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スカッtoうお〜きんぐ

ペルリがやって来た!

今回は、集めたマンホールカードの紹介!
横須賀からは、
3枚のカードが発行されています♪

①スカジャン



②ペリー



③浦賀奉行所





①の『スカジャン』

マンホールは、
ドブ板通りの入り口にあります😄
『ドブ板通り』↓



過去ブログ『BECK』の回で書いたので、
もし宜しければ、ご覧になって下さい。
BECK in YOKOSUKA - スカッtoうお〜きんぐ

BECK in YOKOSUKA - スカッtoうお〜きんぐ

折角の機会なので、横須賀ネタを、もう一本。京急線横須賀中央駅から汐入駅へ。R16と並行した商店街の通り。昔、通りにドブ川があり、鉄板で覆った事から呼び名になった、『...

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さて、ここからが本題。
今回、
マンホールカードを貰いに行って
色々と興味が沸いたので、調べました🧐

1853年 浦賀に黒船来航
幕末史の1行目ですね〜👀
マシューCペリー




では、みなさん。
浦賀って何処だか、ご存知ですか?

意外と
地元民でも、アイマイです😅

場所は、ココ↓


この『浦賀』が、絶妙な場所なのです。


何故なら、観音崎を抜ければ、
江戸湾ですよね。

幕府側は、
勿論入って来て欲しくはありません。
しかし、
ペリーさんは、
直接、幕府前までは、来ませんでした。

実は、
入って来なかったのではなく、
入って来れなかったのです。

もし海上封鎖されたら、
袋のネズミです。
いくら黒船が巨大とはいえ、
総勢1000人強しかいない乗組員だけでは、
戦になりません。


「黒船」と聞いて巨大艦を想像しますが、
実際は、次の通りです。

サスケハナ号

外輪型の蒸気船で、木造船です。
黒いのは、タールが塗ってあるんですね。

長さ 78.4m
幅  13.7m

大体、「中学校の校庭」にスッポリ入る
サイズでしょうか。
勿論、巨大だと思いますが…


↓下の写真は、横浜です♪



右に見える崖
実は、昔の海岸の名残です


現在の海岸線は、
崖から約2Km海側の埋め立て地、
首都高速と工場地帯が広がっています。

黒船の威光を見せるには、
出来る限り岸に寄せたい。
しかし、
江戸湾は、遠浅の海。
座礁の恐れがある為、
迂闊に近寄れなかったのです。

また、
サスケハナ号、
大砲の最大射程距離は、約3000m。
有効距離だと約1000mです。

江戸時代、
海岸線は、現在の東京駅の八重洲辺りまであったと言われています。
後に、
お台場に砲台建設を予定していた事から、
お台場あたりまで
黒船が寄れるとしましょう。

それでも
お台場から江戸城まで直線距離で、
約10Km。
到底、砲弾は届きません。
音は、聞こえると思いますが。😓



浦賀湾
浦賀の渡の所に、
マンホールは設置されていました。


浦賀湾内には、ドックの跡があります。

浦賀ドック 
明治期に造られたドライドックです。

ここで、造船及び修理がされました。


↓浦賀の海

そもそも、
黒船の威光によって
開国を迫ろうとした訳ですが、
浦賀の光景を見た時、
ペリーさんは、
作戦の失敗を悟りました。
浦賀の海岸には、
黒船を見ようと、
たくさんの群衆がいました。
その顔には、恐怖よりも好奇心に
目を輝かせていたそうです。



浦賀奉行所の模型





浦賀に到着すると、
すぐに浦賀奉行所からの
100艘余りの小舟に取り囲まれました。
↑取り囲みの模型例(対イギリス船)

責任者と通訳が、
すぐさま乗船許可を求めてきました。
サスケハナ号にペリーさんが乗っている事が
分かっていた行動でした。

幕府側は、長崎経由で
ペリーさんの情報を
一年前近く前から得ていて
対策を練っていたのです。

この時、
幕府の老中首座をしていた男は、
阿部正弘です。↓

1843年
史上最年少(25歳)で老中になった人


ペリーの来航を知っていた幕府。
しかし
防衛策をとる事は出来ませんでした。
お金がなかったのです。

そこで考えられたのが、情報戦。

ペリーさんの来航は、
幕府の役人はもとより、
一般庶民ですら、
来る事を知っていたのです。

↑瓦版のペリーさん

その情報はどこから?

勿論、幕府です。

幕府は、敢えて情報を流す事で、
人垣を作る事に成功したのです。






先程申しました通り、
ペリーさんの威嚇策は、
上手くいきませんでした。
情報戦の緒戦は、幕府の勝ちでしょう。
まさに「幕末の阿部外交」と
言ったところでしょうか。



ペリーさんは、開国を迫るも
幕府は、長崎の出島に向かえの構え。
このままでは、国書も渡せず
帰国する恐れもあります。

ペリーさんには、
幕府に知られてはならない
問題がありました。
実は、大統領から
「発砲禁止命令」が出ていたのです。

また、日本が世界の東端にあるため、
中国経由で渡って来ましたが、
船の備蓄がもって20日程だったそうです。

もし幕府が、この事を知れば、
確実に今回のミッションは
失敗に終わるでしょう。

一方の幕府も緒戦は、抑えたものの、
話し合い以外の手立てがありませんでした。
幕府のお金がない為、
防衛手段がなく、
仮にペリーさんが強硬策に出て
江戸湾内に入って来た場合、
海上封鎖をする力はありませんでした。

なので、
出来れば
このまま大人しく帰っていただけないかな、
というところが、本心でしょう。



両方、得策のないまま、
一週間の膠着状態。




先に動いたのは、
ペリーさんでした。

4隻の中、
ミシシッピ号を先行させて、
江戸湾内に侵入。

続いて
残りの3隻も江戸湾内へ。

前述した通り、
幕府に制止する力はありません。
一方、
ペリーさんもビビっているのでしょう。
先行のミシシッピ号は、
羽田沖まで来ましたが、
3隻は、横須賀沖で停泊。

もしここで止まれば、
また無駄に時間がかかります。
備蓄もありません。
ペリーさんが、最後の賭けに出ます。


『国書を受け取ってくれるだけでいい。
 返事は、一年待つから。』


この物凄い譲歩案。
ペリーさんのキラーカードですよね。
軍人ではありますが、
一流の政治家のように思えます🧐

ギリギリの状態でしたが、
このターンは、ペリーさんに軍配が
上がりました。

追い払う力のない幕府に
断る理由がありませんでした。


↓久里浜の海



170年前、
この浜にペリーさんが来たんですね〜😆


横須賀の久里浜にて
国書受け渡しが行われました。


ペリーさんの一方的な勝利?
本当に?
この状況を読み切って
利用した人物がいるのでは?

先ほどの
老中首座阿部正弘です。

ボクは
この阿部正弘という人が
実は、開国の仕掛け人なのでは?
と疑っています。
彼は、国際的視野が広く、
勿論先年の中国の出来事も承知でした。
(アヘン戦争からの香港割譲)

このままでは、
近く日本も二の舞になると考えたでしょう。

何がベストな選択なのかと考えた時、
「開国」
浮かんだように思えてなりません。

ただこのまま「開国」を唱えても、
幕府の中の反対派に阻止されます。

そんな時のペリーさん来航です。
機に乗じる絶好の機会だと思いませんか?

つまり
「黒船来航からの開国」というのは、
鎖国していた日本を
ペリーさんが
無理矢理こじ開けたのではなく、
鎖国に限界を感じていた阿部さんが、
ペリーさんを利用して、
開国に持っていったのではないか。
というのが、今日の結論です。


ペリーさんは、
国書を渡すミッションを成功させました。
阿部さんは、
平和的に開国への道を開く事に成功させました。







翌1854年、
再びペリーさん来航。
(今度は、9隻で😓)
横浜にて
日米和親条約を結びました。

内容は、
下田、函館の港を開きます。
お互いずっと仲良くしましょう。

まさに
思い描いた通りの開国です。

出来れば、
このままいって欲しかったが、
歴史を見れば、違う事が分かりますよね。

ご存知の通り、
尊王攘夷、戊辰戦争、
激動の幕末を迎える事になります。
欧米との不平等条約に苦しんだ
日本は、対外戦争に向かいました。

日米和親条約の後、
阿部さんも
ペリーさんも相次いで亡くなりました。
もし彼らが、
もう少し生きていたら、
歴史は
また変わったものだったかもしれません。


そして
黒船によって
近代化の扉を開けたのもアメリカなら、
原爆によって
近代日本の息の根を止めたのもアメリカ。
運命的なものを感じますね。


ちょっとしたキッカケで
集め出したマンホールカード。
色々な再発見もあり、勉強にもなり、
面白いですね〜😁


ここまで
ご覧になって頂き
ありがとうございます。

それでは、また次回〜🫡



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