聖ピオ十世会 Society of Saint Pius X

キリストは勝利し給う、キリストは統治し給う、キリストは命じ給う

万人司祭主義という誤謬

2017-06-16 01:37:42 | 公開書簡
 新しいミサの司式では、司式者の「私」という言葉が全て「私たち」に代わっています。あちこちに、信者たちが「祭儀する」を書いてあります。いけにえを捧げる行為に、信徒たちを伴わせ、彼らが書簡を読んだり、時には福音を読んだり、御聖体を配ったり、時には説教したり、時には説教の代わりに「神の言葉について小グループによる分かち合い」をしたり、日曜の集会を「打ち上げる」為に前もって会合を開いたりしています。しかしこれらはまだ第一歩に過ぎません。幾年来、司教の組織の責任者がこのようなことを言っているのを聞くようになりました。「司祭ではなく、会衆がミサを捧げるのです」(典礼司牧の全国センターのポスター)とか、あるいは「会衆こそが、典礼の第一の主体です」、大切なのは「典礼様式がどう作動するかではなく、会衆が自分に与えるイメージであって、共同司式者の間に作られる関係なのです」(ジュリノー神父P. Gelineauの言葉、彼は典礼改革の先導者でパリ・カトリック学院の教授)と。もし会衆が大切なのならば、何故司祭が一人で捧げるミサのことをひどく悪く考え、司祭が一人で挙げるミサをすることがほとんど無くなり、ミサを一人では捧げなくなってしまったか、というその理由が分かります。何故なら、特に平日には、ますます会衆を見つけることが容易ではなくなってしまったからです。これこそは不可変の教義との断絶です。教会はミサのいけにえを多く捧げる必要があります。それは十字架のいけにえを適応するためであり、ミサの目的である礼拝・感謝・償い・懇願の全ての目的のためです。

 それでもまだ十分ではありません。多くの典礼改革者の目標は、司祭をいうものを無くしてしまうことです。そのために例のADAP (Assemblees dominicales de l'absence du pretre)と呼ばれる「司祭不在の日曜集会」が作られました。勿論、主日を聖化するように信者たちが集まり一緒に祈ることはできます。しかし、このADAPは実際のところ、聖変化だけがない「ミサごっこ」のことなのです。しかも、何故聖変化がないか、というと(このことはリール市の社会宗教研究センターの文書に書いてありますが)「新しい声明が出る時が来るまで、平信徒はこの行為(聖変化のこと)を執行する権能がない」からだ、というのです。[平信徒でも聖変化することができる、という声明が出る時が来るかのようです!いえ、カトリックの教義に反して、そのような声明を出すことができるように、平信徒たちの信仰を変えて準備をしているのです!]「平信徒だけで全てをすることを覚えるために」司祭の不在が望まれることもあります。ジュリノー神父(P. Gelineau)は、自分の書いた「典礼の明日はDemain la liturgie」という本の中で、ADAPは「信者の考え方が変わるまでの教育的移行期」にすぎず、教会の中には司祭が余りにも多すぎると、「物事が早く進展するためには多すぎる」とひどい論理で結論付けています。


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