まーちゃんのミニチャレンジ

キリスト教会の雑誌ちからの編集者から許可が出て教会のブログを書いています。

キリストの香り

2021年04月03日 | 日記
一年間聖書にまつわる香りをテーマに書いてきましたが、とうとう今回で最後となります。
第二コリントへの手紙ニ章十五節にはこのように記されています。 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。 そしてこうも記しています。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことは 注釈・神のことばを腐敗させるようなことは せず、・・・。
かぐわしい香りと腐った臭い。その直前の箇所から、赦しに関してパウロが心を砕いて話している様子がうかがえます。赦すことをしないなら、それはサタンの策略だというのです。キリストの香りを放つものであるとは、いろんな場面が想定されると思いますが、一つの大きな姿勢として赦しの心を持っているかどうかということが言えると思います。キリストの香りを放っている群れというのはそこに赦し、哀れみの心があるということです。他者を裁くことはとても簡単なことです。その前提となるのは 自分は間違っていない という思いです。イエス様を十字架に掛けた人々も、まさか自分が神の敵となっているとは夢にも思っていなかったでしょう。これこそ私たち人間が陥りやすいサタンのわなです。まるで自分が完全であるかのように他の人々を平気で裁くことこそ、サタンの手足となっていると思います。私たちはまず、自分が完全ではないことを認め、謙虚な思いでみことばと向き合い、他の人々に対し尊敬と愛をもって接することを大切にしていきたいと思います。
あなたが批判して裁いているその事柄は本当に神様の思いなのでしょうか。それとも単なる自分の思いでしょうか。私自身、自分の胸に手を当てて神様に今の自らの姿勢を問うてみたいと思います。キリストの良き香りを放つ者となれますように。 小山晶子
月刊誌ちから10月号より転載

大陸をわたる風

2021年04月02日 | 日記
表紙絵・詩吉田恵利子

人生の防波堤

エメラルドグリーンに輝き

キラキラと光る海


潮風に吹かれ

こころも輝き高鳴り

なぎさをかける

あなたと共に

人生の高波がさかまく時も

主は防波堤となって

守ってくださる

この苦しみのときに彼らが主に向かって叫ぶと主は彼らを苦悩から導き出された。主が嵐を鎮められると波は穏やかになった。 詩篇30,5
月刊誌ちから8月号より転載
木の防波堤のある砂浜
フランス サン・マロ



イエス様、十字架の道

2021年04月01日 | 日記
文 田中あかり 絵 岡野なお
せいばんの後、ピラトそうとくは人びとの言う通りにイエス様を死刑はんけつにしました。そして十字架をせおう前に、体をむちで何度も打たれました。このむち打ちによっていのを落としてしまう人もいたほど、いたくて苦しい刑罰です。
また、顔を平手で打たれ、つばをはかれ、わらいものにされ、いばらでできたかんむりをかぶせられました。それほどとげだらけのものだったので、とげが頭にしさり、頭からも血が流れました。
イエス様はほかにもあしのぼう イネ科の植物でできたぼう で頭をたたかれ、きずだらけの体で十字架をせ負わされたのです。ピラトのていたくから、刑場まで、およそ300メートルの道のりでした。しかしその道のりでさえ、きずだらけの体で十字架をせ負い、歩くことは本当につらいことでした。歩いてはたおれ、歩いてはたおれ、一歩一歩!あるくことが大変なじょうたいです。
イエス様が、このまま十字架をせ負い歩きつっけることができないと思ったピラトの兵士は、その場にいたいなかから出てきたクレネ人のシモンという人をつかまえ、むりやり十字架をイエス様のかわりにせおわせました。イエス様が前を歩き、その後ろからシモンが十字架をせおい、ついて行きました。さらにイエス様の後ろには、みんしゅうや、イエス様が十字架の刑になってしまったことを深く悲しむ女の人たちが、多くのむれとなってついて行っていました。イエス様はその時、悲しむ女の人たちのほうをふり向いてとぎれとぎれに言われました。
エルサレムのむすめたちよ。わたしのためにないてはいけません。自分自身と、自分の子どもたちのためになきなさい。なぜなら、子どもを持たない女のほうが幸いと思う日がすぐにでも来るのです。その時、人は山に向かって
わたしたちの上にたおれて、おしつぶしてくれ! とせけび、丘に向かって わたしたちをうめてくれ! とたのむでしょう。生木のわたしさえ、こんな目にあうとしたら、枯れ木どうぜんの人たちには、いったいどんなことが起こるのでしょう。
このように言葉をかけられ、イエス様はどくろの場所、ヘブル語ではゴルゴダとよばれる刑場にいかれたのです。


まちがいさがし出題荒木宣彦
ぺテロの見たまぼろし使徒10章
下の絵から、まちがいを7つ見つけてください。

月刊誌ちから4月号より転載


クリスチャンになると毎週教会に行かなければならないのですか?

2021年04月01日 | 日記
宮崎一美 金沢フィラデルフィヤ
教会牧師
ご質問ありがとうございます。もちろん、何かご用事がある時には教会をお休みするということがありますし、そのことに関しては何の問題もありません。
その上で、日常的に教会に行くということについて、まず、今回は なぜ教会に行くのか ということから、お話しをしたいと思います。
そもそも、私たちがクリスチャンとよばれるのは、キリストに似た者になるという意味があります。似た者になるということは 、イエス・キリストのようになるということです。そのためには、まず、イエス・キリストがどのような方であったかということを知らなければなりません。もちろん、聖書にはイエス・キリストがどのような方であったのかということが書かれております。しかし、聖書をただ読むだけでは、イエス・キリストの背景も、またイエス・キリストの教えもなかなか理解することができません。そこで、教会です。教会には、この聖書の教えを理解するため、助けてくれる牧師や伝道師、宣教師がいます。この人々は、聖書を専門的に学び、教えるために神様が選ばれ、働いている人です。
ですから、読んだだけでは難しい聖書の内容や、そこに至るまでの背景、その言葉を通して、神が私たちに伝えたいと思っている真意を分かりやすく教えてくれるのです。また、教会には、同じようにイエス・キリストを信じている人々がたくさんいます。クリスチャンとして、どのように生きていくべきなのか、日常生活のなかで問題が起きた時に、どのように対応をしていく必要があるかなど、それら諸先輩方とのコミュニケーションの中でさまざまなことを聞くことができ、学ぶことができます。それは時に私たちを力づけ、時に教え、時に喜びを与えてくれるでしょう。また、それらの方々と共に神様に対して賛美をし、心を合わせて祈る時に、私たちは神様の臨在をより近く感じることができます。このように、日常生活の喧騒から離れて、教会に行き、新しく力を頂いて、また日々を元気に過ごしていけるのです。
と、ここまでお話ししてきて結論を申し上げたいと思います。
つまり教会は、行かねばならない場所ではなく、行くことを強くお勧めしたい場所であるということです。教会に行くことは、神様が、私たちにしなければならないとして強制するものではなく、私たちが、自分自身に必要なことを得るために、積極的に行くべき所であるということなのです。そう考えると、行かなければいけないというところから行きたいという方向に意識が変わってきませんか。神様も、そのようにして皆さんが喜んで教会に来てくださることを望んでおられると思います。



27ページまちがいさがしの答え
月刊誌ちから8月号より転載

2021/03/31

2021年03月31日 | 日記
わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜がきます。
ヨハネ9,4
月刊誌ちから10月号より転載