様の性格を表現できる者がいれば、神様の御心はその人を通して達成され、神様はその人を見て永遠に喜ばれることでしょう。

 この理念から、天は帰還の御心をもたらし、帰還の歴史は進んできたのです。もし人々がこのような神様の理念と計画を理解しなければ、人々は神様とは低次元の関係を結ぶことはできません。

 人間は堕落したため、神とは無関係で自己中心的なイデオロギーを持っています。神のイデオロギーが神から出てきたように、人間のイデオロギーは人間の知恵から生じたものです。

 そのため、人間の歴史を支配してきた人間のイデオロギーが神のイデオロギーといつか出会わなければ、人間は永遠の理想的な世界に到達できません。これらの二つのイデオロギーを調和させようとする試みが宗教です。もしこのような事実に気付かないなら、人間は人間の倫理の中でしか出られないでしょう。

 これまでに歩んできた人間の倫理的で思想的な主張は、敵対的なイデオロギーに帰属しないようにすべきです。これらの二つのイデオロギーを結びつける責任が宗教にあり、特にそれが大きな使命となるのはキリスト教です。だからこそ、キリスト教が人間の倫理を神聖なものに結びつけられなければ、キリスト教を中心として永遠の創造の理想を実現することはできません。

 もしもあなたが神と永遠に楽しむ不変の創造の理念を持たないなら、いつか天国の反逆者になるでしょう。ですから、あなたがこの神聖な理念を実践し、具現化するためには、この人間的な理念を生活に取り入れなければなりません。

 神様はこの目的のために6000年もの間働いてこられました。ですから、あなたがこの目的を達成できなければ、神様の労苦は水泡に帰し、神様の意志は単なるイデオロギーで終わるでしょう。

 この永遠で変わり得ない理念を達成するために来られたのが、イエス・キリストです。イエス・キリストは神の知恵を代わりにした真実として、神の愛を代わりにした宇宙的な慈悲として、神の寛容を代わりにした寛容を持って、ここに来て神の意志の道を切り開いてくださいました。

 イエス様は敵対的なイデオロギーを確立するためにこの世に来られたのです。そのため、イエス様は神のイデオロギーを人間の生活に具現化するために純潔と高潔を持って現れました。しかし、このようにして神の姿を代わりにし、純潔と高潔を持って現れたイエス様の人格を理解し認識する者は一人もいませんでした。

 さらに、イエス様は敵対的な性格を示すために感情を持って来られました。その感情は良い人々だけでなく、悪い人々まで感情を動かすことができましたが、人々の不信心によりこの地での感情は実現されませんでした。そして、イエス様は神の意志に対する変わらぬ悔いを持って現れましたが、当時の人々はそのようなイエス様の心情を知らずに従わなかったのです。

 したがって、私たちの後代は、イエス様がこの地で実現しようとされた敵対的なイデオロギーを具現化するために、イエス様が持っていた敵対的な純潔と高潔、そして神への感情と悔いを持ち、イエス様に代わってこの地で実践する生活をしない限り、イエス様に結びついている罪を解放することはできません。
 人間が人間的なすべてから抜け出して敵対的なイデオロギーを生活規範として立てない限り、神とイエス様のイデオロギーを持っていないということです。また、神が望まれ、イエス様が希望する創造の本質的な理想的な世界は、この地で実現されません。

 では、皆さんはどうすればいいでしょうか? 人間的なすべてのイデオロギーを神聖なものに完全に溶かし込んでしまうことができる自分になり、人間的なものを神聖なものに一致させなければなりません。そうでなければ、皆さんは地上天国の生活を送ることはできません。

 イエス様と聖霊は2千年以上もの間、霊的に人間の意志を神聖なものに結びつけるために努力されてきました。そのようなイエス様を信じる皆さんならば、その意志を引き継ぎ、人間を神聖なものに一致させる使命を果たさなければなりません。

 この使命を引き継ぐためには、まず生活の中であらゆる悪の条件に打ち勝つことができなければなりません。そのためには、イエス様の生活のイデオロギーを持つことが必要です。 十字架を信じることは、悪魔との精神的な結びつきを断つことでしたが、今度は皆さんはイエス様の生活のイデオロギーを持ち、それを基にして精神的に肉体的にも悪魔との結びつきを断つことができなければなりません。

 そして、審判の日が近づいています。では、審判はどのように行われるのでしょうか? 人間が地上でどれだけ神聖なイデオロギーを確立したかにかかっているのです。このような審判を回避するためには、神の審判を恐れる前に、神が望んでいる意志を責任を持って達成できる自分にならなければなりません。そうでなければ、神の審判を受ける前にサタンが先に摂取することになります。

 この地に神の性格を持つ者はいますか? この世界にイエス様の純粋な性格を持つ者はいますか? その人を見つけて友達にしてください。誰が高潔ですか? その人に従ってください。また、誰が神の性格を持ち、感情を動かす者がいますか? その人に従って崇拝してください。それから必ず生命の道を見つけることでしょう。 そして、その人に従って崇拝し、模倣することで審判を回避することになります。

 皆さんはイエス様の純潔、高潔、感情を経験したことがありますか? 経験したことがなければ、自分と戦ってください。サタンは遠くにあるものではなく、皆さん自身の中にあるものです。だからこそ、皆さん自身の中にある敵対的な性格とサタン的な性格の違いを見つけ、分別する生活をしなければなりません。

次に、皆さんは変わらぬ姿で現れなければなりません。イエス様が変わることはなかったということは、敵対的なイデオロギーを捨てて不変であったという言葉です。サタンに支配される堕落した人間は巧妙な存在です。エデンの園のサタンは自らの邪悪な本性を明らかにしましたが、最後の審判の際にはサタンが自らの邪悪な本性を明かしません。
 皆さんは不変の心情として、自分の環境、自分の生命に対するどんな執着も捨て去り、イエス様の不変の心情と一体になることができる人にならなければなりません。

 自分を含むすべての環境は、皆さんが戦わなければならない相手であることを知ってください。不変の姿で現れたイエスの前には、すべてが闘争の対象であり、すべてが敵でした。それだけでなく、霊的な領域さえもがイエス様に攻撃を仕掛けてきました。天と地全体がイエス様の前に戦いの相手であったので、イエス様はどれほど哀れな方でしょうか。そんな中でも、彼は不変の姿で立つことができたということを私たちは知らなければなりません。

 今、皆さんは神の前で不変の姿で立ち、サタンに対して不変の姿を誇示できる人でなければなりません。そのような人が集まり、地上に神の知恵を示す足場を築くべきです。そうなれば、人間はこれまでの不幸で苦しい経験とは対照的に、サタンに立ち向かっていたことから離れ、喜びと栄光を歌い、神の栄光を歌うことができるようになります。




文鮮明先生の言葉集 2 - 22.  善の本質を見つけ、罪の報いを超えて行こう (1957年7月21日)

1957年7月21日(日曜日)、総本部教会

すべての被造物はもともと善く造られましたが、アダムとイブの堕落によりその善の価値を表現できなくなり、罪の報いから逃れられないまま、善を追求して降りてきていることを皆さんはよく知っています。
神様が創造された本来の楽園では、善だけが存在すべきでしたが、この善が今でもこの地に現れていないため、神様と全ての被造物が今までため息をついているのです。
 したがって、堕落した人間はどのような苦難の歴史的過程を経てでも、この善のイデオロギーを実現しなければなりません。人間はこの目的を個体で達成すると同時に、国家、世界、全ての天地に広げなければなりません。そして天地に善の意志を明らかにできるその一瞬を回復しなければなりません。しかし、まさに皆さんが絶対的な善の意志を実現し、宇宙全体の目的を達成するべき人々であり、また皆さんはそのような運命に置かれているのです。
 本来の善を尊重する私たちは、ますますまず、善くして被造物を創造なさった神の実体を知らなければなりません。そして神の善き価値を知り、その言葉を伝えなければなりません。そうして、善き言葉を通じて創造されたすべての被造物の善き価値を自ら見つけ出し、表現しなければなりません。そうでなければ、もともと神が創造された善の目的は達成されないことを皆さんは知らなければなりません。
人間は堕落する前は神の絶対的な善を持っており、神様は人間に善く創造された全てのものとも関係を結べるようにされました。
 神は絶対であり、善の言葉を通じて宇宙を造りましたが、その中でも人間は全価値的な存在として造られました。したがって、人間は神の善を歌う一つの中心体として現れなければならなかったのは、創造本来の目的でした。しかし、人間は堕落によりこの価値を失ってしまいました。
 堕落した私たち人間はどのようにして再び善良な神に近づくことができるのでしょうか?ますます良心を通じて本体の良を似せていく必要があります。次に、神の言葉に従って行動し、神の本体の善と言葉の価値を示さなければなりません。そうなったとき、神は創造されたすべてのものの中で、その一瞬に喜びを見いだすでしょう。そして、善の目的を追い求めてきた人々も神の善の価値を感じる、善の実体となるのです。しかし、これが人間の堕落によって完全に破綻してしまったのです。
 今、皆さん自身が堕落したアダムとハワの子孫であることを自覚し、善の目的を達成した善の祖先にならなければなりません。皆さんが善の目的を果たさなければ、アダムとハワから受け継いだ罪状は皆さん個人にとどまるだけでなく、皆さん個々の通じて全世界と天国まで広がってしまいます。
 皆さんは自分自身を正しく立て、神が古代から望まれていた本来の善を代わりになすことで、神の言葉で造られた宇宙の善の価値を感じ、万物を善だと讃えることができなければなりません。また、神の絶対的な善の価値を、皆さんの良心を通して相対的に示すことができなければなりません。そうでなければ、神が望む全体的な目的を達成することはできず、皆さんが求める善も見出す道がありません。
 この本来の善は、神の永遠で絶対で不変な性質を中心に実体を通して現れるべきものであり、その永遠で不変で唯一の神の善の性質を相対的に示さなければならない人間が堕落によって神と人間の永遠で不変で唯一の価値である善が実現されなかったことです。
 したがって、人間は善の自律性、尊厳、価値性を失ってしまったのです。堕落した人間が求める最大の目的は、神の自律性、尊厳、価値性です。これが実現しない限り、永遠、不変、唯一の神の善との繋がりを持つことはできません。
 人間の祖先アダムとハワがこれら三つを立てるために死んだり、生きるために生きたりしたなら、これが今日の私たちの希望にまで残らなかったでしょう。それが実現すれば、人間は自ら善の自律性、尊厳性、価値性を楽しみながら、神の無限なる善を中心にして永遠の楽園で喜びながら生きることができたでしょう。
 しかし、アダムとハワの誤りによって、これが今日まで人々が探さなければならない希望となってしまいました。つまり、人類の祖先であるアダムとハワが絶対的な善の本体である神を代わりにし、相対的に善の自律性、尊厳性、価値性を持っていたなら、今日の地上の人類は恐怖と悲しみと絶望の中に生きていなかったでしょう。
 アダムとハワは創造主的な立場で神を代わりにし、全体を責任を持っていました。この立場を考えると、彼らが犯した罪が彼ら個人にだけ影響するものではなく、善良に創造された全ての生態系にまで影響を与える恐ろしい事実を知ることができ、アダムとハワがこの地上で相対的に善を見つけて立てるべきだったことを私たちは知ることができます。
 しかし、彼らは自分たちの犯罪が彼ら自身だけでなく、将来の子孫にも影響を与え、さらには神にまで悲しませることを感じなかったのです。アダムとハワが死を覚悟して神の永遠で不変で唯一の言葉に従って進んでいた場合、このような歴史的な罪状、時代的な罪状、未来的な罪状は存在しなかったでしょう。
 しかし、彼らは神の絶対的な言葉に従わなかったため、その堕落の瞬間から歴史的、時代的、未来的な罪状が彼ら一人に現れることになりました。アダムとハワがサタンの誘惑に屈する際に、彼らには神の言葉に従おうとする心がある一方で、サタンの誘惑に引き込まれる肉体がありました。肉体の力が強かったため、彼らは神の意志に逆らうことになりました。その時、アダムとハワは絶対的な善を追求する良心の力が強いほど、それに比例して恐怖も大きかったのです。
 この恐怖の心が予告したことは、彼らの堕落行為が歴史的に、時代的に永遠に悪の起源となることであったことです。しかし、彼らはそれを知りませんでした。アダムとハワが堕落する際に恐怖を感じたとき、彼らはその恐怖に刺激されて絶対的な善を守り、その悪の心を抑える義の不変の中心を立てるべきでしたが、逆に悪の本体と手を結んでしまったのです。
 この悲しい事実は、彼らにだけでなく、堕落の血統を引き継いだ皆さんにも及んでしまったことです。したがって、皆さんは自分たちの生活の中で良心を通じて悪の本体と戦わざるを得ないことを忘れてはなりません。
 一つの罪がこのように歴史を通じて未来にまで人間の良心と対決して出てくることを心に留めて、私たちは堕落の領域から脱出しなければなりません。人間はたとえ堕落したアダムとハワの子孫であっても、絶対的な善の主体に従って、恐怖の心と戦う良心があるため、どの時代でも悪と戦わない人はいません。
 アダムとハワは恐怖の道を選んだことで、彼らの行為は悲劇を招き、悲しみを引き起こし、絶望の底に堕ちる結果となりました。このように恐怖の立場に立つと、今まで彼らと共にいた命と愛の源である永遠なる神は彼らから離れることになり、彼らは語り尽くせない悲劇の心を感じることになったのです。
 このように考えると、理想の楽園であり、善の楽園であり、快楽の楽園として創造されたエデンの園は、アダムとハワとは何の関係もない楽園となり、彼らは絶望の立場で暗黒の世界に堕ちることになりました。
 罪悪の歴史をたどってきた私たち人間は、生涯を通じて生の目的を見つけ、絶対的な善の基準にまで昇り詰めなければなりません。この使命を切り開いた方がイエス・キリストであることを皆さんは知らなければなりません。
 皆さんは神が立てた言葉に依存し、神が立てた指導者に依存して絶対的な善を追求し続けなければなりません。皆さんは心が頼りとなる良心と、良心が頼りとなる神の言葉を立て、身体が頼りとなる神の意志を代わりにする実体を立て、その神の言葉と実体に自分自身を繋げて絶対的な善の目的を回復しなければなりません。
 そうでなければ、神の永遠で不変で唯一の善である善の中で、本質の自律性、尊厳性、価値性を示すことができず、6000年にわたり臨在してくださった神の希望を達成できるようにはなりません。
 人間はこのように絶対的な善を回復しなければならない運命に直面しているため、人間が築いた倫理道徳も善を追求していないものはありません。また、神が人々に与えた言葉を実践させたのも、人が生活の過程で歴史的な善の絶対的な基準を見つけ、善の目的を達成させるためです。
 したがって、皆さんは歴史的な善の言葉を実践することで、アダム以降6000年にわたり神の言葉を守り、戦ってきた歴史を代表する者とならなければなりません。これが私たちに与えられた最後の課題なのです。
 皆さんはアダムとハワがエデンの園で宇宙的な善の言葉を個別の言葉として扱い、堕落の怨念を残した場所に立たないようにし、かわりに神の永遠なる善の言葉を掴み、永遠に変わらない姿で現れなければなりません。そうでなければ、言葉を裏切り、歴史的な罪の縁を切り離すことはできません。
アダムとハワが堕落によって恐怖の心を抱くようになり、悲劇を感じ、絶望を感じるようになったことは、歴史的に続いてきて終わりのない人類も同じ道を歩むことになるのです。
 世の中には善を追求する人もいれば、悪を追求する人もいます。悪を追求する者には言うまでもなく、善を追求している人たちでさえ、いつも満足と平和を享受している人はおらず、彼らもある時期にはわからない恐怖にぶつかり、うめき声を上げることになります。
 善を追求する人であっても、自らを通じて永遠の善と理念を表現することはできません。なぜなら、人間は復帰の途上にあるからです。堕落によって世界的な恐怖、悲劇、絶望が私たちにまで訪れる終末において、私たちが最も重要なことは、死を厭わずに無限の恐怖、悲劇、絶望と戦って勝利し、独り勝利の復活権を築いたイエス・キリストの人格と生涯を手本にすべきです。彼はこの地上で恐怖、悲劇、絶望と戦って勝利する瞬間まで、自己を忘れて戦い続けたのです。
 人は誰もが自己を立て、自分の価値を全体に示そうとする性質を持っています。このような自己を通じた価値性を発揮しようとするこの性質は良いものです。もともと人間はこの性質の価値を100%発揮していたが、堕落のためにその価値性を喪失しました。
 イエス・キリストは自己を主張し、自己の価値を全体の尊厳に代わって示す価値を持っていましたが、苦境の中で自分が蹂躙され、無視されることでも変わらぬ信念で悪と戦いました。
 彼はまた、自分のための希望をすべて捨てて、自分が残す全体の希望が1000年後、2000年後には必ず成就されるという確信をもって、善の本質を築くために不変の姿勢ですべての悲劇、絶望、恐怖と闘いました。
今、皆さんはこのようなイエスの人格に似せ、その心情を手本にして、自分の存在が現実で言えないほど無視され、軽んじられる場面があるとしても忍耐し、それを乗り越えていくことができなければ、堕落から抜け出すことはできません。
 今度は皆さんが世界のすべてを忘れ、すべての苦しみを乗り越えるためには、絶望の中でも希望を、悲劇の中でも喜びを、恐怖の中でも権威を築いていく必要があります。そして、これが皆さんが果たさなければならない使命です。
 皆さんはイエス・キリストが受けたサタンの侵害を絶対に受けてはいけません。ただし、サタンの侵害を取り除くことができるだけの天国の喜び、希望、権威を持ち、天国の善を示すことができなければなりません。そして、絶対的な善の価値をこの地上に相対的に示し、失われた万物の主人公となる資格を持たなければなりません。それになる日が来れば、神も皆さんを思うままにできなくなります。
 私たちの堕落が本質へ還るとき、私たちは神と共に住むことができ、神を代わって立ち上がる資格を持つことになります。その後、皆さんが万物の前に現れるとき、すべてが栄光の勝利の日を待ち望んで神の前で黙って頭を垂れていたように、皆さんの尊厳の前でも無言で従えるようになります。
 また、皆さんは善の価値を発揮しなければなりません。自分が善であると主張したり証明しようとせずとも、他の人々が皆さんの善の価値を賞賛し、皆さんと永遠の縁を結ぶために追随できるようになるべきです。
 このような価値を持ち、永遠の希望、永遠の喜び、永遠の権威と善を代わりに示す実体とならなければ、神が安息なさることはありません。そのような人でなければ、歴史的な運命の中でこの罪の報いから抜け出すことはできません。
 そうでなければ、皆さんはこの罪の報いを受け、千秋万代の怨みを残すことになります。その事実を認識し、新たな決意と覚悟を持って動かなければなりません。
 皆さんが新しい独立性、尊厳、価値を示す言葉を持っていますか?善の本体を見、感じましたか?それならば、皆さんはそれを守らなければなりません。神が保護してくださった天的な独立性を失わないようにしてください。
 皆さんは統一教会が持つ言葉が永遠の善を紹介できる真理の言葉であると信じていますか?この言葉を通して神を迎え入れることができると信じていますか?それならば、これからはどんな状況にあってもこの権威と尊厳と価値を失わずに前進するとき、永遠の善の本体である神が皆さんにサタンの世界を審判する権限を与えられるという事実を理解する必要があります。
 どのような状況にあっても、この権威と尊厳を失わずに前進するとき、永遠の善の本体である神が皆さんにサタンの世界を審判する権限を授けられることを理解する必要があります。


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御言葉選集2(19)

2023年12月17日 15時37分04秒 | 学習

文鮮明先生の御言葉集 2 - 19. 
強く大胆に、失われた福祉を回復しよう(1957年6月23日)

1957年6月23日(日曜日)、前本部教会
ヨシュア記1:1-9


<祈祷>
 イスラエルの民を選んで立てられたお父様よ、彼らを立てられて御心を成就させてくださいと命じていたお父様の切望の心を思い出しながら、今日私たちはイスラエルの民に代わってお父様の御心を遂行しなければならないキリスト教徒の責任を果たさなければならないことを感じるようになりました。


長い歴史を経てお疲れになったお父様を私たちが受け入れさせてください。長い年月、私たちを心配し、サタンに対抗して戦ってこられたお父様の状況を知らせてください。未来の希望を抱いて選ばれた息子娘たちを抱え、栄光の座に導くために心配されているお父様の心情を私たちが理解できるようにしてください。


今日の私たちが存在するのは私たち自身の意志ではなく、私たちが楽しんでいる生の栄光も私たちによってもたらされたものではありません。今日の喜びはすべて何千年もの歴史を経てお疲れになったお父様の恵みに由来していることを私たちが理解できるようにしてください。


今日、私たちに自慢できる何かがあるでしょうか?私たちの中に宇宙に対して命じることができる真理を持っていると感じる者がいますか?そうしたことは今日私たちに委ねられた責任ではないことを知らせてください。


私たちがお父様の恵みの力を代わりにし、世界の人類に代わって天倫の総合的な御心を表現できる息子娘になるように許してください、お父様、切に願い求めます。


栄光を受けるために人間を立てられるお父様のお心を知り、その御心を達成しようとしている一団がこの地に存在しますか?そのような一団はあなたが万民を祝福できる足場となり、全宇宙を祝福できる栄光の基地になることを私たちが皆悟るように導いてください、お父様、切に願い求めます。


今日の私を自分単独の中で見つけさせないように許してください。歴史を代わりにし、全宇宙を代わりにし、未来の世界を代わりにして天倫の御心の前に恥じることのないお父様の息子娘となるように許してください。そして、そのような息子娘になったことを自慢できる喜びの栄光を私たちに許してください、お父様、切に願い求めます。


お父様、今日ここに集まったあなたの息子娘たちは、自分を正直にお父様の前に現したでしょうか?自分でお父様の許可された祭壇の前に伏せられましたでしょうか?また、自分たちを犠牲にして歴史的な罪を贖うことのできる生け贄の供物となっていますでしょうか?現実の罪を負う新しい供物となり、十字架を背負ってゴルゴダを越えたキリストの人格を見習う子どもたちとなっていますでしょうか?未来の栄光のためにお父様の代わりにサタンと戦い、栄光の功績を持っているでしょうか?


お父様!このような息子娘たちとなり、あなたの栄光を讃え歌うことができるように許してください。そして、この一つの御心に従うことができる忠実な子供たちとなるように許してください。切に願い求めます。


今、この日を許していただいた以上、私たちを憐れんで見てください。私たちが集まる前に許してくださった御心を捨てないでください。お父様、かわいそうなこの国を代わって無数の教派を祝福してください。迷子になっている国と祭壇にお父様の祝福を与えてください。


生命の炎がどこで燃え盛っているのか分からないかわいそうな国と教派に、お父様の慈悲の賜物を許してください。そして、この人類に祝福を授けてください。新しい祝福が早くこの土地と国に現れ、新しい炎が教派を通じて現れるように許してください、お父様、切に願い求めます。


お父様、人間の理性だけを重視する傾向を除去してください。人本主義だけを強調するあらゆる思想を正してください。私たちは天倫を立てる神本主義を受け入れる人格者となり、天の御心を敬虔に受け入れ、お父様の愛を受けることができ、祭司の職務を果たす息子娘となって、この国を代わって立ち上がることを許してください。また、私たちが無数の教会を代わって現れることができるように許してください、愛するお父様、切に願い求めます。


過ごした一週間で犯したすべての過ちを清算できるように許してください。そして、おっしゃる新しいことばと許される新しい恵みに浸り、お父様の御心と降り注ぐ深い愛に浸り、宇宙の前でお父様を誇りに思うことができ、お父様に栄光の崇拝を捧げることができるこの時を許してください、心よりお願い申し上げます。


最初から最後まで全体を統べてください、あなたの御名で祈ります。アーメン。






<御言葉>


みなさんと同じく思いを共有しようとする言葉の題目は「強く大胆に、失われた福祉を回復しよう」です。


本来の人間には福地を懐かしむ必要はなかったでしょう。神が創造された楽園自体が福地であり、人間が永遠に楽しむことができる美の楽園であり、同時に永遠に享楽を楽しむことができる楽園でした。しかし、人間が神が築かれた天倫の法を犯したため、人間たちには恨みが残り、彼らが本来享けるべき福地は望みの福地にならなかったことを皆さんもよくご存じのことでしょう。


もし神が非劣世界を創造されたならば、創造の理想があったはずであり、その理想が現実的に実現されていたならば、創造主はもちろん、すべての被造物も喜びの楽園で楽しむことができたでしょうし、また人間は自分たちの喜びに感謝できたでしょう。しかし、人間が堕落したため、これらすべてのことが人間とは無縁になったのです。さらに、神と人間の前に美の象徴である万物も今日までにわたりにわたり仇になり、感謝と栄光を神に返さずにいます。


神には万物を創造された目的があり、その目的を達成しなければならない責任がある以上、神はその御心を必ず達成されなければならないのです。そうでなければ神の創造の理想や帰還史の目的も喜びの世界を紹介できる御心として現れることはありません。また、この地に住む万民も生の価値を感じることができず、全宇宙も存在の価値を感じることができないのです。


それゆえに神は創造目的を必ず達成するために長い歴史を経て、人間にその目的が達成されるようにするために行動されたのです。これが6千年にわたる長い神聖の歴史であることを皆さんはよくご存じのことでしょう。


アダムとイブが堕落すると、神はアダムとイブを造られたことを後悔し、嘆息されました。このように神の嘆息は皆さんの祖先によってもたらされたものであるという事実を皆さんは痛感しなければなりません。


神が嘆息されているため、神によって造られた全ての被造物も神によって嘆息されているわけです。中心の創造主が悲しんでおられるため、すべての被造物も悲しむことなくはいられないのです。


では御心を設定し、万民を通じてその御心が達成されることを望まれる神様が主理される目的は何でしょうか。その御心を達成させるための目的がないかぎり、創造主が悲しんでおられ、祝福されていないことがありません。それではその御心を設定し、祈りによってその御心が成就されるようになることが求められているのが帰還主理の目的です。


神の嘆息を解消できる一人、言い換えれば6千年にわたる歴史を通じて神を嘆息させた人間の祖先から生じた人類の罪の歴史を阻止し、この罪の歴史を清算して神の嘆息を解消できる一人、すなわち歴史を代表する本来の一人を探しているのが帰還主理の目的であることを皆さんは確実に知っておかなければなりません。


みなさんが神の前に立つとき、贖罪の恩寵を求める心も大切です。また、家族、国家、そして世界のために贖罪の恩寵を懇願することも必要でしょう。しかし、私たちは自分の悲しみと嘆きを解消するためだけでなく、神の心の奥深くにある、創造以降に人間が誤って抱えてしまった憎しみを解消するための訴えが必要だと理解する必要があります。


今、私たちが希望の楽園、福地の楽園を称賛し、その楽園に入ってすべての被造物を代わりに父に栄光を帰し、神に感謝をささげることができる人は誰でしょうか? 彼は人間が神に対して犯したすべての罪を贖うべく懺悔の供えとなりうる人でしょう。


さらに、そのような人はこれまでに人間が犯してきたすべての歴史的な罪を清算し、神が6千年にわたり苦労されてきた歴史的な先祖たちの罪まで負担し、「父よ、あなたの望みと嘆きをすべて私に任せてください。私はあなたの望みを実現し、あなたの嘆きを解消いたします」と言える人でしょう。


神が本来あなたの喜び、理想、栄光の実在であった人類の先祖アダムを代わりにできる存在が地上に現れることを期待していることを理解しなければなりません。私たちは罪の歴史から解放される運命にあります。


したがって、すべての罪と嘆きの要素を清算し、神に向かって「これによってあなたが抱えていたすべての憎しみを解消してください。今日以降、お喜びください!」と言える、歴史上になかった生け贄の供えとなるような息子や娘が現れることを期待しながら、神が今までに行ってきた帰還主理の歴史を理解する必要があります。


さて、神の帰還主理の歴史を振り返ると、神はアダムが堕落した後、長い1,600年の歳月を経てノアという一人を立てられました。


神はノアを立てることでノアとその家族を救おうとされ、さらにはノアを通じて人類を代表する祭司の立場に置こうとされたのでした。これが神の御心でした。


しかし、それよりもノアが1,600年間にわたって自分を立てるために苦労された神の苦労を知り、神の悲しみを感じていたとしたら、そしてノアの家族の8人がこのような神の心を感じていたとしたら、彼らには隠れた誤りによる憎しみはなかったでしょう。


個人の嘆きと苦しみから解放されるだけで救いが完了すると考える人々もいますが、そうではありません。私たちは個人の罪を懺悔すると同時に宇宙的な罪悪史を清算しなければならず、サタンによって神の胸に深く刺さった嘆きの釘を抜いた後に、「お父様、安心してください。今日までに帰還主理をしてこられた神様、憎しみを解いてください。ハレルヤ!アーメン!」と言えるようになるべきです。神はこのような勝利者が地上に現れることを、モーセ以降から今日までずっと願っておられます。


ノアの家族は審判から救済されたので、感謝の生活を送るべきでしたが、習慣的な生活を繰り返してしまいました。主導者たちが前進し、チェオンルンに立ち向かった私たちも同じく、このような失敗に陥りやすいです。したがって、習慣的な生活を繰り返す人になってはいけません。


神によって自分と家族を救っていただいたノアのように常に新しく立つ者となり、全人類がその心を持つ日を望みつつ、父の心に直面し、ノアのように立ち上がった者たち、また神の前に絶対の信仰を築いたノアの家族たちは第二の堕落を成立させる失敗を犯さなかったでしょう。


神はノアの家族の失敗の後、400年後にアブラハムを選ばれましたが、アブラハムもまた失敗しました。その後、イサクを通じた犠牲の条件を経て、ヤコブの21年の奴隷生活を経てようやく祝福が成就しました。


皆さん!21年間にわたる知られざる苦悶を抱え、ハランの地で羊を飼いながら使用人として生活したヤコブの状況を考えてみてください。神はヤコブを呼ばれた目的は、ヤコブを通じてアブラハムに祝福をもたらす御心を達成することだけでなく、さらにはアブラハムが犯した条件によってヤコブの子孫たちが400年間辛酸を舐めることになったという事実でした。


私たちは神が御心を立て、2000年間にわたり多くの苦労をなさった結果、見つかった一人がヤコブであることを理解しなければなりません。ヤコブの後400年の歴史的な奴隷生活を経て、神はヤコブが立てた一代復帰の基準で、ミョーセを立てました。こうして、長い歳月にわたる神の全体的な奴隷の結果として、モーセが見つかったのです。ですから、モーセが責任を果たすと、人間だけでなく、神と結びついた憎しみまで解消されるのです。モーセはこの条件的な立場から国家を代表して立てられたのでした。


モーセは神が全歴史を組織されて得た成果体として、国を支配し変えることのできない存在でした。このように選ばれたモーセは、歴史的な悔いを取り除く責任が自分にあることを感じ、神の全ての悲しみを解消し、また、民族的な悲しみも負う立場にありました。


そのため、彼は40年間の宮廷生活、40年間のミディアンの荒野で、合わせて80年間、先祖たちから引き継いだイスラエルの選民権を失わずに立ち上がりました。


モーセは、時のファラオと対峙しているときにも、天が望む意志だけを追い求める気概を持っていました。また、モーセは国を支配し変えることのできない資格を持ち、サタンと対決する資格も持っていましたが、彼を代わりにできるイスラエル民族が存在しなかったため、神はファラオを多く強制するようになったことを、あなたがたはよく知っているでしょう。


では、イスラエル民族はモーセに対してどのような心構えを持つべきでしょうか? 彼らはモーセが神が何千年もの間苦労して、そして先祖たちが何千年もの間努力して、すべてを与え、すべてを犠牲にして築かれた唯一の中心人物であることを理解すべきでした。イスラエル民族はモーセの個人的な価値だけでなく、国家全体の価値として、または人類全体と同等の価値として感じ、彼と一体化していれば、イスラエルの多くの人々は荒野で倒れることはなかったでしょう。


モーセ以降、何千年もの歴史を経て預言者たちがこの地に来る目的、また国を代表してイエス・キリストがこの地に来る目的は何だったのでしょうか。神の労苦と嘆きを代わりにするためであり、人間と万物のために嘆きを代わりにするためでした。しかし、だれがイエスが国を代表して現れる条件的な存在であることを知っていましたか? イエスが4,000年間にわたって嘆いていた神を代わりにしてサタンに打ち勝つ条件を築く人物であることを、だれが知っていましたか? 誰も知りませんでした。


それでは、今日のあなたが見つけるべきは何でしょうか? 神の嘆きと人間の嘆き、そして万物の嘆きを代わりに取り除いてくれるその一人を見つけなければなりません。そして、あなたがその人と一体となるべきです。もしもそのようなあなたになれないならば、あなたは希望も神の栄光も見つけることができません。


この使命を持って来られたのがイエスであり、神が4,000年間苦労して選ばれたイスラエル民族、ユダヤ教会はどうでしたか? 彼らはメシアが来て、天地に結びついた嘆きを代わりにしてくれる一つの中心を疑い、彼の前に罪の旗を掲げたことを、あなたは知っておく必要があります。


この使命を帯びておられた方がイエス・キリストでしたが、神は4,000年にわたり苦労して選ばれたイスラエルの民やユダヤの宗派はどうでしたか? 彼らは神の名を呼びながら、神のために来られたメシア、天地に結びついているため息を解決する中心的存在を信じず、イエス・キリストの前で罪悪の波に立っていた事実を皆さんは知っておかなければなりません。


イエスが来るまでの悲しい歴史とこの悲しい歴史を解消するための天運の内容を知っていた人々がいれば、イエスを十字架に磔にしなかったでしょう。また、イエスが十字架にかかった時、右側の強盗がイエスを神の子と証言するのではなく、見守っていた聖徒がイエスを証言して生かさなければなりませんでした。しかし、当時そのような責任を担った弟子がいなかったため、今日私たちがそのような責任を担わなければならないのです。


今日まで神は人間のためにため息を解消できる存在をこの地に送り続け、人間はそのような方が現れることを願ってきました。これが神の摂理の歴史であり、同時に人類の歴史です。


今日私たちがこのような使命的な摂理観で見ると、モーセはアエギプトからイスラエルの民を導き、カナンの地に入ってカナンの7つの民を滅ぼす運命にあった一方で、イエス・キリストはモーセが築いた民族の帰還の期待の上に、世界の回帰の目的を達成するためにこられたと言えます。


今日、砂漠や荒野などのこの地、バロの宮殿などのこのサタンの世界でも、そのようなイエス・キリストの意志が現れています。しかし、イスラエルの民がモーセを指導者として立てなかったため、モーセと一緒に神の権能を持ってヨルダン川を渡り、カナンの7つの民を滅ぼして天国を建設するべきだったが、それを成し遂げられずに荒野にとどまることになったように、今日でも天国を建設できる直接的な使命を担えない人はカナンの地に入れずに荒野にとどまることになるという事実を、キリスト教徒たちは知らないままです。


では、荒野の定められたイスラエル60万人がモーセと離れたときの仇敵の条件は何だったのでしょうか? 今日の皆さんがこれを知らないといけないのは、イスラエルの中で敵意を抱いていた者たちがアエギプトでの生活を懐かしみ、モーセの道を妨げ、摂理の道を妨げる一団が現れたことです。


最初、モーセを先導してイスラエル60万人がアマレクと戦うときには、モーセが手を上げればイスラエルの民が勝ち、モーセが手を下げればイスラエルの民が負けるという一体の関係が築かれていましたが、後に変わってしまったのです。


歴史的に見て、神の御心を受けて進む人は、まず見えないサタンとの戦いがあり、次に目に見えるサタンとの戦いが生じます。その後、物質的な苦境を通した戦いが続くことになります。


したがって、イエス様にも個人的な試練がありました。聖殿を中心とした環境的な試練があり、また山の頂上で立って世界を歩んだ象徴的な試練もありました。これらの出来事は、戦いが必要な原則のもとに現れました。


それでは、神の御心を受けて進んでいたモーセはどのような心を抱いていたのでしょうか? 彼もまた神の御心を受けるために敵と戦える心を持っていました。そして、荒野に出てアマレク族と戦える心、飢えと戦える心、死を覚悟して堂々と立ち向かえる勇気がありました。


モーセはエジプトの宮殿で40年間、ミディアンの荒野で40年間、合計80年間、サタンと戦い、自分自身と戦い、飢えと戦いました。そのような戦いで勝利すると、神はモーセを呼ばれました。このような道を歩んだのはモーセだけではありませんでした。イエス様も同様でした。


したがって、イエス様自身にとっても、サタンとの対決を象徴するサタンの試練がありました。最初には自分を克服するために、自分を一つの生贄として飢えと戦った40日の断食期間がありました。その後、物質の条件を超えるために「石をパンに変えてみよ。」という試練がありました。


なぜイエス様がこのようなプロセスを経なければならなかったのでしょうか? それは人間が堕落によって神を失い、子女の尊厳を失い、万物を失ったために、これらを再び見つけるための条件が必要だったからです。


したがって、今日の聖徒たちが進む荒野にも、個人でも国家でも世界でも関係なく、悪の世界を代表するサタンの試練があります。そして、神の子女の栄光の代わりに、十字架の試練が残っています。その次には万物を失ったため、受ける飢えの苦しみを経なければならないということです。


宮殿にいたイスラエルの民はモーセと同じ心を持っていたため、団結してサタン的な試練を撃退しましたが、イスラエルの民を代表する立場として、荒野に出てアマレク族と戦う場に飢えが一緒にぶつかってくると、モーセを責めるようになりました。


では、彼らがモーセを責める原因はどこにあったのでしょうか? 何が原因で責めるようになったのでしょうか? 彼らが荒野で生まれ、そこにとどまりながら神の御心に立ちはだかっていれば、モーセを責めることはありませんでした。しかし、400年間にわたるアエギプトでの生活が彼らの習慣、彼らの生活環境が荒野で問題となったことです。今日の皆さんはこれを心に留めておかなければなりません。


もう一度言いますと、モーセを信じて出発したイスラエルの民でしたが、彼らは出発前の生活環境に対する思いを捨てきれず、結局は滅びることとなりました。また、それがモーセの進むべき道を壊し、モーセとイスラエルの民を分離させる原因となりました。


では、今日の世界的なイスラエルを代表し、世界中のクリスチャンたちが受け入れなければならないのは、第一のイスラエル民族が経験した苦難の時代と同じ時代に置かれながらも、神の選民らしい姿勢を持つことです。同時に、単独で国を代表し現れた指導者の立場を把握せず、40年間の荒野時代で飢えに苦しむとすぐに皆が不信と不満を抱き、滅びたイスラエルの民の歴史を踏まないようにすべきです。


イエス様の前途を破壊したのは誰でしょうか? 神の御心を代わりにし、歴史性を代わりにし、全体の価値を代わりにし、選ばれた民族であった彼らでした。彼らは神の御心を達成するための生活をし、そこに信仰の基準を立てる必要がありました。つまり、モーセの御心を受け入れなければならなかったイスラエルの民が、モーセを信じず十字架に磔にされるように、イエス様の御心を受け入れなかったイスラエルの民が彼を信じず十字架に磔にする原因となりました。


したがって、モーセの御心をヨシュアとカレブが引き継いで2世代を連れてカナンに入ったように、今度は第2のヨシュアとカレブがイエス様の御心を引き継いで、第2の使徒たちを連れて世界的なカナンの福音に入り、地上天国を建設しなければなりません。これがイエス様の望みであり、再臨以上のものです。


したがって、今日の意志に呼ばれ、選ばれた私たちは、このような歴史的な事実に対する神聖な意志を理解し、民族的な罪を再び犯さないよう心がけなければなりません。イスラエルの民が歩んでいた罪の道を再び歩むあなたがたにはなってはならないということです。


では、私たちはどうすればよいのでしょうか? 終わりに来る主は、6千年にわたり神を嘆かせてきた条件を取り除き、多くの聖徒たちの信仰の目的を達成するために来られることを知っている私たちになる必要があります。そして、イスラエルの民が初めてモーセに会ったとき、自分たちの所有をすべて捨てなければモーセに従えると知り、彼らが荒野に出ても自分たちのすべてを捨て、モーセだけを信じて従ったように、彼らとモーセとは分かたれなかったことも理解する必要があります。


今日の理想の園を眺めながら再臨の日を迎える準備を進めている私たちにとって最初に備えなければならないものは何でしょうか? それは再び来られる主は6千年間、神が労働し、先祖たちが労働した成果で見つかる方であるということを心に留めることです。


もし彼がこの地に来られるなら、私たちはどうすべきでしょうか?私たちは喜びの心をもって、世界のすべてを彼にささげ、彼だけを歴史の代理者として、罪悪の歴史を終結させる存在として、彼だけを神の代理者として、そして彼だけを人類を代表する存在として迎え入れる心を持つべきです。


もし世界のキリスト教徒たちがそうした心を持たないなら、神が何千年も苦労して築かれたモーセが荒野で倒れ、その結果、怨みが残ることと同様の結果になるでしょう。ですから、私たちは再び来られる主のために労力を惜しまない者にならなければなりません。


今日の私たちは、カナンの福音を見据えていたモーセが亡くなった後、その後継者であるヨシュアとカレブの使命を歴史的な観点から引き継いでいることを、それぞれが意識していなければなりません。


つまり、イスラエル60万人を導いてカナンの地に入ることで、何千年もの間に結びついた神の怨みを解消できる献身的な条件を備え、ヨシュアのような人々にならなければなりません。


今日の私たちがヨシュアやカレブと同じ決意や覚悟を持たないなら、荒野で有利な状況にあるこの国を再建し、カナンの福音に入ることはできず、聖殿理想を完成させることもできません。


皆さんは今や神の愛と怒りを理解しているので、祈りの目的が変わらなければなりません。また、神がモーセと不信仰なイスラエル60万人を荒野で払いのけて、ヨシュアとカレブを立てて2世代を連れて再びカナンに向かわせたその心情を知る者とならなければなりません。


皆さんは現在どの段階に到達していますか? 先祖たちが苦難に耐えながら歩んできた6000年の歴史を基に、審判の旗を高く掲げる立場に到達し、イスラエルの民に向けてヨルダン川を渡ろうと呼びかけていたヨシュアとカレブの使命を引き受けるべき位置にいます。


それでは、私たちがそのような責任と使命を引き受けるとき、神は何を強調されるでしょうか? 神が荒野でモーセの使命を引き継いだヨシュアに「強く勇んでください」と言われたように、私たちにも「強く勇んでください」と強調されることでしょう。


今、私たちは世界的なカナンの福音を見据え、そこに進むことを望みながら、自分たちが荒野にいるという事実を知り、ヨシュアとカレブのような皆さんの心とならなければなりません。


そして今日、世界中のクリスチャンはどのように生きるべきですか? ヨシュアとカレブのような存在が現れ、この地上のキリスト教を導いていくように天に呼びかけなければなりません。中心を失い混乱と混乱を引き起こしているこの荒野時代において、それを立て直し、前進する方向を示すことができるヨシュアとカレブのような存在が現れるべき時が来ていると、今日のクリスチャンたちは確実に気づかなければなりません。ここで問題になっているのは教派ではないのです。私たちはこれを理解する必要があります。


ヨハネの黙示録11章では、2本のオリーブの木について預言されています。これは何を示しているのでしょうか? それは世界的なカナン復帰の計画の出発の前に、ヨシュアとカレブのような存在が現れることを予告しています。


モーセの代わりに現れたヨシュアとカレブがユダヤ人を導いてカナンの地に入ったように、今日もイエス・キリストの福音を持ってヨシュアとカレブのような人々が現れ、神の民を導き、世界的なカナンの福音、新しい希望のカナンの福音に向かうことになるでしょう。


ヨシュアとカレブに従ってカナンに入った一団が、カナンの7つの部族を滅ぼしたように、皆さんにもサタンを滅ぼさなければならない責任があります。天の戦士となり、そのような使命を果たす責任があることを心に留めなければなりません。


そして、新しい言葉を語るヨシュアやカレブがこの地のどこかに現れても、人々が心の扉を開き、その言葉を聞いて天に向かえるようにするのは私たちです。


ヨシュアとカレブが歩んだ道は冒険の道でした。彼らが歩んだのは難しい開拓の道であり、戦いの道でした。行く先々で開拓者の使命を果たさなければならない困難な道でした。時には個人的に、または環境的に突き当たる試練と戦わなければならなかった戦いの使命が彼らにはありました。


モーセがイスラエル民族を導いてカナンの福音に向かって旅立とうとしたとき、ファラオはモーセを殺そうとし、イスラエル民族の中にもモーセを信じず反対する者が多かったように、ヨシュアとカレブにも同様の出来事がありました。これを知っている神はヨシュアとカレブに対して「強く勇んでください」と言われました。しかし、「強く勇んでください」とはどういう意味でしょうか? それは人間的なすべての条件を超えるという意味です。


従って、イエスも3度の試練を通して人間的なすべての条件を超える勝利を収めました。ですから、2000年が経過した今日の皆さんも人間的なすべての条件を超える道で強く、勇敢でなければなりません。


ヨシュアは個人的な戦いの使命から最後の瞬間まで勝利の使命を歩むために、モーセの代わりに立たされた立場であったため、神は彼に対して「強く勇んでください」という言葉と共に、「相手の個人を敵とし、相手の民を敵とし、相手の土地を敵の土地と見よ」という忠告の言葉を述べました。今日の私たちはこれを確実に知らなければなりません。


今日、ヨシュアと同じ立場に立っている私たちならば、行く先々で個人的な敵がいるでしょう。環境も私たちに打撃を与えるでしょう。国と国家も私たちを打つでしょう。しかし、選ばれた私たちが結束し、死を覚悟し、最後まで戦う第二のヨシュアたちになれば、死を覚悟し、イエス・キリストに従い、世界のキリスト教を担当できる聖徒たちになれば、私たちは目の前に広がるどんな戦いの道も乗り越えることができます。だからこそ神は私たちが強く、勇敢であることを望んでいます。


それでは私たちは自分をどう見つめるべきでしょうか?まず第一に、強く、勇敢でなければならない立場にいる私たちは、自分を正しく見ることができなければなりません。自分を見つめて、間違いがあれば自己批判できるようにならなければなりません。また、30年または40年の人生を経た自分だとだけ思わないでください。生きている現在の自分としてだけ知るべきです。


それでは、私たちはどのような存在でしょうか? 私たちは今日の私が存在するまで、神が6,000年間にわたり世界的な戦いを通して苦労されたことを知らなければなりません。これは神の苦労によって見出された存在です。ですから、皆さんは自分を育ててくださった神の恵みを忘れてはいけません。また、神の苦労を代わりにした犠牲であることを自覚することも大切です。


そして、皆さんが存在するまでには、皆さんを見つけ立てるために苦難の道、険しく困難な戦いの道を歩んで出てきたこと、そして語られなかった神の怒りと嘆きがあったこと、何千万もの先祖の血の犠牲があったことを知らなければなりません。そして私たちを救うために苦労してくださった神の愛の気持ちを感じることができる息子娘にならなければなりません。


今こそ神に私たちが祈るとき、「6,000年前の父の心と、6,000年後の今日の父の心を知ることのできる私たちになりたまえ。そして父の姿を代わりにできる私たちになりたまえ」と祈るべきです。また、死んでも生きていても犠牲になる決意があり、「すでに犠牲としてささげた私たちですから、父よ、み旨を行なってください」と祈ることができるべきです。


何千年もの歴史を経て、私たちの先祖たちは血の祭壇を積み上げてきました。イエスも十字架の犠牲として帰っていきましたし、イエスの後、2,000年の間、キリスト教の聖徒たちも血の祭壇を築いてきました。したがって、今私たちはそのような祭壇の上に立てられた存在であることに気づかなければなりません。


そんな立場から父を呼び、父の声を聞くことができ、神を代わりにして人類を救うために父の前に訴えることができなければなりません。また、6,000年の歴史を篭絡してこられた神の悲しい心と怨みを知り、神を慰める子供たちにならなければなりません。これらのすべては皆さん自身が判断し、実践すべき問題であると言えます。


このような立場にいる私たちは、今後どのようにすればよいでしょうか? 神の救済範疇の歴史を終結させるために多くの先祖たちが立ててきた伝統を受け入れ、神が運行されるであろう条件を破滅させようとする敵サタンがいることを感じ、彼を撃退するために埃のような細胞の一分子でも動員する責任感を感じる息子娘にならなければなりません。


このような立場から私たちは神を呼ぶならば、神は昔のモーセだけを相手にされた神ではなく、イスラエルだけを相手にされた神でもなく、今日の私たちとも共にいる神であることを悟ることになります。その神は天地万物を創造された神であり、歴史の中で先祖たちに対応された神であり、今日の私に対応してくださる神であるということです。


特に神は、イエス・キリストがゲツセマネの園で最後の試練を受け、一つの犠牲として差し出そうとしたとき、共におられなかったことはありませんでした。そして、すべての民を愛されたイエス様の犠牲の精神が後代の人々に一つの伝統として引き継がれ、キリスト教の復興が起こったのです。


では、今日、4,000年の歴史を代わったイエス様が残された真理の言葉を信じている聖徒たちは、将来どのように行動すべきでしょうか? サタンの網に囚われた人類を救える天の戦士の姿を持つ息子娘になるべきです。また、神の意志を正しく理解し、昔のイスラエル民族が神の意志を理解できなかったために荒野でサタンの餌食となった経緯を踏まえて、同じ過ちを繰り返さないようにする必要があります。


そして、皆さんはモーセが再び神の前に立つまでに荒野で40年間尽力したその構築を信仰の根本として採用し、イスラエルを代表して80日間にわたり神を引き留め、堅固で強靭なモーセの性格を手本にする必要があります。また、皆さんは第2のイスラエルの選民権を代表して、世界的なカナンの回復の理想を達成する再臨の種族であることを認識する必要があります。


したがって、皆さんはこれらのことを考え、「父よ! 6,000年の過程で現れた全体の戦いが私の使命に現れるであろうとしても、私は乗り越えるであろう」と宣誓し、さらには6,000年にわたる天の意志を確立するために死の危機を乗り越え、この地球を支配しているサタンの家族に向かって、「私は爆弾だ。あなたたちの胸を爆発させるであろう!」と叫ぶことができるような人々にならなければなりません。


この視点から、私たちは神がヨシュアに「強く、勇んで行動せよ」と言われた言葉を私たちの教訓として採用する必要があります。イスラエル民族がその言葉の意味を理解できなかったため、カナンの地に入っても12人の使徒を中心に再洗礼の歴史を経験したことを、皆さんは原理を通してよく知っています。ですから、今日、私たちがそのようなヨシュア的な責任を果たせないならば、天国理念を築くためにこの地を訪れる主も皆さんとともに苦難の道を行かれざるを得ないのです。


皆さんが強くて勇敢な心で6,000年の歴史を代わって死を覚悟し、敵との一大決戦を戦って勝利すれば、それによってどうなるでしょうか? その時になって初めて天地が揺れる日が訪れ、何千年もの先祖たちが天に向かって血の訴えをしたあの怨みが解かれることになります。


また、創造主の喜びが現れ、永遠に変わらない神の愛の下で、何千万もの聖徒が楽しみ、地上のすべての人々が楽しむようになります。そして神はあなたたちをサタンの前に立たせ、あなたたちの先祖たちもあなたたちを立て、あなたたちも兄弟として互いに誇り合えるようになります。


ですから、神に対して「彼はあなたの子です、彼を愛してください」と言える存在があなたたちの中で現れなければなりません。真実の中によって、そのような一つの存在がこの地球上に現れなければ、人間の喜びも、霊的な喜びも、神の喜びも、天と地の喜びも成り立つことはありません。これをあなたたちは心に留めておかなければなりません。


では、今日、私たちがその日のために6,000年の恨みの罪悪史を清算し、「天よ、私を見て喜んでください。私を見て怨みを解いてください。私を見て6,000年の嘆きを忘れて、創世以来初めて笑える日を迎えさせてください。」、また「霊界にいる先祖たちよ、天が喜ぶので私たちと一緒に答えてください。」と言えるそのような存在にならなければなりません。それによって堕落による6,000年の恨みをサタンの支配下に投げ越え、人類に神の愛を紹介できる私たちにならなければなりません。


必ずそうなる者がなければ、世界的なカナンの復興でイエス・キリストを代わりに立て、70文の代わりになり、神が求めるような子供たちになり、神が喜ぶであろう家族になり、神が信頼できる国民になり、永遠の幸福の楽園、理想の福音が築かれることになります。これをあなたたちは確実に知っておかなければなりません。


今日、この時代は6,000年の歴史を終結させるべき時であり、最後の審判を下して意志に向けて前進しなければなりません。後ろを振り返る人になってはいけません。ソドムとゴモラが滅びるとき、ロトの妻は昔の故郷での家庭生活が恋しく、そこで暮らしていた友人たちが恋しく、その場所の環境と習慣が懐かしく、後ろを振り返ってしまい、塩の柱になってしまいました。


悔悟によらずにモーセに従っていたイスラエル民族も、荒野に出て苦労がかさんできたとき、昔の悔悟を恋しがってカナンの復興に入らず、途中で倒れてしまいました。彼らが荒野に出て滞在する場所も、食べるものもなくなると、「昔はここでパンも食べ、時折肉も食べたはずだ……」とモーセを恨み、彼に不満と愚痴を訴えたのです。その時、イスラエル民族の中でそうした過去を回顧しながら不平を言った者たちは誰でしょうか。それは悔悟にあったときに豊かだった者であり、他人を支配していた人々でした。


したがって、今日、あなたたちはそのようなイスラエル民族の前例を踏むべきではありません。これを教訓とし、あなたたちはこの瞬間に何を見つめるべきか? あなたがたが住んでいる家ですか、あなたがたが友達付き合いしている友人たちですか? あなたたちの家と友人はあなたがたが見つめるべきものではありません。あなたたちがとどまるべき家があるなら、それは荒野のような荒野であり、あなたたちの友人がいるなら、それは荒野で有利に立っている兄弟たちです。


ですから、あなたたちが天の道を行くために、個人から家庭、社会、民族、国家まですべてを捨て、天のものとすべきです。つまり、世界の私を捨て、天の私を見つけなければならず、世界の家庭を捨て、天の家庭を見つけなければならず、世界の種族を捨て、天の種族を見つけなければなりません。世界の民族を捨て、天の民族を見つけ、世界の国家を捨て、天の国家を見つけて立てるべきです。それらを見つけて立てるためには、あなたたちは強く、勇敢な心をもって、全力を尽くして前進しなければなりません。


そのような者であれば、個人を見る場合に個人が倒れても感謝し、国々と国々が倒れても感謝できる態度を持つ天の子供になるでしょう。


今日、私たちはこのような覚悟で個人に対して戦うことができ、家族、国家、世界に対しても戦うことができ、この地上のサタンに「去れ」と言える勇気を持って進んでいかなければなりません。


天に向かっての態度を持って、生涯の終わりまで進む者がいれば、彼は死んでも復活してその恵みに現れ、もし死ななければ、第2のイスラエルとして許された恵みの園で生きることができるでしょう。これを今日、あなたたちは心に留めておいてください。




<祈祷>
 愛するお父様! 今日集まったこの姿、アベルが呼びかけた懇願の叫びを聞く心情的な子供たちになるように許してください。またアベルの血を代わりにし、キリストがゴルゴタの丘で血の供物としてささげられたとき、全人類に言いたかった言葉を、私たちの血を通して、私たちの心を通して、私たちの認識を通して、話すことができるように許してください。


歴史の過程で行ったり来たりした数多くの先進的な足跡が彼らだけの足跡だと思っていましたが、今やその足跡は今日私たちも歩むべき足跡であることを悟りました。地上には多くの人がいますが、見劣りする私たちに6,000年の恨みを解放してくれるあなたの事情を知るあなたの悲しい事情を理解できる子供になるように導いてください。


この地上には優れた人も多く、立派な人も多く、能力のある人も多くいますが、不足している私たちを見つけに来て、天の事情を知ってほしいと言っている父の悲しい事情を共感できる子供に導いてください、おお父様、切に願います。


今日、私たちはヨシュアが強くて勇ましいだったことと同じように、国を代表して強く、勇ましくなければならない。世界を代表して強く、勇ましくなければならない。そして地を代表して強く、勇ましくなければならない。お父様、私たちの不足を共にしてください。


歴史的なすべての試練を私たちの信仰で克服し、超越できるように導いてください。お父様、熱心に願っています。


ヨシュアやカレブのように、たとえ死んでもカナンの福を見つけて入ると言っていた強くて勇ましい群れが、キリスト教徒の中で早くも多く現れるように許してください。ここに参加した息子たち、娘たちが、復活の命のエネルギー、神の命のエネルギーを感じ、父と共に栄光の一日を早くも迎えることができるように導いてください。


お父様の許可を得た言葉を私たちの生命の種とし、私たちの生命の中心として感じることができるようにしてください。父の祭壇と聖所の前に進み、大祭司としての責任を果たすことができるように導いてください。愛するお父様、心から願っています。このすべての言葉を主の御名によって祈ります。アーメン。


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御言葉選集2(18)

2023年12月16日 12時10分37秒 | 学習
「文鮮明先生の言葉集 2 - 18. 
主の栄光に参与する者となろう (1957年6月16日)」
1957年6月16日(日曜日)前本部教会
マタイによる福音書25:31-46



<祈 祷>
愛するお父様

この村で糾弾され、他の村へ逃れていたキリストの3年間の苦難の時期を、私たちがこの瞬間に振り返り、理解できるように許してください。


愛を持ち、現れたイエス・キリストは、切実な思いで無限に悲しい涙を流されましたが、イスラエルの民は逆らう矢で彼を否定し、さまざまな陰謀を巡らせました。これを今一度感じるべきでしょう。


今日、私たちは昔のユダヤ人やファリサイ派、昔のユダヤの民を軽率に批判し、彼らが当時に誤ったことを咎めることがよくあります。しかし、私たちは2000年前にイエス・キリストが来られた当時に生まれていたとしても、イエス様に反対して彼をピラトに引き渡すことさえするかもしれません。それどころか、それらの人々よりも劣った存在であると感じさせてください。


歴史の車輪は回り、宇宙は変わり、運命の時は巡っていますが、帰還の新たな歴史はまだこの地にため息と不満と怨みが残っていることを、知らせてください。


人が不信の立場に立つと、天倫が破壊され、天の業が台無しになることを知らせてください。ここにいる子供たちの一生に一度の機会があれば、自分のすべてを捨てて神の意志を達成できるように導いてください。


お父様、私たちが天のものを天のものとして立てないと、お父様は悲しむことを知り、今、私たちが天のものを天のものとして奉納し、私たち自身のものまで天のものとして捧げられるように許してください。切に願い求めます。


ここにいる子供たちの心をお父様が一つに結びつけ、受ける者と与える者の心に差異がなくなるようにしてください。私たちの心がお父様の心と一体となり、お父様の望まれる意志の前に達し、和解の主体となるように許してください。お父様の恵みの前に調和できる存在となるように許してください。


私たちの本質と本性が永遠にお父様を尊敬すべきことをお願いします。私たちが持っているこの理知的な心と、お父様を尊敬しようとする心を妨げないでください。私たち自身が非常に小さな存在であることを感じさせてください。


厳粛なるお父様の前で、自らの不足を告白し、謙虚な心で貴方の愛の手を崇拝できるように、お許しいただけますよう、お父様、切に願い求め、望んでおります。


この一時間をただお父様に託しているので、導いてください。そして、各地で苦労している家族にも同じように恩寵を現していただけますよう、お父様、切に願いながら、すべての言葉を主の名において祈りました。アーメン。




<御言葉>


今日お話しするテーマは「私たちは主の栄光に参加する者となろう」です。


堕落した人類は、自分たちの希望であり、理想的な栄光の日が現れるのを切望しています。神様もこの一日を見つけるために6千年もの長い歳月を苦労して来られましたし、イエスと聖霊も2千年という長い歳月の中で戦いを繰り返しながら苦労して来られました。また、天を崇拝する多くの聖徒たちもこの一日を見つけるために無限の犠牲を乗り越えて来たことを知っておくべきです。


この犠牲は百度死ねど千度死ぬ一日がないと超えてはならない犠牲です。この一日を越えるためには、これまで人間だけが動員されたわけではなく、多くの宗派はもちろん、霊界の多くの導主たち、さらには三位一体まで動員されてきたことを、私たちは深く感じなければなりません。その一日を現すために神様は6千年も我慢され、人間たちは多くの苦痛と逆境を経て、新しい希望、新しい指針思想を求めて出てきているのです。


神様は目的をもってこの世界を創造されたため、創造された被造万物は神様の意志に従いたければならないものです。それゆえに神様の意志を成し遂げなければならない人間が天と地が喜べるその一日を立てないならば、これまでの神様の苦労と人間の苦労は無意味なものになってしまいます。


神様と人間に希望の一日を新たに紹介するためにこの地に来られた方がイエス・キリストです。私たち人間には神様が成し遂げようとしている意志を達成していただける力も素材もありません。それゆえに私たちはそのような力と素材を備えるために、仲介者として来られたイエス・キリストに従っているのです。


そのようなイエス様がこの地においでになり、望まれたことは何でしょうか?それは、彼の生涯を通じて人類が望む希望の一日を築き上げ、天倫と人倫をこの地に築き上げ、人類に神の福音を伝えることでした。しかし、イエス様はユダヤ民族の不信仰によって、この地で神の前に、また人間や万物の前にその意志を達成できる勝利的な基盤を築くことができないまま去られたことを皆さんは理解すべきです。


言い換えれば、イスラエル民族はイエス様を最高の栄光の支配者、全人類を代表する栄光の主役として崇め、誇示できる瞬間と状況にありながらも、そのような祝福を受け入れることができなかったため、神様が築こうとされた新しい勝利の土台はこの地上に築かれないこととなりました。


だからこそ、イエス様は十字架の苦しみを経て今日まで2千年の長い歳月をかけて歴史を切り開いて来られる中で、再びこの地に来て30年以上の生涯をささげて達成し得なかった意志を達成し、神の栄光、あなたと聖霊の栄光、全人類の栄光になる一日を築くことでした。


では、どのようにして歴史の終局を経て、この地に現れる宇宙的な栄光の日、神が望まれ、イエス様と聖霊が望まれ、人類が望む新しい栄光の日をどのように迎えるべきかが問題になります。


かつてイスラエル民族が神様から授かった使命を達成できなかったため、イエス様は悲しみの足跡を経て再び人類を訪れるとき、再び過去のイスラエル民族が歩んだ足跡を踏む者がいれば、それは天の栄光が訪れることを阻む者であり、イエス様が望む一日を阻む者であり、人類が望む一日を阻む者であるということを皆さんは理解すべきです。


では、なぜイエス様を迎えたイスラエル民族やユダヤ教徒たちは、4千年間も望んでいた栄光の一日を喜びとして迎えられなかったのでしょうか。なぜイエス様を国家の指導者として崇め、万民の前に栄光の一日を築くことができなかったのでしょうか。これはイスラエル民族が神様の前に犯した罪であることを皆さんは理解すべきです。


もしイエス様が生きていた時、ユダヤ民族がこの地に神を中心にした国土を求め、神を中心にした民を求めて天国以上を実現できる王国を築いていたならば、今日私たちは主様を待ち望んでいたイスラエル民族の希望を私たちの希望として受け継いでいなかったでしょう。


イスラエル民族がイエス・キリストを希望の実体として迎えず、また歴史的な主役として迎えなかったため、神の計画はすべて中断されてしまいました。イスラエル民族とユダヤ教が国家的にも宗教的にも天倫の意志に抵抗し、イエス様を十字架に戻らせたのです。


国家と宗教はもちろんのこと、個々の人々、つまりこの地のどんな誰もがイエス様を歓迎する者がなかったため、イエス様を送り出された神様は悲しみを感じられたのです。そのため、その悲しみが国家の悲しみ、教派の悲しみ、そして各個人の悲しみにとどまり、今もなお受け継がれていることを心に留めておかねばなりません。


では、今日、イエス様を信じる私たちの信仰はどのようにすればよいでしょうか?私たちはイスラエル民族やユダヤ教徒が犯した罪を個人的に、宗派的に、国家的に、そして世界的に償わなければなりません。私たちはこの運命に置かれているのです。私たちの先祖たちも歴史の過程を経てこの罪の清算をし、出てきたのです。


喜びの歴史となるべき人類の歴史は、イスラエル民族の不信仰によって悲しみの歴史となってしまったのです。イスラエル民族がそのような不信仰の道を歩んだために、今日、神を信じ、イエス様に従って進んできたクリスチャンたちもその道を歩んできたことを理解しなければなりません。


そして、世界人類を代表する霊的なイスラエルの責任がある皆さんも、この清算の道を歩むべきであり、また皆さんは孤独な道、十字架の道、死の道を避けて通ることはできないのです。だからこそ、キリスト教が他の宗教を信じる民族にその教義を伝え、キリスト教の信仰を築こうとする時、必ず血の祭壇を積む必要があったのです。要するに、キリスト教の歴史は苦難と迫害の中で進んできた殉教の歴史でした。そのような殉教の道が個人を通り、家庭、民族、そして世界にまで拡大し続けています。


キリスト教を中心に闘争の道を進みながらも、こうして倒れたりころがったりしながらも、歪んで乱れながらも希望を抱き、神の意志を捨てずに追い、神の意志と一致する道を歩んできた聖なる者たちが皆さんの先祖の中に多くいたことを忘れてはなりません。


元々、イスラエル民族がイエス・キリストを迎えるようになったのは、その民族が優れていたからでも、ユダヤ教団の努力の結果でもありません。それは4千年間の歴史の過程で、国を代表して天を畏れ、天の意志を受け入れてきた数多くの聖なる先達がいたからでした。しかし、イスラエル民族とユダヤ教はこの事実を忘れ、天の意志を立てることができなかったのです。そのためイエス・キリストの怨みがこの地に表れることとなりました。


したがって、主を信じている私たちが、逆境の道を経て世界的にこの怨みを清算し、栄光の日を迎えるためには、どのような立場に立っているのでしょうか?私たちは2,000年前に主を迎えるために選ばれたイスラエル民族とユダヤ教団、そして世界的な霊的なイスラエルを代表する立場にいます。これを皆さんは覚えておく必要があります。


今、私たちはイスラエル民族とユダヤ教団が責任を果たさなかった怨みを清算するために、対抗する民族と戦い、反対する教団と戦うイエス様の兵法となるべきです。


もしもイスラエル民族が神の意志を立てようとするイエス・キリストを知り、彼を十字架の死の道に送り出そうとするカイザール派と対抗し、国家的な闘争を経てこれを阻止できたなら、どうだったでしょうか?その時神の意志は実現していたでしょう。神はこのような国家的な勝利の期待をもたらし、今まで戦ってきた困難を我慢しながらいる世界を代表するどのような民族かを望まれています。


しかし、なぜ神とイエスと聖霊は戦わなければならなかったのでしょうか?平和のイエス様であり、平和の聖霊であり、平和の父でなかったのでしょうか!それは6,000年にわたりこの地で悪の支配を拡大してきた数え切れない悪魔たちから人間を守り、悪の歴史を終結させるためでした。皆さんは神とイエスと聖霊のこの苦悩を知らなければなりません。


それでは慈悲深い神、愛の神とは誰に該当する言葉でしょうか?それは悪魔たちではなく、天上の息子や娘に該当する言葉です。神は人を愛し、罪を愛するものではありません。これを皆さんは確実に知っておかねばなりません。また、悪魔が存在する場所では神の理想を崇拝することができず、そこには天国が存在することはないと知らなければなりません。


イスラエル民族の前に現れたイエス・キリスト様は、十字架に戻られる際も誰も責めませんでした。なぜならば、自分が死んでも世界を救える道が開かれることを知っていたからです。


イエス様は言い知れぬ苦痛を受けたため、その分だけイスラエル民族に対して恨むことができました。しかし、自分に逆らっている群衆からは、彼は何を感じたでしょうか?それは4,000年間にわたり天命を果たして来られた神の苦労を感じ、神の意志が実現するあの一日を迎えるために多くの聖なる先達が血の祭壇を掃除してきたことを感じたからであり、彼らを恨むことはありませんでした。


イエス様が十字架に戻られる際、ご自身を十字架に差し出したイスラエル民族に対して、天に裁きを訴えることもできましたが、神様はご自身が苦労なさった霊的な歴史を振り返り、つまり、人々が神が立てられた者に対抗しようとしても、サタンと分かれた場所にいる時は天がそれらを許し、ご自身もそれらを許す余地があったからです。


歴史的に見れば、神に対抗する者が裁きを免れて喜ぶ場面があったかもしれませんが、天が裁きをしなかったのは、彼らを許し、預言者が代わりに歴史を担い、神の計画を担い、天を代わりにして悲しむ心を持って彼らを許す人々がいたからです。


それでは、私たちが主の栄光を受けるためにはどのような立場に立っていなければならないでしょうか?イエス様の事情と通じることができ、イエス様を立てて6,000年間神が苦労なさった足跡をたどり、天の前に立てる余地を持っていなければなりません。そして、「この地が罪の地であるとしても、あなたが6,000年間苦労なさった血の足跡があることを見て、天よ、裁きの鞭を堪えてください」と言える立場にならなければなりません。そういった立場になるときに、民族的な思想、世界的な思想を継承できるでしょう。


皆さんは一人で存在できないことを知らなければなりません。どんな形や内容であれ、他の人々との関係を持ちながら生きています。したがって、どの社会や国であっても、その社会、国に属する各個人の行動が全体に影響を与えることになります。良い行動は良い影響を与え、悪い行動は悪い影響を与えるものです。ですから今日皆さんは自分を中心に考えることから脱却し、神の理想的な世界、霊的なイスラエルの理想を実現し、それを実際に生きることを考えなければなりません。


皆さんはこれまで希望の日を追い求めながら努力し、戦ってきた神様の伝統を忘れてはなりません。また、霊的な伝統、歴史的な伝統、種族的な伝統を築いていくことができるようになるべきです。


イスラエル民族がこれを達成していれば、その時「イエス」という名前一つで、一つの「メシア」という名前でイスラエル全体に変革が起こったでしょう。


イエス様がベツレヘムの小屋で生まれるとき、東方の三博士たちはユダヤ教を信じる人々ではなく、その時代の占い師たちでしたが、彼らがエルサレムに来て「新しく生まれたユダヤの王はどこにいるか」と尋ねると、エルサレムの人々は騒然となったことがありました。この事実を考えると、イスラエル民族は口ではメシアを期待していたが、どの時どこでメシアに出会えるのかという問題についてはあまり考えていなかったことが分かります。


今日、私たちもこのような過ちを簡単に犯してしまいます。天が送り出す者や天命がどんな時でどこに現れても、それを不信せずに受け入れることは簡単ではありません。


イスラエル民族は現実に起こる全ての事実や歴史的な出来事を外面的に見て批判することは知っていましたが、内容は知りませんでした。つまり、見ることは知っていたが、味は知らなかったということです。今日、皆さんも同じような信仰生活をしてはいけません。イエス様を信じることだけ知っていて、彼の心を知らないでいてはいけません。皆さんがイエス様を高く評価することは知っていても、イエス様が卑しい場所で神の意志を持ち続けた方であったことをよく知りません。


今度は私たちは過去にイスラエル民族が犯した歴史的な過ちを繰り返してはいけません。イエス様を失ったイスラエル民族を代わりにして再び栄光の日を迎えるとき、皆さんはイスラエル民族とどのような違いを持ってその日を迎えるべきか考えなければなりません。


神の意志を中心にしたイエス様の歩みを見ると、使徒に挙げられて多くの人々がイエス様に従いました。喜ぶ時に従っていた群衆もいれば、悲しい時に従っていた人もいれば、再出発する時にイエス様に従っていた人もいました。中でも特に喜ぶ時にイエス様を歓迎した人が多かったです。


五餠二魚で5千人を食べさせ、歴史的な新しい事実を提示して国民の心を動かす時、多くの群衆が彼に取り囲まれ、彼に従いました。しかし、長い間困難に耐えながらイエス様に従っていた群衆がどうして前進する歴史の過程で周囲の環境を乗り越えられずに途中で倒れるようになったのか?これはイスラエル民族がカナンの地に向けて進む際、モーセを不信仰だと感じたその歴史的な瞬間を繰り返した結果だということを皆さんは知るべきです。


モーセがイスラエル民族をカナンの地に導く際、彼が望んでいた目的地と、彼が立てた標準が国民の望みや国民の標準と異なっていたことでした。神の意志を確立しようとしたモーセは、彼が追求する目的地が明確で、方向が明確で、1年後または10年後のことを見越して生きる道を考え、その目的を達成するために実践していましたが、それに対抗してイスラエル民族はそうではありませんでした。その結果、モーセから離れてしまったのです。


イスラエル民族はもともとアブラハムから400年の歴史を経て栄光の一日を迎える許可を得た国民であったにも関わらず、栄光のその一日を迎えずに荒野で倒れたのです。同様にイエス様が来たときも、イエス様は進むべき目標と方向をはっきりさせ、10年または20年先を見据えて神の意志を人間の生活範囲内で実現するための環境を整えようと努力しましたが、イスラエル民族はそうではありませんでした。


彼らが指向し、目指していた方向や目的がイエス様と異なり、彼らの生活が永遠を目指す神聖な意志とも異なっていたため、彼らは良い時はイエス様を歓迎しましたが、自分たちにとって不利な状況になるとためらわずにイエス様を避けたのです。つまり、彼らは条件付きの目標を設定し、条件付きの方向を定めて生きていたということです。イエス様の前で反感を抱き、十字架に掛かるイエス様を嘲笑し、またイエス様の死を急がせたイスラエル民族は、モーセを裏切り、金の子牛を作ってそれを崇拝した不信心の行動を繰り返したのです。だからこそ、モーセがカナンの地で幸福を楽しむことができる目の前でさえ、荒野で40年間さまよわなければならなかったように、イエス様もまた2000年間、世界的なカナンの福祉の理想を見据えながらさまよわなければならなかったのです。これと同じような悔恨を抱いているイエス様であることを皆さんは知らなければなりません。


それではなぜイスラエル民族がイエス様を不信仰とみなしたのでしょうか?それは彼らがイエス様が神を代わっているということを知らなかったからです。また、神の計画を達成するために来られた方であること、天に至る道をまっすぐに導いてくれるイエス様であることを知らなかったし、個人だけでなく世界を代表し、国を代表し、そして自分たちの永遠の命まで責任を持つ方であることを彼らは知りませんでした。


もしイスラエル民族がイエス様が彼らの命を救ってくださるために来られたことを知っていたなら、自分の命を捨てる覚悟があったとしても彼に従わなければならず、国のために来られた方だと知っていたなら、国を捨ててでも彼に従わなければならず、教会や世界のために来られた方だと知っていたなら、教会や世界を捨ててでも彼に従わなければなりませんでした。しかし、イスラエル民族はこのようなイエス様の価値を知らずに不信仰となり、その後、長い間断絶の道をたどってきたのです。


蒔いたまま刈り取られるのが天理の原則です。そのため、キリスト教の歴史が始まった時から蒔かれたものもそのまま収穫の日が必ず来るでしょう。このようにキリスト教の歴史上に蒔かれたすべてがそのまま収穫される日が終わりであり、栄光の一日を迎える日が終わりであることを皆さんは覚えておかなければなりません。


これで皆さんはイスラエル民族がイエス様を裏切ったような立場に立ってはいけません。皆さんが望んでいる信仰の方向や目標、そして皆さんの生活環境は、6000年間神が計画された神聖な意志にふさわしくなければなりません。そして、イエスと聖霊が促しているその方向に合致しなければなりません。


皆さん自身がここで一致できるかどうか、そうでないかが問題です。イエス様が来られるか否かは問題ではありません。彼を迎える準備をしている皆さん自体が問題です。皆さんは信仰生活をして幸福になりたいですか?


しかし、皆さんは行くべき道を終え、戦わなければ幸福は訪れないことを知らなければなりません。ですから、イエス様が十字架の死の道を経て復活されたように、皆さんも困難で辛い道を経て初めて希望の日、復活の日、喜びの日を迎えることができることを知らなければなりません。イエス様も「自分の命を保全しようとする者はそれを失い、失う者はそれを保って生かされる。」(ルカ 17:33)と言われていました。


昔、イスラエルの民が神との約束を破り、バアルに仕えるようになったとき、エリヤが主の前に出て自分を殺してくれるよう懇願したところ、「ただ一人残らず私を拝まない7,000人の者が残っている」と主がおっしゃった出来事があります。


同様に今の教会も信仰の中心が揺れ動いており、混沌として進む方向が見いだせない中で、このような状況に置かれている皆さんは、エリヤが国を担ぎ、主に訴えた心情と通じなければなりません。また、荒野に出たイスラエル民が食べ物がなく、進む方向を見つけられずに40年間さまよった時、シナイ山に登って40日40夜を断食し、主に訴えたモーセの心情とも通じなければなりません。


モーセの祈りは彼自身の栄光のためではありませんでした。モーセは神が自分をこの地に送られたのが自分のためではなく、国と世界のために送られたことを誰よりもよく知っていたからです。今、世界的なカナンの福祉を見据えて進む私たちも、このようなモーセの心情を受け継がなければならない特異なイスラエルの民としての役割を自覚しながら前進する時が来ました。


今日、この言葉を聞いた皆さん、今度は第三者の立場から皆さんの信仰生活を一度批判してみてください。皆さんはいつかイエス様のように国のために悲しんだことがありますか?一度でもイエス様のように祈ったことがありますか?また、ユダミン族が思う存分寝て遊んでいる時でさえも、国のために40日40夜祈りながら知らぬ間に涙で膝を打ったモーセのように国のために涙の祭壇を築いたことがありますか?


今日のキリスト教を中心にし、様々な形の文化を持つようになったのも、現在の人々が上手くやっているからではありません。多くの聖徒たちは死を覚悟して孤独で険しい坂道を歩んできたからです。そして、小屋や穴のような寂しい場所でも孤独を克服し、罪と戦ってきたからです。そして、絶え間なく神に涙で祈り続けたからです。


今、人類は新しい目標に向かって前進しなければならない時期にあります。ですから人々は新しい目標を見つける必要があります。昔のイスラエルの民や彼らの指導者であった祭司たちのように、安楽な場所で自分たちの利益だけを追求したり、信仰を利用しようとしてはいけません。


今がイエス様がゴルゴダの十字架を前にしてゲツセマネの園に独りで神と交渉の祈りをされていた難しい時期と同じ時期です。また、モーセがイスラエルの60万の大衆を代わりにシナイ山に登り、命を賭けて40日40夜熱心に祈った時と同じように、国と世界のために熱心に祈るべき時です。そして終わりには、このような使命を担う神の子女がたくさん現れなければなりません。もし本当にそうした人がいるなら、モーセの時の12部族や70長老、イエス様の時の12使徒が問題ではないということです。


実際には、自分たちの状況を全て捨て去り、シナイ山で40日40夜の断食祈りをしていたモーセを取り巻き、彼と共に神に嘆願したイスラエルの民がいたなら、彼らには40年の怨みに苦しむ荒野の時期はなかったでしょう。また、祈られるイエス様を見つめてイエス様と同じ気持ちで共に涙を流せる使徒がいたなら、苦難の2000年もなかったでしょう。


しかし、私たちの先祖たちはこれを成し遂げませんでした。しかし、先祖たちの歴史的な誤りを許せる私たちであり、神が望まれる幸福の楽園に戻らなければなりません。そのためには、皆さんは故郷の目的地に辿り着ける正しい道を見つけなければなりません。モーセがシナイ山に祈りに行く時、彼を追うイスラエルの民に「私があなたがたのために祈りに行く。」と教えませんでした。また、イエス・キリストが孤独な場所で深い祈りをする時、誰にも教えず、ペテロ、ヨハネ、ヤコブなどの弟子たちにも教えませんでした。今でもそのような時期なのです。


なぜなら人間の祖先が神を裏切り、神を裏切った条件があるからです。したがって、私たち後継者には神が認められない時、神が認められる唯一の条件を設けなければならないという神聖な宿命にあります。これは歴史的な進展を経てよくあることであり、終わりの時代にあたる幾度となくこれが起きることを皆さんは知っておかなければなりません。


イエス様は自らを超越した場所で民族や世界、神のために語ったにもかかわらず、使徒以下イエス様を追ったすべての聖徒たちはイエス様の言葉が彼らだけのための言葉だと思い、イエス様が良いことをしても自分だけのためにすると思い、イエス様が卑しい場所に入っても自分のためにそうすると思いました。そのような信仰を持つ群れだったため、神は彼らを根本的に許容できなかったのです。ここで彼らが神と分かれることを皆さんは知っておかなければなりません。


それでは、終わりの時代に直面する今、栄光の日を求めて前進しなければならない皆さんは、今後どのような立場に立つべきでしょうか? 皆さんは何よりもイエス様の心情と共感できる自分であるべきです。皆さん一人ひとりがこのような個人的な生活環境を築かなければならず、さらにはこれが世界と宇宙全体を代表できる基盤的な環境になるようにしなければなりません。皆さん一人ひとりがそのような環境を築くと、それがまとまり、世界的なイスラエルの生活環境が形成されていくでしょう。


今日ここに参加している皆さん!現在、皆さんは神を信じ、従っている目的をどこに置いていますか?今、この時間、これについて一度自分に問いかけてみてください。皆さんはもしかして神を利用して、自分だけを立て、自分だけの幸福を求める心を持っていませんか?それではいけません。皆さんは自分を超えて神に信仰の目的を持たなければなりません。


イエス様は喜ばれる時でさえも神のために心配の心を持たれましたが、彼を追う群衆はそのような喜びが拡大されるにつれて、この地上で彼らが望んだものを達成し、彼らの地上の命令が成就されることを望む心でイエス様を歓迎しました。真に神を心配した人はイエス様しかいなかったというのが事実です。今日のキリスト教徒もそのような立場に立つと、未来が閉ざされてしまいます。また、そのような方法で信仰生活をする宗教があれば、彼らも同様です。


それではイエス様が進んだ道はどのような道でしょうか? 先ほど述べたように、イエス様は自分を捨て、喜びの時でさえ自分の喜びと考えないで、全てを神のものに返す道を進まれました。


したがって、これから皆さんはイエス様が喜ばれる時でさえ、喜べる自分たちでなければなりません。自分を中心にし、喜ぶことではなく、神とイエス様を中心にし、喜ぶべきです。また、自分に都合の良い目的を立てるのではなく、ただ神に都合の良い目的を立てることを知る皆さんでなければなりません。そうでなければ、イエス様と私たちは別れることになります。モーセとイスラエルの民が別れ、ヨシュアとカレブからイスラエルの民が別れたのと同じく、また今日の聖書の言葉の通り、羊と山羊に分かれることになります。


しかし、最初にカインとアベルが分かれた場所は2人ではなく1つでした。それは世界から分かれたのではなく、一人の個人から分かれたものでした。最後の審判の時も天から審判の行為があるのではなく、地上から人間を中心にして善悪が分かれることです。皆さん自身も心が二分されることを感じるでしょう。つまり、天運を立てようとする心と、自分を中心にした人間的な目的を達成しようとする二つの心で分かれることを感じるでしょう。これを見ると私たちの心が善悪の分岐点であることがわかります。


それでは、今日この場に参加している皆さん!私たちはすでに一つの希望に向かってどんな逆境も貫き通す覚悟を持って立ち上がりました。ですから、これからは私たちは喜びが心に生まれたらその喜びを国家と神に結びつけ、また望ましい出来事が生まれたら私たちの個体だけで終わる希望にならず、その希望を国家と世界に結びつけなければなりません。


イエス様が喜ばれる時に私たちも一緒に喜び、イエス様が苦しまれる時にはイエス様を慰めて差し上げれば、イエス様も私たちと一緒におられるようになります。そしてその時、私たちは神と向き合えるようになるのです。そのような人でなければ、父と子と聖霊が慈悲深く見守ることができず、また父と子と聖霊が慈悲深く見守ることができなければ、復活の歴史は起こり得ないことを皆さんは知らなければなりません。


帰られたイエス様を神様が復活させることができたのは、イエス様が神の御心を立てるために自分の命すら捨てることができたからであり、天運のために自分の生を捨てたその事実が神の復活の手を受けるための基準に達したからです。皆さんも復活の栄光を望むならば、自ら復活の基準を立てなければなりません。


皆さんはこれまでどのような基準を立てて生きてきましたか?復活の基準を立ててきましたか?おそらくほとんどの人がそうでないかもしれません。ですから、これからは自分が進むべき目標と方向を明確に設定し、生きていかなければなりません。


もし歴史上のどんな人間が立てた基準よりも強く、皆さんを刺激する一つの基準を立てられないなら、最初から意志に従って進んだとしても、やがては振り落とされていくでしょう。それでは振り落とされたらどうなるでしょうか?イエス様の前で旗を掲げて彼を殺すのに先導した者たちと同じ人にならないと誰が断言できるでしょうか?


この場に集まった皆さん、今皆さん自身が進むべき目標が天運を立てることであり、天と地を愛することであり、人運を立てることだという事実を知ったなら、皆さんはこの地のどの不利な条件が妨げるだろうと言われようとも、どなたが「いいえ」と言おうともこれを撃退できる信念を持たなければなりません。最初からこの方向に進むことができなければ、統一教徒はイエス様の友達になることはできません。しかし、当時イエス様と同じ心情で、イエス様を代わってイエス様を追う群衆を導かなければならなかった使徒たちはどうでしたか?


彼らもイエス様と同じ心情を持っていませんでした。イエス様を追う群衆が多くなるほど、彼らは自分たちの栄光の範囲が広がるものと考え、彼らにはその分だけ自分たちが気に入られる範囲が広がるものと思い込み、ますます日が経つにつれて、彼らには話す相手がいなくなっていったのです。


彼らのそのような行動はイエス様にとっては計り知れないほどの悲しみとなりましたが、逆にサタンの側にとっては歓びの条件となりました。言い換えれば、彼らは根本的には善悪の判別の歴史、審判の歴史を起こすことができなかったということです。皆さんも同様にしてはいけません。信じる者の数が多いか少ないかが問題ではありません。


世界的な最後の審判を前にしている今、多くの人々と国々を代表して、どんなに困難な状況であっても、孤独な場面であっても、天の御心を持ち、「ハレルヤ、アーメン」と言える真の人が立つべきです。これが問題です。このような信仰を持つ人でなければ、神の栄光を示し、復活の実体となることはできません。


天の御心に進む道は、一人で天の栄光や生命の価値を楽しもうとしてはいけません。自分を中心にし、他人を非難し、他人に害を与えるような行動が堕落をもたらしたのです。


それでは、これからの栄光を望むこの時に、皆さんはどのような位置にいますか?神様は今言うことができないほど悲しい気持ちでため息と嘆きに包まれておられます。しかし、皆さんはもしかしたらそのような神様とは違い、快適な場所から自分だけを楽しもうとしていませんか?もし今日でもそのような人がいれば、彼らはモーセを失ったイスラエルの民やイエス様を裏切った群衆と同じように哀れな立場になるでしょう。この事実を確実に理解しなければなりません。


天の御心を達成するために進む人であっても、彼が自分の喜びのための行動をすると、山羊と羊に分かれる最後の分岐点で山羊の側に立つことになります。


それでは栄光の場に参加できる人はどのような人でしょうか?イエス様と心情一致を成し遂げた人でしょう。もしも2000年前にイエス様が悲しまれる時、同じように悲しんでイエス様が喜ばれる時、同じように喜べる聖徒たちがいたなら、イエス様はそれによってますます喜ばれ、天運のすべての御心を彼らの前に示され、永遠の勝利が彼らに授けられたでしょう。


しかし、イエス様を追う群衆が増えても、信じてあなたのすべてを預けられる人がいなくて言い表せないほど孤独で悲しい気持ちだったにもかかわらず、イエス様を追っていた群衆はそのようなイエス様の気持ちを知らなかったのです。終わりの日にもこのような信仰生活をする人々がいるでしょう。


神を信じ、従う人であっても、神の悩みを無視して自分の安楽だけを追求する人は、神が必要とする人ではありません。そのような6, 7千の群れよりも、真に神が必要とする一人がもっと必要です。


イエス様がゲツセマネの庭で悪と戦いながら、神の御心を達成するために神の優しい心情で訴えられる時、人々はイエス様よりも3倍以上優しい心情を持って訴えなければなりませんでした。しかし、ペテロ、ヨハネ、ヤコブはその3分の1も感じようとしませんでした。ここにいる皆さんは、そのような人になってはいけません。


イエス様が一つの苦労をすれば、皆さんはその3倍以上の苦労をしなければならず、天を代表する者が一つの苦労をすれば、皆さんはその3倍以上の苦労をしなければなりません。また、天を代わる者が一つを憂い、一つだけの苦しみを受ければ、皆さんはその3倍以上の憂いをし、3倍以上の苦しみを受けなければなりません。しかし当時のイエスを追いかけた群れはイエスの3分の1も苦労しないようにしました。


今日、ここに集まった皆さん、本当に統一教会を追いかけたいですか? それなら、皆さんは統一教会を指導している文という人がどんな苦労を感じている時、皆さんも3倍以上の苦労を感じながら天の御心を立てるための防波堤にならなければなりません。


しかし、そのような人になるどころか、自分だけが快適な場所にいたいとするこのような集団が沸き立つ時は、モーセに従っていたイスラエル民族が荒野で死体の山を残したことと同様に、死に導くサタンが侵入することでしょう。


歴史の終わりに迎えるこの時、皆さんは6千年の怨みを抱えたサタンに向かって、「どうしてお前の権威を誇示させようか!」と叫びながら、血みどろのサタンと戦い、勝利の実績を神に示して、宇宙全体に希望が湧く栄光の息子娘にならなければなりません。そうでなく、「ちょうど適当に乗り切ればいいだろう」と考えるべきではありません。


皆さん自身はよく分からないかもしれませんが、今日私たちは深刻な場に立っています。私たちが進む道が真実だとするなら、私たちは深刻な覚悟をしなければなりません。それは私たちの覚悟の差によって結果が変わるためです。


アダムとヘバが堕落した時には、神様が創造主として責任を取り、救い出してくださらなければなりませんでしたので、何とか希望をかけることができましたが、栄光の主が再び来られる終わりの日には、人々が責任を果たせなければ再び救いの働きができないのです。ですから、もし私たちが救いの働きを完結させなければ、昔のアダムとヘバが堕落した以上の怨みが残ることになります。


これらの恐れ多い瞬間に直面する私たちは、もし私たちが神の心情と天の計画を理解し、神によって認められる立場にあるなら、神の心情を代弁できるかもしれませんが、できない場合は自分で謙虚な立場に立たなければなりません。イエス様は神の御心をご存じでありながら謙虚でした。神の御心を知らない者が謙虚でなければなりません。もしもそのような人がいれば、彼は死の淵に堕ちるでしょう。


2千年前、イエス様に従っていたペテロや12使徒、そして多くの群衆は、彼らが喜んでいる時にもイエス様の悲しい心情を理解していませんでした。ですから今日、皆さんはそのような立場に立たないことを誓わなければなりません。皆さん、そのような心情を持って父なる神を呼び求めてください。父なる神は生きておられるので、応答してくださるでしょう。また、皆さんがそのような心情で地球のために真心を尽くせば、皆さんは神の側に移動するでしょう。


今、皆さんはイエス様がこの地に残されたすべての怨みを解決し、イエス様を死んだ犠牲ではなく、栄光の贖いの犠牲として地上楽園を築く二重、三重の責任を負っていることを理解する必要があります。


しかし、なぜイエス様が帰られたのでしょうか? イエス様はこの世に対する執着心がなかったから帰られたのではありません。イエス様はどなたよりもこの地を愛され、認められていた方でした。しかし、あなたにしかできない天の計画があることを知っていたため、人とは異なる方向に進み、結局は十字架の道を歩まれたのです。イエス様は彼らが喜ぶ時に一緒に喜ぶことができず、彼らと同じ道を歩むことができず、自分の悲しみを表現できませんでした。これがイエス様が行かれた道と人が歩む道が異なっていた理由です。


今、私たちが最後の栄光の日を見据えて天の前に立ち、「私をすべてのものの上に立ててください!」と要求できるようになるには、どのような道を進まなければならないでしょうか? 要するに、死の道を通らなければなりません。これが天に通じる唯一の正統な道であるためです。イエス様が歩かれたこのような道を皆さんも歩む必要があります。


イエス様はゴルゴダの十字架の道をたった一日だけ歩いたのではありませんでした。イエス様は神の御心を見据えて30年以上にわたり、一貫して十字架の基準を立て、戦ってきた方でした。そして数日だけで十字架の死を覚悟したわけではありません。30年以上の生涯を通じて4千年の救済歴史を担当した立場から、「良ければこうなり、悪ければこうなります」と予測しながら、一日たりともゴルゴダの悲しい心情を超えて生きたことがなかったということを皆さんは理解すべきです。


このような準備の土台があったから、イエス様は愛する弟子、国民、教会を全て後に置き、自らを犠牲にして十字架の道を歩むことができました。


今、皆さんはイエス様が生涯を通じて築かれたゴルゴダの勝利の条件を、皆さんの生活で感じ取らなければなりません。そうでなければ、皆さんはイエス様の後を追いながら、イエス様が多くの人々に拒絶と非難を受けながら十字架を背負って死の道を歩まれる時、顔を背けた弟子たちと同じ境遇になるでしょう。また、数多くの群衆がイエス様に従っていたにもかかわらず、死を覚悟して従う者がいなかったことを皆さんは思い起こさなければなりません。


イエス様はあなたの代わりに十字架を負い、あなたの代わりに鞭で打たれ、あなたの代わりに苦しみを受けながら、ゴルゴダの死の道で「父よ!」と叫ぶ切ない声が聞こえることを願っていました。 3年、または30年にわたり、このような声が聞こえることを願ったが、その願いが消え去る時、イエス様の心情はどうだったでしょうか。


このようなイエス様の心情を皆さんは知らなければなりません。イエス様の苦しみを理解し、その苦しみに同情しなければなりません。また、自分自身も全世界のすべての人のために、このような死の道、何度も死ぬ道を進むことがふさわしいと思う心を持たなければなりません。


さらに、皆さんが知っておくべきことは、イエス様が十字架を背負ってゴルゴダに向かう途中、非常に疲れ果てた時、その十字架を代わりに負って行ったシモンのような人がイエス様の弟子たちの中には一人もいなかったということです。選ばれたイスラエルの民の中にもそのような人はいませんでした。こうして異邦人であるシモンだけがイエス様の苦悩に共感したため、キリスト教はイスラエルの宗教にならず、異邦の宗教となったのです。


今日、イエス様を信じて神を求めて進むと宣言する皆さん、皆さんは夢でもシモンのような行動をしようとする決意が立っていなければなりません。シモンは弁明することもでき、反論することもできましたが、黙々と従順してイエス様の代わりに十字架を背負って行きました。今日、皆さんも同じような人物にならなければなりません。


イエス様がそれを見守る中での心情はどうだったでしょうか?3年間喜びと共に歩んできた使徒たちはどこにもいなく、思いも寄らなかった異邦のシモンがあなたを代わって惨めな立場に立つ時、イエス様の心は恥ずかしさが大きかったでしょうし、悲しみに悲しみを加えたでしょう。 もしこれらの使徒たちの中にでもイエス様の十字架を代わりに背負う人がいたなら、イエス様はその人を見つめて死の苦しみを忘れ、逆に共感しながらあなたの苦しみに打ち勝つことができたでしょう。しかし、そうではなく、イエス様は悲しみに悲しみを加えることになりました。これらの事情を皆さんは理解しなければなりません。


今日のキリスト教界においても、グレネタシモンのような教団が現れなければなりません。どの教団がこの責任を引き受けるでしょうか?彼らが追随していた使徒たちのイエスはならず、異邦人のグレネタシモンのイエスになったことを今日のクリスチャンたちは自覚しなければなりません。だからこそ、グレネタシモンのような教会を創り上げなければならないのです。


皆さんは、イエス様が受けた十字架の苦しみの状況と、苦悩の感情的な同伴者となり、彼の生涯と同じように永遠の意志と神聖な目的を達成するために、たとえ独りでも神の前で「父」と呼ぶことのできる子供にならなければなりません。こうして苦しみの主と共にする者となり、再出発の復活の主と共にする者とならなければなりません。


十字架に戻られた後、3日間でよみがえられたイエス様は、かわいそうな方でした。3年間歓喜と共に過ごし、熱心な気持ちで戻ること3日で復活することを教えたにもかかわらず、弟子たちはその言葉を忘れてどこかへ消えていったのです。イエス様が復活される際、墓を守っていた弟子たちは一人もおらず、かえって敵対的なローマの兵士が守っていたので、何があったのだろうということです。今日のキリスト教も、イエス様の墓を守りきれず、ローマの兵士のような敵がイエス様の墓を守る場合が多いことを指しています。


ローマの兵士が囲んでイエス様の墓を望む群衆がこの地にはいないのか!当時はそんな群衆はいなかったかもしれませんが、今日では私たちの信者たちの中にも多くのこのような群衆が出なければなりません。


では、最後にイエス様に会えた人物は誰でしたか?イエス様を放置し、彼を失い、好き勝手に散り散りになってしまった人はイエス様に会うことはありませんでした。イエス様が最初に会った人は誰でしたか?イエス様を放置し、彼を失い、山里で迷子になっていた人が最初に会ったのは誰でしたか?それはイエス様を見つけるために3日間食事を取らず、自分の体の置き場所さえわからずさまよっていた人たちでした。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメなどが該当します。


国の反逆者、国の反逆者として帰られたイエス様を懐かしく思い、3日間涙を流し、我慢できずに訪れた彼らは、最初によみがえられたイエス様に会ったのです。これは終わりの聖徒たちがどのように行動すべきかを示しているものです。


今日、皆さんはイエスの墓を求めて苦しむべき終末の時代であることを理解すべきです。復活の主に会うべきイスラエルの民を代わりにして墓を求めて苦しんでいた女性たちが、最初に復活の主に会ったように、今日、世界的な復活の主が現れる時、眠りたくても寝ず、休みたくても休まず、言葉にできない切ない気持ちで山や野をさまよい、天に向かって悲しい涙を流す人が再び来られる主を最初に迎えることができるのです。


イエス様が十字架に戻られたことに対して、弟子たちも悲しむことはなかったが、思いがけず使徒たちではなく無名の三人の女性がイエス様の帰りを悲しんで同情の涙を流し、イエス様の墓を探し回ったのです。このような行動が復活の主に最初に会わせたが、同様に終末にもこのような現象が起こるでしょう。


皆さんがもし自分の生命を超えて、自分の民族と世界中の人々の生命のために夜も寝ず、心を痛める生活をしているならば、この世に再び訪れる栄光の主は必ず皆さんを訪れ、皆さんは思いも寄らぬ状況で主を迎える栄光を味わうことでしょう。これがいずれ起こるでしょうことを皆さんは知るべきです。


それから、次にイエス様が現れたのは誰でしょうか?エマオへ向かう二人の人々に現れました。彼らは使徒ではありませんでした。彼らはイエルサレムで三人の女性がイエス様の復活を証言する時一緒にいた人々で、イエス様が戻られたことを心から残念に思い話すことができたのは、イエス様の事情を他の誰よりも理解し、イエス様の悲しい心情と通じる心を持っていたからです。そのため、イエス様は彼らに現れたのです。そしてイエス様が彼らに現れたのは、彼らが使徒たちにイエス様の復活を証明するためでした。


皆さんがもし異次元の喜び、終末の世界的な新しい栄光の日を迎えたいのであれば、皆さんは悲しむイエス様の心情、涙するイエス様の生涯を心配し、悲しい心で天に向かって身をもがいて進むことができなければなりません。


しかし、これらの行動や考えがなく、ただ座っていて主の栄光を期待する人がいますか?もしそうであれば、その人は直ちに偽キリストであり、偽預言者です。弟子たちがイエスの前に偽キリストの立場に立つことが誰が知っていたでしょうか?


また、選ばれたイスラエルの民とユダヤ教徒が反キリストになるだろうと誰が知っていたでしょうか?終末にもこれを心配しなければなりません。皆さん自身を置いて、もしかしたら反キリストの立場に立っていないかを心配しなければなりません。今は他人を非難し、他人のことに干渉するときではありません。問題は他人ではなく、自分自身です。教団が問題ではありません。終末に自分がサタンになるかもしれないと心配しなければなりません。今まで他人を問題視してきた人は、結局は自分を失ってしまう歴史の流れを経てきました。


皆さんは新しいエデンの理想的な園から、宇宙全体が望む栄光の復活を喜びと共に迎えたいですか?そのならば、イエス様の気持ちを感じながら共に涙を流し、共に責任を持たなければなりません。そのような人だからこそ、栄光の復活を受けることができます。今は終末が近づいている時です。


そのため、一定の霊的な基準に到達した人々は、熱望を感じています。恵みを受けても喜ばず、不義の経験にも満足しません。そのため人々は教会を飛び出そうとしているのです。どれだけ柵を建てても教会の外に出ないように言っても止めることはできません。この中で自分を見つけ出す難しい時です。


したがって、教会を代表でき、民族と世界、そして天の意志を代表できる真の子女が現れなければ、サタンの陰謀を打破することはできません。そのような姿勢を備え、歴史的な闘争で勝者となり、敵の罪まで引き受け、ゲツセマネの園で一人で祈っていたイエス様を代わる皆さんにならなければなりません。そのような皆さんならば、たとえ死の道であってもその道を進めば復活できるのです。


しかし、逆に自分の利益のために苦難を避けて快適な道を選ぶ人々は、それが復活の道であると知りながらも最終的には死に至ることでしょう。これを心に留めておかなければなりません。


皆さんは今や神の御心を達成するために、イエス様を死んだ犠牲ではなく、山の産物として神に献げる勝利の条件を立てなければなりません。そして6千年の労苦の後、神の前で皆さんが山の産物として献げられるとき、皆さんは霊肉が復活することです。こうなると、6千年間サタンに対して恨みを抱いてきた神の苦しみと悲しみを終結させる美しい仕事をすることができ、全宇宙の前、またはサタンの前、または数々の聖徒の前、天使軍の前で誇り高く立てるようになり、永遠の理想的な園に入り、永遠にその園で栄光を持って生きていけるようになるのです。これを心に留める皆さんがなりたいものです。


そして、6千年間、一生懸命労働されてきた神の前で、皆さんが生ける犠牲としてささげられる時、皆さんは霊的なものと肉体が復活します。このようになれば、6千年間にわたりサタンに対する神の悔しさと悲しみを終わりにし、宇宙全体やサタン、または無数の聖徒や天使軍の前で誇り高く立て、永遠の理想郷に入り、そこで永遠に栄光を備えて生きることができます。これを心に留め、覚えていただきたいと思います。




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御言葉選集2(16,17)

2023年12月02日 16時47分08秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 2 - 16. 
天国を占める民となろう (1957年 6月 2日)
1957年 6月 2日(日), 前本部教会
聖書拝読:マタイによる福音書  21:33-46


<祈祷>
 親愛なるお父様!
一週間にわたり、様々な面で私達を導いてくださったお父様の前に、自分のすべての事情を持ってきた次第でございますので、お許しいただけますようお願い申し上げます。
 尊厳あるお父様、お辞儀するたびに自分が不足している様子を感じざるを得ないため、慈悲深いお父様、この時を通して全体を統括していただき、私達それぞれの心に常にお父様が臨んでくださり、お父様の意向に従って生きていけるように許して下さい。
 私達は、あらゆる欲望を捨て、本来の心に従い、本性の根源となる犠牲となるようお許しいただきたいと切に願っております。
 一週間にわたり、闇の罪と戦って疲れておりますので、慈悲深いお父様、お現れいただき、私達を抱えていただき、私達を戒めていただき、私達が死の領域を越えて、はっきりした目標に向かって進む事ができるようにして下さい。この仕事が喜ばれ、お父様が私達と一緒におられる事を心より願っております。
 愛するお父様! ここに集まったすべての子供達を、この時間一つ一つをお父様が統括してくださるようお願いいたします。この時間ごとにお父様が見極めてくださり、お父様が望まれない条件を除去していただき、あなたが喜ばれる様な身と心となり、あなたを拝む事ができる全体の群れとなれるように許して下さい。
 お父様!私達を呼び寄せてくださったお父様の労苦の意向の前に、私達が謙遜している事を感じておりますので、お父様、この時を慈悲深く見て下さい。あなただけが私達の友となり、あなただけが私達を信じてくださり、永遠の意向に忠誠を尽くす事ができる美しい息子娘達となるように許して下さい。
お父様! 私達を集めるためにお労しいただいたお父様の尽力の前に謙遜しておりますので、お父様、お望みのままにはっきり示して下さい。
従順な意向を実現するために努力されているお父様、私達があなたの孤独を慰める愛らしい息子娘達となるように許して下さい。すべてを一掃して、ただあなたの意向のためだけに戦い、駆け巡る事ができる息子娘達となるように許して下さい。お父様、切にお願いいたします。
今日も、この国を代表して集まっている多くの祭壇に祝福を与えて下さい。そして、この国があなたの定めた計画の前に唯一無二の心で対処できるように、喜びに満ちた祝福の御恩を急いでこの国全体と代表する多くの祭壇に現して下さい。
 そして、あなたが選ばれた国として、選ばれた宗派として、終わりの見えないこの地球の24億人の人々に委ねられた責任を果たし、それでもなお残る使命があるように許して下さい、愛するお父様、切に願っております。
私達には様々な事情がありますが、それらすべてをお父様に告げ、従順で従う事ができる犠牲の形となるように許して下さい、お父様、切に願っております。
 この一時、お父様に敬意を表したいと思いますので、三位一体が全体に働きかけ、それぞれの身体と心を統括して下さい。私達がお父様の意向に逆らわず、聖霊の感動を通してこの一時間がお父様の全体の意向の前に動く事ができるように許して下さい、お父様、切に願っております。
お父様よ!この時間、地方に広がり拝んでいる家族達にも同様に働きかけ、勝利の意向、お父様が立てた意向が喜びに満ちた祝福として実現できるように許して下さい、お父様、切に願っております。

 この一時、すべてをあなたに委ねました。三位一体が支配し、主の御名によってお祈りを捧げました。アーメン。

<御言葉>
皆さんと一緒に考える言葉の題目は「天国を占める民となろう」です。『天国を占める民となろう』というタイトルを持って、しばらくの間お話しいたします。
 腐敗した私達にとって、誰もが望む世界が天国である事を、皆さんはよくご存じです。この天国は腐敗した人間だけが望むものではありません。神様も創造以前に存在していた本来の愛を中心に、全人間と永遠の富豪の関係を結び、永遠に楽しむ事ができる、その天国の実現の時を望んでいます。これまで三位一体を通して、神様もまたこの歴史的な道のりを通じてその時を待ち望んでいる事も、皆さんもよくご存じでしょう。

 今日、私達が真に望んでいる天国、この天国は人間の願望だけでなく、神様の願望でもあります。そのため、この天国を実現できる概念は、個人を経て世界的かつ宇宙的で、天倫に適合するものでなければなりません。それによって、この天国をこの地上に築かない限り、神様の救済計画は完結できず、私達の信仰目標も完結しないものです。

したがって、この天国は人間を創造された創造主としての責任がある神様が責任を持ち、腐敗した人間達もすべてを犠牲にしてでも責任を持って求めて実現しなければならないものです。

こうした事を考えると、神様はこの天国の概念を実現し、人類を代表して誇りに思える一人がこの地上に現れる事を、長い歴史の過程を経て望まれていますが、今までこの地にその一人は現れていない事がわかります。

 そのため、創世以降今日まで神様が人間を通して探し求める天国概念は一つの個体の概念で終わるものではなく、個体の概念となると同時に世界的で宇宙的な概念として、万物が追い求める永遠の概念であるべきです。その様な概念が築かれる時を望む神様は、6千年にわたる忍耐の道、労苦の道、苦難の道を通ってこられた事を、皆さんは再び心に留めておかなければなりません。

では、神様と人間はどのように縁を結べるのでしょうか?それは天国概念を中心に縁を結べる事です。天国が築かれるその基準で人間の概念が達成され、神様の創造概念が達成されるという事です。
 したがって、アダム以降4千年の長い歴史を経て、神様が一時的に人物を立てて、全体的な神様の内面的な感情を伝え、外部の概念を通してきた一時期があったのです。

その様な中心的存在として築かれた方は、イエス・キリストでした。ですから、神様はイエス・キリストをこの地に送る前に選んで立てた洗礼ヨハネを通じて、イスラエルの人々に対して「悔い改めよ、天国は近づいた」と予告されました。しかし、その天国がどのようにして成就されるかというと、洗礼ヨハネを通してではなく、イエス・キリストを通して成就されるのです。

そのため、洗礼ヨハネには全イスラエルの民を結びつけてイエス様の前に導く責任がありました。しかし、洗礼ヨハネはその責任を果たせなかったため、彼が叫んでいた天国の概念はイエス様とは何の関係もなくなりました。そのため、洗礼ヨハネが「悔い改めよ、天国は近づいた」と叫んでいたその叫びは、当時だけの適用される天国概念で終わるものではなく、洗礼ヨハネ以降の歴史の中で、いつの時代でも洗礼ヨハネ的な使命を持つ人を通じて予告される天国の概念として残り、そのために神様の労苦の手が継続的に沸騰していなかったのです。

また、イエス・キリスト以降の2千年間、多くの預言者が神様を紹介するために尽力してきた事を忘れてはなりません。洗礼ヨハネは「悔い改めよ、天国は近づいた」と叫びましたが、その天国を実際に紹介し、具現化するために来られたイエス・キリストは十字架にかかってしまいました。その後も今日まで、神様と人間の永遠の希望である天国概念は、人間を通して地上と天上に築かれなかったのです。

イスラエルの人々がイエス様を失った事は、結局、洗礼ヨハネが予告していた天国概念を失った事と同時に、イスラエルの人々が直面する平凡な試練に打ち勝つための天国の主人公すらも失った結果である事を理解する必要があります。ですから、イエス様が再び来て、失われたその天国概念を取り戻し完成させなければなりません。

神様が望む天国は霊的な領域だけで成就される天国ではありません。神様が望む天国はまず地上で成就された後に、霊的な領域でも成就される天国です。人間が死んだ後に形成される霊的な体達による霊的な領域と、この地上の世界は互いに分離できないため、皆さんは勝利的な実体を備えて天国の概念を実現するためには、天倫の前に立つ事ができると同時に、人倫の前にも立つ事ができなければなりません。そして、天倫と人倫を通じて天国の概念を皆さんの生活領域を通じて示さなければなりません。

そして、その天国の概念は個人的なものだけでなく、家庭、社会、国家、世界、そして神聖な概念としても存在する必要があります。この様な天国の概念は、あなた達自身を通じて現れるべきです。そうでなければ、ヨハネが荒野で「悔い改めよ、天国は近づいた」と叫んでいたにもかかわらず、その言葉を理解しなかっただけでなく、聞こえないままになって、イスラエルの民が天国の概念を実現できなかったように、今日のこの時代においても天国の概念を予告する人が現れても、その言葉を聞く事ができなくなるでしょう。
それだけでなく、天国の実体的な概念を築くための3年間の共生の試練の中で、山を下り山を登る中で民衆の前で叫ばれたイエス・キリストの新しい福音の言葉を受け入れなかったイスラエルの民と同じ立場に立たなければなりません。

したがって、何度も言いますが、あなた達が天国の概念を本質を通じて全ての人々に紹介し、多くの教派を通じてヨハネの様な新しい概念を予告できるように、天の歴史的な事情を感じ、そして一緒にその天国の概念をあなた達の生活領域に引き込んで、その言葉に動いて生きる事ができない場合、あなた達が望む希望の天国、神が探し求める希望の天国の概念は絶対に実現できないという事です。

今日まで人々が知っている天国は、もともと神が求めていた創造の理想の天国ではありません。イエス・キリスト以降、今日まで霊的な天国の構築のために努力してきた2千年の歴史を振り返ってみると、イエス・キリストが構築できたものは天国ではなく楽園でした。

したがって、イエスを信じてきた人々が望む天国の理想も楽園であり、今日の人々が持つ天国の理想は、神と人間が同時に受け入れる事のできる理想的な本来の天国ではなく、神の天国建設への進行中の条件的な天国である事を理解する必要があります。そのために楽園という名詞が使われるようになったのです。

したがって、あなたが真にイエス・キリストの天国の理想を実現する天国の中核として任命されたと言うなら、イエス・キリストを楽園の主人公としてだけ見なさず、霊的な領域の全ての霊的な存在と地上に住むすべての人々が協力して楽園の扉を開き、イエス・キリストが天国の主人公としても存在できるようにしなければなりません。

そして、イエス・キリストを天国の主人公として立てる責任は神にはなく、イエス自身や聖霊にもなく、この地上の全人類にあるという事です。しかし、残念ながら、人々がこれを知らないという事実があります。これを考えると、復帰の旅を進む人々にとっての進むべき道は遥かで難しいものです。

そして、人々が歩む他のどんな悲しい道があろうとも、これ以上悲しいものではありません。なぜなら、この道は先駆者達の悲しみを私達の悲しみに共感し、彼らの戦いの歴史を私達が再び歩まなければならない帰還の道だからです。多くの先駆者達がこの地に来て乗り越えた険しい山々やゴルゴダの十字架の道であっても、私達は彼らが歩んだすべての困難な歴史を超える生活をしなければ、絶対にイエス様が歩まれた道を追いかける事はできません。

今日のあなた達が歩む道、あなた達の信仰生活は簡単なものではありません。あなた達の人生はあなた達自身のためだけのものにはできません。あなたがたが生きているのは楽園にいる霊的な存在のためであり、さらにはあなた達には地上で天国を達成する使命があります。あなた達があなた達個人の生命のために悲しみをたくさん経験し、誓いをたくさん立てたでしょうが、個人の生活のためだけでは絶対にあなた達個人の意志すら達成する事はできません。

この地はあなたがたが歩む道をただ放っておきません。なぜならこの地は人間が堕落によってサタンに支配された地になったからです。だから六千年間、神と敵対してきたサタンはあなたがたが歩む道を妨げているのです。

こうした困難の中で私達が進むべき道はどの様な道でしょうか? ゴルゴダの険しい坂を越え、サタンに支配されたこの地を解放し、天国を築く道です。しかし、この道を進むためにはこの道を一貫して望んできた人類が実質的な歴史的過程で無数の探悟の歴史を歩んできたように、あなた達も探悟の道を歩まなければならないため、選ばれた私達人々ならば大きな覚悟をしなければなりません。

神が望まれる天国もあなた達も望み、また一生を捧げてその天国を築く仕事に責任を持ち努力しているとしても、セヨハンのように思うのであれば、あなた達もセヨハンのように30年以上惜しむ事なく天国の概念を叫び続けたけれども結局は破れてしまったであろうと思います。

洗礼ヨハネが望んで彼が進んできたその道では、彼が個人を中心に据えていたために破れてしまったのです。あなた達が同じ轍を踏まないようにするには、あなた達の行動があなた達個人を対象にするだけではなく、あなた達が生きる目的は他ではない事を心がける必要があります。

あなた達には天が望んでいる理想的な道を歩む事を阻むために、あなた達自身の事情だけを考慮して生きていく様な日常や一生を支配して、天の道に反対するサタン的な性格がある事です。あなた達がこの事実を骨の髄まで感じない限り、いけない事です。

天国の実現の道は、私達が進まなければならない、宇宙的な運命の道であり、創造の理念に残された天倫(天の道)の運命とも言えるでしょう。しかし、私達はこの道を自分のものだけとして考えてはなりません。神は歴史的な運命を負っており、永遠の天倫の運命を準備してきました。

 これは神の内面から、イエスと聖霊の心情を通して多くの先知達が歩んできた歴史的な努力と、あなた方とのつながりを作ろうとするものです。そして、過去に数えきれないほどの預言者達が、あなた方の一声に応え、イエスと聖霊も歓迎し、6,000年にわたって労苦してきた神が、あなた方がサタンとの闘いで勝利するための場を整えて助けてくださる事が、神のあなた方に対する意志です。だから、こうした神の意志に先立って呼び出されたあなた方は、自分達の責任と使命が重大である事を自覚し、責任を果たさなければなりません。

 終末に迎えるこの時に、もしこうした事をあなた方が責任を取らないならば、これまでの神とイエスと聖霊の歴史的な悲しみを誰が引き受けるでしょうか? これらの神の悲しい事情は、人間達が引き受けなければなりません。

このために神は世界の多くの民族の中で哀れなこの一民族を選ばれました。しかし、私達はここで、イエスの時代においてもイスラエルの民がイエスの意志を受け入れず不信仰により異邦でキリスト教を中心に新たな出発をする事を思い起こさなければなりません。

 そして今、私達の前には世界的な苦難の時代が迫っています。迫害と反対の時代が私達に迫っています。そして、この世界のすべての宗教が終焉を迎えるべき時期に臨んでいるのです。こうした時こそ、私達はこの民族が与えられた世界的な歴史的な使命を果たすため、全力を傾けなければなりません。

 将来、宗教を持つ人々はイデオロギー的な対立によって恐怖に直面する事になるでしょう。そして、6千年にわたり神に対抗してきたサタンが最後の挑戦で皆さんを攻撃する事になります。皆さんは常に、皆さんの命を狙っているサタンと悪霊達が皆さんのそばにいる事を知るべきです。これらの侵略は皆さん自身の力だけでは防ぎようがありません。

 皆さんがこれらとの戦いで勝利し、過去の歴史と現実、未来を代表する勝者になるためには、歴史を支配してきたサタンの本質、現実を支配しているサタンの本質、未来に対するサタンの意図を理解する必要があります。そのためには、イエスがイスラエルの民を代表してゲツセマネの山に登り祈り、生涯を捧げて天の意志に立ちはだかるサタンと対決し、歴史と現実、未来を代表する苦難の基準を築かれた様な道を皆さんも歩まなければなりません。皆さん一人一人の進む道にこれらの試練が残されています。

 私達がキリストの代理となり、自身の怨みを解き放ち、さらに神の怨みも解き放たなければならない責任があります。イエス・キリストがこの地に来られた目的を達成し、数多くの先知達の願いをかなえなければなりません。私達がこの責任を果たす事で、彼らが喜ぶ事ができ、その様な業績が天上の造物主である神の前、この地のすべての生きとし生けるものの前、そしてサタンの前にも明らかにされるとき、私達は長い間サタンの支配から解放され、天倫の中で応える事ができる環境となるでしょう。

そして、私達が永遠に安息できる勝利の土地である天国を見つけなければ、これまで私達が信じてきた神やイエス、従っている牧者や天使達もすべて、サタンによる苦しみから逃れる事はできません。

 天と結びついた皆さんは、父の前でどの様な存在として立つべきか、そして自分にどの様な時代的な使命があるかを知る必要があります。私達は神の前で立つ事ができる無限の天的な価値を持っています。

 したがって、皆さんは人間とすべてのものを代表して、一つの勝利的な天国観を備え、6千年にわたる神の多くの内的な苦悩、イエスと聖霊の苦悩も引き継ぎ、歴史的なすべての苦悩を克服できる勝者にならなければなりません。神は6千年間、この様な勝者を求めていました。したがって、皆さんがその様な勝者にならない限り、神が次々と見つけようとしている天国観を見つける事はできません。

 今日、怨みの地上でどんな一存在が天と地を代わり、人間を代わりにして天国観をこの地上に築く事ができれば、その価値は神の苦労やイエスと聖霊、そして多くの先知や聖者達の総合的な苦労の目的を結実させ、代わりにできる価値ある存在となるでしょう。その価値ある存在こそが、これまで神を裏切ってきた多くの先祖を救い出し、現在罪悪の世界で生きる多くの人類を罪悪から救い出すと同時に、永遠の神の天国を築くでしょう。

 歴史を超越して人間が探し出した天国、神がイエスをこの地に送り、実現する事を望まれていた天国、また未来の人々もその天国を完全にこの地上に実現できる価値ある一存在が現れる事を望み、神とイエスと聖霊、そして多くの先知や聖者達がその価値ある存在の出現のためにこれまで努力してきたのです。

 その様な存在がこの地に現れれば、神はその存在を永遠に守ってくれる責任を与えられます。これが原則です。その様な個人を中心にして永遠の国家、世界がこの地に実現されなければなりません。可哀想な私達の一民族、振り返れば私達の民族には何もありません。誇るべきものは何もありません。世界に披露できる様などんな価値も持っていません。

しかし、私達が国家と民族を超えて数多くの人類のために心を尽くす事ができるなら、アメリカやイギリス、あるいはどの国からも天国が先に成し遂げられるのではなく、私達は哀れな民族として神の前に進み、だれよりも先に天国を私達のものにする事ができます。そうなれば、天国を求める多くの民族はこの民族を経由しなければ神の前に進む事ができません。

 では、私達がこの天国を築くためには、どの様な使命と役割を果たさなければならないでしょうか? 長い歴史が進む中でこれまで戦いの道、死の道を踏みつけてきた中で、「天国よ、早くおいで下さい!」と訴えてきたその天国がまさに私達を通じて実現されるよう努力しなければなりません。

 もしも個人的にその様な天国を築いたならば、言い換えれば父が承認できる個人的な天国が実現されたならば、次には家庭的にも天国を築かなければならず、さらには社会・国家・世界・宇宙的な天国に拡大させていかなければなりません。皆さんはまず、この様な天国を築くという責任感を感じる人々にな らなければなりません。

 今日までの歴史の過程では数多くの聖者や先知が来ては去りましたが、神は今まで彼らを通じて適切にあなたの内的な事情を人間に教えてくださらなかったです。

 しかし、神の内的な事情を完全に明らかにし、天国の中でも最も中心に位置する宮殿にある宝箱まで開ける事のできる天国の鍵を所有している人物がこの地に現れるならば、それによって神はこの地上に再び留まらない理由がなくなるでしょう。

 それでは、今日ここに集まった皆さん、苦難の道、十字架の道を覚悟し、生死を顧みずに天の御旨のために立ち上がった皆さん、6,000年にわたり人間に告げられなかった神の事情を求めて立ち上がった皆さん! 皆さんは本当に神の忠実な息子娘になるために立ち上がりましたか? 忠実な女中になるために立ち上がりましたか? 皆さんが真にその様な人となるためにこの意志の道を歩んできたならば、今まで何を見つけ、何を感じ、そして神に何を示しましたかという事が問題になります。すべてはここに収束されるのです。

 この立場から見ると、皆さんは皆、イエス・キリストの後継者にならなければならないのです。この地に中心があったとしてもイエス・キリスト以上の中心がなかったし、困難な環境を乗り越える中でイエス・キリスト以上に難しい環境を乗り越えた人物はいませんでした。

 イエス・キリストは人間のために乗り越える難しい死の頂を超えながらも、「父よ、彼らの罪を彼らに返さないで下さい!」と祈った方でした。この道は今まで誰もが行かなかったイエス・キリストだけの独自の道です。

また、イエス様は当時の聖書の見解に基づいて神の御心に対処しようとはせず、イスラエルの民族を中心に神の御心に対処しようともしませんでした。イエス様は常に新しい主張を持ち、新しい神の御心に対処するために備えてきたのです。

 それによって人々に個人的な真理の道を教え、新しい生死観を悟らせてくださったのです。イエス様が歩まれた道は個人的には悲しい道でしたが、地上の人々が体験できなかった神の愛を体験しながら歩まれた道でした。
また、イエス様は習慣的な信仰態度を持って生きていたユダヤ民族によって、宇宙を創造された神様が宇宙の主として栄光を楽しんでいない事を嘆かれました。

 ご自身が人間と万物を造り、万宇宙の主であるにもかかわらず、神様は人間と万物に対して御心通りに命じる事ができず、支配する事ができない立場にいらっしゃいます。今日、多くの信者が神様は全能であるために自由に人間と万物を支配されると考えていますが、それはできない立場であるという事です。では、誰がこの様な神様を創造原初の理想の神様として、全人類から栄光を受ける事ができるようにしてくださるのでしょうか?

 人類の祖先であるアダムとエバが堕落した事により、神様は造物を完全に支配できない立場になったため、これを回復していかなければならない責任が人間にあるのです。そのためにイエス様は人間を代表して歴史的なあらゆる支配と思想を代表する立場で、人間を堕落させたサタンの侵入条件を取り除かなければならない岐路に立たれたのですが、人間の不信心のためにその御心は実現されませんでした。そのために神様は完全に造物を支配できる立場を回復できないまま、悲しんでおられるのです。

 終末に臨む皆さんが神様の願いと異なる天国、すなわち神の御心を実現するためにイエス・キリストが30年以上にわたり戦いの道を歩かれた事実を理解すれば、皆さん自身もイエス様の勝利を受け継ぎ、神の前に立つ事ができるように、神の威厳と名誉を懸念できる真のクリスチャンにならなければなりません。今日この地には多くの人々と民族がいますが、真に神の名誉と威厳を懸念する人々はいません。

 こうした時、神様の内的な心情を感じ、神の威厳と名誉を回復し、懸念し、懇願できる民族があれば、神様はその視線をその民族に向けて回されるでしょう。そして、神様は今日でもイエス・キリストの内的な心情を持った皆さんご自身を立てて、サタンの支配を打ち破りたいとお考えになるでしょう。

 イエスは神の義として、民族が裏切り、世界が裏切っても、善は滅びない事を知り、変わらぬ信念で悪魔と戦い、神の栄光を確立する責任を果たすために、この地で悪魔と戦ったのでした。

 それ故に、神の誇りを失った悪魔の罪を暴き、彼を攻撃する使命をイエスが引き受け、聖霊が担っていたのです。そしてそれだけでなく、人間が神の栄光と誇りを確立できる天国を築こうとしていたのでした。

 もともと神と人間との関係は、死んでも共に死に、生きても共に生きる永遠に変わらない父子の関係でしたが、人間達は堕落のために4,000年間、神との父子関係を結べずに生きてきました。

 この事実を誰よりも悲しんだのがイエスでした。彼は神と完全な父子関係を結び、この地に来て神の旨を成し遂げ、人間を救おうとしました。したがって、イエスは私達人間の父であり、祖先でもあります。あなた方はこれらのイエスの誇りと品位すらも守らなければなりません。

 すべての人間が神と父子の関係を完全に結ぶべきである事は天倫の因縁です。しかし、この地上で誰かがこれを最初に達成しなければ、人間は神と父子の関係を結ぶ事ができなくなります。今私達はその様な方に出会い、神を親とし、神の悲しみを私達の悲しみとし、お父様の苦しみを私達の苦しみとし、お父様の冤屈を私達の冤屈として感じなければなりません。そうすれば私達は神と父子の因縁を結ぶ事ができます。

言葉で結ばれる親子の関係、予約だけで結ばれる親子の関係は必要ありません。心を尽くし、力を尽くして父の意志に従い、骨身に染みる苦しみの中でも忍耐強く勝利する時、私達は神と親子の関係を回復する事ができます。
そして、父の栄光のために父の尊厳と面目を立て、父の栄光のためにイエスが十字架を背負い、ゴルゴダの頂を越えた事と同様に、世界的なゴルゴダの道も越える事ができるようになるべきです。そうでなければ、皆さんは6千年間、神の天国の理念を裏切ってきた天使長と同じ立場に立たされる事になります。
神は皆さんと近くにおられ、誰よりも一人一人を心配しておられる方である事を知っていただく必要があります。世の中では肉親の愛が最も大きいと思われていますが、神の愛はそれよりも大きく深く、世のあらゆる人間的な愛よりも深く大きい事を皆さんは知っておくべきです。
この様な神の愛の中で「父」と呼ぶ事のできる皆さんになり、「父の悲しみを私が理解します」と言える立場から、神の内面の気持ちを思いやる真の息子娘になるべきです。
その様な息子娘になり、神を模倣した天国を所有すれば、その天国は誰にも奪われる事がありません。次には神の苦しみを皆さんが引き受け、解決できる立場であるべきです。そして、神が苦しむ中での憤りを持つ事ができるべきです。
イエスが4千年間、神を悩ませてきたサタンに対して憤りを抱き、4千年の苦しみ以上の苦しみも乗り越える覚悟を持っていた事を知っていただく必要があります。 イエスは神の意志に逆らい、意志に逆らわない人々まで引き連れて歩き、歴史と現実を新たにし、「父よ、私が貴方の苦しみを引き受けていますので、心配せずに摂理の苦しみを解いて下さい!」と言える立場でした。 そして、イエスは神が天上と天下を通して感じている苦しみまでも共感しようとする心を持っていました。
ですので、4千年間希望を抱き、神の意志を担ってきたイスラエル民族の子孫達がイエスをゴルゴダの死の道に追い込むとき、イエスは死にゆく息子を見つめながら不当で悲しい心情を抱きながらも、自らの苦しみを忘れ、父を抱きしめて慰める事ができたのです。

それ故に、4千年間希望を抱き、神の意志を担ってきたイスラエル民族の子孫達がイエスをゴルゴダの死の道に追い込むとき、イエスは死にゆく息子を見つめながら不当で悲しい心情を抱きながらも、自らの苦しみを忘れ、父を抱きしめて慰める事ができたのです。

したがって、皆さんの中にもイエス様と同じように困難な状況でもむしろ父を慰めるために父を呼び求める人がいれば、その様な人は天国を築き進め、その様な人達が進む道は誰も阻止できないでしょう。

歴史的な神の労苦と苦悩に対して責任を持つと心に決めたイエス様だったからこそ、神様が復活の力を発揮してイエス様を蘇らせても、サタンは嘲笑する事ができませんでした。これに続く責任を負うためには、皆さんもイエス様と同じように6千年にわたる神の労苦と怨み、人間の不信仰に対する神の怒りの鞭を人間を代表して受け入れる覚悟を持つ事が求められます。今がその様な聖徒達に必要な時であると言えます。

もし皆さんの中でこの国の苦しみはもちろん、人類の苦しみや6千年間の神の苦しみと悲しみまでをも引き受け、人類に対する神の裁きの鞭をひとりで背負う覚悟がある聖徒が現れるならば、神はその方を通して第二のキリストの復活を許されるでしょう。それが実現すれば、この地には自然に天国の理念が結びつくでしょう。

今や私達は、イエス様が4千年の帰還歴史を代行し、神を休ませた事と同じく、2千年間サタンと戦い抜いたイエス様に対して、「主よ、これからは休ませて下さい。あなたの仕事を私達が責任を持って行います」と言える聖徒達とならなければなりません。これによって私達は今まで頑張ってこられたイエス様の仕事を代わりに引き受ける段階に入ったのです。

言い換えれば、地上のすべての聖徒が神の苦しみと悲しみ、そしてイエス様や聖霊の苦しみと悲しみを代わりに引き受けなければならない時が来たという事です。

また、私達は6千年間神に対抗してきたサタンの侵略に立ち向かい、帰還の任務を引き受けなければならず、人類のすべての罪を贖罪し、神聖な環境を創り出さなければなりません。その様な環境を整える事によって、イエスと聖霊がその場所に戻り、神がそこに戻ってこられるようになり、初めて創世以来神と人間が望んできた天国がこの地に建設される事ができるという事を皆さんは理解すべきです。

しかし、今日の皆さんは自分達がこうした重要な存在である事に気づいていないようです。過去と現在と未来がつながり、皆さんは祝福の機関となると同時に災いの機関ともなり得る事を理解しなければなりません。

したがって、皆さんが祝福の機関となるためには、神と聖霊が人類を救うために苦労されてきたその仕事を代わりに引き受け、サタンを制圧できる勝者とならなければなりません。皆さんは現在、天国の構築過程にとどまっているので、あらゆる分野で神が信頼できる存在であるとなり、個人の天国を経て地上の天国まで構築するのに適していなければなりません。

皆さんがこの内容を理解していれば、皆さんは誠実に理論的な使命を果たす事ができなければなりません。また、皆さんはゲツセマネの園で国民を代表してサタンと戦っていたイエス様と同じように、世界が反対し、世界的な苦難が訪れてもそれを乗り越えられる、歴史において優れた忠臣、孝子の中の孝子、女性の中の女性にならなければなりません。

皆さんがこの様な価値を持つ存在となり、サタンを統制できる神の真の子供となって、神がサタンの前で皆さんを誇りに思え、サタンも天の前で皆さんを認める様な姿にならないかぎり、天国の基準はこの地に立てられる事はありません。

父様がこの様な姿が現れる事を望まれると言うならば、イエスと聖霊が神の名誉と威厳を立て直すために苦しみながら父を呼ばれたように、皆さんも神と断てない祝福の関係から抜け出し、神の名誉と威厳を立て直すために苦しみながら神の代理を果たす事ができなければなりません。

もしその様な人物が世界中で他のどの民族よりも多く現れるなら、不信心なユダヤ民族を捨て、イエスの12弟子を中心に第2のイスラエルを形成したように、神は韓国民族を中心にして第3のイスラエルを創り上げ、地上天国の実現に成功するでしょう。

さらに、この民族がキリストの心情を受け継ぎ、神の心情を受け継いで神の意志を世界の人々に伝えるために誠心を尽くし、神の意志を達成する責任を果たすと、この民族は天国の祝福を受ける事になります。

今日まで人類は見える物質だけを追求してきたため、20世紀には物質文明が形成されました。しかし、見える物質の世界だけを研究し、その価値だけを追求する事は、人間の本来の欲望ではありませんでした。

物質の世界を超越した見えない世界と無形の神が存在するという事実を教えてくれるのが宗教です。したがって、この様な宗教のイデオロギーによって、見えない神の前に立ち去り、神の意志を求めていく一団があり、その様な民族、国家、人類があれば、彼らを中心にして20世紀の物質文明を超越した新しい神の世界、見えない世界が価値の中心となる新しい世界が築かれるでしょう。

物質の世界を追求していくと、物質の根本原因である力の世界を経て見えない世界に到達する事ができず、究極に至っては見える世界を支配する神の世界に到達する事になります。このようにして見える世界は見えない世界と相応する関係を結びながら存在しています。そのため、私達の民族が世界中のどの民族よりも熱心に祈り、誠心を尽くして見えない世界を代わりにして神の胸中に隠れている深刻な内面の心情を察し、イエスと聖霊の心情を感じるようになれば、どの民族よりも早く天上のすべての秘密を知り得るでしょう。

将来の人類の歴史は宗教的な立場を経る事なくはすまなくなっています。物質を追求している科学においても、単に平面的な問題、陸地と海などの物質の世界を研究する段階を離れ、今や立体性を持ち、物質の世界よりも前の根源的な本質の世界を研究する段階に入っています。

これから残されているのは何かと言えば、実質的な宗教の分離と闘争を経た後に迫る霊的な世界での戦いです。現代の物質世界で核融合によって最大の力が発見されたように、今後は霊的な世界でもその様な力が発見されるでしょう。

それは現在の自然科学の水準では知りえない力です。この力は超越的であり、超自然的な世界から発せられるものですが、その力がこの宇宙の秩序に影響を与える事ができるのは、必ずしも人間を中心において可能であるという事です。この様な作用がなければ、人間の希望も成就できず、理想的な天国も実現できません。

したがって、皆さんは皆さんを通して霊的な世界の包括的な思想を物質世界に表現しなければならず、宇宙のどの存在よりも価値のある自己である事を誇りに思い、さらには天的な力の実体とならなければなりません。皆さんがそうした人物になり、造物主を賛美できる環境を作り出すと、より大きな力が小さな力を引き寄せるように、皆さんのその天的な力の前にはサタンが従ってくるでしょう。

これまで私達の民族は、どの民族よりも熱心に宗教を信仰してきました。私達の民族がこのように世界的な最大の門を抜けていく過程には、さまざまな宗教の形態が生まれてきた事です。今後も多くの奇妙な形態の宗教が生まれるでしょう。これを私達が補完し、この地に主が来られる基準を築き、天敵の力とつなげる事ができなければなりません。

したがって、皆さんの心情を中心にした生活領域から始まり、天国を形成し、天的な天国まで形成しなければ、皆さんと神が望む造りの理想的な天国は皆さんを通じて成就されないばかりか、皆さんとこの民族を通じて世界人類の前にその様な天国思想を植え付ける事はできないという事を皆さんは心に留めておかなければなりません。

<祈祷>
お父様を通して心から動く無限の世界が恋しいです。この世界はすべて不信仰に沈んでおり、仇恨が結ばれた世界です。父よ、今日この時間まで私達を導いてくださった父の愛の前で自らの無面目さを感じていますので、許して下さい。貴方が託してくれた使命が大きい事を知っていますし、父の使命が大きい事を感じるほどに自分が低く、弱い事を知ります。父よ、大いなる力で導いて下さいと切に願います。

貴方がお託けくださった使命が大きい事を知っており、父のご分担も大きい事を感じるほどに、私達自身が卑しい事、弱い事を知るようになりました。父よ、大いなる権能で導いてくださる事を切に願い、望みます。

今、私達がサタンの権限を取り除く事ができる民、天国で求められる天の子供として許しを請いたい。父の心情を通して、イエス様の心情を感じ、サタンの侵略を打ち破ったイエス様の天敵に対する勝利の光景を私達も追い求めるために、父の恩寵を許して下さい。

それによって、貴方が望まれる創造本来の理想に向かって、一つの勝利に導かれ、同時に宇宙の前で立派に立つ事ができ、父の前でも尊く立つ事ができる貴方の子供達になれるように許して下さい。

父様は私達の父であるからこそ、今や全人類が貴方を父として迎え入れる事ができるように、サタンと戦い勝利する事で、天倫の意志を全宇宙の前に示せるように、父様の力を私達の心と魂に注いで下さい。父よ、切に願い、望みます。

今日ここに集まった私達全員を、貴方が真にお預かりいただき、お導きいただく事を心からお願い致しまして、全ての言葉、主のお名前によって祈りました。アーメン。






文鮮明先生の言葉集 2 - 17. 
故郷エデンを求めて私たちが歩む道 (1957年6月9日)
1957年6月9日(日)、前本部教会
聖書拝読:ペテロの手紙Ⅰ 4:7-19


<祈祷>
愛するお父様!
エデンの楽園を失ったアダムの悲しみが、私達の悲しみであり、天の怒りであることを知っております。また、エデンの楽園の理想を楽しむべき人間の先祖がその理想を楽しむことができなかったことが、天の怒りであることも知っております。


お父様!
堕落の逆境に立つ私達の責任は重いため、私たちを再び明確な立場に置いて、再創造の手を広げてくださらない限り、私たちと同じく哀れな者はいないと知っております。愛のお父様!慈悲の手を伸ばしてください!


私たちの心と体をこの時、あなたに捧げたいと願っておりますので、受けてください。そして、父の性相に従って形作り、あなたの御心を受け入れられるように私達を許可してください。


お父様! 孤独な息子娘たちが四方からあなたの名を呼んでいることを、私たちは知っており、彼らに共にしてください。人間の力だけでは何も成し遂げられないことを私達は知っており、お父様、この日に集まった私達の心と体を導いてください。

彼らが躓かないようにするべく、進むべき道で迷子にならないように許可してください。戦いの場で敗北する者にならないように許可してください。永遠にあなたの栄光を歌い、あなたの愛を誇りに思える息子娘達になるように許可してください。

環境が厳しいとしても、その環境を克服できるように許可してください。戦いの場で倒れることがあっても、私達を呼ぶ父の声を聞いて立ち上がることができる息子娘になるように許可してください。愛する私の父よ、切望しており、願っております。

お父様、この日、民族を代表して集まった多くの祭壇に祝福を与えてください。アベルの祭壇をこの地に備え、私たちが集まることができるように許可してください。そして、聖所に入り、父の前で不和だった先祖たちの罪を負い、贖うアベルの祭壇の子どもたちに導いてください、愛するお父様、切望しております。

お父様、この時間、地方に散らばっている孤独な祭壇の子どもたちが礼拝の時間を持っていることを知っております。この一時間でも、あなたが共にしてくださり、孤独な祭壇に属していても勝利の盾を持ってしっかりと戦い勝てる天の戦士へと導いてください。


一元的な恩寵と一元的な歴史を示してください。そして、終わりに呼ばれた者たちが忠誠を果たせるように導いてください。普段から真実な生活を送る息子娘になるように許可してください、お父様。切望し、望みます。


この場に集まった家族を一つに結びつけ、あなたが授ける言葉に従って従順でき、あなたに礼拝できる息子娘になるように許可してください。悔い改めて、神聖な生けるいけにえとして父にささげることができるこの時を許可してください、愛する父よ。切望し、望みます。


一週間を過ごす中でサタンから傷ついた息子娘がいるでしょうか? お父様、この時、彼らの心と体を導いてください。新しい天の喜びと栄光を許可してください。また、自分達が父の前で喜びの祭壇を築いて栄光をたたえることができるこの時を許可してください、愛するお父様、切望し、望みます。

今、集まりましたので、私達が持っていた性格や意識、概念をすべてあなたの前に差し出し、サタンの中傷的な条件から解放されるこの時を許可してください。お父様! 何百万ものサタンが中傷しているので、一つの命でも彼らの中傷的な条件にかからないように保護してください。

ただし、誠実な心と体をもって、生けるいけにえとして差し出します。お父様、お導きいただき、すべての家族に行き渡り、栄光を示してください。切望しつつ、すべての言葉で主の名によって祈ります。アーメン。




<御言葉>


本文の中で、「ただし、あなたがたがキリストの苦難に共感することによって喜びなさい。これは、彼の栄光が現れる時に、あなたがたが喜び、喜んで喜ばしむためである。」ペテロの手紙Ⅰ 4:13)という言葉を中心に、「本来のエデンを求めていく私たち」というタイトルで語ります。


皆さんは、創造の原初の楽園であるエデンの園について、聖書を通じて多くのことを知っていることでしょう。また、堕落する前にアダムとイブがエデンの園で神と交わり、協議しながら生活していたことも理解されているでしょう。しかし、アダムとイブの堕落により、神がアダムを通じて実現させたエデンの園の希望も完全に実現されなかったことも理解されているでしょう。

そのため、私たちが今探し求めるべき本来のエデンの園は、堕落とは無縁の世界であり、同時に神が創造以来求めている希望の世界です。

人を通じてエデンの園で理想的な栄光を見ることを望んでいた神が、人を失うことでその希望のエデンの園も失ってしまいました。そのため、神にとってもその園は今日まで希望の園として残っているのです。

また、堕落の血統を受けた私たち人間も、生涯を通じて、歴史を通じて、永遠の希望としてこの園を求め出ています。しかし、もし私たち人間がこの園を見つけられなければ、人間が享受すべき真実な幸福、人間が求める真実な生命、人間が持つべき真実な愛、人間が持つべき真実な理念とは何の関係も持てないことを皆さんは良く理解されています。

では、神が私たちの存在を立て、苦労と労働の目的は何でしょうか? それは皆さんを中心にエデンの園を再び形成することです。皆さんはこれを感じなければなりません。神はあなただけが楽しむエデンの園だけでなく、皆さんを通じて楽しむことのできるエデンの園を望まれ、長い間、約6千年にわたってサタンと戦ってこられたことを理解されるべきです。

私達は堕落によってこのような希望の土地を失ってしまったため、私達はその希望の土地を描きながら再び探しに行く運命の道に立たされています。そして、その運命の道は進むべきでも進むべきでない、天倫的な道であり、人倫的な道でもあるのです。


皆さんは、自分が生活する中で表れる全てが自分の個体だけを通じて関係することを望んでいますが、それが現れる全てが自分自身だけに留まるのではなく、全体と繋がらなければなりません。そして、これが再び人倫的な法則や天倫的な法則とも繋がり、創造主の思想とも繋がることができるよう努力しなければなりません。


今日、私達は歴史と宇宙を代わりにし、父に無限の幸福と栄光を返す責任を負っていると同時に、無限の命と愛を持ち、父に栄光を返す責任もあります。もしこのような責任を知らないでいれば、皆さんは望む本来のエデンの土地とは何の関係もなくなり、また神とも何の関係も持つことができなくなることを理解するべきです。


それでは、その本来の土地、創造の理想として人を通じて表れるべきその本来の土地はどのような土地だったでしょうか?  その土地は神が楽しむことができ、同時に人間が楽しむことができ、すべての被造物が一緒に楽しむことができる土地でした。したがって、その土地は幸福の土地でした。

今日の人々が求めているものは何でしょうか? それは幸福です。では、その幸福は私達人間に何を保証できるでしょうか?  その幸福は永遠の喜びを保証できると同時に、永遠の感謝を保証できなければなりません。

また、本来のエデンの土地はどのような土地でしたか?  その土地は生命の土地でした。そして、ある特定の時間枠内に滞在するだけの生命の土地でなく、永遠を中心に表れる生命の土地でした。

こうしてその生命の楽園がこの地に実現されていたなら、人々は生命を持つ存在として神の生命の賜物に対する感謝と永遠の喜びを持っていたことでしょう。その次に、本来のエデンの楽園は人間がすべての生命の主として生命の光を示せる世界でした。つまり、その世界では各々の生命が神の前で永遠の希望の実体として現れつつ、無限の価値ある存在として光を放つことができたのです。

そして、本来のその楽園は愛の楽園であり、同時に平和の世界であり、神の愛を中心に互いに和合し、すべてが一つになる統一の世界でした。

したがって、私達はこのような本来の楽園を築き、私達の幸福、生命、そして愛を通して神に栄光を返さなければなりません。その栄光は私たちの誠実さと努力を通じて、6千年にわたる歴史と運命の中で、どの個人よりも優れた美の実体として現れたときにのみ、神によって歓喜の中で迎え入れられる栄光なのです。したがって、私達すべての人間が神にそのような栄光を返すためには、このような美の実体として現れなければならないということです。では、その美はどのような美でしょうか?

それは笑顔と歌と踊りで示せる美であり、神に栄光を返すことのできる永遠の価値としての美なのです。本来のエデンの楽園はまさにこのような美の世界でした。

こうして私達が求める本来の楽園は幸福の楽園であり、神に讃美と感謝を返さなければならない世界なのです。そして、その世界は生命を中心にした希望の世界であり、生命と愛を中心にした平和の価値と統一の価値が具現化された世界なのです。

そして、それらの人間のすべての価値が結びついて美として表れる世界であり、すべての存在が歌と笑顔と踊りによって神の生命と永遠の愛を讃える世界です。さらに進んで、人間が動くままに全ての創造物が共に動き、静まり、調和する世界です。神はこのような創造の本来の世界を人を通して実現しようとされたのです。

これは神の理想的な世界が、人間の先祖の堕落によって阻まれ、砕け散ってしまったことです。それでは堕落の枷を振り払えずにいる私達は今日どんな世界に置かれているのでしょうか?  幸福な世界ではなく、不幸な世界に置かれ、喜びの世界ではなく悲しみの世界に置かれ、感謝して生きる世界ではなく、恨みを抱いて生きる世界に置かれています。これに気づくべきです。そして、あなたがそのような不幸な世界を乗り越えなければ、幸福は二度と訪れないでしょう。

では、どのようにしてあなたが不幸な自分であることを知ることができるでしょうか?  それはあなたの心を通して知ることができます。あなたの心の中に取り除けない悲痛な心がありませんか? これがまさにサタンが私達の先祖であるという証拠です。また、あなたは他人を嫌い、恨む気持ちがありませんか? これは本来のエデンの楽園に向かって進むことを妨げ、サタンが私たちの心に鉄格子をかけたものと同じです。

そして今日の人々が生きている世界はどんな世界でしょうか? 生命のない死の世界であり、絶望と暗黒の世界です。本来、人間は生命の価値を讃えながら生きるべき立場にあり、生命を中心にして永遠の神の理想と調和できるはずでしたが、今日の人々は神の理想の前に立つ希望が断たれたまま、絶望の中で生きています。

人間が絶望の中に置かれると神も絶望の中にいることになり、地上で人間がサタンに捕らわれると天上にもサタンが支配する暗黒の世界が残ることになります。ですから、主に従い、天性の理念を求めるあなた方なら、悪の世界に現れる要素、つまり神の理想の本質と配置される要素をあなた方の存在から戦って識別しなければなりません。これを識別しないでおくと、あなた方は本来の楽園とは何の関係もないことになります。

そしてこの地は堕落した地であり、不幸な地であり、サタンの地であり、希望のない地であり、アバの永遠の理想を歌うことのできない地であり、生命の光のない地であるということです。

あなた方の中で計り知れない絶望のどん底に囚われた者がいますか? あなた方の中でそのような人がいるなら、彼は理想の世界とは何の関係もない人です。また、暗黒の中で前後左右上下を識別せず、無秩序な混迷の中で中心を忘れ、天倫の法度を蹂躙する位置に立っている人がいますか?  このような人もまた、天性の理念の土地とは何の関係も結べないものです。

そして、神の愛に満ちた理想の土地とは対照的な存在であるこの世界は、実際には分裂と紛争が絶えず続く世界です。言い換えれば、平和の理念が実現された真理の世界ではなく、サタンが優越し、天倫を破壊する世界であり、嫉妬と妬みによって争いと分裂が絶え間なく起こっているということです。天性、すなわち本来の理想の土地を求めるあなた達の心に嫉妬と妬みがありますか? また、争いと分裂の心がありますか? もしそれらが残っているなら、本来の理想の土地を見つけることはできません。

その後、この地はどのような世界でしょうか? 神の栄光が現れていない世界であり、絶望と嘆きのため息、苦しみと悲しみの涙で満ちた世界です。もともと人々は神の永遠の理想の土地で神の栄光を称賛し、共に喜びながら生活するべきでしたが、そのできない状態となっています。

今日のサタンの世界が理想の土地とは対照的な形で形成されていることを念頭に置いて、あなた達は本来の理想の土地に向かって天敵的な幸福と結びつき、さらには天敵的な生命と愛と栄光、結びつきを築かなければなりません。そうでなければ、本来の土地が現れたとしても、それはあなたたちとは何の関係もないことを覚えておかなければなりません。これらの両方の世界、つまりサタンの世界と創造本来の世界との架け橋となるために、この地に来られた方は誰でしょうか? それはまさにイエス・キリストでした。

それでは、イエス様はこの地に来て何のために戦われたのでしょうか? イエス様は天国的な幸福、理念、愛、生命、栄光を実現するために戦ったというよりも、これを妨げている悪の要素と戦われ、またその戦いにおいて先駆者として責任を持ち苦労されたことをあなたたちは知るべきです。

さらに、あなた達はイエス様が自らの幸福を願う前に、サタンの支配を攻撃し、そしてその世界に縛られている不幸な人々を神の支配の世界に導くために一人で立ち向かい、天敵的な責任を持って戦われたことを知るべきです。

したがって、イエス様は不幸や悲しみ、恨みに苦しむ人々に対して訪れ、より高い神の幸福の心を持たせ、その幸福の心を持っていれば、より大きな不幸にも耐えられる条件を整えてくださったのです。このような条件が天国の幸福の要素として残ることができたので、あなたたちはイエス様を通じて、不幸を克服して幸福の条件を整え、さらに永遠の神の支配の中で生命、愛、栄光の条件も整えることができるのです。

したがって、今日この地上に住む多くの人々は不幸や悲劇、恨みに苦しんでいるのは、何故でしょうか? それは自分の個人的な利益のためだけに生き、その結果が生まれたものです。国や国家、または世界のために生きるのではなく、自分自身だけのために生きようとすることがサタンの世界の本質です。つまり、サタンの世界の本質は自分を中心に置き、すべてを自己中心的に結びつけることです。そのため、堕落した人間たちは不幸な立場に陥るたびに、自分を中心に据えて悲しみ、他人を責め、生きているのです。

しかし、イエス様は不幸な状況に直面した際に、自分が不幸だとは考えず、神の心を代わりにし、この世界を憂いながらその不幸な立場を克服されました。もしイエス様が恨みを持っていたとすれば、それはこの邪悪な世界に対する恨みであったということです。したがって、人間の恨みとイエス様の恨みは本質的に異なる方向を持っていたことを理解する必要があります。

したがって、悲しみと恨みの世界を経て、不幸の扉を開き、本来の幸福の理想郷を探し求める私達が最初に行うべきことは、イエス様と神聖なものを求めることです。つまり、イエス様は自分が悲しんだり、神の意志を代わりにしたり、さらにはサタンの世界を恨むことなく不幸な立場にあったため、あなたがたが本当にイエス様の状況を理解しているなら、すべての神の意志を代わりにし、イエス様のすべての望みを代わりに受け入れられるようにならなければなりません。それができるとき、あなた達は永遠の本来の幸福の天国に入ることができるでしょう。

イエス様は死に直面した世界を救い、神の希望をこの地上に実現するために、「もしできるなら、この杯をわたしかから取り去ってください。しかし、わたしの思い通りでなく、御心どおりになさってください」と熱心に祈りました(マタイ26:39)。また、「わたしの神、わたしの神、なぜわたしを見捨てられましたか?」(マタイ27:46)と嘆かれました。

彼が人間の世界で誰よりも神の大きな祝福を受けると思っていたにもかかわらず、彼は拒絶され、30年以上の生涯の最後には絶望的な状況で十字架を背負わなければなりませんでした。しかし、イエス様はそのような絶望的な状況の中でも、それが彼個人の一身の結果ではなく、全世界の人類を代表する立場から受ける試練と苦しみと考え、それらを克服しました。

さらに、イエス様は神が自分自身で絶望するのではないかと心配しました。そして、イエス様は嫉妬や嫉妬などの悪の要素を抑制し、つまり、天の本質である愛に対抗するサタンのすべての要素を抑制するために、無限の犠牲の贄となり、敵のために祈りました。

もう一度言いますと、イエス様は自身の心の奥深くに、人々が計り知れないほどのサタンへの憎しみと、地上の敵を裁く願望があったかもしれませんが、それらを赦し、憎しみや裁きの心を踏み越えて昇りましたということです。

イエス様は十字架の死を覚悟しながら、罪深い状態にあえぐ人々の苦しみと悲しみを解放するため、十字架の苦しみや人々のあざけりを乗り越えることができ、全人類に対するサタンの中傷の条件を防ぐことができました。

また、イエス様はサタンの世界のどの誰よりも憐れみの心で全てに打ち勝ち、天国への心と宇宙への心が極めて高かったため、神はあなたの悲しみを代わりに負ってくれたイエス様をよみがえらせたことを理解すべきです。

これからも私達はイエス様の後を追い、十字架の苦悩を超えて神の本質的なエデンの園に向かって進むために、自らの不幸な状況はもちろん、世界的な不幸にも責任を持ちながら進まなければならないということです。

ですから、皆さんは自分を犠牲にして難しい道や不幸な状況に直面しても、その場で悲しみやサタンの誘惑に囚われた者になってはいけません。

皆さんがたとえ不幸な立場にいたとしても、喜びと楽しさ、感謝の心を持っているべきです。そして、その感謝と喜びの心が一時的で個別的であってはならず、永続的で全体的なものでなければなりません。言い換えれば、永遠に世界的に感謝し、喜ぶことのできる環境を築くために、犠牲的な態度を持たなければなりません。皆さんが神の幸福の園を全体的なものとして築くためには、この事実を心に留めておく必要があります。

もしもこの地上に父の気持ちを慰め、父に笑顔と楽しみと喜びを返す存在が現れたなら、父は喜ばれるでしょう。ですから、皆さんは絶望とため息の中でも、天敵に打ち勝つことや天敵に対する希望や全人類の光の価値を示すことができなければなりません。嫉妬や争い、分裂が激しいこの地上で、神の愛を中心に平和と統一の使者とならなければなりません。

そして、怨みと嘆きとため息と誹謗と涙に苦しんでいるこの地上で、万物を代わりにして神の栄光を賛美するために笑顔と喜びで歌詠(頌詠)できる皆さんがなければなりません。このような人になれない場合、皆さんはサタンの世界から抜け出せなくなることを知らなければなりません。

ここに出席している皆さんの心の中に、まだ新しいエデンのイデオロギーとは対照的な邪悪なサタンの性格を持っている人はいませんか?私たちが父の前に現れるときは喜びの姿で現れなければなりません。歴史上誰もが喜ぶことのなかった最高の喜びを持ち、感謝の姿で現れることを神は望んでおられるのです。

今、皆さんが希望を持つために、また生命と愛と栄光を成し遂げ、その価値を示すために、サタン側の人々が決して追いつけない歴史的に最高の位置に立つときがきました。ですから、皆さんは十字架を背負っても最高の十字架を背負わなければなりません。

そして最悪の不幸な状況でも、天国の栄光を歌うことができる能力を持つ覚悟を経なければ、サタンもそれを嘲笑うことができなくなります。むしろサタンの前に立ち、サタンの権威と地上のすべての邪悪な要素を嘲笑えるようにならなければ、神の愛に触れている人だと言えるでしょう。パウロが「キリスト・イエスの内にある神の愛から、だれがわたしを引き裂こうか。」と言ったように、地上のすべての邪悪な要素を嘲笑うことができなければなりません。

また、苦難の過去、現在、未来を代わりにし、全宇宙を代わりにして、本来の人間の姿として本来の幸福、愛、栄光を歌うことができ、"神よ、私のためにあなたの6千年の悲しみを忘れてください。"と言うことのできる存在がこの地上に現れなければなりません。そのような存在が現れない限り、キリストの十字架の怨みはこの地上で永遠に解決されないでしょうし、キリストがこの地において悲しまれたその全ての気持ちを解消できません。

それでは、これからは本来のエデンを探して進む皆さんは、どのように生きるべきでしょうか? イエス様を手本にすべきです。イエス様を手本にして、宇宙的で天的な幸福の要素を見つけ、神の前に栄光を実質的に示すと同時に、皆さんが滞在する場所ごとに神の幸福、愛、生命、栄光を紹介できる真の人間にならなければなりません。多くの人々に感謝を返すよう教育できる皆さんにならなければなりません。

これらすべては何によって現れるのでしょうか?それは言葉によって現れます。堕落も言葉を信じない結果として現れ、生命の復活も言葉を通して現れます。したがって、天性(天城)、つまり本来のエデンの園を求めていく皆さんは、初めに神から授かった言葉を守り、その言葉で天的な幸福を紹介でき、天的な愛と生命と栄光を紹介できる人にならなければなりません。

今日、皆さんが地上で生きている中で、言葉一つ誤ることで不幸な人をより不幸にし、悲しみに直面している人をより悲しませ、憎しみに沈んでいる人をより憎ませたことが多かったでしょう。また、絶望に沈んでいる人をより絶望に追い込み、混乱に陥っている人をより混乱に陥れたことが多かったでしょう。この世界のどの誰もがこれらのカイン的な遊びをすることが多いですが、これらはすべてサタンが行っている証拠です。

したがって、皆さんはこのような世界を刺激し、その反対方向に進むことができなければなりません。さらに、このような世界を正すためには真の生活を送る必要があります。どの人を扱ってもその人が良くなることを望み、その人が天的な幸福を持ち楽しむとき、自分も一緒に楽しむことができる心を持たなければなりません。そして、父の前で感謝しながら新しい希望を持つことができる心を持つだけでなく、光の栄光を見つめることができる心と平和の心を起こすことができる心を持たなければなりません。そしてさらに進んで、すべてが一つになるように、そのような心を生活を通して示さなければなりません。

もし皆さんがこれらすべてを生活を通じて、生涯を通じて示さなければ、あの国に行って神の栄光を歌うことはできません。したがって、皆さんが天国に行って神の栄光を歌うためには、最初に地上にいるとき、神の御心を伝え、実践しなければなりません。

そして皆さんは神に代わって地上にいる人々を愛さなければならず、死の権威の中で引き寄せられている人々を神の生命権威で引き上げなければなりませんし、キリストを代わって真理を宣言しなければなりません。そして神の希望の御心を達成するために協力する者たちとならなければなりません。そうでなければあの国に行って神の栄光を歌うこともできず、天性の遺産を永遠の遺産として継承することもできません。

したがって、皆さんは神の本来の園を紹介する生活、天的な生命と愛と栄光を歌う生活をしなければならず、さらにはすべての人々にそのように生きさせなければなりません。つまり、創造主である神を代わって皆さんが再創造の歴史を行わなければなりません。

また、皆さんは地上で生涯を捧げ、神に忠誠を尽くし、平和な世界だけでなく邪悪な世界でも愛することができる人になり、本来の理想を歌うことができなければなりません。その時、皆さんは神の創造理想を具現化する真の子女となり、永遠の神の愛と栄光の中で神と共に永遠に共にすることができるでしょう。これを皆さんは確実に知っておかなければなりません。


<祈祷>

愛のお父様!
私たちの心の畑にあなたの幸福が蒔かれるように許してください! あなたの生命が蒔かれるように許してください、そして、あなたの愛が蒔かれるように許してください、そして、あなたの栄光が蒔かれるように許してください!

お父様の幸福と生命と愛と栄光が私たちの永遠の心の基盤となって地上の不幸なすべてを踏み越えて上昇するように許し、暗闇の世界を踏み越えて上昇するように許し、分裂と闘争が激しいこの世界を踏み越えて上昇するように許してください。


ためいきや陰口や涙を踏み越えて昇ることのできる息子娘になり、幸福を多くの人々に移せる人々にならなければなりません。不足している私たちを導いてください。

お父様、今日私の一日がお父様の前で真の子女として立たなければならないことを知り、悪の立場から幸福を楽しむか、私を中心にして幸福を楽しむことはしてはならないことを知ります。また、キリストがこの地に来て生活したのも自分を中心とした生活ではなかったことを知ります。

ですから、お父様、自分が幸福になる前に兄弟姉妹が先に幸福になれるようにしてください。自分が喜ぶ前に兄弟姉妹が先に喜べるようにしてください。

自分を超えて天宙的な生涯の道を歩むことができる心を持たせ、キリストの生涯の道を見習って真の兄弟姉妹同士が善でだけに対処し、お互いに愛することができるように許してください。そして、神の幸福と生命と愛と栄光を得られるように許してください。真の兄弟姉妹の結びつきを中心にして引き裂かれない唯一の中心を築いてください。愛する父よ、切に願います。

実際に他の人を愛する人がいれば、本来の園はその人を通じて永遠の価値を示すでしょう。今日ここに出席した子供たちよ、どうかどうか、お父様の愛の権威の中でお父様が望まれた天国の子女になり、恥じることなくお父様の栄光を歌うことができるように導いてください。

お父様の前で、私たちは個別の価値を示し、感謝と栄光で礼拝できるように許してください。そして、どうか永遠の勝利の子供たちになることを許してください。私たちはこれを熱望し、私たちの全てをお任せします。この時間を主導してくださり、感謝いたします。
あなたの御名によって祈ります。アーメン。



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