見出し画像

スカッtoうお〜きんぐ

ホンダコレクション④ 歩み〈危機編〉

⚠️事象については、事実に基づいて
 記述していますが、
 会話については、
 脚色が、付け加えられている事を
 ご了承下さい🙇‍♂️



『もはや戦後ではない』

1956年7月、
政府の経済白書の序文。
終戦から10年、
戦後復興は終わった。

国連にも加盟し、
これからの日本は、
近代化による発展が必要だと
高らかに宣言されたのだ。


だが、
この宣言が、出される少し前。
ホンダは、
史上最大の経営危機を迎えていた…


1952年、
ドリームE型、カブF型のヒットにより、
ホンダは、順調に売り上げを伸ばしていた。
しかし、
本田宗一郎の内心は、晴れていなかった。
〈このままでは、ダメだ。〉

10月、
声明が発表された。

『私は、良品を安価で作って、
 顧客に満足して頂く事を
 念願にしています。
  −中略−
 戦前からの
 古い工作機械を使っている限り、
 たとえ日本において、
 良品でも、
 世界的視野に立つと、
 残念ながら、
 私たちの到達レベルは、
 誠に恥ずかしいものであります。

 日本だけを相手にした日本一は、
 真の日本一では、ありません。
 〈良品に国境なし〉
 輸入制限で、
 いくら障壁を設けようとも、
 良い品は、どしどし入ってきます。
 海外から優秀な製品が、
 入ってきた時、
 〈日本だけの日本一〉は、
 たちまち崩れ去るでしょう。

 世界一であって、
 初めて日本一となり得るのです。

 そこで、
 一大決心をもって、
 世界一流の工作機械を購入する事に
 致しました。』

この声明は、
ホンダ社内外に、大きな衝撃を走らせた。
当時、
ホンダの資本金は、600万円。
輸入工作機械の額は、
なんと!
4億5000万円。
資本金7倍以上の借金計画だったのである。

事実、
当時、業界1位だった
東京発動機(現トーハツ)は、
ホンダの計画を無謀なものと判断し、
買収に乗り出している。

特筆すべきは、
藤沢は、反対していない事だ。
記録がないので、
二人でどんな話し合いがされたかは、
わからない。
しかし、
彼が、本田との間に交わした約束。
−あなたが仕事をし易いように道を作ろう。−
藤沢の言葉が、
真である事を知る。



1953年
新シリーズ、『ベンリイ』
手軽で便利な乗り物から
名付けられた。


1954年3月、
本田は、翌年の
『マン島TTレース出場』を宣言した。


イギリス、マン島における市街地コース。
F1のモナコと同じ。 
TT(tourist trophy)の頭文字。 
当時、2輪の最高峰レースだった。

『このレースに、未だかつて、
 国産車で日本人が、出場した事がない。
 レースの覇者は、もちろん、
 完走出来るだけでも、
 世界は認めてくれる。』

ホンダ社内に起こっていた動揺を抑え、
士気を高めようとした…


日本人の初国際レースは、コチラ↓

ブラジルのサンパウロレースに参加。
見事、完走した。
帰国した時、
マン島TTレース参加のニュースを聞いた。


だが、
事態は、悪化する。

①カブF型の売れ行きが、止まった。
 自転車用補助エンジンが、
 もう時代遅れになっていた…

②藤沢が、推していた
 大型スクーター『ジュノウ』


すごい。どうやって運転するんだろ?

 全く売れず、
 大失敗だった。

③新シリーズの『ベンリイ』の評判が、
 良くない。
 騒音が大きい

④主力の『ドリーム4E』が、
 原因不明のエンジン不調。
 ホンダの倉庫には、
 返品がどんどん増えていく…



まさに、1954年は、
ホンダにとって最悪の一年だった。

[1]
4Eのトラブルに
減産体制に入ってしまう。
藤沢、
外注業社に
買い付けの30%の支払いで、
我慢して欲しいと頼む。

[2]
5月の連休返上で、
『ドリーム4E』のエンジン不調の
原因を調べた。

朝の朝礼。
そこには、目を充血させ、
薄汚れて皺くちゃになった
ユニフォームの本田の姿が。

良い製品、
綺麗な工場、
白いユニフォーム、
本田の信条だったが…

『キャブレターの位置が悪い。
 だから、燃料が途切れて、
 エンストするんだ』
いつもの〈世界〉という言葉もない。
『すまなんだなぁ。』
本田は、皆に謝った。
ようやく、ドリームの解決の目処がついた。


[3]
年末、
暮れの手当が、
わずか5000円だった事に、
ホンダの労働組合が立ち上がった。
藤沢に団体交渉を求めてきた。

交渉に失敗したら、
ストに入る。
会社も、組合も、
決して望んでいる訳ではなかった。

『おやじさん(本田)は、
 親方気質だ。
 言えば、傷付くし、
 私財を投げ打ってでも、
 要求額を用意するでしょう。
 組合は、それは、望んでいません。

 我々も、今、会社が、
 どういう状況かは、理解しています。
 なので、
 5月の連休返上にも賛同しました。』

『そうだ。
 月給の分割払いだって受け入れた。』

組合員の声が上がる。

『世界一もいい。
 でも、みんな、
 女房、子供もいる。
 生活があるんです。
 夢だけでは、食っていけません…』
『昼の弁当すら、
 持って来れない奴だって、いるんだ!』
『経営者のトップとして、
 説明頂けませんか?』

藤沢、
『話しにならないな。』

『話しにならない?』

藤沢、
『ああ、話しにならない(金額)低さだ。』
『……
 この金額、どう思います?』

藤沢、
『問題にならない低さだ。
 しかし、もう少し、
 出せたとしても、
 会社が潰れたら、どうだろう?』
『…』

藤沢、
『あの時、
 どうして頑張らなかったのかと
 追求するだろう。

 経営者として、
 本当に申し訳ない。

 しかし、
 年が明けて、3月には、
 きっと、車が売れている。

 その時、
 もう一度、話しをしよう。』

『…分かりました、
 団体交渉は、ここまでです。』

満場の拍手が沸いた。
方々から、
『頼むぞ。』『頼むぞ。』の声。
拍手は止まない。

大丈夫だ。
ホンダは、素晴らしい従業員に
恵まれている。
藤沢は、再起を心に誓った。



[4]
輸入工作機械の納入は、
まだだったが、
支払いは、待ってくれない。

藤沢は、
ホンダの窮状を
正直に銀行に話した。

当時の三菱銀行京橋支店、
常務    川原福三
支店長 鈴木時太
英断を下した。
『ホンダを全面的にバックアップする』と。

実は、
三菱銀行は、
藤沢のDM戦略の頃から、
一緒になって、
宛名を書くなど応援していた。

かなり、早い段階で、
ホンダに可能性を見出していたんです。
こういう銀行マン、カッコイイですね🥹

後日、
朝の朝礼。
全社員の前。
藤沢は言った。
『今ここに
 ホンダがあるのは、
 二人の英断があってこそです。
 ホンダが、存続する限り、
 絶対に忘れてはいけません。』


熱き男たちの想いが、
ホンダを救ったのだ。




最新工作機械で作られた
記念すべき第1号。
神社仏閣のフォルムから
ヒントを得た。




そして、初の『CB』の冠を
掲げるバイクも。


見事、一流の工作機械を手に入れたホンダ。
『松明の理論』で、
業界のトップになっていく。
逆に、ホンダを買収にかかった
東京発動機。
ホンダの技術についていけず、
1960年、
2輪業界から撤退する事を
追記しておく…

つづく


うう、
今ボクの頭の中は、
『下町ロケット』…
いや、『半沢直樹』もいるな…
『日曜劇場』と化してるぅ〜😓

それでは、
また。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

最近の「日記」カテゴリーもっと見る