広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより22年11月用

「読む会」だより(22年1月用)文責IZ

(10月の議論など)
10月の「読む会」は新しい参加者を迎えて18日に開催されました。
(説明1)の部分では、「資本は、……自分が征服する労働過程の技術的な性格にはさしあたり無関心である……とあるが、資本の下で機械化などが進むのではないのか」という質問が出ました。
チューターは、およそ次のように説明しました。労働過程には、その客観的な条件としての労働手段と、その主体的な条件である労働力という二つの要素がある、ということはすでに5章の第1節で述べられました。パン製造の例をとれば、それが中世的・ギルド的な生産から資本家的な生産に置き換わるためには、パンの材料や使用器具(生産手段)に何を使い、どのようにしてパンを作るのか(手で捏ねてか機械でか)といった“技術的な”点については、資本は“さしあたり”こだわるものではない、と言うのです。
労働過程の諸要素が従来のままであっても、資本の下で、生産手段が直接的生産者である親方たちの手から離れて非生産者である資本家の手のもとに独占されるようになると、作るものは同じパンであっても、それが誰によって何のために作られるのか──親方と弟子とが特定の顧客の食料とするために作るのか、あるいは資本家があらゆる可能な顧客(市場)に販売して“儲け”を得るために作るのか──といった点で大きな違いが出てきます。前者の場合には、生産手段は主体的条件をなす労働力と結合されていることを条件としているので、たとえばパン釜は、その使用価値(パンを焼くための用具)として、あるいは生産者自身がもつ労働能力の延長として評価される(意義を持つ)だけです。ところが、資本の下での生産手段はそうではありません。ここではパン釜(生産手段)は、労働者の労働力(労働時間)を吸収し、労働力の価値を越える剰余価値をもつ商品を生み出し、資本(資本価値)を増殖する手段となるからこそ、資本家にとって使用価値をもつのです。
このように、生産手段が価値増殖の手段となる(不変資本として役立つ)という特別な使用価値を持つのは、確かにパン釜がその本来の使用価値であるパンを焼くために利用されることで初めて成り立つものです。しかし資本(不変資本)としてのパン釜は、“物”(有用物)としてのパン釜がもつ使用価値とはまったく違う、それが価値増殖の手段となるという形態的な使用価値を、すなわち一定の社会関係の中での歴史的・一時的な規定をもつ使用価値をここで受け取るのです。
つまり労働過程とその要素が従来通りであっても、それらの要素(生産手段と労働力)が資本家によって買い取られたものとなり、生産手段が直接的生産者から切り離されて資本家の私的所有物として独占されるならば──そのためには相互に独立した諸個人と、彼らを結び付ける商品の流通(市場)および貨幣が前提されなければなりませんが──、生産手段は単なる有用物ではなくて、資本家が絶対的剰余価値を取得し、資本を増殖するための手段(不変資本)に転化されるのです。そしてこの転化によって、単に剰余労働を剰余生産物(諸使用価値)等として取得する旧来の生産は、剰余労働を剰余価値として取得し、資本の価値増殖を自己目的とする資本家的な生産へと置き換わることになるのです。
資本の下での機械化や大工業の発展等は、むしろ次章からの相対的剰余価値の取得に関わるので、ここでは“さしあたり”と言われているのだと思われます。
なお、チューターが補足したいと述べた「同職組合的性格が崩れて……資本家が製粉業者や麦粉問屋の姿で立ち現れ<る>」という部分については、第11章以降の協業や分業の所で補足したいと思います。

(説明2)の部分では、チューターが「労働者と生産手段との全面的な再結合は……意識的な社会的生産とそのもとでの真の人間性の発展を保証する」と触れた点について、「社会主義を標榜する中国などでは人間性が保証されているとはとても思えない」という疑問が出されました。いかに社会主義を標榜しようとも、中国が反労働者的な国家資本主義の国家でしかないことは、今ではすっかり明らかではないのでしょうか。
この点に関連して参加者から、マルクスが語っている人間性の問題については、『フォイエルバッハ・テーゼ』が参考になるのではないか、という助言が出されました。岩波文庫版のものを今回の付録として付けましたので参考に願います。

今回も範囲は広いのですが、資本による絶対的剰余価値の取得の理解に関わる点に絞って引用しますので、ぜひ本文を読んでみて下さい。


(説明)第8章「労働日」の3回目、第5、6、7節について

(1.第5節「標準労働日のための闘争14世紀半ばから17世紀末までの労働日延長のための強制法」より)

・「1労働日とは何か?」資本によって日価値を支払われる労働力を資本が消費してよい時間はどれだけか?労働日は、労働力そのものの再生産に必要な労働時間を越えて、どれだけ延長されうるか? @
これらの問いに対して、すでにみたように、資本は次のように答える。労働日は、毎日、まる24時間から、労働力がその役立ちを繰り返すために絶対に欠くことのできない僅かばかりの休息時間を引いたものである。まず第一に自明なことは、労働者は彼の1生活日の全体を通じて労働力以外の何ものでもないということ、したがってまた、彼<労働者>の処分しうる時間はすべて自然的にも法的にも労働時間であり、したがって資本の自己増殖のためのものだということである。人間的教養のための、精神的発達のための、社会的諸機能の遂行のための、社交のための、肉体的および精神的生命力の自由な営みなどは、日曜の安息時間でさえも──そしてたとえ安息順守の国においてであろうと──<資本にとっては>ただふざけたことでしかない! 
@ところが、資本は、剰余労働を求めるその無際限な盲目的な衝動、その人狼的渇望をもって、労働日の精神的な最大限度だけではなく、純粋に肉体的な最大限度をも踏み越える。資本は、身体の成長のためや発達のためや健康維持のための時間を横取りする。資本は、外気や日光を吸うために必要な時間を取り上げる。資本は、食事時間を削り、できればそれを生産過程そのものに合併する。したがって、ただの生産手段としての労働者に食事があてがわれるのは、ボイラーに石炭が、機械に油脂が加えられるようなものである。生命力を集積し更新し活気づけるための健康な睡眠を、資本は、まったく疲れ切った有機体の蘇生のためにどうしても欠くことのできない時間だけのマヒ状態に圧縮する。ここでは労働力の正常な維持が労働日の限界を決定するのではなく、逆に、労働力の1日の可能な限りの最大の支出が、たとえそれがどんなに不健康で無理で苦痛であろうとも、労働者の休息時間の限界を決定する。資本は労働力の寿命を問題にしない。資本が関心をもつのは、ただただ、1労働日に流動化されうる労働力の最大限だけである。資本が労働力の寿命の短縮によってこの目標に到達するのは、ちょうど、どん欲な農業者が土地の豊度の略奪によって収穫の増大に成功するようなものである。
●つまり、本質的に剰余価値の生産であり剰余価値の吸収である資本主義的生産は労働日の延長によって人間労働力の萎縮を生産し、そのためにこの労働力はその正常な精神的および肉体的な発達と活動との諸条件を奪われるのであるが、それだけではない。資本主義的生産は労働力そのものの早すぎる消耗と死滅とを生産する。それは労働者の生活時間を短縮することによって、ある与えられた期間のなかでの労働者の生産時間を延長するのである。
しかし、労働力の価値は、労働者の再生産または労働者階級の生殖に必要な諸商品の価値を含んでいる。だから、資本がその無際限な自己増殖衝動によって必然的に追及する労働日の反自然的な延長が個々の労働者の生存期間を、したがってまた彼らの労働力の耐久期間を短縮するならば、損耗した労働力の一層急速な補填が必要になり、したがって労働力の再生産には一層大きい損耗費が入ることになり、それは、ちょうど、機械の損耗が速ければ速いほどその毎日再生産されるべき価値部分が一層大きくなるのと同じことである。それだからこそ、資本は、それ自身の利害関係によって、標準労働日の設定を指示されているように見えるのである。」(P347~)

・「……我亡き後に洪水は来たれ! これが、すべての資本家、すべての資本家国の標語なのである。だから、資本は、労働者の健康や寿命には、社会によって顧慮を強制されない限り、顧慮を払わないのである。……しかし、一般的に言って、これ<顧慮を払わないこと>もまた個々の資本家の意思の善悪によることではない。●自由競争が資本主義的生産の内在的な諸法則を個々の資本家に対しては外的な強制法則として作用させるのである。」(P352~)

・「●標準労働日の制定は、資本家と労働者との何世紀にもわたる闘争の結果である。しかし、この闘争の歴史は、相反する二つの流れを示している。たとえば、現代のイギリスの工場立法を、14世紀からずっと18世紀の半ばに至るまでのイギリスの労働取締法<最初のものは1349年>と比較してみよ。現代の工場立法が労働日を強制的に短縮するのに、以前の諸法令はそれを強制的に延長しようとする。資本がやっと生成してきたばかりでまだ単なる経済的諸関係の力によるだけではなく国家権力の助けによっても十分な量の剰余労働の吸収権を確保するという萌芽状態の資本の要求は、資本がその成年期にぶつぶつ言いながらしぶしぶ為さざるを得ない譲歩に比べれば、もちろん、まったく控えめに見える。@
資本主義的生産様式の発展の結果、「自由な」労働者が、彼の習慣的な生活手段の価格で、彼の能動的な生活時間の全体を、じつに彼の労働能力そのものを売ることに、つまり彼の長子特権を一皿のレンズ豆で売ることに、自由意思で同意するまでには、すなわち社会的にそれを強制されるまでには、幾世紀の歳月が必要なのである。それゆえ、14世紀の半ばから17世紀の末まで資本が国家権力によって成年労働者に押しつけようとする労働日の延長が、19世紀の後半に子供の血の資本への転化に対して時おり国家によって設けられる労働時間の制限とほぼ一致するのは、当然のことである。今日たとえばマサチューセッツ州で、この北アメリカの現在まで最も自由な州で、12歳未満の子供の労働の国家的制限として布告されているもの<1日に10時間の労働>は、イギリスでは17世紀の半ばころにはまだ血気盛んな手工業者やたくましい農僕や巨人のような鍛冶工の標準労働日だったのである。」(P354~)

法律による労働者の標準労働日の制限が、資本家にとって支出した資本の損耗費の増大を防ぐための必然的な方策として“意識”されるとしても、それは“歴史的には”(史的唯物論の立場から言うなら)──商品交換の中に内在している社会的労働を行なう限りでの諸個人の同等性を基礎にして、階級すなわち生産手段の所有に基づく人間の区別を廃絶して、諸個人を同じ人類として結合していくための──、資本家と労働者との階級闘争の一部分と言うべきでしょう。
2番目の引用にある「資本主義的生産の内在的な諸法則」とは、交換者の“意図”とは独立に諸現象のなかで貫徹される、いわゆる価値法則である等価交換に基づく必然的傾向のことと思われます。資本主義においては、相互に独立した諸個人の生活・生存を結び付けているものは商品(生産物)の“交換”なのですから、商品の交換価値(価値)としての性質こそが、すなわち諸労働の抽象的人間労働(社会的労働)としての同等性こそが、この社会での諸個人を結び付ける紐帯なのです。しかしこの社会的労働を担う同じ人間としての諸個人の結びつきは、直接には商品の価値として、「貨幣」という“物”の姿をとることしかできません。そこでこの結びつきは、人々の目にはただ経済現象がもつ「内在的な諸法則」として現れるのだと、また“自由競争”は、諸個人が生活・生存していくためのこの紐帯(今はやりの言葉で言えば絆)が、抽象的な“商品”の価値性格(あるいは貨幣)として貫徹されるための一条件なのだ、と言われているように思われます。


(2.第6節「標準労働日のための闘争法律による労働時間の強制的制限1833年―1864年のイギリスの工場立法」より)

・「資本が数世紀を費やして労働日をその標準的な最大限界<10時間>まで延長し、次にはまたこの限界を越えて12時間という自然日の限界まで延長した後に、今、18世紀の最後の1/3期における大工業の誕生以来は、雪崩のように激しい無際限な突進が起きた。風習と自然、年齢と性、昼と夜という限界は、ことごとく粉砕された。古い法規では農民のように単純だった昼と夜の概念でさえ、まったく曖昧になって、1860年になってもまだイギリスの一判事は、昼と夜とが何であるかを「判決上有効に」説明するためには、真にタルムード〔ユダヤの立法とその解説〕編修者的な明察を尽くさねばならなかったほどである。資本は盛大な宴を張って祝った。」(P364~)

・「生産の騒音に気を取られていた労働者階級がいくらか正気に返った時、この階級の反抗が始まった。さしあたりまず大工業の生国イギリスで。とはいえ、30年間というものは、この階級が奪い取った譲歩はまったく名目的なものでしかなかった。1802年から1833年までに議会は5つの労働関係法を成立させたが、しかし、その強制的実施や必要な職員などのためには1文の支出も議決しないという抜け目のなさだった。これらの法律は死文のままにとどまった。
……
やっと、1833年の工場法──綿工場、羊毛工場、亜麻工場、絹工場に適用される──以来、近代産業にとって標準労働日が現れ始める。1833年から1864年までのイギリスの工場立法の歴史以上によく資本の精神を特徴づけるものはない! 
1833年の法律が明言するところでは、普通の工場労働日は朝5時半に始まって晩8時半に終わるべきだとされ、また、この限界内すなわち15時間の範囲内では、少年(すなわち13歳から18歳までの人員)を1日のどの時間に使用しようと、それは、いくつかの特にあらかじめ定められた場合を除いて、同一の少年が1日のあいだに12時間より長くは労働しない限り、適法だとされる。この法律の第6節は、「このように労働時間の限定されている各人のために、各1日のうちに少なくとも1時間半の食事時間が認められるべきこと」を規定している。9歳未満の子供の使用は、のちに述べる例外を除いて、禁止され、9歳から13歳までの子供の労働は、1日8時間に制限された。夜間労働、すなわちこの法律によれば晩の8時半と朝の5時半との間の労働は、9歳から18歳までの人員のすべてについて禁止された。」(P365~)

・「……こうして1844年6月7日の追加工場法は成立した。それは1844年9月10日に発効した。それは労働者の新たな一部類を被保護者の列に加えている。すなわち、18歳以上の婦人である。彼女らはどの点でも少年と同等に扱われた。すなわち、その労働時間が12時間に制限され、夜間労働が禁止される、等々である。こうして、はじめて立法は成年者の労働をも直接かつ公的に取り締まることを余儀なくされたのである。……
13歳未満の児童の労働は、1日6時間半に、またある条件のもとでは7時間に、短縮された。
不正な「リレー制度」の乱用を除くために、この法律はなかでも次のような重要な細則を設けた。「児童および少年の労働日は、だれかある1人の児童または少年が朝工場で労働を始める時刻を起点として、計算されなければならない。」
……既に見たように、労働の時限や中休みを鐘の音に合わせてこのように軍隊的に一様に規制する●これらのこまごまとした規定は、けっして議会的思索の産物ではなかった。それらの定式化や公認や国家による宣言は、長い期間にわたる階級闘争の結果だった。それらの差し当たりの結果の一つは、たいていの生産過程では児童や少年や婦人の協力が不可欠だったので実践は成年男子工場労働者の労働日をも同じ制限に従わせたということだった。それゆえ、大体において、1844-47年の時期には、工場立法のもとに置かれたすべての産業部門で12時間労働日が一般的に一様に行われたのである。」(P370~)

・「1846-47年はイギリスの経済市場に新たな時代を画する。穀物法は廃止され、綿花やその他の原料の輸入税は撤廃され、自由貿易は立法の導きの星だと宣言される! 要するに千年王国が始まったのである。他方では、この同じ年にチャーティスト運動と10時間運動とが頂点に達した。これらの運動は、仕返しをしようといきり立ったトーリ党に同盟者を見出した。ブライトやコブデンに率いられた食言自由貿易軍の熱狂的な抵抗にもかかわらず、あのように久しく追及されてきた10時間法案は議会を通過した。
1847年6月8日の新しい工場法……」(P370~)

・「2年間にわたる資本の反逆は、ついに、イギリスの4つの最高裁判所の一つである財務裁判所の判決によって、仕上げを与えられた。すなわち、この裁判所は、1852年2月8日にそこに提訴された一つの事件で、工場主たちは1844年の法律の趣旨に反する行動をしたには違いないが、この法律そのものがこの法律を無意味にするいくつかの語句を含んでいる、と判決したのである。「この判決をもって10時間法は廃止された。」それまではまだ少年や婦人労働者のリレー制度を遠慮していた一群の工場主も、今では両手でこれに抱きついた。
●しかし、外観上は決定的な資本の勝利とともに、たちまち一つの急変が現れた。それまで労働者がやってきた抵抗は、毎日たゆまず繰り返されたとはいえ、受け身のものだった。いまや彼らは、ランカシャやヨークシャであからさまに威圧的な集会を催して、抗議した。つまり、10時間法と称するものは、ただのごまかしで、議会の詐欺で、いまだかつて実際にはなかったのだ! と。工場監督官たちは、階級間の敵対は信じられないまでに緊張している、と厳しく政府に警告した。……
このような事情の下で工場主と労働者との間の妥協が成立し、それは1850年8月5日の新しい追加工場法の中では議会によって確認されている。……
……こうして、1850年の法律は1853年にはついに、「児童を少年や婦人よりも朝はより早くから晩はより遅くまで働かせること」の禁止によって補足された。それからは、僅かばかりの例外を除いて、1850年の工場法は、それの適用を受けた産業部門では、すべての労働者の労働日を規制した。最初の工場法の制定以来、今ではすでに半世紀が流れ去っていた。」(P383~)

・「立法は、1845年の「捺染工場法」によって、はじめてその元来の領域の外<家内産業>に手を伸ばした。資本がこの新しい「無軌道」を許した時の不機嫌さは、この法律の一字一句が語っている! この法律は、8歳から13歳までの児童と婦人との労働日を朝の6時から晩の10時までの16時間に制限し、その間に食事のための法定の中休みは何もない。それは、13歳以上の男子労働者を昼夜を通じて勝手にこき使うことを許している。それは議会の早産児である。
●それにもかかわらず、<法律による労働日の制限という>原則は、近代的生産様式の独特な創造物である大工業部門での勝利によって、すでに勝利を収めていた。1853年―1860年の大工業の素晴らしい発展は、工場労働者の肉体的および精神的な生まれ変わりを伴って、どんな鈍い目にもはっきりと映った。法律による労働日の制限や規制を半世紀にわたる内乱によって一歩一歩勝ちとられた工場主たちでさえ、まだ「自由な」搾取領域との対照を誇らしげに指し示した。今や「経済学」のパリサイ人<キリスト教徒を迫害したユダヤ教の律法派>たちは、法律によって規制される労働日の必然性への洞察を、彼らの「科学」の特徴的な新業績として宣言した。誰にも分かるように、大工場主たちが不可避な運命に身を任せ、それに逆らうのをやめてからは、資本の抵抗力は次第に弱まってゆき、それと同時に労働者階級の攻撃力は、直接には利害関係のない社会層のなかにあった労働者階級の同盟者の数とともに増大してきた。こうして、1860年以来の比較的急速な進歩とはなったのである。」(P388~)

最後の引用にあるように、なぜ大工業は近代的な、すなわち発展した資本主義的生産様式の独特な創造物であると言われるのか、またその出発点である工場は、なぜ単なる作業場所ではなくて新たな「生産関係」であると言われるのか、については第13章で詳しく検討されます。


(3.第7節「標準労働日のための闘争イギリスの工場立法が諸外国に起こした反応」より)

・「読者の記憶にあるように、●労働が資本に従属することによって生産様式そのものの姿が変えられるということはまったく別にしても、剰余価値の生産または剰余労働の搾取は、資本主義的生産の独自な内容と目的とをなしている。@
やはり読者の記憶するように、●これまでに展開された立場<労働日の延長による絶対的剰余価値の生産>では、ただ独立な、したがって法定の成年に達した労働者だけが、商品の売り手として、資本家と契約を結ぶのである。だから、われわれの歴史的素描のなかで、一方では近代的産業<工場工業>が、他方では肉体的にも法律的にも未成年な人々の労働が主役を演じているとすれば、その場合われわれにとっては、前者<工場工業>はただ労働搾取の特殊な部面として、後者<未成年労働者>はただその特に適切な実例として、認められていただけである。しかし、これからの叙述の展開を先回りして考えなくても、単に歴史的な諸事実の関連だけからでも、次のようなことが出てくる。
第一に。水や蒸気や機械によって真っ先に革命された諸産業で、すなわち近代的生産様式のこの最初の創造物である木綿、羊毛、亜麻、絹の紡績業と織物業とで、まず最初に、限度も容赦もない労働日の延長への資本の衝動が満たされる。@
●変化した物質的生産様式と、これに対応して変化した生産者たちの社会的諸関係とは、まず無制限な行き過ぎを生み出し、次には反対に社会的な取締りを呼び起こし、この取締りは、中休みを含めての労働日を法律によって制限し規制し一様化する。それゆえ、19世紀の前半にはこの取締りはただ例外立法として現われるだけである。それが新しい生産様式の最初の領域を征服し終わったときには、その間に他の多くの生産部門が本来の工場体制をとるようになっていただけではなく、製陶業やガラス工業などのような多かれ少なかれ古臭い経営様式をもつマニュファクチュアも、製パン業のような古風な手工業も、そして最後にくぎ製造業などのような分散的ないわゆる家内労働でさえも、もうとっくに工場工業とまったく同じに資本主義的搾取のもとに陥っていたということが見出された。それゆえ、立法は、その例外的性格を次第に捨て去るか、または、イギリスのように立法がローマ的な決疑法的なやり方<決議論的、すなわち普遍的規範の個別的行為への適用>をするところでは労働が行なわれていればどんな家でも任意に工場だと宣言するか、どちらかを余儀なくされたのである。
第二に。いくつかの生産様式では労働日の規制の歴史が、また他の生産様式ではこの規制をめぐって今なお続いている闘争が、明白に示していることは、資本主義的生産のある程度の成熟段階では、個別的な労働者、自分の労働力の「自由な」売り手としての労働者は無抵抗に屈服するということである。●それゆえ標準労働日の創造は、長い期間にわたって資本家階級と労働者階級との間に多かれ少なかれ隠然と行われていた内乱の産物なのである。この闘争は近代的産業の領域で開始されるのだから、それはまず近代的産業の祖国、イギリスで演じられる。@
イギリスの工場労働者は、ただ単にイギリスの労働者階級だけのではなく、近代労働者階級一般の選手だったが、彼らの理論家も資本の理論に対する最初の挑戦者だった。それだからこそ、工場哲学者ユアも、「労働の完全なる自由」のために男らしく戦った資本に向かってイギリスの労働者階級が「工場法という奴隷制度」を自分の旗印にしたということを、労働者階級の拭い去ることのできない汚辱として非難するのである)。」(P391~)

・「フランスはイギリスの後からゆっくりびっこを引いてくる。12時間法の誕生(※193)のためには2月革命が必要だったが、この法律もそのイギリス製の現物に比べればずっと欠陥の多いものである。それにもかかわらず、フランスの革命的な方法もその特有の長所を示している。それはすべての作業場と工場とに無差別に同じ労働日制限を一挙に課してしまうのであるが、これに比べて、イギリスの立法は、時にはこの点、時にはあの点で、やむを得ず事態の圧力に屈服するものであって、どうしても新しい裁判上の紛糾を生みやすいのである。他方、フランスの法律は、イギリスではただ児童や未成年者や婦人の名で戦い取られただけで近頃やっと一般的な権利として要求されているものを、原則として宣言しているのである。」(P394~)

・「北アメリカ合衆国では、奴隷制度が共和国の一部をかたわにしていた間は、独立な労働運動はすべてマヒ状態にあった。黒い皮の労働が焼き印を押されているところでは、白い皮の労働が解放されるわけがない。しかし、奴隷制度の死からは、たちまち一つの新しく若返った生命が発芽した。南北戦争の第一の成果は、機関車という1歩7マイルの長靴で大西洋から太平洋までを、ニュー・イングランドからカリフォルニアまでを、股にかける8時間運動だった。ボルティモアの全国労働者大会(1866年8月16日)は次のように宣言する。
「この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するために必要な現下最大の急務は、アメリカ連邦のすべての週で標準労働日を8時間とする法律の制定である。われわれは、この輝かしい成果に到達するまで、われわれの全力を尽くすことを決意した。」
それと同時に(1866年9月初め)ジュネーブの「国際労働者大会」(第一インターナショナルの大会)は、ロンドンの総務委員会の提案に基づいて、次のように決議した。「●われわれは労働日の制限を、それなしには他の一切の解放への努力が挫折するよりほかはない一つの予備条件として宣言する。……われわれは8労働時間を労働日の法定限度として提案する。」」(P395~)

・「われわれの労働者は生産過程に入った時とは違った様子でそこから出てくるということを、認めざるを得ないであろう。市場では彼は「労働力」という商品の所持者として他の商品所持者たちに相対していた。つまり商品所持者に対する<対等な>商品所持者としてである。彼が自分の労働力を資本家に売った時の契約は、彼が自由に自分自身を処分できるということを、いわば墨黒々と証明した。取引きが済んだ後で発見されるのは彼が少しも「自由な当事者」ではなかったということであり、自分の労働力を売ることが彼の自由である時間は彼がそれを売ることを強制されている時間だということであり、じっさい彼の吸血鬼は、「まだ搾取される一片の肉、一筋の腱、一滴の血でもあるあいだは」手放さないということである。@
彼らを悩ませた蛇に対する「防衛」のために、労働者たちは団結しなければならない。そして、彼らは階級として、彼ら自身が資本との自由意志的契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる一つの国法を、超強力な社会的障害物を、強要しなければならない。@
「売り渡すことのできない人権」<1789年、フランス人権宣言・前文>の派手な目録に代わって、法律によって制限された労働日という地味な大憲章が現われて、それは「ついに、労働者が売り渡す時間はいつ終わるのか、また、彼自身のものである時間はいつ始まるのか、を明らかにする」のである。なんと変わり果てたことだろう!」(P396~)

ここで触れられている時代以降も、今現在に至るまで、いつでも資本とその国家の支配に対する労働者の闘いは、世界に共通であり、したがってまた真の世界史・人類史を生み出していく事象と言えるでしょう。これは資本とその国家が民族主義や国家主義をあおって対立を繰り返すのとまさに対照的です。
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