文鮮明先生の言葉集 2 - 20. 神のための勝者となろう (1957年6月30日)
日付: 1957年6月30日(日曜日)、前本部教会。
聖書箇所: ルカによる福音書 19:8-44, 22:39-46, 23:44-49
<祈祷>
アダムの後、お父様が労苦してくださった約4千年にわたり、お送りくださったイエス・キリストは、涙と汗と血の実りとして、お父様の実体として、お父様の涙を代わりにし、汗を代わりにし、血を代わりにする使命と、お父様の怨みを解く使命を帯びてこられたことを私たちは知っています。
そのようなキリストは、天を代わりにして涙の道を歩み、すべての人々を代わりにして休むことのない労苦の道を歩み、汗を流す共生の厳しい状況を歩まれたことを考えると、お父様、私たちがそのようなキリストに対応できるかどうか、心から反省するこの時を許してください。
そして、4千年にわたり苦労してきた多くの先知先列たちの血の祭壇を通じて、その実態を探しに来られ、血を流し、いばらで覆われていたその姿を手探りで感じられる私たちになれるように導いてください。
イエス様が十字架を背負ってゴルゴダ山に向かって登っていくとき、遠くから彼女を見つめて悲しむ弱い女性たちを見て、「エルサレムの娘たちよ、私のために泣かないで、あなたとあなたの子供たちのために泣け。」とおっしゃったキリストの切ない心情を今、この時間に私たちが感じることができるように許してください。
十字架の苦悩を知らない者は、十字架の救いを受けることはできません。また、イエス様が十字架に進むときの心情を感じることを知らない者は、真理の場に立つことはできません。それを知っているので、お父様、この時に集まった息子娘たちをあわれんで見てください。
私たちが持っていなくても、お父様に捧げるものがなくても、ゲツセマネの庭で孤独なキリストの姿を心に刻んで、忍び寄る敵に立ち向かい、善の番人になることができるように許してください、お父様、熱望しております。
イエス様がゲツセマネの庭で叫んだ最後の訴えを私たちが今日、この荒涼とした世界に向かって叫びながら、世界的なゴルゴダ山を越えなければならない時が来たことをおおきに、キリストを遠ざけず、自分のために生きる子供たちにならないように導いてください、お父様、熱望しております。
今、ここに集まったこれら多くの生命をお父様が責任を持たれ、彼らが純粋な心で進みたい回帰の道を歩むことができるように導いてください。この場に燃えるような恩寵を注いでください。
お父様! ここに集まった子供たちの中に神の意志を知らない者がいますか、または死に埋もれてお父様の心情を感じない者がいますか?お父様、聖霊の炎として現れ、イエス・キリストの復活の歴史を示してください。イエス様が十字架の死から復活されたように、その復活の歴史が私たちにこの時間に現れるようにおおきに、お父様、熱望しております。
お父様! たくさんの人々の中で私たちを呼んでくださり、ありがとうございます。ただ私たちが任された使命を受け入れ、あなたの御心を遂行できないのではないかと心配しております。
お父様! ここにひれ伏した子供たち、イエス・キリストの心情を代わりにして困難があるときには自らがまずその困難を引き受け、悲しいことがあるときも自らがまずその悲しみを引き受け、自らが苦しみを受けて倒れる際があっても、天が望まれる御心であればこれを喜んで受け入れながら戦っていける姿になるように許してください。
今日ここに参加した子供たちの中で、たとえ一つの命でもサタンに引き寄せられないようにしてください。久しぶりに生きる道を見つけてここまで来たのですから、捨てないでください、Dナ┥リイ, 心からお願いいたします。
この時、伝える者の心と受ける者の心が一つになり、Dナ┥リイの心に私たちの心と体が動くようにしてください。そうして私たちはDナ┥リイと一体となり、Dナ┥リイに受け入れられる供物として再創造されることができるように願っています。この時に孤独な祭壇が点在し、祈り続けている子供たちにも均等な恩寵を注いでください。サタンが乗り越えないようにしてください、・リイの名において祈ります。アーメン。
<御言葉>
今日、皆さんと共有したいメッセージは、「神のための勝者になろう」というものです。このタイトルでお話しいたします。
人間の堕落によって創造主である神様が今日までに長い歴史を経ても、造られたすべてのものと共に喜びと栄光を享受した日はありませんでした。再び言えば、神様が喜ぶことができる勝利の日を迎えていないということです。しかし、そのような勝利の日を迎えられなかった原因は神様にあるのではなく、すべてのものの主人である人間にあります。ですから、勝利の日は神様だけの努力で見つけることができるものではなく、人間の努力が結びついて初めて見つかるものです。そうでなければ、神様と万物が勝利する栄光の日を迎えることはできません。
それでは、創造主である神様が万物を造られた目的は何でしょうか? それは善の目的を達成した人間を中心に、すべてのものが神様の愛を歌い、神様に栄光を返す姿を見て神様が喜ばれることを願っているからです。しかし、人間の堕落によって神様の創造目的は達成されなかったため、神様はそれを回復するために6000年もの間、長い戦いの歴史を経て来られたのです。
このように、創世以降、現在まで宇宙的な勝利の日を迎えられなかった神様は、地上の人間を通して望まれるその勝利の日を迎えようとされています。したがって、地上の人間がその日を見つけられない場合、この地上で人間を虐げているサタンを打ち倒すだけでなく、天で神の前で人間を咎めるサタンの権力も打ち破ることができないでしょう。
それゆえに神様はどんな苦労も惜しまず、どんな犠牲も惜しまず、どんな戦いも惜しまず、今この時まで皆さん一人一人を立てるために盾となって現れられたのです。
これを見れば、私たちは神様の望みが何かを知ることができます。神様は皆さん一人一人を立て、人間を堕落させた敵サタンを見分け、サタンが主導する悪の歴史を終結させようとされています。
私たちはそうした神様の望みを達成し、天の前やすべてのものの前で堂々と立ち、天の前で勝利の栄光を返す人にならなければなりません。そうでなければ神様が苦労しておいでになった目的が達成されることはありません。人間たちは長い歴史の中でこのような勝利の日を見つけようとしましたが、これまで見つけることができませんでした。
しかし、神様はそのような勝利の一日を見つけることができる方を送ってくださったのです。その方こそがイエス・キリストです。その方は神様が人間を救いたいと思っておられた内面の心情や、すべての民族の不当な状況を共感し、この地上でサタンとの戦いで勝利できる代表者として来られた方でした。
したがって、皆さんは今や神様が望まれる御心と、人類が望む御心を達成するために、道を阻むサタンに対して、創造主の心情を持ち、すべての生き物を代表した歴史的な責任者として、また先駆者として立ち上がり、勇敢に戦わなければなりません。
また、彼が望んでいた御心を皆さんの生活の中で実践しない限り、キリストの悲しみはもちろん、神様の悲しみや全人類の悲しみが再びこの地上で芽生えることを皆さんはますます感じるべきです。
では、神様の御心を達成させるために来られたイエス・キリストの生涯を引き継ぎ、神様と人間が喜ぶことのできる一日を迎えるために戦わなければならない責任を負った私たちは、これからどのような生涯の道を歩んでいくべきでしょうか? 今日、これが何よりも重要な問題です。
イエス様の生涯は自らのために生きたものではありませんでした。上は天、下は地、つまりすべての創造物をひとりで責任を持って、神様の御心が達成されるその一日を基準に黙々と戦っていく生涯でした。
イエス様は宿る場所や昼夜を問わず、見える世界のあらゆる苦しみに耐え、さらには見えない場所で道を遮るサタンと戦い、全体的な責任を担いながら勇敢に戦った勇者でした。
したがって、今日私たちは誰もがキリストを先駆者と仰ぎ、彼の御心を受け入れ、彼が行けば一緒に行き、戦えば一緒に戦い、つまり共に同行しながら神の御心と人間の願いを達成するために戦いを展開していかなければなりません。
また、イエス様は4,000年の歴史を担いで民族や世界のために来られ、さらには霊的な領域の多くの生命まで負担されました。だからこそ、彼は自らのために戦ったのではありませんでした。言い換えれば、民族だけを思って戦ったわけでも、世界だけを思って戦ったわけでもありませんでした。歴史や宇宙を超越した神聖な使命を一身に抱え、神の御心を成し遂げるために戦われたのです。
このような戦いはイエス様の30年以上にわたる生涯を通じて続き、帰られた後も2,000年という長い歳月を経て今日まで続いています。人間は休むことがありますが、彼は休む間もなく神が望む希望の御心、人間が望む希望の一日を見つけ立てるために聖霊と共に戦いを進めていることを皆さんは痛感するべきです。
人間を救うためにこの地に来て人間の過ちで十字架に戻られたことも一因ですが、彼は帰られた後も人間の罪を代わりに負い、今日まで2,000年という長い時をかけて霊的なゴルゴダの十字架の道を進まれたのです。私たちはこのようなイエス様をこれまでどのように信じてきたのか、私たちの過去を振り返り、反省しなければなりません。
では、イエス様はどのような方でしょうか? 彼は天の唯一の御子であり、天の王子であり、すべての人の救世主であり、栄光のメシアとして、苦しみとは何の関係もない方です。 そのようなメシアを見ることはもちろん神が喜ばれることであり、またすべての人々もイエス様を歓迎し、賛美し、喜んでいるべきでした。 しかし、イスラエルの民が彼を信じず、のろったため、その喜びが悲しみに変わったのです。 この責任を誰が負わなければならないでしょうか? それは皆さんご自身が責任を負わなければならないことです。
今日の世界的なキリスト教の形成は、イエス様が30年以上にわたり人類のために知られざる苦労の涙を流した基準があったからであり、十字架に戻られた後、今日まで人類を救うために歴史の進展とともに涙の道を歩まれた2,000年の悲しみと結びついた歴史の過程があったからです。
さて、私たちはイエス様が涙を流しながら歩かれたその道をたどり、彼を悲しませたイスラエルの民族の過ちまで責任を負い、サタンに対して復讐するための戦いを進めなければなりません。
そして、皆さんは彼が共生的な時を準備する間、ただ黙想に没頭して生活していたと考えてはいけません。ヨセフの家庭で30年間、大工としての生活をしながら、イエス様は計り知れないほどの知られざる涙を流されました。イエス様の悲しい事情を兄弟たちも知らなかったし、ヨセフとマリアでさえも知らなかったのです。イエス様は何も誰かに話すことのできない寂しい気持ちの中で孤独な道を歩まれました。
イエス様は4,000年の罪の歴史を終わらせ、神の涙と人類の涙を清算する責任を負って、確固たる信念と不変の姿勢でサタンと戦われました。それゆえに、私たちがそのようなイエス様の実践的な生涯を手本にすると、勝利的な生活の基準を確立できるのです。
イエス様はなぜ、そのような血の涙を流す生涯の道を歩まれたのでしょうか? それは4,000年という長い歴史的な過程が涙の道であったことをイエス様が知っていたからです。
イエス様は神が涙の歴史を経て出てこられ、また神の御心を受けて多くの先知たちもこのような涙の道を経て出てきた事実を知っていました。そのため、神の御心を成し遂げるには、彼自身もそのような涙の道を歩まなければならないと考え、自分の生活が将来に大きな影響を与えることを知っていました。
したがって、イエス様は神と先知たちが流した歴史的な涙を全て浄化しなければならない責任を感じながら、全人類に希望をもたらすために血の涙の苦難の道を自ら選んで歩まれたのです。
今日、宇宙的な希望の一日、勝利の一日を築くためには、サタンとの戦いの道は避けられません。したがって、私たちの使命が大きければ大きいほど、それに比例して私たちの責任も大きいものです。ですから、この戦いの道で勝利を収めるためには、より大きな涙の谷を通過する必要があります。
イエス様は罪もなく、欠点もなく、また神の子以上の望みも持たずにおられましたが、弟子たちも連れずに一人でゲツセマネの園に登り、神の前で涙の嘆願をすることになりました。これはどういったことでしょうか? 皆さんはイエス様が歩まれたこの血の涙の道の心情を感じなければなりません。
そして今日の皆さんは天の勝利を促進しようとするならば、本当にイエス様が歩まれた宇宙的な涙の頂を越える準備が整っているかを反省してみるべきです。人間が堕落のために神の庇護を離れて以来、人類の歴史は涙で続いているので、これを乗り越えるためには涙の道を歩まなければなりません。これは単なる神の計らいからだけでなく、ある民族や国家が進む道においても同様です。
国家のために涙を流し、その民族を背負いながら涙を流す者を私たちは預言者(先知者)と呼びます。一つの国もただ成り立つだけでなく、こうした先知たちが築いた涙の歴史を経て成り立つものです。同様に皆さんもこの歴史的な涙の頂を超えない限り、決して勝利の日を迎えることはできません。
イエス様は30年以上にわたり涙の頂を超えゴルゴダの道、拓くべき道を歩まれ、血の涙を流されました。今日の皆さんが神の御心を成し遂げ、イエス・キリストの怨念を解決して差し上げなければならない責任を負う者であれば、皆さんの心の中でも知られざる血の涙が湧き上がっているべきです。
兄弟のために涙を流し、世界のために涙を流し、天を傷つけずには流れ止まない涙を流す天の使徒がいると言えるならば、ここに勝利するための一つの条件が成り立つのです。イエス様はエルサレムを見つめ、悲しみに包まれた中で泣かれたことがありました。しかし、そのようなイエス様の心情を知る者は一人もいなかったため、イエス様は十字架に戻られざるを得ませんでした。
今日、私たちは堕落したアダムの子孫として、堕落したアダムの悲しみを解消しなければならない責任が私たちにあります。また、堕落による罪を清算するための第二のアダムとして来られたイエス・キリストの悲しみまで解消しなければならないのです。
過去の歴史は再生の歴史であり、成長の歴史であるため、部分的な責任を果たすことによって意味の前に立つことができましたが、完成時期を迎えた今日、私たちにとってはそのような部分的な使命を果たすだけではなりません。
皆さんが完成時期の使命を果たすためには、過去に来たり去ったりした人々が頑張ったことよりも、千倍以上の努力が必要です。そして、皆さんは神がこの地を離れることなく、悲しまれた悲しい心情を背負って寒さや暑さ、昼も夜も関係なく、どんな状況に置かれてもこの地を離れず、誰よりも多くの涙を流す人にならなければなりません。
今日、この国が統一の法を見つけて築くためには、上の人が下に、下の人が上に、このようにして涙が交換され、神の前まで届けられなければなりません。こうなれば、この国は滅びることはありません。同様に、私たちが神の悲しい事情や地を愛される父の心情を知り、父の心と共感できるようになれば、私たちは決して滅びません。
ですから私たちは涙を流す人にならなければなりません。最後には悲しみの涙でも喜びの涙でも、人は涙を流さなければなりません。そして約2,000年前、イエス様が苦難の十字架を前にゲツセマネの園を通り抜けなければならなかったように、私たちも同じように十字架の壁が張り巡らされた世紀末の終わりの時を迎えなければなりません。
また、イエス様が知られざる者の中で神を代わって涙を流されたように、イエス様を失った使徒たちやその民族、世界中のすべての人々も同様に涙の道を避けることはできません。
こうして終わりの時の人々にはどうしても越えなければならない涙の頭が置かれることになり、その時に私たちは天のために泣くのか、それとも自分のために泣くのか、という分かれ道に立つことになります。
この時にサタンがどのような人を狙っているかと言うと、天の計らいを妨げ、個人の欲望を満たそうとする人を狙っているということです。ですからもし皆さんが歴史的な涙を流すべき場所で、自分のために涙を流すことになれば、サタンの支配下になることになります。逆に天の計らいを持ち、涙を流すことになれば、天の側の人になります。
イエス様が天を明るくすることができ、また、すべてのものがイエス様を崇めることができたのは、イエス様が流された涙が、自分や自分の国だけでなく、世界だけでなく、神の永遠の希望の意志を抱えて流された涙だったからです。このようにイエス様の涙は、神の希望と調和し、万民の希望と調和し、すべての創造物の希望と調和できる場で、全ての生き物のために流された涙でした。
イエス様がこのように涙を流して生きるうちに帰られたので、イエス様を礼拝すべき私たちも、彼が涙を流された宇宙的な悲しみを共感して涙を流すことが避けられませんし、すべての生物まで共に悲しむことができません。
イエス様はこうして民族のために、世界のために、天のために涙を流されましたが、今日の皆さんはどうでしょうか?皆さんもイエス様と同じように、個人を中心にした涙の道を歩み、家庭と民族、そして世界を中心にした涙の道を歩んだ後、天国の子孫たちの怨念まで背負って涙を流す責任を果たさなければなりません。
今、皆さんが天が望む希望の園に立ちたいと思いますか?その場合、自分を中心にして苦しみから逃れるために天に訴える心を持つべきではありません。そうなるとサタンの罠にかかってしまいます。本当に皆さんが天国の家庭の権限に入りたいなら、個人を超えて家庭を担当し、イエス様の代わりに涙の祭壇を築かなければなりません。
また、天国の種族の権限に入りたいなら、イエス様の代わりにして種族のために涙を流し、民族の権限に入りたいなら、イエス様を代わりにして民族のために涙を流さなければなりません。
そして、皆さんは地と天まで責任を果たし、進んで行ったイエス様の尊厳を立て、常に神の意志に対して心配することができる人にならなければなりません。
イエス様が帰られた後、2,000年以上にわたる歴史の進行で神が人をどのように導いてきたかと言うと、神が人に涙を流させました。ですからキリスト教徒が歩む道は涙の道であり、涙なしに運命が成し遂げられることはありませんでした。
イエス様が帰られた後、使徒時代を経てローマで70の悲劇が長い間続き、個人から家族へ、家族から次第に広がり、今日の世界的なキリスト教の構図を形成しました。しかし、そうしたキリスト教徒たちの中で、今まで本当にイエス様の代わりに世界のために涙を流した人は多くありませんでした。
今は終末の時であり、世界的な涙のゴルゴダを超えなければなりません。したがって、個人のために泣くときも、家族のために泣くときも、国家のために泣くときも過ぎ去りました。神様は何千年もの歴史を通じて、私たちが神の意志のために世界のために涙を流す聖徒になることを望んでいます。
この土地には神のために涙を流す聖徒がいなかったため、私たちはこの任務を担当し、天のために涙を流さなければなりません。そうでなければ、イエス様は再び涙を流され、神も再び涙を流されることになります。
今、私たちは神の前に、イエス様が勝者として立たれるために人間の歴史を担当し、サタンと戦いながら涙を流されたように、「私たちも涙の先駆者として神との縁を結びたい」と祈る時が来ました。
世界の動向を見れば、今までキリスト教を支持できるように、国家主義を廃し、来られるその悲しみの主人公を迎えることができる世界的な構図を広げていることがわかります。そして今は人類が世界的にイエス様を迎えるべき時であることもわかります。したがって、今日の人類は世界的なゴルゴダの丘を越えなければならない時です。
このような時を迎えた皆さんにとって、泣いても「天のために泣くか、地のために泣くか、それとも自分のために泣くか」という問題が提起されますが、ここでどれのために泣くかによって、皆さんが進む道が変わることになります。この苦しい世界で生きる人々にとって、皆さんが神の意志を広げたいと願うなら、皆さんは全体の意志を忘れて自分の意志を中心にして悲しみ、泣く者になってはいけません。そうした人は自然に意志に向かう道で追放され、結局何も成し遂げられません。
意志に従って進む私たちは、自らの事情で涙を流してはいけません。そして、意志を持つ国家や世界があれば、それらも自己都合のためだけに涙を流してはいけません。私たちは唯一、全世界の人類のために涙を流さなければなりません。
人間と中断された天倫の意志が、皆さんによって再び結びつけられなければならないときがきています。皆さん自身がサタンと戦い、勝利の涙を流し、サタンが中傷できないその日を見つけられなければ、神が望む世界的な勝利の日を見つけることはできません。
イエス様がこの地に来られて意志を果たすために血と汗と涙の道を歩まれたように、皆さんも宇宙的な勝利の日を迎えるためには、血と汗と涙の道を歩まなければなりません。宇宙の歴史も涙の道、苦悩の十字架の道を歩むことなしにはありえず、どの一個人が成功するためにも、血の汗を流す道を通さなければならないのです。つまり、私たちはみな、苦難を耐え忍び、痛みを乗り越えてサタンと戦っていかなければなりません。皆さんは真に天のためにどれだけ努力して戦いましたか?皆さんは個人のために、または家族のために涙を流し、汗を流したことがあったでしょう。
しかし、イエス様はご自身の家族だけでなく、民族や世界を越えて責任を持って涙を流し、汗を流されました。今、皆さんもイエス様のように、皆さん個人を越えて家族や国家を越え、世界のために涙を流し、汗を流す道を進まなければなりません。
涙と汗を流す戦いの農場を経ることが、勝利できる最初の要素となります。したがって、皆さんが勝利するためには、涙の道を経り、汗を流す道を経て、苦闘していく息子娘にならなければなりません。また、イエス様はゲツセマネの園で涙を流し、汗を流し、祈りを捧げられましたが、皆さんもそのようなイエス様の気持ちを持たなければなりません。
このように涙を流し、汗を流しながら一つの目標に向かって進む団結した民族は、今までに滅びた歴史がありませんでした。霊界で天国権に入った栄光の霊たちはどのような集団でしょうか?彼らはイエス様が行かれた道を見習い、この地で休まずに涙を流し、汗を流しながら戦いの農場を切り開いてきた人々です。
私たちにはこのような宇宙的な神の意志を成し遂げる勝利の条件を設ける責任があると理解すれば、私たちはこの地に来たり行ったりした歴史上のどの人よりも、より多くの涙と汗を流さなければなりません。
皆さんは家族を愛していますか?そうであれば、家族のために汗を流さなければなりません。また、皆さんが民族を愛するなら、民族のために汗を流さなければなりませんし、世界を愛するなら、世界のために汗を流さなければなりません。私たちも他の誰も行かない隠れた祭壇を築き、世界人類を代表してゲツセマネの園で祈り続けたイエス様を見習い、世界人類のために汗を流し、涙を流すことのできる第二のイエス様の姿を示さなければなりません。
実際に、神の御心のために生涯をささげ、涙を流して祈ったことはありますか? 汗をかきながら祈った時間はありますか? 私たちが涙の過程を経て汗をかく道を歩んだとしても、私たちの前には最後には血を流す死の道が残っていることを忘れてはいけません。イエス様も3年間の公生涯農場を経て、すべての人類を代表して十字架に釘付けになる死の道を歩まれました。
神の唯一の御子であるイエス様ですら、このように霊的な勝利の日を迎えるために、自らの命を父に捧げ、血を流す苦労を経ていかれました。そして今日、私たちはイエス様を代わりにして宇宙的な使命を担おうと立ち上がったわけですから、イエス様が行かれたその道を見習わなければなりません。
皆さんにはまだ命がありますか? 皆さんには希望がありますか? 皆さんには進もうとする意志がありますか? そうであれば、それらは自分だけのものではないことを理解しなければなりません。
もしイエス様がご自身の命が自分のためのものだと思われたなら、十字架の死を越えて復活を成し遂げることはできませんでした。自分の命が父なる神様のものであることを知っていたからこそ、イエス様は十字架に掛けられる苦しみと試練を忍んで進まれたのです。したがって、その十字架の道は決してイエス様個人のためではありませんでした。
皆さんにとっても、皆さんの命は自分自身のものではなく、この世界も人間のものではなく、宇宙も人間のものではありません。これらはすべて神様なる父のものです。
皆さんはどのような思想やイデオロギーを中心に据えていますか? 父を求めるあなた方自身の心と信念を見つめ直さなければなりません。死に至る運命の道を越えなければならない私たちは、なぜこのような道を歩まなければならないかをそれぞれが考えてみるべきです。 イエス様は涙の道、汗の道を歩まれた後、最後にはお自身の一身を天に捧げられました。
私たちに生命があるとすれば、その命は自分自身のものではなく、希望を持っているとすれば、それもまた自分だけのものではないことを知らなければなりません。
イエス様に従ってサタンの世界に対抗し、勝利するべきあなたたちであれば、自分の命に対する未練を抱き、天に捧げようとしないかを考えなければなりません。
私たちが永遠に父の意志を達成するためには、極めて神聖な生け贄にならなければなりません。自分を中心に据えた要素がある場合、そこにサタンが中傷できる生け贄となるでしょう。
あなたたちは「父よ、わが子よ」と神様に呼ばれる者になりたいと願いますか? そうであれば、天の真理、天の命、天の愛を確立し、すべてのものとあなた自身を天のものとして確立しなければなりません。
イエス様は「父よ、もしできることであれば、この杯をわたしから取り去ってください。しかしこれよりも、わたしの望むとおりでなく、御心のままになさってください」とお祈りになりました。しかし逆に「しかし、わたしの望むとおりでなく、あなたの望むとおりになさってください」ともお祈りになりました。
同様に、あなたたちも自分の意志を父の意志と一致させ、天の祭壇を築かなければなりません。そうでないと、神の望みを達成することはできず、サタンとの戦いで勝利することもできないでしょう。
人間は堕落したため、数千年にわたり労働と涙の道を経て、血と涙の価値ある犠牲となり、神の前に生け贄となりたくて戦ってきました。同様に、今日の私たちも国のために生け贄となる道を進むべきです。そうすれば、あなたたちを追随する者たちも同じ道を進むことになり、敵であるサタンすらも降伏させて友達に変えることができるでしょう。
神の望みのために6000年間労し、キリストの宇宙的な責任を引き受けて神の栄光を歌うべき時が来ました。今日まで神に反抗してきたサタンですら、あなたたちに対しても反対するでしょう。しかし、このようなサタンの反抗が転じて、サタンがあなたたちと共に神の前に生け贄を捧げる日が、終末、大審判の日なのです。
私たちがサタンに従順できる条件、つまり天意を中心に据え、出発できる条件を整え、サタンに命令できるようになるとき、サタンもその命令に従うようになります。したがって、あなたたちは宇宙の中でサタンとの戦いで勝利する者となり、天においてサタンとの闘いで勝利する者とならなければなりません。
私たちがこのように勝者となり、天の前に現れる時、私たちはようやく永遠の神の意志を超えた楽園で、サタンと無縁の中で、神中心で永遠に変わらない真の姿となり、生きていくことができます。
サタンもこの最後の戦いが始まることを知っているため、全力を傾けて侵略してくるでしょう。したがって、その戦いで勝利するためには、神も知恵を絞る必要があり、神の子であるあなたたちも全力を挙げなければなりません。
この戦いでは、サタンは盲目的にあなたたちに屈せず、むしろサタンの支配を受けている人間たちと共に、全力で対抗することを知っておかなければなりません。私たちが天のために涙を流すように、サタンもサタンの意志のために涙を流し、私たちが天のために汗をかくように、サタンも自分のために汗をかき、私たちが死を覚悟して戦うように、サタンも自分のために死を覚悟して戦うのです。これを理解する必要があります。
こうして、両勢力が対決する中で私たちが勝利するためには、自分のために生きてはいけません。徹底的に父のために生き、自分の意志を無にして父の前にすべてを捧げ、父の価値を確立するために努力する必要があります。これがサタンとの戦いで勝利し、永遠に神と子の関係を結ぶための道です。
あなたたちはすでにサタンを打ち破り、神との関係を築く道を見つけたことでしょう。したがって、これからはもっと父のために自己を犠牲にする生活を送る必要があります。
<祈祷>
お父様! 私たちが今、神のための勝者になるための道を進むべきだと知っています。この道は涙の道であり、血と汗の道であり、またこの道は自分の血と肉をすべての要素に分離して、すべての人々の前で分け与える犠牲の道であることを知っています。
この道を外れるとき、私たちは父が望む宇宙的な勝利の楽園で生きることができないことも知っています。父よ!私たちの生命は私たちのものではなく、私たちの愛も私たちのものではなく、私たちの子どもたちも私たちのものではなく、私たちのすべての物質も私たちのものではないことを知ります。
私たちが私たちの欲望で自分のためにすべてを所有しようとすれば、私たちに所有されるものは何もないことを知っています。ですから私たちのすべてを父に差し出すことができる犠牲の立場に立って、許可してください。
人間であれば誰でも6000年の因縁を浄化し、勝者になるべきだと知っていることを知っています。ですので、お父様、今日ここに集まった子供たち、この道を進むために涙の道でも、血と汗の道でも、死の道でも全うせず、ただあなたを代わって世界的で天的な使命を全うして帰還した立場から、永遠に父の栄光を歌うことができるように許可してください。
ですから、そして敵であるサタンを支配し、喜びの涙で、全てを天の前に返すことができる子どもたちの姿で、私たちを立ててくださいと熱望し、希望しています。これらすべてをあなたの前に委ねたので、私たちに勝利のための涙の道、汗の道、血の道を歩ませてください。
この勝利の道を切り拓かなければならない使命が、今日私たちに授けられましたので、私たちがこの歴史的な勝利の使命を果たして、十字架の犠牲に捧げられるように許可してください。そして私たちが「私は父の犠牲です」と誇りに思える場で、サタンのためにも涙を流すことがあれば、サタンも「正しい。あなたは確かに神の子です」と認めざるを得ないことを理解しています。
ですので、私たちがそのような団結となるように許可してくださいと、熱望し、望んでいます。
すべての御言葉を主の御名において祈ります。アーメン。
文鮮明先生말씀選集 2 - 21. 神の御心の前に残る者 1957年 7月 7日
1957年 7月 7日(日), 前本部教会.
聖書拝読:マタイによる福音書 15:7-18
神様は今まで労苦して従ってこられたのはただご自身の御心を遂行するためでした。しかし、その御心の根本はどこにおかれているかと言えば、人間と神様が共に楽しい交わりをもつことができる場所におかれています。
私たち人間が神様の望まれる御心を遂行し、神様と永遠に共に楽しい交わりを持つようになると、神様は人間の真のお父様となり、人間は神様の真の子どもとなるのです。こうなると神様の御心はまさしく人間の御心となり、人間は全ての被造物とも調和しながら神様に栄光を帰し、永遠に神様の知恵、慈愛、そして恵みを賛美し続けることになります。そのような日が来ることを神様と人間、そして万物が待ち望んでいるのです。
御心は神様の創造理想であり、堕落した人間にとっても永遠の理想です。そのため、その御心が達成されると、神様と人間が一つとなり、神様が喜ばれれば人間も喜び、人間が喜べば神様も喜ぶのです。つまり、神様の御心が人間の御心となり、二つではなく一つとなって共に動くことで、人間は神様に永遠の理想の喜びを返し、またそれによって自らも永遠の喜びを感じることになるのです。
神様はこのような御心を立てるために、徹底的に通じ合い、一体化できるような一人の人間を探し出されるでしょう。そしてその人を通じて御心を実現されるでしょう。ですから神様の御心と完全に一致し、また神様の御心を実現できる人ならば、その人は神様の知恵と慈悲深い性格を持ち、そのまま全ての創造物にも現れることができるでしょう。
このように永遠で絶対的な神様に似て、神様の知恵を示し、神様の愛を注ぎ、神様の性格を表現できる者がいれば、神様の御心はその人を通して達成され、神様はその人を見て永遠に喜ばれることでしょう。
この理念から、天は帰還の御心をもたらし、帰還の歴史は進んできたのです。もし人々がこのような神様の理念と計画を理解しなければ、人々は神様とは低次元の関係を結ぶことはできません。
人間は堕落したため、神とは無関係で自己中心的なイデオロギーを持っています。神のイデオロギーが神から出てきたように、人間のイデオロギーは人間の知恵から生じたものです。
そのため、人間の歴史を支配してきた人間のイデオロギーが神のイデオロギーといつか出会わなければ、人間は永遠の理想的な世界に到達できません。これらの二つのイデオロギーを調和させようとする試みが宗教です。もしこのような事実に気付かないなら、人間は人間の倫理の中でしか出られないでしょう。
これまでに歩んできた人間の倫理的で思想的な主張は、敵対的なイデオロギーに帰属しないようにすべきです。これらの二つのイデオロギーを結びつける責任が宗教にあり、特にそれが大きな使命となるのはキリスト教です。だからこそ、キリスト教が人間の倫理を神聖なものに結びつけられなければ、キリスト教を中心として永遠の創造の理想を実現することはできません。
もしもあなたが神と永遠に楽しむ不変の創造の理念を持たないなら、いつか天国の反逆者になるでしょう。ですから、あなたがこの神聖な理念を実践し、具現化するためには、この人間的な理念を生活に取り入れなければなりません。
神様はこの目的のために6000年もの間働いてこられました。ですから、あなたがこの目的を達成できなければ、神様の労苦は水泡に帰し、神様の意志は単なるイデオロギーで終わるでしょう。
この永遠で変わり得ない理念を達成するために来られたのが、イエス・キリストです。イエス・キリストは神の知恵を代わりにした真実として、神の愛を代わりにした宇宙的な慈悲として、神の寛容を代わりにした寛容を持って、ここに来て神の意志の道を切り開いてくださいました。
イエス様は敵対的なイデオロギーを確立するためにこの世に来られたのです。そのため、イエス様は神のイデオロギーを人間の生活に具現化するために純潔と高潔を持って現れました。しかし、このようにして神の姿を代わりにし、純潔と高潔を持って現れたイエス様の人格を理解し認識する者は一人もいませんでした。
さらに、イエス様は敵対的な性格を示すために感情を持って来られました。その感情は良い人々だけでなく、悪い人々まで感情を動かすことができましたが、人々の不信心によりこの地での感情は実現されませんでした。そして、イエス様は神の意志に対する変わらぬ悔いを持って現れましたが、当時の人々はそのようなイエス様の心情を知らずに従わなかったのです。
したがって、私たちの後代は、イエス様がこの地で実現しようとされた敵対的なイデオロギーを具現化するために、イエス様が持っていた敵対的な純潔と高潔、そして神への感情と悔いを持ち、イエス様に代わってこの地で実践する生活をしない限り、イエス様に結びついている罪を解放することはできません。
人間が人間的なすべてから抜け出して敵対的なイデオロギーを生活規範として立てない限り、神とイエス様のイデオロギーを持っていないということです。また、神が望まれ、イエス様が希望する創造の本質的な理想的な世界は、この地で実現されません。
では、皆さんはどうすればいいでしょうか? 人間的なすべてのイデオロギーを神聖なものに完全に溶かし込んでしまうことができる自分になり、人間的なものを神聖なものに一致させなければなりません。そうでなければ、皆さんは地上天国の生活を送ることはできません。
イエス様と聖霊は2千年以上もの間、霊的に人間の意志を神聖なものに結びつけるために努力されてきました。そのようなイエス様を信じる皆さんならば、その意志を引き継ぎ、人間を神聖なものに一致させる使命を果たさなければなりません。
この使命を引き継ぐためには、まず生活の中であらゆる悪の条件に打ち勝つことができなければなりません。そのためには、イエス様の生活のイデオロギーを持つことが必要です。 十字架を信じることは、悪魔との精神的な結びつきを断つことでしたが、今度は皆さんはイエス様の生活のイデオロギーを持ち、それを基にして精神的に肉体的にも悪魔との結びつきを断つことができなければなりません。
そして、審判の日が近づいています。では、審判はどのように行われるのでしょうか? 人間が地上でどれだけ神聖なイデオロギーを確立したかにかかっているのです。このような審判を回避するためには、神の審判を恐れる前に、神が望んでいる意志を責任を持って達成できる自分にならなければなりません。そうでなければ、神の審判を受ける前にサタンが先に摂取することになります。
この地に神の性格を持つ者はいますか? この世界にイエス様の純粋な性格を持つ者はいますか? その人を見つけて友達にしてください。誰が高潔ですか? その人に従ってください。また、誰が神の性格を持ち、感情を動かす者がいますか? その人に従って崇拝してください。それから必ず生命の道を見つけることでしょう。 そして、その人に従って崇拝し、模倣することで審判を回避することになります。
皆さんはイエス様の純潔、高潔、感情を経験したことがありますか? 経験したことがなければ、自分と戦ってください。サタンは遠くにあるものではなく、皆さん自身の中にあるものです。だからこそ、皆さん自身の中にある敵対的な性格とサタン的な性格の違いを見つけ、分別する生活をしなければなりません。
次に、皆さんは変わらぬ姿で現れなければなりません。イエス様が変わることはなかったということは、敵対的なイデオロギーを捨てて不変であったという言葉です。サタンに支配される堕落した人間は巧妙な存在です。エデンの園のサタンは自らの邪悪な本性を明らかにしましたが、最後の審判の際にはサタンが自らの邪悪な本性を明かしません。
皆さんは不変の心情として、自分の環境、自分の生命に対するどんな執着も捨て去り、イエス様の不変の心情と一体になることができる人にならなければなりません。
自分を含むすべての環境は、皆さんが戦わなければならない相手であることを知ってください。不変の姿で現れたイエスの前には、すべてが闘争の対象であり、すべてが敵でした。それだけでなく、霊的な領域さえもがイエス様に攻撃を仕掛けてきました。天と地全体がイエス様の前に戦いの相手であったので、イエス様はどれほど哀れな方でしょうか。そんな中でも、彼は不変の姿で立つことができたということを私たちは知らなければなりません。
今、皆さんは神の前で不変の姿で立ち、サタンに対して不変の姿を誇示できる人でなければなりません。そのような人が集まり、地上に神の知恵を示す足場を築くべきです。そうなれば、人間はこれまでの不幸で苦しい経験とは対照的に、サタンに立ち向かっていたことから離れ、喜びと栄光を歌い、神の栄光を歌うことができるようになります。
文鮮明先生の言葉集 2 - 22. 善の本質を見つけ、罪の報いを超えて行こう (1957年7月21日)
1957年7月21日(日曜日)、総本部教会
すべての被造物はもともと善く造られましたが、アダムとイブの堕落によりその善の価値を表現できなくなり、罪の報いから逃れられないまま、善を追求して降りてきていることを皆さんはよく知っています。
神様が創造された本来の楽園では、善だけが存在すべきでしたが、この善が今でもこの地に現れていないため、神様と全ての被造物が今までため息をついているのです。
したがって、堕落した人間はどのような苦難の歴史的過程を経てでも、この善のイデオロギーを実現しなければなりません。人間はこの目的を個体で達成すると同時に、国家、世界、全ての天地に広げなければなりません。そして天地に善の意志を明らかにできるその一瞬を回復しなければなりません。しかし、まさに皆さんが絶対的な善の意志を実現し、宇宙全体の目的を達成するべき人々であり、また皆さんはそのような運命に置かれているのです。
本来の善を尊重する私たちは、ますますまず、善くして被造物を創造なさった神の実体を知らなければなりません。そして神の善き価値を知り、その言葉を伝えなければなりません。そうして、善き言葉を通じて創造されたすべての被造物の善き価値を自ら見つけ出し、表現しなければなりません。そうでなければ、もともと神が創造された善の目的は達成されないことを皆さんは知らなければなりません。
人間は堕落する前は神の絶対的な善を持っており、神様は人間に善く創造された全てのものとも関係を結べるようにされました。
神は絶対であり、善の言葉を通じて宇宙を造りましたが、その中でも人間は全価値的な存在として造られました。したがって、人間は神の善を歌う一つの中心体として現れなければならなかったのは、創造本来の目的でした。しかし、人間は堕落によりこの価値を失ってしまいました。
堕落した私たち人間はどのようにして再び善良な神に近づくことができるのでしょうか?ますます良心を通じて本体の良を似せていく必要があります。次に、神の言葉に従って行動し、神の本体の善と言葉の価値を示さなければなりません。そうなったとき、神は創造されたすべてのものの中で、その一瞬に喜びを見いだすでしょう。そして、善の目的を追い求めてきた人々も神の善の価値を感じる、善の実体となるのです。しかし、これが人間の堕落によって完全に破綻してしまったのです。
今、皆さん自身が堕落したアダムとハワの子孫であることを自覚し、善の目的を達成した善の祖先にならなければなりません。皆さんが善の目的を果たさなければ、アダムとハワから受け継いだ罪状は皆さん個人にとどまるだけでなく、皆さん個々の通じて全世界と天国まで広がってしまいます。
皆さんは自分自身を正しく立て、神が古代から望まれていた本来の善を代わりになすことで、神の言葉で造られた宇宙の善の価値を感じ、万物を善だと讃えることができなければなりません。また、神の絶対的な善の価値を、皆さんの良心を通して相対的に示すことができなければなりません。そうでなければ、神が望む全体的な目的を達成することはできず、皆さんが求める善も見出す道がありません。
この本来の善は、神の永遠で絶対で不変な性質を中心に実体を通して現れるべきものであり、その永遠で不変で唯一の神の善の性質を相対的に示さなければならない人間が堕落によって神と人間の永遠で不変で唯一の価値である善が実現されなかったことです。
したがって、人間は善の自律性、尊厳、価値性を失ってしまったのです。堕落した人間が求める最大の目的は、神の自律性、尊厳、価値性です。これが実現しない限り、永遠、不変、唯一の神の善との繋がりを持つことはできません。
人間の祖先アダムとハワがこれら三つを立てるために死んだり、生きるために生きたりしたなら、これが今日の私たちの希望にまで残らなかったでしょう。それが実現すれば、人間は自ら善の自律性、尊厳性、価値性を楽しみながら、神の無限なる善を中心にして永遠の楽園で喜びながら生きることができたでしょう。
しかし、アダムとハワの誤りによって、これが今日まで人々が探さなければならない希望となってしまいました。つまり、人類の祖先であるアダムとハワが絶対的な善の本体である神を代わりにし、相対的に善の自律性、尊厳性、価値性を持っていたなら、今日の地上の人類は恐怖と悲しみと絶望の中に生きていなかったでしょう。
アダムとハワは創造主的な立場で神を代わりにし、全体を責任を持っていました。この立場を考えると、彼らが犯した罪が彼ら個人にだけ影響するものではなく、善良に創造された全ての生態系にまで影響を与える恐ろしい事実を知ることができ、アダムとハワがこの地上で相対的に善を見つけて立てるべきだったことを私たちは知ることができます。
しかし、彼らは自分たちの犯罪が彼ら自身だけでなく、将来の子孫にも影響を与え、さらには神にまで悲しませることを感じなかったのです。アダムとハワが死を覚悟して神の永遠で不変で唯一の言葉に従って進んでいた場合、このような歴史的な罪状、時代的な罪状、未来的な罪状は存在しなかったでしょう。
しかし、彼らは神の絶対的な言葉に従わなかったため、その堕落の瞬間から歴史的、時代的、未来的な罪状が彼ら一人に現れることになりました。アダムとハワがサタンの誘惑に屈する際に、彼らには神の言葉に従おうとする心がある一方で、サタンの誘惑に引き込まれる肉体がありました。肉体の力が強かったため、彼らは神の意志に逆らうことになりました。その時、アダムとハワは絶対的な善を追求する良心の力が強いほど、それに比例して恐怖も大きかったのです。
この恐怖の心が予告したことは、彼らの堕落行為が歴史的に、時代的に永遠に悪の起源となることであったことです。しかし、彼らはそれを知りませんでした。アダムとハワが堕落する際に恐怖を感じたとき、彼らはその恐怖に刺激されて絶対的な善を守り、その悪の心を抑える義の不変の中心を立てるべきでしたが、逆に悪の本体と手を結んでしまったのです。
この悲しい事実は、彼らにだけでなく、堕落の血統を引き継いだ皆さんにも及んでしまったことです。したがって、皆さんは自分たちの生活の中で良心を通じて悪の本体と戦わざるを得ないことを忘れてはなりません。
一つの罪がこのように歴史を通じて未来にまで人間の良心と対決して出てくることを心に留めて、私たちは堕落の領域から脱出しなければなりません。人間はたとえ堕落したアダムとハワの子孫であっても、絶対的な善の主体に従って、恐怖の心と戦う良心があるため、どの時代でも悪と戦わない人はいません。
アダムとハワは恐怖の道を選んだことで、彼らの行為は悲劇を招き、悲しみを引き起こし、絶望の底に堕ちる結果となりました。このように恐怖の立場に立つと、今まで彼らと共にいた命と愛の源である永遠なる神は彼らから離れることになり、彼らは語り尽くせない悲劇の心を感じることになったのです。
このように考えると、理想の楽園であり、善の楽園であり、快楽の楽園として創造されたエデンの園は、アダムとハワとは何の関係もない楽園となり、彼らは絶望の立場で暗黒の世界に堕ちることになりました。
罪悪の歴史をたどってきた私たち人間は、生涯を通じて生の目的を見つけ、絶対的な善の基準にまで昇り詰めなければなりません。この使命を切り開いた方がイエス・キリストであることを皆さんは知らなければなりません。
皆さんは神が立てた言葉に依存し、神が立てた指導者に依存して絶対的な善を追求し続けなければなりません。皆さんは心が頼りとなる良心と、良心が頼りとなる神の言葉を立て、身体が頼りとなる神の意志を代わりにする実体を立て、その神の言葉と実体に自分自身を繋げて絶対的な善の目的を回復しなければなりません。
そうでなければ、神の永遠で不変で唯一の善である善の中で、本質の自律性、尊厳性、価値性を示すことができず、6000年にわたり臨在してくださった神の希望を達成できるようにはなりません。
人間はこのように絶対的な善を回復しなければならない運命に直面しているため、人間が築いた倫理道徳も善を追求していないものはありません。また、神が人々に与えた言葉を実践させたのも、人が生活の過程で歴史的な善の絶対的な基準を見つけ、善の目的を達成させるためです。
したがって、皆さんは歴史的な善の言葉を実践することで、アダム以降6000年にわたり神の言葉を守り、戦ってきた歴史を代表する者とならなければなりません。これが私たちに与えられた最後の課題なのです。
皆さんはアダムとハワがエデンの園で宇宙的な善の言葉を個別の言葉として扱い、堕落の怨念を残した場所に立たないようにし、かわりに神の永遠なる善の言葉を掴み、永遠に変わらない姿で現れなければなりません。そうでなければ、言葉を裏切り、歴史的な罪の縁を切り離すことはできません。
アダムとハワが堕落によって恐怖の心を抱くようになり、悲劇を感じ、絶望を感じるようになったことは、歴史的に続いてきて終わりのない人類も同じ道を歩むことになるのです。
世の中には善を追求する人もいれば、悪を追求する人もいます。悪を追求する者には言うまでもなく、善を追求している人たちでさえ、いつも満足と平和を享受している人はおらず、彼らもある時期にはわからない恐怖にぶつかり、うめき声を上げることになります。
善を追求する人であっても、自らを通じて永遠の善と理念を表現することはできません。なぜなら、人間は復帰の途上にあるからです。堕落によって世界的な恐怖、悲劇、絶望が私たちにまで訪れる終末において、私たちが最も重要なことは、死を厭わずに無限の恐怖、悲劇、絶望と戦って勝利し、独り勝利の復活権を築いたイエス・キリストの人格と生涯を手本にすべきです。彼はこの地上で恐怖、悲劇、絶望と戦って勝利する瞬間まで、自己を忘れて戦い続けたのです。
人は誰もが自己を立て、自分の価値を全体に示そうとする性質を持っています。このような自己を通じた価値性を発揮しようとするこの性質は良いものです。もともと人間はこの性質の価値を100%発揮していたが、堕落のためにその価値性を喪失しました。
イエス・キリストは自己を主張し、自己の価値を全体の尊厳に代わって示す価値を持っていましたが、苦境の中で自分が蹂躙され、無視されることでも変わらぬ信念で悪と戦いました。
彼はまた、自分のための希望をすべて捨てて、自分が残す全体の希望が1000年後、2000年後には必ず成就されるという確信をもって、善の本質を築くために不変の姿勢ですべての悲劇、絶望、恐怖と闘いました。
今、皆さんはこのようなイエスの人格に似せ、その心情を手本にして、自分の存在が現実で言えないほど無視され、軽んじられる場面があるとしても忍耐し、それを乗り越えていくことができなければ、堕落から抜け出すことはできません。
今度は皆さんが世界のすべてを忘れ、すべての苦しみを乗り越えるためには、絶望の中でも希望を、悲劇の中でも喜びを、恐怖の中でも権威を築いていく必要があります。そして、これが皆さんが果たさなければならない使命です。
皆さんはイエス・キリストが受けたサタンの侵害を絶対に受けてはいけません。ただし、サタンの侵害を取り除くことができるだけの天国の喜び、希望、権威を持ち、天国の善を示すことができなければなりません。そして、絶対的な善の価値をこの地上に相対的に示し、失われた万物の主人公となる資格を持たなければなりません。それになる日が来れば、神も皆さんを思うままにできなくなります。
私たちの堕落が本質へ還るとき、私たちは神と共に住むことができ、神を代わって立ち上がる資格を持つことになります。その後、皆さんが万物の前に現れるとき、すべてが栄光の勝利の日を待ち望んで神の前で黙って頭を垂れていたように、皆さんの尊厳の前でも無言で従えるようになります。
また、皆さんは善の価値を発揮しなければなりません。自分が善であると主張したり証明しようとせずとも、他の人々が皆さんの善の価値を賞賛し、皆さんと永遠の縁を結ぶために追随できるようになるべきです。
このような価値を持ち、永遠の希望、永遠の喜び、永遠の権威と善を代わりに示す実体とならなければ、神が安息なさることはありません。そのような人でなければ、歴史的な運命の中でこの罪の報いから抜け出すことはできません。
そうでなければ、皆さんはこの罪の報いを受け、千秋万代の怨みを残すことになります。その事実を認識し、新たな決意と覚悟を持って動かなければなりません。
皆さんが新しい独立性、尊厳、価値を示す言葉を持っていますか?善の本体を見、感じましたか?それならば、皆さんはそれを守らなければなりません。神が保護してくださった天的な独立性を失わないようにしてください。
皆さんは統一教会が持つ言葉が永遠の善を紹介できる真理の言葉であると信じていますか?この言葉を通して神を迎え入れることができると信じていますか?それならば、これからはどんな状況にあってもこの権威と尊厳と価値を失わずに前進するとき、永遠の善の本体である神が皆さんにサタンの世界を審判する権限を与えられるという事実を理解する必要があります。
どのような状況にあっても、この権威と尊厳を失わずに前進するとき、永遠の善の本体である神が皆さんにサタンの世界を審判する権限を授けられることを理解する必要があります。
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1957年7月21日(日曜日)、総本部教会
すべての被造物はもともと善く造られましたが、アダムとイブの堕落によりその善の価値を表現できなくなり、罪の報いから逃れられないまま、善を追求して降りてきていることを皆さんはよく知っています。
神様が創造された本来の楽園では、善だけが存在すべきでしたが、この善が今でもこの地に現れていないため、神様と全ての被造物が今までため息をついているのです。
したがって、堕落した人間はどのような苦難の歴史的過程を経てでも、この善のイデオロギーを実現しなければなりません。人間はこの目的を個体で達成すると同時に、国家、世界、全ての天地に広げなければなりません。そして天地に善の意志を明らかにできるその一瞬を回復しなければなりません。しかし、まさに皆さんが絶対的な善の意志を実現し、宇宙全体の目的を達成するべき人々であり、また皆さんはそのような運命に置かれているのです。
本来の善を尊重する私たちは、ますますまず、善くして被造物を創造なさった神の実体を知らなければなりません。そして神の善き価値を知り、その言葉を伝えなければなりません。そうして、善き言葉を通じて創造されたすべての被造物の善き価値を自ら見つけ出し、表現しなければなりません。そうでなければ、もともと神が創造された善の目的は達成されないことを皆さんは知らなければなりません。
人間は堕落する前は神の絶対的な善を持っており、神様は人間に善く創造された全てのものとも関係を結べるようにされました。
神は絶対であり、善の言葉を通じて宇宙を造りましたが、その中でも人間は全価値的な存在として造られました。したがって、人間は神の善を歌う一つの中心体として現れなければならなかったのは、創造本来の目的でした。しかし、人間は堕落によりこの価値を失ってしまいました。
堕落した私たち人間はどのようにして再び善良な神に近づくことができるのでしょうか?ますます良心を通じて本体の良を似せていく必要があります。次に、神の言葉に従って行動し、神の本体の善と言葉の価値を示さなければなりません。そうなったとき、神は創造されたすべてのものの中で、その一瞬に喜びを見いだすでしょう。そして、善の目的を追い求めてきた人々も神の善の価値を感じる、善の実体となるのです。しかし、これが人間の堕落によって完全に破綻してしまったのです。
今、皆さん自身が堕落したアダムとハワの子孫であることを自覚し、善の目的を達成した善の祖先にならなければなりません。皆さんが善の目的を果たさなければ、アダムとハワから受け継いだ罪状は皆さん個人にとどまるだけでなく、皆さん個々の通じて全世界と天国まで広がってしまいます。
皆さんは自分自身を正しく立て、神が古代から望まれていた本来の善を代わりになすことで、神の言葉で造られた宇宙の善の価値を感じ、万物を善だと讃えることができなければなりません。また、神の絶対的な善の価値を、皆さんの良心を通して相対的に示すことができなければなりません。そうでなければ、神が望む全体的な目的を達成することはできず、皆さんが求める善も見出す道がありません。
この本来の善は、神の永遠で絶対で不変な性質を中心に実体を通して現れるべきものであり、その永遠で不変で唯一の神の善の性質を相対的に示さなければならない人間が堕落によって神と人間の永遠で不変で唯一の価値である善が実現されなかったことです。
したがって、人間は善の自律性、尊厳、価値性を失ってしまったのです。堕落した人間が求める最大の目的は、神の自律性、尊厳、価値性です。これが実現しない限り、永遠、不変、唯一の神の善との繋がりを持つことはできません。
人間の祖先アダムとハワがこれら三つを立てるために死んだり、生きるために生きたりしたなら、これが今日の私たちの希望にまで残らなかったでしょう。それが実現すれば、人間は自ら善の自律性、尊厳性、価値性を楽しみながら、神の無限なる善を中心にして永遠の楽園で喜びながら生きることができたでしょう。
しかし、アダムとハワの誤りによって、これが今日まで人々が探さなければならない希望となってしまいました。つまり、人類の祖先であるアダムとハワが絶対的な善の本体である神を代わりにし、相対的に善の自律性、尊厳性、価値性を持っていたなら、今日の地上の人類は恐怖と悲しみと絶望の中に生きていなかったでしょう。
アダムとハワは創造主的な立場で神を代わりにし、全体を責任を持っていました。この立場を考えると、彼らが犯した罪が彼ら個人にだけ影響するものではなく、善良に創造された全ての生態系にまで影響を与える恐ろしい事実を知ることができ、アダムとハワがこの地上で相対的に善を見つけて立てるべきだったことを私たちは知ることができます。
しかし、彼らは自分たちの犯罪が彼ら自身だけでなく、将来の子孫にも影響を与え、さらには神にまで悲しませることを感じなかったのです。アダムとハワが死を覚悟して神の永遠で不変で唯一の言葉に従って進んでいた場合、このような歴史的な罪状、時代的な罪状、未来的な罪状は存在しなかったでしょう。
しかし、彼らは神の絶対的な言葉に従わなかったため、その堕落の瞬間から歴史的、時代的、未来的な罪状が彼ら一人に現れることになりました。アダムとハワがサタンの誘惑に屈する際に、彼らには神の言葉に従おうとする心がある一方で、サタンの誘惑に引き込まれる肉体がありました。肉体の力が強かったため、彼らは神の意志に逆らうことになりました。その時、アダムとハワは絶対的な善を追求する良心の力が強いほど、それに比例して恐怖も大きかったのです。
この恐怖の心が予告したことは、彼らの堕落行為が歴史的に、時代的に永遠に悪の起源となることであったことです。しかし、彼らはそれを知りませんでした。アダムとハワが堕落する際に恐怖を感じたとき、彼らはその恐怖に刺激されて絶対的な善を守り、その悪の心を抑える義の不変の中心を立てるべきでしたが、逆に悪の本体と手を結んでしまったのです。
この悲しい事実は、彼らにだけでなく、堕落の血統を引き継いだ皆さんにも及んでしまったことです。したがって、皆さんは自分たちの生活の中で良心を通じて悪の本体と戦わざるを得ないことを忘れてはなりません。
一つの罪がこのように歴史を通じて未来にまで人間の良心と対決して出てくることを心に留めて、私たちは堕落の領域から脱出しなければなりません。人間はたとえ堕落したアダムとハワの子孫であっても、絶対的な善の主体に従って、恐怖の心と戦う良心があるため、どの時代でも悪と戦わない人はいません。
アダムとハワは恐怖の道を選んだことで、彼らの行為は悲劇を招き、悲しみを引き起こし、絶望の底に堕ちる結果となりました。このように恐怖の立場に立つと、今まで彼らと共にいた命と愛の源である永遠なる神は彼らから離れることになり、彼らは語り尽くせない悲劇の心を感じることになったのです。
このように考えると、理想の楽園であり、善の楽園であり、快楽の楽園として創造されたエデンの園は、アダムとハワとは何の関係もない楽園となり、彼らは絶望の立場で暗黒の世界に堕ちることになりました。
罪悪の歴史をたどってきた私たち人間は、生涯を通じて生の目的を見つけ、絶対的な善の基準にまで昇り詰めなければなりません。この使命を切り開いた方がイエス・キリストであることを皆さんは知らなければなりません。
皆さんは神が立てた言葉に依存し、神が立てた指導者に依存して絶対的な善を追求し続けなければなりません。皆さんは心が頼りとなる良心と、良心が頼りとなる神の言葉を立て、身体が頼りとなる神の意志を代わりにする実体を立て、その神の言葉と実体に自分自身を繋げて絶対的な善の目的を回復しなければなりません。
そうでなければ、神の永遠で不変で唯一の善である善の中で、本質の自律性、尊厳性、価値性を示すことができず、6000年にわたり臨在してくださった神の希望を達成できるようにはなりません。
人間はこのように絶対的な善を回復しなければならない運命に直面しているため、人間が築いた倫理道徳も善を追求していないものはありません。また、神が人々に与えた言葉を実践させたのも、人が生活の過程で歴史的な善の絶対的な基準を見つけ、善の目的を達成させるためです。
したがって、皆さんは歴史的な善の言葉を実践することで、アダム以降6000年にわたり神の言葉を守り、戦ってきた歴史を代表する者とならなければなりません。これが私たちに与えられた最後の課題なのです。
皆さんはアダムとハワがエデンの園で宇宙的な善の言葉を個別の言葉として扱い、堕落の怨念を残した場所に立たないようにし、かわりに神の永遠なる善の言葉を掴み、永遠に変わらない姿で現れなければなりません。そうでなければ、言葉を裏切り、歴史的な罪の縁を切り離すことはできません。
アダムとハワが堕落によって恐怖の心を抱くようになり、悲劇を感じ、絶望を感じるようになったことは、歴史的に続いてきて終わりのない人類も同じ道を歩むことになるのです。
世の中には善を追求する人もいれば、悪を追求する人もいます。悪を追求する者には言うまでもなく、善を追求している人たちでさえ、いつも満足と平和を享受している人はおらず、彼らもある時期にはわからない恐怖にぶつかり、うめき声を上げることになります。
善を追求する人であっても、自らを通じて永遠の善と理念を表現することはできません。なぜなら、人間は復帰の途上にあるからです。堕落によって世界的な恐怖、悲劇、絶望が私たちにまで訪れる終末において、私たちが最も重要なことは、死を厭わずに無限の恐怖、悲劇、絶望と戦って勝利し、独り勝利の復活権を築いたイエス・キリストの人格と生涯を手本にすべきです。彼はこの地上で恐怖、悲劇、絶望と戦って勝利する瞬間まで、自己を忘れて戦い続けたのです。
人は誰もが自己を立て、自分の価値を全体に示そうとする性質を持っています。このような自己を通じた価値性を発揮しようとするこの性質は良いものです。もともと人間はこの性質の価値を100%発揮していたが、堕落のためにその価値性を喪失しました。
イエス・キリストは自己を主張し、自己の価値を全体の尊厳に代わって示す価値を持っていましたが、苦境の中で自分が蹂躙され、無視されることでも変わらぬ信念で悪と戦いました。
彼はまた、自分のための希望をすべて捨てて、自分が残す全体の希望が1000年後、2000年後には必ず成就されるという確信をもって、善の本質を築くために不変の姿勢ですべての悲劇、絶望、恐怖と闘いました。
今、皆さんはこのようなイエスの人格に似せ、その心情を手本にして、自分の存在が現実で言えないほど無視され、軽んじられる場面があるとしても忍耐し、それを乗り越えていくことができなければ、堕落から抜け出すことはできません。
今度は皆さんが世界のすべてを忘れ、すべての苦しみを乗り越えるためには、絶望の中でも希望を、悲劇の中でも喜びを、恐怖の中でも権威を築いていく必要があります。そして、これが皆さんが果たさなければならない使命です。
皆さんはイエス・キリストが受けたサタンの侵害を絶対に受けてはいけません。ただし、サタンの侵害を取り除くことができるだけの天国の喜び、希望、権威を持ち、天国の善を示すことができなければなりません。そして、絶対的な善の価値をこの地上に相対的に示し、失われた万物の主人公となる資格を持たなければなりません。それになる日が来れば、神も皆さんを思うままにできなくなります。
私たちの堕落が本質へ還るとき、私たちは神と共に住むことができ、神を代わって立ち上がる資格を持つことになります。その後、皆さんが万物の前に現れるとき、すべてが栄光の勝利の日を待ち望んで神の前で黙って頭を垂れていたように、皆さんの尊厳の前でも無言で従えるようになります。
また、皆さんは善の価値を発揮しなければなりません。自分が善であると主張したり証明しようとせずとも、他の人々が皆さんの善の価値を賞賛し、皆さんと永遠の縁を結ぶために追随できるようになるべきです。
このような価値を持ち、永遠の希望、永遠の喜び、永遠の権威と善を代わりに示す実体とならなければ、神が安息なさることはありません。そのような人でなければ、歴史的な運命の中でこの罪の報いから抜け出すことはできません。
そうでなければ、皆さんはこの罪の報いを受け、千秋万代の怨みを残すことになります。その事実を認識し、新たな決意と覚悟を持って動かなければなりません。
皆さんが新しい独立性、尊厳、価値を示す言葉を持っていますか?善の本体を見、感じましたか?それならば、皆さんはそれを守らなければなりません。神が保護してくださった天的な独立性を失わないようにしてください。
皆さんは統一教会が持つ言葉が永遠の善を紹介できる真理の言葉であると信じていますか?この言葉を通して神を迎え入れることができると信じていますか?それならば、これからはどんな状況にあってもこの権威と尊厳と価値を失わずに前進するとき、永遠の善の本体である神が皆さんにサタンの世界を審判する権限を与えられるという事実を理解する必要があります。
どのような状況にあっても、この権威と尊厳を失わずに前進するとき、永遠の善の本体である神が皆さんにサタンの世界を審判する権限を授けられることを理解する必要があります。
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