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『諸宗教の市』と「諸宗教の議会」
大教養学部カトリック研究会が1955年に訳したピオ12世の『ミスティチ・コルポリス』という回勅の日本語訳を中央出版社は1964年に出版してくださいました。その翻訳・出版の御労力には日本人のカトリック信者を代表して心から感謝申し上げます。我々は、いつの時代にでもどこの国にでも真理である、教会の教えを知りたいのです。実にピオ12世はこう言われるのです。
「教会を、彼らが言うように「霊的な」ものであるかのように、“触れる事も見ることもできない何か”だと想像し、それによって“信仰によっては離れているにもかかわらず、多くのキリスト教共同体が目に見えないある一つの絆で互いに結ばれているようなもの”だと考える人々は、天主の真理から離れています。(14)」
「しかし、《生まれ変わりの洗礼を受け、真の信仰を宣言している人で、かつ他方で、不幸にしてこの(神秘)体の全体から離れなかった、或いは非常に重大な過失のために正当な権威によってこの体から切り離されなかった人々》だけが、教会のメンバー(肢体)を構成します。使徒(聖パウロ)は、私たちはユダヤ人もギリシア人も奴隷も自由人も区別なく、一つの体となるために一つの霊によって皆洗礼を受け(コリント/FONT>12:13)」たと言うのです。従って信者の真の集いにおいては、ただ一つの体、唯一の聖霊、唯一の主と唯一の洗礼しか無いのですから、ただ一つの信仰しかあり得ないのです(エフェゾ4:5参照)。そして教会の教えに耳を傾けることを拒む者は、主ご自身のご命令により異教徒、収税吏と同様に見なされべきです(マテオ18:17参照)。従って、信仰或いは統治の理由のために分裂している者たちは、この同じ体において生きられず、従ってこの同じ天主の霊を生きることもできません。(21)」ピオ12世の教えは明確であいまいな所がありません。
ところで、ピオ12世教皇が、昔からのカトリックの教えをはっきり宣言されているにもかかわらず、注解者はその訳注の中でピオ12世に明らかに全く反対してこう書いているのです。
「誰が神秘体の肢体であるかという問題を扱っているが、これは、一つの課題として今日まで持ち越されている(ママ!)。41頁」
更には、「ローマ・カトリック教会に属していない人々と教会とのつながりについての考え方は、第二バチカン会議とともに、新しい段階に入った。離別の兄弟であっても、洗礼を受けている人には洗礼による基本的な一致があり、聖霊は離別の兄弟のうちにも働いているのである(ママ!)。139~140頁」
しかし、誰がカトリック教会というキリストの神秘体の肢体で、誰がそうでないかは、教会はその創立のときから良く知っていました。教会は2000年間に亙り、天主は、通常の聖化手段としてカトリック教会を創立されたのであるから、カトリック教会を通して、その信者こそに聖霊が働いていると知っていました。この注解者が書いていることは実は第2バチカン公会議が考え出したことではありません。このようなリベラルな考えは歴代の教皇様が再三排斥し続けて来た考えです。この注解者はせっかくのカトリックの聖伝の教えを堅持するピオ12世の回勅に異端の疑問を投げかけることにより、何も知らない日本人の信者を惑わし毒を与えているのです。
今回は、そのことにテーマを縛って見てみることにしましょう。
大教養学部カトリック研究会が1955年に訳したピオ12世の『ミスティチ・コルポリス』という回勅の日本語訳を中央出版社は1964年に出版してくださいました。その翻訳・出版の御労力には日本人のカトリック信者を代表して心から感謝申し上げます。我々は、いつの時代にでもどこの国にでも真理である、教会の教えを知りたいのです。実にピオ12世はこう言われるのです。
「教会を、彼らが言うように「霊的な」ものであるかのように、“触れる事も見ることもできない何か”だと想像し、それによって“信仰によっては離れているにもかかわらず、多くのキリスト教共同体が目に見えないある一つの絆で互いに結ばれているようなもの”だと考える人々は、天主の真理から離れています。(14)」
「しかし、《生まれ変わりの洗礼を受け、真の信仰を宣言している人で、かつ他方で、不幸にしてこの(神秘)体の全体から離れなかった、或いは非常に重大な過失のために正当な権威によってこの体から切り離されなかった人々》だけが、教会のメンバー(肢体)を構成します。使徒(聖パウロ)は、私たちはユダヤ人もギリシア人も奴隷も自由人も区別なく、一つの体となるために一つの霊によって皆洗礼を受け(コリント/FONT>12:13)」たと言うのです。従って信者の真の集いにおいては、ただ一つの体、唯一の聖霊、唯一の主と唯一の洗礼しか無いのですから、ただ一つの信仰しかあり得ないのです(エフェゾ4:5参照)。そして教会の教えに耳を傾けることを拒む者は、主ご自身のご命令により異教徒、収税吏と同様に見なされべきです(マテオ18:17参照)。従って、信仰或いは統治の理由のために分裂している者たちは、この同じ体において生きられず、従ってこの同じ天主の霊を生きることもできません。(21)」ピオ12世の教えは明確であいまいな所がありません。
ところで、ピオ12世教皇が、昔からのカトリックの教えをはっきり宣言されているにもかかわらず、注解者はその訳注の中でピオ12世に明らかに全く反対してこう書いているのです。
「誰が神秘体の肢体であるかという問題を扱っているが、これは、一つの課題として今日まで持ち越されている(ママ!)。41頁」
更には、「ローマ・カトリック教会に属していない人々と教会とのつながりについての考え方は、第二バチカン会議とともに、新しい段階に入った。離別の兄弟であっても、洗礼を受けている人には洗礼による基本的な一致があり、聖霊は離別の兄弟のうちにも働いているのである(ママ!)。139~140頁」
しかし、誰がカトリック教会というキリストの神秘体の肢体で、誰がそうでないかは、教会はその創立のときから良く知っていました。教会は2000年間に亙り、天主は、通常の聖化手段としてカトリック教会を創立されたのであるから、カトリック教会を通して、その信者こそに聖霊が働いていると知っていました。この注解者が書いていることは実は第2バチカン公会議が考え出したことではありません。このようなリベラルな考えは歴代の教皇様が再三排斥し続けて来た考えです。この注解者はせっかくのカトリックの聖伝の教えを堅持するピオ12世の回勅に異端の疑問を投げかけることにより、何も知らない日本人の信者を惑わし毒を与えているのです。
今回は、そのことにテーマを縛って見てみることにしましょう。