「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評180回 短歌と同人誌について思うこと  小﨑 ひろ子

2022-09-26 00:38:01 | 短歌時評

 最近、岡井隆の著作が2冊、上梓された。遺歌集『阿婆世(あばな)』(未来短歌会編)と、『岡井隆の忘れもの』(田島安江編)。『阿婆世』は、これまでの歌集に含まれていない短歌と最近の歌誌「未来」の後記等の文章を集めたもので、『岡井隆の忘れ物』は、書肆侃侃房で出版を予定しながら岡井の病のために編集が中断していたという、やはりこれまでの書籍には未収録のエッセイや論考を集めたもの。どちらも、2020年7月10日に逝去した岡井隆の喪の作業でもあるように思われ、岡井の影響下にある者のみならず、この時代に詩歌や文学を志す者には読み応えのある書籍となっている。所収されていない歌もあるように思うので、今後、他の著作などと併せて、新たに出版されるかもしれないなと思う。

 

 『阿婆世』には、「未来」からの文章が20頁分くらいを割いて再掲されており、まとめて読むといろいろと考えさせられる。

 「未来」八〇〇号までの歩みは、和合の歴史でもあり、はげしい競い合い、ある意味で闘争の歴史でもあった。創刊同人の一人として、近藤芳美の門下生として、それは苦しい歳月であると同時に、生き甲斐のある歩みであったと思う。(2018年9月号)

 自分たちの親しい仲間で、結社内に同人誌を作って愉しむなどというのはよくある現象です。そのことが母集団である結社(「未来」)に何らかの変化を生むかどうかは、斬新で強力な若い世代の存在が必要でしょうが、見たところ歌壇にもそういった動きは(少くともわたしには)見えません。そういう時代なのだともいえます。(「未来」2019年3月号)

 

 もともと「未来」という結社自体、大結社アララギにあきたらない若い会員が集まり、近藤芳美を中心として始めた同人誌だったことは有名だが、その後も、結社内結社のように活動をする多くの同人誌のようなものがあり、その中からパワーのある者が結社に積極的に参加していくということも多かったようである。が、今は「未来」に限らず、そのような勢いのあるものが自分の目には見当たらない、という。

 筆者が知っている時代について言えば、「未来」周辺では、「ゆにぞん」(岡井選歌欄の別動隊の批評誌(注1)。小池純代等。小池は未来編集に携わっていたが、阿木津英と同時に退会して別の活動に移った。)、「ZO・ZO・RHIZOME」(青の会。現未来選者である田中槐、高島裕ら何人かのメンバーが未来の編集会に吸収される形で解散。)、「パピエシアン」(大辻隆弘、山吹明日香、藤井靖子、小林久美子等。ZO・ZO・RHIZOME解散後、関西在住のメンバーにより刊行、現在も岡井の短歌へのオマージュ作品を毎月巻頭に掲載)、「黒豹」(伊吹純、きさらぎあいこ等。2016年12月に終刊)、「彗星集」(加藤治郎)等があるが、岡井晩年の感想であることを割り引いて読んでも、なるほど全体がそういう感じなのか、と感慨を深めたのだった。

 同人誌の活動を通して、勢いのある者達が徐々に大きな場所に進出して文学的な運動を進めていくというのではなく、小さくてもより自由な創作活動ができる場所を求めるようになっている(タコツボ化?)ということなのだろうか。結社のような大きな集まりは、人数が多くなれば直接かかわる機会も減少するが、直接かかわることができるかどうかにより参加の質は大きく変わる。結社内政治や対外活動のようなものが必要とされれば、本来的な志や創作活動とは様相を異にするそれらに心身を消耗されて疲れ果てるといった事態も生じてくるから、平穏な場所を求めて自分たちの自由な領域を守っていくことが、必然的に必要となってくるのだろう。(すこしルサンチマンを含めて書いている。)

 

 だが、実際に広く同人誌活動そのものを見ると、以前に増して活発になっているように思える。見ているといろいろと面白く、自分でも参加したり、何かつくってみたくなったりする。文学フリマといったリアルの場所に出かけなくても、SNS等で情報を集めると、直接の知人がいなくても簡単に購入できるものをいくつも見つけることができ、その関連で辿っていけば、メンバーの年代や属性の違い等を気にすることなく、自由にネット上で文章や作品に触れることができるのもうれしい。大学短歌会等も、ほかほかの若者たちがどんな作品を作って、批評をしているのだろうかとかなり気になる。それに、大学の近くにいるなら、文学だって批評だって、やろうと思えば、ほぼ日々の生業に等しい形でいくらでもできるではないかと(もちろんそんなに単純に運ぶものではないのだろうけれど)、期待したくもなるというものだ。

 「西瓜」(江戸雪、嶋田さくらこ等)のように、読者参加が可能な同人誌もある。誰でも参加可能と言えば、フリーペーパーのような形でつくられるネットプリントなども、これもまた楽しい。「うたそら」(千原こはぎ)等も自由で、筆者も、投稿した時は結社に毎月出すのとは全く違う不思議な楽しさと解放感を感じて、歌をつくりながら自分でも驚いたくらい。大きな組織である現代歌人協会も、今年になって2度、SNSで広く作品を募って発行する活動をしていて驚いたのだが、紙媒体によらずTWITTER等の活動を主とする作家も多いことを考えれば、当然なのだろう。

 「詩客」の短歌時評179回<「いい歌」の基準は自分で作れ>で、桑原憂太郎氏が、総合誌の対談で挙げられていた「いい歌」が「てんでばらばら」であることを指摘しているが、かつての結社が掲げる方針や作風の違いとはまた違う、混沌とした状況が広く存在しているのだろうな、と思う。岡井隆は、2018年発行の歌集『鉄の蜜蜂』に挿入されているエッセイ「私が考へる良い歌とは」の中で、「自分なりの納得でかまはないが、短歌の韻律(五・七・五・七・七および破調、句またがり)を、一首のうちに包括していることが第一条件」と書き、次に連作、題詠など他から与へられた契機をじぶんのものにして活かすこと、と書いている。未来誌では近藤芳美の、「よい歌の基準は詩であるかどうかである」という理念が長く浸透していたはずなのだが、これもブームの時代を示すものなのだろうか。岡井は、同歌集の中で「わたくしを虐(しひた)げてゐた詩(ポエジー)が一気に逃げて秋になるのさ」と詠うのだが、岡井の老齢に伴って短歌全体が老いたのかな、と大げさでなく少し思っている。

 

 ところで、先日、地方のある文学館を見学していたら、全国の文学館等のパンフレットを置いてあるスペースに、この夏山梨県立文学館で開催された「文芸雑誌からZINEジンへ -古今同ZINE誌-」という特設展の案内チラシを見つけた(注2)。そのチラシとホームページの解説によると、「ZINE(ジン)とは個人やグループが好きなテーマを自由な手法で冊子にまとめたもので、小説や詩、短歌、俳句、写真やイラストなど、ジャンルや表現方法は問わず、海外では自己を表現するためのメディアとしてSNSと同様に人気があり、日本でも若年層を中心として創作の輪が広がっている」ということである。

 いわゆる同人誌のように、総合誌や結社誌に準じた形で作品やエッセイを寄せ、志を同じくする者が野心を持って定期的かつアナーキーに作成するものとは限らず、自由に作成して冊子の形になったものを共有して楽しむ、という形。印刷も最近は版下までパソコンで作れるので、より手軽で自由になってきていることに加え、個人が簡単にウェブに出店できるBOOTH等では、冊子ではなくPDFも販売できるシステムがあるから、作成する方も購入する方もより手軽。筆者も、詩客他に寄せた文章を集めて冊子にしたものを出品してみたら、本当に簡単、すごい時代になったなあ、とわくわくしている。

 ZINEという語について思い起こすのは、「うたつかい」(2011年創刊、2021年終刊)が「短歌なZINE」と銘打っていたことだが、短歌や創作に対する姿勢等は一切問わず、ただ「歌を詠む」ことだけが共通点(あえて何かあるとするなら、SNSでつくられる短歌をその場で終わらせるのではなく紙媒体に残す、ということか)、SNS等から自由参加できる冊子・PDFとして、参加者の負担なしに作成・発行されていた。

 他、いわゆるZINEのようなものなのかな、と思われるものは周囲を見てもたくさん作られていて、例えば、東桜歌会(もともとは岡井隆の超結社の歌会、最近では小坂井大輔や戸田響子も参加者)では、主宰の荻原裕幸の還暦を記念して「荻原裕幸還暦記念冊子・赤」という非売品の43頁ほどの冊子がつくられた。読者は、歌とエッセイを贈られた荻原以外は原則、この時点での参加者(執筆者)のみ、タイトルの「赤」は還暦の印の色だが、その場に居る者がつくる色紙の寄せ書きか赤いちゃんちゃんこ(!)を冊子にしたような性質のものかと思う。企画した辻聡之は、名古屋近郊のメンバーによる同人誌「短歌ホリック」の編集者でもあり、最近では、所属結社「かりん」若手の「くくるす」という同人誌にも参加している。

 とりとめなく冊子について考えているが、広くZINE、冊子という形についてみてみれば、自治体等の団体が募集した短歌を集めたものもそうだし、歌会の詠草や記録だって、簡単な製本によりいくらでもそのようなものに仕上げることはできるだろう。歌人の高石万千子(未来の創生メンバーでもあるから歌歴はかなり長い)は、歌集を何冊か上梓しているが、その他に、造形作家岡崎乾二郎の四谷アートストゥディウムで作成した、自身の装幀デザインと作成による美しい詩歌集を知人に分けている。

 そもそも文学や文芸を愛する者たちは、大文学者の文学活動のようなものではまったくなくても、ごく普通に冊子や同人誌のようなものをつくっては、志を同じくする者たちを相手に広く発表するということを普通に楽しんできたわけだが、ここまで広範囲で自由なのである。

 

 いろいろな冊子類をまとめて見直している中に、同じような体裁で、個人作成の歌集があった。「迦楼羅の翼」(さいかち真)は、やはり同人誌の「美志」別冊として頁9首組み56頁の体裁に編まれているが、作者はすでに何冊もの歌集歌書を書籍として上梓している。不思議に思ったが、後記によれば「歌集を出すことについて興味と関心を失っていたが、配布したプリントの歌をおもしろいと言ってくれる読者がいたため冊子にまとめる気になった」ということであった。歌人にとって、書籍という形に歌集をまとめるのは、金銭的な面以外でも結構な大仕事になるが、このような方法も存在する。ここまで短歌をほとんど引用せずに書いてしまったので、一首引用する。

 

 日本国の未来のために文学は要らぬと言ふか文科省視学官  さいかち真

 

 

*注1

「短歌結社は実作集団として十分機能しているだろうか?」(岡井隆『旅のあとさき、詩歌のあれこれ』、朝日新聞社、2003年)

*注2

・山梨県立文学館 特設展「文芸雑誌からZINEジンへ -古今同ZINE誌-」

・https://www.bungakukan.pref.yamanashi.jp/exhibition/2022/06/zine.html

 

*参考

・『阿婆世』(岡井隆著、未来短歌会編、砂子屋書房、2022年7月10日発行)

・『岡井隆の忘れ物』(岡井隆著、田島安江編集、書肆侃侃房、2022年8月10日発行)

・『鉄の蜜蜂』(岡井隆著、角川文化振興財団、2018年1月25日発行)

・『さいかち真歌稿Ⅰ 迦楼羅の翼』(私家本、2021年6月)


短歌時評179回 「いい歌」の基準は自分で作れ 桑原 憂太郎

2022-09-04 00:14:57 | 短歌時評

 角川「短歌」8月号の座談会「流行る歌、残る歌」は、いい企画だった。
 大辻隆弘、俵万智、斉藤斎藤、北山あさひの4氏に、今後残るであろう作品を10首あげてもらい、それぞれ残る理由を述べていく、というものであった。
 4氏の「残る歌の条件」と、選んだ作品をごく簡単にまとめると……。

<俵万智>
残る歌の条件
・歌そのものの力で、すでに多くの読者を獲得している
・時代の刻印がある
・ツイッターで見た人がいいな思って広がっていく。今だからこその残り方

 選んだ歌(10首選のなかから1首掲出)
告白は二択を迫ることじゃなく我は一択だと告げること
                     関根裕治

<斉藤斎藤>
・一発で耳に残る歌
・構造がしっかりしている歌
・人間の普遍的な生活様式に根ざしている歌

雨の降りはじめが木々を鳴らすのを見上げる 熱があるかもしれない
                          阿波野巧也

<北山あさひ>
・その人にしか詠めないものが詠まれている歌

産めば歌も変わるよと言いしひとびとをわれはゆるさず陶器のごとく
                           大森静佳

<大辻隆弘>
・言葉の新しさ
・生と死という人間の本質をぐっとつかんでいる歌

椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって
                          笹川諒

 座談会では、こんな感じで、各々が「残る歌の条件」と「残る歌」10首をあげて、この後、縦横に議論が展開していくのであった。

 さて、この4氏のあげた「残る歌の条件」ならびに10首選(本稿では1首だけ掲出)、これを読んで、読者の皆さんはどう思われたであろうか。
 筆者の意見は、こうである。
 4氏のあげた「残る歌の条件」、これ、要は、4氏それぞれが考えている「いい歌」の基準なのだ。
 つまり、俵万智であれば、俵が考えている「いい歌」というのは、歌そのものの力ですでに多くの読者を獲得していたり、時代の刻印があったり、ツイッターで見た人がいいなと思って広がっていったり、というのが基準となっているのだ。
 斉藤斎藤なら、一発で耳に残ったり、構造がしっかりしていたり、人間の普遍的な生活様式に根ざしていたり、というのが、氏の考える「いい歌」の基準といって、差し支えないだろう。

 そう考えるならば、4氏のいう「いい歌」の基準は、てんでばらばらなのがわかるだろう。
 だからこそ、議論する意義があるといえるのだけれど、それはともかく、ここではっきりといえることは、短歌の世界で「いい歌」の絶対的な基準というのは存在しない、ということだ。
 つまり、「時代の刻印」がある歌が「いい歌」だといえるし、「一発で耳に残る歌」が「いい歌」だともいえるし、「生と死という人間の本質をぐっとつかんでいる歌」が「いい歌」だともいえるのだ。もうね、どうにでも言えるのである。
 そういうわけで、4氏の選んだ10首も、てんでばらばらということになる。

 試しに、これを読んでいらっしゃる皆さんも、皆さんが考える「残る歌」10首を選んでみたらよい。これ、やってみたらすぐにわかるが、何らかの基準がないと選びようがないし、そして、そうやって選んだ「残る歌」というのは、とりもなおさず自分が思う「いい歌」とイコールになろう。そうりゃそうだ。自分が「いい歌」と思わない歌を残そうなんて思うわけがないのだから。

 さて、ここまでの議論で明らかになった、短歌の世界に「いい歌」の基準は存在しない、ということ。
 これ、実は、ものすごく「いい」ことだ。
 なぜなら、自分で基準をつくれるということなのだから。
 つまり、いい歌かそうでないかは他人が決めるものではない。自分で決めるものなのだ。それが短歌の世界なのである。
 自分で作った「いい歌」の基準で他人の歌を読んで、自分で作った「いい歌」の基準で自分の歌を詠めばいい。
 なんて素敵な文芸ジャンルなのだろうと、つくづく思う。

 ちなみに、なぜ短歌の世界には「いい歌」の基準がないか分かるだろうか。
 これは、いわゆる純粋読者がいないせいなのだ。
 つまり、他者による評価軸がないせいなのだ。
 これ、例えば小説世界とかテレビや映画のシナリオ世界といった、純粋読者が多数を占める文芸ジャンルだったら、「いい」作品の最大の評価基準というのは、売れるかどうか、という点になるだろう。
 そうなると、作る側は、どうにかして売れる作品を作るようになる。
 言い換えれば、売れるために作品を作る、ということだ。
 一方、純粋読者のいない短歌の世界に住んでいる私たち歌人は、売れるために歌を詠んじゃいないだろう。だって、そもそも売れないのだから。
 そりゃあ、短歌が今よりも大衆受けしてメジャーになるのは嬉しいことに違いない。けど、歌人が、歌人じゃない人にも短歌を読んでもらいたい、なんて言い出して、実際にそうした歌を詠みだすと、間違いなく大衆迎合的な創作活動に陥るから、やめた方がいいと私は思う。
 短歌の世界は、純粋読者がいないから、「いい」のである。