福岡のユニークな出版社、書肆侃侃房から出版されている瀟洒な叢書「新鋭短歌シリーズ」は、もはやすでに十数冊を数え、今もっともヴィヴィッドなポスト・ニューウェーブ世代の若手歌人のアンソロジーとして、確固たる位置を占め始めている。「未来」の加藤治郎、「かばん」の東直子のほかに、このほど中部短歌会の大塚寅彦がその監修者として加わり、さらに充実の展開を期待させる。短歌のゼロ年代は、現代詩の六十年代に擬することもできようが、それから十年経って、「口語」のニッチに花開いた新しい文化を、さらに深く、ざわざわと、ぼくらの心に波立たせてくれる推進力として、このような若い叢書の力に期待したい。
天道なおは、1979年生まれ。早稲田短歌会出身、加藤治郎に師事する実力派である。「テノヒラタンカ」などのマルチメディア活動も精力的。この第一歌集には、学生時代からやがて就職、そして結婚、出産、退職と、題名の「ノーリターン」(会社のオフィスでの「直帰」の現代的な言い方らしい)のようにフルコースで駆け抜けた青春の想いが、雄渾な筆致で語られている。そこには、岡井隆/加藤治郎のオノマトペ、穂村弘/笹井宏之の 「えいえん」、石川美南の「空ろな山羊」 へのレスペクトの余韻がある。いや、たしかにそれはあるのだが、そのようなレトリックが加速し、どんどんとことばが凝縮していくと突然、彼女の言葉はあらぬほうへと爆発を遂げる。
万緑の笹ざわめいてああどうか燃えてください燃えてください
「燃えてください」というのは「笹」に言っていると同時に、これは「短歌」にも言っているのなのだと、エミリー・ディッキンソンばりに読み解いてみようか。「万緑の」は夏の季語。草田男の有名な句「万緑の中や吾子の歯生え初むる」を思い浮かべてもよいのだが、やをよろずの荒れ草が緑になるという「万」の含意をはなから無視して、「万緑の笹」と定位してくる荒削りの手わざにまずは驚く。しかしこれは「笹」でなければならないのであって、なぜならば人生の盛夏における胸の「ざわめき」こそが詠嘆の中心たるように意図されているからだ。
そうすれば、あとは詩は離陸を待つばかりであって、あとの句は勢いにまかせて付いていければそれでよい。下の句の「燃えてください燃えてください」は「ざわめく笹」に向けたエール。同じように上の句の生硬さが下の句の暴発した呼びかけへと連なる名歌として、東直子の「廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て」があるけれども、東の視線の集中の先にふと急迫する「来て」の巫女的な単一性とは対照的に、「燃えてください燃えてください」のどこか落ち着いた物言いには、そもそも燃えていないものらへの醒めた視線と、集団力動的な視座がある。一面の笹にいっそ放火してしまいたいという危険な衝動。「ざわめく」だけの若者の群れに対して、作者はその心の炎を本気で燃え移らせたいのだ。
風の中無数の砂が我を打つ手放したものだけがかがやく
さてこれも、映像的な上の句と観念的な下の句がうまく組み合わさった秀歌である。上の句は典型的な青春の「痛み」を歌っているわけだけれども、それを月並みのルサンチマンに収束させないのは結句の 「かがやく」である。上の句と下の句の間には詩的な飛躍があり、それが一首の奥行きを作っている。何を手放しているのか、何がかがやくのか、それは実のところよくわからない。これが恋愛の破局をうたった連作であることから、おおよそ次の三つの読み方が同時並行的に評者の頭のなかには明滅するのであった。ひとつは、「手放したもの」は前の彼氏であるとする読み方。手放すと同時に元彼がきみょうにかがやきだしたのを遠くから見ていて、ああ手放さなければよかったと思う後悔。だがこれは月並みのルサンチマンの読み方である。もうひとつの考えにおいては、「手放したもの」は「我」をさしている。だめな男を手放せず陰々滅々と人生を送る他の女子どもに比して、ささっと別れを切り出した「我」のみが「かがやく」。ところが、このどちらの読みに対しても、「風の中」の「無数の砂」の比喩の必然性は見えてこない。そこで三番目の解釈としては、 「手放したもの」というのは 「意味のベタな連続性を手放した歌人としての我」 ということ。鮮烈なテレビ的なイメージと、明確な人生的なメッセージ性さえあれば、その間の関係性などさっさと手放してしまったほうが、詩はかがやくのかもしれない。
flow, float それでも生きる藍白の夫のシャツを西日がなぶる
J-POPグループm-floの「Float'n Flow」という歌をレスペクトしたものであろうか。構造のたしかさは揺らぐことがない。この歌では上の句が「観念」下の句が「映像」と逆転しているが、その逆転は夫という「他者」の出現となにか深いつながりがありそうだ。「生きる」を連体形ととるか終止形ととるかで「夫」が「それでも生きる」というのか、あるいは専業主婦となった自分が、生活即短歌のアララギ型の「わたくし」をついには獲得し、歌人として「それでも生きる」ということになったのかということの解釈はここでも分かれようが、流されつつも「それでも生きる」というメッセージは強烈に読者に届いてくる。「西日」は「無数の砂」に通じる苛烈な世間のひとびとの鞭という比喩であり、そういったライトな嗜虐性のありかもこの作者の魅力の一部である。flowとfloatのあいだにあるこの英文のカンマのプリック/スクラッチ感もこたえられない。米国の現代詩人、ロリーン・ニーデッカーの詩「Foreclosure」(抵当流れ)に出てくる「clause of claws」という表現を思い出した。カギ爪の契約書というところか。それが吊るされたシャツみたいな「白」と「日」という漢字の文字面とうまく呼応している。読者の耳も目も喜ばせる一首である。
天道なおは寺山修司の影響を受け、かつてないほどに思い切った飛躍のテンポを獲得した歌人だと思うが、それでいてよい塩梅に落ち着いて自我の同一性が確立されているのは、その耳と目のよさに負うところが大きい。口語短歌のスタートダッシュのあとに、それを確立させていくには、深い感官の力をもってするほかはない。表現すべき何ものかをしっかりと見据えて進む彼女の、歌人としてのはるかな力量をたたえよう。
天道なおは、1979年生まれ。早稲田短歌会出身、加藤治郎に師事する実力派である。「テノヒラタンカ」などのマルチメディア活動も精力的。この第一歌集には、学生時代からやがて就職、そして結婚、出産、退職と、題名の「ノーリターン」(会社のオフィスでの「直帰」の現代的な言い方らしい)のようにフルコースで駆け抜けた青春の想いが、雄渾な筆致で語られている。そこには、岡井隆/加藤治郎のオノマトペ、穂村弘/笹井宏之の 「えいえん」、石川美南の「空ろな山羊」 へのレスペクトの余韻がある。いや、たしかにそれはあるのだが、そのようなレトリックが加速し、どんどんとことばが凝縮していくと突然、彼女の言葉はあらぬほうへと爆発を遂げる。
万緑の笹ざわめいてああどうか燃えてください燃えてください
「燃えてください」というのは「笹」に言っていると同時に、これは「短歌」にも言っているのなのだと、エミリー・ディッキンソンばりに読み解いてみようか。「万緑の」は夏の季語。草田男の有名な句「万緑の中や吾子の歯生え初むる」を思い浮かべてもよいのだが、やをよろずの荒れ草が緑になるという「万」の含意をはなから無視して、「万緑の笹」と定位してくる荒削りの手わざにまずは驚く。しかしこれは「笹」でなければならないのであって、なぜならば人生の盛夏における胸の「ざわめき」こそが詠嘆の中心たるように意図されているからだ。
そうすれば、あとは詩は離陸を待つばかりであって、あとの句は勢いにまかせて付いていければそれでよい。下の句の「燃えてください燃えてください」は「ざわめく笹」に向けたエール。同じように上の句の生硬さが下の句の暴発した呼びかけへと連なる名歌として、東直子の「廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て」があるけれども、東の視線の集中の先にふと急迫する「来て」の巫女的な単一性とは対照的に、「燃えてください燃えてください」のどこか落ち着いた物言いには、そもそも燃えていないものらへの醒めた視線と、集団力動的な視座がある。一面の笹にいっそ放火してしまいたいという危険な衝動。「ざわめく」だけの若者の群れに対して、作者はその心の炎を本気で燃え移らせたいのだ。
風の中無数の砂が我を打つ手放したものだけがかがやく
さてこれも、映像的な上の句と観念的な下の句がうまく組み合わさった秀歌である。上の句は典型的な青春の「痛み」を歌っているわけだけれども、それを月並みのルサンチマンに収束させないのは結句の 「かがやく」である。上の句と下の句の間には詩的な飛躍があり、それが一首の奥行きを作っている。何を手放しているのか、何がかがやくのか、それは実のところよくわからない。これが恋愛の破局をうたった連作であることから、おおよそ次の三つの読み方が同時並行的に評者の頭のなかには明滅するのであった。ひとつは、「手放したもの」は前の彼氏であるとする読み方。手放すと同時に元彼がきみょうにかがやきだしたのを遠くから見ていて、ああ手放さなければよかったと思う後悔。だがこれは月並みのルサンチマンの読み方である。もうひとつの考えにおいては、「手放したもの」は「我」をさしている。だめな男を手放せず陰々滅々と人生を送る他の女子どもに比して、ささっと別れを切り出した「我」のみが「かがやく」。ところが、このどちらの読みに対しても、「風の中」の「無数の砂」の比喩の必然性は見えてこない。そこで三番目の解釈としては、 「手放したもの」というのは 「意味のベタな連続性を手放した歌人としての我」 ということ。鮮烈なテレビ的なイメージと、明確な人生的なメッセージ性さえあれば、その間の関係性などさっさと手放してしまったほうが、詩はかがやくのかもしれない。
flow, float それでも生きる藍白の夫のシャツを西日がなぶる
J-POPグループm-floの「Float'n Flow」という歌をレスペクトしたものであろうか。構造のたしかさは揺らぐことがない。この歌では上の句が「観念」下の句が「映像」と逆転しているが、その逆転は夫という「他者」の出現となにか深いつながりがありそうだ。「生きる」を連体形ととるか終止形ととるかで「夫」が「それでも生きる」というのか、あるいは専業主婦となった自分が、生活即短歌のアララギ型の「わたくし」をついには獲得し、歌人として「それでも生きる」ということになったのかということの解釈はここでも分かれようが、流されつつも「それでも生きる」というメッセージは強烈に読者に届いてくる。「西日」は「無数の砂」に通じる苛烈な世間のひとびとの鞭という比喩であり、そういったライトな嗜虐性のありかもこの作者の魅力の一部である。flowとfloatのあいだにあるこの英文のカンマのプリック/スクラッチ感もこたえられない。米国の現代詩人、ロリーン・ニーデッカーの詩「Foreclosure」(抵当流れ)に出てくる「clause of claws」という表現を思い出した。カギ爪の契約書というところか。それが吊るされたシャツみたいな「白」と「日」という漢字の文字面とうまく呼応している。読者の耳も目も喜ばせる一首である。
天道なおは寺山修司の影響を受け、かつてないほどに思い切った飛躍のテンポを獲得した歌人だと思うが、それでいてよい塩梅に落ち着いて自我の同一性が確立されているのは、その耳と目のよさに負うところが大きい。口語短歌のスタートダッシュのあとに、それを確立させていくには、深い感官の力をもってするほかはない。表現すべき何ものかをしっかりと見据えて進む彼女の、歌人としてのはるかな力量をたたえよう。