筑波勢・潮来勢は大子に移動。
「西上勢」として、遠く、一橋慶喜のいる京を目指します。
「下野」「上野」「信濃」「美濃」「越前」と続く1000名余の行進。
西上勢
1.筑波勢・潮来勢 大子へ
10月23日「湊の戦い」終結
筑波勢・潮来勢は久慈川沿いに北上。
(これより西上勢と表記します)
10月25日 大子へ到着。
現在の役場付近での戦い。西上勢の勝利。
・町なかは諸生派より
・農村部は天狗派より
10月28日 「月居峠の戦い」
水戸諸生派・二本松藩の勝利。
地の利に明るく、山上から発砲・巨木や巨石を落とす。
2.西へ
「下野」
11月1日 西上勢 大子を出発
総大将 武田耕雲斎
天勇隊・虎勇隊・龍勇隊・正武隊・義勇隊・騎兵隊の6隊を編成
11月2日 黒羽藩藩兵200名余 突然の攻撃
西上勢 応戦→ 黒羽藩士 退却。
耕雲斎は黒羽藩に「行動趣意書」を送り、理解を求めます。
黒羽藩からの返事は、「幕府の命があり、城下に向かえば阻止するが、間道を通るなら咎めず」
この後、耕雲斎は行く先々へ書面を送ります。
*田沼意尊は下野・上野他近隣諸藩へ天狗党追討命令を出します。
その後、田沼率いる追討軍が西上勢を追いますが、付かず離れず、わざと追いつこうとしません。
諸藩に追伐させる考えだったという事ですが、その腹は何だったのでしょうか・・。
「上野」
11月14日 高崎藩、神流川に布陣。大砲を撃ち掛けるが届かず。
西上勢は迂回して通過。
・女性10数名。
11月15日 「下仁田の戦い」 西上勢の勝利。
・高崎藩兵との戦い。
・「月居峠の戦い」の教訓を生かし、大砲を山上に上げる。
・西上勢 戦死者4名。野村牛之介 13歳。
「水戸浪士の墓」2名。
左久市山中 1名(100年後に判明)
負傷者多数。深手を負った者は行軍途中に絶命。
・高崎藩兵 戦死者36名。生け捕りにされた者10名(切腹・斬首)
・下仁田の戦いを今に伝える遺跡が数多く残る。
11月20日 「和田嶺(峠)の戦い」 西上勢の勝利。
・松本藩・諏訪藩との戦い。
・西上勢 戦死者6名。
・不動院全海和尚・横田元綱(18歳)「浪人塚」
敵藩 戦死者11名(?)負傷者3名。
・高島城城主 戦さの「絵」を絵師に描かせる。(「和田嶺合戦絵図」)
・下諏訪の町で斬り合い。
・道中死亡 10名程
11月22日 高遠藩 宿場の者へ、西上勢をもてなしをするように指図。
行き過ぎてから、届かぬように大砲を打ち掛ける。
上穂宿に座光寺名主の弟他2名が現れ、城下で戦火を交えず間道を行くようにと願い、軍資金の調達を約束する。
西上勢が聞き届けたので帰り、名主・北原稲雄が飯田藩へ「天狗党を無事通過させてほしい」との「嘆願書」を出します。飯田城内、協議し許可。
11月24日 駒場宿。 女流勤皇家・松尾多勢子の長男・誠 来る。
「名古屋の大藩に抵抗するは危険多し。美濃路、中津川より上京するがよい」
浪合村の庄屋・浪合左源太ら2名 来る。
「三州街道 悪路多し。関所の警戒も厳しい。清内路越えがよい」
軍議を開き、美濃路へ向かう事に決まる。
11月25日 清内路関所。飯田藩預かり「やむを得ず通せ」
*これが災いして、飯田藩(1万7千石)は2千石没収。講部所奉行・清内路関所預かりについてお役ご免、城代家老は家禄半減となりました。
関所の副番頭は切腹。番頭は逃げ出したものの、捕らえられ打首。
11月29日 木曽川(渡船場・今渡)を渡る。
太田代官所の預かり・・阻止できず、通行を黙認する。
そしていよいよ幕命により、近隣諸藩が出陣です・・。
※不動院全海和尚の出身地ですが、検索してみると「常陸久慈」と出て来ますので、「延方村」の記載は削除致します。地元なので嬉しく思っていたのですが、聞き違いをしたのかも。何か解ったら書き加えたいです。(H26,10,4記)
※不動院全海和尚の出身地について。その後、下諏訪町立博物館編「増補 和田嶺合戦」に「常陸国茨城郡上入野小松寺五十四代住職高橋宥仁の弟子で、行方郡延方村の修験者の子」とあるのを見つけました。明治になってから高島藩は塚を作り水戸に照会して、身元が解かった浪士達の名を刻みました。不動院全海和尚については、水戸からこのように返答があった訳です。延方村には修行出来るような高山はないので「修験者の子?」と前々から不思議に思っていたのですが、「町にいる修験者は、占いをしたり古文書の管理をしていた者もあった」と別件でお聞きして納得。ちなみに現在の潮来市延方には真言宗豊山派の普門院等がありますが、不動院全海和尚や父親に当る方のお名前等はまだ見つかっていないようです。(H29,12,27記)
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