1600~1630:第7総会:秘跡についての教令
(1547年3月3日)
1547年1月17日から準備されていたこの教令の草案が、2月26日に提出された(SGTr5、835ss;984;TheiTr1、383ss;456)。この教令および秘跡についての諸教令に非難されている誤謬は、主としてマルチン・ルターの秘跡についての著書『教会のバビロニア捕囚についての序論』から引用したものである(DzS1451に引用したワイマール版、第6巻。497~573)。ルター派の神学委員会によって1530年に作成され、皇帝カール5世に捧呈された「アウグスブルグ信条」(ed.BekSchELK44-137;CpRef26、263ss)の第9~13、22~25条、およびフィリップ・メランヒトンが1530年に書いた『アウグスブルグ信条の弁護』(1531年に出版された改訂版)からも引用してある
序 文
1600(843a)第6総会において、すべての教父たちの同意を得て発表された義化についての教義の結びとして、教会の聖なる秘跡について取扱うべきであるという意見に達した。秘跡によってすべての真の義が始まり、始まったものを増し、失ったものを回復することができるのである。そのため聖なるトレント公会議は聖座の特使の臨席を得て、聖霊の導きのもとに合法的に参集した。その目的は聖なる秘跡について、過去にすでに教父たちから排斥されているもの、また新しく起ったものなど、カトリック教会の純粋な教えと救霊のために大きな妨げとなる誤謬を取除き、異端を絶滅するためである。聖書の教え、使徒たちの伝承、今までの公会議、教父たちの教えに従って、次の条項を定め認め、(聖霊の助けによって)、これまでの決定事項につけ加え、これを発表する。
秘跡全般について
160l(844)1条。新約の諸秘跡の全部が、私たちの主イエズス・キリストによって制定されたものでないとか、または洗礼 堅信、聖体、告解、終油、叙階、婚姻の七つより多いとか少ないとか、またはこの七つは本当の意味での秘跡でないと言う者は排斥される。
1602(845)2条。新約の秘跡は外的儀式が違っているだけで、旧約の秘跡と違わないと言う者は排斥される。
1603(846)3条。この七つの秘跡はみな平等であって、あるものが他のものよりもすぐれているということは絶対にあり得ないと言う者は排斥される。
1604(847)4条。新約の秘跡は救いのために必要ではなく、むしろ余分なものであり、秘跡なしに、または秘跡を受ける望みなしにでも(すべての秘跡は一人一人に必要ではないが)、信仰だけで天主から義化の恩恵を受けることができると言う者は排斥される。
1605(848)5条。これらの秘跡は信仰を養うためにだけ制定された、と言う者は排斥される。
1606(849)6条。新約の秘跡はそれが示す恩恵を含んでいない、または障害を持たない者に恩恵は与えられないとか、信仰によって受けた恩恵または義の外的なしるしにすぎないとか、または信者と未信者とを区別するキリスト教的信仰告白のしるしにすぎないと言う者は排斥される。
1607(850)7条。秘跡を正しく受けても、それによって恩恵が何時でもすべての人に与えられるのでなく、時折、ある人々に与えられると言う者は排斥される。
1608(851)8条。新約の秘跡を通して事効的に恩恵が与えられるのではなく、恩恵を受けるためには天主の約束に対する信仰だけで十分であると言う者は排斥される。
1609(852)9条。洗礼、堅信、叙階の三つの秘跡は、霊魂に繰返して受けることができない霊的な消えない霊印を刻むものではないと言う者は排斥される。
1610(853)10条。すべてのキリスト者はすべての秘跡を授ける権能を持つと言う者は排斥される。
1611(854)11条。秘跡を執行し、授ける役務者に、少なくとも教会が行うことを行うという意志は必要でない、と言う者は排斥される(DzS1262参照)。
1612(855)12条。大罪の状態にある役務者は、たとえ秘跡を執行しまたは授けるために本質的に必要なことを守っても、秘跡を執行すること、または授けることはできないと言う者は排斥される(DzS1154参照)。
1613(856)13条。秘跡を荘厳に授ける時に、カトリック教会によって認められている儀式を軽んじ、または役務者がそれを勝手に省略し、または、教会の牧者は誰でも、それを他の新しい儀式に変えることができると言う者は排斥される。
洗礼の秘跡について
1614(857)1条。ヨハネの洗礼はキリストの洗礼と同じ効力を持っていたと言う者は排斥される。
1615(858)2条。洗礼のために自然の水は必要でないと言う者、その上、「水と聖霊とによって生れ変らなければ」(ヨハネ3・5)という私たちの主イエズス・キリストの言葉を何か他のたとえに曲げて解釈する者は排斥される。
1616(859)3条。すべての教会の母であり教師であるローマ教会には、洗礼の秘跡についての真の教えはないと言う者は排斥される。
1617(860)4条。異端者によって授けられた洗礼は、たとえそれが父と子と聖霊との名によって教会が行うことを行うという意向をもって授けられても、真の洗礼でほないと言う者は排斥される。
1618(861)5条。洗礼を受けるか受けないかは自由である、すなわち、洗礼は救いのために必要ではないと言う者は排斥される(DzS1524参照)。
1619(862)6条。洗礼を受けた人は、信仰を拒否しなければ、たとえそれを望んでも罪を犯すことによって恩恵を失うことはないと言う者は排斥される(DzS1544参照)。
1620(863)7条。洗礼を受けた人は、洗礼によって信仰だけの負債者となるのであって、キリストの掟のすべてを守る必要はないと言う者は排斥される。
1621(864)8条。洗礼を受けた者は、書かれたものと伝承によるものを問わず、聖なる教会の掟から自由である、そして自発的に掟に従うことを望まないかぎりそれを守る義務はないと言う者は排斥される。
1622(865)9条。自分が受けた洗礼の記憶が強く刻みこまれ、洗礼後に立てた誓いは宣言した信仰または洗礼そのものを傷つけるものであり、洗礼の時の約束の中にすでに含まれているため、すべて無効であると言う者は排斥される。
1623(866)10条。洗礼の後に犯した罪はすべて、受けた洗礼の記憶と信仰だけによって赦されるか、小罪となると言う者は排斥される。
1624(867)11条。未信者の前でキリストの信仰を否定した者が悔改める時には、正式に授けられた其の洗礼を繰返すべきであると言う者は排斥される。
1625(868)12条。キリストが洗礼を受けた年齢になるまで、または臨終の時以外は洗礼を授けるべきではないと言う者は排斥される。
1626(869)13条。幼児は信仰告白をしないため、洗礼を受けた後も信者の数に入れてはならないとか、幻児が成長して理性の働きが始まった時、再び洗礼を授けるべきであるとか、自分自身の信仰行為によって信じない幼児に教会の信仰によって洗礼を授けるよりも洗礼を授けないほうがよいとか言う者は排斥される。
1627(870)14条。洗礼を受けた幼児が成長した時には、その代父母が彼らの代りに約束したことを守る意志があるかどうかを尋ねなければならない。もしその意志がないと答えた時には当人の判断通りに任せるべきであるとか、彼らが悔い改めるまで、聖体その他の秘跡を受けることを許さない以外は、キリスト教的生活をさせるように罰を加えてはならない、と言う者は排斥される。
堅信の秘跡について
1628(871)1条。受洗者に授ける堅信が無意味な儀式であり、真の本来の意味での秘跡でないとか、昔は幼児洗礼を受けた者が、青年期に達した時に教会において、自分の信仰を表明した式でしかなかったと言う者は排斥される。
1629(872)2条。堅信の聖香油に何かがあるかのように言うのは、聖霊に対する侮辱であると言う者は排斥される。
1630(873)3条。聖なる堅信の通常の授与者は司教だけではなく、一般の単なる司祭もこれを授けることができると言う者は排斥される。
(1547年3月3日)
1547年1月17日から準備されていたこの教令の草案が、2月26日に提出された(SGTr5、835ss;984;TheiTr1、383ss;456)。この教令および秘跡についての諸教令に非難されている誤謬は、主としてマルチン・ルターの秘跡についての著書『教会のバビロニア捕囚についての序論』から引用したものである(DzS1451に引用したワイマール版、第6巻。497~573)。ルター派の神学委員会によって1530年に作成され、皇帝カール5世に捧呈された「アウグスブルグ信条」(ed.BekSchELK44-137;CpRef26、263ss)の第9~13、22~25条、およびフィリップ・メランヒトンが1530年に書いた『アウグスブルグ信条の弁護』(1531年に出版された改訂版)からも引用してある
序 文
1600(843a)第6総会において、すべての教父たちの同意を得て発表された義化についての教義の結びとして、教会の聖なる秘跡について取扱うべきであるという意見に達した。秘跡によってすべての真の義が始まり、始まったものを増し、失ったものを回復することができるのである。そのため聖なるトレント公会議は聖座の特使の臨席を得て、聖霊の導きのもとに合法的に参集した。その目的は聖なる秘跡について、過去にすでに教父たちから排斥されているもの、また新しく起ったものなど、カトリック教会の純粋な教えと救霊のために大きな妨げとなる誤謬を取除き、異端を絶滅するためである。聖書の教え、使徒たちの伝承、今までの公会議、教父たちの教えに従って、次の条項を定め認め、(聖霊の助けによって)、これまでの決定事項につけ加え、これを発表する。
秘跡全般について
160l(844)1条。新約の諸秘跡の全部が、私たちの主イエズス・キリストによって制定されたものでないとか、または洗礼 堅信、聖体、告解、終油、叙階、婚姻の七つより多いとか少ないとか、またはこの七つは本当の意味での秘跡でないと言う者は排斥される。
1602(845)2条。新約の秘跡は外的儀式が違っているだけで、旧約の秘跡と違わないと言う者は排斥される。
1603(846)3条。この七つの秘跡はみな平等であって、あるものが他のものよりもすぐれているということは絶対にあり得ないと言う者は排斥される。
1604(847)4条。新約の秘跡は救いのために必要ではなく、むしろ余分なものであり、秘跡なしに、または秘跡を受ける望みなしにでも(すべての秘跡は一人一人に必要ではないが)、信仰だけで天主から義化の恩恵を受けることができると言う者は排斥される。
1605(848)5条。これらの秘跡は信仰を養うためにだけ制定された、と言う者は排斥される。
1606(849)6条。新約の秘跡はそれが示す恩恵を含んでいない、または障害を持たない者に恩恵は与えられないとか、信仰によって受けた恩恵または義の外的なしるしにすぎないとか、または信者と未信者とを区別するキリスト教的信仰告白のしるしにすぎないと言う者は排斥される。
1607(850)7条。秘跡を正しく受けても、それによって恩恵が何時でもすべての人に与えられるのでなく、時折、ある人々に与えられると言う者は排斥される。
1608(851)8条。新約の秘跡を通して事効的に恩恵が与えられるのではなく、恩恵を受けるためには天主の約束に対する信仰だけで十分であると言う者は排斥される。
1609(852)9条。洗礼、堅信、叙階の三つの秘跡は、霊魂に繰返して受けることができない霊的な消えない霊印を刻むものではないと言う者は排斥される。
1610(853)10条。すべてのキリスト者はすべての秘跡を授ける権能を持つと言う者は排斥される。
1611(854)11条。秘跡を執行し、授ける役務者に、少なくとも教会が行うことを行うという意志は必要でない、と言う者は排斥される(DzS1262参照)。
1612(855)12条。大罪の状態にある役務者は、たとえ秘跡を執行しまたは授けるために本質的に必要なことを守っても、秘跡を執行すること、または授けることはできないと言う者は排斥される(DzS1154参照)。
1613(856)13条。秘跡を荘厳に授ける時に、カトリック教会によって認められている儀式を軽んじ、または役務者がそれを勝手に省略し、または、教会の牧者は誰でも、それを他の新しい儀式に変えることができると言う者は排斥される。
洗礼の秘跡について
1614(857)1条。ヨハネの洗礼はキリストの洗礼と同じ効力を持っていたと言う者は排斥される。
1615(858)2条。洗礼のために自然の水は必要でないと言う者、その上、「水と聖霊とによって生れ変らなければ」(ヨハネ3・5)という私たちの主イエズス・キリストの言葉を何か他のたとえに曲げて解釈する者は排斥される。
1616(859)3条。すべての教会の母であり教師であるローマ教会には、洗礼の秘跡についての真の教えはないと言う者は排斥される。
1617(860)4条。異端者によって授けられた洗礼は、たとえそれが父と子と聖霊との名によって教会が行うことを行うという意向をもって授けられても、真の洗礼でほないと言う者は排斥される。
1618(861)5条。洗礼を受けるか受けないかは自由である、すなわち、洗礼は救いのために必要ではないと言う者は排斥される(DzS1524参照)。
1619(862)6条。洗礼を受けた人は、信仰を拒否しなければ、たとえそれを望んでも罪を犯すことによって恩恵を失うことはないと言う者は排斥される(DzS1544参照)。
1620(863)7条。洗礼を受けた人は、洗礼によって信仰だけの負債者となるのであって、キリストの掟のすべてを守る必要はないと言う者は排斥される。
1621(864)8条。洗礼を受けた者は、書かれたものと伝承によるものを問わず、聖なる教会の掟から自由である、そして自発的に掟に従うことを望まないかぎりそれを守る義務はないと言う者は排斥される。
1622(865)9条。自分が受けた洗礼の記憶が強く刻みこまれ、洗礼後に立てた誓いは宣言した信仰または洗礼そのものを傷つけるものであり、洗礼の時の約束の中にすでに含まれているため、すべて無効であると言う者は排斥される。
1623(866)10条。洗礼の後に犯した罪はすべて、受けた洗礼の記憶と信仰だけによって赦されるか、小罪となると言う者は排斥される。
1624(867)11条。未信者の前でキリストの信仰を否定した者が悔改める時には、正式に授けられた其の洗礼を繰返すべきであると言う者は排斥される。
1625(868)12条。キリストが洗礼を受けた年齢になるまで、または臨終の時以外は洗礼を授けるべきではないと言う者は排斥される。
1626(869)13条。幼児は信仰告白をしないため、洗礼を受けた後も信者の数に入れてはならないとか、幻児が成長して理性の働きが始まった時、再び洗礼を授けるべきであるとか、自分自身の信仰行為によって信じない幼児に教会の信仰によって洗礼を授けるよりも洗礼を授けないほうがよいとか言う者は排斥される。
1627(870)14条。洗礼を受けた幼児が成長した時には、その代父母が彼らの代りに約束したことを守る意志があるかどうかを尋ねなければならない。もしその意志がないと答えた時には当人の判断通りに任せるべきであるとか、彼らが悔い改めるまで、聖体その他の秘跡を受けることを許さない以外は、キリスト教的生活をさせるように罰を加えてはならない、と言う者は排斥される。
堅信の秘跡について
1628(871)1条。受洗者に授ける堅信が無意味な儀式であり、真の本来の意味での秘跡でないとか、昔は幼児洗礼を受けた者が、青年期に達した時に教会において、自分の信仰を表明した式でしかなかったと言う者は排斥される。
1629(872)2条。堅信の聖香油に何かがあるかのように言うのは、聖霊に対する侮辱であると言う者は排斥される。
1630(873)3条。聖なる堅信の通常の授与者は司教だけではなく、一般の単なる司祭もこれを授けることができると言う者は排斥される。