聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

ルターの誤りと現代世界の精神

2017-05-28 23:54:17 | エキュメニズム関連
ルターの誤りと現代世界の精神

フランツ・シュミットバーガー神父

はじめに

 

 現代世界の誤謬を良く理解するために、特にカトリック教会の内部に介入した出来事を良く理解するために、プロテスタント運動におけるルターとその賛同者の立場を良くもっと掘り下げてつかみ、新プロテスタント主義と新現代主義と比較する必要があると思われる。

 ルターの主張を本質的なものは次の4つの「のみ(soli)」に要約される。

* Sola scriptura(聖書のみ)即ち、教会の聖伝なし

* Sola fides(信仰のみ)即ち、善業なし

* Sola gratia(聖寵のみ)即ち、人間の持つ道徳的自由による人間の協力なし

* Solus Deus(天主のみ)即ち、教会による救いの仲介と諸聖人の取り次ぎなし

 

1 Sola scriptura(聖書のみ)即ち、教会の聖伝なし

 ルターは聖書が天主の啓示の唯一の源であり、キリスト信者はそれぞれそれを正しく理解し解釈するために聖霊の息吹を受けるという。ルターによれば、教会の教導職は、むしろ、それ自体で明らかである天主のみ言葉を暗くする。俗な言い方をすれば、牛乳屋に牛乳を買いに行くよりも、直接牛の乳を搾った方がよい。

 プロテスタントは、その名称とその指針の如何を問わず、エホバの証人に至るまで、ルターのこの断言を自分のものとしている。しかし、これは、聖書そのものの証言からとったとても強力な議論に反対しなければならない。

 ア)ヨハネ20:30~31には、こう書いてある。

「イエズスは弟子たちの前で、この本には記さなかったほかの多くのしるしを行われた。」さらに、ヨハネ21:25には、「イエズスが行われたことはこのほかにも多いが、一つ一つ記したなら全世界さえもその書かれた本を入れることができまいと私は思うのである。」

 この言葉は、聖書が、イエズスのみ言葉と行いの一部、抜粋に過ぎないことを明らかに示している。何を基準にして聖書に何を入れるかを選択したのかは全く明らかではない。救いに必要なキリストの教えは聖書にだけ含まれていて、そのほかはとるに足らない詳細に過ぎない、というのは、全く根拠のない仮説に過ぎない。

 イ)主は、ご自分の弟子らに行って教えるように命令された。「全世界に行ってすべての被造物に福音を述べ伝えよ」(マルコ1:15)主は、彼らに本を書くようにとは命令されなかった。

 教会の生命のはじめにあったのは、まず真理の霊である聖霊の息吹に基づく生ける教えであった。このことは他方で、全く直接に明らかな理由に対応している。即ち、自然と超自然の創り主である天主は、この世の統治と、救いの伝達において人々を道具としてお使いになること、まさにそれにおいて生の言葉は人から人への伝達において全く重要な役割を果たしていること。創造主はご自分のみ業を良くご存じである。特に人間の霊魂とその機能、その願いと、生命を人間に伝達する方法について良くご存じである。

 聖パウロは言った。「信仰は聞くことから始まる」と。

 ウ)聖書は、教会が存在しだしてから幾年かたった後に書かれたが、その間にも教会生活はすでに開花し、聖なるいけにえや福音の宣教、秘蹟の授与、福音の原理にそった教会の統治が行われていた。もしも聖書が教会の最高の基礎だとしたら教会は原初存在し得なかったことになる。

 エ)誰が聖書に含まれているものと聖書に含まれていないものを定めたのか。言いかえると誰が聖書の正典(カノン)を定めたのか。

 どれが聖書の正典であるかについての基準は聖書自体の中にはない。なぜなら、もしそのような基準が聖書の中にあったとしたらその基準自体いったい誰が定めたのかという疑問が生じるだろうからだ。

 従って、聖書の外にこの基準がなければならず、その基準は霊感を受けた正真正銘の書き物とそうでない聖書外典とを確実にはっきりと区別し識別しなければならない。この基準は、キリストによって制定された教導権に属し、この教導権は数世紀にわたって聖霊の導きの下に信仰の遺産をいっさい変えることなく伝達する。

 オ)聖書の内容について疑問や論争が起こった場合には、誰が聖書を正しく解釈するのか。

 ルターとプロテスタントらは「聖霊が」という。カトリックはそれに同意するがしかしその曖昧な発言を明確にこう言い表す。

「聖霊は人々から成り立つ天主の定めた制度において、つまり、教会の教導職において客観的に自らを表す。それは信仰の遺産の保存が全くの疑いや、主観的相対化を越えてなされるようにするためである。

 まさしく、プロテスタントの諸宗派がそのほとんどが互いに矛盾しつつ分裂を繰り返しているそのこと自体が、天主は信仰の遺産をいかなる個人にも社会集団にも委託せず、ただ単に聖ペトロとその他の使徒たちにゆだね、ご自分は彼らとともにこの世の終わりまでおられることを証明している。

 プロテスタントらはカトリックの教えに反対する何らの積極的なものをも持たない。彼らはただ単にカトリックの教えの批判に生きている。彼らは私たち、彼らとは別のカトリックたちは彼らよりも良くは無いという。なぜなら、彼らによれば、最後のよりどころとしての聖書を持っているが、私たちには、聖書のほかに、教義の集大成という余計なものを持っているからだという。

 この反論に対する答は簡単だ。カトリック教会は、教義の集大成でも、道徳体系でもなく、エンマヌエル、即ち私たちのうちに生き続け、行動し続ける天主たる人であり、ご自分のいけにえにおいて、その秘蹟において、ご自分の立てた位階制度において、生き、行動し続け、信仰の遺産を守り続けるのである。

 教会は、聖伝を持っているのではなく、教会自体が本質的に聖伝なのである。即ち、教会は、人となった御言葉の継続なのである。従って、洗礼を授けるのも教えるのも教会が洗礼するのでも教えるのでもなく、人間の司祭、最高司祭としての教皇を、道具として使いそれによって救いを与えようと、固有的にそして最終的にはキリストがいけにえを捧げ、洗礼を授け、教えているのである。

 従って、教会は、新しく何が真理であるかを定め(発明するのではなく!)現代の諸問題に対して態度を決め、区別し、論破し、議論し排斥することが、基本的にはいつもできる生ける教導職である限りにおいて、生けるキリストなのである。主は使徒たちに仰せられた。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちを拒む人は私を拒む人である。そして、私を拒む人は、私を送られたお方を拒むのである。」(ルカ1:16)

 不釣り合いなまで「御言葉」に重みを置くプロテスタントの立場は冷たい理性主義(rationalism) に他ならない。プロテスタントの立場は、御言葉は人(肉)となったことを認めようとしない。私たちの主がいけにえとなられ、私たちの救いのために時と場所を越えてこのいけにえを継続されることを認めようとしない。

 彼らは祭壇を捨て去り、その代わりに説教台を置く。説教と聖歌とがその中心であって、屠られた子羊や生ける天主の聖櫃が中心であるのではない。現代に生きるカトリック信者は、今述べたしるしの下でのプロテスタントの宗教改革が今教会内部でもう一度新たにされているのを見て、苦しまずにはいられない。彼らは、今、教会の教導職の拒否、継続し伝え続けるキリストの否定、神秘の拒否、冷たい理性主義、即ち非超自然主義への移行を見ている。

 16世紀に、シュトゥットゥガルト市がプロテスタントになるとき、新しい宗教を採用する日を決め、その日にはHofkircheで最後のミサを捧げた。そして、司祭は、聖櫃から御聖体を取り除き、キリストの現存を示す聖体ランプの火は消された。その建物は今でもある。しかし、エンマヌエルはそこから立ち去ってしまった。


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