聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

私的啓示と霊の識別

2017-01-24 01:35:47 | 聖母マリアとその出現について
私的啓示と霊の識別

ファチマとメデュゴリエ

 天主は全能なお方です。私たちの信仰は、天主に出来ないことはない、と私たちに教えます。天主は、奇跡を起こすことが出来ます。奇跡を起こすことが出来ると言うことは、私たちの日常生活に直接的に干渉することが出来るということです。ですから、カトリック教会は今までに数多くの奇跡が起こったことを公認してきました。例えば、教会は聖母が私たちに御出現になったという事実を幾つか公認しました。例を挙げると、フランスのルルドにおける聖母の御出現(1858年)、或いは、ポルトガルのファチマにおける聖母の御出現(1917年)などがあり、これらは大変有名なことです。しかし、カトリック教会はこれらの事実を公認する前には、常に非常に慎重で賢明な調査を繰り返しました。カトリック教会は、真の御出現と偽の御出現を調査し、区別し、判定する権利と義務があるからです。

 私たちは、ここで母なる教会の導きに従って、御出現の識別について研究してみましょう。

 カトリック教会は、どの様な精神を持って御出現を識別するのでしょうか。ここではその手本に、ファチマの御出現を取ってみるでしょう。そして、その原則をその他の御出現に適応させてみましょう。ここでは、その適応の例として、メデュゴリエの出現を取ってみましょう。


ファチマの秘密(2-9) - 祈る、天主に赦しを求める、罪人の名において、罪人たちに代わって、彼らの罪の償いに

2017-01-24 01:32:27 | 聖母マリアとその出現について
 祈る、天主に赦しを求める、罪人の名において、罪人たちに代わって、彼らの罪の償いに、イエズスとマリアの聖なる聖心をお慰めするために、犠牲を天主に捧げる、これがファチマの霊性である。これがルシアとヤシンタ、フランシスコの聖性を得るためのプログラムであった。このプログラムは本当に簡単だ。このプログラムはキリスト教の核心に単刀直入に触れる。つまり、永遠の命、天国と地獄、罪の醜さ、贖いと諸聖人の通功、という贖いの玄義に。

 聖母は、私たちの人生のドラマをこの短い言葉で要約された。聖母はこの言葉を1917年の8月19日に、非常に悲しそうな面もちで、言われた。

「罪人たちのために、祈り、多く祈りなさい。犠牲を捧げなさい。何故なら、多くの霊魂たちが地獄に行くからです。それは、これらの霊魂のために犠牲となり、祈りをする人が誰もいないからです。」

 地獄!これこそ聖母マリアが何よりもまず私たちに思い起こさせようと望まれたことである。シスタールシアは、この点を強調して止まない。ルシアは、1957年フエンテス神父(P. Fuentes)と面会し、こう断言した。

「私の使命は、この世界が祈らず、償いを果たさなかったら必ず受けるであろう物質的な天罰について、この世界に指し示すことではありません。いいえ、違います。私の使命は全ての人々に、もし私たちがこのまま罪に頑なにとどまるなら、永遠に私たちの霊魂を失ってしまうというその身に迫る危険を指し示すことにあります。」

 1977年7月11日、ルチアニ枢機卿(すなわち、私たちの将来の教皇ヨハネ・パウロ一世)が、コインブラのカルメル修道院のシスタールシアを訪問した後、彼はこう語った。ファチマの第一の秘密を彼程良くうまくまとめた者はいないといわれる。

「地獄は存在し、私たちは地獄に落ちてしまうかも知れません。ファチマで聖母はこの祈りを私たちに教えて下さいました。『ああイエズスよ、我らを赦し給え。我らを地獄の火より救い給え。全ての霊魂、ことに最も必要とする者たちを天国に導き給え。』この世で重要なことはいくつかありますが、よく生きることによって天国を獲得するにふさわしいものとなることより重要なことはありません。そのことを言っているのはファチマだけではありません。聖書がそのことを言っています。『たとえ全世界を儲けても、魂を失ったら何の益になるだろうか?』と。」

 そうだ、聖母は言われた。「罪人たちのために犠牲をしなさい。たくさん、特に何か犠牲をするときにこう言いなさい。“イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです”と。」

 わたしたちも祈ろう、天主に赦しを求めよう、罪人たちの名において、罪人たちに代わって、罪人たちの罪の償いに、イエズスとマリアの聖なる聖心をお慰めするために、犠牲を天主に捧げよう。これがファチマの霊性である。ファチマの秘密の核心である。私たちも、ルシア、ヤシンタ、フランシスコに倣おう。彼らの聖性を得るためのプログラムを私たちも実行しよう。このプログラムは本当に簡単だ。聖母の薦めに従い、私たちも、罪人たちのために犠牲をしよう。たくさん、特に何か犠牲をするときにこう言おう。

『イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです』と。

「何故なら、多くの霊魂たちが地獄に行くから、それは、これらの霊魂のために犠牲となり、祈りをする人が誰もいないから」だ。

 

文責トマス小野田神父

「マニラのそよ風」より

ファチマの秘密(2-8) - あなたたちはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました

2017-01-24 01:29:55 | 聖母マリアとその出現について
 コバ・ダ・イリアに集まる大群衆の中にはロザリオを熱心に唱えるものもあれば、敬虔な巡礼者もあり、また興味本位に来るだけで信じない者もいた。ヤシンタは良いことを思いついた。

「『何で聖母様は地獄を罪人たちにお見せしないの?もしあの人たちが地獄を見たら、地獄に行っちゃ大変だからもう罪を犯しっこないのに。ルシア姉さんは聖母様にこの人たちみんなに地獄を見せて下さるようにとお願いして。そうしたらこの人たち回心するよ、きっと。』

 (その次の御出現の)後に、ヤシンタは少し不機嫌で私にこう尋ねました。『ねえ、お姉さんは何で聖母様にこの人たち皆に地獄を見せて下さいってお願いしなかったの?』『私忘れちゃったの』と答えました。すると彼女も少し悲しそうな調子で『私も忘れちゃった』と言いました。」(第三手記)

「もし私があの人たちに地獄を見せることが出来たらなぁ!」

 確かに地獄の光景を全ての人々に見せるのは天主様のご計画ではない。そして地獄の光景でさえも罪に凝り固まった霊魂たちを回心に導くには十分ではないだろう。貧しい乞食ラザロのたとえ話を思い出そう。(ルカ16)

 聖書も地獄について語り、イエズスも地獄について語り、諸聖人も地獄について語った。地獄について説教しなければならない。うまずたゆまず地獄のことを思い出させなければならない。地獄のことを聞き善意の霊魂たちが回心するように。善意の霊魂たちが、少なくとも地獄を怖れて回心するように。

 地獄のことが忘れ去られた、というこの事態は悪魔の大勝利である。悪魔は人の心から地獄の観念を消すことに成功したのだ!人々は何をしても地獄の罰を怖れないのだ。

 教皇ピオ九世はローマの司祭たちにこう言っていた。「悪魔は地獄について説教する司祭たちを怖れる」と。地獄についての説教は霊魂にとって本当に善になる。どんな霊魂にとっても益になる。惨めな霊魂であっても、完全な霊魂であっても、為になる。何故なら、地獄は、私たちをして罪を忌み憎ませるからだ。

 聖母は優しく悲しそうにこう言われた。『あなたたちはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました』と。かわいそうな罪人たち!

 この最後の「罪人」という言葉について、ヤシンタはある日いろいろ考えた。

「時々彼女はまた質問しました。『この人たちはどんな罪を犯して地獄に行くことになるの?』『さあ、分からない。もしかしたら主日にミサに行かない罪とか、盗みとか、悪い言葉を言うとか、ののしるとか、冒涜するとかかも。』『それじゃあ、そうやってたった一つの言葉のせいで、あの人たち地獄に行くの?』『そうよ、だってそれも罪じゃない。』『黙っていたり、ミサに行くというのが、(生きていた間)あの人たちにとってどれだけ大変なことだったの!?罪人たちがほんとにかわいそう!あぁ!もし私があの人たちに地獄を見せることが出来たらなぁ!』」(第三手記)

「罪人たちがほんとにかわいそう!」

 ヤシンタの心遣いの大部分を占めた問題はこれであった。多くの霊魂を救うこと。地獄の火から救い出すこと。霊魂たちに地獄のことを教えること。ヤシンタは、霊魂たちに地獄の火に落ちないように知らせるために、どんな罪を犯すと地獄に行ってしまうのかを知りたがったのだった。

 ヤシンタはルシアの答えには十分満足しなかった。ヤシンタはその後重い病気になるが、そのとき聖母は彼女を訪れて下さるだろう。病気のヤシンタが聖母に聞いた質問がそれだった。霊魂たちはどんな罪を犯すので地獄に落ちるのですか?と。私たちは、いまここでその詳細について触れる余裕がない。とにかく聖母はこう答え給うた。「最も多くの霊魂たちを地獄に引き落とす罪は、肉の罪です。」(第三手記)1917年、まだビデオも、コンピューターゲームも、洪水のようなポルノ雑誌、映画、新聞の存在していなかった時代の話である!

 ヤシンタは私たちに地獄の危険について教えるだけで満足しなかった。彼女は全く祈りと償いと悔悛に全てを捧げるのだ。彼女の信じられないほどの寛大さは、霊魂を永遠の滅びから救い出そうと、自分のことを全く忘れて、祈りに励み出すのだ。ヤシンタはたえず新たに愛の祈りを捧げ、償いを捧げた。

 シスタールシアはヤシンタについてこう書くことさえ出来た。「全ての償いと苦行は、地獄から霊魂をいく人が落ちないようにするためには、あの子にとって十分ではないと思われていました。」(第三手記)

ファチマの秘密(2-7) - 大きな憐れみの心

2017-01-23 01:50:20 | 聖母マリアとその出現について
大きな憐れみの心

 ヤシンタはかわいそうな罪人たちに対して大きな憐れみを抱いた。ルシアはこう書いている。「ヤシンタを一番びっくりさせたのは、永遠でした。遊んでいる最中でさえ時々ヤシンタはこう尋ねるのです。『ねえ、ちょっと考えて、何年も何年もずーと、ずーと経った後でも、まだ地獄は終わらないの?』」(第一手記)ルシアはいつでも公教要理に書いてあったのと同じ答えをした。聞くのには厭な答えだが真理を答えた。「そうよ、絶対に絶対に終わらないのよ。地獄は永遠なの。」

 「ヤシンタは地面に、あるいは石の上に座って考え込んだようになりこう言い始めました。『ああ!地獄!地獄!地獄に落ちる霊魂たちがかわいそう!あそこにいる人たちは、生きたままで火の中の薪のように燃えなるの!』それから半分震え戦きながら跪いて手を合わせて聖母が私たちに教えて下さった祈りを唱えるのです。『ああイエズスよ、われらを赦し給え。われらを地獄の火より救い給え。全ての霊魂、ことに最も必要とする者たちを天国に導き給え。』・・・そしてヤシンタは、そのまま同じ祈りを何度も繰り返して跪いたまま長い間じっとしていました。」(第三手記)

 ヤシンタは見た!多くの霊魂たちが地獄に落ちていくのを。ヤシンタは多くの霊魂が地獄に落ちているのを知っているが、それに決して慣れたりしない。地獄に落ちる霊魂のことはヤシンタにとっての苦しみの原因だった。この地獄に落ちる霊魂を救おうという考えが、ヤシンタをさらに寛大に英雄的にした。

「ほんとに多くの霊魂が地獄に行くのだから!ほんとに多くの!」

 ルシアはまたこう書いている。「ヤシンタはこのように跪いたままで、長い間同じ祈りを何度も何度も繰り返して唱えました。ときどき誰かが眠りから目を覚ましたように、お兄さんか私を呼んでこう言うのです。『フランシスコ、フランシスコ、私と一緒に祈ってる?私達は地獄から霊魂たちを救うためにほんとにたくさん祈らなきゃダメ!ほんとに多くの霊魂がそこに行くのだから!ほんとに多くの!』と。」(第三手記)

「或る別の時には、しばらく考えた後に、ヤシンタはこう言っていました。『あんなにも多くが地獄に落ちるのよ!あんなにも多くが地獄に!』この子を落ち着かせようと私はこう言いました。『怖がっちゃダメよ。ヤシンタちゃんは天国に行くのだから。』すると、彼女は安らかにこう言いました。『うん、私は行くの。でも私はこの人たちも皆天国に言って欲しいの。』」(第三手記)

 ヤシンタはある日、既に病床について居るとき、自分のいとこのルシアにこう打ち明けた。

「ある日私はヤシンタの家に行きました、それは少しの間でも彼女と一緒にいるためでした。私はこの子がベッドの上に座って考え深くなっているのを見ました。『ヤシンタちゃん、何考えてるの?』『もうすぐ始まる戦争のことよ。本当に多くの人が死んでいくの。そして殆ど全部が地獄に行くのよ!』」(第三手記)

 ルシア自身も自分の見たことを絶えず証言した。ルシアはうまずたえず疲れることなく、ひたすらに1917年7月13日の大警告をくり返した。

ロンバルディ神父(P. Lombardi)は、『よりよい世界を作る運動』の創立者だが、1953年、10月13日に、シスター・ルシアを訪問し地獄について彼女に尋ねた。

「『本当に多くの人が地獄に落ちていくと信じますか?私は天主様がその大部分を救って下さると希望します。(私は『信仰のない人たちの救い』と言う題の本さえ書きました。)』

『多くの人々は自ら破滅します。(=地獄に落ちます)』

『この世は悪徳だらけであるとは確かです。・・・でも、常に救いの希望があります。』

『いいえ、神父様、多くの人は自ら失われるのです(=地獄に落ちるのです)。』」(Alonso, <La verite sur le Secret de Fatima>『ファチマの秘密に関する真実』, pp. 88-89)

 シスタールシアは、ある日神学校を辞めようという誘惑にかられている青年に手紙を書いた。そして、その手紙の中でルシアは彼にもし神学校を辞めると地獄に落ちる大きな危険があることをくり返し言っている。そして、手紙の最後に、結論として、彼に自分の召命に忠実であるようにと次のように頼んでいる。

「私があなたに地獄のことを余りにもよく話すからと言ってびっくりしないで下さい。これは現代においてよく思い出す必要のある真理なのです。何故かというと人は地獄のことを忘れているからです。地獄に落ちていく霊魂たちというのはたつまきのようです。何ですって?地獄に行かないようにするため、また多くの霊魂たちが地獄に落ちないようにするためにしなければならない全ての犠牲をよく捧げていないのですか?」(A. M. Martins, <Carta da Irma Lucia>『シスター・ルシアの手紙』, P. 120-122, Porto 1979)

 シスタールシアは、話に尾ひれも付けないし、誇張もしない。ただそのままを語る。ある日彼女はトマス・ウォルシュ(Thomas Walsh)氏との対話の中でこう言っている。ウォルシュ氏は彼女に罠のある質問をした。

「『聖母は多くの霊魂たちが地獄に落ちていくのをあなたに見せて下さいましたね。あなたは、地獄に落ちる呪われた霊魂たちが救われる霊魂よりもずっと多いという印象を聖母から受けましたか?』

 ルシアは軽くほほえんで『私は地獄に落ちる霊魂を見ました。私は天国に昇っていく霊魂を見ませんでした。』」("Our Lady of Fatima")

 聖母が私たちに教えて下さることは、どちらの方が多いかではない。そうではなく「多くの霊魂が地獄に落ちていく」ことである。この世の人生の罪の生活の果てに、多くの霊魂が「火の海」の中に落ち込んでいくことである。

「もしあの人たちが地獄を見たら、もう罪を犯しっこないのに。」

 地獄に落ちていく霊魂たち!これこそ人生の悲劇、最終のドラマだ。この究極的な絶体絶命の危険から霊魂を救うにはどうしたらよいだろうか?

ファチマの秘密(2-6) - 地獄を見た!

2017-01-23 01:48:20 | 聖母マリアとその出現について
地獄を見た!

 ルシアはこう書いている「聖母は優しく悲しそうにこう言いました。「あなたたちはかわいそうな罪人たちが行く地獄を見ました。」と。

 天主の御母は、「あなたたちは永遠の破滅のある象徴、あるイメージをみました。本当の地獄とは、純粋に霊的なのでこういうものではありませんが、そのシンボルを見たのです。」とは言われなかった。いや、聖母はハッキリこう言ったのだ。あなたたちは、地獄を見ました!!と。

 実際シスター・ルシアは聖母が地獄の光景を長い間秘密にしておくようにと要求されたので聖母に感謝した。なぜなら、まだ子どもだったルシアは、自分の見た現実を正確に描写することが出来なかったからだ。シスター・ルシアは1941年にこう書いている。「沈黙を守ることは私にとって本当に大きなお恵みでした。もし地獄について話さなければならなかったとしたら、私に何が起こっていたでしょうか?現実をそのまま表す正確な言葉を見つけられず、・・・なぜなら私がここに地獄について書いたことは何でもないし、地獄についての弱々しい考えを与えてくれるだけです。」シスター・ルシアの言おうとすることは明白だ。現実の地獄は、もっともっと恐ろしく、人間の言葉ではとても表現できないものだ、と言うことだ。

 ルシアはこういう。「私達の天の良きお母様が、最初の御出現の時に私達を天国に連れていくと約束されたおかげでです。もしそれがなかったら、おののきと恐れのために死んでいたことでしょう。」地獄のビジョンはそれほど恐ろしいものだったのだ。

地獄を見たヤシンタ

 ルシアによれば「ヤシンタは、秘密のうちに啓示された或ることに大変深く印象づけられたようでした。本当にそのようでした。地獄のビジョンはあの子を畏れさせ、地獄に落ちないように霊魂たちを何人か救うためには、全ての償いも苦行もあの子には十分では無いかのように思えていたほどでした。・・・

・・・たとえ敬虔な人だったとしても子どもに地獄のことを話すのが嫌いな人たちもいます。それはその子達が怖れないようにするためです。しかし天主様は、三人の子どもたちに地獄を見せるのを躊躇しませんでした。そのうちの一人の女の子はまだ六歳にもなっておらず、天主はこの女の子が、大胆な言い方かも知れませんが恐れのあまりに死んでしまうほど、地獄を怖がると言うことを良く知っていたにもかかわらずです。」(第三手記)

フランシスコ

 フランシスコは? シスター・ルシアはこう書いている。「第三の御出現の時、地獄のビジョンにも余りびっくりしなかったのはフランシスコのように見えました。それでも地獄の光景はあの子にも大きな衝撃だったのです。」(第四手記)

 しかし、フランシスコはその気質が余り臆病でもなく、びくびくするタイプの子ではなかった。フランシスコは「おっかなくならないように、絶対に地獄のことを考えないように」努力していた。「ヤシンタが地獄のことを思い出して大変印象づけられていたのに比べて、フランシスコはヤシンタにこう言うのを常としていました。『あんまり地獄のことなんか考えるなよ!それより私たちの主イエズス様とマリア様のことを考えなよ。僕はおっかなくならないように地獄のことなんか考えないね』と。」(第四手記)

 しかし、聖母は、この特別に選ばれた子どもたちが地獄のことを考えるようにと、彼らに地獄の光景を見せたのだった。不幸にして地獄に落ちてしまった霊魂たちのことを思い、罪人の回心のために絶えず祈りいけにえを捧げるようにと、聖母は望まれたのだった。フランシスコはそれにもかかわらず地獄のことを忘れようとするのだろうか?そう言うフランシスコにまた新たなビジョンが与えられた。ルシアの回顧録を見てみよう。

「ある日、ペドレイラと言うところに私たちはいました。羊たちが牧草をはんでいる間に私たちは岩から岩へとはね回り、自分たちの声を山びこさせていました。フランシスコはいつものように岩の洞穴に隠れました。随分経った後、私たちはフランシスコが叫んで私たちを呼び、聖母の御名を呼び求めているのが聞こえました。あの子に何か起こったに違いないと心配し、私たちはフランシスコを捜し始めました。『どこにいるの』『ここだよ、ここ、ここ!』フランシスコのいるところまで行くにはそれでも時間がかかりました。ついに私たちはフランシスコと見つけると、彼は恐ろしさの余り震え、まだ跪いたままで、本当に打ちのめされ立ち上がることもできませんでした。『なんかあったの。なにがあったの?』フランシスコは、恐れの余り半分息が出来ずに窒息したような声でこう言うのです。『地獄にいたあの大きいケダモノどものうちの一匹が、火の中から出てきてここに居たんだよ!』(第四手記)