イエズスの王国
イエズスの王国はいつもその御父の王国と結び付き、聖霊の交わりの中にある。
今から70年前、1925年12月11日、教皇ピオ11世は素晴らしい Quas Primas という回勅を書き、王たるキリストの最高絶対の帝国を新たに高らかと宣言された。王たるキリストは、すべての被造物世界を、すべての民を、すべての人を、霊的・地上的なすべての秩序と権力を支配すると宣言した。
イエズスは天主であるがゆえに王であり、人であるが故に王であるのではない。
ピオ11世はこう声高く宣言する。
「人類を覆い尽くす災難の深い原因は、人類がそれと戦っているところの災難の原因はこれである。大部分の人々がイエズス・キリストとそのいとも聖なる掟を、彼らの習慣・個人生活・家庭生活・国家から追放してしまったために、この不幸の連鎖が全世界を侵略しているだけではない。さらに個人と国家とが我らの救い主の権威を頑固に拒否する限りにおいて、諸民族の間の継続する平和の希望も決して我らに輝かないであろう。我々はまずキリストの統治におけるキリストの平和を求めなければならないと既に警告した。我々は出来る限りそれに協力すると約束した。『キリストの統治において』なぜなら、平和を堅く再確立するためには、我らの主の統治を復古させることより更に効果的な手段がないと見えたからである。…」
キリストがすべての人のうちに住まわれているとか、全人類はすなわち、素晴らしい地上の将来を目指して歩く天主の民である、とかとよく言われる。しかしこれは全く我々の信仰から程遠いものである。彼は全く幻想のうえになり立っている。
王たるキリスト、救い主、その内に『天主性』の充満が住まわれているお方、我々をその聖なる十字架によりて贖われたお方、我々の唯一の希望、我らの信仰の原理、我らの愛徳のみなもと、「強き天主、永遠の父、平和の君(イザヤ9:5)」、イエズス・キリストこそにすべての誉れと栄光は帰せられねばならない。人類は、天主なる王キリストの権威を認めねばならない。そして、キリストの統治のうちに本当の平和を求めねばならない。
人間の人間による統治ではなく、キリストの統治、キリストによる統治でなければ本当の天主からの平和はこの地上にやって来ないだろう。
人々は国家内の平和また国家間の平和を天主なしに作ろうとしている。相互条約、宣誓、平和の契り、など空しく結ぶ。しかしこのような平和への権力は人間には与えられていないのである。
またあるものは、キリストなしに平和を作ろうとしている。平和のためにどんな宗教でもいい、良心にしたがって自分の思いのままさまざまな形態でそれぞれの「神」を拝めと言っている。しかしこの試みもまた空しい。真の天主はこの種の「宗教の自由」と見せかけ・ごまかしが大嫌いである。
天の御父は全ての権能を御子イエズス・キリストに与え給うた。御子の十字架のいけにえによって、この世の救いは真の天主の御独り子のうちにのみあるのである。イエズス・キリストにのみ、この世の救いのための道・真理・命の充満が存するのである。そして、イエズス・キリストの配偶者であるカトリック教会は、このイエズスを知り・礼拝し・愛し・仕えるように教えをたれているのである。この世の幸せと、来世の永遠の幸せは彼にのみ、イエズス・キリストにのみ属している。
教皇ピオ11世は言われる。
「キリストは、すべての被造物の上に高揚する最高の優越性によって、古くからの慣用により、全き意味の充満において「王」の称号を得た。このゆえにキリストは人間知性の王と呼ばれる。それは主の精神が鋭く浸透し、その知識が広範にわたっているからと言うよりも、むしろ主が真理であり、主の御許から人々が真理を汲み取り、その真理に服従してそれを受け入れる必要があるからである。
主はまた人間意志の王であると呼ばれる。なぜなら、主のうちに人間意志の絶対に完成した完全性と柔順が、天主のみ旨の聖性に対応するからのみならず、私たちの自由選択能力に示唆する動機づけと息吹、私たちをして最も高貴な行動へと燃え立たせる感情のためでもある。
主はまた最後に心の王である。それは主の計り知れない愛徳と、霊魂たちを引き付けるその慈善の優しさのためである。なぜなら、今に至るまで、イエズス・キリストがかつて全世界から愛されまた将来愛されるがごとく、愛された方、また将来愛されるべき方はどんな人も存在しなかったし存在しないであろう。」
「キリストは天使と人とによって天主として礼拝されるべきのみならず、更に、天使と人とはこの人(キリスト)の権勢におとなしく従わなければならない。」
歴史上実在したダヴィドの王家の子孫ナザレトのイエズス・キリストは、象徴的な神話の主人公ではない。ナザレトのイエズス・キリストこそ正統的に合法的に『王権』を保持し、『全ての被造物の上における権能を』天主御父から受けたのである。そのために、我々全ての利益、将来、この地上での幸福、また来世での至福は、我々がいかに忠実であるかによって、主がその聖寵をどこまでお与えになられるかによって決まるほど、全くイエズス・キリスト次第なのである。
我らの主イエズス、王たるキリストの主権の及ぶ範囲は3つあるとピオ11世は言われる。
「人類がそれに従わなくてはならない立法者としての権能、…御父から与えられた司法裁判権…、全てが主の命令に従うのが必要であるゆえに、また、反乱する罪人たちへの脅威として与えられた、だれも避けることの出来ない刑罰のゆえに、主に帰属されねばならない行政実行権」である。
「キリストは、贖い主として、その御血をもって教会を獲得した。司祭として自らを捧げまた、罪のためのいけにえとして永久に御自らを捧げられる。…こうして、主の王家の尊厳は贖い主また司祭としての本性に適応し与かる。」
イエズス・キリストの王国は霊的であり、超自然的であり、天主への礼拝を伴う。主の王国は、しかしながら、この地上からのものでもなく、軍事的なものでもなく、哲学でもなく、文化でもない。
「しかしながら、人たるキリストに、いかなる形態であろうとも市民生活上の最高主権を拒否するものは、恥ずかしくも間違うものである。なぜなら人なるキリストは、全てがその思いのままに従ううべきであるほど絶対の被造物における権利を御父から戴いたからである。…我らの贖い主の王国は全ての人を包容する。」
「地上における生活の間、主は全くこの権威を行使することを控えられた。そして主は人間的事象の所有と指導をかつて獲得したが、主はそれを全て放棄されたし、また今なおその所有者にそれを放棄されている。この詩句によって素晴らしくも真理が表明されている。『主は地上の王座を夢見ない、それを天で与え給う主は。』」
しかし、確かに主は直接、所有権と指導権を子の地上で行使しようとはされず、この世の王、この世の君主、帝王、諸侯にその帝国とその領土の所有と指導を委ねたが、主は王としての主権を認めなくてもよいと言ったわけではない。主は宗教的誉れを要求される。そして、王たるキリストに従順である限りにおいて、キリスト教の諸君主諸侯はイエズスの全能とその慈愛から全てを期待することが出来る。
「私は全カトリック世界に王たるキリストを崇敬するように命ずるが、それは私が世界の現状によって現代世界の必要を予測するからであり、人類社会をむしばむペストにたいする最高の薬をもって対抗するからである。…実に、現代のペストは世俗主義と、その誤謬、その不敬虔な試みである。尊敬する兄弟たちよ、よく知ってのとおり、この災いは一日にして実ったのではない。人は、全ての国におけるキリストの権力を否定することからそれを始めた。次に、キリストご自身の権利から由来派生する公教会の権利を、全人類を教える権利、法を立てる権利、諸民族を指導する権利、彼らを永遠の至福へと導く権利を否定した。そこで、キリストの宗教は、淫祠邪教と少しずつ同等に取り扱われ、不都合なことにも同列に置かれた。続いて国家権力に従属され、君主と司法との思いのままにほとんど身を委ねている。あるものは更に天主からの宗教[カトリック教]を自然宗教・自然な感情と取り替えることを長々と説いている。」
このピオ11世の上の言葉をどれほど日本の司教様、神父様に読んでもらいたいことか!
「もし、キリストの王国が,それを権利上(de jure)受け入れる全ての人々を、事実上(de facto)含むのなら、平和をもたらす王、全てを和解させに来たもうた方、仕えられるためではなく仕えるために来たもうた方、全ての師として謙そんの模範となりこの徳を愛徳の掟と密接にかかわりのある主要な法律と立てた方、最後に『我がくびきは快く、我が荷は軽い』とのたまわれたキリストがこの地上に授けたもうこの平和について、どうして失望するのだろうか。
ああ!もしも全ての人々が、全ての家族、全ての社会が、キリストによって自ら統治されるがままになったら、どれほどの幸福を味わうだろうか!
今から25年前に私の先任者教皇レオ13世が全ての司教たちに語った言葉を使えば、『全ての人々が喜んでキリストの帝国を受け入れ、彼に従うその日、全ての舌が我らの主イエズス・キリストは天主御父の光栄にてましますと宣言するその日、かくも多くの傷を癒すことが出来るだろう。全ての法は、その古き権威を取り戻すだろう。平和の豊かさは戻ってくるだろう。剣は落ち、武器は手から滑り落ちるだろう。』」
教皇ピオ11世は、悲壮に訴える。
「このイエズス・キリストへのたち戻りをその行動によって準備し急がせるのはカトリック信者の努めであろう。しかし、彼らのうち数多くのものは社会生活において彼らの通常の地位を保持せず、真理のたいまつを運ぶものにふさわしい権威ももっていない。恐らく、この不利は、抵抗するのを控えているあるいは軟弱に抵抗している良き人々ののろさと控えめの責めに帰せられねばならないだろう。教会の敵は必然的に大胆さと向こう見ずをも増大させそこから利益を得ている。
反対に、願わくは信者たちが全て、常に王たるキリストの旗印の元に勇敢に戦わなければならないことを理解するように。
願わくは使徒職の火が彼らを燃やし、彼らは主から遠ざかってしまったあるいは主を知らない霊魂たちを主と和解させるために働かんことを。願わくは彼らは主の権利を守ることに努力するように。」
全ての人々が喜んでキリストの帝国を受け入れ、彼に従うその日、全ての舌が我らの主イエズス・キリストは天主御父の光栄にてましますと宣言するその日を待ちつつ、「この祝日の輝きが全ての民だみに届くように、人間の集会のかくも多くの不正な沈黙をそれらの勝利が補うように、ついにかかる顕示高揚の力が全世界の救いのためにイエズス・キリストの最高の帝国を承認するように、あるものを納得させ他のものを強制するように、王たるキリストの祝日を盛大に公式に祝うことを[命じる]。」
「世俗主義が引き起こし、社会に悲惨な不幸をもたらしている欠陥を排斥しある意味でそれを償うために」この大祝日が必要なのである。
「実に、国際会議、国民集会が我らの贖い主のいとも甘美なる聖名をふさわしくない沈黙で責め尽くせば責め尽くすほど、イエズス・キリストの王的尊厳と権能の権利を公表し知らせねばならないのである。」
(王としてのイエズス:4)
イエズスの王国はいつもその御父の王国と結び付き、聖霊の交わりの中にある。
今から70年前、1925年12月11日、教皇ピオ11世は素晴らしい Quas Primas という回勅を書き、王たるキリストの最高絶対の帝国を新たに高らかと宣言された。王たるキリストは、すべての被造物世界を、すべての民を、すべての人を、霊的・地上的なすべての秩序と権力を支配すると宣言した。
イエズスは天主であるがゆえに王であり、人であるが故に王であるのではない。
ピオ11世はこう声高く宣言する。
「人類を覆い尽くす災難の深い原因は、人類がそれと戦っているところの災難の原因はこれである。大部分の人々がイエズス・キリストとそのいとも聖なる掟を、彼らの習慣・個人生活・家庭生活・国家から追放してしまったために、この不幸の連鎖が全世界を侵略しているだけではない。さらに個人と国家とが我らの救い主の権威を頑固に拒否する限りにおいて、諸民族の間の継続する平和の希望も決して我らに輝かないであろう。我々はまずキリストの統治におけるキリストの平和を求めなければならないと既に警告した。我々は出来る限りそれに協力すると約束した。『キリストの統治において』なぜなら、平和を堅く再確立するためには、我らの主の統治を復古させることより更に効果的な手段がないと見えたからである。…」
キリストがすべての人のうちに住まわれているとか、全人類はすなわち、素晴らしい地上の将来を目指して歩く天主の民である、とかとよく言われる。しかしこれは全く我々の信仰から程遠いものである。彼は全く幻想のうえになり立っている。
王たるキリスト、救い主、その内に『天主性』の充満が住まわれているお方、我々をその聖なる十字架によりて贖われたお方、我々の唯一の希望、我らの信仰の原理、我らの愛徳のみなもと、「強き天主、永遠の父、平和の君(イザヤ9:5)」、イエズス・キリストこそにすべての誉れと栄光は帰せられねばならない。人類は、天主なる王キリストの権威を認めねばならない。そして、キリストの統治のうちに本当の平和を求めねばならない。
人間の人間による統治ではなく、キリストの統治、キリストによる統治でなければ本当の天主からの平和はこの地上にやって来ないだろう。
人々は国家内の平和また国家間の平和を天主なしに作ろうとしている。相互条約、宣誓、平和の契り、など空しく結ぶ。しかしこのような平和への権力は人間には与えられていないのである。
またあるものは、キリストなしに平和を作ろうとしている。平和のためにどんな宗教でもいい、良心にしたがって自分の思いのままさまざまな形態でそれぞれの「神」を拝めと言っている。しかしこの試みもまた空しい。真の天主はこの種の「宗教の自由」と見せかけ・ごまかしが大嫌いである。
天の御父は全ての権能を御子イエズス・キリストに与え給うた。御子の十字架のいけにえによって、この世の救いは真の天主の御独り子のうちにのみあるのである。イエズス・キリストにのみ、この世の救いのための道・真理・命の充満が存するのである。そして、イエズス・キリストの配偶者であるカトリック教会は、このイエズスを知り・礼拝し・愛し・仕えるように教えをたれているのである。この世の幸せと、来世の永遠の幸せは彼にのみ、イエズス・キリストにのみ属している。
教皇ピオ11世は言われる。
「キリストは、すべての被造物の上に高揚する最高の優越性によって、古くからの慣用により、全き意味の充満において「王」の称号を得た。このゆえにキリストは人間知性の王と呼ばれる。それは主の精神が鋭く浸透し、その知識が広範にわたっているからと言うよりも、むしろ主が真理であり、主の御許から人々が真理を汲み取り、その真理に服従してそれを受け入れる必要があるからである。
主はまた人間意志の王であると呼ばれる。なぜなら、主のうちに人間意志の絶対に完成した完全性と柔順が、天主のみ旨の聖性に対応するからのみならず、私たちの自由選択能力に示唆する動機づけと息吹、私たちをして最も高貴な行動へと燃え立たせる感情のためでもある。
主はまた最後に心の王である。それは主の計り知れない愛徳と、霊魂たちを引き付けるその慈善の優しさのためである。なぜなら、今に至るまで、イエズス・キリストがかつて全世界から愛されまた将来愛されるがごとく、愛された方、また将来愛されるべき方はどんな人も存在しなかったし存在しないであろう。」
「キリストは天使と人とによって天主として礼拝されるべきのみならず、更に、天使と人とはこの人(キリスト)の権勢におとなしく従わなければならない。」
歴史上実在したダヴィドの王家の子孫ナザレトのイエズス・キリストは、象徴的な神話の主人公ではない。ナザレトのイエズス・キリストこそ正統的に合法的に『王権』を保持し、『全ての被造物の上における権能を』天主御父から受けたのである。そのために、我々全ての利益、将来、この地上での幸福、また来世での至福は、我々がいかに忠実であるかによって、主がその聖寵をどこまでお与えになられるかによって決まるほど、全くイエズス・キリスト次第なのである。
我らの主イエズス、王たるキリストの主権の及ぶ範囲は3つあるとピオ11世は言われる。
「人類がそれに従わなくてはならない立法者としての権能、…御父から与えられた司法裁判権…、全てが主の命令に従うのが必要であるゆえに、また、反乱する罪人たちへの脅威として与えられた、だれも避けることの出来ない刑罰のゆえに、主に帰属されねばならない行政実行権」である。
「キリストは、贖い主として、その御血をもって教会を獲得した。司祭として自らを捧げまた、罪のためのいけにえとして永久に御自らを捧げられる。…こうして、主の王家の尊厳は贖い主また司祭としての本性に適応し与かる。」
イエズス・キリストの王国は霊的であり、超自然的であり、天主への礼拝を伴う。主の王国は、しかしながら、この地上からのものでもなく、軍事的なものでもなく、哲学でもなく、文化でもない。
「しかしながら、人たるキリストに、いかなる形態であろうとも市民生活上の最高主権を拒否するものは、恥ずかしくも間違うものである。なぜなら人なるキリストは、全てがその思いのままに従ううべきであるほど絶対の被造物における権利を御父から戴いたからである。…我らの贖い主の王国は全ての人を包容する。」
「地上における生活の間、主は全くこの権威を行使することを控えられた。そして主は人間的事象の所有と指導をかつて獲得したが、主はそれを全て放棄されたし、また今なおその所有者にそれを放棄されている。この詩句によって素晴らしくも真理が表明されている。『主は地上の王座を夢見ない、それを天で与え給う主は。』」
しかし、確かに主は直接、所有権と指導権を子の地上で行使しようとはされず、この世の王、この世の君主、帝王、諸侯にその帝国とその領土の所有と指導を委ねたが、主は王としての主権を認めなくてもよいと言ったわけではない。主は宗教的誉れを要求される。そして、王たるキリストに従順である限りにおいて、キリスト教の諸君主諸侯はイエズスの全能とその慈愛から全てを期待することが出来る。
「私は全カトリック世界に王たるキリストを崇敬するように命ずるが、それは私が世界の現状によって現代世界の必要を予測するからであり、人類社会をむしばむペストにたいする最高の薬をもって対抗するからである。…実に、現代のペストは世俗主義と、その誤謬、その不敬虔な試みである。尊敬する兄弟たちよ、よく知ってのとおり、この災いは一日にして実ったのではない。人は、全ての国におけるキリストの権力を否定することからそれを始めた。次に、キリストご自身の権利から由来派生する公教会の権利を、全人類を教える権利、法を立てる権利、諸民族を指導する権利、彼らを永遠の至福へと導く権利を否定した。そこで、キリストの宗教は、淫祠邪教と少しずつ同等に取り扱われ、不都合なことにも同列に置かれた。続いて国家権力に従属され、君主と司法との思いのままにほとんど身を委ねている。あるものは更に天主からの宗教[カトリック教]を自然宗教・自然な感情と取り替えることを長々と説いている。」
このピオ11世の上の言葉をどれほど日本の司教様、神父様に読んでもらいたいことか!
「もし、キリストの王国が,それを権利上(de jure)受け入れる全ての人々を、事実上(de facto)含むのなら、平和をもたらす王、全てを和解させに来たもうた方、仕えられるためではなく仕えるために来たもうた方、全ての師として謙そんの模範となりこの徳を愛徳の掟と密接にかかわりのある主要な法律と立てた方、最後に『我がくびきは快く、我が荷は軽い』とのたまわれたキリストがこの地上に授けたもうこの平和について、どうして失望するのだろうか。
ああ!もしも全ての人々が、全ての家族、全ての社会が、キリストによって自ら統治されるがままになったら、どれほどの幸福を味わうだろうか!
今から25年前に私の先任者教皇レオ13世が全ての司教たちに語った言葉を使えば、『全ての人々が喜んでキリストの帝国を受け入れ、彼に従うその日、全ての舌が我らの主イエズス・キリストは天主御父の光栄にてましますと宣言するその日、かくも多くの傷を癒すことが出来るだろう。全ての法は、その古き権威を取り戻すだろう。平和の豊かさは戻ってくるだろう。剣は落ち、武器は手から滑り落ちるだろう。』」
教皇ピオ11世は、悲壮に訴える。
「このイエズス・キリストへのたち戻りをその行動によって準備し急がせるのはカトリック信者の努めであろう。しかし、彼らのうち数多くのものは社会生活において彼らの通常の地位を保持せず、真理のたいまつを運ぶものにふさわしい権威ももっていない。恐らく、この不利は、抵抗するのを控えているあるいは軟弱に抵抗している良き人々ののろさと控えめの責めに帰せられねばならないだろう。教会の敵は必然的に大胆さと向こう見ずをも増大させそこから利益を得ている。
反対に、願わくは信者たちが全て、常に王たるキリストの旗印の元に勇敢に戦わなければならないことを理解するように。
願わくは使徒職の火が彼らを燃やし、彼らは主から遠ざかってしまったあるいは主を知らない霊魂たちを主と和解させるために働かんことを。願わくは彼らは主の権利を守ることに努力するように。」
全ての人々が喜んでキリストの帝国を受け入れ、彼に従うその日、全ての舌が我らの主イエズス・キリストは天主御父の光栄にてましますと宣言するその日を待ちつつ、「この祝日の輝きが全ての民だみに届くように、人間の集会のかくも多くの不正な沈黙をそれらの勝利が補うように、ついにかかる顕示高揚の力が全世界の救いのためにイエズス・キリストの最高の帝国を承認するように、あるものを納得させ他のものを強制するように、王たるキリストの祝日を盛大に公式に祝うことを[命じる]。」
「世俗主義が引き起こし、社会に悲惨な不幸をもたらしている欠陥を排斥しある意味でそれを償うために」この大祝日が必要なのである。
「実に、国際会議、国民集会が我らの贖い主のいとも甘美なる聖名をふさわしくない沈黙で責め尽くせば責め尽くすほど、イエズス・キリストの王的尊厳と権能の権利を公表し知らせねばならないのである。」
(王としてのイエズス:4)