一年間聖書にまつわる香りをテーマに書いてきましたが、とうとう今回で最後となります。
第二コリントへの手紙ニ章十五節にはこのように記されています。 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。 そしてこうも記しています。私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことは 注釈・神のことばを腐敗させるようなことは せず、・・・。
かぐわしい香りと腐った臭い。その直前の箇所から、赦しに関してパウロが心を砕いて話している様子がうかがえます。赦すことをしないなら、それはサタンの策略だというのです。キリストの香りを放つものであるとは、いろんな場面が想定されると思いますが、一つの大きな姿勢として赦しの心を持っているかどうかということが言えると思います。キリストの香りを放っている群れというのはそこに赦し、哀れみの心があるということです。他者を裁くことはとても簡単なことです。その前提となるのは 自分は間違っていない という思いです。イエス様を十字架に掛けた人々も、まさか自分が神の敵となっているとは夢にも思っていなかったでしょう。これこそ私たち人間が陥りやすいサタンのわなです。まるで自分が完全であるかのように他の人々を平気で裁くことこそ、サタンの手足となっていると思います。私たちはまず、自分が完全ではないことを認め、謙虚な思いでみことばと向き合い、他の人々に対し尊敬と愛をもって接することを大切にしていきたいと思います。
あなたが批判して裁いているその事柄は本当に神様の思いなのでしょうか。それとも単なる自分の思いでしょうか。私自身、自分の胸に手を当てて神様に今の自らの姿勢を問うてみたいと思います。キリストの良き香りを放つ者となれますように。 小山晶子
月刊誌ちから10月号より転載