篠ノ井通明中学3年8組同級会 その2

長野県篠ノ井町立通明中学校3年8組(昭和34年3月卒業)同級会の情報

篠ノ井祇園祭

2024-07-20 | 篠ノ井

 

今年2024(R6)年7月27日(土)

「第54回篠ノ井合戦まつり」が開催される。

 

 以前は「祇園祭」であった。

「篠ノ井の歴史と暮らし」(P137)によれば

内堀祇園祭の創始は 活発な商工活動を背景に、

町制施行を機に大正3(1914)年からであっといわれる。

獅子頭の導入は 少し下がって昭和5(1930)~6年ごろで、

芝沢地区に導入されたのは、昭和32(1957)年であり、


今では両区協力して、夏祭りとして継続されている。


とある。


しかし 戦争中の1941(S16)年から

戦後の1949(S24)年まで中断しており

1950(S25)年 篠ノ井町と川柳村、

東福寺村の合併を機に再開した。

加えて 市民参加のお祭りとして開催され、

川中島合戦に因み「篠ノ井合戦まつり」と呼び、


さらに 旧長野市街地の「びんずる祭り」と同調し


「びんずる篠ノ井合戦まつり」としている。

コロナ過で 2019(R元)年から中断したが

2023(R5)年に再開した。

 

     祇園神輿 1955(S30) 万代町

 

なお、「篠ノ井大獅子保存会」の資料によれば

子供神輿や獅子等は

昭和初期に登場しているようだ。

 

 

 

写真は当時の筆者

「夏まつり 七才」とありますので

1950(S25)年4月 


通明小学校に入学した時で

その年の 7月に再開された

「子ども獅子」に参加する記念に

町内の田中写真館で撮影している。

なお 法被等は母親の手作り

 

資料:http://www.shinonoi-ohjishi.com/shinonoi_great_lion

 


長靴と下駄!

2024-07-04 | 篠ノ井


   先生方の足下


   生徒の足下

 

本格的に梅雨に入り 雨の毎日だが・・・

先に お世話になった先生方の写真を掲載したが

その写真では 先生方は長靴を履いている。

また我々の卒業写真でも同じく長靴か高下駄であった。

 

また 中学入学式の写真を見ても

当方は下駄ばきで靴は履いていない。

クラスの中でも靴を履くものは少なかった。

 

当時の篠ノ井は駅前通りと国道は舗装されていたが 

ほとんどが舗装されていない通りで

ひとたび雨が降れば 泥道であったので

歩けばズボンの裾には跳ね上げた泥がついていた。

そんな状態であったので 長靴か高下駄を履いたが

その高下駄の歯はハメ込み式のため入れ替えができる。

 

我が家の近くに下駄屋があって 

その下駄づくりの工程は

今でも思い出される。

花柄や色物などいろいろな鼻緒があって

好みの鼻緒を下駄に取り付け 

結び目には覆いの金具を釘付けしていた。

また表にはロウを塗り履きやすくしていく・・・等

 

靴を履いたのは高校生の修学旅行に行くために

採寸して注文した時からだった。

 

また校内では藁草履 これが木造の廊下でよく滑った。

手拭いの袋に米ぬかを入れ これで廊下を一斉に磨いたので

八組まであった長廊下が鏡のようになった。

 

 *資料「篠ノ井の歴史と暮らし」では

1941(S16)年3月 国道長野~上田間完成

1951(S27)年4月 国道篠ノ井~上田間 国道18号舗装工事着工

1954(S29)年12月 駅前通り拡張工事 国道への連絡工事着工

 

 


書家 川村驥山

2024-04-06 | 篠ノ井

 

     JR篠ノ井駅にかかげられている驥山書「篠ノ井駅」

 

 4月6日は 書家 川村驥山(きざん)が亡くなった日

 川村驥山は 篠ノ井名誉町民 名誉市民でもあった。

 現在 その業績をたたえ 篠ノ井布施高田に

 記念館「驥山館」が開館されている。

  *驥山の5歳から86歳の絶筆までの傑作80点を展示

    

 

  主な略歴

 1882(M15)年5月20日 
  静岡県磐田郡(現・袋井市)に生まれる。

  本名は 慎一郎
  父・東江に漢学を  太田竹城に書道を学ぶ。
  15歳 書家として独立 
  19歳「驥山」と名付け

  
 戦前は 書道作振会、東方書道会などに所属

 
 1948(S23)年から同展の審査員をつとめる。
 1951(S26)年 書道界初の芸術院賞受章
 1962(S37)年 芸術院会員

 1969(S44)年4月6日 老衰のため死去 86歳

   別号に酔仏居士・酔驥

 

 特に篠ノ井との関係

 1945(S20)年(63歳) 東京大空襲

  東京・和泉の自宅は空襲で全焼。

  弟子の高梨無線社長の手配で、
  戦禍を避けて篠ノ井町に疎開する。
  マツキ商店、その後柳沢の「耕心庵」に
  部屋を借りて住む。

1946(S21)年
   耕心庵の土地を借りて食糧作り、
  読書と臨書に励む。
  作品頒布会をして揮毫料を耕心庵に寄附し、
  寺の修理費に充てる。

1951(S26)年 篠ノ井町芝沢に新居移転
1958(S33)年 篠ノ井名誉町民
1960(S35)年 篠ノ井名誉市民
1961(S36)年 驥山館完成 翌年開館

1969(S44)年 死去
  長野市名誉市民葬が営まれた。

 

  (参考:川村驥山略年譜)

追1:篠ノ井駅前に “書道の町篠ノ井” と
   書かれた標柱があり 
驥山館へ730mと
   途中にも案内柱が設置されている。


追2:耕心庵(こうしんあん)

 曹洞宗  金剛山 耕心庵 は

 茶臼山の南東斜面、市立動植物園に行く途中
 篠ノ井布施五明にある。

 寺の東側境内高台には、
 信玄が川中島を望見したという国見台もある。