先日、
大切なおじが
他界した。
私の両親がわりと早く
亡くなったため、
父の妹であるおば夫婦に
我が子のように
かわいがってもらった。
おばは実の母よりも
母のようだった。
そのおばが亡くなった後も
おじは変わりなく
私に愛情をかけてくれた。
二人とも大好きだった。
おじが亡くなる前、
術後病院でCCUに
入院していたのだけれど、
私も長く勤めた職場を
退職して家にいたため
いとこよりも多く
面会に行かせてもらった。
面会に通った日々では
退院できそうな希望も
見えて手を握り合った。
退院はかなわなかったけれど
私の呼びかけに
頷いてくれたこと
忘れられない。
たくさんの愛情を
かけてもらった恩返しが
あまりできなかったので
いとこの子どもたちに
私もたくさん愛情を
届けていこうと思う。
そんなおじ・おばが
眠っている菩提寺は
真言宗のお寺さん。
とても温かいご住職さんで
お通夜・告別式での
おことばが今も忘れられない。
父方の遠い親戚が
高野山のお寺だったので
父はずっと真言宗を
信じていたのだけれど、
父の両親は浄土真宗の
檀家だったため
そのお寺に墓があるため
父もそこで眠っている。
その父の妹は
嫁いだ先で
真言宗のお寺で
眠っている。
ちょっと
うらやましがって
いるのだろうか。
父はそれでも
高野山の親戚のお寺と
定期的に連絡を
取り合っていたので、
本当は真言宗の
お寺に眠りたかったのだろう。
高野山への思いは
本当に強かった。
親戚のお坊さんが
どれほどすばらしい
お坊さんなのかとか
よく話してくれた。
これらは
そこでいただいた
私を守ってくれているもの。
私自身は信仰する宗教は
特にないのだけれど
守られている気は
すごくしている。
どんなに追いつめられても
まわりの人たちに
必ず支えられて
困難から抜け出すことが
できている人生。
きっとご先祖さまが
見守ってくれているからだ。
和歌山まで
なかなかお墓参りに
行けずにいるけれど
ご先祖さまのこと
忘れているわけではない。
物心つく前にしか
行ったことのない
高野山にも
お参りに行こうかなと
思う今日このごろ。